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Ⅰテモテ4

Ⅰテモテ4、イザヤ9−10 「あなたは、年が若いからといって、だれにも軽く見られないようにしなさい。むしろ、ことば、態度、愛、信仰、純潔において信者の模範となりなさい。」Ⅰテモテ4:12 20代、30代の頃は、教会や委員会、ミニストリーの働きで最年少という場面が多かった。それでいつもこのことばを言い聞かせていた。 今日は、自分より若い人がいる場面の方が多い。そして 逆に、若い人を軽く見ないように自戒している。若くても、自分が一生懸命であったように、神に祈りながらベストを尽くしている人を尊敬し丁寧に接したいと思うのである。

Ⅰテモテ3

Ⅰテモテ3、イザヤ7−8 「この奉仕に就く女の人も同じように、品位があり、人を中傷する者でなく、自分を制し、すべてに忠実な人でなければなりません。」Ⅰテモテ3:11 監督、執事として仕える人の条件が示されている。執事のリーダーシップは男女の別がないが、品位があること、人を中傷しないこと、自制できること、忠実であることが求められている。 品位とは尊敬に値することである。同時に、悪いことを口にしないか、信頼できる人であるかがその人の教会の中でのリーダーシップを決めることを述べているのである。 口を制するのは聖霊の助けがなければ難しい。逆に、聖霊により頼むときに、私たちの口が制御され、整えられ、聖霊の語らせてくださることを話すようにと導かれていく。 今日も聖霊の願われる言動ができますように。自分が出過ぎて言い過ぎ、恥意識や落胆で時間を費やすことがありませんように。主よ、どうぞ助けてください。

Ⅰテモテ2

Ⅰテモテ2、イザヤ5−6 「私は、女が教えたり男を支配したりすることを許しません。むしろ、静かにしていなさい。」Ⅰテモテ2:12 女性教職を認めるか、特に女性が牧師となれるかについて、賛成、反対の議論の根拠となるところである。個人的には、女性もリーダーシップの召しを神から与えられている人はおり、教師、牧師として仕えることに男女差はないと信じている。この箇所が、8節の「男たちは怒ったり言い争ったりせずに、どこででも、きよい手を上げて祈りなさい」に続いて対比されて書かれているので、当時の教会の問題点を指摘した文脈だと考えられるからである。 それでも、女性が男性を無理に超えたり、支配したりしようとするのではなく、性別よりもそれぞれの召しを恵みと捉え、謙遜の心を持って仕えていくことを主は望まれているのだと思う。 その際に、弱さとなる属性や性質について、主の取り扱いと霊的な成長を求めていくことが、主に喜ばれることであると確信する。

Ⅰテモテ1

Ⅰテモテ1、イザヤ3−4 「私の子テモテよ。以前あなたについてなされた預言にしたがって、私はあなたにこの命令を委ねます。それは、あなたがあの預言によって、信仰と健全な良心を保ち、立派に戦い抜くためです。」Ⅰテモテ1:18 テモテにエペソの教会を任せるために書いた手紙は、現在の牧会や教会のあり方にも多くを教えてくれる。 パウロは自分が労したことより、教会の将来のことを委ねる、といっている。不完全な部分もあっただろうし、パウロならもっと上手くやれると思う部分もあっただろう。ヒメナイとアレクサンドロのように、問題を起こす人もいたので気がかりでもあった。 しかしそれでも、「委ねる」という働きをより大切にした。何もしないのではなく、委ねること、任せることにフォーカスしたのだ。私も、自分のものと握りしめることなく、気前よく献金を捧げるのと同じように捧げ働き、神にその働きもお返しできるようになりたい。

