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10月, 2023の投稿を表示しています

エゼキエル17

「わたしがそれをイスラエルの高い山に植えると、それは枝を伸ばし、実を結び、見事な杉の木となる。その下にはあらゆる種類の鳥が宿り、その枝の陰に住む。」エゼキエル17:23 秋晴れが続き、外を歩きたくなる季節です。日曜日の午後は教会設立式で奈良県まで出向きました。県境は山あいで、大きな木が生えていました。道から見えないところに、きっと多くの鳥や動物たちが住んでいるのだろうと思います。 生態系を与え、木を成長させ、鳥や動物を養っておられるのは神様です。人間がコントロールできるのは、自然のごくごく一部に過ぎません。多くは、強く大きな主の御手によって保たれています。 24節には「このとき、野のすべての木は、主であるわたしが高い木を低くし、低い木を高くし、生木を枯らし、枯れ木に芽を出させることを知る。主であるわたしが語り、わたしが行う」とあります。自然にふれて深呼吸する時、それを造られた主がおられることを味わい感謝したいですね。 祈り:神様、あなたの造られた自然を見て、あなたの偉大さに思いを馳せます。 「輝く日をあおぐとき 月星眺むるとき 雷鳴り渡るとき まことのみ神を思う(聖歌480番)」と賛美します。今月もお守りくださり、ありがとうございました。アーメン

エゼキエル16

「だが、わたしは、あなたが若かった日々にあなたと結んだ契約を覚えて、あなたと永遠の契約を立てる。」エゼキエル16:60 旧約のイスラエルの姿が、一人の女性にたとえて語られています。 見捨てられた生まれを救われ、助けられて妻とされたのに、彼女は感謝するどころか浮気をし、裏切りと勝手な行動に走ります。 それでも見捨てず、結婚の契約を覚えて、さらに永続する契約を結ぶというのです。 神様はこの夫のような方です。裏切りと罪を重ねたイスラエルをこのように扱われる方は、私たちをも限りなく赦し、ご自身の元にくる者を救ってくださいます。 既婚の方は、文字通り結婚の契約の重みを再確認しましょう。 また、自分の判断に頼り、神を第一にする信仰生活よりも収入や安定といった条件に目が向くことはないでしょうか。 もし心当たりがあれば、歯車の狂いはそこにあるかもしれません。 今一度神の前に静まり、すべてを備えてくださる神様のみこころを求めましょう。 祈り:神様、私があなた以上に大切にするものがあれば、その罪に気づかせてください。仕事も、家庭も、人間関係も、主にあって楽しみ、満足を得ることができますように。 「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。(マタイ6:33)」 アーメン

エゼキエル15

「人の子よ。ぶどうの木は森の木立の中にあって、ほかの木より枝がどれだけすぐれているのか。」エゼキエル15:2 イスラエルの人々がぶどうの木にたとえられています。が、ここでのぶどうの木はイエス様のたとえ話の「主はぶどうの木、あなたがたは枝でよい実を結ぶ」とは異なります。 同じ木ですが、よい実ではなく悪い実を成らせ続けたぶどうの木です。神様を仰ぎ見ず、反逆を続けた人々の罪を指しています。 だから、焼かれて何の役にも立たないと叱責されているのです。 イザヤ、エレミヤといった預言者たちが罪を指摘しましたが、人々は耳を貸さず、不信仰を重ねてきました。 私たちの結ぶ実は、よいぶどうの実でしょうか。不信仰や疑い、恐れの実がなりかけているなら、若いうちに摘み取りましょう。余計な枝が張りすぎて実に栄養がいかないなら、剪定しましょう。 祈り:神様、悪い実をならせることがないよう、私の心も口もお守りください。また、あれこれと枝が張りすぎ、心が分かれて集中できないなら、すっきり剪定することができますように。今日からの残りの人生を、あなたが私にしてほしいと望まれることに集中できますように。アーメン

エゼキエル14

「あなたがたは、彼らの生き方と行いとを見て慰められる。このとき、あなたがたは、わたしがそこでしたすべてのことは、理由もなくしたのではないことを知る──神である主のことば。」エゼキエル14:23 すべてが失われたように思えても、逃れの者がいました。そして、その生き方と行いは慰めとなると言うのです。なんという希望でしょうか。 「空の巣症候群」という言葉があります。主には子育てが終わって子どもが自立した後に感じる空虚感を指します。しかし、それだけでなく、介護、仕事、PTA、ボランティア、学びなど、自分自身が打ち込んで来たものがなくなる時に、あれっと思うような寂しさ、むなしさを感じる私たちです。 心の空っぽを埋めてくださるのは、主ご自身と主が与えてくださる恵みです。それはみことばはもちろん、信仰の友やなにげない日常の事柄を通してかもしれません。自分が無価値で無用だと思わせるのは、サタンの罠です。主が与えてくださる新しい希望と召しを胸弾ませて受け取りたいですね。 祈り:神様、退職や家族状況の変化、加齢などで、自分の役割が終わったかのような錯覚に陥ります。でも、あなたはたとえ私が寝たきりになっても地上の使命を与え続けてくださる方です。 寂しさの中を通っている___さん、___さんに深い喜びを与えてください。主が語りかける新しい使命に胸踊らせることができますよう、上からの励ましが格別にありますように。アーメン

