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詩篇15

詩篇13−15、出25−26 「舌をもって中傷せず 友人に悪を行わず 隣人へのそしりを口にしない人。」詩篇13:3 1節で「主よ だれが あなたの幕屋に宿るのでしょうか…」、どんな人が神と共に住まうことができるのか、と述べた詩人は、2節以降にその人の描写を列挙している。 様々な表現に一貫しているのはIntegrity(インテグリティ)すなわち「誠実さ」、「真実さ」である。 人が見ていても見ていなくても、神の前に真実であるか。責められるところがないように、スキャンダラスな話題に持ち上がらないような生き方をしているか。そこには、他者の悪口を言わないこと、中傷しないことも大切な要素なのである。自戒しつつ、周囲の徳を高めるために歩みたいと願う。

詩篇13

詩篇13−15、出23−24 「私はあなたの恵みに拠り頼みます。私の心はあなたの救いを喜びます。」詩篇13:4 安息日、安息年の規定が出エジプト記23章にある。「しかし、7年目には、その土地をそのまま休ませておかなければならない。民の貧しい人々が食べ、その残りを野の生き物が食べるようにしなければならない。ぶどう畑、オリーブ畑も同様にしなければならない。(出23:11)」  6年耕し丁寧に育てた畑を、7年目は放置するというのは、人間的に考えるととても勇気のいることである。本当は例年のように整え、せっせと働く方が簡単なので、7年目に何もしないことは神への信頼を試される。 毎週1日の安息日を守るのも、これまた同様に神への信頼を試される。やり残した少しの仕事、返信など、やってしまいたい衝動に駆られる。しかし、そうして働いてしまった週は、どうもうまくいかない日々が続く。神に信頼し休むことを学ぶとき、神が備えてくださる方であることもまた学ぶことができるのである。

マタイ21

マタイ21、出21−22 「家を建てる者たちが捨てた石、それが要の石となった。 これは主がなさったこと。私たちの目には不思議なことだ。」 マタイ21:42 神学的な見解の違いは近年多々あれど、神の思いは人の判断とは異なる。42節は詩篇118:22参照。 イエス様は、捨てられた石のような人の目には価値ないものが、要の石となると言われた。英語では「コーナーストーン(cornerstone)」、四方の石。コーナーとは角、そこで建物の向きが変わる。 人生のコーナー、角、向きを変えるところで向きを変えられるか。コーナーストーンがあることに気づき、生活スタイルだけでなく思いも変えられるか。許せない人を許すように、態度を変えられるか。今日はそのことが問われている。

マタイ20

マタイ20、出19−20 「最初の者たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思ったが、彼らが受けたのも1デナリずつであった。彼らはそれを受け取ると、主人に不満をもらした。」マタイ20:10−11 朝早くから働いた人も、夕方近くに来て少しだけ働いた人も、同じ1デナリをもらった。それに対して長く働いた人たちが不公平だと不満を言うところである。 この話は、神様の気前の良さと恵みの大きさがポイントである。後から来た人にも同じだけのものを与えてくださるという気前の良いお父様が、私たちの天の神である。 もし朝から働いた人と同じ側に立って不公平だと言うなら、それは自分がとても優れてできる者だと思っているからかもしれない。 むしろ、こんな私なのに同じ恵みが与えられたという夕方ぎりぎりに来た労働者のような、へりくだった思いになりたい。クリスチャン生活が長くなり、教会に仕える責任が増えるとつい朝から働いた人のような思いになりがちである。今日もう一度自分の内側を見つめ直し、イエス様がいつも前を進んでくださるように、自分はその影に隠されるようにと祈る。

マタイ19

マタイ19、出16−18 「しかし、先にいる多くのものが後になり、後にいる多くの者が先になります。」マタイ19:30 神の国の価値観は、私たちには意外に思えるところが多くある。活躍していた先輩が後になったり、初心者が高くされたりするのだと聞くと驚く。 ここから学べることは、 ・神の基準は人の基準と異なる ・私たちの能力や地位では評価されない ・もしこれを聞いて腹を立てるなら、自分が優れていると思っている。 モーセですら、地上の誰よりもへりくだった指導者だった。 何かを行う時には、一つ一つ神の指示に従っていた。ただ一点、岩を叩いたことで(命じるだけで良いと言われたのに)、約束の地を前に地上生涯を終えたのだった。 能力、見かけのできる、できないではなく、神の前にどれだけ忠実、神に相談しているかが最終的な神の目から見た評価に繋がることを覚える。今日、神に聞きながら集会の準備をしたい。また、神に聞きながらミニストリーの計画を立てたい。神に聞きながら、体調と行動の決定をしたい。

