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アモス1

「テコア出身の牧者の一人であったアモスのことば。これはユダの王ウジヤの時代、イスラエルの王、ヨアシュの子ヤロブアムの時代、あの地震の二年前に、イスラエルについて彼が見た幻である。」アモス1: 1 2つのことが浮かびます。 神様は、様々な状況の人を召されるということ。 王や祭司だけでなく、テコアの地で羊飼いだったアモスも召されました。イザヤやエレミヤたちのような長い預言の書は残っていません。でも、神様からの召しを受けて応答しました。そして、誠実に主のことばを受けて、誠実に預言しました。 私たちは、自分が小さな者、とるに足りない者だと思うかもしれません。 でも、私の今の立場、状況も神のご計画の中にあります。 アレックス・チョンという方が、 「私たちには、点の羅列にしか見えない人生の場面場面を生きている。しかし、主はその点と点を線でつなぎ、やがて美しい絵が現れるようにご計画を実現される」と言いました。その通りだと思います。 全貌が見えない、ハプニングだらけの人生だと感じられても、主にとってはハプニングや思い違いはありません。そのことを信じて、今年も感謝をもって閉じましょう。 祈り:神様、あなたが私を今年もご計画と守りのうちに導いてくださいました。感謝します。私には思いがけないこと、理由のわからないことも多々ありました。しかし全てが主によって織り合わされ、あなたの計画が進んでいることを信じて感謝します。アーメン

ヨエル3

「主はシオンからほえ、エルサレムから声をあげられる。 天も地も震える。 主はその民の避け所、 イスラエルの人々の砦である。」ヨエル3:16 さばきを経なければならない時でさえ、主は人々を忘れてはおられません。 「ほえる」は動物の王、ライオンの咆哮を連想します。主は「天も地も震える」ほどの強さと権威をもっておられます。 一方で主は「民の避け所」「人々の砦」でもあられます。そこに身を寄せれば守られ、安全なシェルターなのです。 この1年、どんなことで主の「強さと権威」を感じましたか。 また、主の元に身を避け、守っていただいたのはどんな時でしたか? 書き出してみてはどうでしょうか。 今年人生の嵐を通ったとしても、主が変わりない方であることを知ったなら、その経験はやがてかけがえのない霊的な宝となります。 祈り:神様、あなたが何よりも強く権威ある方だとほめたたえます。また悩みの時の避け所であることに感謝します。主を近く感じられなかった時でさえ、すでにそこにおられ、私の全てをご存じの主を、ますます深く知りたいです。導いてください。アーメン

ヨエル2

「その後、わたしはすべての人にわたしの霊を注ぐ。 あなたがたの息子や娘は預言し、 老人は夢を見、青年は幻を見る。その日わたしは、男奴隷にも女奴隷にも、 わたしの霊を注ぐ。」ヨエル2:28~29 ぺテロはペンテコステの日に聖霊に満たされ、この通りに語りました(使徒2:17~18)。どんな年齢、性別、立場の人にも差別なく主の霊が臨み、教会が生まれました。 それ以来2000年、教会は主の霊に導かれて歩んでいます。あらわれ方は様々で、激しく現れることも、外からはわからないこともあります。しかし、教会は聖霊によって導かれ、歩んでいます。同じ聖霊は、信じる人の内にも住んでおられます。素晴らしいことですね! 「衣ではなく、あなたがたの心を引き裂け。 あなたがたの神、主に立ち返れ。 主は情け深く、あわれみ深い。 怒るのに遅く、恵み豊かで、 わざわいを思い直してくださる(13節)」という主の霊が、いつも共におられるのです。 今年も全ての人がが1歳年を重ねました。衰えを感じる人、先行き不安になる人がいるかもしれません。でも今日の箇所には「老人は夢を見」と書かれています。霊にあっては枯れるどころか、主が見せてくださる夢を見てますます燃やされていきます。 祈り:神様、主の霊で私を満たしてください。 「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。(ガラテヤ2:20」アーメン

ヨエル1

「嚙みいなごが残した物は、いなごが食い、 いなごが残した物は、バッタが食い、 バッタが残した物は、その若虫が食った。」ヨエル1:4 ヨエル書は、その年代や当時の王が誰かははっきりとわかりません。ただ、1章を読むといなごやバッタのひどい害が出ていたことがわかります。すべてが食いつくされ、ひどい飢饉に陥ることが明らかでした。 数年前にアフリカから中東にかけていなごが大発生し、農作物に大きな被害が出ました。ヨエル書の時代も今も、人間は自然災害の前に無力であることを思いました。 もちろん、自然災害のすべてが主のさばきだというわけではありません。被害にあい困窮する人々に、主はあわれみ深くあられます。私たちも助けが届くようにと切に祈り、ささげます。教会の宣教献金は、こうした所に届くようにと送られています。 今喜んでいますか?それとも、思いがけない試練の中にいますか?喜びを通しても、困難を通しても、私たちが主を見上げること、それが主が最も願われることです。 手を休め、今ほんの少しの時間でも主を見上げて共に祈りましょう。 祈り:神様、私の焦る心や思い煩いを横に置き、今あなたを見上げます。明日のことさえ正確に予測できない私たちです。しかし、主を見上げる者にはあなたは恵み深くあられます。どうか周りに八つ当たりせず、パニックにならず、まずあなたに祈る者とならせてください。アーメン

ホセア14

「あなたがたはことばを用意し、主に立ち返れ。主に言え。『すべての不義を赦し、 良きものを受け入れてください。私たちは唇の果実をささげます。』」ホセア14:2 ホセア書の最後は、神と民の関係が回復され、再び地に美しさと潤い、それに収穫が戻ってくる様子が描写されています。 回復の条件は、人が悔い改めて神に立ち返ることのみです。神様の赦しの大きさと気前の良さには驚きます。 今年の歩みを振り返ると、感謝や喜びの一方で、失敗したこと、恥ずかしいこと、引け目を感じることなどが思い浮かぶかもしれません。もしそうなら、祈りのうちに主の前にそれらを並べてみませんか。主は赦しきよめてくださる方です。 さらに、「唇の果実」である礼拝を心からささげることができるよう、思いを一新していただきましょう。後悔や恥意識からの回復は、私たち自身にはできなくても、神にはできると信じます。 祈り:神様、私の様々な失敗やしがらみから解放してくださる方であることに感謝します。____のことや、____のことを横に置き、あなたに礼拝をささげます。私の口をきよめ、良いものを出す口としてください。祈りとともに主への賛美と礼拝を、私の唇の果実としてささげます。アーメン

ホセア13

「わたしはよみの力から彼らを贖い出し、 死から彼らを贖う。 死よ、おまえのとげはどこにあるのか。 よみよ、おまえの針はどこにあるのか。 あわれみはわたしの目から隠されている。」ホセア13:14 パウロは第一コリント15:55でこの箇所を引用しています。 「死よ、おまえの勝利はどこにあるのか。死よ、おなえのとげはどこにあるのか。」 キリストの力が死にさえも勝利されたことを述べます。 「しかし、神に感謝します。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました(15:57)」 さらに、キリストを信じるものには終わりの時に朽ちないからだが与えられることが記されています。 旧約聖書の中に散りばめられた希望の約束を、新約聖書とキリストの光を通して教えられるのは、宝探しのようです。 クリスマスが終わり、今年も残りわずかになりました。この1年、個人デボーション、礼拝や集会、分かち合いを通して、どんなみことばを発見しましたか?どのみことばが、自分の心に宝のように輝いているでしょうか。 祈り:神様、あなたのみことばには、生きて働く力があります。今年の歩みを静かに振り返ります。 今、私の心に宝のように輝いているみことばは___________です。難しく思える時もありますが、聖書を愛し、聖霊の光で心を開いて理解できるよう、続けて導いてください。アーメン

ホセア12

「しかしわたしは、エジプトの地にいたときから、 あなたの神、主である。 例祭の日のように、 再びあなたを天幕に住まわせる。」ホセア12:9 クリスマスおめでとうございます!約2000年前のベツレヘムでイエス・キリストが誕生されたことを心から喜びます。 「キリスト教は海外の宗教だ」と言われることがあります。しかし、キリストの誕生が今日の私たちと大いに関係あることを、クリスチャンたちは信じています。他人事ではなく「私の信仰、救い」として受け取っています。 もし自分が安全な水を被災地に届けるために外国に行ったとしましょう。そこの人々が「それはよその国のもので、自分達に関係ない」と反応したら、「いえいえ、国を問わずこの水は安全です。あなたがたのために届けに来ました」と言うでしょう。 同様に、キリストが来られたことは、どの国、どの時代の人々にとっても関係ある、大切な事実です。「エジプトの地にいたときから、あなたの神、主である」と言われた神が、今日の「私の神、主」です。 祈り:神様、イエス・キリストを地上に送ってくださり感謝します。ケーキやパーティーだけではありません。キリストによる救いが、今日の私たちへのプレゼントであることを覚えます。聖書に書かれている真理に関心を持ち、もっと知りたいという方が教会の門をたたくことができますように。聖霊様の導きがありますように。アーメン

ホセア11

「エフライムよ。わたしはどうして あなたを引き渡すことができるだろうか。   イスラエルよ。どうして あなたを見捨てることができるだろうか。   どうしてあなたを アデマのように引き渡すことができるだろうか。  どうしてあなたを ツェボイムのようにすることができるだろうか。   わたしの心はわたしのうちで沸き返り、   わたしはあわれみで胸が熱くなっている。」ホセア11:8 主なる神様は、旧約の民を親のように愛し慈しみ、育てて来られました。 彼らは罪をおかし、主に背を向け、間違った道へと進んでいきました。 しかし、神様はそのような民に 「わたしの心はわたしのうちで沸き返り、 わたしはあわれみで胸が熱くなっている」と言われました。引き渡し、見捨てることはできない、と。 今日の私たちにも、神様は同じ思いでおられます。背を向けて歩んでいる人にも、熱い愛とあわれみをもっておられます。 イエス・キリストの誕生は、私たちを救い出すために神様が計画なさったことが、人間の目にはっきり見えるようになった記念日です。 祈り:神様、あなたの愛と恵みに満ちた救いのご計画を感謝します。イエス・キリストの誕生を心こめてお祝いします。私の周りの人たちが、一人でも多くの人がクリスマスの本当の意味を知ることができますように。世界中の教会で祝われるクリスマスに、主の豊かな臨在がありますように。アーメン

ホセア10

「あなたがたは正義の種を蒔き、 誠実の実を刈り入れ、 耕地を開拓せよ。 今が主を求める時だ。 ついに主は来て、 正義の雨をあなたがたの上に降らせる。」ホセア10:12 「私は○○に植えられた」という表現をする方がおられます。「この地に植えられた」「この教会に植えられた」...そこには、今の所に神様が置いてくださった、それを受け取りじっくり根ざします、という自覚と決意が感じられます。 今日の12節は、植えられた地で「正義の種を蒔き」「誠実の実を刈り入れ」「耕地を開拓せよ」と命じられています。置かれた所で、「今」主を求めよ、というのです。 現状に不足を覚えることがあるでしょうか。 別の場所に行けば、慣れた故郷に戻れば、両親や子どもが○○だったら、教会がこうだったら、牧師やリーダーが誰々みだいだったら...という「たられば」ばかりを追い求めていないでしょうか。 私たちが「植えられた」場所で、「主は来て、正義の雨を降らせる」ことのできる方です。 いよいよクリスマス、私たちの所に来られたイエス・キリストの恵みを思いつつ、クリスマス礼拝に備えましょう! 祈り:神様、現状の足りない所が目につき、他と比較してしまう心をゆるしてください。主が私をここに導き、植えてくださったことを感謝します。ここにも主が来られ、聖霊が満ちあふれてることを覚えます。日本中、世界中でクリスマスの備えをしているクリスチャンを喜びで満たしてください。アーメン

ホセア9

「エフライムの見張りは、私の神とともにいる。 しかし預言者には、すべての道に罠が仕掛けられ、 彼の神の家には憎しみがある。」ホセア9:8 別の聖書訳には、「預言者はエフライムの見張りとして、私の神とともにいる。 しかしすべての道に罠が仕掛けられ、 彼の神の家には憎しみがある」としているものもあります(NIVなど)。 いずれにしても、ホセアのような預言者がイスラエルの国に敵視され、憎まれるということがわかります。 目先の判断で強国に頼り、滅びの運命を自ら選ぼうとする人々の耳には、預言者のことばが煩わしいものとしてしか聞こえません。 フィリップ・ヤンシーの自伝(「光の注がれた場所」)を読みました。お兄さんは反発し、実母と断絶します。関係を修復しようとする著者の努力はなかなか実を結びません。要因の一つは、両者とも自分が悪くないと思い、互いに傷ついていることでした。 自分が正しいと思うとき、私たちも自分が思うよりずっと頑固になるのかもしれません。聖霊が気づきを与え、柔らかい砕かれた心にしてくださいますように。  祈り:神様、私は_______のことがなかなかゆるせません(わだかまりがあります、批判的になります、不条理だと思います)。でも、そのことをあなたの前に起きます。私に柔らかい心を与えてください。頑固な民のようではなく、へりくだって悔い改め、あなたに聴く霊の耳を開いてください。アーメン

ホセア8

「わたしが彼のために、多くのおしえを書いても、 彼らはこれを他国人のもののように見なす。」ホセア8:12 旧約時代に、イスラエルの民に神様はおしえと戒めを与えてくださいました。ところが人々は、それを自分とは関係ないように(他国人のもののように)扱いました。 何度も警告したのに改めない者をさばかざるを得ない、神様の嘆きが感じられます。 聖書が書かれた場所は主に中近東です。日本人にとって、地名や言語は外国のものかもしれません。しかし、キリストは全人類の罪ために十字架にかかり、復活されました。今日は、聖書のおしえを誰も「他国人のもののように見なす」必要はありません。 パウロはローマ人への手紙の中で 「私は福音を恥としません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、信じるすべての人に救いをもたらす神の力です。(ローマ1:16)」 と述べています。福音は私や隣の人に救いをもたらす神の力だ、と心から信じているでしょうか。 祈り:神様、あなたは今日の私たちに心から呼び掛けておられます。___さん、___さんがこのクリスマスに福音を受け取ることができますように。 そして、福音がどれほど素晴らしい神の力であるかを、私自身ももっと味わい知ることができますように。アーメン

ホセア7

「エフライムは愚かな鳩のようで、良識がない。 エジプトを呼び求め、アッシリアに飛んで行く。」ホセア7:11  初代ローマ皇帝アウグストゥスの別荘が最近発掘されたそうです。クリスマスの記事「そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストゥスから出た(ルカ2:1)」の人物です。 悪名高いヘロデ王は地方を治めましたが、アウグストゥスはそれよりも上位の、ローマ帝国全体の支配者でした。 それほど権力があった人の建物でさえ、ベスピオ火山の噴火で埋もれてしまい、21世紀になってやっと掘り起こされるという有り様です。 この章では「エフライム」=旧約のイスラエルの民が、主なる神よりも強い国に頼ろうとしたことを戒めています。 私たちは、つい見える人のことばに頼り、影響されてしまいます。しかし、それが主のみ思いを反映しているかと、一呼吸置いて考えてみましょう。 「からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはいけません。むしろ、たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことができる方を恐れなさい。(マタイ10:28)」 祈り:神様、人は有限です。しかし、あなたは時代を越えて存在され、力ある方です。その方が私を愛し、かけがえのない存在として今日も扱ってくださる特権に感謝します。みことばにますます信頼できますように。アーメン

ホセア6

「私たちは知ろう。 主を知ることを切に追い求めよう。 主は暁のように確かに現れ、 大雨のように私たちのところに来られる。 地を潤す、後の雨のように。」ホセア6:3 注解書には、 「ホセア書は神の愛の心を明らかにしている。神はご自身の民を、罪の暗闇から輝く光へと移したいと願われる。神のさばきの背後に、繰り返し回復の約束が述べられる。神は、私たちとの関係に非常な価値をおかれているのだ」と解説されています。 ホセアの時代だけでなく、今日の私たちとの関係にも、神様は非常な価値を置いてくださっています。 その主への応答として、私たちは3節のように「主を知ることを切に追い求め」る者でありたいです。「主よ、今日も来てください。癒し、回復してください。新たな歩みを与えてください」と祈りながら一日を始めましょう。 祈り:神様、あなたが私との関係に価値を置いてくださり感謝します。クリスマス、年末が近づいてきました。楽しみと同時に用事も多く、あわただしい気持ちになります。主を忘れることがないように助けてください。買い物にも、郵便局や銀行にも、診察や送迎にも、職場や教室にも、私の心がいつもあなたと共に移動できますように。アーメン

ホセア5

「エフライムは虐げられ、 さばかれて打ち砕かれる。 彼が自ら進んで 人の決め事に従って歩んだからだ。」ホセア5:11 子どもの進路や願い(自分が子どもだった時も含めて)に関して、親子で意見が食い違ったことがありますか? 意見が違っても、子どもを本当に愛する親なら、子どもが望むように歩んでいくのを見守ることでしょう(たとえ苦労が目に見えていても)。 万一子どもが失敗し、ぼろぼろになって帰ってきたらどうでしょう。親は「ごめんなさい、未熟だった」と謝るなら受け入れるのだと思います。 神様はどんな親よりも私たちを愛してくださいます。 それゆえ、民がどうしても願うやり方にお任せになりました。 「彼が自ら進んで人の決め事に 従って歩んだからだ」ということばの背後に、胸を痛めながらも民を愛され見守っている、そんな神のみ思いが感じられます。 やがて国が滅び、ちりぢりになっても、偶像礼拝から離れた時に回復を与えてくださいました(もちろん民は悲しみを通り、その後でした)。 入学、就職、結婚、介護、子育て...を、神抜きでもできるのかもしれません。しかし、神は最善をご存じで、私たちにそれを与えたいと思っておられます。 自分一人で祈ると共に、教会の人たちや信仰の友にも祈ってもらいましょう。互いに祈りあう所に、恵みがいっそう豊かに注がれます。 祈り:神様、あなたの深い愛を覚えます。今まで、___に関しては、自分で決めて祈らずにきました。でも、これからはあなたに聞いていけますように。共に祈り合える信仰の友が与えられていることにも感謝します。アーメン

ホセア4

「わたしの民は知識がないので滅ぼされる。 あなたが知識を退けたので、 わたしもあなたを退け、わたしの祭司としない。 あなたがあなたの神のおしえを忘れたので、 わたしもまた、あなたの子らを忘れる。」ホセア4:6  今日の4章には厳しいことばが並びます。北王国(「イスラエル」「エフライム」も同じ)に向かって、偶像礼拝に陥るのが姦淫(浮気)だと責めています。 「知識」とは、頭がよいとか物知りだということではありません。主のおしえを心に留め、従う心が「知識がある」ということです。北王国は、せっかく祭司の役割を果たす国として選ばれたのに、その恵みを拒否して悔い改めようとしなかったのでした。 神様は義なる方ですが、同時に愛と恵みに満ちた方です。 その方にここまで言わせてしまうのが、私たちの罪の本質なのだと知ります。 罪を赦された者として、主から離れず生きていきたいと思います。 祈り:神様、聖書の厳しいことばは、私たちが的はずれな罪の生活に逆戻りしないための戒めです。赦された恵みを味わいます。信仰が弱っている人たちの心に、今日聖霊の火が再び燃やされますように。神には不可能なことがないという約束を信じます。アーメン

ホセア3

「その後で、イスラエルの子らは帰って来て、自分たちの神である主と、自分たちの王ダビデを尋ね求める。そして終わりの日には、主とそのすばらしさにおののく。」ホセア3:5 ホセアが再び妻を買い戻す姿は、4節の 「これは、イスラエルの子らが、これから長く、王もなく、首長もなく、いけにえも石の柱もないところに、エポデもテラフィムもないところにとどまる」ことを示したものでした。 この通りに、イスラエルの民は捕囚により大切な故郷や所有物を失いました。 しかし同時に、偶像や悪い習慣も手放すことになりました。そして回復を経験したのです。 私たちにとっても、痛みを伴う別離は、同時に大切なものを取り戻す機会でもあります。ちょうど濁った水が澄むように、霊の曇りが取り除かれ、主をまっすぐ見上げる時が与えられます。 今まで握りしめていたことは何でしょう。周りの人に忖度し、遠慮し、信仰がポケットの奥に丸めて入っているなら、涙の経験は神の恵みを全身全霊で味わう、素晴らしいプロセスに変えられ得ます。 祈り:神様、あなた以外のものに絡み取られそうな、弱い私を助けてください。手放す信仰を与えてください。最近環境が変わった人、体調を崩した人、人生の転機を迎えた人を覚えます。主が私を、___さんを、___さんを、どこまでも愛してくださることに感謝します。アーメン 偶像や罪深い習慣からも自由になり、やがて主を求める民として帰還する、という

ホセア2

「わたしは永遠に、あなたと契りを結ぶ。 義とさばきと、恵みとあわれみをもって、 あなたと契りを結ぶ。真実をもって、あなたと契りを結ぶ。 このとき、あなたは主を知る。」ホセア2:19~20 厳しいさばきが語られた後、14節からは一転して回復のことばが続きます。 「優しく彼女に語ろう(14節)」「あなたはわたしを『私の夫』と呼び(16節)」...。 もし当時の王たちや人々が、ホセアやイザヤの預言に真剣に耳を傾けて悔い改めていたら、歴史は違ったかもしれません。後代に生きる私たちはそう思います。 今日の私たちはどうでしょうか。完成した聖書が与えられており、日本では信仰の自由も保証されています。その恵みに感謝し、みことばに真剣に耳を傾ける者でありますように。 祈り:神様、あなたが義とさばきと、恵みとあわれみをもって、永遠のいのちの約束を与えてくださいました。イエス・キリストを送り、十字架と復活を通して恵みのわざを完成してくださり感謝します。真実な主の約束を、今日も抱きつつ歩みます。アーメン

