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詩篇76

「まことに 人の憤りまでもがあなたをたたえ   あなたは あふれ出た憤りを身に帯びられます。」詩篇76:10 数日前、歯科で詰め物を取り替える治療を受けました。ところが詰め物が合わなくて隣の歯が圧迫され、痛みと不快感を覚えつつ連休を過ごしています。 なぜこの時期に予約を入れたのだろうか?なぜすぐに違和感を覚えなかったのだろうか?などと悶々としています。 歯の不調だけでもこんなに影響が及ぶのですから、不慮の事故や災害に巻き込まれて人生が変わった人の思いはいかばかりでしょうか。 「人の怒りは神の義を実現しないのです(ヤコブ1:20)」とあります。 私たちが怒りに任せて感情をぶちまけても、それは神のみ思いではありません。 しかし、そんな人の憤りまでも、「神をたたえ」神が「身に帯び」てくださるのです。 それは、私たちがどんなに激しい感情で祈っても、神は拒絶されず受け入れてくださるということだと言えます。 「こんなことを祈ってはよくない」「神に怒りをぶつけてはいけない」と思っていませんか。 天のお父さんである主に、どんなことでもお話ししましょう。主は耳を傾けておられます。そして、み前に心を注ぎだすことから、私たちの癒しと回復も始まります。 祈り:神様、私は______のことで心が騒ぎ、憤りを覚えています。あなたの慰めと回復が必要です。助けてください。 信仰の友である兄姉のためにもお祈りします。____さん、____さんの状況に、あなたが涙をぬぐい、葛藤を平安に変え、人の知恵を越えた解決を与えてください。どうか優しい主の手とねぎらいを、その人たちが感じることができますように。アーメン

詩篇75

「まことに 神こそさばき主。 ある者を低くし ある者を高く上げられる。」詩篇75:7 イエス様も言われました。 「心の貧しい者は幸いです」(マタイ5:3) 「自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます(マタイ23:12、ルカ14:11) わかっているのに、弱い私たちです。 家庭や教会で自我が出てしまい、自分こそ正しいような言動をしてしまうことがあります。逆に、いつも抑圧を覚え、ストレスをためてしまうこともあります。 しかし、人を高くしたり低くしたりするのは神ご自身です。 神が私を抱いて持ち運んでくださるのですから、自分の感情のアップダウンに任せなくても大丈夫です。 神様のみわざを驚き仰ぎ見る主の民の一人として、今日もこの地上で生かされています。 祈り:神様、些細なトラブルや悔しさに思いが奪われることがないように、心を守ってください。裁く思いや批判の思いから、私の心や教会を守ってください。いつも主が御手で治めてくださることに感謝します。アーメン

詩篇74

「忘れないでください。 あなたに敵対する者の声を あなたに向かい立つ者どもが 絶えずあげる叫びを。」詩篇74:23 親しい友人が、以下のような引用を送ってくれました。 「私たちが住む世界は、私たちにこう言っています。 ・パフォーマンス+達成感=アイデンティティ ・ステータス+獲得したもの=安心感 ・外見+称賛=誠実さ これらは本当ですか? ...いいえ。私たちの魂に満足をもたらすのは、成功ではなく目的です。神様からの目的です。 (Edomond Chan、和訳)」 私たちが住む世界の価値観は、私たちに叫びます。「もっと!頑張って!成し遂げて!名声を得て!」と。 しかし、神の価値観に反するなら、それは神に敵対する者の声です。 知らず知らずに、私たちが、そして教会が、その声に従ってしまうことのないように。 祈り:神様、あなたの教会は、この世の中にあってこの世のものではありません。どうか塩気のきいた歩みができますように。教会の中の価値観がいつも主に喜ばれるもので満ちますように。喜ばれないものがあるなら、主が調べ精錬してください。アーメン

詩篇73

「この身も心も尽き果てるでしょう。 しかし 神は私の心の岩 とこしえに 私が受ける割り当ての地。」詩篇73:26 「天ではあなたのほか だれをも望みはしない  地上では あなたのほか だれをも望はしない...」で始まる賛美の歌詞は、25・26節から取られています。26節はコーラス部分です。 改めてじっと思いめぐらすと、不思議な気がします。 私の「身も心も尽き果てる」、神が「心の岩」なのはともかく、 神は「とこしえに私が受ける割り当ての地」だと言い切るアサフの信仰は、すでに十字架による永遠のいのちを確信しているようです。 そして、すでに十字架のあがないを聞いて知っている今日の私たちは、彼以上に福音の恵みを味わい確信しているだろうか、と問われます。 「見ずに信じる者は幸いです」と言われた主の恵みは、過去も現在も未来も、変わることがありません。 祈り:神様、あなたは「とこしえに 私が受ける割り当ての地」であるお方です。今日もあなたを何より、誰より頼ることができますように。偶像となりがちなものを心から除き去り、人の評価でなくあなたのまなざしを求めることができますように。アーメン

詩篇72

「ほむべきかな 神である主 イスラエルの神。 ただひとり 奇しいみわざを行われる方。 とこしえにほむべきかな その栄光の御名。 その栄光が全地に満ちあふれますように。 アーメン、アーメン。 エッサイの子ダビデの祈りは終わった。」詩篇72:18~20 詩篇第2巻の最後は、主への賛美と「ダビデの祈りは終わった」という文言です。 ダビデの詩は、もちろん詩篇の他の箇所にも出てきています。 それでも、「アーメン、アーメン」と一つ一つの祈りに心合わせ、それを重ねています。 私たちも同じです。共に祈り、「アーメン、アーメン」と心合わせることに、クリスチャンが一人ではなく主の共同体として歩んでいることの意味を覚えます。 信仰生活は一人で完結するのではありません。少し面倒に思えても、信仰者の集まりがどれほど意味のあるものか、じっくり考えてみたいと思います。 祈り:神様、信仰の友の祈りに心合わせ「アーメン」と言える恵みに感謝します。私が祈る時、共に祈ってくれる人たちの存在を感謝します。アーメン

