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使徒18

使徒18、Ⅱ歴代誌13−14 「ある夜、主は幻によってパウロに言われた。『恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。わたしがああなたとともにいるので、あなたを襲って危害を加える者はいない。この町には、わたしの民がたくさんいるのだから。』」使徒18:9−10 パウロは迫害されても反対されても大胆に福音を語ってはいた。しかし、さらに主からの明確な保証をコリントでは得たのであった。 「この町には、わたしの民がたくさんいる」とキリストが宣言してくださったので、パウロは1年半、宣教旅行の休止とも言える長い期間を費やしてコリント教会の開拓を行った。 その間にプリスキラとアキラはパウロの良い同労者となり、さらに彼らがアポロに教えていった。弟子訓練がこうしてなされていったのである。 雲をつかむような、先の見えない状況であっても、神様の働きは休むことなく行われている。地方教会でも、小さな開拓教会でも、主の召しとご計画は良いものであり今日も進んでいることを信じる。

詩篇66

詩篇64−66、Ⅱ歴代誌10−12 「神よ まことに あなたは私たちを試し  銀を精錬するように 私たちを練られました。」詩篇66:10 昨日、ある方から15年ぶりに電話をいただいた。10年ほど、人生の荒野とも言える葛藤を歩んでおられたこと。一度は生きていることもやめようかと思ったそうである。しかし、神様はその方を見捨てず、自分にひどいことを言った人々を許し、祝福を祈れるまでにしてくださった。 祝福を祈れるようになってから、神が新しい召しを与え、思いがけない働きや和解が次々と起こって来たそうである。 ダビデも、サウルから逃げる生活を続けた。パウロも、回心後アラビアの荒野で数年過ごした。 荒野は神と出会う場所、神の恵みを再確認する場所である。そして、荒野で過ごした者は銀で精錬されるように信仰の勇者と変えられていくのである。

詩篇65

詩篇64−66、Ⅱ歴代誌7−9 「あなたはその年に 御恵みの冠をかぶらせます。   あなたの通られた跡には 油が滴っています。」詩篇65:11 「冠」は「コロナ」とも訳せるとのことである。 どんな年であっても、神様は祝福を持って良いもので満ち足らせようとしてくださる。苦難の年も、停滞したように思える年でも、そこに神様が居られるなら油が滴る豊かな日々となる。 主よ、今年、今月、今日はあなたの油で滴っています。良い神様が、良いご計画で導いてくださっていると信じます。どうぞそれを悟ることができますように。今日の歩みも、あなたの道を歩めますように。

使徒17

使徒17、Ⅱ歴代誌4−6 「パウロは、アレオパゴスの中央に立って言った。『アテネの人たち。あなたがたは、あらゆる点で宗教心にあつい方々だと、私は見ております。道を通りながら、あなたがたの拝むものをよく見ているうちに、「知られていない神に」と刻まれた祭壇があるのを見つけたからです。そこで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それを教えましょう。」使徒17:22、23 テサロニケ、べレアを経てようやくアテネにたどり着いたパウロであったが、福音を語る情熱は彼を静かにはさせておかなかった。 アテネのアレオパゴスの真ん中に立ち、アテネの人にキリストを説明し始めた。しかも、アテネの人たちの宗教心を理解した上での話し方だった。 私たちには、パウロのような熱意があるだろうか。家族や友人がキリストに出会わないままで良いだろうか。連日、電車の人身事故のニュースが入ってくる。その人たちがキリストにある希望を知っていたら、教会の交わりに入っていたら、人生は変わっていたのではと思うと、自分にできるサイズ、規模からキリストを紹介したいと思わされる。種まきを続けていきたい。