ホセア1

「主がホセアに語られたことのはじめ。 主はホセアに言われた。『行って、姦淫の女と姦淫の子らを引き取れ。この国は主に背を向け、淫行にふけっているからだ。』」ホセア1:2 ホセアは、イスラエルが北王国と南王国に分かれていた時代の預言者です。イザヤと同じ頃に生きた人でした。 予想外の主のことばで始まります。「行って、姦淫の女と姦淫の子らを引き取れ」と。神様が、どこまでもイスラエルや人々を見捨てないことを象徴しているようです。 やがて来るさばきは厳然たるものでした。が、それで終わりではありませんでした。 「ユダの人々とイスラエルの人々は 一つに集められ、 一人のかしらを立てて その地から上って来る。 まことに、イズレエルの日は大いなるものとなる。」 神様の回復があることが、はやくも宣言されています。 神様がどんな人でもご自身のために用いられること、主のご計画にはいつも希望があることを教えられます。 祈り:神様、退廃的・絶望的に見える状況でも、主のご計画が進められることを感謝します。戦場や廃墟となっている地に、あなたの栄光と回復がもたらされますように。 私たちの周りにも、やけっぱちになって自暴自棄に陥っている人がいます。私も、時に暗い気持ちや罪深い思いに陥ります。神様、あなたが暗闇に光を注いでください。アーメン

ダニエル12

「あなたは終わりまで歩み、休みに入れ。あなたは時の終わりに、あなたの割り当ての地に立つ。」ダニエル12:13 聖書は世の終わりが来ること、そして神が最終的なさばきをなさることを述べます。 「今は終末の時代だ」と言われることもあります。 イエス様がいつ来られてもよいように備えをしておくことは大切です。しかし、「天を見上げてただ待っていよう」という投げやりな歩みは、聖書的ではありません。 ダニエルは、少年時代に捕虜としてバビロンに連れてこられました。 これから起こることや終末に関する幻を見ました。 バビロンとペルシアに仕え、時にはライオンの穴に投げ込まれるという生命の危機にさらされました。 その中でも誠実さと神への信仰を保ち、生涯を終えました。 私たちも生涯の最後まで神と「歩み」ましょう。 祈り:神様、不安になるようなニュースや噂を聞いても動揺せず、変わらない主を信頼できますように。私の生涯を通して主の導きと守りを信じ、歩んでいきたいです。 「あなたのみことばは 私の足のともしび 私の道の光です。(詩篇119:105)」 アーメン

ダニエル11

「彼に代わって、一人の卑劣な者が起こる。彼には国の権威は与えられないが、不意にやって来て、巧みなことばを使って国を奪い取る。」ダニエル11:21 ダニエルはこれから起こることを示されました。 近未来では、ペルシアからキリストの誕生の前までの国々の栄枯盛衰に関するものでした。さらに、終わりの時代に起こることも暗示しています。 「一人の卑劣な者」はアンティオコス・エピファネス(4世)で、紀元前2世紀のセレウコス朝シリアの王で、ユダヤを支配におさめた時にこの預言が実現しました。 歴史が聖書の預言どおりに動いたことから、聖書が真実だと信じることができます。 やがて起こる反キリストは、彼のような者だとも言われます。 誰が反キリストか、とか、どの国が何を示す、とか、私たちの想像は諸説別れるでしょう。 しかし、聖書の指し示すイエス・キリストが救い主であり、彼に信頼する人は失望することがなく、永遠のいのちを与えられるということは確かです。ゆるがない約束に感謝します。 祈り:神様、聖書が真実であることを再確認しました。聖書に書いてある約束をもっと知り、あなたに全く信頼する者となりたいです。難しく感じる部分は聖霊の光に便りながら読むことができますように。アーメン

ダニエル10

「その方は言った。『特別に愛されている人よ、恐れるな。安心せよ。強くあれ。強くあれ。』その方が私にそう言ったとき、私は奮い立って言った。『わが主よ、お話しください。あなたは私を力づけてくださいましたから。』」ダニエル10:19 ティグリス川のほとりにいたとき、ダニエルだけにこの幻が示されました。一緒にいた人には見えませんでしたが、恐怖で逃げてしまいました(7節)。 ダニエルは、主の使いのことばをひとりで聞きます。 聖書には主の使いと出会い、話した人の記事が他にもあります。 ヨシュアは主の軍の将と出会い、顔を地に付けて伏し拝み、履き物を脱ぎました(ヨシュア5:14-15)。 ナザレ村のマリアはガブリエルに「あなたは身ごもって男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。」と言われました(ルカ1章)。 皆初めは驚き戸惑いますが、主のことばを聞いて受け取ります。それゆえ、主の働きに参加する者となりました。 私たちも、日々みことばに聞き、主の語りかけを受け取る者となれますように。 祈り:神様。聖書に出てくる人々も、驚き戸惑いつつも主のことばを聞き受け取りました。私も同じような心を持ちたいです。導いてください。 このアドベントの時期、処女降誕や復活がを信じられないという人たちにも、あなたが語りかけてくださいますように。アーメン

ダニエル9

「私の神よ。耳を傾けて聞いてください。目を開いて私たちの荒れすさんださまと、あなたの御名がつけられている都をご覧ください。私たちが御前に伏して願いをささげるのは、私たちの正しい行いによるのではなく、あなたの大いなるあわれみによるのです」ダニエル9:18 エレミヤの預言 (エレミヤ 25:11–12)によって、ダニエルは捕囚が70年間だと悟りました(2節)。彼の次の反応は、断食して祈ることでした。自分のためだけでなく、民に代わって悔い改め、とりなし、大胆に願い、あわれみを請いました。 同様に、イエス・キリストは私たちに代わって罪のゆるしのために十字架にかかってくださいました。 そして、聖霊なる神は私たちがどう祈ってよいかわからない時にも、とりなしてくださいます(ローマ8:26)。 私たちも、周囲の人々のために、また世界や国のために、人々に代わって祈るよう召されています。祈り方がわからなくても、聖霊に信頼して静まり、心に浮かぶことを ゆっくりと主に申し上げていきませんか。 祈り:神様、今あなたの前に静まっています。目を閉じて思い巡らすと、____のことが心にかかります。____をどうしたらよいのか、私にはわかりません。主の解決を求めます。また、_____について悔い改めます。あなたのあわれみを注いでください。あわれみに満ちた神様に感謝します。 「神は、私たちが行った義のわざによってではなく、ご自分のあわれみによって、聖霊による再生と刷新の洗いをもって、私たちを救ってくださいました。(テトス3:5)」 アーメン 

ダニエル8

「私ダニエルは、何日かの間病気になったままでいた。その後、起きて王の事務を執った。しかし、私はこの幻のことで驚きすくんでいた。それを理解できなかったのである。」ダニエル8:27 ダニエルに、別の幻が示されました。それは、今の国が滅びた後のことでした。 「雄やぎ(5節以降)」はギリシアのアレクサンドロス大王を指しています。非常に強い王国でしたが、やがて4つに分裂します。 高校生の頃、歴史で起こったこととこの幻が同じであると教えてもらい、「聖書って本当なんだ!」と改めて驚いたことでした。 ダニエルは幻の途中で失神したり、後にも何日か寝込みました。預言者も一人の人間、全身全霊で主の幻を見聞きしたのだろうと思います。 クリスマスの時期、各地を宣教のために飛び回る伝道者やクリスチャンのために、また各教会で奉仕している人たちのために霊肉の守りと強めを祈りましょう。 祈り:神様、あなたが世界を治め、歴史を支配しておられることに感謝します。福音を行って伝える人、サポートする人、とりなし祈る人。それぞれの召しと役割を受け取り、主のみこころを行うことができますように。アーメン

ダニエル7

「しかしそれは『年を経た方』が来られるまでのことであり、いと高き方の聖徒たちのためにさばきが行われ、聖徒たちが国を受け継ぐ時期が来た。」ダニエル7:22 7章は5~6章より前のことです。ダニエルは夢と幻を見ました。不気味な獣や象徴的な表現が出てきます。これから起こることの預言だとわかりますが、具体的にどれが何を指すかは、学者の間でも諸説あるようです。 今日も○○の国だとか、反キリストは□□のことを指すとか、さまざまな論が飛び交います。時には意見の相違でつまずく人もあります。 議論は悪いことではありませんが、信仰者が教団教派を越えて一致するには、聖書の明らかなメッセージでは一致し、そこからぶれないことだと思います。 この章では、最終的に主を信じる者(聖徒たち)のためにさばきが行われ、彼らが国を受け継ぐと書かれています。 また、イエス・キリストが救い主として地上に来られ、十字架で私たちの罪のあがないがなされ、信じる人には永遠のいのちが与えられることもわかります。 ダニエルも「私ダニエルは、いろいろと思い巡らして動揺し、顔色が変わった。しかし、私はこのことを心にとどめた(28節)」と述べています。今わからなくても、真実な愛の神様は良い方であることに信頼しましょう。 祈り:神様、私は難しいことはよくわかりません。でも、いつもあなたの十字架の愛とみことばの約束に立ちたいと願っています。みことばを思い巡らしつつ、私たち信仰者に与えられる恵みの約束に希望を置いて今日も過ごせますように。アーメン

ダニエル6

「私はここに命じる。私の支配する国においてはどこででも、ダニエルの神の前に震えおののけ。  この方こそ生ける神、 永遠におられる方。  その国は滅びることなく、 その主権はいつまでも続く。 この方は人を救い、助け出し、  天においても、地においても、  しるしと奇跡を行われる。  実に、獅子の手からダニエルを救い出された。」ダニエル6:26~27 今度はダニエルに生命の危機がやってきました。王以外の、天の神を拝んだということでライオンの穴に投げ込まれました。 しかし、神様はダニエルを助け出されました。王は、ダニエルの信じる神について上のように書き送りました。 ダニエルを陥れるためのたくらみが、逆に異国にまで主の御名とみわざを知らせる結果となりました。 今、試練に直面しているでしょうか。問題の前に頭を抱え、しゃがみこんでしまうかもしれません。 しかし、神様はその逆境でさえ用いることのできる方です。暗闇に光を、失望に希望を与えることのできる方が私たちの神様です。ダニエルを救った神が、私たちの神様です。自分のことだけでなく、失意や難しさの中にある兄弟姉妹のためにも祈りましょう。 祈り: 主よ、あなたは「人を救い、助け出し、天においても、地においても、しるしと奇跡を行われる(27節)」方です。 今の状況が必ず主によって持ち運ばれるという、あなたに信頼する心を与えてください。 難しい状況を通っている___さん、___さんにも主にあって今日希望と励ましがありますように。アーメン

ダニエル5

「その子であるベルシャツァル王よ、あなたはこれらのことをすべて知っていながら、心を低くしませんでした。」ダニエル5:22 父ネブカドネツァル王が高ぶってさばきを受けたことを、子であるベルシャツァル王は知っていました。それなのに、ダニエルの信じる神を過小評価しました。頑固でした。 彼らが宴会で偶像礼拝をしていると、人間の手の指が現れて「メネ、メネ、テケル、ウ・パルシン」という文字を書きました。 動揺と恐怖の中、ダニエルが呼ばれました。ダニエルは厳しいことばを告げます。 「これらのことをすべて知っていながら、心を低くしませんでした」と。 書かれた文字の意味は 「神が王の治世を数えて終わらせた。王は秤で量られて、目方の足りないことがわかった。国は分割され、メディアとペルシアに与えられる」 でした。 新約聖書では「『今日』と言われている間、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされて頑なにならないようにしなさい(ヘブル3:13)」と勧められています。 各々自分の頑固な心や先入観を悔い改め、励まし合う群れとなれますように。 クリスマスの時期、教会に新しい方が来られるかもしれません。心地よい仲間で固まるのではなく、愛とホスピタリティで主を求める方々を歓迎できますように。 祈り:神様、みことばを愛し従いたいです。心を柔らかくし、あなたの願われるところに私を置いてください。初めて教会に来られる方、祈りを必要としている方に寄り添い、私が日々受けている主の愛を流し出す者となれますように。アーメン

ダニエル4

「今、私ネブカドネツァルは、天の王を賛美し、あがめ、ほめたたえる。そのみわざはことごとく真実であり、その道は正義である。また、高ぶって歩む者をへりくだらせることのできる方である。」ダニエル4:37 天の神の偉大さを知りながらも、ネブカドネツァル王は自分のプライドに頼りました。その結果、ダニエルの預言どおり気がふれ、獣のようになって過ごしました。 その期間が終わった時、ようやく天の神を神と認めました。 私たちは、ネブカドネツァル王ほど頑固ではないと思いたいです。しかし、正直になって心の中を探ると、なかなか手放せないプライドやこだわり、自己義、習慣があるかもしれません。 もしもそうした心を発見したとしても、神様はあわれみ深い方です。素直に認め、助けを求めるものをないがしろにはされません。今日神様の前に出て、そのままを申し上げ、主の御手にゆだねましょう。 祈り:神様、私の心の中にある____や_____の思いを、今あなたの前に告白します。自分ではどうすることもできません。あなたのあわれみと力で、私の心を一新してください。キリストの心を私の心とできるよう導いてください。アーメン

ダニエル3

「しかし、たとえそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々には仕えず、あなたが建てた金の像を拝むこともしません。」ダニエル3:18 偶像礼拝をしなかったシャデラク、メシャク、アベデ・ネゴは王の怒りを買い、火の中に投げ込まれました。神は3人と共におられ、彼らを助けられました。 「火の中を縄を解かれて歩いている四人の者が見える。しかも彼らは何の害も受けていない。第四の者の姿は神々の子のようだ(25節)」と王に言わせた奇跡は、神でなければできないことでした。 そんな奇跡を見聞きしたり体験したりできたらよいのに、と思います。 一方で、願ったとおりにならない場合もあります。迫害され殉教すること、病や障がいが癒されないことなど...。 「たとえそうでなくても」神を信じることができるでしょうか。ダニエル書の3人はその信仰に立っていました。 祈り:神様、祈りが思ったようにきかれない時、不信仰になりそうな私です。助けてください。あなたが無視しておられるのではなく、もっともっと深い摂理と愛ゆえであることがわかりますように。家族を突然失った方、障がいや病を持って生きていく方に、いっそうキリストの恵みと愛が注がれますように。アーメン

ダニエル2

「しかし天に秘密を明らかにするひとりの神がおられます。この方が終わりの日に起こることをネブカドネツァル王に示されたのです。あなたの夢、寝床であなたの頭に浮かんだ幻は次のとおりです。」ダニエル2:28 王が見た夢の解き明かしは、国中のどんな知者や占い師たちにもできないことでした。ところが捕虜のダニエルが、彼ならできる、と連れてこられました(25節)。 ダニエルはきっぱりと言います。自分ではなく、「天に秘密を明らかにするひとりの神がおられます」と。その解き明かしは、これから起こることを告げたものでした。 王は満足し、ダニエルを高い位につけました。 歴史の記録の中では、ある日の出来事でした。しかし、神の偉大さとやがて来るメシア、神の国の永続は、歴史を越えて今日の私たちにも迫ってきます。 ダニエルに秘密を教えた神こそ、私たちが日々礼拝する神その方です。 祈り:神様、あなたの存在を過小評価しないように助けてください。何千年も前におられた神は、今日も生きて働かれる神です。偉大な神様に、親しく近づき祈れる特権を、もっとかみしめることができますように。アーメン

ダニエル1

「神は、ダニエルが宦官の長の前に恵みとあわれみを受けられるようにされた。」ダニエル1:9 バビロン捕囚で連れてこられた捕虜の中に、王族や貴族が何人かいました(3節)。 「その身に何の欠陥もなく、容姿が良く、あらゆる知恵に秀で、知識に通じ、洞察力に富み、王の宮廷に仕えるにふさわしく、また、カルデア人の文学とことばを教えるにふさわしい少年たち」でした(4節)。 今風に言えば「ルックスが良く、頭が良く、思慮深く、品があり、将来有望な男子たち」でしょうか。 ダニエルと友人たちはそのような少年でした。 しかし、彼らが素晴らしかったのは、まっすぐな信仰を持っていたことでした。 神は捕囚となった彼らを、「宦官の長の前に恵みとあわれみを受けられるように(9節)」されました。ダニエルたちの背後には、神の守りと恵みがありました。 どこに行っても、どんな祝福があっても、その背後には神の恵みがあります。ここまで主が良くしてくださったことを思い出しつつ、この1年を振りかえりたいものです。 祈り:神様、この1年もいろんな変化がありました。その背後に主の摂理と恵みがいつもあったことを覚えて感謝します。 今日は特に_____のこと、_____のことに感謝します。 「わがたましいよ 主をほめたたえよ。主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな。(詩篇103:2)」  アーメン

エゼキエル48

「町の周囲は一万八千キュビト。この町の名は、その日から『主はそこにおられる』となる。」エゼキエル48:35 40章から続いた新しい都の様子が、最後に「主はそこにおられる」と呼ばれると締め括られています。 おごそかで豪華な神殿、それぞれの部族の割り当て地、放牧地、門などが、数量とともに記されました。しかし何より、そこに主がおられ、主とともにいることが一番素晴らしいことです。 私たちにとっても、最も素晴らしいことは計測不可能です。 心の平安や満足は、誰かが代わりに計測することができません。そして神の愛も、莫大すぎて人間の知恵を越えています。 「...その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。(エペソ3:18-19)」 祈り:神様、あなたの大きすぎる愛に感謝します。ひとり子イエス・キリストを地上に送り救いを成し遂げるという愛を、今年のアドベントにしみじみと思い巡らし、感謝できますように。日本中、世界中の教会のクリスマスを祝福してください。アーメン

エゼキエル47

「この川が流れて行くどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。この水が入ると、そこの水が良くなるからである。この川が入るところでは、すべてのものが生きる。」エゼキエル47:9 神殿の入り口を流れる水は、進むにつれて足首、膝、腰の深さになり、とうとう泳げるほどの川になりました(1~5節)。 そして、その水が流れるところでは「すべてのものが生きる」という情景がエゼキエルに見せられます(9節)。回復を象徴する光景です。 明日から12月です。アドベントが始まります。今年も1年を振り返る時期になりました。神様が生かしてくださった恵み、いのちと希望を与えてくださった恵みは何だったでしょうか。 喪失を体験して、何も考えられない人がいるかもしれません。旧約時代の人々もそうでした。今は先が見えないかもしれません。しかし、やがて、主が必ず希望を与えてくださる日が来ます。焦らず、気持ちをゆっくり整えて、主を待ち望みましょう。 祈り:神様、今年もここまで導いてくださり感謝します。今日は信仰の友である___さん、___さんを覚えてお祈りします。引き続きあなたが支え励ましてください。今年のクリスマスが、一層の慰めと希望をしみじみと感じる時になりますように。アーメン

エゼキエル46

「しかし、民衆が例祭の日に主の前に入るとき、北の門を通って礼拝に来る者は南の門を通って出て行き、南の門を通って入る者は北の門を通って出て行かなければならない。自分が入った門を通って帰ってはならない。その反対側から出て行かなければならない。」エゼキエル46:9 回復された神殿での、礼拝の方法が示されます。 今日の私たちは、キリストの十字架によって自由にされたので、もはや旧約時代のいけにえの規定や儀式にしばられることはありません。礼拝の意味合いも、儀式ではなく心を尽くすことが大切です。 それでも、私たちが礼拝をささげて帰る時には、異なる門から出るような思いでいたいのです。家族や仕事の悩みや重く不機嫌な心を引きずるのではありません。 神様に心を向け、賛美とみことばによって思いを新しくされて一週間の歩みを始めるのです。 祈り:神様、主日の礼拝も、日々の個人礼拝(デボーション)も大切にしたいです。儀式ではなく心からあなたを慕い求める時として、礼拝の恵みを味わうことができますように。信仰生活が豊かになり、日々霊的な食物、潤いを受け取ります。アーメン

エゼキエル45

「あなたがたが相続地としてその地をくじで分けるときは、その地から奉納地として聖なる区域を主に献げなければならない。その長さは二万五千キュビト、幅は一万キュビト。その全域は聖なる地である。」エゼキエル45:1 国を失った人々に、再び土地が回復されるという預言です。故郷に住む場所が与えられるという希望の内容です。 もっとも、土地は自分たちのためだけに使うのではありません。 11キロメートル×4.4キロメートルを、聖所と祭司のために取り分けなさいと命じられました。 それは礼拝する場所、主に出会う場所でした。そして、君主たちは隣接する土地に住みました。いつも聖所を意識しながら暮らす位置関係でした。 当時の土地に限らず、今日私たちがもっている物のすべては、神様から与えられ、託されているものです。 自分の利益だけのために取り込んでおくのは、あまりにも空しい考え方です。主に感謝をささげるために取り分け、周囲の人を潤すためにも取り分け、その残りで生活する時、本当に豊かな生活を送ることができます。 祈り:神様、私に今日も必要を与えてくださり感謝します。 「おおらかな人は豊かにされ、他人を潤す人は自分も潤される(箴言11:25)」 のように、主に喜んでささげ、他者を潤す者になれますように。アーメン

エゼキエル44

「祭司たちへのゆずりとなるのはこれである。わたしが彼らへのゆずりである。あなたがたはイスラエルの中で彼らに所有地を与えてはならない。わたしが彼らの所有である。」エゼキエル44:28 新しい神殿で祭司職が回復し、その規定と戒めが書かれています。 割り当て地についても、民数記18章、ヨシュア記13章等で出て来た先の祭司への規定と似た内容が書かれています。 祭司たちには一般の土地はありませんでした。けれども、神殿の周囲の場所にきちんと住む場所が与えられていました。彼らは神の恵みのうちに住まうことができました。そして、神の臨在をより近く、より明確に体験する日々を送りました。 主に従おうとして日々労苦し、励んでいる人たちがいます。さまざまな制約と厳しい環境の中、真摯に主に仕えようとする働き人やクリスチャンの兄弟姉妹がいます。主ご自身が守り、支え、ご自身の栄光をより一層体験させてくださいますように。 祈り:神様、信仰に立ち主に従う歩みのひとりひとりの歩みを、どうか支えてください。奮闘する働き人を励ましてください。また信仰者が反目でなく愛のうちにさらに祈り合うことができますように。日本中の教会が主の栄光を求めて今週も歩めますように。アーメン

