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7月, 2023の投稿を表示しています

イザヤ48

「イスラエルの聖なる方、 あなたを贖う主はこう言われる。『わたしはあなたの神、主である。 わたしはあなたに益になることを教え、 あなたの歩むべき道にあなたを導く。』」イザヤ48:17 神様のみこころがわからないと思うときがあります。 どちらを選べばよいのか、迷う時もあります。 神様は自由意思をくださいましたから、私たちに縄をつけてひっぱることはなさいません。それでも、「あなたがわたしの命令に耳を傾けてさえいれば、あなたの平安は川のように、正義は海の波のようになったであろう(18節)」と言われます。 感情や目に見える状況は私たちの判断を鈍らせます。すべてのこと、人の命までも神の御手の中にあることを信頼することが、平安を得、主のみこころを選びとるための大切な一歩だと思います。 祈り:神様、____のことで、みこころがどこにあるのかわからず迷っています。みこころの道を教え、導いてください。みことばや祈りを通して御声に耳を傾け、平安なあなたの道を選びとることができますように。アーメン

イザヤ47

「助言する者が多すぎて、 あなたは疲れている。 さあ、天を観測する者、星を見る者、 あなたに起こることを新月ごとに知らせる者を 立たせて、あなたを救わせてみよ。」イザヤ47:13 バビロンへのさばきが述べられています。 「助言する者が多すぎて」というのは、呪術や占星術、偶像崇拝からの知識などでいっぱいだが、真実からは遠く離れていることを指します。 多くの日本人の姿も同じようです。新年には神社、葬式や法事は寺、神事の各種祭りが何の疑問もなく行われること。「毎年やっているから」と正当化されがちですが、心の底には「たたりが怖いから」という思いや、伝統という名目そのものが偶像となっている場合もあるようです。 バビロンのようにならないよう、ますます身近な方や地域の救いを覚えて祈りましょう。 祈り: 神様、日本人をあわれんでください。純朴な人たちが、いろんなものに縛られています。大切な救いが見えなくなることがありませんように。地域の人たち、近所の人たちの心ににふれてください。日本人の霊の目が開かれますように。私たちに、自然な形であかしする機会を与えてください。アーメン

イザヤ46

「あなたがたが年をとっても、 わたしは同じようにする。 あなたがたが白髪になっても、 わたしは背負う。 わたしはそうしてきたのだ。わたしは運ぶ。 背負って救い出す。」イザヤ46:4 教会の高齢の方々のお顔を思い浮かべながら読みました。敬老礼拝でもよく取り上げられる箇所です。 愛する兄姉が、幼子のような純粋さと謙遜さで主を愛する姿は、教会にとって大きな祝福だなあと励まされます。 若くても年を重ねても、同じように主を愛する私たちでありたいです。 主ご自身は、はっきりと「あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする」と約束される方です。当時のイスラエルの人々に、そして今の私たちにも。 主が私たちを背負ってくださり、木陰のように私たちを御手でおおってくださる恵みを思いつつ、暑い一日でも涼やかに過ごせますように! 祈り:神様、あなたの守りと導きは、焼けつく地での木陰とそよ風のようです。今日も主の道を一歩一歩歩むことができますように。___さん、____さんの体調を守り、新しい力を与え、信仰を励ましてください。アーメン

イザヤ45

「地の果てのすべての者よ。 わたしを仰ぎ見て救われよ。 わたしが神だ。ほかにはいない。」イザヤ45:22 「わたしが主だ」「わたしのほかに神はいない」という宣言がこの章を通して繰り返し、力強く語られます(3、5、6、7、8、18、19、21、22節)。 「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ」という主の招きは、イスラエルだけでなくすべての人に開かれています。私たちの住む日本も、聖書の書かれたイスラエルから見れば「地の果て」です。当時まだ人々に知られていなかったであろう極東の国々にまでも神の救いの招きは及び、私たちが受けとることができました。 異教徒のペルシア王キュロスでさえも、主はご自身の計画のために用いることができます。神様にとって不可能はありません。 今日も生きておられる主は、絶対に救われないだろうと思うような人の心にも働いてくださいます。私たちが勝手にあきらめることのないように、主の助けを祈りましょう。 祈り:神様、あなたの救いの招きはすべての人に開かれています。「あの人は救われるはずがない」と思い込む不信仰をゆるしてください。キリストの十字架は、まだ信仰を持っていない____さん、____さんのためでもあります。謙遜に、希望をもって祈り続けられるよう、私自身の信仰を助けてください。アーメン