使徒16

使徒16、Ⅱ歴代誌1−3 「その夜、パウロは幻を見た。一人のマケドニア人が立って、『マケドニアに渡って来て、私たちを助けてください』と懇願するのであった。パウロがこの幻を見たとき、私たちはただちにマケドニアに渡ることにした。彼らに福音を宣べ伝えるために、神が私たちを召しておられるのだと確信したからである。」使徒16:9−10 私は突発的な予定変更が苦手である。計画が狂うことへの混乱、そして自分自身の心が対応しきれないという部分がある。 しかし、パウロは聖霊の幻により、柔軟な変更を重ねていった。ビティニアに進まずトロアスにくだり(7−8節)、次にアジアでなくマケドニアに渡った(9節以降)。 そして、パウロだけではなく「私たちは」(10節)と宣教チームとして柔軟に決断したのである。 主の働きをする時に、思いと違う方向に導かれることがある。 人のわがままならそれは矯正しなければならない。しかし、聖霊がそうされるなら「はい、従います」と柔らかい心で返事をする者となりたい。

使徒15

使徒15、Ⅰ歴代誌28−29 「聖霊と私たちは、次の必要なことのほかには、あなたがたに、それ以上のどんな重荷も負わせないことを決めました。」使徒15:28 慣習に従って割礼を救いの条件としようとした人々に、使徒たちはいわゆるエルサレム会議ではっきりとガイドラインを示した。キリストの名のみに救いがある、と。 しかし、同じ誤りをクリスチャンは繰り返してきた。免罪符の販売もその一つである。そして、もしかすると、私たちも教会に来る人、洗礼を受けた人を、それ以上の基準でなければちゃんとしたクリスチャンでないないと誤解しているかもしれない。奉仕をしているとか、礼拝に休まないとか、献金を欠かさないとか、異言を語らないとかである。 もちろん、クリスチャンとして成長していくために様々な実践や態度の変化は大切である。しかし、最初の第一歩である救いは神からの恵みでしかないことを覚えていたい。裁きあったり自分の基準で評価したりするのではなく、神の愛と神の基準は何かを静かに思い巡らしたい。そして、不十分な信仰生活だと思える人を愛の心で励まし祈りで支え、共に成長させていただけるよう神に求めたい。

使徒14

使徒14、Ⅰ歴代誌25−27 「ところが、アンティオキアとイコニオンからユダヤ人たちがやって来て、群衆を巻き込み、パウロを石打ちにした。彼らはパウロが死んだものと思って、町の外に引きずり出した。しかし、弟子たちがパウロを囲んでいると、彼は立ち上がって町に入って行った。そして翌日、バルナバとともにデルベに向かった。」使徒14:19・20 かつてのパウロがそうだったように、キリストの名が広がるのを好まないユダヤ人は、わざわざ拠点の町からやって来て迫害をした。 パウロは瀕死の状態で、しかも引きずり出されたのだから、普通は死んでしまったことだろう。弟子たちが囲んでいた、とさらっと書いてあるが、ここには若いテモテも混じっていたと考えられる(2テモテ3;10−11)。 そして、彼らはパウロを囲んで観察していただけではなく、聖霊によって祈っていたに違いない。その結果、翌日は移動できるまでに回復した。まさに、主の奇蹟が行われたのである。 今まで、パウロの命がけの信仰が素晴らしいという視点で読んでいたが、今回ここを読んで、神の奇蹟がパウロ自身の上にも臨んだのだということに気付かされた。パウロもただの人である。肉体的には限界があった。しかし、信仰により、主の癒しと奇蹟を何度も受け取ったのだ。 私たちがパウロと同じ目に合うかどうかはわからない。しかし、働きや召しに応じた奇蹟を、神は行ってくださる。時間も能力も、自分の考える限界で計算しなくても、聖霊の働き、神のあわれみにより、神が望まれる働きにふさわしい力が与えられる。焦らず、安心して仕え、歩みたい。