エゼキエル43

「私が見た幻は、かつて主がこの町を滅ぼすために来たときに私が見た幻のようであり、またその幻は、かつて私がケバル川のほとりで見た幻のようでもあった。私はひれ伏した。」エゼキエル43:3 東向きの門で主の栄光が現れ、地がその栄光で輝きました。大水のとどろきのような音もしました(2節)。 栄光が東向の門を通って神殿に入って来たというのも、大水のように満ちて行く様子であったことがわかります(4節)。ただ光が差すのでなく、それは壮大だったでしょう。 エゼキエルは、かつての幻を思い出します。町の滅びる時の幻、そして召しを受けた時に見た幻(1章)のようでした。もう一度原点に戻る思いでした。 私たちも、救われた時、導かれた時、神様を信じた時を思い出すことで、何が真実かを思いだし、確信をいただくことができます。 試練の中で見いだした主の恵みと励ましが、主に導かれる人生の中での道標です。 祈り:神様、これまでにあなたが示してくださった恵みや励まし、霊的なあらわれを思い起こします。あなたがいつも真実な方であり、あなたに身を寄せる時が平安です。みこころに叶う歩みを、今週も導いてください。アーメン

エゼキエル42

「彼は私に言った。『聖域に面している北の部屋と南の部屋は、聖なる部屋であって、主に近づく祭司たちが最も聖なるささげ物を食する所である。彼らはそこに最も聖なるもの、すなわち、穀物のささげ物、罪のきよめのささげ物、代償のささげ物を置く。その場所は聖だからである。』」エゼキエル42:13 神殿の描写が続きます。今ならコンピュータグラフィックで3D画像を見るような説明です。サイズが明確に述べられています。 そんな中で、「聖なる部屋」が出てきます。主に近づく祭司たちが、最も聖なるささげ物を食べる場所です。 サイズと違って「聖なる」というのは、私たちの目には見えないものです。しかし、確かに霊的に「聖なる」ものが存在するということ、それが数学的、科学的な見えるものとともに並立しうることをこの章から学びます。 社会で働く人々が「パワースポット」といわれる場所に関心を持つのも、霊的な存在を求める根元的な願いなのかもしれません。 霊的に最も偉大で、最も素晴らしいお方が主イエス・キリスト、聖書の神様であることを、社会で働く人たちがもっともっと受けとれますように。 祈り:神様、日々頑張って働くビジネスマンや研究者、公務員、学生、自営・・・の方たちに、霊的に最も偉大な存在であるあなたを紹介したいです。仕事だけが人生の評価基準になりませんように。神様に愛されている存在としての自分を見いだすことができますように。さまざまなビジネスマン伝道を祝福してください。教会員の夫や妻が救われますように。アーメン

エゼキエル41

「ケルビムとなつめ椰子の木が彫刻してあった。なつめ椰子の木はケルビムとケルビムの間にあり、それぞれのケルビムには二つの顔があった。」エゼキエル41:18 神殿が丹念に製図され装飾されている様子が続きます。大切な場所であることが伝わってきます。 神殿の壁には、2つの顔を持つケルビム(天使)となつめ椰子の細かい図柄が彫刻されていました。 そういえば、「なつめ椰子」は子どものころにはあまりなじみがなく、ぼんやりと遠くアラビアン・ナイトの世界を思い描いていました。 ところが、最近は少し大きなスーパーに行くと、「デーツ」という名前で乾燥果実が売られています。遠い世界のものと思っていたのが自分の日常の範囲にあり、初めは驚きました。 世界が緊密につながっていることを感じました。 来年(2024年)の世界祈祷日で祈る地域はパレスチナで、何年も前から決まっていたようです。今年(2023年)は台湾でした。タイムリーな対象国に、神様が祈るように導いておられると感じます。 祈り:神様、私たちの周りでも、世界でも、日々いろんなことが起こります。ともしびの油を用意していた賢い娘たち(マタイ25章)のように、イエス・キリストが再び来られる日まで目を覚まして祈ることができるよう、今日も導いてください。 「ですから、目を覚ましていなさい。その日、その時をあなたがたは知らないのですから。(マタイ25:13)」 アーメン

エゼキエル40

「すなわち、神々しい幻のうちに私はイスラエルの地へ連れて行かれ、非常に高い山の上に降ろされた。その南の方に、町のようなものが造られていた。」エゼキエル40:2 捕囚25年目、エルサレム陥落14年目の日、まだ故郷が滅びた悲しみにある時に、主の霊がエゼキエルを「非常に高い山」に連れていきました。見ると、故郷に「町のようなもの」が造られていました。 そして、青銅のような姿の人が 「あなたの目で見、耳で聞き、わたしがあなたに見せるすべてのことを心に留めよ。わたしがあなたを連れて来たのは、あなたにこれを見せるためだ。あなたが見ることをみな、イスラエルの家に告げよ(4節)」と話しかけました。 ここから神殿の幻が続きます。周囲の様子も、聖所に近づく所も、詳細に記されています。数値まで記すことで、神のご計画の確かさが伝わってきます。 私たちの肉の目では見えなくても、霊の世界で進んでいることがあります。 「信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです(ヘブル11:1)」 祈り:神様、あなたのみこころが私たちの街、国になりますように。日本のリバイバルを期待します。信仰者が迫害されている国々が、主をほめたたえる国へと変えられますように。戦争や武力行使がやみ、平和がきますように。私たちの心に、どんな時でも主の平安を与えてください。アーメン

エゼキエル39

「わたしは二度と、わたしの顔を彼らから隠すことはない。わたしの霊をイスラエルの家の上に注ぐからである──神である主のことば。」エゼキエル39:29 国が滅び捕囚にあった人々にとっては、自らの罪ゆえとはいえ、神がどこにおられるのかと思えたでしょう。しかし、神はおられました。そして、回復の後の計画も持っておられました。 先の見えない試練や不安に教われた時、私たちも神がどこにおられるのか、どう導いていかれるのかと不安になります。でも神は変わらずにおられます。私たちの視点ではなく、神の視点で見ておられます。 そして「わたしの顔を隠すことはない」、「わたしの霊を注ぐ」と、今日の私たちにも語りかけてくださるのです。 エゼキエルは、さらに素晴らしい幻を見せられます。エゼキエル書のキーワード「彼らは、わたしが主であることを知る」という希望が、ますます迫ってくるでしょう。 祈り:神様、八方塞がりに思える時に、すでにあなたが大きな展望とご計画をすすめておられることを感謝します。喪失の痛みを覚える___さん、___さんに、主の語りかけと希望を今日も与えてください。導きを祈る___さん、___さんに、あなたの平安と希望が注がれますように。互いに祈りあう信仰者、教会として今日も歩みます。アーメン

エゼキエル38

「神である主はこう言う。その日には、おまえの心に様々なことが思い浮かぶ。おまえは悪巧みをめぐらして、」エゼキエル38:10 ゴグとマゴグが何を指すかについては諸説あります。連合軍を率いた力ある国が滅びていくさまや、大きな天災が起こるさまは、想像すると恐ろしくなります。 周囲だけでなく、心の中で起こることはもっと深刻だといえます。悪巧みや憤り、欲望などが戦争や争いの動機になっているとは言えないでしょうか。 神様には人の心がすべてわかっています。悪い思いも、良い思いも。 私たちが悔い改めるなら赦されます。 また、主のために純粋な思いですることは、神様がねぎらってくださいます。 各地の教会で、互いの人間関係が主にあって祝福され、悪魔に対抗し、福音を伝えるために一枚岩となれますように。 祈り:神様、私の心を探り、練りきよめてください。教会の兄姉のために、愛をもって祈り続けたいです。各地の教会を祝福し、守り、主の愛で強めてください。新しい方や離れていた方を喜んで迎え入れ、父なる神の愛を体現できますように。アーメン

エゼキエル37

そのとき、主は言われた。「息に預言せよ。人の子よ、預言してその息に言え。『神である主はこう言われる。息よ、四方から吹いて来い。この殺された者たちに吹きつけて、彼らを生き返らせよ。』」エゼキエル37:9 エゼキエル書が難しく感じるのは、急に場面が変化し、様々な光景が出てくるからかもしれません。 37章では、干からびた人骨が一面にある場所(2節)が出てきます。殺された人々の骨が満ちる場所へと、主の霊がエゼキエルを連れて行ったのでした。エゼキエル自身も驚いたかもしれません。 そしてエゼキエルは、死を生に、滅びを回復に変えてくださる主の預言をします。 生き返るだけではありません。そこに主が共に住んでくださるのです。 「わたしの住まいは彼らとともにあり、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる(27節)」という約束は、なんという希望でしょうか。 私たちの人生も、主がいのちを入れてくださり、回復を与えてくださり、何よりも共にいてくださることを知るとは、なんという幸いでしょうか。 祈り:神様、干からびた骨を生き返らせるように、あなたと共に歩む意味深い人生をくださり感謝します。生きることに疲れ果て、人生の意味を見失っている方々に、福音が届きますように。届けることができますように。アーメン

エゼキエル36

「あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を与える。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。」エゼキエル36:26 神の名を汚し偶像礼拝に陥っていた民を、神は見捨てたままにされませんでした。 さばきの後に回復があることが宣言されます。 固くていのちのない「石の心」を取り除き、柔らかくいのちのある「肉の心」を与える、と言われました。 同じ神様は、今日の私たちにも柔らかい砕かれた心、肉の心を与えることができる方です。神の前に自分の心を点検していただきましょう。頑固な心、不信仰やあきらめの心があるなら、造り変えていただきましょう。 祈り:神様、私の心を探り、石のように固い部分があるなら取り扱ってください。あなたが陶器師のように私の心を練り、新しくしてください。主の前に大切なこととそうでないことを見分け、あなたが与えた人生を、みこころに従って歩むことができますように。アーメン

エゼキエル35

「おまえは、イスラエルの家のゆずりの地が荒れ果てたことを喜んだが、わたしはおまえに同じようにする。セイルの山よ。おまえは荒れ果て、エドム全体もそうなる。そのとき彼らは、わたしが主であることを知る。」エゼキエル35:15 「セイルの山」はエドムの国の山です。 当時のイスラエルの王国が滅んだことを嘲り喜んだエドムが、自らも滅び荒れ果てるという宣告です。 聖書を読むと、神様は高ぶりや他者への虐げを嫌われることがわかります。逆境にある隣人を見て優越感にひたるのではなく、隣人に助けの手を差し伸べることが聖書的な態度です。 倒れている男性を助けたサマリヤ人(ルカ10章)のたとえもそうです。 私たちは今日、どなたに手を差し伸べることができるでしょうか。 祈り:神様、私を今日も生かしてくださり感謝します。苦境の中にある方、試練を通る方に力を与えてください。もしあなたが望まれるなら、主の愛で励ましの言葉、必要な助けを届けることができますように。アーメン

エゼキエル34

「わたしは失われたものを捜し、追いやられたものを連れ戻し、傷ついたものを介抱し、病気のものを力づける。肥えたものと強いものは根絶やしにする。わたしは正しいさばきをもって彼らを養う。」エゼキエル34:16 主ご自身が民を治めるという、羊飼いの姿が描写されます。 イエス・キリストは、「羊飼いのいない羊の群れのように、弱り果てて倒れていた(マタイ9:36)」群衆を見て、深くあわれまれました。 この世の思い煩いに、下を向いてうなだれる羊のような私たちです。しかし、主はそのような知恵の足りない羊を探し、救い出し、存在そのものを喜んでくださる方です。 主が守り養い、足りない者には知恵を与えてくださいます。 祈り:神様、失敗だらけ、間違いだらけの私をあわれんでください。あなたの力と恵みの豊かさに、羊のように憩います。アーメン

エゼキエル33

「人の子よ、わたしはあなたをイスラエルの家の見張りとした。あなたは、わたしの口からことばを聞くとき、わたしに代わって彼らに警告を与えよ。」エゼキエル33:7 見張りは、遠くから迫る危険をいち早く見つけ、コミュニティに知らせます。 当時は角笛を吹きならして警告したようです。 角笛の音を聞きながらある人が警告を聞き入れなければ、その人自身の責任です。 しかし、見張りが危険を知りながら角笛を吹き鳴らさず、町が攻められて被害者が出た場合、責任は見張りにあります(4~6節)。 預言者エゼキエルに、神様は霊的な見張りとしての使命を再確認されました。エゼキエルはその使命に立ちました。 私たち信仰者も、霊的な見張りとして神に喜ばれることと喜ばれないことを見分け、伝える使命があると思います。今日は様々な情報が飛び交い、人々は混乱しています。みことばと相容れないことも多くあります。節度をもって、しかしはっきりとそのことを伝える見張りでありたいと願います。 祈り:神様、見分ける力を与えてください。あなたが喜ばれないことについては近寄らず、線を引く勇気をください。聖書の基準が与えられて感謝します。情報過多の中でさ迷っている方々が、聖書という人生の指針があることに気づけますように。アーメン

エゼキエル32

「わたしが生ける者の地に恐怖をもたらしたので、ファラオとその大軍は、無割礼の者たちの間で、剣で刺し殺された者たちとともに横たわる──神である主のことば。」エゼキエル32:32 エジプトへの宣告の最後の部分には、「剣で刺し殺される」「恐怖」など、恐ろしいことばが並んでいます。 これを読んで、神様は残酷だと早合点しないようにと思います。そこに至るまでに警告が何度もありました。また、滅びの原因は神様ではなく人の罪にありました。 今日の戦争や、日本の歴史上にも、剣で刺し殺す戦いが幾度となくありました。そしてあろうことか、罪深い人間は、イエス・キリストでさえも十字架に釘で刺し通し、殺したのでした。 ところがそれが救済への道を開いたという、神の大きなご計画が動くこととなりました...考えれば考えるほど理解しがたい愛、神の方法です。 「すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように(エペソ3:19)。」 祈り:神様、あなたのはかりしれない愛と豊かさを感謝します。私はまだほんの一部分しか理解していません。ますます主に近く、主を知ることができますように。____のこともあなたのご計画と導きにゆだねます。アーメン

エゼキエル31

「それゆえ、神である主はこう言われる。『それが高くそびえ、こずえを051雲の中に伸ばし、その高さゆえにおごり高ぶったので、わたしはこれを、諸国のうちの力ある者の手に渡した。』」エゼキエル31:10~11 エデンの園にある木々までが羨む(9節)ようなレバノンの木も、高さゆえにおごり高ぶり、切り落とされます。 中東地方で「木」は権力を示す描写に用いられました。 ダニエル書では、ネブカドネツァル王が素晴らしい木として表されます。しかし、彼が高ぶった時に、ある期間理性が失われ、獣のようになりました(ダニエル4章)。それでも、神のあわれみによる回復が与えられ、ついに「今、私ネブカドネツァルは、天の王を賛美し、あがめ、ほめたたえる(ダニエル4:37)」と告白するに至りました。 神に与えられた賜物、才能、財産、環境などを正しく用いるとは、神に栄光を表すために用いることです。高ぶるのではなく、隠すのでもなく、正しい用い方ができますように。 祈り:神様、あなたが託してくださったものを正しく用いることができますように。高ぶることなく、しかし土に埋めて隠すことなく、教会での互いの賜物を喜び、用いて支えあうことができるよう導いてください。アーメン

エゼキエル30

「わたしがエジプトに火をつけ、これを助ける者たちがみな砕かれるとき、彼らは、わたしが主であることを知る。」エゼキエル30:8 エルサレム陥落の数ヵ月前に、エジプトも滅びました。主の警告が真実であることが明らかになりました。 主が 「エジプトに火をつけ、これを助ける者たちがみな砕かれるとき(8節)」 「エジプトにさばきを下すとき(19節)」 「エジプト人を諸国の間に散らし、国々に追いやるとき(26節)」 に、 「彼らは、わたしが主であることを知る」 とあります。 主が究極の支配者であり、すべてを治める方です。 神様よりもエジプトの戦力に頼っていた人の期待は打ち砕かれました。 神様の願いは「彼らが主を知ること」でした。 私たちが今日与えられている平和や社会制度は素晴らしいものです。しかし、それらの背後に主がおられるということを、どれほど意識しているでしょうか。 また、万一の時にも神がおられ導いてくださるという信頼を、どれほどおいているでしょうか。信仰を問われる思いです。 祈り:神様、あなたよりも人や人の作った制度に頼ることがありませんように。今与えられている恵みを、一つずつ数えて主に感謝できるように導いてください。アーメン

エゼキエル29

「その日、わたしはイスラエルの家のために、一つの角を生えさせる。そして、彼らの間であなたに口を開かせる。そのとき彼らは、わたしが主であることを知る。」エゼキエル29:21 エジプトへのさばきが宣言されます。40年間国が荒れ果てるというのは、出エジプトの時にイスラエルの民が荒野をさまよったのと同じ期間です。一世代が過ぎ、次の世代になるまで、という期間です。 それはさておき、21節ではイスラエルのために「一つの角」が生えるとあります。 詩篇132:17 「そこにわたしはダビデのために一つの角を生えさせる。わたしに油注がれた者のためにともしびを整える」 を想起させます。 他国への預言の中に、宝石のようにメシアの約束が散りばめられているのを覚えます。神のご計画とそこにある希望は、私たちにとってもまさに宝石のようです。 祈り:神様、あなたは良い方です。困難や問題として感じることの中に、あなたの良いご計画への備えがあることを信じます。悲しみの中にある___さん、___さんに主の光が感じられますように。私たちも、礼拝を通して主のもとに憩い、癒され、回復し、主とともに歩んでいきます。アーメン

エゼキエル28

「あなたの心は高ぶり、『私は神だ。 海の真ん中で神の座に着いている』と言った。 あなたは自分の心を神のように見なしたが、 あなたは人であって、神ではない。」えエゼキエル28:2 「人であって、神ではない」 頭ではわかっていても、いざという時に自分が神より先に動いてしまうことがあります。ツロの君主のような言葉は出さないかもしれません。わざとではないかもしれません。でも、不安が押し寄せて来たとき、パニックになったとき、心のままを言い、とっさに行動してしまう弱さがあります。 この弱さこそ、神にすがるしかないあわれな者であることを自覚します。 そして、弱さを神は決してないがしろにされません。むしろ、弱さのうちに働いてくださいます。何という幸いでしょうか。 今週の木曜集会で、また今週の牧師会で、同じみことばが語られました。味わいましょう。 第二コリント12:9 「しかし主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである』と言われました。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」 祈り:神様、どうしようもない弱い私を助けてください。あなたの恵みとあわれみに生かされています。___のことも、___のことも、あなたの御手で持ち運んでください。私の意識を、思いをあなたに向けます。聖霊様がおおってくださり、今日も歩みを導いてください。アーメン

エゼキエル27

「タルシシュ船がおまえの商品を運んだ。 おまえは大海のただ中で満ちあふれて、大いに栄えた。」エゼキエル27:25 ツロの滅亡と対象的に、栄えていた様子が描写されます。 当時、地理的に移動可能な南端はシェバ(アフリカ)、西端はタルシシュ(現在のスペイン)だったようです。地中海を経てスペインまで、貿易がさかんに行われていました。 預言者ヨナも、ニネヴェに行くのがいやでタルシシュ行きの船に乗りました(ヨナ1:3)。可能な限り遠い所まで主の目を逃れようとしたのでしょうか。 「大海のただ中で満ちあふれて」も、「大いに栄え」ても、主の御手はそれよりも強く偉大です。世界の果てまで行っても、そこに主はおられます。 その主は私たちに「あなたはどこにいるのか」と呼び掛けてくださる方です。失敗しても向きを変えて主を求める者には、再度機会を備えてくださる方です。方向を見失い、自暴自棄になる必要はないのだとわかります。 祈り:神様、世界のどこに行ってもあなたがおられることを感謝します。私の小さな頭や常識だけにとらわれることがないように助けてください。あなたがいつも私の前を進んでください。アーメン

エゼキエル26

「ツロは海の中の網干し場となる。 わたしが語ったからだ。 ──神である主のことば── ツロは諸国の餌食となり、それに属する沿岸側の町々も剣で滅ぼされる。 そのとき彼らは、わたしが主であることを知る。」エゼキエル26:5~6  ツロ(Tyle)はシドンと共に、地中海沿岸で栄えた国でした。しかし、北にバビロニア王国が興り、やがて滅ぼされます。 かつて主の民に向かって「あはは...私は豊かになり、エルサレムは廃墟となった」(2節)と嘲った国が、今度は海の中の網干し場のように、だだっ広い荒れた地となることが宣言されました。 世界各地で災害や戦乱が起こっています。自分と関係ない他人事だと流すのではなく、祈りに覚え、できることをしましょう。また、私たちが日々どれほど恵まれた平和な暮らしをしているのかを思い巡らし、感謝をささげましょう。 祈り:神様、今日も平和の中、衣食住が与えられていることに感謝します。災害や戦乱の___、___にいる人たちのために祈ります。思いを馳せ、祈りとささげ物を通して助け合い、主の愛がこの地に満ちていきますように。アーメン