詩篇71

「年老いたときも 私を見放さないでください。 私の力が衰え果てても 見捨てないでください。」詩篇71:9 年を重ねた自分を想像してみてください。体力がなく、足も弱く、ばりばり働くこともない自分。 世の中は、引退した人のことを忘れるかもしれません。 しかし、神様は決して忘れることがありません。 年を重ねたからこそ、いっそう主の恵みと守りの経験を通り、確信を持つことができます。 ダビデも 「神よ あなたは私の若いころから 私を教えてくださいました。 私は今なお あなたの奇しいみわざを告げ知らせています。(17節)」 と、若い頃も今も変わらない主の真実を歌います。 「年老いて 白髪頭になったとしても 神よ 私を捨てないでください。 私はなおも告げ知らせます。あなたの力を世に。 あなたの大能のみわざを 後に来るすべての者に。(18節)」 とも述べます。何歳になっても、主の素晴らしさを後世に伝えるという使命は変わりません。たとえ病気であっても、寝たきりになっても、クリスチャンは生涯神に愛され、霊的な歩みでは現役だと、聖書が保証してくれています。 祈り :神様、何歳になっても使命のある、価値ある存在だと保証してくださり、感謝します。 高齢の愛する兄姉である___さん、___さんを祝福してください。 そして___さんの父親、___さんの母親...がキリストに出会うことができますように。あかしする兄姉を励ましてください。彼らが、天国の望みをこの地上でも一日も早く体験できますように。アーメン

詩篇70

「神よ わたしを救い出してください。 主よ 急いで私を助けに来てください。」詩篇70:1 詩篇のダビデの祈りは、同じようなことが繰り返されていると感じます。 それでよいのだと思います。 私たちの思いは、同じ傾向にありますし、日々同じようなことを考えます(思考が堂々巡りをすることもあります)。 急に整理がついた、解決したということもあれば、長期にわたって祈り続けることもあります。 詩篇がダビデの同じ願いをそのまま残していることに、かえってほっとします。 しかも70篇は「記念のために」と副題がついています。 神が「私の助け 私を救い出す方(5節)」という信仰告白をしながら、たゆまずあきらめず祈り続ける信仰は、自身や民族の記念となり、信仰者の姿勢の記念ともなっています。 祈り:神様、私が同じような祈りをしていても、あなたが疎ましく思われず聞いてくださる恵みを感謝します。祈りこそがあなたとの会話であり、私の人生の一歩一歩の記念碑となっていくことを覚えます。新しい週も、一日の初めと終わりに祈りを置くことができますように。アーメン

詩篇69

「心の貧しい者たちよ 見て喜べ。 神を求める者たちよ あなたがたの心を生かせ。」詩篇69:32 ダビデの祈りです。彼の心は、深い泥沼に沈むような、水が喉にまで入って窒息するような状況です。 理由もなく憎まれ、断食して祈ると笑い者になる...強いストレスと嘆きに押し潰されそうな状態です。 彼は祈ります。 「私を泥沼から救い出し 沈まないようにしてください。 私を憎む者どもから 大水の底から 救い出してください。 奔流が私を押し流さず 深い淵が私を吞み込まず 穴が私の上で口を閉じないようにしてください。(14~15節)」 そして、 「心の貧しい者たちよ 見て喜べ。 神を求める者たちよ あなたがたの心を生かせ(32節)」と励ましています。 ストレスにさらされる中、神に助けを求める人たちに神は遠くあられません。 主はダビデの「心を生かせ」の言葉どおり、励まし生かしてくださる方です。 今日も主は、心の貧しい者に耳を傾けてくださいます。 祈り:神様、あなたの助けにより頼みます。ストレスと重圧の中で働いているビジネスマンや主婦を励ましてください。 大きな問題や危機にある教会の牧師たちを覚えてください。その重荷をすべてキリストが背負い、水が喉に入って溺れるような状態からお守りください。アーメン

詩篇68

「ほむべきかな 主。 日々 私たちの重荷を担われる方。 この神こそ 私たちの救い。」詩篇68:19 多くの職業に「守秘義務」があります。立場上知りえた情報を、むやみに他の人に話してはいけないというものです。対人職では、クライアントの個人情報や秘密を漏らさないことが大切です。 職業でなくても「ここだけの話ね」とか「誰にも言わないで」と相談を受ける時、それをどれだけ守れるかで信頼性や品性が問われます。 しかし、守秘義務にせよ他のことにせよ、胸にしまっておくには重いことが多くあります。誰にも話せないことであっても、主には話すことができます。この方は「日々私たちの重荷を担われる方」です。この方に胸の内を打ち明け、重荷から解放されて生きていきましょう。 「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」マタイ11:28 祈り:神様、あなたが私の心の重荷すべてを負ってくださる方であることに感謝します。あなたに私の心をお話しします。アーメン

詩篇67

「神が私たちを祝福してくださり 地の果てのすべての者が 神を恐れますように。」詩篇67:7 福音宣教と、自らも神の祝福を受けることとは矛盾しないようです。 神の恵みを受け取り、十分に感謝し味わうことで、ますます福音の素晴らしさを分かち合いたいという願いも強くなるのかもしれません。 一昨日、アメリカの友人から小包が届きました。 開けてみると、スタディーバイブル(解説つきの聖書)とカードが入っていました。 なかなか買う決心がつかない私のために買い求め、梱包し、高い送料を払って送ってくれたのでした。 しかも皮装の質の良いものでした。カードには「あなたは神の国の大切な娘よ」と書かれていました。 素敵な贈り物をしてくれた友人に感謝すると共に、神様が彼女を通して恵みと励ましをくださったことを覚えます。そして、私も信仰の友を励ましたい、福音の恵みをもっと分かち合いたい、と思わされました。 神様の恵みと祝福は、私たちの今日という日常に満ち溢れています。 祈り:神様、あなたの恵みと祝福を数えます(詩篇103:2)。今週も______という恵み、______という祝福を頂いていることを感謝します。受けた恵みに感謝し、私も福音の素晴らしさと感動に促されて恵みを流し出していくことができるように。アーメン