マタイ18

マタイ18、出14−15 「まことに、あなたがたに言います。向きを変えて子どもたちのようにならなければ、決して天の御国に入れません。」マタイ18:3 子どもの頃はあんなに素直で単純で、喧嘩しても互いにすぐ謝って仲直りできたのに、大人になるにつれてプライドやしがらみや頑固さが身に付いてしまうものである。 「向きを変える」ようイエス様は言われた。「向きを変える」は「悔い改める」とも訳せる。 「向きを変える」というのは、すでにそうしたいと願うことが「悔い改め」、神に対して子どものような純粋な心でありたいと思いを起こされることである。それも神がそうさせてくださるのである。 子どものように神様にすがり走り、自分の弱さを打ち明け、罪を告白し赦され、同じように他者をも許す(21節以下の家来のようでなく)者とされていくのである。

マタイ17

マタイ17、出12−13 「まことに、あなたがたに言います。もし、からし種ほどの信仰があるなら、この山に『ここからあそこに移れ』と言えば移ります。あなたがたにできないことは何もありません。」マタイ17:20 からし種ほどでも信仰があるのは、自分の力によるのではない。 信仰がなぜ与えられるか。その根拠は、まず神様が私たちを離れない、決して見捨てることはないと何度も何度も約束してくださっているからである。 「昼はこの雲の柱が、夜はこの火の柱が、民の前から離れることはなかった」(出13:22)、この力強い、頼れる、そして私たちを造られた神様が共にいてくださることである。

詩篇12

詩篇10−12、出9−11 「主のことばは 混じり気のないことば。 土の炉で七度試され 純化された銀。」詩篇12:6 1−3節の「人は互いにむなしいことを話し へつらいの唇と 二心で話します」という嘆きや、誠実な人が誰もいないような状況の中、頼りがいのない有限な人間と対比されている。 神の語られることばにはうそ偽りがなく、純銀のように混ぜ物がない真実で麗しい、という事実に感謝する。 もし心の内に何か声が聞こえたら、吟味しよう。 自分の恐れからか。サタンが巧妙に陥れ自信を失わせようとしているのか。それとも、神からの言葉か。平安と希望をもたらし、真実で変わらない、いつも共にいると言ってくださる神の愛のことばに耳を傾けていきたい。受け取っていきたい。

詩篇10

詩篇10−12、出7−8 「主よ あなたは貧しい者たちの願いを  聞いてくださいます。  あなたは彼らの心を強くし  耳を傾けてくださいます。」詩篇10:17 イエス様が心の貧しい者のことを幸いだと言われたのと一貫している(マタイ5:3)。マタイ5章では、その人は神の国を見ると書かれているが、詩篇10篇でも永遠の王である主(16節)が貧しい者たちの願いを聞いてくださる。何よりも、心を守ってくださるという恵みに感謝する。 決断ができない時、さまざまなことへの対応が迫られる今日のような時代に、耳を傾けてくださる主に何でも話し、永遠の王のみこころがなりますようにとゆだねることができるのは幸いである。それはまた、神の国が来ますようにという祈りとも一致する。

マタイ16

マタイ16、出エジプト4−6 「下がれ、サタン。あなたは、わたしをつまずかせるものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」マタイ16:23 直前にキリストであると告白したペテロを、イエス様は大変喜び、ほめて、あなたの上に教会を建てると言われた(16−19節)。それにもかかわらず、23節では叱責された。 それは、神のことより人のことをより考えたからである。人情、人の快適さ、人間的な浅はかな思いを優先するとき、神のみこころが見えなくなってしまう。たとえわかっていても従おうとしなくなってしまう。イエス様はそれを戒めてくださった。 内にある恐れ、大胆さを失わせるような思い、みこころを避けようとする態度、それは神様が喜ばれない。もう一歩、自分の常識から神の領域に(こわごわでも)踏み出すこと。12年前から抱いていたクリスチャンのための交わりとセミナーが、来月スタートする。1年前には決してできない、と思っていたことであった。壁が高すぎると感じていた。しかし、人ではなく神が導かれた。世界中からの背後の祈りと、何よりも神のみこころは成るのだということを覚えたい。