エゼキエル25

「あなたはアンモン人に言え。『神である主のことばを聞け。神である主はこう言われる。わたしの聖所が冒されたとき、イスラエルの地が荒れ果てたとき、ユダの家が捕囚となって行ったとき、おまえは、あはは、と言って嘲った。」エゼキエル25:3 この章からは、周辺の国々へのさばきの宣言がされます。 聖書に「あはは」という言葉が出てくるのは、意外な感じがしませんか?私たちが「あはは」と笑うのは、突然に愉快なことを聞いて、深く考えず反応するときです。 一方で、ときには相手を見下すときに「あはは、ざまあみろ」とも使われたりします。聖書で「あはは」と使われているのは、敵が主や主の民をあざけり、見下し、揶揄するときです。 主なる神とそのみ思いを悟らず、主に愛される人々を見下げた諸国は、主のさばきを受けることになりました。 私たちも自分の態度を省みてみましょう。教会には、さまざまな人がいます。自分と違う個性や考えを持つ人を、「あの人は...」と見る思いがないでしょうか。神に愛されている兄弟姉妹に「あはは」と言うことがありませんように。 祈り:神様、あなたが愛されている兄弟姉妹の存在を感謝します。時にはぶつかり、時には意見が合わないことがあります。それでも、主が愛される者として互いに尊重し、祈り合い、赦し、建てあげる私たち、神の共同体となれますように。アーメン

エゼキエル24

「その朝、私は民に語ったが、夕方、私の妻が死んだ。翌朝、私は命じられたとおりにした。」エゼキエル24:18 エゼキエルは大切な妻を失いました。それは、やがてエルサレムを失う民へ、強烈なメッセージを伝えるためでした。 特別に召された預言者として、家族を葬ることを通してまで、神のメッセージを伝えました。気の毒なエゼキエル!と叫びたくなります。 しかし、今日も自分の大切な家族を母国に残し、あるいは危険な地域に伴って働く宣教師たちがいます。神の愛のメッセージを伝えるためにそうしています。 また、主に喜ばれる歩みをするために、自分の大切にしていたことを後回しにしたりささげたりして、主を見上げる人たちもいます。 今「あなたの心はどこにあるのか」と問われて「はい、主のもとにあります」と答えることができるでしょうか。 祈り:神様、信仰はファッションでも教養でもなく、私たちの生き方そのものであることを覚えます。命がけで福音を伝える人たちをお守りください。私も主を見上げて歩みたいです。身体はここにあっても、霊において同じ情熱を与えてください。アーメン

エゼキエル23

「あなたがたの淫らな行いの報いはあなたがたの上に下り、あなたがたは自分たちの偶像に対する罪責を負わなければならない。このとき、あなたがたは、わたしが神、主であることを知る。」」エゼキエル23:49 「淫らな行い」とは、まことの神様よりもエジプトの強そうな軍勢に頼った、イスラエルの間違った行動を指しています。 二人の女性、オホラとオホリバは北王国と南王国のことです。 主以外のものに頼るのは偶像礼拝であり、主にとっては浮気をされたようだということがわかります。 主が私たちを愛してくださっているのに、それ以外のものに頼ろうとしていないでしょうか。祈るより先に、誰かに相談したりスマホで検索したりしていないでしょうか。何よりもまず小さな画面の情報に頼るなら、スマホが偶像になることもありえます。私たちの小さな日常の行動パターンを見直してみましょう。 祈り:神様、あなた以上に頼りにするものがありませんように。 今あなたの導きと励ましを必要としている___さん、____さんに、そして私にも親しく語りかけ、み思いを教えてください。主を待ち望みます。アーメン

エゼキエル22

「この地を滅ぼすことがないように、わたしは、この地のために、わたしの前で石垣を築き、破れ口に立つ者を彼らの間に探し求めたが、見つからなかった。」エゼキエル22:30 最近、牧師館の玄関前の階段脇に、ひびが入っているのを見つけました。そのままにしておくと、雨のたびに隙間から水がはいり、崩れてしまうのではないかと気にかかっています。パテかセメントで埋めればよさそうですが、でこぼこしないよう、周囲とうまくなじませるには技術がいりそうです。 30節の「破れ口」とはそのような隙間やほころびている所です。放っておくと問題となります。隙間を埋めることが必要です。 そのように破れ口に立つ者を、主は求めておられました。神と民との間のとりなし手でした。しかし見つからなかったのでした。 信仰者は、破れ口に立つ者として召されています。地上の不条理や悲しみを、とりなしの祈りによって神に訴えます。 イエス・キリストはいのちをかけ、私たちを救うため神の前にとりなしてくださいました。完全な見本を見上げつつ、置かれた場所でとりなしの祈りをささげる者となれますように。 祈り:神様、この世には貧困や暴力、差別や犯罪などが数えきれないほどあります。私は特に____のこと、____のことについてとりなしの祈りをささげていきたいです。この願いをどうぞ聞いてください。また、今日私が主のために召されている行動を教えてください。アーメン

エゼキエル21

「人の子よ。エルサレムに顔を向け、聖所に向かって語りかけよ。イスラエルの地に向かって預言せよ。」エゼキエル21:2 エゼキエルに「預言せよ」と主が命じられる表現はよく出てきますが、「語りかけよ」というのは珍しいです。元々は「水のように滴らせる、流す」というニュアンスがあるそうです。 旧約聖書に18回出てくるそうで、「水、雨、はちみつ、香料、甘いぶどう酒」などを滴らせたり流したりすることに使われています。そして、「みことば」を流すことにも用いられています。 はちみつやぶどう酒、香料といった甘く貴重なものと「みことば」に同じ表現が用いられるのです。私たちにとって「みことば」は甘いでしょうか。もう一口、もう一口、と慕い求める者になれますように。 「それらは 金よりも 多くの純金よりも慕わしく 蜜よりも 蜜蜂の巣の滴りよりも甘い。(詩篇19:10)」 「あなたのみことばは 私の上あごになんと甘いことでしょう。 蜜よりも私の口に甘いのです。(詩篇119:103)」 祈り:神様、あなたのことばを慕い求める者になりたいです。聖書にはわかりにくいところが多くあります。でも、霊の目を開いてくださいと祈りながら聖霊様の助けで読むことができるように、主との楽しい交わりの時になるように導いてください。アーメン

エゼキエル20

「わたしが、あなたがたの悪しき生き方や、腐敗した行いによってでなく、ただわたしの名のためにあなたがたに報いるとき、イスラエルの家よ、あなたがたはわたしが主であることを知る──神である主のことば。』」エゼキエル20:44 イスラエルとパレスチナの紛争が続いています。 旧約聖書の時代に選ばれたイスラエルが今のイスラエルという国家と同じとはいえません。しかし同じ地方を巡って長年の紛争が続いているのは確かです。 旧約聖書には「あなたがたの父祖たちに与えると誓った地、イスラエルの地にあなたがたを導き入れる(42節)」とあります。ここだけ読めば、当然のようにイスラエルの土地を手にすることができそうです。 ただし、「あなたがたはそこで、自分の身を汚したすべての行いを思い起こし、自分たちの行ったすべての悪のゆえに、自分自身を嫌うようになる(43節)」が続いています。 土地を得て終わりではありません。罪人であることの自覚と心からの悔い改めに至ることが述べられています。土地を与えるのも「ただわたし(主)の名のために(44 節)」であることも宣言されています。 悔い改めとキリストの愛をもって謙遜にならない限り、根本的な解決は不可能に思えます。「戦争があるから愛の神ではない」というのは正しくありません。「人間の罪のゆえに戦争が起こる」のです。 祈り:神様、あなたは愛なる方です。しかし、人の罪が争いや憎しみを引き起こしています。私の心の中の憎しみ、怒り、腹立たしい気持ちも、自分ではどうしようもなく起こってきます。赦してください。あなたのあわれみと介入が、紛争地域にありますように。私たちの身近にある不和が、一日も早く解決しますように。アーメン

エゼキエル19

「『...火がその枝から出て、 その若枝と実を焼き尽くした。 もう、それには 王の杖となる強い枝がなくなった。』 これは悲しみの歌、哀歌となった。」エゼキエル19:14 今日の箇所は、「獅子」と表現される王権が没落し、国が滅んでしまった様子が嘆きの歌になっています。 私たちは繁栄や喜びを「良いこと」、衰退や嘆きを「良くないこと」と思いがちです。そして、なるべく「良くないこと」は隠しておき、表面に出さないようにしようとします。 しかし、聖書を読むと、嘆きや悲しみがそのまま表されている箇所が多くあります。詩篇もそうですし、今日の箇所もそうです。悲しんでもよいのだと学びます。 悲しみは、私たちを休止と静まりに導きます。神の前で思いめぐらし、明るいことばかりでは見えなかったものに気づかされます。地位や権力のある人には見えないものが見えます。十分悲しんだ人は、神により近く生きる者となれます。 祈り:神様、秋の季節と共に、今年あったことを思いめぐらしています。失ったもの、できなかったことが多くあります。寂しい気持ちにもなります。でも、あなたは私の悲しみをわかってくださる方です。また、どんな人の喪失の嘆きや悲しみをも理解してくださる方です。神であることの栄光を投げ捨て人となって来られ、いのちまで十字架で失ってくださったキリストの犠牲と愛を感謝します。アーメン

エゼキエル18

「わたしは、だれが死ぬのも喜ばない──神である主のことば──。だから立ち返って、生きよ。」エゼキエル18: 私たちは勧善懲悪のストーリーが大好きです。悪者がやっつけられて滅び、正義が勝つ...そんなハッピーエンドには胸がすっとします。 神様は義なる方で、最終的にご自身の正義を現されます。 しかし、私たちの短絡的な思いとは少し異なる見方をされます。悪者でさえも「立ち返って」つまり「悔い改めて」ほしいと思ってくださるというのです。 どんなに神を無視し、滅茶苦茶な生き方をしている者であっても、向きを変えて主の元に来るならば、赦しを与えるというのです。 救いに招かれていない人はいないと神様がおっしゃるなら、私たちがあきらめるのは早すぎますね。あの人も、この人も、キリストを礼拝し、キリストの弟子となっていく人物かもしれません。神様の愛のまなざしが注がれていることを感謝します。 祈り:神様、あなたの愛と招きの恵みを改めて覚えます。今、反抗期の子どもがいる人、家族や周囲から傷つけられた人、上司や同僚からひどい扱いを受けている人を覚えて励ましてください。そして、傷つける側の人たちが主の前にひれ伏し、悔い改め、主をあがめる日が来ますように。

エゼキエル17

「わたしがそれをイスラエルの高い山に植えると、それは枝を伸ばし、実を結び、見事な杉の木となる。その下にはあらゆる種類の鳥が宿り、その枝の陰に住む。」エゼキエル17:23 秋晴れが続き、外を歩きたくなる季節です。日曜日の午後は教会設立式で奈良県まで出向きました。県境は山あいで、大きな木が生えていました。道から見えないところに、きっと多くの鳥や動物たちが住んでいるのだろうと思います。 生態系を与え、木を成長させ、鳥や動物を養っておられるのは神様です。人間がコントロールできるのは、自然のごくごく一部に過ぎません。多くは、強く大きな主の御手によって保たれています。 24節には「このとき、野のすべての木は、主であるわたしが高い木を低くし、低い木を高くし、生木を枯らし、枯れ木に芽を出させることを知る。主であるわたしが語り、わたしが行う」とあります。自然にふれて深呼吸する時、それを造られた主がおられることを味わい感謝したいですね。 祈り:神様、あなたの造られた自然を見て、あなたの偉大さに思いを馳せます。 「輝く日をあおぐとき 月星眺むるとき 雷鳴り渡るとき まことのみ神を思う(聖歌480番)」と賛美します。今月もお守りくださり、ありがとうございました。アーメン

エゼキエル16

「だが、わたしは、あなたが若かった日々にあなたと結んだ契約を覚えて、あなたと永遠の契約を立てる。」エゼキエル16:60 旧約のイスラエルの姿が、一人の女性にたとえて語られています。 見捨てられた生まれを救われ、助けられて妻とされたのに、彼女は感謝するどころか浮気をし、裏切りと勝手な行動に走ります。 それでも見捨てず、結婚の契約を覚えて、さらに永続する契約を結ぶというのです。 神様はこの夫のような方です。裏切りと罪を重ねたイスラエルをこのように扱われる方は、私たちをも限りなく赦し、ご自身の元にくる者を救ってくださいます。 既婚の方は、文字通り結婚の契約の重みを再確認しましょう。 また、自分の判断に頼り、神を第一にする信仰生活よりも収入や安定といった条件に目が向くことはないでしょうか。 もし心当たりがあれば、歯車の狂いはそこにあるかもしれません。 今一度神の前に静まり、すべてを備えてくださる神様のみこころを求めましょう。 祈り:神様、私があなた以上に大切にするものがあれば、その罪に気づかせてください。仕事も、家庭も、人間関係も、主にあって楽しみ、満足を得ることができますように。 「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。(マタイ6:33)」 アーメン

エゼキエル15

「人の子よ。ぶどうの木は森の木立の中にあって、ほかの木より枝がどれだけすぐれているのか。」エゼキエル15:2 イスラエルの人々がぶどうの木にたとえられています。が、ここでのぶどうの木はイエス様のたとえ話の「主はぶどうの木、あなたがたは枝でよい実を結ぶ」とは異なります。 同じ木ですが、よい実ではなく悪い実を成らせ続けたぶどうの木です。神様を仰ぎ見ず、反逆を続けた人々の罪を指しています。 だから、焼かれて何の役にも立たないと叱責されているのです。 イザヤ、エレミヤといった預言者たちが罪を指摘しましたが、人々は耳を貸さず、不信仰を重ねてきました。 私たちの結ぶ実は、よいぶどうの実でしょうか。不信仰や疑い、恐れの実がなりかけているなら、若いうちに摘み取りましょう。余計な枝が張りすぎて実に栄養がいかないなら、剪定しましょう。 祈り:神様、悪い実をならせることがないよう、私の心も口もお守りください。また、あれこれと枝が張りすぎ、心が分かれて集中できないなら、すっきり剪定することができますように。今日からの残りの人生を、あなたが私にしてほしいと望まれることに集中できますように。アーメン

エゼキエル14

「あなたがたは、彼らの生き方と行いとを見て慰められる。このとき、あなたがたは、わたしがそこでしたすべてのことは、理由もなくしたのではないことを知る──神である主のことば。」エゼキエル14:23 すべてが失われたように思えても、逃れの者がいました。そして、その生き方と行いは慰めとなると言うのです。なんという希望でしょうか。 「空の巣症候群」という言葉があります。主には子育てが終わって子どもが自立した後に感じる空虚感を指します。しかし、それだけでなく、介護、仕事、PTA、ボランティア、学びなど、自分自身が打ち込んで来たものがなくなる時に、あれっと思うような寂しさ、むなしさを感じる私たちです。 心の空っぽを埋めてくださるのは、主ご自身と主が与えてくださる恵みです。それはみことばはもちろん、信仰の友やなにげない日常の事柄を通してかもしれません。自分が無価値で無用だと思わせるのは、サタンの罠です。主が与えてくださる新しい希望と召しを胸弾ませて受け取りたいですね。 祈り:神様、退職や家族状況の変化、加齢などで、自分の役割が終わったかのような錯覚に陥ります。でも、あなたはたとえ私が寝たきりになっても地上の使命を与え続けてくださる方です。 寂しさの中を通っている___さん、___さんに深い喜びを与えてください。主が語りかける新しい使命に胸踊らせることができますよう、上からの励ましが格別にありますように。アーメン

エゼキエル13

「実に彼らは、平安がないのに「平安」と言って、わたしの民を惑わし、壁を築くとすぐ、それに漆喰で上塗りをしてしまう。」エゼキエル13:10 教会1階のお風呂場は、経年劣化で壁がずいぶん剥がれてきています。自分達で何とかできないかと話し合った時、一瞬「漆喰を塗ってはどうか」と思いました。しかし漆喰は耐水性がないので向かない、とのことでした。 偽預言者たちは、さばきが迫っているのを覆い隠そうとしました。それはまるで、深刻な状況に漆喰を上塗りするような言動でした。豪雨が降るとはがれてしまう、つまり真実は隠しきれないにもかかわらず、でした。 イスラエルの状況だけでなく、私たちの心も同様かもしれません。主に喜ばれない動機や罪深い反応を、見せかけの親切や行動で覆い隠していないでしょうか。 神の前に思いのすべてを差し出し、取り扱っていただいたなら、それはよく整えられた下地であり、どんな塗料を塗るにも美しく丈夫に仕上がる状態です。 祈り:神様、はりぼての偽善ではなく、私の心の奥底を探り、私を悔い改めとあなたへの明け渡しへと導いてください。日々カビや水垢のようにつく罪をきよめ、揺るぎない心と平安を私の内に造ってください。アーメン

エゼキエル12

「そこで、私は命じられたとおりにした。自分の荷物を捕囚のときの荷物のようにして昼のうちに持ち出し、夕方、自分の手で壁に穴を開け、彼らの見ている前で、暗いうちに荷物を背負って出て行った。」エゼキエル12:7 エゼキエルが穴を開けたのは、自宅の壁だったと思われます。泥のれんが作りとはいえ、大切な家の壁は誰が修理してくれるのでしょうか。神様が修繕費を送ってくれるのでしょうか。 そういえば、イエス様のところに病人を連れてきた4人の友達も、屋根に穴をあけて病人を吊り下ろしました。その後の修理はどうしたのでしょうか。 聖書はすべての顛末を語っていません。それは、もっと大切なことに集中しているからです。癒し、救い、そして永遠のいのち、すべての所有者は神であるという信仰、それらに焦点が当てられています。 私たちの思考はあてもなくさまよい、些細なところで立ち止まり、本筋でないところにこだわり、葛藤します。その一方で、大切なことが盲点になっているのかもしれません。神様が信仰の友や先輩を通して、その盲点を指摘してくださいますように。 祈り:神様、近視眼になっている私の視点を、あなたのみ手で引き上げてください。空から見下ろす時のように、本当に大切なものに意識を向けることができるよう、助けてください。些細なことは気にしすぎないよう、私の心を守ってください。アーメン

エゼキエル11

「わたしは彼らに一つの心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を与える。わたしは彼らのからだから石の心を取り除き、彼らに肉の心を与える。」エゼキエル11:19 エルサレムでは、新しい指導者が「エルサレムは鍋だ。私たちは鍋の中の肉だ」、つまり、エルサレムは安全な場所でそこにいれば大丈夫だ、と言っていました。 しかし主はよこしまな彼らの思いを打ち砕かれます。合わせて、やがて捕囚の民が戻ってくることを述べられます。 回復される民は、いのちのない頑固な「石の心」ではなく、いのちのある「肉の心」を持つ、というのでした。つまり、主ご自身と生きた関係を持てる、砕かれた心を持つ民となり、主が彼らの神となると言われました。 私たちも年齢や経験、こだわりのせいか、ともすれば主よりも自分の考えに固執することがあります。黙して、主の細いみ声を聞くことができますように。柔らかな肉の心をもって、軌道修正できるでしょうか。 祈り:神様、私に石の心ではなく肉の心を与えてください。主の前にへりくだって出ます。___のこと、____のことについて、私に語ってください。「しもべは聞いております(第一サムエル3:10)」と言えますように。アーメン

エゼキエル10

「彼らは、かつて私がケバル川のほとりで、イスラエルの神の下に見た生きものであった。私は彼らがケルビムであることを知った。」エゼキエル10:20 1章で、エゼキエルに捕囚の地で現れたのと同じケルビムが、再びエルサレムの神殿でも見えました。そして、神の栄光がそこにありました。白昼夢ではなく、確かに同じ主がそこにおられることの確証でした。 10月も下旬になり、来年に向けての導きを祈っている人もいることと思います。私自身も、毎年個人的な指針となるみことば、そして公私の諸分野(霊的成長、宣教、家族、社会、知的成長...)においての神様からの方向性を求めて祈ります。 さまざまなことが思い浮かび、考えは飛躍します。しかし、どこまでも同じ主がおられます。「これに歩め」という道に歩むには、自分の願いを正直に主の前に出し、動機を点検し、主にある平安を頂くことなのだと思います。 祈り:神様、あなたの変わらない臨在に感謝します。私を「これに歩め」というあなたの道に導いてください。導きを求めている___さん、___さんにも主の道がはっきりと示されますように。アーメン

エゼキエル9

「主は彼にこう言われた。『都の中、エルサレムの中を行き巡り、ここで行われているすべての忌み嫌うべきことを嘆き悲しんでいる人々の額に、しるしをつけよ。』」エゼキエル9:4 エルサレムには、神に喜ばれない行為、罪深い行動をしている人がいました。 一方で、そうした行為を嘆き悲しんでいる人、神の正さに目をとめ続ける人もいました。エルサレムへのさばきがくだる時、神様はその人たちを守られました。 額にしるしをつけ、その人たちに害が及ばないようにされました。 聖書の神は、義である方です。罪をそのままにはされません。しかし同時に、あわれみ深い方です。主を呼び求める者には、豊かなあわれみと愛を持っていてくださいます。悪に満ちた町、ソドムとゴモラを滅ぼす時にも、アブラハムの祈りを聞き、甥のロト家族を救われました。 私たちの周りにも、多くの悪や嘆きがあります。しかし、主を呼び求める者がいるなら、しるしがついているかのように、その存在が主にははっきり見えています。 祈り:神様、あなたのあわれみに感謝します。どんな悪の時代にあっても、あなたを呼び求める者に目を留めてくださることは慰めです。____についても祈り続けることができるよう、導いてください。うアーメン

エゼキエル8

「すると、その方は手の形をしたものを伸ばし、私の髪の房をつかまれた。すると、霊が私を地と天の間に持ち上げ、神々しい幻のうちに私をエルサレムへと携え行き、ねたみを引き起こす『ねたみ』という像がある、北に面した内門の入り口に連れて行った。」エゼキエル8:3 エゼキエルが聖霊によって、捕囚の地からエルサレムまで行ったことが書かれています。 おとぎ話のように思えるでしょうか。でも、パウロも第三の天にまで引き上げられた経験を語っています(第二コリント12:2)。霊によって、彼らは引き上げられました。神に不可能なことはありません。 ねたみを引き起こす「ねたみ」の像とは、マナセが持ち込んだアシェラ像だと思われます。神以外のものを拝むことは、神のねたみを引き起こす行為です。 神が「ねたむ」とは?それは、神が私たちを「ねたむほど愛しておられる」という表現です。罪深い「嫉妬」ではなく、ご自身の方を向いてほしいという愛ゆえの願いです。 祈り:神様、あなたの愛が「ねたむ」ほどに深いことを覚えます。同時に、私の心にある「ねたみ」の罪の心を、あなたの前に告白し、悔い改めます。あなたの他には何も求めないという心、あなたがおられれば満足という心を与えてください。アーメン