イザヤ44

「わたしは潤いのない地に水を注ぎ、 乾いたところに豊かな流れを注ぎ、 わたしの霊をあなたの子孫に、 わたしの祝福をあなたの末裔に注ぐ。彼らは流れのほとりの柳の木のように、 青草の間に芽生える。」イザヤ44:3~4 暑い日が続いています。夕方、教会の庭の草花に水やりをします。焼けつくようなセメントの部分に水をかけると、じゅっという音がするほどです。 でも、水が流れた後、そこに吹く風は少し涼しくなります。 潤いのない地に水が流れ、それが豊かに流れる時、そこに生命が生きます。 同じように、聖霊の川が豊かに流れる時、いのちがあふれ流れます。 川と水辺のそよそよ揺れる柳の木陰の景色は、なんと涼やかに思えることでしょう。 その柳と同じように、私たちも聖霊によって、暑い日照りのような厳しい状況の中にあっても青々と、涼やかに生かしていただけるのです。 祈り:神様、どんな過酷な状況にあっても、そこに主がおられることを覚えます。自分の力で動くと干からびてしまいます。主に信頼し、聖霊の豊かな流れのそばに身をおくことができますよう、導いてください。 暑い日々の中、体調不良や高齢の兄姉、幼い子どもたちを霊肉共にお守りください。 アーメン

イザヤ43

「見よ、わたしは新しいことを行う。 今、それが芽生えている。 あなたがたは、それを知らないのか。 必ず、わたしは荒野に道を、 荒れ地に川を設ける。」イザヤ43:19 現代イスラエル国の南の地域は、建国当初は荒野でした。農作物が育たなかったそうです。しかし、水路が整えられ土壌改良が行われて、今では豊かな耕地になっています。 荒野にいる時には、荒れた地面や枯れた植物、ごろごろした岩しか見えません。でも荒野に道と水をもたらす計画が実現するなら、豊かな地へと変わります。 主が「新しいことを行う」と言われるなら、どんな領域でも変化可能です。私たちの心も、人間関係も、周囲の状況も、将来への展望も、神には不可能なことがありません。「荒野だった」ということもまた、益となりえます。私たちの想像を越えた神の青写真に期待しましょう! 祈り:神様、今私は_____のことで荒野の中にいるように感じます。どうか主ご自身が介入してください。「荒野に道を、荒れ地に川を設ける」ことのできるあなたの良いご計画に信頼します。主のみこころがなりますように。アーメン

イザヤ42

「傷んだ葦を折ることもなく、 くすぶる灯芯を消すこともなく、 真実をもってさばきを執り行う。」イザヤ42:3 「わたしのしもべ」の姿は、キリストの姿を描写しています。3節はマタイ12:20 に引用されています。 柔和で愛に満ち、傷んだ葦やくすぶる灯心を優しく守り、同時に真実と義のさばきをなさる方です。 キリストを信じる者は、みなキリストの似姿を目指して日々聖化の過程にあります。 リーダーシップも、イエス様ならどうされるかを思いながらとります。 リーダーに限らず、もし家庭や職場でクリスチャンがひとりだけなら、キリストの使節としてリーダー的にそこに置かれているのです。 「キリストの心をわが心として♪」と賛美を口ずさみながら、イエス様の後に従う一日でありますように。 祈り:神様、私もキリストの姿にならいたいです。今日も忍耐と柔和と、同時に真実と誠実をもって歩むことができますように。今日行く道を、主ご自身が教えてください。アーメン

イザヤ41

「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。 たじろぐな。わたしがあなたの神だから。 わたしはあなたを強くし、あなたを助け、 わたしの義の右の手で、あなたを守る。」イザヤ41:10 昨日のTV「ライフ・ライン」で、福音お笑いユニット「アイアム」がゲスト出演しておられました。 その中で「お笑いは、人生の苦難を喜劇に変える 神様からのプレゼント」 と答えているのが印象的でした。 神様は、私たちに辛い人生を与え、苦しめようとしておられる方ではありません。 苦難があっても、私たちを島々から、地の隅々から呼び、 「恐れるな。わたはあなたとともにいる」と宣言される神様です。 また、「あなたを強くし、助け、義の右の手で守る」と保証してくださる神様です。 いろいろなハプニングがあっても、主の元に身を避け、心のどこかで楽しむゆとりを主が与えてくださいますように! 祈り:神様、日々驚くようなハプニングの連続です。どうか私の心を守ってください。悲壮感ではなく、主にある余裕を与えてください。今、うつで苦しんでいる___さん、___さんに回復と希望が今日もありますように。アーメン