詩篇66

「神よ まことに あなたは私たちを試し  銀を精錬するように 私たちを錬られました。」詩篇 66:10 錬ることは銀の割合を純粋にします。クリスチャンも同じです。もちろん、働き人も例外ではありません。神様から錬られるごとに、私たちの動機が探られ、心がどれほど純粋に主に向かうかに変化が訪れます。 「自分が」というのではなく、神の御名がどれほど高められるかに関心が向かっていくのです。自分自身はそのための小さな存在であり、それでも主の手足として使っていただける恵みを実感するようになります。 今日の詩篇の11、12節には 「私たちは 火の中 水の中を通りました。   しかし あなたは私たちを 豊かな所へ導き出してくださいました。」 と、試練には終わりがあり、その後には平安と喜びの豊かさがあることが歌われています。 さらに、後に与えられる報いも保証されています。 「試練で試されたあなたがたの信仰は、火で精錬されてもなお朽ちていく金よりも高価であり、イエス・キリストが現れるとき、称賛と栄光と誉れをもたらします(1ぺテロ1:7)。」 祈り:神様、試練を通して私たちの動機を探ってください。心が精錬され、純金・純銀のように純粋にきよめられたいです。今試練を通っている___さん、___さんに主の平安と大きな報いがありますように。アーメン

詩篇65

「あなたはその年に 御恵みの冠をかぶらせます。 あなたの通られた跡には 油が滴っています。」詩篇65:11 主の恵みと備えへの感謝があふれ出る詩篇です。 「その年に恵みの冠をかぶらせる」とは、とてもすてきな表現ですね。 今生きているこの年に、主が恵みの冠をかぶらせているところを想像してみてください。 元々は収穫感謝の時期に歌われたと考えられていますが、収穫の時期にかぎりません。 日々与えられているもの、備えられている事が、恵みの冠のもとで主によってなされているのだと考えると、毎日がかけがえのない24時間に思えてきます。 祈り:神様、平凡な一日の中にも、恵みが滴り落ちるほどに注がれていることに感謝します。兄弟姉妹の今日一日が、主の恵みの冠を頂いて歩んでいるのだという喜びにあふれますように。恵みの主に感謝します。アーメン

詩篇64

「正しい人は主にあって喜び主に身を避けます。 心の直ぐな人はみな 誇ることができます。」詩篇64:10 悪事を企み、うまくいったと思っている人たちの「内なる思いと心とは 底が知れません(6節)」というほど狡猾で悪賢いものです。 しかし、「神が彼らに矢を射掛けられるので 彼らは不意に傷つきます(7節)」。 人の力では悪事を暴くことが難しいと思われた事柄が、思いがけないところから綻びるのです。 そして「彼らは自らの舌につまずきました。 彼らを見る者はみな 頭を振って嘲ります(8節)」というほどになります。 今日、なんと悪巧みや欺瞞があふれているでしょう。 そうした時には主に身を避けましょう。 やがて、心の真っ直ぐな人は神にあって恵みを誇ることができるよう、ねぎらわれるという約束を信じて、ひとときの嵐が過ぎるのを祈りながら期待しましょう。 祈り:神様、理不尽なことや策略にはまり不当に扱われたことは、あなたがご存じです。復讐は、私ではなくあなたの御手にゆだねます。私に、ただあなたの陰に身を避けることを教えてください。今週も職場、学校、地域、それぞれの場所に出ていく兄姉一人一人をお守りください。アーメン

詩篇63

「神よ あなたは私の神。 私はあなたを切に求めます。   水のない 衰え果てた乾いた地で 私のたましいは あなたに渇き   私の身も あなたをあえぎ求めます。   私は あなたの力と栄光を見るために こうして聖所で あなたを仰ぎ見ています。  あなたの恵みは いのちにもまさるゆえ 私の唇は あなたを賛美します。」      詩篇63:1~3 教会でよく賛美する「主よ あなたは私の神~♪」、「あなたの恵みは いのちにもまさるから 私の唇は 主よ あなたを賛美します♪」の曲を口ずさみたくなります。 この詩篇はダビデがユダの荒野に逃れていた時の歌というのですから、どんな苦境でも賛美と祈りをささげることができると、彼はあかししてくれています。 「それゆえ私は 生けるかぎりあなたをほめたたえ あなたの御名により 両手を上げて祈ります(4節)」というダビデにならって、私たちも今日の礼拝で主を賛美し、手を上げて祈りましょう。 祈り:神様、あなたの恵みは限りなく、あなたの栄光は素晴らしいです。私に口が与えられているのは賛美するため、両手はあなたをたたえるためだと受け取ります。皆で集まる礼拝も、帰宅しての個人礼拝でも、あなたを力一杯賛美することができるよう導いてください。アーメン

詩篇62

「私のたましいは黙って ただ神を待ち望む。 私の救いは神から来る。」詩篇62:1 以前述べたかもしれませんが、いても立ってもいられないような気持ちになった時、 つい無駄な動きをして状況が余計に悪化したり、疲れ果てたりしがちです。 しかし、ダビデはたましいを黙らせることを自分に言い聞かせています。 「私のたましいは黙って」、救いの「神を待ち望む」ように、と。そして実際にそうしました。 命を狙われても、わが岩、わが救い、わがやぐらである神により、「私は決して揺るがされない」(2節)と宣言しています。 私たち夫婦は、昔神学校の先生がおっしゃっていた「肉にある時はなにもするな」 という言葉をしばしば思い出します。 じたばたせず、神を待ち望むことの大切さを教えてくださったのだと思います。 祈り:神様、あなたが私の岩、私の救いであることを覚えて感謝します。思い煩い騒がしく動く私の心を、主にあって静めることを教えてください。黙してあなたを待ち望むことができますように。アーメン

詩篇61

「どうか王のいのちを延ばし その齢を代々に至らせてください。 王が 神の御前でいつまでも 王座に着いているようにしてください。」。」詩篇61:6,7 前半では「私の心が衰え果てるとき 私は地の果てから あなたを呼び求めます。 どうか 及びがたいほど高い岩の上に 私を導いてください」と自分の守りを祈っています。 ところが後半では王のためにも祈っています。 ダビデにとっての王とは誰でしょう? サウルに他なりません! ダビデの命をねらい、ひどい仕打ちをしたサウルのために祝福を祈っているのです。 イエス様も、十字架につけた人々のために祈られました。 私たちも、周りの人はもちろん、自分とそりが合わない人のために何らかの祈りをささげることができるか考えたいと思います。 祈り:神様、私に日々の必要と恵みをお与えくださり感謝します。普段、なかなか祈れない___さんや___さんのために、今日は祝福を祈ります。主が目を留め、その方々の信仰を励まし霊性を強め、あるいは主との出会いを与えてください。 私の苦い心をあなたにおゆだねします。アーメン

