投稿

2月, 2021の投稿を表示しています

詩篇27

詩篇25−27、民数記20−22 「待ち望め 主を。  雄々しくあれ。心を強くせよ。  待ち望め 主を。」 詩篇27:14 神を待つこと、望みを失わないことは簡単ではないと思える。 心がなえ、絶望し、否定的になってしまうこともある。 しかし、主が真実な方であり、キリストがすでに十字架で勝利を取られていることが私たちの信仰である。 だから、雄々しく、心を強く、気落ちしないで待ち望む姿勢が不可能ではなくなるのだ。 四方八方が敵や反対者で囲まれていたダビデのプレッシャーはどれほどだっただろうか。その中で自分に言い聞かせるように、祈り宣言する彼の姿から、信仰者の歩みを学ぶことができる。

詩篇25

詩篇25−27 「わが神 あなたに 私は信頼いたします。  どうか私が恥を見ないように  敵が私に勝ち誇らないようにしてください。」詩篇25:2 25篇はダビデが王として治めていた時、反対者がダビデのことを言われのない非難で攻撃した時に作られただろうと言われている。 ダビデの神への切なる祈り、そして信仰告白である。 不条理な扱いや誤解を受けて心が折れそうな時、 「どうか私が恥を見ないように」助けてください、と祈っている。 それは、神が信頼に足りる方、信頼する者を放って置かれない方だということを宣言することでもある。 賛美とともに、宣言することが敵から心を守り、敵の力を退けることになるのである。

マルコ13

  マルコ13、民数記15−16    「いちじくの木から教訓を学びなさい。枝が柔らかくなって芽が出て来ると、夏が近いことが分かります。同じように、これらのことが起こるのを見たら、あなたがたは、人の子が戸口まで近づいていることを知りなさい。」マルコ13:28−29 イエス様は終末についても、身近なたとえを用いて話された。終末は怖い、と闇雲に恐れなくても、ちゃんとしるしが与えられるのだから、それを見て悟りなさいという配慮がされている。 偉い人でなくても、特別の能力がなくても、それを知ることはできる。 また、福音を分かち合ってきた人々にとって、その日は報われるべき素晴らしいねぎらいの日でもある。今日もその日を期待しつつ、置かれた場所で主の労に励みたい。

マルコ12

マルコ12、民数記12〜14 「…この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れている人の中で、だれよりも多くを投げ入れました。皆はあり余る中から投げ入れたのに、この人は乏しい中から、持っているすべてを、生きる手立てのすべてを投げ入れたのですから。」マルコ12:43−44 イエスは、量そのものの多寡には興味を示されなかった。そうではなく、どれほどの犠牲、捧げる心を伴っているか、自分自身を捧げる献身の姿勢をご覧になり、この女性を高く評価された。 女性にとっては、献金と生活が表裏一体であり、ただの施しではなかった。むしろ、彼女の命がかかっていたとも言える。 私たちの献身も同じようでありたい。賜物があるとかないとかではなく、持てる全て、生活、人生、何より自分自身を主の前に捧げ差し出しているか。つい保身に回りそうな自意識である。しかし、神に信頼し、神自身に守っていただくほど、安心な護身術は他にないのである。

マルコ11

マルコ11、民数記9−11 「…心の中で疑わずに、自分の言ったとおりになると信じる者には、そのとおりになります。ですから、あなたがたに言います。あなたがたが祈り求めるものは何でも、すでに得たと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」マルコ11:23〜24 祈る時の障害の一つは、私自身の「疑う心」である。人を恐れ、できっこないと自信をなくし、どなたに祈っているのかを忘れて独り言であるかのような不信仰に陥る。 しかし、はっきりイエス様は言われた。神の御心にかなっているなら、祈り求めるものは、神の方法とタイミングで必ず聞かれるのである。だから、「すでに得た」と信じることができるのである。 敵は私たちが信仰に立たないようにと必死である。しかし、キリストはすでに十字架の上で一切の敵に勝利を取られている。私がキリストにまったく信頼するなら、そのお方の力と守りにより平安をいただいて歩めるのである。 イスラエルの民が荒野で不信仰を繰り返した態度にならわないようにしよう。そうではなく、彼らが神の雲の柱、火の柱の動きに従ってとどまったり旅だったりした態度(民数記9:17ー23)にならいたい。しかも、どんなに移動が多くても、逆にどんなに長くとどまらなければならなくても、「主の命により、主への務めを守った」ように淡々と、召しに従って歩みたい。