詩篇116

詩篇115−116、イザヤ1−2 「主の聖徒たちの死は 主の目に尊い。」詩篇116:15 コロナウイルスによって、知人のクリスチャンが何人も主の元に返った。中でも、インドでミッションスクールを創設し、祈りを持って教育し続けてきたウィリアムズ氏の召天は衝撃的だった。 いつも胸ポケットに自分のあかしのトラクトを入れていた。 ICUに運ばれる直前の祈りが録音されていた。入院中も隣の人にキリストのことを分かち合い、次の瞬間召されていたという。 奥様のニーナさんも素晴らしい信仰者、教育者である。夫の葬儀では迷わず詩篇116:15を選び、オンライン配信をし、生徒やヒンドゥー教の人たちも聖書のメッセージを聞くことができるようにした。 主の聖徒たちの生涯、そしてその終わりは、神の目には尊いのである。そして地上生涯の後は主のみもとで、主がねぎらい抱いてくださるのだ。

詩篇115

詩篇115−116、雅歌6−8 「私たちにではなく 主よ 私たちにではなく  ただあなたの御名に 栄光を帰してください。  あなたの恵みとまことのゆえに。」詩篇115:1 英語では Not to us, Lord, not to us (NIV)。「私たちに対してでなく」ということだが、これが難しいのが私たちである。 主がさせてくださったのに、私の功績、私の優越性、と示したいのである。栄光が、主のお名前にのみ帰されるように。その祈りを持ちたい。もっとも、自分を卑下することなく、そうした能力やスキルを与えてくださった主をほめたたえるという意味で、成し遂げたことを喜び、ほめられたらありがとうと謙虚に受け取れるようになりたい。

Ⅱテサロニケ3

Ⅱテサロニケ3、雅歌4−5 「主があなたがたの心を導いて、神の愛とキリストの忍耐に向けさせてくださいますように。」Ⅱテサロニケ3:5  心が何に興味を持ちどこに向いているかは、私たちの考えや行動に直接影響を及ぼす。肯定的でいれば良いではないか、とある人は言う。しかし生まれ持った性質と環境で、つい否定的に考えてしまったり、懐疑的になったりする人もいる。 パウロも、主が心を導いて下さいと祈る。テサロニケの人たちが、神の愛とキリストの忍耐に心を向けることができるように、と。 偏った教え、どうせ再臨がもうくるから何もせず待っていようという考えは、主が喜ばれるものではない。現在を覆っている刹那的な考えも、主から出たものではない。なんといっても、神の愛が注がれていること、キリストが十字架の死に至るまで忍耐してくださったことを思い起こせば、今の苦しみや悩みは慰められ小さいものに見えてくる。 うつになりそうなら、神の愛、キリストの忍耐を覚えることができるように、もっとわかるように助けてくださいと祈ろう。

Ⅱテサロニケ2

Ⅱテサロニケ2、雅歌1−3 「どうか、私たちの主イエス・キリストと、私たちの父なる神、すなわち、私たちを愛し、永遠の慰めとすばらしい望みを恵みによって与えてくださった方ご自身が、あなたがたの心を慰め、強めて、あらゆる良いわざとことばに進ませてくださいますように。」Ⅱテサロニケ2:16−17 神ご自身が強めてくださる心は、確信を与えられる。そして、行動にも語ることばにも健康的な自信を持って臨むことができる。 批判や心ない言葉、誤解を受けるとき、心はしなえるが、慰めも神からくる。そして、偏った教えにも落胆したり怒ったりすることなく、優しい心で戒め導くことができるのである。 私自身は、怒りがきたときにその原因を神に教えていただく必要がある。何がトリガー(引き金)であり、何がその背後にあるのか、 心を見張るものとなれるように。様々な教えや論争に振り回されず、平安でしっかり立つことができるように。

Ⅱテサロニケ1

Ⅱテサロニケ1、伝道者の書10−12 「その日に主イエスは来て、ご自分の聖徒たちの間であがめられ、信じたすべての者たちの間で感嘆の的となられます。そうです、あなたがたに対する私たちの証しを、あなたがたは信じたのです。」Ⅱテサロニケ1:10 主の日に、キリストが「感嘆の的」となられる。実際に顔と顔を合わせて喜びと驚きを表し、感嘆するのである。 ところで、日々キリストを感じ、キリストとともに歩む生活に、同じ感嘆はあるだろうか。キリストが私の今日の人生に関心を持ち、手を取って歩んでくださっていること、ご自身の方向に伴ってくださることもまた、感嘆に値するのではなかろうか。 そのことを覚え感謝し味わいつつ、今日1日を生きていきたい。