エゼキエル7

「王は喪に服し、君主は恐怖に包まれ、 民衆の手はわななく。 わたしが、彼らの行いにしたがって彼らに報い、 彼らのやり方にしたがって彼らをさばくとき、 彼らは、わたしが主であることを知る。」エゼキエル7:27 この章を読むと、神のさばきが無意味にではなく、人の生き方や態度にしたがってくだされるとわかります。神を神ともしない自己中心、自分勝手に弱者を虐げ、偶像礼拝に陥る生活が、さばきの根拠だというのです。 これだけの悪行なら、誰もが納得するでしょう。 しかし、もし私たちが無自覚に行っていることが、偶像礼拝や弱者への虐げとなっていたらどうでしょう。私たちの生活スタイルが、遠く離れた貧しい国の人々を圧迫していることもありえます。 信仰者として、日々の小さな歩みや判断にも、神の知恵を求めていきたいものです。そして、日々の一歩が将来の自分の生き方につながることも事実です。 祈り:神様、今日の歩みを導いてください。判断するとき、決めるとき、答えるとき、小さなことにもあなたの知恵と導きをいただけるよう、なるべく多くの瞬間を祈り心で過ごせるよう、どうか助けてください。国内外の虐げられている人々に、あなたのあわれみと希望が届き、必要の満たしがありますように。アーメン

エゼキエル6

「あなたがたは、わたしが 主 であることを知る。」エゼキエル6:7, 13, 14 エゼキエル書のキーワードは、「(そのとき)あなたがたは、わたしが 主 であることを知る」です。 さばきや厳しいことばの理由は、人々がこのお方こそ主なる神であると知るためです。 滅ぼすためではなく生かすため、絶望ではなく希望のため、主がエゼキエルを通して警告を与えられ、矯正をなさったのでした。 「BIBLE & LIFE(百万人の福音)」最新号の特集は「現代の偶像礼拝~あなたが神より上としているものはありませんか~」です。 よい習慣でも考えでも、「どんなものでも偶像になりうる」ということ、それは「霊的な依存症」なのだということを改めて教えられます。 毎日楽しみつつのんびり聖書を読み、書いているこのことさえ、もし義務となり律法となるならば、神様に喜ばれないものだと学びます。主を楽しみ、主をあがめ、主に頼りつつ、時には遅れつつ、聖書通読(または神様との楽しいデート)を続けたいと思います。 祈り:神様、何ものもあなたより優先することがありませんように。あなたを知ること、唯一の主であることを日々改めて確認できるように導いてください。楽しみ、待ちわびつつ、あなたのことばを読み味わえますように。アーメン

エゼキエル5

「人の子よ、あなたは鋭い剣を取れ。それを床屋のかみそりのように使って、あなたの髪とひげを剃れ。それから秤を使って量り、その毛を分けよ。」エゼキエル5:1 今度はエゼキエルは髪とひげを剃ります。 三分の一は、包囲の期間の終わるときに町の中で焼き、別の三分の一は町の周りで剣で打ち、残りの三分の一は風に散らせるというものでした。 それは、イスラエルの民の背信により、人々がこのように散らされるという実物教材でした。 頭の毛を剃ったエゼキエルの姿、なんとも気の毒に感じます。悲しみを表す姿として当時の人々の目に留まったでしょうか。彼の示した行動も目に入ったでしょうか。 「これはどういう意味ですか」と問い、人々が悔い改めていたらと思います。 今も、神様は私たちが気づくようにと、いろいろな事柄を通して語っておられます。一方で、環境を守ろうといいながら、それを上回る破壊や戦争が日々行われています。人間の愚かさと、警告を発しながら忍耐しておられる神様の前に、私たちはとりなしの祈りをささげるように召されています。 祈り:神様、あなたの義と忍耐を感謝します。私たちは罪深く愚かな性質を持っています。赦してください。無茶な開発や自己中心的な行動を悔い改め、あなたの前にへりくだることができますように。どんな時にも主の元に身を寄せることができるよう、助け導いてください。アーメン

エゼキエル4

「あなたは左脇を下にして身を横たえ、イスラエルの家の咎をその上に置け。あなたがそのように横たわっている日数だけ彼らの咎を負え。」エゼキエル4:4 エゼキエル書には、数々の実物教材やたとえが出てきます。エゼキエルの行動を通して、現状や預言が興味深い形で示されました。 4章で、エゼキエルは主のことばに従い粘土板にエルサレムを書き、鉄の板で壁を作りました。 また、イスラエル(北)王国の罪を1年=1日として390日、ユダ(南)王国は同様に40日、横向きに寝て、縄をかけられ、寝返りを打てないようにされました。。 食物や水を量り、やがて飲食物が乏しくなることを示しました。 寝返りできないまま1年以上も身を横たえるとは、預言者といえ大変なことだったでしょう!目に見えるたとえを通して、神様はその大変さと苦難を民に教えようとされたのでした。 神に用いられる人は、光栄であると同時に、さまざまな試練も通ります。昨日はKBI元学院長の高橋昭市師の葬儀でした。試練や重責の奉仕を全うし生涯を走り抜かれました。神に召され、内外の宣教の働きに携わる人たちを祈りに覚えましょう。 祈り:神様、預言者が非常な苦労をして神のことばを伝えたように、今日も労苦しながら主に仕える人たちがいます。苦しい生活でも主に従い続ける働き人、ビジネスを通じて宣教する人たち、家庭にあって無言のふるまいによってあかしをする人々を今日も励ましてください。アーメン

エゼキエル3

「さあ、捕囚になっているあなたの民のところへ行き、彼らに告げよ。彼らが聞いても、聞かなくても、『神である主はこう言われる』と彼らに言え。」エゼキエル3:11 エゼキエルは外国人に遣わされたのではなく、同胞に向けて預言を語るように遣わされました。 「あなたは、難しい外国語を話す民にではなく、イスラエルの家に遣わされるのだ。」(5節) 同じ言葉を話し、同じ文化を持つ人々に遣わされたとしても、その働きは困難でした。なぜでしょうか。それは、人々が主の言うことを聞こうとしなかったからでした。「イスラエルの全家は額が硬く、心が頑な(7節)」でした。 私たちも、親しい人、近い人へのあかしがより難しく感じられることがあります。配慮とタイミングは大切ですが、主のことばを曲げることがないように、と教えられます。そして、今の日本に限らず、偉大な預言者たちも同じ苦労をしていたことに、少しほっとし、励まされます。 祈り:神様、あなたのことば、聖書に書かれていることを、都合よくねじ曲げることがないように守ってください。主に喜ばれることとそうでないこととを見分け、聖書に従う筋の通った生き方があかしとなるよう、助けてください。アーメン

エゼキエル2

「その方が私に語りかけると、霊が私のうちに入り、私を自分の足で立たせた。そのとき、私は自分に語りかけることばを聞いた。」エゼキエル2:2 主は「人の子よ」とエゼキエルに語りかけられました(1節)。そして、そのとき聖霊がエゼキエルのうちに臨み、彼を立たせ神のことばを聞くようにされました。 私たちも聖書を読む時には、聖霊の助けが必要です。ただ知性だけで読んでも理解できないところがあります。「聖霊が私の心を開き、みことばがわかるように助けてください」と祈り心で読む時に、イエス・キリストがどんなお方かがわかるようになります。 エゼキエルはもちろん人間でしたが、人として来られたイエス様と同じ「人の子よ」という呼びかけが19回されています。また、イエス様も聖霊に満たされておられました。預言者を通しても、神様は来るべきイエス・キリストの影を示そうとしてくださいました。 祈り:神様、あなたが私にも語りかけてくださることに感謝します。聖霊が私の心を開き、聖書がもっとわかるように助けてください。文字の羅列ではなく、あなたからの愛のメッセージであることを感謝します。アーメン

エゼキエル1

「その方の周りにある輝きは、雨の日の雲の間にある虹のようであり、まさに主の栄光の姿のようであった。私はこれを見て、ひれ伏した。そのとき、私は語る者の声を聞いた。」エゼキエル1:28 今日からエゼキエル書に入ります。預言書は時に難解に感じられます。歴史を記した書とは異なり、主が語られたことばや幻が羅列されていて、わかりにくいかもしれません。 けれども、時代背景や預言者が置かれた状況をふまえて、預言者が神様からのメッセージを受けとっていることを思うと、今日の私たちの信仰が励まされ、強められます。 エゼキエルは捕囚になっていました。その異郷の地にあっても、主が幻を見せてくださいました。 「青銅のように」「たいまつのように」「輝く緑柱石のようで」など、「~のようで」という表現が多く出てきます。見慣れないものの中で、「主の栄光の姿」のようなものを彼は認識し、ひれ伏します。異郷の地でも主がおられること、語ってくださることを彼は体験します。 今、慣れない場所にいるでしょうか。新しい環境にとまどい、不安をかかえているでしょうか。そこにも神様はおられ、語りかけておられます。時には、以前よりもさらに素晴らしい方法で、語りかけてくださるかもしれません。 祈り:神様、あなたが全世界の主であり、私がどこにいても、何をしていても、語ることのできる方だと認めます。私の心の目を開いてください。霊の耳をあなたに向け、聞くことができますように。エゼキエル書の中から、私自身に語りかけてください。アーメン

哀歌5

「主よ、あなたのみもとに帰らせてください。 そうすれば、私たちは帰ります。 昔のように、私たちの日々を新しくしてください。」哀歌5:21 哀歌の祈りは、イスラエルが主に立ち返ることができるように、という願いで終わります。「私たちの日々を新しくしてください」、と回復を祈っています。 ある注解は、哀歌に表れている罪から回復までの道のりを 罪 → 災い(1:8)  → 悲しみ  → 悔い改め(1:20) → 祈り → 希望(3:19~24) → 信仰  → 回復(5:21) と説明しています(The Spirit Filled Study Bible)。 悲しみ悔い改める者に神からの希望と信仰が与えられるという原則は、今日も同じです。罪や失敗をして終わりではなく、顔を背けるのではなく、直面して悲しみ、主の元で悔い改める者を主は捨て置かれません。そしてそれが、回復の一番の近道です。 祈り:神様、私の____について、また私の親や祖父母の時代の____の罪について、悲しみ悔い改めます。どうか赦してください。悔い改める者をあなたが見捨てておかれない方であること、希望と回復を与える方であることを信じます。 今、人生に絶望している方に、主への悔い改めと希望、信仰と回復がもたらされますように。自分で命を絶つことがありませんように。アーメン

哀歌4

「地の王たちは信じていなかった。 世界に住むすべての者も。 仇や敵がエルサレムの門に 入って来るとは。」哀歌4:12 イスラエルの王国が滅びるとは、想像しがたいことでした。 人々は、実際にバビロンによって滅ぼされてはじめて、エレミヤはじめ預言者たちの警告が本当であったと気づいたことでしょう。 人間の予想や見通しはあてになりません。想定外のことが起こります。 私たちは想定外のことがないようにと祈るのではなく、想定外のことが起こった時に主に頼ることができるように、そして必要な知恵と力が与えられるようにと祈ることだと思います。 見通しの立たない将来が不安でしょうか。たとえ見通しが立たなくても、そこにも変わりない主がおられることだけは確かです。 祈り:神様、世界情勢や将来のことを考えると不安になります。どうなるのかと思いますが、いかなる事態になってもその真ん中に主がおられることは何という幸いでしょうか。感謝します。今日の中東やウクライナの情勢に、一日も早い解決がありますように。私たちも目を覚まして祈り続けることができますように。アーメン

哀歌3

「私はこれを心に思い返す。 それゆえ、私は言う。『私は待ち望む。主の恵みを。』実に、私たちは滅び失せなかった。 主のあわれみが尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。 『あなたの真実は偉大です。主こそ、私への割り当てです』と 私のたましいは言う。 それゆえ、私は主を待ち望む。」哀歌3:21~24 逆境の中では、つい否定的になってしまいます。しかし、人間の脳は、たとえ自分の声でも耳に入ることばを受けとり、反応するそうです。信仰の告白を自分の耳に聞かせるならば、神への信頼を確認するということです。 3章には、さまざまな信仰のことばが出てきます。今日はこれらを音読し、耳で聞き、神への信仰を共に確認しましょう! 「主はいつくしみ深い。 主に望みを置く者、主を求めるたましいに。主の救いを 静まって待ち望むのは良い。」(25~26節) 「主は、 いつまでも見放してはおられない。主は、たとえ悲しみを与えたとしても、 その豊かな恵みによって、人をあわれまれる。」(31~32節) 「主が人の子らを、 意味もなく、苦しめ悩ませることはない。」(33節) 「自分たちの道を尋ね調べて、 主のみもとに立ち返ろう。 自分たちの心を、両手とともに、 天におられる神に向けて上げよう。」(40~41節) 祈り:神様、いろいろなことを考えて心が暗くなるとき、あなたの真実に心を向けます。悲しみや落胆、心配の中でもあなたが真実であると信頼します。今逆境を歩む___さん、___さんにも、あなたの真実と励ましを心から受けとれますように。アーメン

哀歌2

「夜、見張りの始まりに、立って大声で叫べ。 あなたの心を主の前に、水のように注ぎ出せ。 あなたの幼子たちのいのちのために、 主に向かって両手を上げよ。彼らは街頭のいたるところで、 飢えのために衰えきっている。」哀歌2:19 一昨日はJECの聖会に参加しました。大人の集会と同じ時間に、隣のホールではキッズ聖会がもたれました。子どものために心をこめて準備されたプログラムで、子どもも親や教師も奉仕者も、共に主を礼拝し楽しんでいました。 子どもは正直です。喜ぶ時、悲しむ時、表情や姿にそのままが表れます。 荒廃したエルサレムの街角で、子どもたちは飢え、衰えきっていました。その「いのちのために、主に向かって両手を上げよ」とエレミヤは訴えています。 「あなたの心を主の前に、水のように注ぎ出せ」と。 子どものために祈る時、私たちの心の深い願いが探られます。 「心を主の前に、水のように注ぎ出し」て祈る者になりましょう。 祈り:神様、子どもたちのために、また子どもミニストリーのために祈ります。教会の毎週のキッズタイム、子どもメッセージが子どもたちの魂に届きますように。これまでまかれた種が芽を出しますように。私たち自身の子どもや孫、甥や姪、近所の子どもたち、関わる子どもたちが、柔らかい心で主の愛に触れ、救いを受けとることができますよう、私を祈り手として、奉仕者として、先に救われた信仰者として用いてください。アーメン

哀歌1

「ああ、ひとり寂しく座っている。 人で満ちていた都が。 彼女はやもめのようになった。 国々の間で力に満ちていた者、 もろもろの州の女王が、 苦役に服することになった。」哀歌1:1 哀歌は、エルサレム陥落直後の状況で、エレミヤによるものです。 エレミヤの警告の預言むなしく、エルサレムは滅び、主だった人たちはバビロンに連れ去られました。 人がいなくなり、荒れてしまったエルサレムの様子です。 彼は自分の努力が報われなかった悔しさというより、国が滅びたことを悲しんでいます。 私たちはどうでしょうか。自分のことは後回しにして、純粋に悲しむことができるでしょうか。 キリストのまなざしを頂き、喜ぶ人とともに喜び、悲しむ人とともに悲しむ者となれますように。 祈り:神様、エレミヤのように悲しみを純粋にあなたの前に表す者となれますように。どんなことでも祈れるよう、私に祈る心をください。アーメン 祈り:神様、あなたの

エレミヤ52

「ユダの王エホヤキンが捕らえ移されて三十七年目の第十二の月の091二十五日、バビロンの王エビル・メロダクは、即位した年のうちにユダの王エホヤキンを呼び戻して、獄屋から出し、 優しいことばをかけ、バビロンで彼とともにいた王たちの位よりも、彼の位を高くした。」エレミヤ52:31~32 反逆したゼデキヤ王は、ひどい姿でバビロンに連れ去られ、一生投獄されました。 一方エホヤキン王は、37年たって思いがけなく牢屋から出され、バビロン王に丁重に扱われ、生活費も一生支給されるという扱いを受けました。 エホヤキン王は、ゼデキヤ王と同じ扱いを受けても文句が言えない立場でした。しかし、そこから救い出されました。ただ王の心により、でした。 私たちも、元々は自分の罪のために滅び、罰せられても文句の言えない立場でした。しかし神のあわれみによって、そこから救い出されました。ただ神の恵みによります。 イスラエルの王とは時代も境遇も違いますが、救いの恵みを受け、神の子とされたことは王たち以上に大きなことです。 祈り:神様、エレミヤ書を読みました。悲しみながらも神のことばを曲げなかったエレミヤのように、私たちもみことばをまっすぐ信じ伝えることができますように。 また、あなたの恵みによって救われたことを感謝します。この恵みの大きさをますます味わい理解できますように。 「しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。(エペソ2:4~5)」 アーメン

エレミヤ51

「主の御声に、天では水のざわめきが起こる。 主は地の果てから雲を上らせ、 雨のために稲妻を造り、 ご自分の倉から風を出される。 すべての人間は愚かで無知だ。 すべての金細工人は、彫像のために恥を見る。 その鋳た像は偽りで、その中には息がない。」エレミヤ 51:16〜17 宇宙の大きさはとてつもなく、想像を絶するほどだそうです。 太陽をゴムボールにたとえると、地球はゴマ粒くらいだそうです。そのサイズにしても、次の太陽に似た星までは、何百、何千キロと離れているそうです。 その中で生きている人間が作ったものは、宇宙を造られた神様に比べてなんとちっぽけなものでしょうか。 宇宙を造られた神、人間を造られた神が、私たちの小さな心の中をよく知ってくださっているとは、なんと不思議でなんと幸いなことでしょう。 祈り:神様、空を見上げ、星を数える時、あなたの不思議と偉大さを実感します。偉大なあなたが、私を愛し、私を造りいのちを与えてくださったことを感謝します。自分の悩みがちっぽけであること、主のもとに置くことを今日も教えてください。アーメン

エレミヤ50

「その日、その時──主のことば── イスラエルの咎を探しても、それはない。 ユダの罪も見つからない。 わたしが残す者を、わたしが赦すからだ。」エレミヤ50:20 やがてバビロンが滅びることが述べられます。それは、イスラエルの解放をも意味しました。 身体的、環境的に解放され、自由になることは何という喜びでしょう! それだけではありません。罪や咎も見つからないと言われました。それは、神の赦しがあるからです。神の赦しがあるところに、私たちの内面の自由があります。 今日私たちは目に見えるところだけでなく、罪責感から解放され、霊が自由にされることの素晴らしさを味わっているでしょうか。 祈り:神様、あなたがくださった罪の赦しと解放の恵みを、これまで以上にもっと味わいかみしめることができますように。自由を与えてくださり感謝します。アーメン

エレミヤ49

「見よ。獅子がヨルダンの密林から 常に潤う牧場に上って来るように、 わたしは一瞬にして彼らをそこから追い出し、 選ばれた人をそこに置く。 だれがわたしのようであろうか。だれがわたしを呼びつけるだろうか。 だれがわたしの前に立つことができる 牧者であろうか。」エレミヤ49:19 またまた、諸国へのさばきの宣言が続きます。 どんなに強い支配者も、「わたしは一瞬にして彼らをそこから追い出し、選ばれた人をそこに置く」と主は言われます。 主の御手が働くと、今日の独裁者たちも同じようになることを覚え、独裁に苦しむ国々のために祈ります。 また「だれがわたしの前に立つことができる牧者であろうか」とあります。イエス・キリストは「わたしは良い牧者です」と言われました。この方を越える牧者はおらず、この方こそ私たちを最善に導いてくださる方です。 祈り: 「わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます(ヨハネ10:11)」 神様、良い牧者であるイエス・キリストとお出会いできたことに感謝します。全能であり世界の支配者であるあなたが、キリストのいのちをもって私を救ってくださり、感謝します。独裁者や圧政に苦しむ世界の人々に、解放が一日も早くありますように。その中で信仰を守っている人々を励ましてください。アーメン

エレミヤ48

「モアブは滅ぼし尽くされて、民でなくなる。 主に対して高ぶったからだ。」エレミヤ48:42 「しかし終わりの日に、 わたしはモアブを回復させる。 ──主のことば。」エレミヤ48:47 エレミヤ書の終わりの方は、各国へのさばきの宣言が続いています。 同じような預言を何度もそれぞれの国に対して語りました。たとえ周りから「いつも同じことを言う」と思われても、神様が語られた内容を曲げずに伝えたことでしょう。 シンガポールのチャンギ刑務所に戦時中入れられた人々は、獄中にあっても日曜礼拝と祈りを忘れないで続けていました(Changi Chapel and Museum)。 私たちも、「いつも同じこと」と思われても、人は罪人であること、主の十字架の福音と永遠のいのちに混ぜ物をせず、導かれた所で語り、礼拝をささげる者でありたいと願います。 そして、神がやがて回復をもたらされることも、忘れてはいけない真理です(47節)。 祈り:神様、あなたの真理に信頼し続け歩む者であらせてください。今日、明日、そして生涯の終わりの日まで、導いてください。アーメン