マルコ10

マルコ10、民数記7−8 「人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるためにきたのです。」マルコ10:45 イエス様は、いつでも父なる神の御心を行う準備ができておられた。金持ちの青年が来たときも、丁寧に接し、「彼を見つめ、いつくしんで」教えてくださった(21節)。子どもたちにも祝福をしてくださった(16節)。バルティマイを呼んで来なさい、と言われ癒された(52節)。 民数記で祭司たちが主に仕える用意ができているように、と命じられているように(8:11他)、私もイエス様の姿に倣おうとするなら、心はいつも準備ができているよう整えられていたい。疲れた思いだけでなく、人を恐れる思い、どう思われるか、私のような者なんて、と卑下する思いからも解放されたい。

マルコ9

マルコ9、民数記4−6 「イエスは言われた。『できるなら、と言うのですか。信じる者には、どんなことでもできるのです。』するとすぐに、その子の父親は叫んで言った。『信じます。不信仰な私をお助けください。』」マルコ9:23−24 息子の悪霊を追い出してもらう願いを、遠慮しながらではなく、できる、信じるという大胆な姿勢ですることをイエス様は喜ばれる。 私たちも、できるなら、ではなく、祈りによってできる、主がしてくださるのだという信頼を日々確認したい。 ともすれば自分の力で解決しようとしている私たちだが、どんなに知性的、才能的に素晴らしくても落とし穴はある。祈って神に委ねて行ったかどうかが全てである。全き信頼と、祈り(29節)がいかに大切かを学ぶのである。

詩篇23

詩篇22~24、民数記1~3 「まことに 私のいのちの日の限り  いつくしみと恵みが 私を追って来るでしょう。  私はいつまでも 主の家に住まいます。」詩篇23:6 死の陰の谷を歩んでも、わざわいがあっても、敵がいても、(4〜5節)、生きている限り主の慈しみと恵みが満ちている人生だと、告白することができるだろうか。 目に見える状況が刻一刻と変わっていく中で、目に見えない次元でも神の支配が進んでいることに思いを馳せようとしているだろうか。 神様が愛ならどうしてこんなことを、と思うようなことがあるが、それでも苦難に寄り添ってくださるのが神様だ、という信頼を失わないダビデの姿にならえたらどんなに良いだろう。 民数記3:12には「レビ人は主のもの」であると書かれている。 レビ人の人生は、もはや自分自身のために生きるのではなく主のために生きるためのものである。献身した者も主のものであり、主の人生を生きる者だということの再確認をする者である。

詩篇22

詩篇22−24、レビ26−27 「けれどもあなたは聖なる方   御座に着いておられる方 イスラエルの賛美です。」詩篇22:3 嘆きとうめきをもって、敵の試練と苦しみの中ダビデは主にそのままを表した。1節の「わが神、わが神・・・」はイエス様が十字架の上で出された言葉でもある。 今朝は親しい牧師先生の子どもが、突然天に召された。昨日顔を見ていただけに、衝撃と深い悲しみの中にある。どう祈ってよいか言葉を失い、涙と「なぜですか」としか言えない状況である。 けれども、けれども、である。 そうした中にあっても、「あなたは聖なる方」(3節)である。変わりなく「御座に着いておられ」、「イスラエルの賛美」なのである。共に悲しみ、共に嘆いて下さる方は、同時にどんな時も変わらず、私たちが賛美する方であり、御座におられる方である。 ダビデの信仰告白の言葉に、そう思いを重ねて宣言したい。

マルコ8

マルコ8、レビ25 「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら、何の益があるでしょうか。」マルコ8:36 世界中の素晴らしいこと…名誉、お金、地位、賞賛、豪華な持ち物、勲章、勝利…など、得られた時にはとても輝かしく、喜ばしい。努力が報われるのは悪いことではないし、苦労したことが労われるのも嬉しいことである。 しかし、どんなに労苦してこの世のものを得たとしても、それは地上生涯の終わりとともに手放さなければならない。永遠の次元まで持っていくことはできないのである。一番大切なものは「永遠のいのち」である。 人生が順境でうまくいっている日はふと忘れそうになる永遠の次元を、いつも心に留めて生きていきたい。