Ⅰテサロニケ5

Ⅰテサロニケ5、伝道者の書7−9 「しかし、私たちは昼の者なので、信仰と愛の胸当てを着け、救いの望みというかぶとをかぶり、身を慎んでいましょう。神は、私たちが御怒りを受けるようにではなく、主イエス・キリストによる救いを得るように定めてくださったからです。」Ⅰテサロニケ5:8−9 エペソ6章と重なるところが多いが、パウロは各教会に神の武具を確認した。信仰と愛は胸当てのように私たちの心を守り支えるもの、そして希望はかぶとのように私たちの思考を守り励ますものである。それがあれば、滅びに至ることはなく落胆して絶望することもない。 そして、キリストも私たちが救いを得ることを定めてくださっている。 私自身の心は傷つきやすく、剥き出しでは批判や不測の事態にめっぽう弱い。だから、キリストが心をチョココーティングのように完全に覆ってくださり、信仰と愛をいただいて胸当てをつけること、かぶとをかぶって頭も守ることが日々必要である。そうしなければ、すぐに攻撃に負け、少しの傷でも痛んでしまい、力を失ってしまう。だが、キリストの力を知るとき、そこに頼ればどんな心の痛みや入ってくる刺激の鋭さにも私の心が守られる、と平安をいただくのである。

Ⅰテサロニケ4

1テサロニケ4、伝道者の書4−6 「ですから、これらのことばをもって互いに励まし合いなさい。」Ⅰテサロニケ4:18 スマホでホームページを見ていて、ごく稀に突然「ウイルスに感染しました」と警告が出ることがある。ほとんどはいたずらや愉快犯であるが、万一感染していても、対策ソフトで対処することができる。 私たちの日常生活もこれに似ている。誘惑やどきっとする出来事がやって来たら、落ち着いて聖書の方法を調べ、それに従って対応することができる。 短い章だが、どのように歩めばよいのかをコンパクトに、そして的確に教えている。 神に喜ばれるのは、神の教えを守って聖なる者となること、わきまえること、兄弟愛にますます豊かに富むこと、落ち着いた生活をし、自分の仕事に励むこと、品位を保つこと(3−11節)である。 再臨がいつ来るかは、主がご存知のことである。だから、それまではこの地上で淡々と、誠実に働き生きていくことを主は望まれる。

詩篇114

詩篇112ー114、伝道者1−3 「神は 岩を水の潤う沢に変えられた。  硬い岩を 水のあふれる泉に。」詩篇114:8 岩や岩地は、ゴツゴツしていて荒れた様子を思い起こさせる。すさんだ荒地、足をくじいてしまいそうな場所が、主によってみずみずしく、潤い、豊かな場所へと変えられる。 人の心、たましいも同じである。どうしようもない頑固な私の心も、主の霊の働きで水の流れる心と変えられる。自分では水を作ることができないが、神が水を注いでくださるのでそれを流す。水は柔らかいだけではない。水は石や岩を削り、尖ったところや粗野なところを滑らかにし、整えられる。そのように、神は私の心を整えてくださる。時々サタンが嵐を持ってきて、心が吹き荒んでも、また神は水を流して倒木やゴミを取り去り、再び整え始めてくださる。 、

詩篇112

詩篇112−114、箴言30−31 「その人は悪い知らせを恐れず  主に信頼して 心は揺るがない。」詩篇112:7 このような人であったらどれほど良いだろう。HSP(Highly Sensitive Person)として、少しのことでも敏感に反応しがちな者であるが、主の語りかけには敏感で、しかし悪い知らせやハプニングには恐れない者であれたら最高なのだが…。 詩篇に出てきている「正しい人」の特色は、「心が堅固」「敵を平然と見る」という強さと同時に、「貧しい人々に惜しみなく分け与える」者でもある。その結果、敵が苛立ち、歯ぎしりするほどであるという。私たちの敵は目に見えるものだけではなく、目に見えないもの、そして戦いの場は心である。どうしようもない感情が起こってきた時、これは自分の心に何か作用が起こっているか、ではどう治めれば良いか、冷静に見つめるか、気づきをすぐ神に持っていく(祈る)練習をしよう。プラクティス、訓練、練習問題である。基本から応用へ、訓練と鍛錬の法則に従って少しずつ正しい反応ができるよう、霊的な鍛錬をしよう!