マタイ15

マタイ15、出エジプト1−3 「かわいそうに、この群衆はすでに三日間わたしとともにいて、食べる物を持っていないのです。空腹のまま帰らせたくはありません。途中で動けなくなるといけないから。」マタイ15:32 イエス様が奇蹟を行ってくださる動機が、自分のすごさを見せるためでもなく、自分が満ち足りるためでもなく、人々が何も食べないまま空腹のまま帰宅するのはかわいそうだからとは! なんと優しい、愛と配慮に満ちたイエス様か。 イエス様に心から信頼して従うものを、イエス様は放っては置かれない。また、その時々の必要を、誰よりも心配し気にかけてくださる方である。感謝。

マタイ14

マタイ14、創世記49−50 「それからイエスは、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて神をほめたたえ、パンを裂いて弟子たちにお与えになったので、弟子たちは群衆に配った。」マタイ14:19b バプテスマのヨハネが殺され、イエスのこともヘロデ王の耳に入っている状況で、イエスは一旦しりぞかれた。しかし群衆を見て深くあわれまれ、癒しを行い、食物も与えられた。 弟子の任務は、わずかなパンと魚をイエスの元に持っていくこと、パンを群衆に配ることであった。 奇蹟は神のもの。そして、奇蹟を生きた体験にさせてもらえるところ、それを伝えるところを、神様は私たちにも委ねてくださった。 神様が、あえて私たちと共にすることを選んでくださるときに、恵みを覚える。今日はどの部分を神様が委ねてくださるだろうか。

マタイ13

マタイ13、創世記46−48 「天の御国は畑に隠された宝のようなものです。」マタイ13:44 「天の御国はまた、良い真珠を探している商人のようなものです。」マタイ13:46 この章には「天の御国」のたとえが多く出てくる。 その中でこの二つのたとえは、どちらも同じ真理を教えている(NIV Study Bible)。神の国は大変に価値があるものだから、それを得るためには他のすべてを喜んで捨てるほどである、ということである。 他のたとえでは、やがて裁きがあって義と悪とが分けられることがわかる(24節からの麦と毒麦、47節以降の魚の網)。ただ、今この時点ではなく、やがてであることに着目したい。神は1人でも滅びることを望まず、天の御国の拡大のために私たちに労して欲しいと願っておられる。 そのことを厳粛に受け止め、素晴らしい天の御国が拡大するよう、自分の自我に死に、恥意識もまた主の前において、今日も1日歩めるように祈りたい。

マタイ12

マタイ12、創世記43-45 「しかし、わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、神の国はあなたがたのところに来ているのです。」 マタイ12:28 あれこれと妬みや中傷をする者たちに向かって、イエス様は真理を話された。イエス様の働きはイザヤ42:1−4の成就でもあった(18−21節)。 28節の中で「神の国は来ている」ことを言われた。マタイは『神の国」「天の国」という語を福音書で用いている。、この後の章でも天の国について記録している。 どこか遠い、将来の漠然としたものではなく、すでに到来し、具体的な現実的なものであることがわかる。

詩篇9

詩篇7−9、創世記41−42 「主よ 彼らに恐れを起こさせ  国々に思い知らせてください。  自らが人間にすぎないことを。」詩篇9:20 高慢になり、神を神ともしない人に対して、神の前に悔い改め、キリストを受け入れてへり下る人物になるようにとはよく祈る。 一方で、必要以上に人を恐れる思い、自分を卑下し自信を失う想いに祈って勝利することは難しい。どうして良いか、諦めてしまいそうにもなる。 そんな自分に対して、恐れの対象が人間でしかないことを言い聞かせる。 同時に、自分の内面の思いも人間のものに過ぎないことを言い聞かせる。 人間への恐れ自体が偶像になっていないか、そのことも点検が必要である。 ヨセフが突然エジプトの牢からファラオの次の地位につき、エジプトの穀物を管理することになった時(創世記41:40〜)、「私は外国人だから」「私は囚人上がりだから」と自信をなくすことはいくらでもできたし、そうした嫌味をヨセフの耳元で囁いた人もいたかもしれない。しかし、ヨセフは自分のミッションを知っていたから、飢饉への準備に果敢に取り掛かり、着々と実行した。 恥意識との戦いに勝利すること、神様からのミッションを遂行すること。