詩篇60

「あなたは あなたを恐れる者に 旗を授けられました。 弓から逃れた者をそこに集めるために。  セラ」詩篇60:4 今年は、狭山池の桜を見るためにインバウンドの旅行者が多く訪れていました。 「こんな郊外にまで」と驚きました。 ガイドが持つツアーの旗を目印に、周辺の道路を歩いておられました。 日本語のあまりわからない方もいるようでしたが、旗から目を離さなければ迷わずについていくことができます。 「弓から逃れた者をそこに集めるために」、「あなたを恐れる者に旗を授けられました」とダビデは歌います。弓から逃げた後、安全な場所へ導くための旗です。 神様は、私たちの人生の歩みを旗で導く方のようです。 その旗が見える方向に歩んでいれば、迷うことなく安全です。 もし視界から消えたら、それは旗がないのではなく、私たちの方向が誤っているのです。旗が見える方向に修正することが求められます。 今日も、神様の旗が見えているでしょうか。 祈り:神様、あなたをいつも見ていたいです。みことばに聞き、祈りの中で語られるか細い声を聞くことができますように。ボタンをかけ違えないように、早い段階で修正して向きを変えることができるように導いてください。アーメン

詩篇59

「私の力よ 私はあなたを見続けます。 神が私の砦だからです。」詩篇59:9 51篇以降、ダビデの祈りが続いています。多くは苦境の中で祈られたものです。 今日は命を狙うサウルによって、自宅が見張られている時の詩篇です。 自宅が敵に包囲されたらどんな気持ちかと想像します。武装した敵の姿が窓から見えます。敵が目に入るたび、恐れて震えあがるでしょう。 しかし、ダビデは意図的に敵を見る代わりに神を見ることを選びました。ちらっとではなく、「見続ける」ことを選びました。「砦」である神を見続ける時、視点が変わります。 私たちも同じように、問題から目を離すことを「選びとる」ことを、今日試してみませんか。 結果として、ダビデには「私の恵みの神は 私を迎えに来てくださる。神は 私に敵を平然と眺めるようにしてくださる(10節)」という信仰が与えられました。 神様は、私の視点をも「敵を平然と眺める」ことができるようにしてくださる方です。私たちが主ご自身を見続けていれば。 祈り:神様、あなたが私の砦であることに感謝します。問題を見ると、恐れと落胆がやってきます。あなたを見続けることができるよう、助けてください。 私の内に、信仰の友の間に、そして教会中に、主を見続ける信仰と、そのためのみことばと励ましの言葉が満ちますように。偏った思考の習慣から解放してください。柔らかい、純粋な心を与えてください。アーメン 神は私の砦 私の恵みの神であるからです。(17節)

詩篇58

「神よ 彼らの歯をその口の中で折ってください。 主よ 若獅子たちの牙を打ち砕いてください。」詩篇58:6 なんという祈りをするのか、と思うかもしれません。敵をひどい目に合わせてください、という願いなのですから。 しかし、自分がそのように感じたことがないかと問われれば、「ありません」と胸をはって答えられる人はあまり多くないのでは、と思います。 素直に心の奥底からすべてを主に祈りで申し上げるのか。あるいは、表面はよい人を装いつつ心は憎しみでいっぱいか。どちらが砕かれた心だと言えるでしょう。 神様は「そんなことを言うな!」と怒る方ではありません。かえって、私たちの思いを探り、私たちも憎しみを受けるべき未熟な者であることに気づかせ、あわれみ、癒してくださる方です。 ダビデも最後には、常に主を賛美する言葉で終えています。いつまでも根に持つ態度でなく、神の癒しと回復に感謝する私たちでありますように。 祈り:神様、私の心の中の苦い思いを申し上げます。辛く、心を指すような言葉に傷つきました。けれども、すべてを知っておられる主がいてくださって感謝です。私もまた、同じように人を傷つけ、罪深い思考を持つ者です。そのことも告白します。 私の思いを聖霊のよいもので満たしてください。アーメン

詩篇57

「私のたましいよ 目を覚ませ。 琴よ 竪琴よ 目を覚ませ。 私は暁を呼び覚まそう。」詩篇57:8 サウルから逃れて洞窟にいた時、ダビデは自由に行動することができませんでした。 来る日も来る日も身を潜め、暗い穴の中でじっとしていなければなりませんでした。 いつまでなのか、見通しも立ちません。 それでも、ダビデはその穴の中で自分の心に向かって語りました。神に向かって目を覚まし賛美せよ、と自分の心を励ましました。 その源は、あわれみ深い神の力への信頼でした。 私たちにも、高齢で体力が落ちたり、身体が不自由になったり、病気で療養したりということが起こります。回復の見通しがないと、まるで洞穴にいるようかもしれません。その時、どのように心を励ましますか。自分の力では無理でも、神はそうできるように励ますことさえできるお方です。 祈り:神様、礼拝に来るのが困難な状況にある方を覚えます。格別にその兄姉を励ましてください。信仰を主ご自身が支えてください。私たちも、祈りながら互いに電話や手紙などで信仰の分かち合いができますように。一人一人にあかしを与えてください。アーメン

詩篇56

「あなたは 私のさすらいを記しておられます。 どうか私の涙を あなたの皮袋に蓄えてください。 それとも あなたの書に記されていないのですか。」詩篇56:8 かくれんぼや追いかけっこは楽しい遊びですが、現実に追われるとなると大変です。 ダビデはとうとうつかまってしまいました。敵のペリシテ人によって。彼は神に向かって、逃亡生活の日々を記し、流した涙の1滴もこぼすことなく保存用の皮袋にためてくださいと願います。 それほどの苦しさ、それほどの嘆きだったのだと思います。命さえ、どうなるかわかりません。「心に恐れを覚える日(3節)」でした。 しかし、重要な真理に彼は立ち返ります。それは、人を恐れるのではなく神を恐れるべきだということです。 11節の「神に信頼し 私は何も恐れません。 人が私に何をなし得るでしょう。」はヘブル13:6にも引用されています。 私たちも他人の勝手きままな態度や言葉でなく、神とみことばに根ざす一週間となりますように。 祈り:神様、私の心がいつもあなたに向かいますように。人の顔色や言葉に左右されず、主を恐れみことばにより頼むことができますように。人間関係に難しさを覚えながら通勤、通学する兄姉をお守りください。主がその真ん中にいてくださいますように。アーメン