Ⅰテサロニケ3

Ⅰテサロニケ3、箴言27−29 「そして、あなたがたの心を強めて、私たちの主イエスがご自分のすべての聖徒たちとともに来られるときに、私たちの父である神の御前で、聖であり、責められるところのない者としてくださいますように。アーメン。」Ⅰテサロニケ3:13 パウロの祈りは、信仰のうちにテサロニケ教会の人たちが堅く信仰に立つため、心が強められることであった。最後まで信仰を捨てず、横道にそれず、信仰を守り抜くことだった。 教会とは、愛の共同体であると同時に戦う共同体でもある。戦うのは、この地上の勢力ではなく、霊的な勢力に対してである。しかしそれは、地上での迫害や誘惑の形をとってやってくる。また、戦場は私たちの心(マインド)である、とジョイス・マイヤーは言っている(『Battlefield of the Mind、邦訳『思考という名の戦場』)。 与えられている武器がみことばであること、そして理屈をこねたり批判しようとするときに、サタンの巧妙な働きに巻き込まれる危険があること、さ迷う心の危険性を彼女は論じている。 まず、心がどこに集中するか。また愛の心で、比較せず、その人の祝福を祈れるか、心を点検したい。

Ⅰテサロニケ2

Ⅰテサロニケ2、箴言25−26 「むしろ私たちは、神に認められて福音を委ねられた者ですから、それにふさわしく、人を喜ばせるのではなく、私たちの心をお調べになる神に喜んでいただこうとして、語っているのです。」Ⅰテサロニケ2:4 誰がこのような光栄な務めを断るだろうか。他人事ならそのように言える。しかし、実際に自分が委ねられるとなると、その責務の大きさに「とてもできない」と言いたくなる。 実際、「人を喜ばせるのではなく」神を喜ばせることにフォーカスできているだろうか。人の顔色、批判への恐れ、自己弁護、プライド、そして自分への評価と報いを求めてしまう者である。 しかし、神は「私たちの心をお調べになる」のである。どんな動機でしているか。いやいやながらにしているのなら、それは人には勤勉、誠実に映っても神には喜ばれない。訪問も、メールも、もしそれが神の力、喜びから来ていないなら、サタンに煽られて行っているに過ぎない。牧会の働きが、サタンのあおりでなされているなら、なんと恐ろしいことか。 私自身は、一人になり、じっくり時間をかけ、後方で整える働きに召されていると思う。それならば、心を込めて掃除をし、部屋のレイアウトを考え、技術的な部分を整え、1対1の面談と祈りを丁寧に行い、皆が教会に来て平安に神の恵みを味わい、建てあげられるようにしたい。無理に伝道や訪問に行けというのはサタンの誘惑であることもある。それならば、お茶を飲み、じっくり主の御顔を求め、体調を整え、気持ちよく他の人が働けるように自分自身がまず安定することから始めるべきである。

Ⅰテサロニケ1

Ⅰテサロニケ1、箴言22〜24 「あなたがたも,多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、私たちに、そして主に倣う者になりました。」Ⅰテサロニケ1:6 結果として、彼らはその地方(マケドニアとアカイア)の信者の模範と言われるようになった。パウロからの素晴らしいほめ言葉である。 みことばを受け入れるのは聖霊による。聖霊に頼って生きる時、さらに私たちは主に似たものとされる。模範になるのは、肉の力ではない。聖霊の働きによって、日々作り変えられ、成長していくのである。 私たちにできることは、聖霊の働きを妨げないこと、また心が悪魔の策略に負けないようにみことばの武器で武装することである。 暗唱聖句は、一生の財産である。