使徒13

使徒13、Ⅰ歴代誌22−24 「二人は聖霊によって送り出され、セレウキアに下り、そこからキプロスに向けて船出し、」使徒13:4 聖霊が聖別しなさいと命じられたアンテオケ教会は、バルナバとサウロのために断食し、祈った。手を置いて祈り、送り出した。 ここから本格的に海外への宣教が始まる。聖霊が動かれる通りに働きが進められていく。 私自身は、かつて直接海外に滞在して宣教することを願っていた。しかし、主の御心は日本にとどまり、地道に仕えることであった。その中で、自分が出ていくよりももっと多くの機会が与えられた(留学生、宣教師のケア、短期での各国への宣教の機会など)。そうして、思いがけない方法で主のわざが表されていくことを学んだ。 次は、送り出す側に回ること、励まし訓練して送り出すことを示されている。一人ではなし得ないことを、神様は教会という主のチームを用いて行っていかれる。

詩篇62

詩篇61−63、1歴代誌19−21 「私のたましいよ 黙って ただ神を待ち望め。  私の望みは神から来るからだ。」詩篇62:5 英語(NIV訳)では ”Yes, my soul” と、文字通り自分自身に呼びかけて確認している。落胆のときほど、自分の心をどう保つかが難しい。ダビデはよく知っていた。今が時でなくても待ち望め、そのことを心に言い聞かせた。待ち望むとは、今は何も起こらないが、必ずやがて何か起こるということの確認、そして期待できるお方がおられるのだという確信である。 今日待ち望んでいるものがあるならば、神の恵みと誠実さ、そしてこれまでいかに多くのものを与えられ、助けられてきたかを思い起こそう。

詩篇61

詩篇61−63、Ⅰ歴代誌16−18 「私は あなたの幕屋にいつまでも住み  御翼の陰に身を避けます。」詩篇61:4 ダビデが死に瀕していたか、あるいは非常な危険の中で荒野の果てにいたかという状況である。「私の心が衰え果てるとき 私は地の果てから あなたを呼び求めます。どうか 及びがたいほど高い岩の上に 私を導いてください」(2節)と率直な気持ちを出している。 私たちも絶対絶命のときがある。人生で荒野の中を彷徨うようなときがある。しかし、どこにいても神の住まいであるのだという事実がある。ダビデはそれに気づく。神は私たちがどこにいても変わらずそこにおられ、変わらずその御翼でかくまい守ってくださる。 疲れた時にはその翼の陰に身を寄せ、休むことを許してくださる神様が共にいてくださる。今日も、「あなたの重荷を主にゆだねよ」と声をかけてくださる神様を知る幸いを思う。

使徒12

使徒12、Ⅰ歴代誌13−15 「こうしてペテロは牢に閉じ込められていたが、教会は彼のために、熱心な祈りを神にささげていた。」使徒12:5 目に見える状況は絶望的であっても、可能性がどんなに小さくても、教会はあきらめなかった。なぜなら、神には不可能はないと信じていたからである。この教会は一つの教会だけではなく、信者たちの群れ、「公同の教会」が一致して祈りに覚えていた。 神は奇蹟によってペテロを救い出された。一方、ヘロデは虫に噛まれて息絶えた。神の方法はいつも私たちの思いを越えている。今日も、あきらめないで、神の方法に期待して祈ろう。自分と周囲のことはもちろんだが、国や世界のためにも、信じる者の祈りが神の御手を動かすのである。

使徒11

使徒11、1歴代誌10−12 「彼は立派な人物で、聖霊と信仰に満ちている人であった。こうして、大勢の人たちが主に導かれた。」使徒11:24 バルナバが、聖霊に満たされ、信仰に満たされた、人格的にも良い人であったことが述べられている。伝道宣教において、私たちの人柄そのものも人々が見ていることを覚えたい。もちろん、うわべを よく見せるのではなく、聖霊が導かれるように、またみことばが日々の指針となって私たちに知恵を与え行く道を教えてくださるように。 理性、品性と聖霊に満たされていることとは両立するのである。教会の持ち味は様々だが、教会にも双方の満たしがあるようにと祈る。