詩篇55

「私は言いました。 「ああ 私に鳩のように翼があったなら。飛び去って 休むことができたなら。」詩篇55:6 「翼をください」という歌があります。サビの部分は「大空に飛んでいきたい、悲しみのない自由な空へ行きたい」という内容です。 ダビデも困難のあまり、飛んでいきたいと思いました。友の裏切りと敵対に、彼の心はずたずたでした。 ユージーン・ピーターソンという人は 「神が翼をくださらなかった理由は恐らくこれだ。翼があると、我々は神のおしえに迅速に従うよりも、翼を用いて気に入らない状況から逃げてしまうからだ」 と言っています(Praying with the Psalms)。 神のみ思いは私たちが逃げて飛んでいくことではなく、 「あなたの重荷を主にゆだねよ。 主があなたを支えてくださる。 主は決して 正しい者が揺るがされるようにはなさらない。(22節)」 を受け取り、主に信頼することです。 祈り:神様、あなたの素晴らしい守りと救いを感謝します。 あなたは私が自分の力で逃げるのではなく、ご自身に頼りご自身の救いを体験するようにと願っておられます。___________のことで、主に信頼する心をください。苦境を通っておられる____さん、____さんに、主の御力と御救いを表してください。アーメン

詩篇54

「神よ あなたの御名によって 私をお救いください。 あなたの力強いみわざによって 私を弁護してください。」詩篇54:1 「お救いください」...中3の臨海学校で遠泳がありました。学年がそろって沖に数百メートル泳いだところで、突然ひとりの級友の姿が見えなくなりました。 体調の異変で溺れたようでした。 遠泳は即刻中止になり、岸にもどって旅館で生徒は待機をしました。 その時、強く願ったのはただただ「お救いください」ということでした。 ダビデは、自身の生死にかかわる逃亡生活の中「お救いください」と祈りました。 救いが「神の御名によって」くると信じて祈りました。 イエスという名前は「ヨアシュア、主は救い」という意味です。 文字通り、イエスの御名には救いがあります。 そして、この方の霊である聖霊は「助け主」であり、私たちを弁護してくださる方です。 この方以外に救いはない、という強い確信が、私たちに今日も与えられますように。 祈り:神様、イエス・キリストのお名前には力があります。この方の名前によって祈る時、悪魔は逃げ去り、私たちの心には平安がやってくることを信じて感謝します。今日も、あなたにより深く信頼できますように。急な事態がやって来た時に、あなたの御名を呼び求め「お救いください」と叫べますように。アーメン

詩篇53

「愚か者は心の中で『神はいない』と言う。 彼らは腐っている。忌まわしい不正を行っている。善を行う者はいない。」詩篇53:1 聖書のいう「愚か者」とは、神を認めない人、「神はいない」と思っている人のことです。 それは、自分の力と判断だけで生きる姿勢、八百万の神といっても自分の幸運や利益のための手段とする姿勢です。 今の日本で、なんと多くの人が「神はいない」と思っていることでしょう。 クリスチャンでさえ、時に神の存在を忘れ、問題に埋没してしまいがちです。 生活の一瞬、一瞬に神の存在を認めたブラザー・ローレンスのように、今日ことごとに立ち止まり、神の存在を意識してみましょう。 祈り:神様、今日私が顔を洗う時、靴を履く時、車に乗る時、食事をする時、人と会う時、電話をとる時、メールを送る時、ベッドに入る時...、あなたがおられることを意識し、祈り心で過ごすことができるように助けてください。私にキリストの香りと品性を与えてください。アーメン

詩篇52

「私は とこしえに感謝します。 あなたのみわざのゆえに。 私はあなたにある敬虔な人たちの前で すばらしいあなたの御名を待ち望みます。」詩篇52:9 エドム人ドエグがサウルのもとに来て、「ダビデがアヒメレクの家に来た」と告げたときの詩です。 サウル王から逃げているときに密告され、絶体絶命になったダビデの状況を想像します。命の危険、裏切り、孤立...。 大きな声で演説することも、軍隊を鼓舞することもできません。 ただ待ち望み、神のあわれみにすがるのみです。 しかし、神を待ち望むことは何にも勝って安全だということを彼は体験します。 新学期が始まり、楽しそうに通学する姿を見かけます。しかし中には、新しい環境が辛く、友達もなく孤立している人がいるかもしれません。イエス・キリストが友であり、いつも共にいてくださり、独りでないことを知ってほしい、と切に望みます。 子どもだけでなく、職場や親戚、地域で暮らす大人にとっても、この事実は大きな慰めです。 祈り:神様、どんな時でもイエス様が共にいてくださることを感謝します。今日、独りぼっちだと感じている人がいるなら、あなたの慰めと臨在を感じることができますように。私に何ができるか、聖霊様の導きを聞きます。トラクトや私自身のあかしを準備します。あなたの必要な時、どうぞ用いてださい。アーメン

詩篇51

「神よ 私にきよい心を造り 揺るがない霊を 私のうちに新しくしてください。」詩篇51:10 表題に「ダビデがバテ・シェバと通じた後、預言者ナタンが彼のもとに来たときに」とあります。不倫の罪を隠そうとしたダビデでしたが、神の目には隠すことができませんでした。ナタンはダビデの罪をはっきりと指摘します。 ダビデはおののき、そして主の前にはっきりと自分の罪を認めました。 罪を認め、悔い改めることは信仰者の生き方でとても大切です。 同時に、ナタンのように愛をもって他者の罪を戒めることも必要です。 嫌われたくないからと、見て見ぬふりをしていませんか。 友を愛するなら、罪を指摘して責めること、そして共に悔い改めの祈りと神の赦しを求めるように導くことこそ、何よりの友情だと言えるのではと思います。 「ヒソプで私の罪を除いてください。 そうすれば私はきよくなります。 私を洗ってください。 そうすれば 私は雪よりも白くなります」(7節)とダビデの純粋な悔い改めの祈りの背後に、ナタンの祈りと勇気があったことも覚えます。 祈り:神様、ダビデのように純粋に悔い改める柔らかい心を与えてください。また、ナタンのように祈りつつ、悔い改めに導く戒めに必要な、愛と勇気を与えてください。アーメン