コロサイ4

コロサイ4、箴言19−21 「あなたがたのことばが、いつも親切で、塩味の効いたものであるようにしなさい。そうすれば、一人ひとりにどのように答えたらよいかが分かります。」コロサイ4:6 「親切で」は「恵みに満ちた」という意味でもある。そして、「塩味の効いた」とあるので、徳を高め、ぴりっとひきしめるような真理をつく言葉であるように。 霊の賜物を頂いて、他者がすごいというのでなく神が自分に望まれる、そのやり方で行っていくことである。比較はわなであり、劣等感と妬みを生む。

コロサイ3

コロサイ3、箴言16−18 「キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのために、あなたがたも召されて一つのからだとなったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。」コロサイ3:15 心がキリストの平和で満たされ、支配されているというのはどれほど素晴らしいことかと思う。私などはすぐにイライラしたり不安になったりするのだが、それが体調から来ているのか、人格的な未熟さからか、あるいはその双方か、とにかく不測の事態にめっぽう弱い。 ハイベルト(Evelyn & Richard Hibbert)という人の書いた「多文化チームを率いるために( Leading Multicultural Teams)」という本がある。その中で、様々な文化や考え方のメンバーからなるチームのリーダーには、有能さ以上に人格的な成熟が大切である、と論じている(8章)。 全く惨めな私たちに、神様は試練や様々な知恵、耳の痛い言葉を通して人格を養ってくださる。それは、「あなたがたはすでに死んでいて、あなたがたのいのちは、キリストとともに神のうちに隠されている(3節)」からである。 そのために、調子の良い時から訓練をしていこう。そして、調子の悪い時にそこで学んだことを適用して乗り越えられるようにしよう。軍隊や消防、救急隊員は平時に技術の訓練をしている。だからこそ、非常事態であんなに迅速かつ的確に動くことができるのである。もう少し、自分の心を同じように見張り鍛錬しよう。

詩篇111

詩篇109−111、箴言13−15 「知恵の初め それは主を恐れること。  これを行う人はみな賢明さを得る。  主の誉れは永遠に立つ。」詩篇111:10 神への賛歌の終わりは、「主を恐れること」が知恵の初めであることで結ばれている。旧約聖書の中で、主を恐れることが知恵を得るための必須条件である、と他の箇所(箴言9:10、1:7など)にも書かれている。 人の知恵がなんと小さく、限界があり、不完全なものかは、ある程度年齢を重ねた者なら実感していると思う。若い時には言うに及ばず、自分が小さく未熟な者であることを痛感してきた。 結局、自分が何かできると思えることは何もなく、ただ主の導きに従ってせよと言われることをすることしかないことを覚える。 謙遜に。しかし、主が前を歩き、導き、教えてくださるなら、主が指し示された方向に今日も一歩進むのである。

詩篇110

詩篇109−111、箴言10−12 「主はあなたの力の杖を シオンから伸ばされる。  『あなたの敵のただ中で治めよ』と。」詩篇110:2 直接的にはダビデについてだが、同時にキリストの統治についても述べていると言われる節である。 神がダビデに治めよと言われたのは、平和で問題のない街ではなかった。敵に囲まれ、危機が残っている、その「ただ中」だった。 キリストも、反対者が多くいる中でメシアとして十字架にかかられ、それでも復活のみわざを成し遂げられた。 私たちの心も、問題や検討事項、そして弱さだらけである。まさに不安という敵に囲まれているようである。 しかし、問題山積の中で治めることを選び取るかどうかは、主に信頼するかどうかであると、この詩篇は教えてくれている。 ダビデが信頼したように、また子が父なる神に従い通されたように、不安と自信のなさに苛まれそうな時、主が心の「右におられる主は…王たちを打ち砕かれる」のである。自分で自分の心を無理に防衛しようとするのでなく、まず共にいてくださる主を見上げ感じよう。