エゼキエル13

「実に彼らは、平安がないのに「平安」と言って、わたしの民を惑わし、壁を築くとすぐ、それに漆喰で上塗りをしてしまう。」エゼキエル13:10 教会1階のお風呂場は、経年劣化で壁がずいぶん剥がれてきています。自分達で何とかできないかと話し合った時、一瞬「漆喰を塗ってはどうか」と思いました。しかし漆喰は耐水性がないので向かない、とのことでした。 偽預言者たちは、さばきが迫っているのを覆い隠そうとしました。それはまるで、深刻な状況に漆喰を上塗りするような言動でした。豪雨が降るとはがれてしまう、つまり真実は隠しきれないにもかかわらず、でした。 イスラエルの状況だけでなく、私たちの心も同様かもしれません。主に喜ばれない動機や罪深い反応を、見せかけの親切や行動で覆い隠していないでしょうか。 神の前に思いのすべてを差し出し、取り扱っていただいたなら、それはよく整えられた下地であり、どんな塗料を塗るにも美しく丈夫に仕上がる状態です。 祈り:神様、はりぼての偽善ではなく、私の心の奥底を探り、私を悔い改めとあなたへの明け渡しへと導いてください。日々カビや水垢のようにつく罪をきよめ、揺るぎない心と平安を私の内に造ってください。アーメン

エゼキエル12

「そこで、私は命じられたとおりにした。自分の荷物を捕囚のときの荷物のようにして昼のうちに持ち出し、夕方、自分の手で壁に穴を開け、彼らの見ている前で、暗いうちに荷物を背負って出て行った。」エゼキエル12:7 エゼキエルが穴を開けたのは、自宅の壁だったと思われます。泥のれんが作りとはいえ、大切な家の壁は誰が修理してくれるのでしょうか。神様が修繕費を送ってくれるのでしょうか。 そういえば、イエス様のところに病人を連れてきた4人の友達も、屋根に穴をあけて病人を吊り下ろしました。その後の修理はどうしたのでしょうか。 聖書はすべての顛末を語っていません。それは、もっと大切なことに集中しているからです。癒し、救い、そして永遠のいのち、すべての所有者は神であるという信仰、それらに焦点が当てられています。 私たちの思考はあてもなくさまよい、些細なところで立ち止まり、本筋でないところにこだわり、葛藤します。その一方で、大切なことが盲点になっているのかもしれません。神様が信仰の友や先輩を通して、その盲点を指摘してくださいますように。 祈り:神様、近視眼になっている私の視点を、あなたのみ手で引き上げてください。空から見下ろす時のように、本当に大切なものに意識を向けることができるよう、助けてください。些細なことは気にしすぎないよう、私の心を守ってください。アーメン

エゼキエル11

「わたしは彼らに一つの心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を与える。わたしは彼らのからだから石の心を取り除き、彼らに肉の心を与える。」エゼキエル11:19 エルサレムでは、新しい指導者が「エルサレムは鍋だ。私たちは鍋の中の肉だ」、つまり、エルサレムは安全な場所でそこにいれば大丈夫だ、と言っていました。 しかし主はよこしまな彼らの思いを打ち砕かれます。合わせて、やがて捕囚の民が戻ってくることを述べられます。 回復される民は、いのちのない頑固な「石の心」ではなく、いのちのある「肉の心」を持つ、というのでした。つまり、主ご自身と生きた関係を持てる、砕かれた心を持つ民となり、主が彼らの神となると言われました。 私たちも年齢や経験、こだわりのせいか、ともすれば主よりも自分の考えに固執することがあります。黙して、主の細いみ声を聞くことができますように。柔らかな肉の心をもって、軌道修正できるでしょうか。 祈り:神様、私に石の心ではなく肉の心を与えてください。主の前にへりくだって出ます。___のこと、____のことについて、私に語ってください。「しもべは聞いております(第一サムエル3:10)」と言えますように。アーメン

エゼキエル10

「彼らは、かつて私がケバル川のほとりで、イスラエルの神の下に見た生きものであった。私は彼らがケルビムであることを知った。」エゼキエル10:20 1章で、エゼキエルに捕囚の地で現れたのと同じケルビムが、再びエルサレムの神殿でも見えました。そして、神の栄光がそこにありました。白昼夢ではなく、確かに同じ主がそこにおられることの確証でした。 10月も下旬になり、来年に向けての導きを祈っている人もいることと思います。私自身も、毎年個人的な指針となるみことば、そして公私の諸分野(霊的成長、宣教、家族、社会、知的成長...)においての神様からの方向性を求めて祈ります。 さまざまなことが思い浮かび、考えは飛躍します。しかし、どこまでも同じ主がおられます。「これに歩め」という道に歩むには、自分の願いを正直に主の前に出し、動機を点検し、主にある平安を頂くことなのだと思います。 祈り:神様、あなたの変わらない臨在に感謝します。私を「これに歩め」というあなたの道に導いてください。導きを求めている___さん、___さんにも主の道がはっきりと示されますように。アーメン