イザヤ40

「草はしおれ、花は散る。 しかし、私たちの神のことばは永遠に立つ。」イザヤ40:8 イザヤ40章は多くの人に愛されている章です。ある人はここから主の素晴らしさに打たれ、別の人はここから献身の決意をしたといいます。 章全体が主の回復と希望の約束に満ちています。何千年も昔に書かれても今なお多くの人に影響を与えるのは 「私たちの神のことばは永遠に立つ」 からです。 今日の常識と思われることの多く(育児法、治療法、作法...)は、やがて変わっていきます。けれども聖書はゆらぐことがありません。安定した錨のように、私たちを今日も導いてくれます。 祈り:神様、あなたの変わらないことばと約束を感謝します。主を待ち望みます。新しい力を日ごとに与えてください。今気がかりな_____についても、みこころの道に導いてください。主にあって、今週も希望と期待をもって歩みます。アーメン

イザヤ39

「ヒゼキヤはイザヤに言った。『あなたが告げてくれた主のことばはありがたい。』彼は、自分が生きている間は平和と安定があるだろう、と思ったのである。」イザヤ39:8 デイビット・ワング師(ハガイ・インターナショナルトレーニングの元責任者)が、かつてこの記事を考察していました。 晩年のヒゼキヤは宝物倉の中を敵に全部見せるという失態をおかしただけでなく、「自分が生きている間さえよければ」という自己中心的な考えに陥っていた、と指摘しており、非常に印象的でした。 エルサレムの水路を通し、信仰に堅く立ち、アッシリアを撃退し、すぐれた王様といわれたヒゼキヤが、晩年はこのような考え方に陥ったとは!最後まで主に忠実に走り抜くことの厳しさを思わされたことでした。 対照的に、教会にいる高齢の兄弟姉妹が祈り手として仕え、年下の人たちを愛し謙遜な態度で接しておられる姿はなんと麗しいことでしょう。私たちも晩年はそのようでありたい、生涯の最後まで信仰を全うしたいと祈ります。 祈り:神様、あなたに信頼します。生涯主に信頼できますように。経験や年齢を誇らず、謙遜な心で神と人に仕えることができるよう、助け導いてください。アーメン

イザヤ38

「『見よ。わたしは、アハズの日時計に落ちた時計の影を十度後に戻す。』」すると、日時計に落ちた日が十度戻った。」イザヤ38:8 列王記第二20章と同じ記事が出てきます。ヒゼキヤ王の病気と癒し、さらに日時計の影が10度戻る(時間あるいは太陽が逆行)という奇跡が記されています。 主がなさる超自然的なみわざは素晴らしいです。 しかし「わたしはあなたの祈りを聞いた。あなたの涙も見た(5節)」と言ってくださる主のあわれみは、さらに素晴らしいと思います。 この世界を造り治めておられる方が、同時にひとりの心の嘆きや葛藤をよくわかってくださる方なのです。この方に信頼し、何でも祈れる恵みに感謝します。 祈り:神様、あなたは素晴らしいお方です。あなたの御名を賛美します。この素晴らしい方が、私の心の思いを知ってくださり、あわれんでくださるとは、なんという幸い、なんという特権でしょうか。感謝します。アーメン

イザヤ37

「あなたへのしるしは、こうである。『今年は、落ち穂から生えたものを食べ、 二年目は、それから生えたものを食べ、 三年目は、種を蒔いて刈り入れ、 ぶどう畑を作ってその実を食べる。ユダの家の中の逃れの者、残された者は、 下に根を張り、上に実を結ぶ。』」イザヤ37:30~31 教会の裏庭にコンポストがあります。野菜の皮など入れながら堆肥にするということを繰り返し、もう何年になるでしょうか。今年は堆肥の中からカボチャの種が芽を出し、豊かな堆肥の栄養分で黄色い花をいっぱい咲かせています。こんなことは初めてで、思わぬサプライズでした。 ヒゼキヤ王が主を呼び求めた時、王国がアッシリアの侵略の危機から守られただけでなく、回復と祝福の約束までが預言されます。 もっとも、豊かな実が即座に実るとは言われていません。根がはり、実を結ぶには数年かかります。 福音宣教も同じだと思います。今すぐ実が見えなくても、地中ではまいた種が少しずつ根をはり、時間がたってから思いがけない結果を見ることがあります。一度クリスマスに来た子どもが、大きくなって信仰を持つことさえあります。あきらめず、共に期待しながら歩めますように。 祈り:神様、なかなか信仰を持ってくれないと思える家族・同僚・友人たちにも、すでに主のわざが始まっていると信じます。___さん、___さん、___さんが、やがてキリストを救い主として受け入れられますように。離れている___さん、____さんの信仰を、主ご自身が触れ、再び燃やしてください。アーメン