詩篇8

詩篇7〜9、創世記39〜40 「あなたの指のわざである あなたの天   あなたが整えられた月や星を見るに   人とは何ものなのでしょう。  あなたが心に留められるとは。   人の子とはいったい何ものなのでしょう。   あなたが顧みてくださるとは。」詩篇8:3−4 高校時代、天体の運行や物理法則が、とてもシンプルで美しい式で表せることに感動した(残念ながら物理は苦手だったが)。これは人間技ではない、神の指が働き神が整えない限りあり得ないと思った。 聖書は科学的でない、というのは正しくない。科学がある条件下での実験と観察により物事の法則や在り方を解明していくなら、聖書は物事の土台、条件の設定自体を扱っている。科学を神の素晴らしさを明らかにしていくために用いるなら、神の栄光を表すことができる。 この詩篇は「主よ われらの主よ あなたの御名は全地にわたり なんと力に満ちていることでしょう。」(1、9節)に始まり終わる、神様への賛美と畏敬である。 5−6節は、ヘブル2:6−8に引用されている。 (人とは何ものなのでしょう。  あなたが心に留められるとは。  人の子とはいったい何ものなのでしょう。  あなたが顧みてくださるとは。 あなたは 人を御使いより  わずかに欠けがあるものとし …)

マタイ11

マタイ11、創世記36−38 マタイ11:28〜29「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。私は心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。」 イエス様の元に近づき、重荷を置き、安らぐことは何よりの安息である。私たちにとって、十字架の赦しをいただけたこと、救いはただ恵みであることは、何という幸いだろうか。 その上で、イエス様は「わたしから学びなさい」とおっしゃる。 休まないと見えてこないものがある。動いている時には気づかない大切なものがある。知り合いのキャリアカウンセラー(コーチ)によれば、忙しくすることと生産性には関連がないそうである。仕事と仕事の間に自分のための時間を取る方が生産的になることも多々あるそうである。 イエス様の元に重荷を置いたら、休み安らいでイエス様から学ぶ時である。じっくり聖書のことばを黙想すること、祈り今日一日の過ごし方を教えていただくことは、安心と充実した日々を送る秘訣である。スケジュールを、まずイエス様に眺め検討していただき、1日のスタートを切ろう。

マタイ10

マタイ10、創世記33~35 マタイ10:8b「あなたがたはただで受けたのですから、ただで与えなさい。」 神様から使命をいただいて仕えていく時に、ケチになるべきではない。なぜならその力はただで与えられたのだから。 卑下し自信をなくすべきではない。なぜならそれは神が望まれたことだから。 完璧にやろうとすべきではない。人間では完璧は無理で、神がそれを遂行なさるのだから。 ヤコブはエサウへの宥めの方法をあれこれ画策したが、いざエサウがくると、彼はヤコブを「迎えに走って来て、彼を抱きしめ、首に抱きついて口づけし、二人は泣いた」のであった(創世記33:4)。 ヤコブには神が多くのものを与えてくださったが、エサウもまた神の祝福を十二分に受けていた。創世記33:9で「私には十分ある。弟よ、あなたのものは、あなたのものにしておきなさい」 というほどであった。 神が、長子の権利を軽蔑した不完全なエサウにも、そしてずるいヤコブにも恵みを豊かに与えてくださっていたのである。 そして、彼の心も神によって守られ、柔和な和解を受け入れる面を与えられていたのである。 経済的なことだけでなく、ミニストリーや奉仕の遂行の力と賜物、機会が主からただで与えられていることを覚える。神様に抱かれている安心感を持って大胆に踏み出したい。

マタイ9

マタイ9、創世記31〜32 マタイ9:22「娘よ、しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」 長血を患っていた女性に、イエス様はこう言って励まし、癒された。9章前半に出てくる中風の人と友人に対しても、彼らの信仰に言及し、また癒してくださった。 癒しは、ただ一方的な恵みではあるが、受けるための条件は信仰である。神が力ある方、身体の隅々まで支配しておられる方、不可能なことでも可能な方だという信仰。そして、私のことを愛し、目に留めていてくださっているという信仰。 これは、ヤコブが創世記31:3「わたしは、あなたとともにいる」と言われた主に従ってエサウのいる故郷に向けて出発したこと、そしてヤボクの渡し場で「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ」(創世記32:26)と神の祝福を信じた態度にも共通する。 私なんて祝福を受ける資格がないと卑下せず、無邪気に神の恵みを信じ期待する姿勢でいることが、神の子どもとされたことへの感謝と信頼の表し方の第一歩ではないかと思う。