マルコ7

マルコ7、レビ23-24 「そこで、イエスはその人だけを群衆の中から連れ出し、ご自分の指を彼の両耳に入れ、それから唾を付けてその舌にさわられた。」マルコ7:33 イエス様は、私たち一人一人と個人的な関係を持つように願ってくださる。この耳の聞こえない人を癒す時も、大勢の中ではなく、「その人だけを群衆の中から連れ出し」(英語ではset aside)て向き合ってくださった。 パリサイ人が律法を文面だけで守っているのとは異なり、そこには神の深い愛があった。もちろん、神様がもともと掟を与えてくださったのは、機械的に守る規則としてではない。さまざまな祭りの掟がレビ23章に書かれているが、どれも神を愛するため、神との関係を強くするため、仕事の手を止めて神に思いを集中するためであった。この趣旨を忘れてしまう時、神の愛も同時にないがしろにしてしまうのである。 働き人として仕える時に、つい大きな問題の処理に目を奪われがちである。しかし、まず一人一人の人生がどれほど大切で価値のあるものかをいつも覚えておきたい。イエス様は、全世界を救うというミッションがありながらも、私たち一人一人を大切にして向き合ってくださったのだから、その足跡に少しでもならいたいのである。

マルコ6

マルコ6、レビ21−22 「さて、使徒たちはイエスのもとに集まり、自分たちがしたこと、教えたことを、残らずイエスに報告した。」マルコ6:30 少し前を読むと(7-13節)、イエス様が十二弟子に権威を授けて宣教に送り出したことがわかる。 私たちの日常を見ても、送り出された者は、送った者に対し報告責任を負う。なぜなら、任務の源泉と最終責任は遣わした者にあるからである。 ・私たちが福音を証する時も、どんな感じで、何が困ったか、何が嬉しかったかを、先に救いに入れてくださった方にそのまま伝えれば良い。 ・相手の方が福音を受け入れるかどうかは私たちの責任ではない。相手の選択と、最終責任は神の主権である。 レビ記22:2で「イスラエルの子らの聖なるものは慎重に扱え。…それは彼らがわたしのために聖別したものである」とある。私たちが心を尽くして主のために聖別し、大切にすること、行うことは主は決して軽々しく扱われない。私の今日の一言、1アクションも、主に心からささげるなら主は喜んでくださるのである。

マルコ5

マルコ5、レビ19−20 「イエスはその話をそばで聞き、会堂司に言われた。『恐れないで、ただ信じていなさい。』」マルコ5:36 死は人間にとって取り返しのつかないものである。死んだ人を前にして、どうしようもない人間の無力、敗北を覚える。父が召された時も、イエス様の御元に行かれたとはわかりつつも、人間が地上の生涯を必ず終えねばならないことを再確認させられた。 会堂司の娘は病気で死んでしまった。まさに敗北、喪失であった。 しかし、そんな心をご存知でなおイエスは言われる。 「恐れないで、ただ信じていなさい」と。 そして娘は癒された。 もちろん会堂司も娘も、地上に永遠に生きたわけではない。だが、この癒しから、イエス様が死にさえも打ち勝つ力を持っておられること、やがてご自身も十字架にかかられ、死とよみの力に勝利され復活されたことがどんなに明るく、素晴らしい事実であるかをひしひしと感じるのである。

マルコ4

マルコ4、レビ17−18 「またイエスは言われた。『神の国はこのようなものです。人が地に種を蒔くと、夜昼、寝たり起きたりしているうちに種は芽を出して育ちますが、どのようにしてそうなるのか、その人は知りません。』」マルコ4:26−27 マルコにだけ出てくる記事である。植物の成長は神秘的である。人は種を蒔いたり、水をやったりするが、どうして蕾がつくのか、開花するのか、人の力ではそれができない。 同じように、神の国の成長は人にはできないが、神によって行われる。しかも、ある時には人が気づかないうちに成長が進んでいく。 信仰が成長しない、教会が大きくならない、と嘆かなくても、神様が必ず成長させてくださっているのである。人にはそれがわからない時があるが、そもそも成長は人のわざではなく、聖霊様が働いて行われるものである。 だから、失望しないで今日もたゆみなく仕え歩んでいきたい。