使徒10

使徒10、Ⅰ歴代誌7−9 「そこで、ペテロは口を開いてこう言った。『これで私は、はっきり分かりました。神はえこひいきをする方ではなく、どこの国の人であっても、神を恐れ、正義を行う人は、神に受け入れられます。」使徒10:34−35 コルネリウスは異邦人だったが、神を恐れ、敬虔で、非常な人格者として有名だった。ユダヤ教の感覚では異邦人が神に救われることはないという思いだったが、天使を通してペテロにその概念を打ち砕くよう神は働かれた。 前進して聖霊に導かれている教会は、神のみわざと導きをユダヤ人コミュニティの中で体験していた。いよいよ、さらに福音が世界に向けて伝わる時、まずリーダーであるペテロの概念を変えることを聖霊はなさった。そうして、異邦人への選びの器であるパウロが本格的に用いられていく。 神の働きは思いがけなく、しかし時には順序を追って段階的に進められていく。 今神が耕すように促しておられるところを耕すこと、それが次の動きへとつながって導いてくださることを確信したい。そのために、自分の常識や好みやプライドを、神の前に一旦手放し置くことを神は求められるかもしれない。

使徒9

使徒9、Ⅰ歴代誌4-6 「こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地にわたり築き上げられて平安を得た。主を恐れ、聖霊に励まされて前進し続け、信者の数が増えていった。」使徒9:31 サウロの回心、そして暗殺計画など、目まぐるしく主のご計画と変化がもたらされる記述が続く。それらを受けて「こうして」と31節では言うのだが、こうして混乱した、でもなく、こうして教会が困難に直面した、でもなく、「教会は平安を得た」と書かれている。 なぜ平安を得ることができたのか。それは、聖霊様に励まされ、聖霊様とともに歩んでいったからである。 今日、聖霊の導きと声を聞いて歩みたい。自分の感情や目に見える状況だけでがっかりしないで、聖霊が共におられて神の良いご計画を日々とりなし願ってくださっていることを覚えよう。

使徒8

使徒8、Ⅰ歴代誌1−3 「散らされた人々は、みことばの福音を伝えながら巡り歩いた。」 使徒8:4 ステパノの死と同時にエルサレム教会にも迫害が起こり、信者が追放されてしまった。悲しく、敗北の出来事にも思える。 しかし、それは福音がさらに広がるための、神の大きな計画のうちにあった。散らされた人たちは、各地で福音を伝えた。ピリポもそうであった。 そして、「その町には、大きな喜びがあった」(8節)、「宦官はもはやピリポを見ることはなかったが、喜びながら帰って行った」(39節)のように、エルサレムにいただけではあり得なかった救いの喜びが広がっていったのである。 神は、私たちの悲しみや落胆を、なんと恵み深く深淵で大きな計画によって喜びに変えてくださる方だろうか。

詩篇60

詩篇58−60、 Ⅱ列王記24−25 「どうか敵から私たちを助けてください。  人による救いはむなしいからです。  神にあって 私たちは力ある働きをします。  神が 私たちの敵を踏みつけてくださいます。」   詩篇60:11−12 不安になった時、確信がない時、つい人の励ましや慰め、「大丈夫だよ」という言葉を求めてしまう。 それは悪いことではないが、相手の感情や思い、環境に左右されてしまう。 この詩篇は実際の戦場での敵がいる中でのものである。しかし、物理的な敵と同様、私たちの心の中を揺るがす敵、私たちに神のために大胆になることを妨げようとする霊的な敵が同じようにいることを忘れてはならない。 勝利する方法はただ一つ、「神にあって」である。力ある働きも、活躍も、神の栄光のため、神の国が来るために行う。 聖書的には全地の「所有者は神、管理者が人」である。私たちは何も地上に持ってくることも、持っていくこともできない。地上にいる間、どのように与えられているものを管理できるか。神にあって、全身全霊をささげ、人による救いではなく、神にあって仕えていきたい。神が望まれるところで、小さくても大きくても、神の御心に従い、用いていただきたい。