エゼキエル9

「主は彼にこう言われた。『都の中、エルサレムの中を行き巡り、ここで行われているすべての忌み嫌うべきことを嘆き悲しんでいる人々の額に、しるしをつけよ。』」エゼキエル9:4 エルサレムには、神に喜ばれない行為、罪深い行動をしている人がいました。 一方で、そうした行為を嘆き悲しんでいる人、神の正さに目をとめ続ける人もいました。エルサレムへのさばきがくだる時、神様はその人たちを守られました。 額にしるしをつけ、その人たちに害が及ばないようにされました。 聖書の神は、義である方です。罪をそのままにはされません。しかし同時に、あわれみ深い方です。主を呼び求める者には、豊かなあわれみと愛を持っていてくださいます。悪に満ちた町、ソドムとゴモラを滅ぼす時にも、アブラハムの祈りを聞き、甥のロト家族を救われました。 私たちの周りにも、多くの悪や嘆きがあります。しかし、主を呼び求める者がいるなら、しるしがついているかのように、その存在が主にははっきり見えています。 祈り:神様、あなたのあわれみに感謝します。どんな悪の時代にあっても、あなたを呼び求める者に目を留めてくださることは慰めです。____についても祈り続けることができるよう、導いてください。うアーメン

エゼキエル8

「すると、その方は手の形をしたものを伸ばし、私の髪の房をつかまれた。すると、霊が私を地と天の間に持ち上げ、神々しい幻のうちに私をエルサレムへと携え行き、ねたみを引き起こす『ねたみ』という像がある、北に面した内門の入り口に連れて行った。」エゼキエル8:3 エゼキエルが聖霊によって、捕囚の地からエルサレムまで行ったことが書かれています。 おとぎ話のように思えるでしょうか。でも、パウロも第三の天にまで引き上げられた経験を語っています(第二コリント12:2)。霊によって、彼らは引き上げられました。神に不可能なことはありません。 ねたみを引き起こす「ねたみ」の像とは、マナセが持ち込んだアシェラ像だと思われます。神以外のものを拝むことは、神のねたみを引き起こす行為です。 神が「ねたむ」とは?それは、神が私たちを「ねたむほど愛しておられる」という表現です。罪深い「嫉妬」ではなく、ご自身の方を向いてほしいという愛ゆえの願いです。 祈り:神様、あなたの愛が「ねたむ」ほどに深いことを覚えます。同時に、私の心にある「ねたみ」の罪の心を、あなたの前に告白し、悔い改めます。あなたの他には何も求めないという心、あなたがおられれば満足という心を与えてください。アーメン

エゼキエル7

「王は喪に服し、君主は恐怖に包まれ、 民衆の手はわななく。 わたしが、彼らの行いにしたがって彼らに報い、 彼らのやり方にしたがって彼らをさばくとき、 彼らは、わたしが主であることを知る。」エゼキエル7:27 この章を読むと、神のさばきが無意味にではなく、人の生き方や態度にしたがってくだされるとわかります。神を神ともしない自己中心、自分勝手に弱者を虐げ、偶像礼拝に陥る生活が、さばきの根拠だというのです。 これだけの悪行なら、誰もが納得するでしょう。 しかし、もし私たちが無自覚に行っていることが、偶像礼拝や弱者への虐げとなっていたらどうでしょう。私たちの生活スタイルが、遠く離れた貧しい国の人々を圧迫していることもありえます。 信仰者として、日々の小さな歩みや判断にも、神の知恵を求めていきたいものです。そして、日々の一歩が将来の自分の生き方につながることも事実です。 祈り:神様、今日の歩みを導いてください。判断するとき、決めるとき、答えるとき、小さなことにもあなたの知恵と導きをいただけるよう、なるべく多くの瞬間を祈り心で過ごせるよう、どうか助けてください。国内外の虐げられている人々に、あなたのあわれみと希望が届き、必要の満たしがありますように。アーメン