詩篇20

詩篇19−21、レビ15−16 「ある者は戦車を ある者は馬を求める。  しかし私たちは   私たちの神 主の御名を呼び求める。」詩篇20:7 1−5節はとりなしの祈りである。特に4節「あなたの心の望みを 主がかなえてくださいますように。あなたのすべての計画を遂げさせてくださいますように」は力強い祈りの励ましである。1−5節を日々の祈りとしてそのまま用いることもできる。 その後の告白が7節である。 目に見える力、目に見える人の助けではなく、 まず神ご自身に頼る。それが私たちの心からの告白となるよう、 神に頼る経験、そして神が真実なお方である経験をさせて頂こう。 どんな小さなことでも祈り、小さなことが神の計画で進み、結果として自分が思わないような方法で祈りが聞かれた、という証は財産である。戦いが多いなら、そこに主を体験するチャンスも多くあるのである。

詩篇19

詩篇19−21、レビ15−16 「主のおしえは完全で  たましいを生き返らせ  主の証しは確かで  浅はかな者を賢くする。」詩篇19:7 たましいを生き返らせるようなおしえ(法)とは! 地上の人が作った決まりは制限し、規制するものがほとんどである。しかし、主の教えられた定めは人を自由にし、たましいに新しい息吹と力を与えるというのである。 救いも、私たちが神を認め、罪を認め、十字架と復活の救いの必要性を認めるという定めである。そして、それらに従った時に、まさに解放と自由、そして永遠のいのちが与えられる。 日々の生活でも、礼拝をささげること、安息日を取ることが霊的に新しい力と一週間神とともに歩むという信頼を確認させるのである。ただの規則ではなく、私たちの魂がそれによって「生き返る」のである。

マルコ3

マルコ3、レビ13-14 「イエスは十二人を任命し、彼らを使徒と呼ばれた。それは、彼らをご自分のそばに置くため、また彼らを遣わして宣教をさせ、彼らに悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。」マルコ3:14−15 イエス様が十二弟子を任命されたのは、自分を守るためではなかった。 彼らをご自分のそばに置かれたが、それは備え整えて「遣わして宣教をさせ」るためだった。それは単に目に見える形だけではなく、悪霊を追い出す、つまり霊的な戦いに送り出すためだった。 私たちもまずイエス様が呼んでくださった。それは、まずイエス様のそばにいることができるためである。そばで憩い、整え成長させられ、そして宣教へ遣わされるためである。 ・イエス様とつながることなしに宣教の働きはできないこと、 ・イエス様の御心は私たちが霊的な戦いのために出ていくようになること である。どちらが欠けても、バランスの取れたクリスチャンとは言えない。今日、どのように整えられるか。そして、今日、どのように出て言って福音をシェアすることができるか。

マルコ2

マルコ2、レビ11−12 「そして言われた。『安息日は人のために設けられたのです。人が安息日のために造られたのではありません。ですから、人の子は安息日にも主です。』」マタイ2:27−28 パリサイ人は、してはならないことを非難したり、律法を守ったりすることばかりに重きを置いていた。 しかし、本来の安息日の趣旨は、神が創造のわざを7日目に休まれたこと、神が人を7日ごとに休むように、そして神を礼拝するように人を造られたからである。 信仰生活でも、日々の判断でも、神様の御心は何であろうかと考え祈ってから行動したい。そうすることで、無意味な惰性や不自由なしきたりだけ(心が伴わない)の信仰生活から脱出することができる。 レビ記11章の食物規定も、衛生のためという説もあれば、周囲の異教の国の習慣に染まらないためという説もある。しかしいずれにせよ、神が当時のイスラエルの民をきよく健全に保つためにくださった習慣であった。ただ禁止する規則だけではなく、その背後には神の愛と義があったのだった。 安息日は人のために設けられた、とイエス様は言われた。そして、人のために安息日が設けられたのであれば、もっと神の前に安息し心から喜び礼拝することを願い、大切にしていきたい。なぜなら、安息日の規定は私たちへの、神による愛と義の現れとして定められたのだから。