詩篇59

詩篇58−60、Ⅱ列王記22−23 「私の力よ 私はあなたを見続けます。  神が私の砦だからです。  私の恵みの神は 私を迎えに来てくださる。  神は 私に敵を平然と眺めるようにしてくださる。」    詩篇59:9−10 「見続けます」は「シャマー」というヘブル語で、「しがみつきます」というニュアンスがある。つまり、詩人は神が助けてくださるという期待と確信をもって見続けている。 後半の「神は 私を迎えに来てくださる」というのも、ぼうっと待っているのではなく、神が私の前を行かれるので、その後についていくという積極的な姿勢が表れている。 救いの恵みは一方的に与えられたものだが、日々の信仰の歩みは選択と決意、実行が迫られる。神に前を行っていただき、その後をぶれずについて行く者でありたい。

使徒7

使徒7、Ⅱ列王記19−21 「 するとステパノは言った。『兄弟ならびに父である皆さん、きいてください。私たちの父アブラハムがハランに住む以前、まだメソポタミアにいたとき、栄光の神が彼に現れ、』 」使徒7:2 迫害され偽の容疑で捕らえられ、まさに石打ちの刑になろうとする時である。ステパノがしたのは、自分の弁護でもなく命乞いでもなく、自分たちの父祖の神、聖書の神がキリストを遣わされたこと、福音が本物であること、悔い改めて信じるようにと勧めることであった。最後の瞬間まで、伝道説教を語ったのである。 私たちは、自分が絶体絶命に追い込まれた時、何をするだろうか。 最後の瞬間にも、神の国がこの地上に広がるように、と願うことができるだろうか。ステパノの献身に学びたい。

使徒6

使徒6、Ⅱ列王記17−18 「さて、ステパノは恵みと力に満ち、人々の間で大いなる不思議としるしを行っていた。」使徒6:8 食物の配給を公平に行うため選ばれた七人の一人がステパノだった。食事の世話といっても、多くの人に分配する統率力と人望の厚さ、人間関係やコミュニケーション能力が必要とされた。何より、人選に当たっては聖霊と知恵に満たされていることが条件として挙げられている。 ステパノは、12使徒のような奉仕、立場ではなかった。しかし、同じくらい重要な立場であり、神によって目覚ましく用いられた。不思議としるしを行い、とうとう捕らえられてしまうほどだった。 私の今日の奉仕や働きは、目立たない地味なものに思えるかもしれない。権威がないように思えるかもしれない。しかしステパノがそうであったように、神は見ておられ、神は必要に応じて用いられる。その確信を握り、人にではなく神に目を留めて歩みたい。

使徒5

使徒5、Ⅱ列王記15−16 「…もしその計画や行動が人間から出たものなら、自滅するでしょう。しかし、もしそれが神から出たものなら、彼らを滅ぼすことはできないでしょう。もしかすると、あなた方は神に敵対する者になってしまいます。…」使徒5:  38−39 ガマリエルはパリサイ人であったが、ここでとても重要な発言をしている。つまり、使徒のしていることが人から出たものか、神から出たものか、それが重要であるということを指摘した。そして、彼の発言は議員たちも、また使徒やクリスチャンたちも納得できるものであった。もちろん、今日の私たちも納得できる。 初代教会はなくなるどころか、どんな迫害や困難にあっても成長していった。それで、この働きが神から出たものであるということが明らかである。 私のしている奉仕、しようとしている計画は人から出たものか、神から出たものか。それをよく吟味して歩みたい。ふと言ってしまった発言、逆にせざるを得ない状況にいつの間にか置かれていること、一つ一つが人の計画か、神の計画か。静まり、黙想すること。ニュースや状況に惑わされず、神の大きなご計画、創造された世界の歴史の中で生かされている感謝に目を向けたい。たとえ、コロナウイルスの緊急事態宣言下であっても(2021年5月12日)。