エゼキエル6

「あなたがたは、わたしが 主 であることを知る。」エゼキエル6:7, 13, 14 エゼキエル書のキーワードは、「(そのとき)あなたがたは、わたしが 主 であることを知る」です。 さばきや厳しいことばの理由は、人々がこのお方こそ主なる神であると知るためです。 滅ぼすためではなく生かすため、絶望ではなく希望のため、主がエゼキエルを通して警告を与えられ、矯正をなさったのでした。 「BIBLE & LIFE(百万人の福音)」最新号の特集は「現代の偶像礼拝~あなたが神より上としているものはありませんか~」です。 よい習慣でも考えでも、「どんなものでも偶像になりうる」ということ、それは「霊的な依存症」なのだということを改めて教えられます。 毎日楽しみつつのんびり聖書を読み、書いているこのことさえ、もし義務となり律法となるならば、神様に喜ばれないものだと学びます。主を楽しみ、主をあがめ、主に頼りつつ、時には遅れつつ、聖書通読(または神様との楽しいデート)を続けたいと思います。 祈り:神様、何ものもあなたより優先することがありませんように。あなたを知ること、唯一の主であることを日々改めて確認できるように導いてください。楽しみ、待ちわびつつ、あなたのことばを読み味わえますように。アーメン

エゼキエル5

「人の子よ、あなたは鋭い剣を取れ。それを床屋のかみそりのように使って、あなたの髪とひげを剃れ。それから秤を使って量り、その毛を分けよ。」エゼキエル5:1 今度はエゼキエルは髪とひげを剃ります。 三分の一は、包囲の期間の終わるときに町の中で焼き、別の三分の一は町の周りで剣で打ち、残りの三分の一は風に散らせるというものでした。 それは、イスラエルの民の背信により、人々がこのように散らされるという実物教材でした。 頭の毛を剃ったエゼキエルの姿、なんとも気の毒に感じます。悲しみを表す姿として当時の人々の目に留まったでしょうか。彼の示した行動も目に入ったでしょうか。 「これはどういう意味ですか」と問い、人々が悔い改めていたらと思います。 今も、神様は私たちが気づくようにと、いろいろな事柄を通して語っておられます。一方で、環境を守ろうといいながら、それを上回る破壊や戦争が日々行われています。人間の愚かさと、警告を発しながら忍耐しておられる神様の前に、私たちはとりなしの祈りをささげるように召されています。 祈り:神様、あなたの義と忍耐を感謝します。私たちは罪深く愚かな性質を持っています。赦してください。無茶な開発や自己中心的な行動を悔い改め、あなたの前にへりくだることができますように。どんな時にも主の元に身を寄せることができるよう、助け導いてください。アーメン

エゼキエル4

「あなたは左脇を下にして身を横たえ、イスラエルの家の咎をその上に置け。あなたがそのように横たわっている日数だけ彼らの咎を負え。」エゼキエル4:4 エゼキエル書には、数々の実物教材やたとえが出てきます。エゼキエルの行動を通して、現状や預言が興味深い形で示されました。 4章で、エゼキエルは主のことばに従い粘土板にエルサレムを書き、鉄の板で壁を作りました。 また、イスラエル(北)王国の罪を1年=1日として390日、ユダ(南)王国は同様に40日、横向きに寝て、縄をかけられ、寝返りを打てないようにされました。。 食物や水を量り、やがて飲食物が乏しくなることを示しました。 寝返りできないまま1年以上も身を横たえるとは、預言者といえ大変なことだったでしょう!目に見えるたとえを通して、神様はその大変さと苦難を民に教えようとされたのでした。 神に用いられる人は、光栄であると同時に、さまざまな試練も通ります。昨日はKBI元学院長の高橋昭市師の葬儀でした。試練や重責の奉仕を全うし生涯を走り抜かれました。神に召され、内外の宣教の働きに携わる人たちを祈りに覚えましょう。 祈り:神様、預言者が非常な苦労をして神のことばを伝えたように、今日も労苦しながら主に仕える人たちがいます。苦しい生活でも主に従い続ける働き人、ビジネスを通じて宣教する人たち、家庭にあって無言のふるまいによってあかしをする人々を今日も励ましてください。アーメン

エゼキエル3

「さあ、捕囚になっているあなたの民のところへ行き、彼らに告げよ。彼らが聞いても、聞かなくても、『神である主はこう言われる』と彼らに言え。」エゼキエル3:11 エゼキエルは外国人に遣わされたのではなく、同胞に向けて預言を語るように遣わされました。 「あなたは、難しい外国語を話す民にではなく、イスラエルの家に遣わされるのだ。」(5節) 同じ言葉を話し、同じ文化を持つ人々に遣わされたとしても、その働きは困難でした。なぜでしょうか。それは、人々が主の言うことを聞こうとしなかったからでした。「イスラエルの全家は額が硬く、心が頑な(7節)」でした。 私たちも、親しい人、近い人へのあかしがより難しく感じられることがあります。配慮とタイミングは大切ですが、主のことばを曲げることがないように、と教えられます。そして、今の日本に限らず、偉大な預言者たちも同じ苦労をしていたことに、少しほっとし、励まされます。 祈り:神様、あなたのことば、聖書に書かれていることを、都合よくねじ曲げることがないように守ってください。主に喜ばれることとそうでないこととを見分け、聖書に従う筋の通った生き方があかしとなるよう、助けてください。アーメン