イザヤ36

「人々は黙って、彼に一言も答えなかった。「彼に答えるな」というのが、王の命令だったからである。」イザヤ36:21 アッシリアのセンナケリブ王が軍隊をエルサレムに送りました。ラブ・シャケはその長でした。 彼は汚い言葉でエルサレムの人々と王ヒゼキヤをののしります。そして、ヒゼキヤに従うな、と挑発します。 しかし、人々はじっと黙り、一言も答えませんでした。なぜなら、それがヒゼキヤ王の命令だったからです。人々は自分たちの王の命令を守ったのでした。 私たちはばかにされたり不利なことを言われたりすると、つい言い返したくなります。それは自分の感情がすっきりするからかもしれません。 しかし、感情に任せると主のみ心でないことや、言わなくてよいことまで言ってしまい、余計に混乱を招きかねないのも事実です。 危機に瀕したエルサレムの人々が王の命令を守ったように、私たちもピンチの時に神の命令を守ることができますように。 祈り:神様、気分や感情に任せてつい余計なことまで口走ってしまう私をゆるしてください。みことばの教え、あなたの命令を心にたくわえ、祈ってから対応したいです。今日もことあるごとに、主を思い出し祈り心になれますように。アーメン

イザヤ35

「主に贖われた者たちは帰って来る。 彼らは喜び歌いながらシオンに入り、 その頭にはとこしえの喜びを戴く。 楽しみと喜びがついて来て、 悲しみと嘆きは逃げ去る。」イザヤ35:16 平和と喜びに満ちた回復の様子が書かれます。イザヤの時代だけでなく、キリストが来られた時に真の回復があることから、ここはメシア預言でもあります。 悲しみと嘆きが去り、楽しみと喜びがやって来ます。 日々、悲しみや嘆きのニュースが入ってきます。私たち自身も直面します。それでも、主にあがなわれたことを思うときに「楽しみと喜び」が心の深いところにあることを発見します。 心の表層からは隠れているかもしれませんが、キリストがノックし入ってくださった奥にある「心の庭(堀肇師の表現)」を今日もう一度散歩してみませんか。 祈り:神様、「弱った手を強め、 よろめく膝をしっかりさせよ(3節、ヘブル12:12)」と手を取り回復させてくださsったことに感謝します。今日、キリストをお迎えした心の深いところを散歩します。まだキリストをお迎えしていない方に、深い平安を得るお手伝いができますように。悲しみ嘆いている方々に、この深い平安が来ますように。アーメン

イザヤ34

「主の書物を調べて読め。 これらのもののうち、どれも失われていない。 それぞれ自分の伴侶を欠くものはない。 それは、主の口がこれを命じ、 主の御霊がこれらを集めたからである。」イザヤ34:16 これまでに語られた預言、すなわちイザヤ書の前の部分を確認してごらん、という語りかけです。どれも主が語られ、聖霊が働いて記されたものだから、それは失われることがない、とあります。 イザヤ書に限らず、聖書66巻は神の霊感によって書かれ、神ご自身が人を用いて記されたことを私たちは信じています。 そんなに価値のある聖書が、グーテンベルクに始まる印刷技術の発達で、誰でも手にすることができるようになりました。悪い内容の印刷物も作れますが、それよりも福音宣教が進むと大いに期待されたでしょう。 そしてインターネットの普及で、誰でも望めばオンラインで聖書に接することができるようになりました。 インターネットは犯罪や悪事に用いられることもあります。しかしそれに屈せず、神のみことばや福音を伝えるためのツールとして用いることができますように。 祈り:神様、私たちに聖書を与えてくださり感謝します。文字で、音声で、手話で、点字で、オンラインで、みことばを分かち合うために仕えている働き人、宣教団体、信仰者の一人ひとりを今週も励ましてください。主の愛と福音が、さらに日本中、世界中に広がりますように。アーメン