使徒4

使徒4、Ⅱ列王記13−14 「しかし、ペテロとヨハネは彼らに答えた。『神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従うほうが、神の御前に正しいかどうか、判断してください。私たちは、自分たちが見たことや聞いたことを話さないわけにはいきません。』」使徒4:19−20 キリストの救いにあずかるのは大きな恵みである。神の愛を体験し、神の素晴らしい恵みに浸ることは信仰の土台である。 しかし、その恵みが素晴らしいならば、そのままにしておくのではなく、周囲の人にも伝えていきたいと願うはずである。優れた商品を友人にも勧めたくなるなら、それよりはるかに勝った福音を話したくなるはずである。 同時に、福音を本気で分かち合いたいと思うなら、困難が伴うことという覚悟が必要である。ペテロとヨハネもそうであった。捕らえられ、尋問され、脅され、時には投獄された。それでも彼らは復員を伝えることをやめなかった。 「神に聞き従う」こと、そして「自分たちが見たことや聞いたことを話さないわけにはいきません」という確信があった。それは、福音があまりにも素晴らしく、黙ってはいられないこと、そして人よりも神に従うことの価値を体験していたからだった。 私たちも、彼らと同じような確信があるだろうか。福音を味わっているだろうか。

使徒3

使徒3、Ⅱ列王記10−12 「このイエスの名が、その名を信じる信仰のゆえに、あなたがたが今見て知っているこの人を強くしました。イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの前で、このとおり完全なからだにしたのです。」使徒3:16 イエスの名によってペテロとヨハネが祈ると、生まれつき足が不自由なこの人は癒された。それは人の力やわざではなく、神のわざであった。 イエスの名には力がある。そして思いを越えた奇蹟や癒しが起こり、回復がもたらされる。ただし、福音書でも使徒の働きでも、それは私たちの信仰の有無が問われている。 信じるものがイエスの名によって祈る時、神の栄光と力が現れる。わざは神のものだが、それを見た人たちが説明を求めたとき、悔い改めと救いについての説明は私たちに委ねられている。宣教は神様が委ねられたことを忠実に果たす、光栄な神との共同作業なのである。

詩篇57

詩篇55−57、Ⅱ列王記7−9 「私をあわれんでください。神よ。  私をあわれんでください。  私のたましいは あなたに身を避けていますから。  私は 滅びが過ぎ去るまで  御翼の陰に身を避けます。」詩篇56:1 敵に追われ、危険が迫っている時のダビデの祈りの詩篇である。 洞穴で、まず個人として神の御翼の陰に身を避けるという祈りが捧げられる。 しかし、この詩篇がこれで終わっていないことに注目したい。個人としては命を狙われて危険に瀕しているが、ダビデはこの後「神よ あなたが天で あなたの栄光が 全世界であがめられますように(5節)」と目を天に向けている。 危機の時ほど視野が狭く、自分の身辺の状況しか見えなくなる。しかし、天に目を向け神を仰ぐとき、すでに突破口が神によって用意されていることにふと、気づくのである。

詩篇55

詩篇55ー57、Ⅱ列王記4−6 「あなたの重荷を主にゆだねよ。  主があなたを支えてくださる。  主は決して  正しい者が揺るがされるようにはなさらない。」詩篇55:22 神様が祈りという行為を人に与えてくださったのは、神にとってというよりは私たちのためを思ってくださったのだと思う。 感謝や賛美を忘れないようにするため。神様に何をして欲しいのか、自分の願いを明らかにするため。信仰の告白をして、励ましを受けるため。確信を得るため。等々…。 重荷をゆだねる場所がある、と神は言われる。そして、重荷を背負おうと言ってくださる主がおられる。同時に、私たち自身をも支えてくださるのである。 今日の重荷は何か。経済的なこと、人間関係、仕事、家庭、時には教会の奉仕も重荷かもしれない。完璧であらねば、と思ってもそうできないのが人間である。しかし、完全な主にゆだねるなら、主が守ってくださる。祈りによって、決断や行動を主にゆだねよう。朝だけでなく昼も夜も、座っている時だけでなく歩いていても職場にいても。