マタイ8

マタイ8、創世記29〜30 マタイ8:3「わたしの心だ。きよくなれ」 この章にはイエス様のなさった数々の解放のわざが記述されている。 ツァラアトに冒された人(2−4節)、百人隊長の僕の癒し(13節)、ペテロの姑の癒し(15節)、悪霊追い出しや病人の癒し(16節)、嵐を静める(24−27節)、悪霊の追い出し(31−33節) これは作り話ではなく、実際に行われたことであると信じている。 それならば、今日も日常生活で、神が常に働かれていること、神の介入があることを認めることができる。 創世記29-30章では、子どもが与えられるよう、レアとラケル姉妹の壮絶な争いが行われている。奴隷まで使って自分の側が勝ちたいという、まさに人間のエゴむき出しのライバル心である。 しかしヤコブは「私が神に代われるというのか。胎の実をおまえに宿らせないのは神なのだ」(30:2)と言った。 策略家だったヤコブが言ったこの言葉こそ、神が全てを支配しておられることを正確に表現している。 私たちは神に代わることはできない。今与えられている恵みに感謝し、神の介入を待ち望む者として造られている。願いを、百人隊長のように御前で申し上げる者として主に近づきたい。

マタイ7

 マタイ7、創世記27〜28 マタイ7:24 「ですから、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に例えることができます。」 高層マンションの建設現場を通りかかると、工事が始まってもなかなか建物が建つ気配がありません。地面の土台の部分の工事に長い時間がかかっています。 目に見える部分に変化がなくても、基礎工事を丹念に行うことが建物の安全と強度に関わる大切な部分であることを学びます。 日常生活はどうだろうか。申し訳程度に聖書を読み流し、それで立派なクリスチャンのように振る舞っていないか。 イエス様はご自身の「ことばを聞く」すなわちみことばを読み、聞くこと、そして「それを行う」すなわち生活で実践していくものが岩の上に家を建てた者のようだと言われた。順境の時にはわからなくても、洪水や大雨といった逆境の時にその真価が問われるのだと教えられる。 祈り:神様、不平不満の多い私をゆるしてください。あなたの恵みと愛を思い出し、朝読んだみことばを行うものとなれますように。あなたの愛を流し出したいですから、身近な家族、友人、同僚との関係を今日も守り祝福してください。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

詩篇6

 詩篇4〜6、創世記25〜26 詩篇6:3 「私のたましいは ひどく恐れおののいています。 主よ あなたはいつまでーー。」 ダビデは旧約聖書の中でも有名で有能な、何よりも神様に愛された人物です。同時に、彼には苦労や失敗もありました。逃亡生活を送らなければならない年月もあったのでした。 彼の特筆すべきところは、自分の率直な思いを神様の前にそのまま述べたことでした。自分が衰えていること(2節)、恐れていること(2、3節)、疲れ果てていることや泣いていること(6、8節)などなど。敵に恥をかかせてほしい(10節)とまで言っています。 そして、主よ あなたはいつまで(いつまでですか!)とまで訴えています。プライドも繕いもありませんでした。 私たちも、親しい家族や友人には本音を出します。ダビデにとって神様はそのくらい親しいお方でした。新約時代に生きる者は誰でも、神の御前にそのまま出ることができます。しかもキリストを通し神様に直接なんでも話して良いのです。独り言ではなく、それが祈りとして神様に届く…何と素晴らしいことではないでしょうか。 祈り:神様、私もダビデのように素直にあなたの前に気持ちや願いを持っていきます。家族や親友にまして私のことを知り愛してくださる神様、今日も共にいてくださり感謝します。