詩篇50

「こういうことをおまえはしてきたが わたしは黙っていた。 わたしがおまえと等しい者だと おまえは思っていたのだ。 わたしはおまえを責める。 おまえの目の前でこれらのことを並べ立てる。」詩篇50:21 神が「わたしはおまえを責める」と言われています。 「おまえ」とは「神を忘れる者、悪を行う者」です。神を認めようとせず「神のことばをうしろに投げ捨てた」者です。 はじめ神は黙っておられましたが、それは見逃しておられるわけではありませんでした。神の時に、悪はさばきを受けます。 今、理不尽な扱いを受けていますか。いじめや孤立の対象になっていますか。気落ちしないでください。神の義は、悪をそのままにはされません。そして、神の愛は、悩む者を決して見捨てません。神の介入と導きが神の時に必ずおこなわれます。 祈り:神様、理不尽な状況に陥っても、あなたがわかってくださっていることはなんという慰めでしょう。人間関係で悩み、あるいは不当な扱いを受けた___さん、____さんの心をあなたが癒し励ましてください。アーメン

詩篇49

「兄弟さえも 人は贖い出すことができない。 自分の身代金を神に払うことはできない。」詩篇49:7 大富豪が宇宙旅行をする時代になりました。お金があれば、今までできなかった体験が可能になることがあります。 しかし、たましいを救うことはお金をどれほど出してもできません。 これは厳然とした事実です。どんなに愛する人でも、大切な人でも、私たちの力やお金ではあがなうことができません。 「しかし 神は私のたましいを贖い出し  よみの手から 私を奪い返してくださる。」(15節) 神だけが救うことのできるお方です。イエス・キリストが十字架で死んでくださったことによって身代金が支払われました。 私たちはそのことを知っており、永遠のいのちを持っています。 周囲の裕福な人や成功しているかに見える人と、この世の基準で比較したり卑下したりする必要はありません。もっともっと素晴らしいものを、私たちはすでに頂いているのです。手を差し伸べ、恵みを分け与えるのは私たちの側です、 祈り:神様、毎日がイースターの恵みをかみしめる朝で始まりますように。人にはできない救いを、あなたは成し遂げてくださいました。今日も恵みの中に生かされています。永遠の価値に目をとめることができますように。新年度、新しい歩みに入る子どもたちの心をお守りください。価値ある存在として主が造ってくださったことを受け取れますように。アーメン

詩篇48

「この方こそまさしく神。 世々限りなく われらの神。 神は 死を越えて私たちを導かれる。」詩篇48:14 コラ人らによる美しい描写です。 主の聖なる山を「高嶺の麗しさは 全地の喜び。 北の端なるシオンの山は大王の都。(2節)」と表現して、主ご自身をほめたたえています。 いつも見上げることのできる方は、ただ美しいだけではありません。 私たちや愛する家族が病の宣告を突然受けた時、友人の死の知らせを受けた時にも、 やはり見上げることのできる方です。 この方は「死を越えて導かれる」方です。山の向こうだけでなく、地の果てまで行っても、死後までも、永遠に変わらず、私たちを導いてくださる方です。 祈り:神様、あなたが昨日も今日も、いつまでも変わらない方であることを感謝します。闘病中の___さん、____さん、愛する家族や友人を失った___さん、____さんに、世々限りなく私たちの神であるあなたが、深い深い慰めを語り、励ましを与えてください。アーメン

詩篇47

「すべての国々の民よ 手をたたけ。喜びの声をもって 神に大声で叫べ。」詩篇47:1 最近「Intentional living(インテンショナル・リビング)」という言葉を知りました。 文字通りには「意図的に暮らす」という意味です。クリスチャンにとっては、日々主のご計画を受け取り生きていくライフスタイルを指します。 1節は命令形です。「手をたたけ」「大声で叫べ」と、神に賛美する姿勢が命じられています。 気持ちが乗らない時も、主に賛美することはみこころです。 インテンショナル(意図的)に、「そうします!」という気持ちを向けてみませんか。主はその姿勢を喜び、思いがけない心の変化を与えてくださると信じます。 祈り:神様、インテンショナル(意図的)にあなたを賛美できるように助けてください。あなたのみこころを歩むことを選び取れるよう、今日も助けてください。アーメン

詩篇46

「神は われらの避け所 また力。 苦しむとき そこにある強き助け。」詩篇46:1  今年に入っても、地震や災害があちこちで起こっています。ニュースを聞くたびに 1995年の阪神大震災、2011年の東日本大震災はもちろんのこと、教会の屋根が飛ばされた2018年の台風を思い出します。 「大地は動かない」という常識が覆るとき、頼れるものは地上のものではないことを実感します。 私たちには天地を造られた神様がおられることと、この揺るがない方に頼ることを知っていることは大きな希望です。  「それゆえ われらは恐れない。 たとえ地が変わり 山々が揺れ 海のただ中に移るとも。たとえその水が立ち騒ぎ 泡立っても その水かさが増し 山々が揺れ動いても。」(2~3節) 祈り:神様、大地は揺れ地形が変わるような災害が起こります。でも、どんな時も主に祈り、主の元に身を避けることができて幸いです。私たちの教会も、多くの方々の祈りに支えられました。そして主が最善に導いてくださったことに感謝します。 今日も、様々な被害にあった人や避難生活が続いている人に、格別の励ましを与えてください。アーメン