使徒2

使徒2、Ⅱ列王記1−3 「すると皆が精霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた。」使徒2:4    ペンテコステの日に起こったことは、人間が計画したことではなかった。イエス様が約束を与えて昇天されたのち、「突然」(2節)起こったのであった。 それは、御霊の働きに他ならない。「御霊が語らせるままに」彼らは従っただけだった。 ペテロが会衆の前で語ったのも、信者となった人たちが喜びに満たされたのも、聖霊がそうさせてくださった。 そして、救われる人を毎日加えてくださったのも主ご自身、一つにしてくださったのも主ご自身であった (47節)。 奉仕でも牧会でも、私がやみくもに頑張ると、燃え尽き疲れ果ててしまう。そうではなく、聖霊様がさせてくださることを見極めたい。何かすることも大事だが、何かしないことも大事である。聖霊の働きを、あたかも自分がしたかのように誤解することがないように。栄光を主にお返しできるように。

使徒1

使徒1、Ⅰ列王記21−22 「しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」使徒1:8 イエス様が天に昇られる前に弟子たちに言われたことばである。そしてペンテコステの日にこのことばが実現した。 それは、聖霊が下られたことによる。もし聖霊の働きがなければ、使徒の働きに出てくるような福音の広がりはなかっただろう。聖霊によって私たちは力をいただくのである。今日も同じく、聖霊の働きなしに何かを自分の思いや力で実行しようと思っても、それは徒労と小さな自己実現に終わってしまう。 この後、弟子たちはイエス様と顔と顔を実際に合わせることはなかった。人間的には、イエス様を懐かしく思い、寂しくもあっただろう。それでも、主の霊がともにいてくださるなら、自分ではできない力と方向性を示され、力強く福音を伝えていった。 私たちはどのくらい聖霊に感謝し、聖霊の内住を大切にしているだろうか。 ナボテ(1列王記21)は約束の地に得た自分の畑を、永遠の財産として大切に思っていた。それゆえアハブ王に殺されてしまうのだが、それ以上に私たちにとって聖霊様の臨在は大切である。 コロナウイルスで、インドでは多くのクリスチャンも召されていった。特に、団体の指導者、リーダーたちが召されて交代が起こっている。これまでのベテランリーダーが突然不在になったのは寂しく痛手であるが、すでに次世代リーダーが育っているのである。 信仰の継承、主の働きの継承が、思わぬ事態の中でも進んでいくのは聖霊の働きである。そしてもちろん、これまで働いた忠実なリーダーたちは、主のみもとで安らぎ、平安のうちにいるのである。 何という主のご計画の深遠さ、人の理解を越えたみ思いか。同時に、愛する人を天に送った家族、教会、団体の慰めと励ましも祈る者である。

ヨハネ21

ヨハネ21、Ⅰ列王記19−20 「イエスは三度目もペテロに、『ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛していますか』と言われた。ペテロは、イエスが三度目も『あなたはわたしを愛していますか』と言われたので、心を痛めてイエスに言った。『主よ、あなたはすべてをご存じです。あなたは、私があなたを愛していることを知っておられます。』イエスは彼に言われた。『わたしの羊を飼いなさい。』」ヨハネ21:17 三度イエス様がペテロに「私を愛しますか」と聞いてくださり、ペテロとのやりとりを続けてくださった。 ペテロは三度も同じことを聞かれて「心を痛めた」と書かれている。もちろん自分が十字架の前にイエスを否認したことを思い出しただろうし、今回もなぜ繰り返されるのだろうかと悲しい気持ちにもなっただろう。 しかし、もしこれが一度きりの会話だったら心が痛まなかっただろうか。あえて三度も聞かれたというのは、三度も話しかけてくださったことに他ならない。イエス様とのコミュニケーションが完全に回復したこと、そしてイエス様がペテロを無視したり適当にあしらったりされたわけではないことがはっきりする。 心を痛めて「主よ、あなたは全てをご存じです」と答えたペテロだったが、それは同時に彼の信仰告白の言葉ともなった。私たちも、様々な心痛む状況の中で「主よ、あなたは全てをご存じです」と告白し希望をキリストにおいて今日も過ごしたい。