コロサイ2

コロサイ2、箴言8−9 「私が苦闘しているのは、この人たちが愛のうちに結び合わされて心に励ましを受け、さらに、理解することで豊かな全き確信に達し、神の奥義であるキリストを知るようになるためです。」コロサイ2:2 奥義とはキリストのことである(参照1:26)。NIVスタディーバイブルでは、「奥義」について次のように説明されている。 〜「奥義」とは元々異教の用語であり、特別に選ばれた人々だけにしか知らされない秘密の内容を示す単語であった。しかしパウロは、ここで違う意味でこの語を使っている。というのも、「明らかにされた」「知らされた」「現された」という表現と共に用いているからである。つまり、クリスチャンにとっての「奥義」とは、限られた人への秘密の知識ではなくて、かつては隠されていたが今は明らかになった神の真理を表している。〜 奥義というのは何かよくわからないことではなく、キリストが来られて救いのみわざを成し遂げてくださったこと、信じる者に永遠のいのちが約束されたこと、聖書が全てキリストを指し示しているということである。 私も、あなたも、この「奥義」を知っている。そして、キリストと出会う人が起こされるように、その人も「奥義」を知ることができるようにと願っている。

コロサイ1

コロサイ1、箴言6−7 「…どうか、あなたがたが、あらゆる霊的な知恵と理解力によって、神のみこころについての知識に満たされますように。また、主にふさわしく歩み、…」コロサイ1:9−10 1章は、なんと凝縮され、あらゆる主の恵みと勧めが散りばめられた章であるかと思う。新改訳ではあまり表現されていないが、どれも人の努力ではなく、聖霊により与えられ、神によって備えられたものである様々な賜物、良いものが列挙されている。 1節 神のみこころによる by the will of God 9節 霊的な that the Spirit gives (聖霊が与えてくださった) 10節 主に相応しく歩み so that you may live a life in every worthy of the Lord (主の前に全て価値ある人生を生きることができるよう) 12節 資格をあなたがたに与えてくださった御父 Father, who has qualified you  25節 神から委ねられた務め by the commission God gave me 29節 自分のうちに力強く働くキリストの力によって with all the energy Christ so powerfully works in me  これほどまでに、神が私たちに関わり、御国のために、救いのために、私たちとの共働作業を願ってくださるとは。

ピリピ4

ピリピ4、箴言3−5 「私は、貧しくあることも知っており、富むことも知っています。満ち足りることにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。」ピリピ4:12 こんな「秘訣」を会得していたら、どんなに人生が生きやすく、気が楽になることだろう。 しかし、この柔軟で適応力のあるのはパウロ自身の特性ではない。それはキリストがパウロに教え、秘訣へと導いてくださったのだった。13節では「私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです」」と言っている。キリストがおられ、一つ一つを導いてくださるからこそ、秘訣を会得できたのだった。 私自身は耐性に乏しく、適応性や柔軟性もあまりなく、不安症であり、緊急時にはどうして良いかわからず右往左往するような者である。しかし、時折「落ち着いている」と言われることがあり、とても意外である。内面はともかく、もしそう見えるならば、ひとえにキリストが覆っていてくださるからである。自分の内面も伴っていればどんなに素晴らしいかと思うが、その時その時でギリギリ (と感じる)心理状態をキリストによって治めていただき、助けていただくしかない。 主よ、今日も私の心を治めてください。一日に起こってくることに、肉で対処せずにあなたの覆いの元で感知し、歩むことができますように。