エゼキエル2

「その方が私に語りかけると、霊が私のうちに入り、私を自分の足で立たせた。そのとき、私は自分に語りかけることばを聞いた。」エゼキエル2:2 主は「人の子よ」とエゼキエルに語りかけられました(1節)。そして、そのとき聖霊がエゼキエルのうちに臨み、彼を立たせ神のことばを聞くようにされました。 私たちも聖書を読む時には、聖霊の助けが必要です。ただ知性だけで読んでも理解できないところがあります。「聖霊が私の心を開き、みことばがわかるように助けてください」と祈り心で読む時に、イエス・キリストがどんなお方かがわかるようになります。 エゼキエルはもちろん人間でしたが、人として来られたイエス様と同じ「人の子よ」という呼びかけが19回されています。また、イエス様も聖霊に満たされておられました。預言者を通しても、神様は来るべきイエス・キリストの影を示そうとしてくださいました。 祈り:神様、あなたが私にも語りかけてくださることに感謝します。聖霊が私の心を開き、聖書がもっとわかるように助けてください。文字の羅列ではなく、あなたからの愛のメッセージであることを感謝します。アーメン

エゼキエル1

「その方の周りにある輝きは、雨の日の雲の間にある虹のようであり、まさに主の栄光の姿のようであった。私はこれを見て、ひれ伏した。そのとき、私は語る者の声を聞いた。」エゼキエル1:28 今日からエゼキエル書に入ります。預言書は時に難解に感じられます。歴史を記した書とは異なり、主が語られたことばや幻が羅列されていて、わかりにくいかもしれません。 けれども、時代背景や預言者が置かれた状況をふまえて、預言者が神様からのメッセージを受けとっていることを思うと、今日の私たちの信仰が励まされ、強められます。 エゼキエルは捕囚になっていました。その異郷の地にあっても、主が幻を見せてくださいました。 「青銅のように」「たいまつのように」「輝く緑柱石のようで」など、「~のようで」という表現が多く出てきます。見慣れないものの中で、「主の栄光の姿」のようなものを彼は認識し、ひれ伏します。異郷の地でも主がおられること、語ってくださることを彼は体験します。 今、慣れない場所にいるでしょうか。新しい環境にとまどい、不安をかかえているでしょうか。そこにも神様はおられ、語りかけておられます。時には、以前よりもさらに素晴らしい方法で、語りかけてくださるかもしれません。 祈り:神様、あなたが全世界の主であり、私がどこにいても、何をしていても、語ることのできる方だと認めます。私の心の目を開いてください。霊の耳をあなたに向け、聞くことができますように。エゼキエル書の中から、私自身に語りかけてください。アーメン

哀歌5

「主よ、あなたのみもとに帰らせてください。 そうすれば、私たちは帰ります。 昔のように、私たちの日々を新しくしてください。」哀歌5:21 哀歌の祈りは、イスラエルが主に立ち返ることができるように、という願いで終わります。「私たちの日々を新しくしてください」、と回復を祈っています。 ある注解は、哀歌に表れている罪から回復までの道のりを 罪 → 災い(1:8)  → 悲しみ  → 悔い改め(1:20) → 祈り → 希望(3:19~24) → 信仰  → 回復(5:21) と説明しています(The Spirit Filled Study Bible)。 悲しみ悔い改める者に神からの希望と信仰が与えられるという原則は、今日も同じです。罪や失敗をして終わりではなく、顔を背けるのではなく、直面して悲しみ、主の元で悔い改める者を主は捨て置かれません。そしてそれが、回復の一番の近道です。 祈り:神様、私の____について、また私の親や祖父母の時代の____の罪について、悲しみ悔い改めます。どうか赦してください。悔い改める者をあなたが見捨てておかれない方であること、希望と回復を与える方であることを信じます。 今、人生に絶望している方に、主への悔い改めと希望、信仰と回復がもたらされますように。自分で命を絶つことがありませんように。アーメン

哀歌4

「地の王たちは信じていなかった。 世界に住むすべての者も。 仇や敵がエルサレムの門に 入って来るとは。」哀歌4:12 イスラエルの王国が滅びるとは、想像しがたいことでした。 人々は、実際にバビロンによって滅ぼされてはじめて、エレミヤはじめ預言者たちの警告が本当であったと気づいたことでしょう。 人間の予想や見通しはあてになりません。想定外のことが起こります。 私たちは想定外のことがないようにと祈るのではなく、想定外のことが起こった時に主に頼ることができるように、そして必要な知恵と力が与えられるようにと祈ることだと思います。 見通しの立たない将来が不安でしょうか。たとえ見通しが立たなくても、そこにも変わりない主がおられることだけは確かです。 祈り:神様、世界情勢や将来のことを考えると不安になります。どうなるのかと思いますが、いかなる事態になってもその真ん中に主がおられることは何という幸いでしょうか。感謝します。今日の中東やウクライナの情勢に、一日も早い解決がありますように。私たちも目を覚まして祈り続けることができますように。アーメン