マルコ1

マルコ1、レビ8−10 「『…主の通られる道をまっすぐにせよ。』そのとおりに、」マルコ1:3 バプテスマのヨハネは、イザヤ40:3やマラキ3:1で預言されていた通りに、イエス様の働きに先立って神様に用いられた人物だった。 主と同じ働きではなく、主が通られるための道を整えるという働きである。 神様が私たちに望まれるのも、主がお通りになる道を整えるという働きである。周りの人の心にみことばが入るように。あるいは、神のわざがこの地に現れるように。現れたときに、人々がそれが神から出ているのだと知ることができるように。 バプテスマのヨハネの働きがあり、マルコが「それからすぐに」と記述しているようにイエス様が公生涯に入っていかれた。 自分のプライドより、保身より、悔しさより、神の栄光を求める者でありたい。

マタイ28

マタイ28、レビ6−7 「見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」マタイ28:20b イエス様の視点は、一人の人が生きている間の年数に限定されなかった。私たちが想像することが困難な、世代を超えたスケールで見ておられる。「世の終わりまで」ずっとともにいてくださるというのは大きな希望であると同時に、神の計画の実現が私たちの人生のスケールを超えた長期にわたりうるということでもある。 レビ記でも、「…それらを祭司アロンとその子らに、イスラエルの子から受け取るべき永遠の割り当てとして与えたからである」(7:34b)、「…代々にわたる永遠の割り当てである」(7:36)と永遠の視点での命令が出てくる。 今問題の解決がすぐに見えなくても、神の目には永遠の見地からすでによき計画が始まっていることを覚えたい。神のスケールでは、希望は決して失望に終わることはないのである。

マタイ27

マタイ27、レビ4−5 「百人隊長や一緒にイエスを見張っていた者たちは、地震やいろいろな出来事を見て、非常に恐れて言った。『この方は本当に神の子であった。』」マタイ27:54 「見張っていた」はNIV訳ではguard。護衛、その人の状態を守るためにも同じ言葉を使う。 3年半の間、イエス様を護衛していたはずの弟子たちは皆逃げてしまった。十字架の極限状態で護衛するように命じられたローマの兵士たちは、イエスが神の子だったことを知った。もう少し早く、この事実を知っていたら、と思った者はいたのだろうか。 さらに、墓に葬った後も「墓の番をした」guardした番兵たちがいた。もし彼らがもっと早く、イエスが生きているときに神の子だと知っていたらどうだっただろうか。 同じ護衛をする者であっても、イエスを見張る者か、擁護する者か。どちらに立っているのかと、福音書の記者は言外に問うてくれているように思う。

詩篇18

詩篇16−18、レビ1−3 「主はわが巌 わが砦 わが救い主  身を避けるわが岩 わが神。  わが盾 わが救いの角 わがやぐら。」詩篇18:2 立派な信仰と言われていた人が、環境の変化で急に弱ってしまったり、祈るのをやめて人にだけ頼るようになったり、教会から離れてしまったりしたら、悲しく、また驚き寂しく思う。がっかりする。もしかして、生活の奥底までの信仰ではなく、律法だけの信仰だったのでは…と心配になる。 しかしダビデはそうではなかった。失敗もし不完全ではあったが、神を愛し神に頼ろうとする思いは人一倍だった。それゆえに、彼の祈りの告白、歌は詩篇に残り、私たちがどう祈れば良いかを教えてくれている。

詩篇17

詩篇16−18、出39−40 「あなたの右の手で 奇しい恵みをお示しください。」詩篇17:7 神が恵み深い方で、あわれみに満ちていることを知っている。理解してもいる。しかしそれでも、実際に見て体験するのは別のことである。また体験しつづけるのはもっと別のことである。 今日、この時点でも、神はあわれみに満ち恵み深い方である。 毎日、毎日体験したいと祈るのは、厚かましいことではなく、神と生きた関係を持ちたいという、御心にかなった切なる願いである。 主よ、今日もあなたを体験し、体験し続けることができますように。