エレミヤ47

「ファラオがガザを討つ前に、ペリシテ人について預言者エレミヤにあった主のことば。」エレミヤ47:1 ペリシテ人はガザに住んでいました。神は、エジプト(ファラオは王)がガザを討つ前に、エレミヤにそのことを告げられました。 ファラオはもちろん、聖書の神である主を信じているわけではありませんでした。それでも、神は彼を用いてみこころをなさいました。 私たちの周りにいる人たちがたとえ信仰者でなくても、神は時にご計画を実現するために用いることのできる方です。 私たちによくしてくれる人、教会に好意的な人を通して、神のあわれみが届くこともあります。やがてその人たちもキリストを救い主と信じることができますように。 祈り;神様、私の周りの人々と心温まるやりとりができ、主のあわれみと采配を感じることに感謝します。まだキリストを信じる気持ちにならないという___さん、___さんにも、福音と永遠のいのちを受け取る日が1日も早くきますように。アーメン

エレミヤ46

「わたしのしもべヤコブよ、恐れるな。 ──主のことば── わたしが、あなたとともにいるからだ。わたしは、あなたを追いやった先の すべての国々を滅ぼし尽くす。 しかし、あなたを滅ぼし尽くすことはない。 ただし、さばきによってあなたを懲らしめる。 決してあなたを罰せずにおくことはない。」エレミヤ 46:28 エジプトへの裁きが語られた後、再びヤコブ(イスラエル)への励ましのことばが出てきます。「わたしのしもべヤコブよ、恐れるな」(27・28節)と繰り返されています。 周りの強い国が次々と出てきては滅びていく、そして自分自身の国も滅びていくという中で、不安と恐れは極限だったでしょう。 しかし主は「恐れるな」と言われました。それは「わたしがともにいるから」です。 思いがけないことに直面したら「ともに主がおられる」と宣言しましょう。主は訓練されることはあっても、決して見捨てることはなさいません。 祈り;神様、あなたがともにいてくださり感謝します。 「実に、私たちは滅び失せなかった。主のあわれみが尽きないからだ。 23それは朝ごとに新しい。」(哀歌 3:22、23) あなたの訓練には必ずあわれみが伴うことを覚えます。今訓練を通っている___さん、___さんに主のあわれみが感じられますように。アーメン

エレミヤ45

「あなたは、自分のために大きなことを求めるのか。求めるな。見よ。わたしがすべての肉なる者に、わざわいを下そうとしているからだ──主のことば──。しかしわたしは、あなたが行くどこででも、あなたのいのちを戦勝品としてあなたに与える。」エレミヤ45:5 バラクはエレミヤの書記でした。これまでの文章も、彼が書いてきたものでした。 神である主は、ご自身のご計画を達成するために彼を用いられました。書記は大切な働きですが、地味に思えることもあります。バラクとしては、エレミヤのように最前線に立ちたいと思ったのかもしれません。あるいは、別の働きをしたかったのかもしれません。 しかし主は、今の働きを与えたこと、そしてバルクのいのちを守ることを保証してくださいました。 自身に与えられている主の使命はは何でしょうか。大きなこと(に見える)を与えられている人も、地味に思えることを与えられている人もいます。しかし、主の導きならそれが最も相応しいことを受け取り、祈りながら最善を尽くしましょう。そうすれば、他の人にはできない働きを主がさせてくださっていることに気づくでしょう。 祈り;神様、あなたの与えてくださった奉仕や働きを感謝します。他の人と比べて地味だと、引け目を感じることがないように守ってください。あなたからの使命に忠実であり、主のご栄光をユニークに、私らしく輝かせることができますように。 アーメン

エレミヤ44

「彼らは今日まで心砕かれず、恐れず、わたしがあなたがたとあなたがたの先祖の前に与えたわたしの律法と掟に歩まなかった。」エレミヤ44:10 新しい月になりました。新しい環境を迎えた方もいると思います。先週は色々なことがありました。久しぶりに教会に来られた方もおられました。 最近出席した集いで「もし今日が人生最後の日で、明日キリストが来られるとしたら、何をしますか」という問いがありました。 そのまま失われていく魂が救われるようにという、熱い思いがあるでしょうか。 そして私たちは、「いつか」ではなく、今日心砕かれ、主を恐れ、主の教えに従っているでしょうか。 エジプトに自分勝手な判断で逃げ、失敗した今日の箇所を、反面教師として学びましょう。向きを変えるのは「今」です。 祈り;神様、新しい日を与えてくださり感謝します。今週も、主の前に心砕かれ、人でなく主を恐れ、みことばに従い歩めますように。アーメン

エレミヤ43

「ネリヤの子バルクが、あなたをそそのかして私たちに逆らわせ、私たちをカルデア人の手に渡して、私たちを死なせるか、あるいは、私たちをバビロンへ引いて行かせようとしているのだ。」エレミヤ43:3 エレミヤの右腕になっていたバルクへの濡れ衣です。他者を貶め、ありもしない噂をするのは、人間の罪の性質です。 その上、エレミヤもバラクもエジプトに連れて行かれました。 しかし、彼らは屈しませんでした。主のことばを聞いて従い続けました。 私たちもどんな状況にあっても、主を見上げ、主に祈る者となれますように。他者を傷つける言葉や噂話が聞こえてきても、口だけでなく耳が守られますように。 祈り;神様、極限の状況でも、あなたを見上げ続けることができるように助けてください。今日悲しみ、疲れ、寂しさ、体調不良を感じる方に、一日生きる力を与えてください。格別に___ファミリー、___ファミリー、___さん、___さんに主からの平安と支えがありますように祈ります。アーメン

エレミヤ42

「それが良くても悪くても、私たちは、あなたを遣わされた私たちの神、主の御声に聞き従います。私たちの神、主の御声に聞き従って幸せを得るためです。」エレミヤ42:6 悲しみが続いても絶望することはないのだと、今日の箇所は教えてくれます。 私たちにとってたとえよくても悪くても「主の御声に聞き従います」と告白しました。民の間に、主に従おうという信仰のリバイバルが起こったからです。 そして、主の声に従うことが、「なぜ」を越えて幸せになる道だという確信が与えられます。 教会の兄姉が召されることの別れは、家族、いやそれ以上に寂しいものがあります。喜びも、信仰の戦いも共にした霊の同志だからです。 ご家族に主からの慰めと励ましがありますように。そして、教会の兄姉にも、慰めがありますように。 祈り;神様、あなたのなさることは時に「なぜ」と思われます。しかし、主の御思いは最善であることに信頼します。主の摂理の中で今日も生かされています。神の家族に感謝します。アーメン

エレミヤ41

「こうして、イシュマエルがミツパから捕らえて来た民のすべては身を翻し、カレアハの子ヨハナンの側についた。」エレミヤ41:14 ゲダルヤが治めて平和が来ると思いきや、イシュマエルがゲダルヤや民を殺し、残った者は捕らわれていました。そこにヨハナンと高官たちがイシュマエルの悪事を聞いてやってきました。 戦乱に伴って、国や地域には混乱が起こり、状況が二転三転します。 世界を見渡すと、今日も同じような状況があります。何が善で何が悪かもわからないくらいです。主イエスが生まれた当時のイスラエルも、ローマ帝国に支配され、混乱と圧政の中にありました。 しかし、その状況で神の救いの計画は確かに進んだのでした。 目を上げて、神が全能のお方であり、どんな状況でも働くことのできる方であることを覚えましょう。 祈り;神様、あなたはどのような状況でも変わらないお方です。暗いニュースや身の回りの状況に一喜一憂する私です。もっと信頼する心を与えてください。アーメン

エレミヤ40

「そこで、ユダヤ人はみな、散らされていたすべての場所からユダの地に帰って来て、ミツパのゲダルヤのもとに行き、非常に多くのぶどう酒と夏の果物を収穫した。」エレミヤ40:12 ゲダルヤはエルサレムが陥落した後、ユダ地方の総督に任命されました。バビロン王国に連れ去られなかった人たちが、彼のもとに集まってきました。そして、畑からぶどうやいちじくなどを収穫しました。 豊作だったようです。戦乱で家や町が荒廃しても、自然の恵みは注がれ続けていました。自然の恵みをくださるのは、もちろん主です。 コロナのパンデミックで緊急事態宣言が出された時、街のにぎわいはやみ、人々は不安になりました。しかし、そのような時にも春は訪れ、山は新緑で美しく、毎日昼と夜があり、川は流れました。 朝晩しのぎやすくなりました。私たちの心が不安な時、庭や近所を散歩してみませんか。小さな花やすずめを見ると、神の恵みがこの瞬間も注がれていることをしみじみ感じることができます。そして、歩きながら近所の祝福を心で祈るなら、それはプレーヤーウォーク(祈りの歩行)です。 祈り: 「空の鳥を看なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。それでも、あなたがたの天の父は養っていてくださいます(マタイ6:26)」 神様、もう一度この真理を黙想します。あなたが大きな、そして細やかな恵みを注いでくださっていることを覚えて感謝します。今日も導いてください。落胆したりうつで苦しんだりしている方に、今日希望を与えてください。私の近所の方々に福音が届き、恵みがあふれますように。アーメン

エレミヤ39

「わたしは必ずあなたを助け出す。あなたは剣に倒れず、あなたのいのちは戦勝品としてあなたのものになる。あなたがわたしに信頼したからだ──主のことば。」エレミヤ39:18 監視の庭で主はエレミヤにこう約束してくださいました。 とうとう、エルサレム陥落の日が来ました。王ゼデキヤの息子たちは殺され、王自身も目をつぶされ足かせをはめられました。 主だった人々は皆、バビロンへ捕囚として連れて行かれました。 ところが、バビロンの親衛隊長ネブザルアダンは、貧しい人々は捕囚に連れて行かず、そのままの場所に畑を与えて残しました。 さらに、バビロン王の命令によってエレミヤは解放され、エレミヤと旧知の仲のゲダルヤの元に返し、残った人々と共に住みました。 悲しみながらも主に信頼し続け、貧しい人と共に住んだエレミヤの姿は、やがて来るキリストの姿を想起させます。 さらに、キリストは私たちを罪の重荷と死から解放し、永遠のいのちを与えて救ってくださいました。父なる神に100%信頼し、謙遜の限りと愛をもって。 祈り:神様、あなたに信頼する者は、どんな状況でも平安を頂けることに感謝します。主にあって愛する兄弟姉妹の___さん、___さん…に、今日も主からの限りない平安がありますように。私にもキリストの平安を満たしてください。アーメン

エレミヤ38

「そこでゼデキヤ王は、ひそかにエレミヤに誓った。『私たちの、このいのちを造られた主は生きておられる。私は決してあなたを殺さない。また、あなたのいのちを狙うあの者たちの手に、あなたを渡すことも絶対にしない。』」エレミヤ38:16 ゼデキヤはユダ王国最後の王で、バビロン王国によって立てられた傀儡政権の王でした。 彼は井戸に沈められたエレミヤが死なないように命令しました。そして、エレミヤから主のみこころも聞きました。それは、バビロンに降伏するようにというものでした。 もしゼデキヤが、主の導きに従い、それを隠さず公にして従っていたら、彼も王国も違った形の最後を迎えていたかもしれません。しかし、ゼデキヤはエレミヤのことばを公にせず、従いもしませんでした。 「主は生きておられる」と言って誓った人物なのに、とても惜しいことです。 私たちも、神のみこころを知りつつも、それを隠したり、自分のやり方を続けたりしていないでしょうか。ゼデキヤのようでなく、主の前にも自分のプライドにも降伏する者となれますように。 祈り:神様、あなたのみこころから歩みを妨げるものを探ってください。プライド、他者の目、恐れ、不安などが妨げとなっているなら、キリストの十字架の前にそれを置きます。私のすべては主の御手の内にあることを信じ、この秋もあなたに信頼します。アーメン

エレミヤ37

「ゼデキヤ王は命じて、エレミヤを監視の庭に入れさせ、都からすべてのパンが絶えるまで、パン屋街から毎日パン一つを彼に与えさせた。こうして、エレミヤは監視の庭にとどまっていた。」エレミヤ37:21 戦乱や災害、国の荒廃は、人の心を荒ませます。エレミヤが悪気なくベニヤミンの地に行ったのに、人々は逃亡だと誤解し、彼を長い間牢屋に入れました。 人間不信と恐れは裏切りや疑心を生みます。主への信仰から離れてしまった場合はなおさらでした。 神のエレミヤへの守りはどうなったのでしょうか。 エレミヤは王に謁見した後「監視の庭」に身柄を移されました。自由ではありませんでしたが、そこでは彼の安全が確保され、毎日パン一つが配給されました。それで、彼は殺されることも飢えることもありませんでした。 不条理に思える拘束の中にも、神の守りの御手を見ます。 今日もし不自由さを感じるならば、エレミヤをはじめ創世記のヨセフ、使徒パウロ、ヨハネの働きが牢獄や流刑地で多く行われていたことを思い出しましょう。 神様の働きは、場所に制限されません。 祈り:神様、私たちの肉体は制限がありますが、あなたには限界がありません。 療養中や看病・介護・育児で思うように出かけられない方々に、主にある豊かな自由な心と希望が与えられますように。そうして、今まで以上に「祈りの勇士」として用いられますように。ベッドから、自宅から、世界に開けた熱い祈りができますように。 信仰ゆえに投獄されている方を励ましてください。今日も地下教会で礼拝を守るクリスチャンたちに、勇気と希望を与えてください。アーメン

エレミヤ36

「エレミヤはバルクに命じた。『私は閉じ込められていて、主の宮に行けない。だから、あなたが行って、あなたが私の口述によって巻物に書き記した主のことばを、断食の日に主の宮で民の耳に読み聞かせよ。また、町々から来るユダ全体の耳にもそれを読み聞かせよ。』」エレミヤ36:5~6 再び書記バルクが登場します。監禁中のエレミヤが主から受けたことばを記し、エレミヤに代わって民のところに届け、それを読みました。エレミヤと共に命の危険に さらされ、隠れなければなりませんでした。 目立たない存在のバルクですが、エレミヤの右腕となり、共にミニストリー(主の働き)を進めました。 私たちは目立たない者かもしれませんが、主の働きのために様々な形で用いられます。「小さい者だから」としり込みせず、主の導きを受けとりましょう。置かれた環境の中で、今日も神の国のために生きるよう、召されています。 祈り:神様、エレミヤのそばにバルクのような存在があったことに励まされます。私が孤独ではないことに感謝します。そして、私もバルクのように、主の働きをする人を支える存在として用いてください。アーメン

エレミヤ35

「実に、レカブの子ヨナダブの子らは、先祖が命じた命令を守ってきたが、この民はわたしに聞かなかった。」エレミヤ35:16 レカブ人は紀元前9世紀に現れた遊牧民で、ぶどう(木も)で作ったものを用いないという生活スタイルを守っていました。 エレミヤがぶどう酒を飲ませようとした時も、飲みませんでした。先祖の教えに従ったからでした。 預言者の忠告に従わないイスラエルとは対照的です。 主なる神様は、こうした民族を実例として用い、イスラエルの民が自らの頑なさと不信仰に気づくようにとされました。 私たちの日常でも周りを見回すと、主からの良い実例が満ちています。 「空の鳥」「野の花」を見ると、神様が養ってくださることがわかります(マタイ6章)。兄弟姉妹のあかしを聞くと、神様が守ってくださるとわかり、励まされます。 不安な時にも、苦しい時にも、すぐそこに神様からの良い実例があります。聖霊の働きに心を開き、そうした例を見せていただけますように。 祈り:神様、自分のことだけ考えていると、主の守りや備えが見えなくなります。どうか私の霊の目を開いてください。主の素晴らしさが世界に、私の日常に満ちていることを発見し、改めて信仰に立つことができますように。アーメン

エレミヤ34

「イスラエルの神、主はこう言われる。『わたしが、あなたがたの先祖をエジプトの地、奴隷の家から導き出した日に、わたしは彼らと契約を結んで言った。』」エレミヤ34:13 エルサレムの人々は、いったん奴隷を解放するという契約をしたのに、心変わりして再び連れ戻して奴隷にしてしまいました。そのことが叱責されています。 かつてエジプトの地で奴隷だった先祖を、主はモーセを通じて脱出させ解放してくださいました。 人は心変わりし、時に約束を破ります。しかし、神は契約(約束)されたことを変えられません。 そして、人は受けた恵みをすぐに忘れます。しかし、神から受けた恵みを忘れず、その恵みを周囲に流すのを主は望んでおられます。 これまでに、神様から受けた恵みを思い起こしてみましょう。 祈り:神様、あなたは私に多くの恵みをくださいました。特に_____のこと、 _____のことは大きな恵みでした。そして、イエス・キリストにより永遠のいのちを約束してくださったことが、何にもかえがたい恵みです。忘れずに感謝できますように。アーメン

エレミヤ33

「『わたしを呼べ。そうすれば、わたしはあなたに答え、あなたが知らない理解を超えた大いなることを、あなたに告げよう。』」エレミヤ33:3 私たちが祈る時、神様は必ず聞いてくださいます。そして、祈りの答えは私たちが想像しなかった方法であることが多いのです。それを、私たちは「祈りが聞かれなかった」と早とちりしがちです。理解を超えた、大いなることがわからないからです。 エレミヤに「わたしを呼べ。そうすれば、わたしはあなたに答え、あなたが知らない理解を超えた大いなることを、あなたに告げよう」と言われた同じ主は、私たちが 祈る時、同じまなざしで声をかけてくださいます。 今日祈った時、たとえ神の声が聞こえなくてもこの聖句を声を出して読みましょう。「主を呼べ。そうすれば、主は私に答え、私が知らない理解を超えた大いなることを、私に告げてくださる」と、信仰をもって宣言します。 祈り:神様、あなたは地を造り、堅く立てられた主(2節)です。祈りが聞かれるか確信がない時、私に信仰を与えてください。理解を超えたあなたの知恵と方法が、身の周りや家族の小さなことから、日本や世界に至る大きなことにまで及んでいることに感謝します。この平安を、___さん、____さんにも与えてください。アーメン

エレミヤ32

「私は、購入証書をネリヤの子バルクに渡した後、主に祈った。『ああ、神、主よ、ご覧ください。あなたは大いなる力と、伸ばされた御腕をもって天と地を造られました。あなたにとって不可能なことは一つもありません。』」エレミヤ32:16~17 アナトテにある畑を買い取り、証書に署名したエレミヤは、購入証書をバラクに渡して「土の器の中にいれて長期間保存せよ」と命じます。 主のことばに従って命じたのでした。 捕囚で異国に引いていかれたら、故郷の土地の売り買いをすることやまっとうな契約をすることはできません。しかし、必ず捕囚の期間が終わり、再び土地取引ができる日がやってくるということを、主はエレミヤの預言を通して約束してくださいました。土の器に入れて保管するのは、永遠ではありませんでした。 あきらめてしまった祈りの課題があるでしょうか。主の目には、まだ計画が進行中かもしれません。「あなたにとって不可能なことは一つもありません」と、エレミヤやマリアのように信頼して祈る者となれますように。 祈り:神様、あなたのご計画は広く深すぎてわかりません。しかし、不可能なことは一つもない、全知全能の主を信じたいです。あきらめや恐れから、私を解放してください。アーメン

エレミヤ31

「彼らのたましいは潤った園のようになり、 もう再び、しぼむことはない。そのとき、若い女は踊って楽しみ、 若い男も年寄りも、ともに楽しむ。 『わたしは彼らの悲しみを喜びに変え、 彼らの憂いを慰め、楽しませる。』」エレミヤ31:12b~13 厳しい残暑が続きます。夕方、教会の草花に水をやると、植物が潤って元気を取り戻します。 今日の箇所は、バビロン捕囚という試練から回復した民のたましいは、潤った園のように満ち足りるという約束です。そして、若い人も高齢の人も「ともに楽しむ」というのです。 主の教会も、試練を通ってともに泣き、回復されてともに喜ぶ共同体です。 何より「永遠の愛をもって愛し(3節)」てくださった主のまなざしを感じる時、私たちの「悲しみは喜びに、憂いは慰めに」なります。 年齢は関係ありません。今日は「敬老の日」ですが、この日に限らず、教会でいつも年齢を越えた交わりが与えられていることに感謝します。 祈り:神様、教会にあらゆる年代の人が集えることに感謝します。ともに主の前に出て礼拝できることを喜び、楽しみます。キリストにあって永遠のいのちを得た、互いの存在にも感謝します。アーメン

エレミヤ30

「彼らから、感謝の歌と、喜び笑う声が湧き上がる。 わたしは人を増やして、減らすことはない。 わたしが尊く扱うので、 彼らは小さな者ではなくなる。」エレミヤ30:19 捕囚の後のイスラエルの回復を、神様が約束してくださいました。 主なる神様は、たしかにイスラエルをさばかれました。 しかし、それは訓練のためであり、正しく幸せな道に歩んでほしいという愛に裏打ちされていました。 子どもや同僚を訓練する時に、相手の成長や改善につながるようにと考えるのと似ているかもしれません。 それ以上に、神は永遠というスケールで見ておられます。永遠の救いを得てほしいと思ってくださる神のことばを、さらに慕い求めていきましょう。 祈り:神様、あなたの大きく、深く、広い愛を感謝します。私たちに、みことばをさらに読みたいという飢え乾きを起こしてください。敬老礼拝を持てて感謝します。年齢を重ねても、白髪になっても背負ってくださる主を感謝します。 この秋、あなたの愛にふれる人がもっと多く起こされますように。アーメン

エレミヤ29

「わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている──主のことば──。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」エレミヤ29:11 旧約聖書の中で、最も有名なことばの一つかもしれません。多くの人が、このみことばで希望を与えられ、励まされてきました。続く12~14節にも 「あなたがたがわたし(主)に呼びかけ、来て、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに耳を傾ける。 あなたがたがわたしを捜し求めるとき、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしを見つける。 わたしはあなたがたに見出される──主のことば──。わたしは、あなたがたを元どおりにする。あなたがたを追い散らした先のあらゆる国々とあらゆる場所から、あなたがたを集める──主のことば──。わたしはあなたがたを、引いて行った先から元の場所へ帰らせる。」 とあります。 もっとも、バビロン捕囚の帰還までには70年かかりました。人の目には長い年月も、主の壮大のご計画の中にあるのだと教えられます。 祈り:神様、70年も祈りの答えを待つことがあることを読みました。すぐに答えがないと、祈りがきかれないと不平を言う私をゆるしてください。_____のことが、主のご計画の中に持ち運ばれているという確信と希望を与えてください。 この週末も兄弟姉妹に主の恵みと平安がありますように。アーメン