哀歌3

「私はこれを心に思い返す。 それゆえ、私は言う。『私は待ち望む。主の恵みを。』実に、私たちは滅び失せなかった。 主のあわれみが尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。 『あなたの真実は偉大です。主こそ、私への割り当てです』と 私のたましいは言う。 それゆえ、私は主を待ち望む。」哀歌3:21~24 逆境の中では、つい否定的になってしまいます。しかし、人間の脳は、たとえ自分の声でも耳に入ることばを受けとり、反応するそうです。信仰の告白を自分の耳に聞かせるならば、神への信頼を確認するということです。 3章には、さまざまな信仰のことばが出てきます。今日はこれらを音読し、耳で聞き、神への信仰を共に確認しましょう! 「主はいつくしみ深い。 主に望みを置く者、主を求めるたましいに。主の救いを 静まって待ち望むのは良い。」(25~26節) 「主は、 いつまでも見放してはおられない。主は、たとえ悲しみを与えたとしても、 その豊かな恵みによって、人をあわれまれる。」(31~32節) 「主が人の子らを、 意味もなく、苦しめ悩ませることはない。」(33節) 「自分たちの道を尋ね調べて、 主のみもとに立ち返ろう。 自分たちの心を、両手とともに、 天におられる神に向けて上げよう。」(40~41節) 祈り:神様、いろいろなことを考えて心が暗くなるとき、あなたの真実に心を向けます。悲しみや落胆、心配の中でもあなたが真実であると信頼します。今逆境を歩む___さん、___さんにも、あなたの真実と励ましを心から受けとれますように。アーメン

哀歌2

「夜、見張りの始まりに、立って大声で叫べ。 あなたの心を主の前に、水のように注ぎ出せ。 あなたの幼子たちのいのちのために、 主に向かって両手を上げよ。彼らは街頭のいたるところで、 飢えのために衰えきっている。」哀歌2:19 一昨日はJECの聖会に参加しました。大人の集会と同じ時間に、隣のホールではキッズ聖会がもたれました。子どものために心をこめて準備されたプログラムで、子どもも親や教師も奉仕者も、共に主を礼拝し楽しんでいました。 子どもは正直です。喜ぶ時、悲しむ時、表情や姿にそのままが表れます。 荒廃したエルサレムの街角で、子どもたちは飢え、衰えきっていました。その「いのちのために、主に向かって両手を上げよ」とエレミヤは訴えています。 「あなたの心を主の前に、水のように注ぎ出せ」と。 子どものために祈る時、私たちの心の深い願いが探られます。 「心を主の前に、水のように注ぎ出し」て祈る者になりましょう。 祈り:神様、子どもたちのために、また子どもミニストリーのために祈ります。教会の毎週のキッズタイム、子どもメッセージが子どもたちの魂に届きますように。これまでまかれた種が芽を出しますように。私たち自身の子どもや孫、甥や姪、近所の子どもたち、関わる子どもたちが、柔らかい心で主の愛に触れ、救いを受けとることができますよう、私を祈り手として、奉仕者として、先に救われた信仰者として用いてください。アーメン

哀歌1

「ああ、ひとり寂しく座っている。 人で満ちていた都が。 彼女はやもめのようになった。 国々の間で力に満ちていた者、 もろもろの州の女王が、 苦役に服することになった。」哀歌1:1 哀歌は、エルサレム陥落直後の状況で、エレミヤによるものです。 エレミヤの警告の預言むなしく、エルサレムは滅び、主だった人たちはバビロンに連れ去られました。 人がいなくなり、荒れてしまったエルサレムの様子です。 彼は自分の努力が報われなかった悔しさというより、国が滅びたことを悲しんでいます。 私たちはどうでしょうか。自分のことは後回しにして、純粋に悲しむことができるでしょうか。 キリストのまなざしを頂き、喜ぶ人とともに喜び、悲しむ人とともに悲しむ者となれますように。 祈り:神様、エレミヤのように悲しみを純粋にあなたの前に表す者となれますように。どんなことでも祈れるよう、私に祈る心をください。アーメン 祈り:神様、あなたの