詩篇5

詩篇4〜6、創世記23〜25 詩篇5:11 「どうか あなたに身を避ける者がみな喜び  とこしえまでも喜び歌いますように。 あなたが彼らをかばってくださり  御名を愛する者たちが あなたを誇りますように。」 この詩篇は朝の捧げ物の時に祈られたと言われています。この詩人にとっては辛い時だったようです。敵が彼を滅ぼそうと、嘘を言いふらしていました。 朝は明るく希望に満ちたイメージですが、うつの時や誤解を受けている時にはそうとは限りません。目覚めてどんよりした思いになったり、重い気持ちでベッドから起き上がったりすることがあります。1日を生きることが重く感じられるような時もあります。 それでも詩人は信仰を持って神に身を避けることを宣言し、神がかばってくださることを歌いました。孤立した時、批判の矢面に立っている時、いじめを受けている時…どうしようもない時にも、私たちには神様という砦、避け所があります。感じられなくても、事実としてあること、それを認めることが信仰です。 祈り:神様、私の周りに今朝も問題や課題が山積していたとしても、あなたは私をかばい助けてくださる方です。どうぞ今日も御心にかなった判断、御心に沿った対応ができますように。すぐそばにいる神様が喜んでくださる選択ができるように助けてください。御名によって祈ります。アーメン

マタイ6

 1月8日 マタイ6、創世記20〜22 マタイ6:8  「ですから、彼らと同じようにしてはいけません。あなたがたの父は、あなたがたが求める前から、あなたがたに必要なものを知っておられるのです。」 神様は全知全能のお方です。私たちが口にする前から、言いたいこと、願っていることを知っていて下さいます。 それなら祈る必要などないのではないか。…かつて疑問に思ったことがありました。 しかし、どうやら神様は合理性、効率性ばかりを求められるお方ではないのです。むしろ、家族でお茶の間でゆったり時間を過ごすような、親しい友人と用がなくても会って近況を話したいような、もっと親密な関係を持ちたいと願っておられます。 アブラハムにイサクをささげるよう命じられた時も(創世記22)、神様はアブラハムの心そのものを求めておられました。アブラハムにとって一番大事なのは主ご自身だったことを、神様はどれだけ喜ばれたでしょうか。 今朝もたとえうまく祈れなくても、漠然とした思いでも、神様に心を向けて精一杯祈るなら、その姿勢そのものを神様は喜び、私たちとの交わりを楽しんでくださいます。全能の神様と個人的に親しく話せることは、どんなに喜びでしょうか! 祈り 天の神様、今日もあなたと共に歩みます。どんな小さなことでも、1日の中であなたを何度も見上げ、心を向けて節々に祈りながら一歩一歩進めますように。

マタイ5

 1月7日 マタイ5、創世記18〜19 マタイ5:12 「喜びなさい。大いに喜びなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々は同じように迫害したのです。」 迫害された時に喜びなさい、とイエス様はおっしゃった。それは、ただ苦しみ、痛みを我慢し耐えるという後ろ向きな理由ではなく、天の価値観に立ち、天での報いに思いを馳せた時、どれほど素晴らしいことかということをおっしゃったのである。 天の価値観に立っているだろうか。今もし、主のためにしようとしている計画が進まない、障害にぶち当たっているとしたら、それは神様がストップをかけておられるのか、それとも私たちの中にある恐れや心配がそうさせているのだろうか。天から神様がながめられた時それはどう映っているのか、思いを馳せ吟味したい。 今日も神様はアブラハムに言われたように 「主にとって不可能なことがあるだろうか(創世記18:14)」 と語りかけてくださる。 祈り:神様、もし自分で不可能だ、無理だと決めつけていることがあるなら、天の目、霊の目ではどうかを祈り求め、あなたの確信をいただけますように。

マタイ4

 1月6日 マタイ4、創世記16〜17 マタイ4:2〜3 「…四十日四十夜、断食をし、その後で空腹を覚えられた。  すると、試みる者が近づいて来て言った…」 祈っている最中、礼拝している最中、とにかく好調な時、意識して主を見上げている時は大丈夫である。 ところが、ふと集中力が切れた時、批判を受けたり問題がやってきて自信を失い戸惑う時、悪魔は心の中にささやく。 「ほら、やはり駄目だろう」と。あるいは、私たち自身の力でこなしてしまえ、達成してしまえ、と。 聖書のことばをねじ曲げてささやくこともある。 アブラハム夫妻は、イサクが与えられる前に奴隷ハガルによって問題を解決しようとし、かえって問題の種を作った(創世記16章)。 イエス様ご自身でさえ、空腹を覚えられた時に悪魔の試みに会われた。もっとも、勝利され、私たちに対処の模範を示してくださっているのは何という幸いだろうか。 今日、気になっていることを自分の手から一度離し、主の御前に置こう。神様がそれをどう解決することを望まれるか、それを教えて頂いてから適切な方向に持ち運んでいこう。