マタイ26

マタイ26、出36−38 「イエスはこれを知って彼らに言われた。『なぜこの人を困らせるのですか。わたしに良いことをしてくれました。』」マタイ26:10 高価な香油を壺の丸ごと使ってイエスに注いだ女性の行為を、弟子たちはもったいない、貧民救済のために使えばよかったのにと責めた。しかしイエスは、この女性の行為を「良いことBeautiful thing」とほめてくださり、喜んでくださった。 主に仕えようとするとき、ともすれば人への善行やチャリティー、目に見える結果を求めてしまいがちである。しかし、仕える原点はイエス様を愛すること、イエス様に自分自身を捧げることである。 出エジプト記で幕屋作りに際し、聖所の奉仕のあらゆる仕事をする知恵と英知は主が与えられたものだと明記されている(例 出36:1)。実際面で必要な技術やスキルは神が与えられるのである。 だから、何をしたかについ比重を置いて判断してしまう弱さを反省し、まず心の動機がどこにあるのかを探っていきたい。

マタイ25

マタイ25、出34−35 「だれでも持っている者は与えられてもっと豊かになり、持っていない者は持っている物までも取り上げられるのだ。」マタイ25:29 有名なタラントのたとえである。神様がケチで惜しむ方、というたとえではない。 NIVスタディーバイブルによれば、「キリストが再び来られるための備えは、ただ安全を求め何もせずに待つことだけではない。何らかの結果を生み出そうと仕えていくことである」と注釈がついている。 結果の多い少ないではなく、私たちの心の姿勢として、与えられているものをただじっと持っているだけなのか、使ってみる決心をするのかが神様の前に問われているのだと思う。 1タラント与えられているなら、それを使ってみる決心をしよう。他の人ばどう思うかよりも、それが神の栄光を表し、祈りを開き、周りを励まし建てあげる事ならば踏み出してみよう。

マタイ24

マタイ24、出31−33 「ですから、あなたがたも用心していなさい。人の子は思いがけない時に来るのです。」マタイ24:44 英語では be ready「用意ができている、準備が整っている」と訳されている。子どもの頃、この章に書かれていることがとても怖かったのを覚えている。恐ろしいことが連続して起こること、2人のうち一人が残されることなどに、自分はとても耐えられないと思ったのだった。 しかし、よく考えると、主を信じるものに神がよくしてくださらないわけがない。主を見上げて、いつも助けてくださいと頼るものに、あわれみ深い主が答え救ってくださらないわけがない、と今ならわかる。問われているのは「用意ができていること」つまり、今日も主に頼り、主を救い主として仰ぎ見ているかということである。

マタイ23

マタイ23、出29−30 「わざわいだ、偽善の立法学者、パリサイ人。おまえたちはミント、イノンド、クミンの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、正義とあわれみと誠実をおろそかにしている。十分の一もおろそかにしてはいけないが、これこそしなければならにことだ。」マタイ23:23 イエス様は十分の一の捧げ物を批判されたのではなく、偽善の態度を戒められた。外だけが整っていても内面が整わなければ、信仰者としては欠けている。内面が正義:正しいことを愛し、あわれみ:他者への愛を持ち、誠実:Integrity;神と人との前に申し開きできる生き方をしていることが問われる。 今日も正しいことを愛し、他者への愛をもち、神と人に説明責任を果たせるような毎時毎時を歩んでいきたい。今日の予定を祈りによって神に申し上げ、すべきもの、しなくて良いものを神に判断していただきたい。

マタイ22

マタイ22、出27−28 「だから大通りに行って、出会った人をみな披露宴に招きなさい。」マタイ22:9 王子のための披露宴に招かれていた人たちは、「ふさわしくなかった」(8節)。公式に招待されていた人たちが相応しくなかったので、王は誰でも大通りで招きなさいと言った。 神様の招きは、公式な方法、立派な人々に対してだけなされるわけではない。超法規的な、時には型破りな方法でなされる。だから、私たちがその人の救われ方を批判したり疑ったりすることはできない。ただ、その人が確かに神と出会っているなら、そして神の前に罪人であり、十字架の救いが必要だと分かっているならば、それが証拠である。もっとも、その後の歩みはまた別のことである。 神が招いてくださった婚礼に、せっかく礼服まで用意してくださったのだから、それを着て参列しよう。 パリサイ人とカエサルの硬貨を見せての見事な論破、復活と結婚についての教えなど、イエス様は驚くような答えで対応された。型破り、常識破り、しかしそこには知恵と愛がある。 「心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい(37節)」、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい(39節)」と黄金律をくださったのもこの章である。