エレミヤ28

「平安を預言する預言者については、その預言者のことばが成就して初めて、本当に主が遣わされた預言者だ、と知られるのだ。」エレミヤ28:9 民に平安を預言するハナンヤに、エレミヤは 「アーメン。そのとおりに主がしてくださるように。あなたが預言したことばを主が成就させ、主の宮の器と、すべての捕囚の民をバビロンからこの場所に戻してくださるように(6節)」と言いました。 エレミヤも、エルサレムが早期に回復し、バビロンが滅びたらどんなによいだろうと思いました。しかし、預言をよく吟味する必要も知っていました。 さらに、主から来たことばを曲げずに伝えなければならないこともわかっていました。 聖書を自分の都合のよいところだけつまみぐいするのでなく、神様のご計画とみこころを受けとることができますように。兄弟姉妹に必要な時は愛をもって戒め、何よりそれ以上に愛し、祈ることができますように。 祈り:神様、聖書のことばや兄弟姉妹からの忠告は、時に痛いものです。しかし、それを受け入れる謙遜さと柔らかい心を与えてください。私が忠告する時は、よく祈り、批判ではなく愛をもって穏やかにできますように。主が私の心の王となり、いつも治めてください。アーメン

エレミヤ27

「しかし、バビロンの王のくびきに首を差し出して彼に仕える国を、わたしはその土地にとどまらせる──主のことば──。こうして、人々はその土地を耕し、そこに住む。」エレミヤ27:11 主が語られたのは、バビロンに捕囚(捕虜)になることは、エルサレムにとどまるよりもよい、ということでした。 故郷に帰ることばかり考えず、捕囚としてバビロンにとどまり、「その土地を耕し、そこに住む」つまり腰を据えてそこで日常生活を送ることが主のご計画でした。 災害や戦争で住み慣れた地を離れた人々にとって、こうした聖書の歴史が慰めとなるようにと願います。神様はどこまでもよい方で、悲しみの状況さえもやがて喜びに変えてくださる方です。また、捕囚の70年間にエルサレムの土地も「安息」を得て回復させられた(2歴代誌36:21)のでした。 祈り:神様、主にあっていつも希望があることを感謝します。 原発事故や台風、地震、大雨で避難生活をしている方々を励ましてください。戦争で難民となった方々に希望を与えてください。愛する家族や友人を失った人々に、慰めを与えてください。今週はアフリカ各国で大きな自然災害がありました。救援にあたる方々に豊かな知恵がありますように。アーメン

エレミヤ26

「ただ、もしあなたがたが私を殺すなら、あなたがた自身が咎なき者の血の責任を、自分たちと、この都と、その住民に及ぼすのだということを、はっきり知っておきなさい。なぜなら、本当に主が私をあなたがたのもとに送り、これらすべてのことばをあなたがたの耳に語らせたのですから。」エレミヤ26:15 エレミヤが語ったことばを聞いて、人々は彼を死刑にしようとしました。エレミヤは抵抗せず、ただ「主が言われたことを伝えたのだ」ということは曲げませんでした。 人々は「この人は死刑に当たらない。彼は私たちの神、主の名によって、私たちに語ったのだから(16節)」と判断し、エレミヤは死刑を免れました。 一方、同じような内容を預言していたシェマヤの子ウリヤという人は、エジプトに避難したものの捕えられ、殺されてしまいました。 現代でも、主のために正しいことを述べた人のうち、なぜ助かる人と迫害される人がいるのかと思うことがあります。 そして歴史上、最も正しく、最も迫害され殺されたのがイエス・キリストでした。それは、私たちの罪のゆえ、身代わりとしてでした。 祈り:神様、私たちの罪の大きさを覚えます。罪のないイエス・キリストが身代わりとなって死に、救いの道を開いてくださり感謝します。 今、信仰ゆえに迫害されたり辛い思いをしたりしている人を励ましてください。あなたの守りと脱出の道を与えてください。アーメン

エレミヤ25

「ユダの王、アモンの子ヨシヤの第十三年から今日まで、この二十三年間、私に主のことばがあり、私はあなたがたに絶えず、しきりに語りかけたのに、あなたがたは聞かなかった。」エレミヤ25:3 エレミヤは、主のことばを23年も伝えたのに人々が耳を傾けず、悪い行いをやめなかったことを語ります。23年間も悔い改めのチャンスがあったのに、あえて従わなかったゆえに、ユダの国が滅んでしまったことがわかります。 もし旧約聖書の神に「さばきの神」「こわい神」というイメージを持つなら、さばきの前にどれだけ警告と向きを変える機会が与えられていたかに目を留めてください。 日曜日の子どもメッセージは「ソドムとゴモラ(創世記19章)」の箇所でした。もし10人でも正しい人がいれば、さばきを免れるところでした。残念ながらそれはかなわず滅ぼされる町ですが、そんな中でもロトの家族は救い出されました。 旧約聖書には、繰り返し「主はあわれみ深く、怒るのに遅い」と出てきます。この あわれみ深い神のご計画は良いものです。 祈り:「主は あわれみ深く 情け深い。 怒るのに遅く 恵み豊かである。(詩篇103:8)」 神様、あなたのあわれみと恵みが、今日の私にも注がれていることを感謝します。あなたを悲しませている点があるなら、気づかせてください。主のご計画の方向へ、向きを変えて出発できますように。アーメン

エレミヤ24

「イスラエルの神、主はこう言う。わたしは、この場所からカルデア人の地に送ったユダの捕囚の民を、この良いいちじくのように、良いものであると見なそう。」エレミヤ24:5 神様は再び実物教材を見せてくださいます。それは、2つのいちじくでした。1つはおいしそうな良いいちじく、もう1つは食べられない悪いいちじくでした。 悪いいちじくは、偽の言葉に惑わされてエルサレムにとどまったり、エジプトに逃げたりした者の末路をたとえていました。 一方、よいいちじくは、捕囚となった人を象徴しています。神様は 「彼らを幸せにしよう...彼らをこの地に帰らせ、建て直して、壊すことなく、植えて、引き抜くことはない(6節)」と約束されました。 敗北と悲しみに見える捕囚がそれで終わりではなく、やがて回復が来ることを主が約束してくださったのでした。 私たちも「なぜ、こんな試練が」と思うことがあるかもしれません。しかし、一歩一歩神様の導きに信頼し従うなら、やがて回復の日がやってきます。苦難の人ヨブや捕囚の民を回復させたように、主は真実なお方です。 祈り:神様、試練や困難の中でも、あなたの真実を知ることができますように。信頼し希望を持ち続けられるように助けてください。今週の一人ひとりの歩みも導いてください。アーメン

エレミヤ23

「見よ、その時代が来る。 ──主のことば── そのとき、わたしは ダビデに一つの正しい若枝を起こす。 彼は王となって治め、栄えて、 この地に公正と義を行う。」エレミヤ23:5 1~8節まではメシア(救い主)についての預言です。「すべての地から集め、元の牧場に帰らせる(3節)」「彼の時代にユダは救われ、イスラエルは安らかに住む(6節)」と、やがて希望の時代がもたらされることを述べています。 一方で、9節以降は偽りを言う預言者たちの罪が指摘されています。今大丈夫だ、と耳に心地よいことを言いますが、それはみこころではありませんでした。 「わたしは近くにいれば、神なのか。...遠くにいれば、神ではないのか。...天にも地にも、わたしは満ちているではないか。」(24節) 近く感じられなくても、すぐに望むような祈りの答えがなくても、神は神です。まやかしに惑わされず、神のことばを受け止め期待しましょう。 祈り:神様、祈りがなかなか答えられない時、あなたが遠く感じられます。でも、信頼し続けられるよう、私に信仰を与えてください。長く祈っている____のこと、____のことに、最善の時に最善の主のご計画があることを信じます。アーメン

エレミヤ22

「あなたが平穏であったときに、 わたしはあなたに語りかけたが、 あなたは『私は聞かない』と言った。 わたしの声に聞き従わないということ、 これが、若いころからのあなたの生き方だった。」エレミヤ22:21 ユダの王に向けて、若い時からの生き方を神様は見ておられました。 神の語りかけがあったのに、それを拒絶してきた王でした。 人生の中で、神が語りかけられる機会があります。 それは順調な時かもしれません。あるいは、病気や失業など、悩んでいる時かもしれません。 それが神からの招きであると感じたなら、答えるかどうかは私たちの選択です。 福音を聞いた人がその招きに答え、キリストを救い主として受け入れることができますように。しがらみや周囲のプレッシャーに左右されず、神と自分との個人的な関係に目を留めることができますように。 祈り:神様、あなたが私たちを愛し、語りかけようとしてくださることを感謝します。___さん、____さんがイエス・キリストを心にお迎えできますように。人生の選択をする____さん、____さんに、主ご自身が明確に語りかけてください。アーメン

エレミヤ21

「あなたは、この民に言え。『主はこう言われる。見よ、わたしはあなたがたの前に、いのちの道と死の道を置く。』」 エレミヤ21:8 エレミヤは、預言を続けます。ゼデキヤ王は、かつて(ヒゼキヤ王の時代)のように、主がエルサレムの都を助けてくださるのではと期待をもって、エレミヤに尋ねます。しかしエレミヤは、都が滅びると宣べます。 さらに、民に向かっては、いのちの道と死の道のどちらかを選べと告げます。 「 この都にとどまる者は、剣と飢饉と疫病によって死ぬ。  出て行ってあなたがたを囲んでいるカルデア人に降伏する者は生き」る(9節)。 普通はエルサレムが助かるのが生きる道と考えがちです。しかし、主のご計画は逆でした。降伏する方がよいと主は言われました。 時には常識や日常生活、慣れたスタイルという「快適な空間(コンフォート・ゾーン、Comfort Zone)」を出るのがみこころだということがあります。 今日でも、一歩踏み出すこと、主がいなければできない方向に進むのは簡単ではありません。しかしそれが救いの道、いのちの道、祝福の道であるなら、共にいてくださる主に信頼し、祈りながら一歩進みましょう。 祈り:神様、______の選択は私にとって簡単ではありません。でも、あなたの喜ばれる方を選びたいと願っています。よい決断ができるよう助けてください。 教会も兄弟姉妹も、今日主のあとを歩んでいくことができますように。アーメン

エレミヤ20

「私が、『主のことばは宣べ伝えない。  もう御名によっては語らない』と思っても、  主のことばは私の心のうちで、 骨の中に閉じ込められて、   燃えさかる火のようになり、   私は内にしまっておくのに耐えられません。 もうできません。」 エレミヤ20:9 都合の悪いことばかり預言するエレミヤは、相手にとっては疎ましい存在でした。 エレミヤは打たれ、足かせにつながれるという目にあいました。 それでも主からのことばを伝えないわけにはいかない、というエレミヤの苦悩と決意が現れています。 彼は、 「主のことばは私の心のうちで、...燃えさかる火のようになり、  私は内にしまっておくのに耐えられません」 と言います。 日本は周りの人に合わせる「同調圧力」が強いと言われます。協調性は大切ですが、人の目を優先するあまり、主のことばを後回しにしたり混ぜ物をしたりすることがないように、身辺を点検してみましょう。 祈り:神様、聖書の原則に従う生活をしたいと願います。周囲の人々からのプレッシャーでみことばをねじまげることや無視することがないよう、助けてください。アーメン

エレミヤ19

「そこでエレミヤは、主が預言のために遣わしたトフェトから帰って、主の宮の庭に立ち、民全体に言った。」エレミヤ19:14 エレミヤはトフェトで、ここが「虐殺の谷」と呼ばれると預言します。 その後彼はエルサレムに帰り、主の宮の庭で民全体に国の滅亡について預言します。 「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。見よ。わたしはこの都とすべての町に、わたしが告げたすべてのわざわいをもたらす。彼らがうなじを固くする者となって、わたしのことばに聞き従おうとしなかったからである。」(15節) 人々に厳しい預言をするエレミヤには、いつも身の危険がありました。 14節以降はバルクが記録したと思われます(バルクについては36章など)。 口述筆記者として忠実な働きをした彼の存在に、エレミヤは励まされ支えられたことでしょう。 主のために危険な働きをする人のために祈りましょう。私たちの祈りが、その働きを支えます。 祈り:神様、地上での主の働きが、日々進んでいることを覚えます。危険な場所で宣教する人たちが、勇敢に主の知恵の方法で、みこころを語ることができますように。主の守りがありますように。アーメン

エレミヤ18

「陶器師が粘土で制作中の器は、彼の手で壊されたが、それは再び、陶器師自身の気に入るほかの器に作り替えられた。」エレミヤ18:4 自分勝手な道に陥っていたイスラエルの国に対して、すべてを支配しているのは主だということが、再び(帯に続いて)実物教材で示されます。 陶器師や粘土のたとえは、私たち日本人にもとてもよくわかります。粘土をこねて形づくるのも、それをやり直すのも、作り手の思い次第です。 神様と被造物の関係も同じです。 私たち一人一人も神様によって造られ、生かされています。私たちを愛する神様は、私たちがみこころにかなう姿になるよう願っておられます。 試練の中にあっても、後に必ず益となると主に信頼しましょう。 祈り:神様、陶器師のようにすべてを造り治めておられる偉大なあなたを賛美します。 私を粘土のようにみこころの姿へと造り変えてください。 試練の中を歩む___さん、____さんに、格別の励ましとよい導きがあるという希望を主ご自身がお与えください。 アーメン

エレミヤ17

「主に信頼する者に祝福があるように。その人は主を頼みとする。その人は、水のほとりに植えられた木。 流れのほとりに根を伸ばし、 暑さが来ても暑さを知らず、 葉は茂って、 日照りの年にも心配なく、 実を結ぶことをやめない。」エレミヤ17:7~8 教会の2023年の年間聖句は詩篇1:2~3です。 「主のおしえを喜びとし 昼も夜も そのおしえを口ずさむ人。   その人は 流れのほとりに植えられた木。  時が来ると実を結び その葉は枯れず そのなすことはすべて栄える。」  今日の箇所も、同じく「水のほとりに植えられた木」である人が描写されています。 2つを合わせて読むと、「主のおしえを喜びとする」とは「主に信頼する者、主を頼みとする」ことと密接につながるとわかります。 水を根から豊かに吸い上げる木のように、主に信頼し、主のことばを受け取りましょう。主の豊かさのうちにあって、恵みと癒しを受けとる週になりますように。 祈り: 「私を癒やしてください、主よ。そうすれば、私は癒やされます。私をお救いください。そうすれば、私は救われます。あなたこそ、私の賛美だからです。(14節)」 主なる神様、あなたを賛美します。今日特に励ましを必要としている____さん、____さんに主の豊かな恵みと力が豊かに注がれますように。イエス・キリストの お名前によって祝福しお祈りします。アーメン

エレミヤ16

「さらに、あなたがた自身が、自分たちの先祖以上に悪事を働き、しかも、見よ、それぞれ頑なで悪い心のままに歩み、わたしに聞かないでいる。」エレミヤ16: 12 わざわいが来るのは、先祖の不信仰(11節)だけではなく、今の世代の「あなたがた自身が」罪をおかし、頑固な心で歩んでいるからだ、と神は言われました。 聖書の神様のさばきは、先祖でも子孫でもなく、その人自身にかかっています。その人が砕かれた心で悔い改めるなら、先祖が悪くてもわざわいを思い直してくださるです。日本人にありがちな「先祖のたたり」という考え方ではありません。 また、滅ぼして終わりでもありません。主である神様は 「それゆえ、見よ、わたしは彼らに知らせる。 今度こそ彼らに、 わたしの手、わたしの力を知らせる。 そのとき彼らは、 わたしの名が主であることを知る(21節)」と言われる方です。私たちを戒め、平安を得るための矯正と訓練を願われる方なのです。 キリストを信じるかどうかも、あなた個人の決断にかかっています。先祖や代々の宗教の有無ではありません。神様は「あなた自身はどうか」と問いかけておられます。 祈り:神様、あなたが私との個人的なかかわり、関係に関心を持っておられることに感謝します。「あなた自身はどうなのか」と聞いてくださる神様、新しい週も私に歩む道を教え導いてください。アーメン

エレミヤ15

「主よ、あなたはよくご存じです。 私を思い起こし、私を顧み、 迫害する者たちに、私のために復讐してください。 あなたの御怒りを遅くして、 私を取り去らないでください。 私があなたのためにそしりを受けていることを 知ってください。」エレミヤ15:15 孤独と同胞からの迫害の中で、エレミヤは主のことばを語り続け、主に信頼し続けました。 日本では表向きの迫害はないかもしれません。 けれども、回りが偶像礼拝をする中、自分一人がキリスト者だという場面は結構あります。その中でどのように振る舞うか、いつも知恵を求めて切に祈らされますね。 周囲の目が厳しいという点では、もしかするとイスラムの国で信仰を守るのと似ているのかもしれないとさえ、考えさせられます。 互いに祈り支え合う、神の家族の存在に感謝します。 何より、主がいつも守り、励まし、導いてくださることに感謝します。 祈り:神様、普段の家庭や職場でひとり信仰を守っている___さん、___さんを覚えます。異国で仕えたダニエルのように、あなたの知恵と守りがあり、その場所で誠実に働くことができますように。その姿にあなたの栄光があらわれますように。アーメン

エレミヤ14

「国々の空しい神々の中に、 大雨を降らせる者がいるでしょうか。 それとも、天が夕立を降らせるのでしょうか。 私たちの神、主よ、 それは、あなたではありませんか。 私たちはあなたを待ち望みます。 あなたが、これらすべてをなさるからです。」エレミヤ14:22 エレミヤの嘆きと真剣な祈りの声が聞こえてくるようです。 14章では、日照りで水不足だった当時の様子がわかります。人々は困っていました。 しかし残念なことに、主の前に出て悔い改めませんでした。 かえって「戦争も飢饉も起こらない」と言う偽預言者に耳を傾けました。 エレミヤは耳を貸さない人々に主のことばを語り、自身も民のために悔い改めの祈りをします。 耳障りのよいことは喜んで聞くけれど、そうでないことー従順、悔い改め、自己犠牲、裁き、永遠の滅びなどー には耳をふさぐという傾向が、私たちにもあるかもしれません。 聖書に書かれていることを真摯に受け止め、都合の良いことも悪いことも主の前に差し出す謙遜な者となれますように。 祈り: 「神へのいけにえは 砕かれた霊。打たれ 砕かれた心。神よ あなたはそれを蔑まれません。(詩篇51:17)」 神様、私の心の______を、あなたに差し出します。どうか私を探り、戒め、癒し、へりくだった者にしてください。 いつも祈りと主の真実なことばへの愛が、いつも私に、そして教会に満ちあふれますように。アーメン

エレミヤ13

「私はユーフラテス川に行って掘り、隠した場所から帯を取り出した。すると見よ。その帯はぼろぼろになって、何の役にも立たなくなっていた。」エレミヤ13:7 神様は、実物教材を用いて預言の内容を理解しやすくされることがあります。 エレミヤが買って腰に巻いたリネンの帯もそうでした。 外して、ユーフラテス川のほとりにある岩の割れ目に隠すようにとのことでした。 普通、布を野ざらしにすると、傷むのは想像がつきます。その通り、帯はぼろぼろになっていました(7節)。 そのように、神様はユダの国のプライドや高慢をぼろぼろにすると言われました(9節)。それは、彼らの罪ゆえでした。 神様は、帯を身に付けるようにユダの人々を愛してくださっていたのでした(11節)。勝手に離れて行ったのは人々でした。 義である神様は裁きをしないわけにいきません。でも、その背後にはあふれるばかりの愛があることを覚えます。 祈り:神様、あなたは人を愛し、帯を身に着けるようにみそばにおいてくださる方です。警告でさえも、私たちが気づくように示してくださいました。私に従順な、柔らかい心を与えてください。混乱ではなく、平安と静まりの心を与えてください。アーメン

エレミヤ12

「主よ。私があなたと論じても、 あなたのほうが正しいのです。 それでも、私はさばきについて あなたにお聞きしたいのです。 なぜ、悪者の道が栄え、 裏切りを働く者が みな安らかなのですか」エレミヤ12:1 エレミヤの問い、なぜ悪者が栄えるのか(そしてなぜ神は何もなさらないのか)は、旧約聖書によく出てきます(ヨブ21、詩篇73、ハバクク1など)。時折、私たちも感じるかもしれません。 「はっきりした答えは書かれていませんが、やがて悪者は滅び、神の前に正しい人が回復するということが明らかです。信仰者の態度とは、神に信頼することです。とりわけ、自分の人生については。(NKJV Spirit=-filled Bible )」 わからないことは神のミステリーのうちにあり、摂理の中で持ち運ばれるという信仰が、全てを説明しようという試みよりも平安と満足を与えることも多くあります。 やがて天国に行ったら、イエス様に直接聞いてみたいです。 祈り:神様、「なぜですか」と聞きたいことが多くあります。この世の矛盾や理不尽なことに腹立たしく思うこともあります。しかし、あなたが全てを持ち運んでくださること、ご存知であることを覚え、委ねます。あなたにお任せする信仰を与えてください。アーメン