イザヤ33

「主よ、あわれんでください。 私たちはあなたを待ち望みます。 朝ごとに私たちの腕となり、 苦難の時の、私たちの救いとなってください。」イザヤ33:2 試練や落胆の中にあるときは、朝起きても心が沈みます。期待感がなく、どんよりとした気持ちで一日を始めるかもしれません。 そのような時は、先を見すぎないことです。いくら予測しようとしても、私たちの見えるものは限られています。 今日の聖句には「朝ごとに」とあります。今日という一日を守ってくださいという願いです。 イエス様は「ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります(マタイ6:34)」とおっしゃいました。 先々を見て絶望せず、不安にとらわれず、まず今日一日の神の守りと助けを呼び求めましょう。 祈り:神様、今日一日、あなたの守りと助けに信頼して生きることができますように。先々を見て不安になるのではなく、すぐそばで共にいてくださる主の恵みとあわれみを深く味わう者となれますように。 私たちの近辺で、不安や絶望の中にいる方がいたら、私を、教会を用いてください。その方が福音にふれ、キリストに出会うことができますように。アーメン

イザヤ32

「しかし、ついに、 いと高き所から私たちに霊が注がれ、 荒野が果樹園となり、 果樹園が森と見なされるようになる。」イザヤ32:15 「霊」とは神の霊、聖霊です。聖霊がくだる時に、地上に神のすばらしいみわざが現れます。 「注がれ」というのは、リベカがかめの水をらくだのために注いだこと(創24:20)、救い主が「自分のいのちを死に明け渡し」たこと(イザヤ53:12)と同じ表現だそうです。惜しげもなく、豊かに、十分にあふれるほど与える様子です。 神様はひとり子であるイエス・キリストも、聖霊も、惜しみなく注ぎ与えられる方です。決して他人事ではなく、この私のために十字架があり、聖霊が共にいてくださるのです。 一週間の疲れが出ている方がおられるでしょうか?今日は少し静まり休めるとよいですね。目を閉じて福音の恵みを黙想し、聖霊に満たしを祈る時間がもてますように。 祈り:神様、あなたの尽きない恵みを覚えます。聖霊がくだり、今日も働いておられることに感謝します。聖霊によって私に福音の恵みがもっと大きくわかりますように。聖霊に満たされ、深い平安と喜びをもって歩めますように。そして、同じ聖霊が内住される霊の兄弟姉妹の存在に心から感謝します。アーメン

イザヤ31

「帰れ、イスラエルの子らよ。あなたがたが反抗を強めているその方のもとに。」イザヤ31:6 万軍の主がイスラエルのために戦い守ってくださることが繰り返し述べられます。 そして、人々が「その方」つまり主なる神様のもとに帰るようにとの呼び掛けが6節です。偽りの神々を離れ、悔い改めてて主のもとに帰るなら、神様は愛し赦してくださいます。 神様は、今日の私たちにも同じ思いでいてくださいます。信仰から離れてしまったような人や教会に来なくなった人のことを、神様は忘れておられません。「帰れ、イスラエルの子よ」と待っておられます。 私たちも忘れることなく、裁くことなく、そうした方々の信仰の回復をとりなし祈る者でありますように。 祈り:神様、今、信仰から離れたかのように見える人たちを覚えて祈ります。___さん、___さん、___さん、____さん...に、主への信頼と燃えるような信仰の回復がありますように。私たちも主の限りないあわれみと寛容の心を頂き、祈り続けることができますように。アーメン

イザヤ30

「イスラエルの聖なる方、神である主は こう言われた。『立ち返って落ち着いていれば、 あなたがたは救われ、 静かにして信頼すれば、 あなたがたは力を得る。』 しかし、あなたがたはこれを望まなかった。」イザヤ30:15 エジプトと同盟を結ぼうとするイスラエルに向かって、人の力でじたばたするのではなくご自身に頼るように、と主は言われました。 反抗し続け、聞く耳を持たないイスラエルの失策にもかかわらず、神様が語り続けてくださっているのです。 さらに18節では 「それゆえ主は、 あなたがたに恵みを与えようとして待ち、 それゆえ、あわれみを与えようと立ち上がられる。 主が義の神であるからだ」と、主を待ち望む人への幸いが語られます。 私たちはいつもじたばたしがちです。神様からの答えが遅いと、自分で何とか対処しようとし、もっと事態をこじらせることさえあります。 夏の暑い日に木陰で休むように、主の陰に身を寄せ、黙して主に信頼する私たちでありますように。主が必ず導き、必要な力を与えてくださると信頼しましょう。 祈り:神様、自分であくせくし、視野が狭くなり、疲れてしまいがちな私です。目を上げ、主の元に憩い静まり、主の導きに信頼することができますように。アーメン