詩篇45

「すばらしいことばで 私の心は沸き立っている。 王のために私が作った詩を 私は歌おう。 私の舌は巧みな書記の筆。」詩篇45: 1  ”指揮者のために。「ゆりの花」の調べにのせて”という表題に、「イースターにはゆりの花を飾りましょう」という賛美歌を思い出します。 「ゆりの花」のメロディーにのせて、詩人は心が沸き立つようなすばらしいことば、巧みな筆のように滑らかなことばで賛美します。 2節からは主キリストの姿が浮かびます。「人の子らにまさって麗しい」方、「唇からは優しさが流れ出る」方、「威光は勝利のうちに」「真理と柔和と義のゆえに」「義を愛し 悪を憎む」方であるキリストは、教会のかしらであり救い主です。 あがなわれた罪人の集まりであり、時には問題や試練にあう教会ですが、それでも主を賛美する姿はゆりの花のように主に愛され、花嫁のような扱いを受けます。そして、私たちはその花嫁である教会の部分です。 祈り:神様、罪赦された私はこの口を賛美のために用いたいです。「書記の筆」のようにあなたをほめたたえたいです。口で周りを汚すことがありませんように。キリストの香りを放つことができるように、私も兄弟姉妹も助けてください。アーメン

詩篇44

「私の弓に 私は頼りません。 私の剣も 私を救いません。」詩篇44:6 詩人は、自分たちの力で救われたのではないことをよく知っています。 「自分の剣によって 彼らは地を得たのではなく 自分の腕が 彼らを救ったのでもありません。 ただあなたの右の手 あなたの御腕 あなたの御顔の光が そうしたのです。 あなたが彼らを愛されたからです(3節)」 と、主の力だけが救いをもたらすことを信じています。 しかし、後半では現在の逆境が続いていることを訴えています。なぜだろうか、いつまでだろうかと思いながら、切々と苦境を訴えています。それはまるで、神が眠っておられるようだ、とさえ言います。 お願いします、助けてください、という祈りで終わる詩です。 信仰があっても、いつまで苦しみが続くのかと絶望しそうになることがあります。しかし、やみくもに自力でもがいても、空を打つ拳闘のようです。 詩人はそのこともよくわかっています。 「助けてください」と叫びながらも、「私の弓に 私は頼りません。 私の剣も 私を救いません」と自らの限界を知ってゆだねようとしています。 祈り:神様、私もあれこれと自分でもがいてきました。しかし、自分の思い、自分の力はあまりにも小さく、限界があることがよくわかりました。主が助けてくださらなければ、あのこと、このことに解決はありません。 ______のことをあなたにゆだねます。どうか助けてください。アーメン

詩篇43

「こうして 私は神の祭壇に 私の最も喜びとする神のみもとに行き 竪琴に合わせて あなたをほめたたえます。 神よ 私の神よ。」詩篇43:4 昨日はイースター、今日から新年度(2024年度)が始まります。 緊張しながら、あるいは「年度始めは忙しいなあ」と思いながら仕事や学校に出向く人もいるでしょう。 一日の働きを終えて帰宅すると、失敗や至らなさがあれこれ思い出されてしまいます。 そんな時、賛美を口ずさむと心が晴れてきます。みことばの歌詞を宣言し、神様をほめたたえるのはたましいのサプリメントのようです。 詩篇の作者も「神のみもとに行き 竪琴に合わせて あなたをほめたたえます」と歌っています。神の元で賛美することが自らの最善のケアとなることを知っていました。 祈り:神様、私もあなたの元で憩い、賛美をささげます。新しい環境や生活リズムに疲れた時、変わらない主が助けてくださることを信じます。今日も導いてください。アーメン

詩篇42

「わがたましいよ なぜ おまえはうなだれているのか。 私のうちで思い乱れているのか。 神を待ち望め。 私はなおも神をほめたたえる。 私の救い 私の神を。」詩篇42:11 詩篇の第二巻は「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように 神よ 私のたましいはあなたを慕いあえぎます(1節)」で始まります。 飢え渇いた鹿にとっては、川の流れこそいのちです。 同じように、飢え渇いたたましいにとっては、生けるいのちの川であるキリストだけが拠り所であり、解決です。 たましいがうなだれている時、思い乱れている時は、「神を待ち望む」時です。 復活されたキリストは、たましいに水を与え、いのちを与えてくださいます。 その水は尽きることがありません。 イースターの朝に、いのちの水の源である主を仰ぎ見て、感謝と喜びをいっぱいに表します! 祈り:復活の主よ、あなたを賛美します。あなたを礼拝します。罪と死ののろいから私を救い出してくださいました。あなたを慕い求めます。感謝をささげます。イエス様、ありがとうございます! アーメン

詩篇41

「幸いなことよ 弱っている者に心を配る人は。 わざわいの日に 主はその人を助け出される。」詩篇41:1 日本では「情けは人のためならず」ということわざがあります。 「人のためにした親切が自分に戻ってくる」という意味ですが、聖書は何千年も前にこの真理に到達しています。 「弱っている人に心を配る人」の様子を、新約聖書では 「喜んでいる者たちとともに喜び、泣いている者たちとともに泣き(ローマ12:15)」と表現しています。 主が十字架にかかり埋葬され、明日は世界中が喜ぶ復活祭、イースターです。 共に泣いた後、共に喜ぶ準備はできていますか。誰と寄り添い、祈ることができるでしょうか。 祈り:神様、弱っている人の友となってくださったイエス様の愛と復活の力を覚えます。私も、___さんの隣人となれますように。主の十字架に感謝し、死まで通ってくださったことに感謝します。 アーメン

詩篇40

「あなたを慕い求める人たちがみな あなたにあって楽しみ 喜びますように。 あなたの救いを愛する人たちが 『主は大いなる方』と いつも言いますように。」詩篇40:16 聖書に「あはは」というせりふがあるのか、と驚いたことがあります。この詩篇を読んだ時でした。嘲笑する者の声です(15節)。 イエス様が十字架にかかられた日、兵士やユダヤ人指導者、やじ馬たちは「あはは」とあざ笑いました。しかし、イエス様はこの人たちのために十字架上で祈ってくださいました。 復活のイエス・キリストが救い主で永遠のいのちを与える方だと、私たちは知っています。ですから、主イエスを慕い、この方にあって楽しみ喜びます。「主は大いなる方」だと、感謝に満ちて叫びます。 祈り:神様、あなたを慕い求めます。主の救いを愛します。キリストの十字架の苦しみが私のためであったと受け取ります。教会のそばを通る通行人や車の運転手が、十字架に気づき、心に飢え渇きを覚えて主を求めますように。職場や家庭にいる信仰者が、尋ねられた時に聖霊の与える言葉で話すことができますように。アーメン