エレミヤ52

「ユダの王エホヤキンが捕らえ移されて三十七年目の第十二の月の091二十五日、バビロンの王エビル・メロダクは、即位した年のうちにユダの王エホヤキンを呼び戻して、獄屋から出し、 優しいことばをかけ、バビロンで彼とともにいた王たちの位よりも、彼の位を高くした。」エレミヤ52:31~32 反逆したゼデキヤ王は、ひどい姿でバビロンに連れ去られ、一生投獄されました。 一方エホヤキン王は、37年たって思いがけなく牢屋から出され、バビロン王に丁重に扱われ、生活費も一生支給されるという扱いを受けました。 エホヤキン王は、ゼデキヤ王と同じ扱いを受けても文句が言えない立場でした。しかし、そこから救い出されました。ただ王の心により、でした。 私たちも、元々は自分の罪のために滅び、罰せられても文句の言えない立場でした。しかし神のあわれみによって、そこから救い出されました。ただ神の恵みによります。 イスラエルの王とは時代も境遇も違いますが、救いの恵みを受け、神の子とされたことは王たち以上に大きなことです。 祈り:神様、エレミヤ書を読みました。悲しみながらも神のことばを曲げなかったエレミヤのように、私たちもみことばをまっすぐ信じ伝えることができますように。 また、あなたの恵みによって救われたことを感謝します。この恵みの大きさをますます味わい理解できますように。 「しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。(エペソ2:4~5)」 アーメン

エレミヤ51

「主の御声に、天では水のざわめきが起こる。 主は地の果てから雲を上らせ、 雨のために稲妻を造り、 ご自分の倉から風を出される。 すべての人間は愚かで無知だ。 すべての金細工人は、彫像のために恥を見る。 その鋳た像は偽りで、その中には息がない。」エレミヤ 51:16〜17 宇宙の大きさはとてつもなく、想像を絶するほどだそうです。 太陽をゴムボールにたとえると、地球はゴマ粒くらいだそうです。そのサイズにしても、次の太陽に似た星までは、何百、何千キロと離れているそうです。 その中で生きている人間が作ったものは、宇宙を造られた神様に比べてなんとちっぽけなものでしょうか。 宇宙を造られた神、人間を造られた神が、私たちの小さな心の中をよく知ってくださっているとは、なんと不思議でなんと幸いなことでしょう。 祈り:神様、空を見上げ、星を数える時、あなたの不思議と偉大さを実感します。偉大なあなたが、私を愛し、私を造りいのちを与えてくださったことを感謝します。自分の悩みがちっぽけであること、主のもとに置くことを今日も教えてください。アーメン

エレミヤ50

「その日、その時──主のことば── イスラエルの咎を探しても、それはない。 ユダの罪も見つからない。 わたしが残す者を、わたしが赦すからだ。」エレミヤ50:20 やがてバビロンが滅びることが述べられます。それは、イスラエルの解放をも意味しました。 身体的、環境的に解放され、自由になることは何という喜びでしょう! それだけではありません。罪や咎も見つからないと言われました。それは、神の赦しがあるからです。神の赦しがあるところに、私たちの内面の自由があります。 今日私たちは目に見えるところだけでなく、罪責感から解放され、霊が自由にされることの素晴らしさを味わっているでしょうか。 祈り:神様、あなたがくださった罪の赦しと解放の恵みを、これまで以上にもっと味わいかみしめることができますように。自由を与えてくださり感謝します。アーメン

エレミヤ49

「見よ。獅子がヨルダンの密林から 常に潤う牧場に上って来るように、 わたしは一瞬にして彼らをそこから追い出し、 選ばれた人をそこに置く。 だれがわたしのようであろうか。だれがわたしを呼びつけるだろうか。 だれがわたしの前に立つことができる 牧者であろうか。」エレミヤ49:19 またまた、諸国へのさばきの宣言が続きます。 どんなに強い支配者も、「わたしは一瞬にして彼らをそこから追い出し、選ばれた人をそこに置く」と主は言われます。 主の御手が働くと、今日の独裁者たちも同じようになることを覚え、独裁に苦しむ国々のために祈ります。 また「だれがわたしの前に立つことができる牧者であろうか」とあります。イエス・キリストは「わたしは良い牧者です」と言われました。この方を越える牧者はおらず、この方こそ私たちを最善に導いてくださる方です。 祈り: 「わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます(ヨハネ10:11)」 神様、良い牧者であるイエス・キリストとお出会いできたことに感謝します。全能であり世界の支配者であるあなたが、キリストのいのちをもって私を救ってくださり、感謝します。独裁者や圧政に苦しむ世界の人々に、解放が一日も早くありますように。その中で信仰を守っている人々を励ましてください。アーメン

エレミヤ48

「モアブは滅ぼし尽くされて、民でなくなる。 主に対して高ぶったからだ。」エレミヤ48:42 「しかし終わりの日に、 わたしはモアブを回復させる。 ──主のことば。」エレミヤ48:47 エレミヤ書の終わりの方は、各国へのさばきの宣言が続いています。 同じような預言を何度もそれぞれの国に対して語りました。たとえ周りから「いつも同じことを言う」と思われても、神様が語られた内容を曲げずに伝えたことでしょう。 シンガポールのチャンギ刑務所に戦時中入れられた人々は、獄中にあっても日曜礼拝と祈りを忘れないで続けていました(Changi Chapel and Museum)。 私たちも、「いつも同じこと」と思われても、人は罪人であること、主の十字架の福音と永遠のいのちに混ぜ物をせず、導かれた所で語り、礼拝をささげる者でありたいと願います。 そして、神がやがて回復をもたらされることも、忘れてはいけない真理です(47節)。 祈り:神様、あなたの真理に信頼し続け歩む者であらせてください。今日、明日、そして生涯の終わりの日まで、導いてください。アーメン