イザヤ29

「ああ、あなたがたは物を逆さに考えている。 陶器師を粘土と同じに見なしてよいだろうか。 造られた者がそれを造った者に 『彼は私を造らなかった』と言い、陶器が陶器師に 『彼にはわきまえがない』と言えるだろうか。」イザヤ29:16 ここでたとえられているのは、陶器師が神、陶器が人です。 人が神に向かって「神などいない」「人は自分の力で生きている」と言うのはナンセンスだということです。 「祈りが聞かれないから、神を信じるのをやめた」とか、「なぜ神は私をこんな目に合わせるのか」と思いたくなることがあったでしょうか?おそらく、1度や2度は誰でもそんな気持ちになったのではと思います。 しかし、それも陶器が陶器師に「彼にはわきまえがない」と言うようなものだ、とこの箇所は私たちを諭してくれます。 神の前で、また他の人との間でも、さらに謙遜な心を持つ者となれますように。 祈り:神様、あなたが私を目的を持って造ってくださり感謝します。暑いと疲れやすく、つい不機嫌になってしまいます。神様にたいしても、周りの人に対しても、謙遜な心を与えてください。進路や導きを祈っている___さん、___さんにあなたのご計画が明らかになりますように。アーメン

イザヤ28

「それゆえ、神である主はこう言われる。『見よ、わたしはシオンに 一つの石を礎として据える。 これは試みを経た石、 堅く据えられた礎の、尊い要石。 これに信頼する者は慌てふためくことがない。』」イザヤ28:16 最近、近隣でサイレンを聞くことが増えました。教会から見える工場付近を消防車やパトカーが走ります。その度に「どうか被害が最小限でおさまりますように」と祈る思いです。 災害でなくても、建物を建て替えたり取り壊したりすることがあります。地上の建物がなくなった時にも残るものがあります。それは土台部分です。 「礎」の「要石」とは、土台の動かない石です。 世界や社会の情勢は移り変わります。しかし、「礎」の石であるイエス・キリストは変わることがありません。 私たちはつい、日常の見える情勢に影響されがちです。でも、歴史を治め動かしておられるのは主ご自身です。この方に信頼し、この方の元にとどまり、押し流されないまなざしをもてますように。 祈り:神様、目まぐるしく移り変わる世の中や情報の洪水の中で、変わらない礎の石であるあなたに身を寄せます。大雨や様々な災害の中で被害を受けた方、家を失った方、避難中の方に、慰めと必要の満たしがありますように。アーメン

イザヤ27

「その日、 麗しいぶどう畑について歌え。わたし、主はそれを見守る者。 絶えずこれに水を注ぎ、 だれも害を加えないように、 夜も昼もこれを見守る。」イザヤ27:2~3 ぶどう畑にたとえられたイスラエルの回復と繁栄の幻が語られています。 読むだけで素晴らしい平安と平和の様子が伝わってきます。 神様のご計画がよいもので希望があるならば、途中の試練や困難に「いつまでですか」と言うことがあっても、「これで終わりだ」と絶望したままでいる必要はありません。なぜなら、必ず脱出の道が備えられているからです。 列車の人身事故や自死のニュースが伝えられるたび、心が痛みます。もしキリストにあって人生がやり直せる、と知っていたら、あるいは鬱のままでも自分は愛されていると実感したら、件数はずっと減るでしょう。 絶望せず、希望の主、イエス・キリストに出会う方がひとりでも多く起こされますように。 祈り:神様、落胆している___さん、____さん、鬱で苦しんでいる___さん、___さんが、あなたにあって希望の光を見いだせますように。自死した人の家族や友人、また事故を目撃した人の心をあなたの慰めで満たし、トラウマや傷から癒してください。アーメン

イザヤ26

「正しい人の行く道は平らです。 あなたは正しい人の道をならし、平らにされます。」イザヤ26:7 体育館にある歩行運動の機械には「傾斜」というボタンがついています。押して上り坂の設定にすると、運動強度が増してずっと歩くのが大変になります。少し歩くと息があがり、やめたくなってしまいます。 「正しい人の道をならし、平らにされ」る神様は、私たちが人生の旅路を途中であきらめず、歩み続けてほしいと願われます。 同時に、神様は私たちが到底越えられないような急坂を、無理にうちたたいて越えさせようとはなさいません。 私たちに越えることのできる平らな道を、主が手をとって共に歩いてくださいます。そして、私たちが疲れ果てる時には、主が私たちを背負ってくださいます。 「主がわたしの手を とってくださいます どうしてこわがったり 逃げたりするでしょう やさしい主の手に すべてをまかせて 旅ができるとは なんたる恵みでしょう」(聖歌651番) 祈り:神様、私たちの道を知り、いつも共にいてくださり感謝します。自分の力だけで歩まねばと思っている___さん、____さんが、イエス・キリストに出会い、重荷を下ろすことができますように。主とともに歩む恵みを知ることができますように。私たちも、ますます福音の素晴らしさを実感できますように。アーメン