ピリピ3

ピリピ3、箴言1−2 「兄弟たち。私は、自分がすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ一つのこと、すなわち、うしろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばし、キリスト・イエスにあって神が上に召してくださるという、その賞をいただくために、目標を目指して走っているのです。」ピリピ3:13−14 去年までなら、この節に対して私は手放しで「アーメン!」と言っていたと思う。しかし、今年は初め「自分はそこまで一心に走る元気と勢いがあるのだろうか」と感じた。 一つには、心身の疲れと不調を感じており、そこまで自由に動くことができるだろうかと思ったからである。 しかし、ここで勧めているのは肉の熱心ではなく(3節にも 「キリスト・イエスを誇り、肉に頼らない私たちこそ、割礼の者なのです」とある)、キリストにある霊の熱心、信仰の熱心である。その熱心さ、力をもキリストから来るという信頼が求められているのではないか。パウロも持病があってさえ、このように言えたのだから。 もう一つは、アフガン、北朝鮮、その他の迫害下にあるクリスチャンたちを思うと、彼らこそ命がけでこのみことばを生きているのではないか、と自分の覚悟の甘さを反省したからである。 きれいごとではなく、自分の命、財産、家族、仕事、快適な生活、趣味…、持てるもの全てをキリストのために手放すことができるか。覚悟を問われている。

ピリピ2

ピリピ2、詩篇148−150 「神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です。」ピリピ2:13 神様は志を与えてくださるが、それは「みこころの」ままに、と書かれている。私たちはともすれば「自分の都合の良いように」「自分の栄光のために」願いを持ちがちだが、何がみこころであるかを吟味することが求められている。次の告白の祈りを味わいたい。 ー悩み苦しむ者のための告白ー 成功したいと思い、 強さを与えてくださいと神に願った。しかし、私は弱くされた。 それはへりくだって従うことを学ぶためだった。 何か大きなことをし、成し遂げたいと思い、 健康にしてくださいと神に願った。 しかし、私には病弱な体が与えられた。それはもっと良いことをするためだった。 幸せになりたいと思い、富をくださいと神に願った。 しかし、私は貧しくされた。それは賢さを得るためだった。 称賛を得たいと思い、権力を与えてくださいと神に願った。 しかし、私には無力さが与えられた。 それは自分には神が必要であることを知るためだった。 人生を楽しみたいと思い、あらゆるものを与えてくださいと神に願った。しかし、私には命が与えられた。それは、あらゆることを楽しむためだった。 私が神に願ったものは何一つ与えられなかった。 しかし、望んでいたものはすべて与えられた。 全く思いもかけず、言葉にならなかった数々の祈りがこたえられていた。 私は誰よりも豊かに祝福されているのだ。

詩篇108

詩篇106−108、詩篇146−147 「どうか敵から私たちを助けてください。  人による救いはむなしいのです。  神にあって私たちは力ある働きをします。  神こそが 私たちの敵を踏みつけてくださいます。」  詩篇108:12−13 私にとっては、焦りと無力感からの解放がテーマである。 迫害で苦しんでいる世界のクリスチャンを見ると、行って何かしなければ、といても立ってもいられないような気持ちになる。日本の被災地のニュースを聞くと、自分に何かできないかと焦りが出てくる。そして、無力な自分、ある人たちのように実効的な働きができないことに落ち込むということが今でもある。 しかし、神がそれを望んでおられるかどうかは別である。 「人による救いはむなしい」とあるように、人間的な思いや突発的な行為は長続きしないし、時には迷惑にさえなる。 実際には「神にあって力ある働き」ができるということ、 つまり、神が私に何をするように召しておられるかをキャッチすることが第一段階であるということである。 ある人にとっては即座に飛び出すことである。しかし、私にとっては熟考して戦略を練ること、書いて励ますこと、スポット的な動きよりは長期的、持続的なオプションを見出すこと、そしてレポートして協力者を発掘することであると感じる。 そうであれば、状況を集め、祈り、祈りを分かち合い、人知れず献金し、分析し、影響を与えていくというシンクタンク的な働きに神が召しておられるのである。他者と比べずに神に相談しながら進めていれば、家にいても、人に知られなくても、神が戦ってくださることを知り、同時に自分も神の戦いを体験しているのである。 主よ、人間的な比較の罠から自由であらせてください。アーメン