エレミヤ11

それゆえ、主はアナトテの人々について、こう言われる。「彼らはあなたのいのちを狙い、『主の名によって預言するな。われわれの手にかかって、あなたが死なないように』と言っている。」エレミヤ11:21 エレミヤの警告の預言を妨害しようとしたのは、外国ではありませんでした。 「アナトテ」とは、何と、エレミヤの出身地です。 「ベニヤミンの地、アナトテの祭司の一人であったヒルキヤの子エレミヤのことば」(1:1)。 一番理解してほしい人々、わかってくれていると思っていた人々が、エレミヤに反対し命まで狙いました。 私たちも、一番わかってほしい身近な人々から理解してもらえないこと、反対されることがあるかもしれません。辛いですね。 でも、イエス様でさえ、故郷ナザレの人たちからは理解されませんでした。 「イエスご自身、『預言者は自分の故郷では尊ばれない』と証言なさっていた。(ヨハネ4:44)」 しかし、主なる神様はわかってくださいます。そして、エレミヤを守ったように、神に従う者を見捨てることはなく、いつも共にいてくださいます。 祈り:神様、身近な人から見放され、理解されないように思うことがあります。けれども、あなたはすべてを知っておられます。今日、孤独を感じている兄姉がいるなら、あなたの臨在がいっそう強く感じられますように。慰めと励ましを与えてください。アーメン

エレミヤ10

「主の御声に、天では水のざわめきが起こる。 主は地の果てから雲を上らせ、 雨のために稲妻を造り、 ご自分の倉から風を出される。」エレミヤ10:13 先週は毎日のように夕立がありました。黒っぽい雲がだんだん近づき、風が吹いて強い雨と雷がやってきました。その音と落雷の強さに、大自然の力を改めて感じました。 今週の天気はどうなるでしょうか。私たちは予報することはできても、天気そのものを変えることはできません。 しかし聖書は、神様が雲、雨、稲妻、風といった大自然をも治めておられる方だと語ります。 よく賛美する聖歌480番の 「輝く日を仰ぐ時 月星眺むる時 雷鳴り渡る時 まことのみ神を思う」 は、まさしくそのことを歌っています。 祈り:神様、自然は、あなたが造られ支配しておられることに思いを向けます。偉大なお方であるあなたを賛美します。今日も空を見上げる時、山を遠くに見る時、主が全地の王であることを賛美し、祈り心を持てますように。アーメン

エレミヤ9

「誇る者は、ただ、これを誇れ。 悟りを得て、わたしを知っていることを。 わたしは主であり、 地に恵みと公正と正義を行う者であるからだ。 まことに、わたしはこれらのことを喜ぶ。 ──主のことば。』」エレミヤ9:24 「私の目が涙の泉であったなら...殺された者たちのために 昼も夜も、泣こうものを(1節)」と、涙の預言者エレミヤは言います。国が滅びて荒廃する情景は、涙なくしては語れませんでした。 何よりも、人々が悔い改めず、「自分の知恵」「自分の力」「自分の富」(23節)とを誇り頼っていたことが、悲しむべきことでした。 エレミヤは「誇る者は、ただ主を知っていることを誇れ」と叫びました。 今日の私たちも、つい「自分の知恵」で判断したり、「自分の力」で行動したり、「自分の富」に安心したりということがあります。知恵、力、富は悪いものではありませんが、主よりも頼っているなら危険信号です。 「誇る者は主を誇れ」(1コリント1:31、2コリント10:17)をもう一度確認し、主に信頼していきましょう。 祈り:神様、あなたが私のすべてを誰よりも知ってくださり感謝します。知恵も力も富も、すべてはあなたからの賜物です。主のご支配と統治を信じます。難しい状況にある___さん、____さんに、主のご介入がありますように。 私も、日々主からの知恵、力、富を頂き、正しく用いることができますよう、助けてください。アーメン

エレミヤ8

「私の悲しみは癒やされず、 私の心は弱り果てている。」エレミヤ8:18 うつ状態の時に思わず口にしそうな言葉ですが、ここでのエレミヤは自己憐憫に陥っているわけではありません。 神の語りかけを聞こうとしないで滅びに向かっている自分の国イスラエルと、そこに 住む人々を思っての義憤が現れているのです。 まことの神を第一とせず、偶像礼拝や軍事力に頼ろうとするイスラエルの姿を、「涙の預言者」として嘆き悲しんだのでした。 今週の木曜集会で「心の偶像(思い込み、キリスト以外に頼りにするもの)」を点検し、福音の約束をいつも握るというテーマで分かち合いました。 イスラエルの姿を反面教師としながら、福音の恵みを受け取り実践する私たちとなれますように。 祈り:神様、聖書を読むと、人々の失敗からも学ぶことができます。愚かな偶像礼拝を避けることができますように。人々のために悲しみとりなし、神の真理を語り続けたエレミヤの嘆きと情熱の姿勢を、日本のために祈る私たちの姿とできるよう、神の愛に感激し、福音を喜ぶ心を今日も与えてください。アーメン

エレミヤ7

「寄留者、孤児、やもめを虐げず、咎なき者の血をこの場所で流さず、ほかの神々に従って自分の身にわざわいを招くようなことをしなければ、わたしはこの場所、わたしがあなたがたの先祖に与えたこの地に、とこしえからとこしえまで、あなたがたを住まわせる。」エレミヤ7:6~7 生き方と行いを改めるように(5節)という神様の声に従うことについて、具体的な例も主は示してくださいます。 「寄留者、孤児、やもめ」は、私たちの教会の周りでは ・日本に一時滞在・定住している外国人 ・在日韓国朝鮮人・中国人、中国残留孤児とその子孫 ・日系ブラジル人 ・地域で『よそ者』とみなされがちな人 ・シングルマザーやシングルファザーとその子どもたち ・児童養護施設や親戚の家で育っている子どもたち   等... まだまだおられるかもしれません。 こうした人たちを「虐げず」とは、差別しないことだけでなく、無関心でいないことも含まれると思います。キリストが同じように愛し、救いのために十字架にかかってくださった人たちです。 すぐ近所に住む人たちに福音が届くように祈っていくことも、地域宣教、世界宣教の一歩だと教えられます。秋に備えて、教会でトラクトを準備し始めました。神が備えてくださった方々に届きますように。 祈り:神様、私の住む地域にも多くの「寄留者、孤児、やもめ」に当たる方々がおられます。よい隣人となり、キリストにあって愛することができるよう、豊かな出会いと導きを与えてください。アーメン  

エレミヤ6

「彼らはわたしの民の傷をいいかげんに癒やし、 平安がないのに、 『平安だ、平安だ』と言っている。」エレミヤ6:14 神様は、偽預言者や祭司の言葉を叱責されます。神様のことばを正しく伝えず、状況をあたかも平安であるかのように歪めています。 神様は愛であると同時に、義であるお方です。赦しに満ちておられますが、悪を見過ごしにはなさいません。 私たちの罪をいいかげんにするのではなく、心からの悔い改めをするようにと招いておられます。 自身の身の回りのことも、そして日本の国のことも、「平安がないのに、『平安だ、平安だ』と言っている」とならないよう、よく見極め、祈り、悔い改めて神のみこころを知らせる者となれますように。 祈り:神様、私は____についていいかげんでした。悔い改めます。赦してください。新しい方向に歩みます。日本も、この政策やあの対応は、果たしてみこころにかなっているのかと疑問に思うことがあります。信仰者として誠実な態度と行動がとれるよう、勇気と機会を与えてください。アーメン

エレミヤ5

「預言者は偽りの預言をし、 祭司は自分勝手に治め、 わたしの民はそれを愛している。結局、あなたがたはどうするつもりなのか。」エレミヤ5:31 さばく神は恐ろしいと思うでしょうか。主なる神様は、無条件でさばかれる方ではありません。何度も何度も警告を出し、立ち返るようにと招いてくださいます。 ただ、強制されることはなさいません。私たちを愛するがゆえに、自由意思を尊重してくださいます。今日の箇所でも 「結局、あなたがたはどうするつもりなのか」と尋ねておられます。 私たちの身勝手さを嘆きながらも、戻ってくるのを切に望み待っておられる神様のまなざしを覚えて感謝します。 祈り:神様、自分勝手な歩みをしていた私を呼び、ご自身のものとしてくださり感謝します。この恵みを忘れないように歩んでいきたいです。しばらく礼拝を休んでいる___さん、___さんにも日々主の臨在が感じられ、信仰から離れることがないように助けてください。 アーメン

エレミヤ4

「私のはらわた、私のはらわたよ、私は悶える。 私の心臓の壁よ、私の心は高鳴り、 私は黙っていられない。 私のたましいが、角笛の音と 戦いの雄叫びを聞いたからだ。」エレミヤ4:19 自分の国が神から離れた歩みをしていること、それゆえ破滅に至ろうとしていることを、エレミヤは声をあげて預言します。 けれども人々は耳を貸そうとはしません。「実に、わたしの民は鈍く、わたしを知らない。愚かな子らで悟ることがない(22節)」と霊的に鈍っていました。 エレミヤは諦めず、神からのことばを伝え続けます。 私たちは、国の高官に向かって預言することはないかもしれません。でも、エレミヤと同じように、自分の国のためにだまっていられない、神のことばを伝えずにはいられないという情熱をもって今日も歩みたいと思います。 祈り:神様、私を今日もこの国に置いてくださり感謝します。国、府、市のリーダーが神のみこころに沿って治めることができますように。私も、近隣の方々に福音を伝え、教会に誘うことができますよう、救霊の情熱を与えてください。アーメン

エレミヤ3

「私たちは恥の中に伏し、 恥辱が私たちの覆いとなっています。 私たちの神、主に対し、 私たちも先祖も、 若いころから今日まで罪の中にいて、 私たちの神、主の御声に聞き従わなかったからです。」エレミヤ3:25 主の声に聞き従わず偶像礼拝に陥ったイスラエルの国に対して、主は 「 背信の子らよ、立ち返れ。 わたしがあなたがたの背信を癒やそう(22節)」と言われました。 今日も同じです。私たちがどんな失敗をしても、神様は「立ち返れ」と声をかけ、悔い改める者を赦してくださる方です。 「今、私たちはあなたのもとに参ります。 あなたこそ、私たちの神、主だからです(22節)」と素直な心で応答する者でありますように。 祈り:神様、あなたの愛とあわれみの大きさを覚えて感謝します。私に、悔い改めることのできる、柔らかい砕かれた心を与えてください。あなたに愛される神の子どもとして、純粋な思いで御前に出ることができますように。アーメン

エレミヤ2

「わたしの民は二つの悪を行った。 いのちの水の泉であるわたしを捨て、 多くの水溜めを自分たちのために掘ったのだ。 水を溜めることのできない、 壊れた水溜めを。」エレミヤ2:13 教会のあるこの辺りの地域は、昔から雨が少なくて、ため池が多く作られました。 同じように、中東の乾燥地域では、雨水をためて飲用や生活用水とするために水溜めを用いました。ただ、流れ込んでくる水がないならすぐに干上がってしまいます。また、ひびが入っていると、そこから水がもれて、やはり干上がってしまいます。 湧き水があるのに、あえて水溜めに頼ろうとする人はいません。 しかし、イスラエルが主である神に対してしたことは、それと同じだという宣告がされます。 恵みとあわれみ、祝福の泉である主を捨て、自分の力で世話をしなければならない偶像へと心変わりしてしまったことへの叱責がされます。 私たちも、同じようなことをする恐れがあります。神様よりも頼っているものがあるなら、イスラエルの人たちが陥ったのと同じ状態です。 いのちの泉であるキリストを第一として歩めるようにと、いつも心を見張りましょう。 祈り:神様、あなたの豊かな愛と恵みを忘れることがないように、私の心を守ってください。人や持ち物も大切ですが、主であるあなた以上に頼ることのないよう、気づきを与えてください。 「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。(マタイ6:33)」アーメン

エレミヤ1

「主は私に言われた。『まだ若い、と言うな。 わたしがあなたを遣わすすべてのところへ行き、 わたしがあなたに命じるすべてのことを語れ。彼らの顔を恐れるな。 わたしがあなたとともにいて、 あなたを救い出すからだ。 ──主のことば。』」エレミヤ1:7~8 エレミヤは神の召命を受けた時、「まだ若くて、どう語ってよいか分かりません(6節)」と言いました。モーセと同じような返答ですね。 それに対して、神様は「まだ若い、と言うな」と励まされます。神が遣わすところで、神からのことばを語るように、と。 それは、主がともにいてくださるからでした。恐れるな、とここでも神様は言われます。 困難な時代に召しを受けたエレミヤは、主に従い、ひどい目に合いつつも同胞を愛し、涙ながらに預言します。 この愛と忍耐は、キリストに似た性質だともいえます。 エレミヤの働きを読みながら、今日の私たちにも「恐れるな。あなたとともにいる」と声をかけてくださる主に感謝します。 祈り:神様、私を見捨てず、ともにいてくださることに感謝します。主に従い、遣わされる所で主のあかしができますように。教会に、さらに福音を味わい、福音を伝える機会を与えてください。アーメン

イザヤ66

「これらすべては、わたしの手が造った。 それで、これらすべては存在するのだ。 ──主のことば── わたしが目を留める者、それは、 貧しい者、霊の砕かれた者、 わたしのことばにおののく者だ。」イザヤ66:2 ステパノが殉教する前に、イザヤ66章の1、2節を引用しています。 「天はわたしの王座、地はわたしの足台。 あなたがたは、わたしのためにどのような家を建てようとするのか。 ー主のことばー わたしの安息の場は、いったいどこにあるのか。 これらすべては、わたしの手が造ったものではないか。(使徒7:49~50)」 初代教会でも、イザヤ書が愛読され、暗唱されていたことがわかります。 そして、主が目を留める者は「貧しい者、霊の砕かれた者、わたしのことばにおののく者だ」というのは、イエス様が山上の垂訓で「心の貧しい者は幸いです」と言われたことを思い出します。 66巻の聖書のミニチュアとも言われるイザヤ書66章。新約時代の私たちも、みことばの恵みとキリストを旧約聖書から汲み出し、愛読できますように。明日からはエレミヤ書です。 祈り:神様、変わらないみことばを与えてくださり感謝します。日々、みことばを味わい、愛読し、生活に適用できるよう助けてください。アーメン

イザヤ65

「だから、わたしが創造するものを、 いついつまでも楽しみ喜べ。 見よ。わたしはエルサレムを創造して喜びとし、 その民を楽しみとする。」イザヤ65:18 台風が通りすぎました。被害が出た場所に回復をお祈りします。 台風の後、教会の庭も入口も、飛んできた小枝や葉やゴミなどが散乱しています。 蝉の死骸やダンゴムシも目につきます。 それらの荒れた場所を掃除し、ゴミを取り除くと、きれいな空間が戻ってほっとします。まるで、穏やかな日常を回復したような気持ちになりました。 聖書には、このすさんだ世界は滅びで終わるのではなく、やがて主なる神がすべてを回復され、新天新地を治められることが描かれています。 主が祝福される、美しく、嬉しく、楽しく、悲しみのない場所です。 神ご自身も共におられ、民を喜び楽しんでくださるというのです。 それがどのようなものか、まだ体験しないうちは想像の域を出ません。 それでも、想像を越えた素晴らしいものであることは確かです。 期待し楽しみにしつつ、今日一日を歩むことができて幸いです。 祈り:神様、台風で被害にあった方を励ましてください。世界各地の災害の場所にいる方を励ましてください。罪と嘆きに満ちた世界に心痛みますが、やがて主の回復があり、新天新地が訪れる希望を感謝します。今日一日の私の歩みにも、永遠の視点を与えてください。アーメン

イザヤ64

「ああ、あなたが天を裂いて降りて来られると、 山々はあなたの御前で揺れ動きます。」イザヤ64:1 台風7号が通過しました。だんだんと進路が西よりになり、2018年の台風(Jebi)と似たコースでとても不安になりました。あの時は標識が折れ曲がり、いろんなものが飛散し、教会の建物も大きな被害を受けたのでした。風の音を耳にしながら、風を避ける場所が与えられている恵みを覚えました。 主が来られると、「山々は御前で揺れ動く」とあります。台風よりもずっと大きな権威と力を持ったお方が私たちの神です。なんと嬉しいことでしょうか。 昨日、もう一つ嬉しいことがありました。遠方に引っ越し、入院されたとかでしばらく連絡がとれなかった姉妹が、台風の通り道にある教会を心配して電話をくださったことでした。先日退院なさったそうです。思わぬ嬉しいサプライズでした! 今日も兄弟姉妹と互いに祈りあえる恵みと励ましに、心から感謝します。 祈り:神様、あなたの力と権威の前にひれ伏します。互いに祈り合うことをもっと教えてください。思い煩いや問題を、主の元に持って行くことができますように。アーメン

イザヤ63

「谷に下る家畜のように、 主の御霊が彼らを憩わせた。 このようにして、あなたはご自分の民を導き、 ご自分のために輝かしい名を成されました。」イザヤ63:14 台風の朝ですが、聖書は対照的なゆったりとした場面が出てきます。  主の回復が、出エジプトの回想とともに述べられます。 「谷に下る家畜」のくつろいだ様は、詩篇23篇の羊と羊飼いの姿を連想させます。 御霊にあって、強制的ではなく、くつろいだ中にも喜びが満ちています。 もし羊が喜ぶなら、自分から進んで羊飼いのそばにいたいと思うでしょう。 私たちは、主を喜んでいるでしょうか。御霊に導かれ主の前に出ることを優先するとき、他のものも添えて与えられます。 何となく日々追われ、予定がごちゃごちゃしていると思うなら、思いきって秋からの生活スタイルを主にあって見直してみませんか。礼拝を大切にし、生活のあらゆる面で神を第一としていきましょう。木曜集会、土曜祈祷礼拝、日曜の早朝礼拝・夕拝にも歓迎します。 祈り:神様、主のもとに憩いたいと願います。私の人生の優先順位をもう一度点検します。礼拝を大切にするライフスタイルを取り戻し、大切にできますように。アーメン

イザヤ62

「あなたはもう、『見捨てられた』と言われず、 あなたの土地は 『荒れ果てている』とは言われない。 かえって、あなたは 『わたしの喜びは彼女にある』と呼ばれ、 あなたの国は『夫のある国』と呼ばれる。 それは、主の喜びがあなたにあり、 あなたの国が夫を得るからである。」イザヤ62:4 イスラエルが主の花嫁として、主に喜ばれる国になると語られます。 次の5節にも「花婿が花嫁を喜ぶように、あなたの神はあなたを喜ぶ」と重ねて書かれています。このイスラエルは主に選ばれた民として旧約時代に用いられています。だから、新約時代では主の教会、クリスチャンたちへの預言でもあります。 新約聖書にも、イエス・キリストと教会とが「花婿」と「花嫁」にたとえられ描写されています(黙示録19章)。 私たち信じる者の集まりが教会です。不完全で弱い者の集まりであっても、主の目には「花嫁」に見える大切な群れです。主が愛される教会を、私もますます愛することができますようにと祈ります。 祈り:神様、何度も反逆し不完全なイスラエルを、あなたが愛して回復されたことを読みました。教会も主が愛し「花嫁」のように思ってくださり感謝します。そこに連なる者としてくださり、ありがとうございます。狭山福音教会を、また日本中、世界中の主の教会を、今日も主の愛で祝福し導いてください。アーメン

イザヤ61

「神である主の霊がわたしの上にある。 貧しい人に良い知らせを伝えるため、心の傷ついた者を癒やすため、主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。 捕らわれ人には解放を、 囚人には釈放を告げ、」イザヤ61:1 直接的にはバビロン捕囚からの解放する王を指していますが、この箇所もメシア預言として、イエス様を通して成就しました。 イエス様は故郷ナザレでこの箇所を読み、「あなたがたが耳にしたとおり、今日、この聖書のことばが実現しました(ルカ4:21)」と言われました。 今日も、イエス様が私たちを罪から解放し自由にしてくださった恵みは変わりません。信仰をもって 「私は主にあって大いに楽しみ、 私のたましいも私の神にあって喜ぶ。  主が私に救いの衣を着せ、  正義の外套をまとわせ、  花婿のように栄冠をかぶらせ、  花嫁のように宝玉で飾ってくださるからだ。(10節)」 と恵みに応答しましょう!主の守りが今週もありますように。 祈り:神様、あなたにあって私は楽しみ、私のたましいも喜びます。あなたが私に救いの衣、正義の外套を着せてくださったからです。花婿・花嫁のように飾ってくださるからです。 日本は今週、お盆や各種宗教行事が多いです。福音を知らず、漠然と努力で先祖を救おうと考える人々が多くいます。キリストの十字架の救いを、どうか一人でも多くの日本人が知ることができますように。お坊さんたちがイエス・キリストに出会いますように。アーメン

イザヤ60

「見よ、闇が地をおおっている。 暗黒が諸国の民を。 しかし、あなたの上には主が輝き、 主の栄光があなたの上に現れる。」イザヤ60:2 数日前に、ハワイ・マウイ島の大規模な火災のニュースがありました。ハリケーンの風で森林火災が住宅にまで広がり、多くの人が家を失い、ハワイ王国の都だったラハイナという町が焼失しました。 自然災害の多い日本に住む者として、他人事とは思えませんでした。失意の底にある人のために、迅速な助けが及ぶようにとお祈りします。 イザヤ60章には苦難からの救い、主の栄光の現れが宣言されています。 「あなたの太陽はもう沈むことがなく、 あなたの月は陰ることがない。 主があなたの永遠の光となり、 あなたの嘆き悲しむ日が終わるからである。(20節)」 どんなに暗い世界に生きていても、永遠という視点で見るなら、主の民には絶望で終わることがありません。嘆きや悲しみはやがて過ぎ去り、主の栄光は太陽や月をしのぐ輝きとなります。 祈り:神様、あなたが永遠の光、栄光であることを感謝します。災害や戦争で家族や家を失った人、避難所や仮設住宅で住む人に、必要な物資と助けが届きますように。台風の進路や大雨の地域のクリスチャンや教会を支えてください。主の希望の光として用いてください。アーメン

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