イザヤ25

「その日、人は言う。 『見よ。この方こそ、待ち望んでいた私たちの神。 私たちを救ってくださる。 この方こそ、私たちが待ち望んでいた主。 その御救いを楽しみ喜ぼう。』」イザヤ25:9 木曜集会で、福音の恵みを味わうシリーズが始まりました。十字架の素晴らしさをもっともっと心に大きくとどめることができるようにと願います。 子どもの頃、遠足の日が来るのがとてもとても楽しみでした。大人の今、キリストの救いと恵み、そして再臨をそのくらい待ち望んでいるだろうか、と問われています。 9節には「その御救いを楽しみ喜ぼう」とあります。主のみわざ、救いをもっともっと心いっぱいに楽しみ喜べますように。 祈り:神様、あなたのくださった恵み、救いをもっと喜んで受けとれますように。子どものような心で、無邪気に、ただ感謝できますように。不要なプライドや恥意識から解放してください。明日の礼拝を、遠足の日のように心から待ち望みます!アーメン

イザヤ24

「それゆえ、東の国々で主をあがめよ。西の島々で、イスラエルの神、主の御名を。 地の果てから、私たちは、 「正しい方に誉れあれ」というほめ歌を聞く。 しかし私は言った。 『私はだめだ、だめだ。ああ、悲しい。 裏切り者が裏切った。 裏切り者が裏切り、裏切った。』」イザヤ24:15~16 イザヤの見た、世界のさばきと回復の黙示です。ヨハネの黙示録と似ていますね。 世の一時的な繁栄はすたれてしまいますが、一方で神のお名前が地の果てまでとどろきあがめられます。 日本は、エルサレムから見れば「地の果て」です。そこで主のお名前があがめられているのは、まさにイザヤの見た黙示の光景です。日本の救いのために、どれだけの祈りが世界でささげられていることでしょうか。 とりなし祈ってくださっている世界のクリスチャンに感謝し、私たちも他の国の救いを祈る者となりましょう。 祈り:神様、私たちのために世界の多くのクリスチャンが祈ってくださっていることとに感謝します。私たちも____、____の国を覚えて祈ります。クリスチャンが励まされ、多くの方々が救われ、キリストの御名をあがめますように。アーメン

イザヤ23

「その日になると、ツロは七十年の間忘れられる。一人の王の生涯ほどの期間である。七十年が終わると、ツロは遊女の歌のようになる。」イザヤ23:15 イスラエル人の周囲にある国々への宣告の最後は、ツロへのものです。 当時栄えていた国で、領土はアフリカにもおよび、海辺で貿易や商売がさかんでした。アルファベットを発明したフェニキア人の国だと言われています。 それほどの国がなくなり、70年が経過するというのです。それは偶像礼拝と罪に満ちた生活ゆえでした。 敵の国への警告を反面教師として、神様はイスラエルに悔い改めを迫っておられます。 敵の滅びを喜ぶのではなく、自らも悔い改めるように。 私たちも、つい周りとの比較をしてほっとしたり卑下したりしがちです。 しかし、神様は「あなたはどうですか」と一人ひとりの生き方に関心を持っておられます。 祈り:神様、周りに気をとられたり影響されたりするだけでなく、あなたの前で自分自身の生き方と歩みを点検することができますように。神以外のものを神より大事にするという偶像礼拝からお守りください。アーメン

イザヤ22

「二重の城壁の間に貯水池を造って 古い池の水を引いた。 しかし、おまえたちは これを造った方には目もくれず、 遠い昔にこれを形造った方に 目を留めなかった。」イザヤ22:11 ユダ王国(エルサレム)への宣告がなされます。 8節以降に、ユダ王国が町の城壁の補修をしたこと、水源を確保したこと、武器や兵士の数を確認したことなどが列挙されます(ヒゼキヤ王の建設した水路や、シロアムの池のあたりです)。 町を守るための備えを否定しているわけではありません。 でも、神に目を留める以上に自分の力により頼むなら、本末転倒といえます。 水を造った方、創造主こそ、すべてのものの所有者であり力の源です。 ともすれば、私たちも同じ錯覚に陥ります。収入を増やすため、家族を養うため、健康のため、老後のため...。備えるのは悪いことではありません。でも、神を見上げることが後回しになりませんように。 祈り:神様、私たちの必要をすべて知ってくださり感謝します。___のこと、____のことが気にかかっています。あなたに信頼します。今日、主にあって何をすればよいのか、どう連絡を取ればよいのか教え導いてください。アーメン 祈り:

イザヤ21

「テマの地の住民よ、 渇いている者を迎えて水をやれ。 逃れて来た者にパンを与えよ。」イザヤ21:14 日本の戦国時代には戦いが方々でたえませんでした。今年のNHK大河ドラマは、ちょうどその時代を扱っているそうです。 この章で述べられている国々の様子も、まるで戦国時代のようです。強い国が後退し、混乱と戦いに満ちています。 戦争や戦いには、人間の罪の性質が端的に表れています。傷つけあい、犠牲と悲しみが満ちるのをわかりながらも、自らの主義主張を遠そうとします。いつ終わらせればよいかもわからない時さえあります。 クリスチャンとして平和のために祈りましょう。国であれ個人であれ、争いのあるところに和解がもたらされますように。それぞれが悔い改めと譲歩をし、必要な助けが届いて主にある回復の日が来ますように。 祈り:神様、あなたの愛が世界に満ち、平和がもたらされますように。 「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです(マタイ5:9)」とあるように、私も個人レベルから今日も祈り、平和をつくる者となれますように。アーメン

イザヤ20

「主は言われた。『わたしのしもべイザヤが、エジプトとクシュに対するしるし、また前兆として、三年間裸になり、裸足で歩いたように、』」イザヤ20:3 エジプトとクシュ(エチオピア)の人々がやがてアッシリアの捕虜として、裸で裸足のまま連れ去られるという警告がされます。 今回は預言のことばでなく、実物教材を通してでした。神様は預言者イザヤに、捕虜と同じ格好をさせて示されました。なんと3年間も、イザヤは裸に裸足で過ごしたのでした! 預言者イザヤはことばだけでなく格好までも、神に従いました。 私たちも、口先だけではなく生活や行いまで、信仰を表明しているでしょうか。日曜日に教会にいるときではなく、普段の生活で信仰が試され、実践を通して輝きます。 祈り:神様、みことばに従って歩みたいです。時には周りからの圧力や恥ずかしさを覚えることがあります。でも、キリストが十字架で、比べ物にならないほどの恥と痛みを受けてくださったことを思い、心から感謝します。アーメン

イザヤ19

「そのようにして主はエジプト人にご自分を示し、その日、エジプト人は主を知る。そしていけにえとささげ物をもって仕え、主に誓願を立ててこれを果たす。」イザヤ19:21 イスラエルの敵の国々が、やがて主を知り主に仕えるという希望の預言です。 25節には、万軍の主が「わたしの民エジプト、わたしの手で造ったアッシリア、わたしのゆずりの民イスラエル」と、国々の主を知る民を祝福されるともあります。 主の回復と救いが全世界に及ぶ素晴らしい様子です。 今、自分の敵のように感じる人がいたら、あるいはやり方に不信感を覚える国があるなら、その人やその国のために祈りましょう。 祈り:神様、「その日全世界が」と賛美しながらも、自分と敵対する考えの国や人のためになかなか祈れませんでした。ゆるしてください。____さん、____の ために救いと祝福を祈ります。 キリストの十字架は、その人たちのためでもあったということを受け入れ、これからもとりなしの祈りをささげることができますように。アーメン

イザヤ18

「そのとき、背が高く肌の滑らかな民、あちこちで恐れられている民、その国土を多くの川が分けている、力強い踏みにじる国民から、万軍の主の名のある場所、シオンの山へ、万軍の主のために贈り物が運ばれて来る。」イザヤ  18:7 ここに出てくるのはクシュ(エチオピア)という国です。クシュは強い国でした。ユダ王国のヒゼキヤ王の時代に、イスラエルとクシュが軍事同盟を結ぶというアイデアが出ましたが、それは主の御心ではありませんでした。やがてクシュはアッシリアに滅ぼされました。 その後、素晴らしい平和の様子、主にささげ物が携えられる様子が書かれています。どんなに栄えた国、強い国でも、主の前にはひざまずく存在です。 今の世界情勢や地域の動きのあれこれに心騒がせず、私たちも主の元にひざまずき、主のみこころとご計画とに耳を傾け祈る者出ありますように。 祈り;神様、あなたの主権と権威に感謝します。 7 月に入りました。私たちには明日や未来のことは見えませんが、主が治められる時、回復の時が来ることを信じ、全能の主の前にひざまずき祈ります。明日の礼拝でも、心を込めて御名をたたえます。アーメン