詩篇107

詩篇106−108、詩篇143−145 「主に感謝せよ。その恵みのゆえに。  人の子らへの奇しいみわざのゆえに。」詩篇107:8,15,21,31 詩篇の第5巻がこの107篇から始まる。そして、この詩で繰り返し出てくるフレーズが 「主に感謝せよ」 「その恵み(英語ではhis unfailing love)のゆえに」 「くすしいみわざのゆえに(his wonderful deeds)」 というものである。しかも、こうした恵みやみわざは 「人の子らへの(for mankind)」すなわち私たちへのものである。 神は私たち一人一人を名指しして救ってくださった。様々な恵み、みわざがあるのに、すぐに忘れるのが人間である。 だから最後に「知恵のある者は誰か。これらのことに心を留めよ。主の数々の恵みを見極めよ」とすすめている。

ピリピ1

ピリピ1、詩篇140−142 「…あなたがたの愛が、知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、あなたがたが、大切なことを見分けることができますように。こうしてあなたがたが、キリストの日に備えて、純真で非難されるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされて、神の栄光と誉れが現されますように。」ピリピ1:9〜11 パウロが祈ったのは、ピリピの教会の普通の人々のためにだった。意外に感じるかもしれないが、ここで、愛が豊かになるのは知識と識別力によるのだと言っている。 愛は感情に振り回されるものだけではなく、もっと冷静な要素が含まれているというのである。 そして、愛は増し加わり、成長できるものであることもわかる。 そしてゴールは私たちが義の実に満たされて、神の栄光と誉れを現す者となることである。私たち自身から出る善行や努力ではなく、キリストが与えられる義の実によるのである。 そして、目指すところはキリストの再び来られる日であり、一時的な状況で落胆しないというのがパウロの信仰である。パウロ自身も投獄されていたので、人間的には先が見えなかった。今の私たち(2021年)もコロナウイルスの流行がおさまらず、先が見えないような思いになっている。それでも、しばしの状況に落胆せず、義の実をいただき、愛が増し加わるように、成長するようにと歩み続けるのだ。私たちの究極のゴール設定がキリストの日にある。

エペソ6

エペソ6、詩篇137−139 「悪魔の策略に対して堅く立つことができるように、神のすべての武具を身に着けなさい。」エペソ6:11 私たちの格闘が、血肉に対するものではなくて霊的なものであると続く12節では述べている。 意識しなくても、霊的な攻撃にさらされているものであるという自覚が必要であろう。なぜなら、丸腰で向かっていくのでなく、すでに着装可能な武具が神様から与えられているのだから。 毎朝、真理の帯、正義の胸当て、平和の福音の備え、信仰の盾、救いのかぶと、みことばの剣、祈りと願いによって、戦いに勝利することができる。 そして、キリストの奴隷として仕える幸いをかみしめることである。当時の「奴隷」は、教師やマネージャーのような仕事をしていたようで、強制労働や人種差別とは異なったようである。 今のサラリーマンや給与所得者に近いかもしれない。それならば、キリストが雇い主で、賜物に見合った仕事を割り当てられていることが「キリストの奴隷」だと言える。正しく柔和な雇い主の元で働くことができるとは、平安と安心が保障されていることに他ならない。この特権を味わっているだろうか。

エペソ5

エペソ5、詩篇135−136 「ですから、自分がどのように歩んでいるか、あなたがたは細かく注意を払いなさい。知恵のない者としてではなく、知恵のある者として、機会を十分に活かしなさい。悪い時代だからです。」エペソ5:15−16 英語ではBe very careful, と書かれている(NIV)。細心の注意を払って自分の歩みを吟味することを、私たちはしているだろうか。日常の生き方が、この世のペース、この世の基準に合わせてしまっていないか。注意をそらすもの…ネットや媒体の情報、おしゃべり、他者との比較、そして何より、自分の内側にある劣等感や焦りが、どうしても大切なことから目を離すような作用を及ぼす。 「機会を十分に活かしなさい」というのは、何もたくさんのことをせよと言っているのではないことに気づく。続く文脈を見ると、むしろ心の中を吟味し、礼拝者として仕え、主の御心を歩むことである。聖霊へのアンテナが鈍らないように、日々自分を整えることこそ、機会を十分に活かすための第一条件なのである。そのために鎮まるときは、決して無駄ではない。むしろ、自分の信仰生活にとってとても大切なステップである。自戒をこめて。