マタイ3

 マタイ3、創世記13〜15 マタイ3:9  あなたがたは、『われわれの父はアブラハムだ』と心の中で思ってはいけません。言っておきますが、神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子らを起こすことができるのです。 イエス様の道備えをするために来たバプテスマのヨハネは、悔い改めのバプテスマを授けていた。 ところが、そこにやってきたパリサイ人やサドカイ人は悔い改める気持ちよりは、アブラハムの子孫であること、選民思想・特権階級の者としての思いしかなかったので、ヨハネはこう言って叱責したのであった。 創世記15:6では、アブラハムが主を信じたゆえに、主が彼を義と認められたことが書かれている。すなわち、心の中がどうであるかが主の一番の関心ごとである。血筋ではない。 イエスの十字架を信じた私たちは、義とされた。もちろん、その救いが行いの有無で取り去られることはない。 もっとも、日々の信仰生活で立派そうに見せながら心の中で怒りや妬みがあるならば、それは主を悲しませることである。 御霊に導かれて歩むこと、アブラハムがロトのために欲張らずかえって助け続けたことにならいたい(参照 創世記13章でロトに先に土地を選ばせた、14章でロト救出のために戦った)。 一時は損をしたように見えても、神は覚えておられ、先に勝る祝福を与えてくださる。 今日、譲るべきところはどこか。他者を祝福するためにどんな一歩を歩み出せるだろうか。

マタイ2

 マタイ2、詩篇10〜12 マタイ2章13節「主の使いが夢でヨセフに」、 19節「主の使いが夢で、エジプトにいるヨセフに」 夢を通してもヨセフ一家を守ってくれた神様。 インマヌエル、すなわちいつも共におられる神様は、昼も夜も私たちのことを見守り、私たちの全てを知っておられる。 かつてアブラム(アブラハム)が、どこに行くのかを知らなくても故郷を出て神に従った時も、神は常に彼を導き、祝福を受け継ぎ流す器としてくださった(創世記12:4、ヘブル11:8)。 たとえヨセフ一家がエジプト(アウェーの土地)にいても、神は共におられた。 そして、たとえ私たちが慣れない初めての経験や、居心地の悪い人間関係の中にいても、神は共におられる。 ひとり孤独であっても。 今日自分自身は「アウェー」な思いがしても、神は変わらない事実として共におられる。この「インマヌエル」の神を見上げたい。

詩篇3

 1月3日  詩篇1〜3、創世記7〜9 詩篇 3:5 「 私は身を横たえて眠り また目を覚ます。 主が私を支えてくださるから。」 ダビデは実の息子アブサロムに憎まれ追われていた。 親としてこれほど悲しい経験はない。 しかし、追われながらもダビデは悲しみを祈りに変えた。自己卑­下も、情けなさも、怒りも、主の元に持っていく時、主の支えと安眠(!)さえも経験した。 私たちには人間関係、家族、仕事、進路等々で、眠れないほどの不安があるだろうか。 たとえいろいろあっても信仰不足と主は責められない。だから、私たちは重荷を主の元に今日置いて安らぐことができる。 その幸いを味わいたい。

詩篇1

  1月2日 詩1篇、創4〜6章 詩篇1:6「まことに 正しい者の道は主が知っておられ 悪しき者の道は滅び去る」 主はすべての状況をご存知である。 その上で、私たちが主の前に悔い改めるなら 「正しい者」と呼んで下さる。  日々の 悔い改め・ 自我の点検、人間関係の ふり返りをしていくことを心がけたい。 間違いに気づいたら、神の前にごめんなさい、人の前にも ごめんなさいという者でありたい。 許すかどうか、それ以降は 相手の側の問題である。

マタイ1

  マタイ1、 創 1〜3章 マタイ 1:18・20「聖霊による」 聖霊の働きでマリヤは身ごもった。 ① ペンテコステのような激しさがなくても、聖霊は働かれている。 ② 聖霊の働きを受け入れる時、ヨセフやマリヤのように祝福を受ける。 その結果、生まれる子はメシヤ、インマヌエル(神は共におられる)と呼ばれた。 私たちも 聖霊の働きを日々信じ受け入れる時に「インマヌエル」なる主を 日々体験できる。 今年もそのように期待しつつ歩もう。