エレミヤ47

「ファラオがガザを討つ前に、ペリシテ人について預言者エレミヤにあった主のことば。」エレミヤ47:1 ペリシテ人はガザに住んでいました。神は、エジプト(ファラオは王)がガザを討つ前に、エレミヤにそのことを告げられました。 ファラオはもちろん、聖書の神である主を信じているわけではありませんでした。それでも、神は彼を用いてみこころをなさいました。 私たちの周りにいる人たちがたとえ信仰者でなくても、神は時にご計画を実現するために用いることのできる方です。 私たちによくしてくれる人、教会に好意的な人を通して、神のあわれみが届くこともあります。やがてその人たちもキリストを救い主と信じることができますように。 祈り;神様、私の周りの人々と心温まるやりとりができ、主のあわれみと采配を感じることに感謝します。まだキリストを信じる気持ちにならないという___さん、___さんにも、福音と永遠のいのちを受け取る日が1日も早くきますように。アーメン

エレミヤ46

「わたしのしもべヤコブよ、恐れるな。 ──主のことば── わたしが、あなたとともにいるからだ。わたしは、あなたを追いやった先の すべての国々を滅ぼし尽くす。 しかし、あなたを滅ぼし尽くすことはない。 ただし、さばきによってあなたを懲らしめる。 決してあなたを罰せずにおくことはない。」エレミヤ 46:28 エジプトへの裁きが語られた後、再びヤコブ(イスラエル)への励ましのことばが出てきます。「わたしのしもべヤコブよ、恐れるな」(27・28節)と繰り返されています。 周りの強い国が次々と出てきては滅びていく、そして自分自身の国も滅びていくという中で、不安と恐れは極限だったでしょう。 しかし主は「恐れるな」と言われました。それは「わたしがともにいるから」です。 思いがけないことに直面したら「ともに主がおられる」と宣言しましょう。主は訓練されることはあっても、決して見捨てることはなさいません。 祈り;神様、あなたがともにいてくださり感謝します。 「実に、私たちは滅び失せなかった。主のあわれみが尽きないからだ。 23それは朝ごとに新しい。」(哀歌 3:22、23) あなたの訓練には必ずあわれみが伴うことを覚えます。今訓練を通っている___さん、___さんに主のあわれみが感じられますように。アーメン

エレミヤ45

「あなたは、自分のために大きなことを求めるのか。求めるな。見よ。わたしがすべての肉なる者に、わざわいを下そうとしているからだ──主のことば──。しかしわたしは、あなたが行くどこででも、あなたのいのちを戦勝品としてあなたに与える。」エレミヤ45:5 バラクはエレミヤの書記でした。これまでの文章も、彼が書いてきたものでした。 神である主は、ご自身のご計画を達成するために彼を用いられました。書記は大切な働きですが、地味に思えることもあります。バラクとしては、エレミヤのように最前線に立ちたいと思ったのかもしれません。あるいは、別の働きをしたかったのかもしれません。 しかし主は、今の働きを与えたこと、そしてバルクのいのちを守ることを保証してくださいました。 自身に与えられている主の使命はは何でしょうか。大きなこと(に見える)を与えられている人も、地味に思えることを与えられている人もいます。しかし、主の導きならそれが最も相応しいことを受け取り、祈りながら最善を尽くしましょう。そうすれば、他の人にはできない働きを主がさせてくださっていることに気づくでしょう。 祈り;神様、あなたの与えてくださった奉仕や働きを感謝します。他の人と比べて地味だと、引け目を感じることがないように守ってください。あなたからの使命に忠実であり、主のご栄光をユニークに、私らしく輝かせることができますように。 アーメン

エレミヤ44

「彼らは今日まで心砕かれず、恐れず、わたしがあなたがたとあなたがたの先祖の前に与えたわたしの律法と掟に歩まなかった。」エレミヤ44:10 新しい月になりました。新しい環境を迎えた方もいると思います。先週は色々なことがありました。久しぶりに教会に来られた方もおられました。 最近出席した集いで「もし今日が人生最後の日で、明日キリストが来られるとしたら、何をしますか」という問いがありました。 そのまま失われていく魂が救われるようにという、熱い思いがあるでしょうか。 そして私たちは、「いつか」ではなく、今日心砕かれ、主を恐れ、主の教えに従っているでしょうか。 エジプトに自分勝手な判断で逃げ、失敗した今日の箇所を、反面教師として学びましょう。向きを変えるのは「今」です。 祈り;神様、新しい日を与えてくださり感謝します。今週も、主の前に心砕かれ、人でなく主を恐れ、みことばに従い歩めますように。アーメン