ヨハネ20

ヨハネ20、Ⅰ列王記16−18 「これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。」ヨハネ20:31 聖書を読むのは知的好奇心を満たすためだけではない。聖書によって生きた神のことばを聴き、日々の歩みで従い実践するためである。 また、聖書が書かれたのも、イエスが神の子であることを確信できるためである。そして信じて永遠のいのちを得るためである。 20章にはそのことがはっきり書かれている。31節を読むときに、史実と合わせて書き手ヨハネの意図がはっきりと伝わってくる。そしてそれは同時に神様の私たちへの愛の表れと願いの表れである。 ヨハネは黙示録も書いたが、それはパトモス島へ流されている時のことであった。彼が弟子として見たことは福音書に、孤独の中で見たことは黙示録に書かれている。どちらも、聖霊の促しを受けて記していったのである。同じ聖霊が今日私に促しておられることは何だろうか。

ヨハネ19

ヨハネ19、Ⅰ列王記14−15 「それから、イエスはすべてのことが完了したのを知ると、聖書が成就するために、『私は渇く』と言われた。」ヨハネ19:28 十字架にかかりながら、イエス様が求められたのは父なる神の御顔と御心だった。最後まで耐えてくださり、そしてすべてが完了したことも、ご自分の任務が成し遂げられたこともご存知だった。 コロナウイルスで、インドの友人が亡くなった。クリスチャンスクールを設立し、夫婦で子どもたちの教育に情熱を傾けた方だった。突然の罹患と重症化、ベッド不足の中で入ってくる祈りのリクエストが、今朝は召天の知らせとなった。彼の地上での任務は完了した、と神の許しの中で起こったことを確信する。今は十字架で勝利をとられた主のみもとにいる。 一方、私は今朝も生かされている。主から託された、今日の私の地上の任務は何だろうか。日々主に聴き祈りつつ進む者でありたい。

詩篇54

詩篇52−54、Ⅰ列王記12−13 「見知らぬ者たちが 私に立ち向かい  横暴な者たちが 私のいのちを求めています。  彼らは神を前にしていないのです。 セラ」詩篇54:3 サウルに追われてダビデがジフに逃げ込んでいた時、サウルに「ダビデは私たちのところに隠れている」と密告する者がいた(1サムエル記23:9)。絶体絶命のダビデは、神様に危機状況をそのまま祈った。 「セラ」の後、ダビデには信仰の確信が与えられる。 「見よ 神は私を助ける方。主は私のいのちを支える方(4節)」と。結果は、サウルのもとに使者が来てペリシテ人が攻めて来たことを告げ、サウルはダビデを追うのをやめて帰っていった。異常な緊張状態を、神ご自身の采配でとどめてくださった。  私たちの緊張状態も、病やストレスにある状況も、神はご存知である。そして、そこからの解放を思わぬ形で実現してくださる。日々そのことを期待したい。

詩篇52

詩篇52−54、Ⅰ列王記10−11 「しかし私は 神の家に生い茂るオリーブの木。  私は世々限りなく 神の恵みに拠り頼む。」詩篇52:8 ダビデの逃亡生活の上で、匿ってくれると思っていた場所で密告がされた時の詩篇である。54篇もまた同じような危機にあった。 逃亡生活の中で、いつ捕らえられるかわからないプレッシャー、安心できる見通しのなさからくるストレスは相当だっただろう。 前半では敵の様子が描写され、神様の懲らしめがあるようにと歌っている。 しかし、後半では視点を移し、自分自身のあり方を見つめている。 逃亡生活で、物理的には根なし草のようだが、霊的には神の家に堅く植えられ根ざしている「オリーブの木」だと宣言している。オリーブが根から必要な水分・養分を与えられ、葉から日光を与えられるように、ダビデは霊的に支えられ、神に祈りながらこの期間を過ごした。そして勝利を得て王となった。 私たちも状況がどうあれ、日々すでに神の国で生かされているという確信があるだろうか。それならば、必要な霊の水分・養分は根から与えられる。また、神の家では神ご自身が塀となり、安全が保証されている。そこで神の光・ご栄光の恵みをいただくことができる。 デボーションの時に、神の家の庭に植っているオリーブの木であると想像してみると、みことばの栄養が日々霊を養い成長させるという現実に気づくのである。