詩篇39

「私はひたすら黙っていた。  良いことにさえ沈黙した。  そのため私の痛みは激しくなった。」詩篇39:2 昨日に続き、口を制することについて考えさせられます。 1節は「私は言った。私は自分の道に気をつけよう。私が舌で罪を犯さないように。口に口輪をはめておこう。悪しき者が私の前にいる間は。」 と、むやみに口を開かないことを述べます。 ところが2節を見ると「ひたすら黙って」「良いことにさえ沈黙した」結果、「痛みは激しくなった」というのです。 真理を真理として言わないことも、むやみに口を開くのと同じくらい良くないことである、ということです。 見ないふり、うわべだけの平和主義者ではなく、真心で接し戒めること、みこころを世の中に向けて発言することも、大切なクリスチャンの使命です。 今日、主が促しておられることは何でしょうか。 祈り:神様、あなたが与えてくださる真理、福音の恵み、励ましを発信できるように助けてください。兄弟姉妹にも、祈って真心からの言葉をかけることができますように。アーメン

詩篇38

「まるで私は 耳が聞こえず 口で争わない人のようです。 まことに主よ あなたを私は待ち望んでいます。わが神 主よ あなたが私に答えてくださいます。」詩篇38: 緊張や不安で動悸が激しくなり、心臓が飛び出てしまいそうだという経験は、多くの人にとってあるでしょう。 ダビデも「私の胸は激しく鼓動し(10節)」という状態を通っています。罪の嘆きと体調不良の中にいました。 わーっと叫びたいところです。誰かに愚痴を言いたい気分です。 しかし、ダビデは黙することを学びました。叫ぶ代わりに、愚痴の代わりに、主を待ち望み、主からの答えを聞こうとしました。 敵はあざ笑い高ぶるかもしれません(16節)が、人がどう思おうとも、主がわかってくださるという確信に支えられたのでした。 祈り:神様、私が人よりも主ご自身を待ち望み信頼できるように助けてください。人は思い思いのことを話し、勝手な解釈をします。移り行く意見に振り回されず、祈りながらみこころに沿った決断ができますように。中高生キャンプで一人一人が祈った祈りを、あなたが祝福してください。アーメン

詩篇37

「主によって 人の歩みは確かにされる。主はその人の道を喜ばれる。 その人は転んでも 倒れ伏すことはない。 主がその人の腕を支えておられるからだ。」詩篇37:23-24 JS(中高生)キャンプの最終日です。進路や将来を祈っている若い人たちが、主の道を歩めますようにと祈ります。 キャンプの恵みの一つは、同じ年代の信仰の友ができることです。私自身も、高校生キャンプで知り合いになった同い年の友だちと、今日でもなお励まし合い、親しく交わりをもっています。主は、信仰の友を通しても歩みを支えてくださいます。 時には、友の忠告は耳に痛いです。しかし、主の真理が語られているなら、「つまずいた」と言わず、素直に受けとる者でありたいです。 「怒ることをやめ 憤りを捨てよ。 腹を立てるな。それはただ悪への道だ。(7節)」 祈り:神様、私の人生の歩みを導いてくださり感謝します。 若い世代の人たちを祝福してください。聖書的な価値観に立って祈り、決断できますように。主の教会を建て上げる、よい友を与えてください。アーメン

詩篇36

「神よ あなたの恵みはなんと尊いことでしょう。 人の子らは 御翼の陰に身を避けます。」詩篇36:7 神に愛された王ダビデでも、その人生は苦労続きでした。 ゴリヤテとの命がけの決闘、サウル王からの逃亡生活、戦いに次ぐ戦い、日々の王政、不倫の罪、子どもの死、神殿建設の却下、息子の反逆...。 外側だけでなく、彼の内面のストレスや悲しみも数知れずありました。 彼の詩篇が愛されるのは、私たちの感情を代弁してくれているからかもしれません。 その中で、彼は心の焦点を主に転換する習慣を教えてくれます。 状況が変わらなくても主の恵みをふと見上げます。 その時、主の御翼がすぐそこにあり、自分を覆っていることに気づくのです。 ダビデ以上に私たちの感情をすべて経験されたのは、人となられたイエス・キリストです。 どんな思いで地上生涯の最後の一週間を歩まれたでしょうか。 押し潰されそうな悲しみ・プレッシャーと、その中で神を見上げて信頼する心とは、私たちのどんな逆境も理解されるお方のものです。 祈り:神様、私のすべての感情を理解してくださる方が私の主であることを感謝します。病気ややむを得ない事情で、礼拝に来たくても来れない___さん、___さんの心の葛藤を思います。主が慰め励まし、信仰を強く保つことができますように。 御翼の陰に主がお守りください。アーメン

詩篇35

「盾と大盾を手に取って 私を助けに来てください。」詩篇35:2 今日から受難週、キリストが十字架への道を歩まれる週です。 「悪意のある証人どもが立ち 私が知らないことを私に問います(11節)」は、イエス様が裁判を受けた時を思い出させます。 私たちも、時に理不尽な状況におかれる時があります。 万策尽きて抗う力もなくなり、ただうずくまるしかない時もあります。 そんな無防備な者を助けに来てくださるのは、主ご自身です。 「盾」はエペソ6章では「信仰の盾」と表現されて出てきます。他の武具同様、私たちのために主が備え与えてくださる武具のひとつです。 主が助けであり、この方以外には解決がないという信仰を頂くなら、私たちがどれほど弱くても主の「盾」の守りがそこにあるという体験をします。 祈り:神様、あなたの守りの盾を感謝します。私の信仰を強め、助けてください。理不尽な状況に疲れはてた時、緊張した時、そして霊の戦いを覚える時、あなたの助けを呼び求めます。 あなたご自身が戦いにすでに勝利され、私たちにすでに武具を備えてくださっていることにも感謝します。アーメン

詩篇34

「味わい 見つめよ。 主がいつくしみ深い方であることを。 幸いなことよ 主に身を避ける人は。」詩篇34:8 この詩の表題は 「ダビデがアビメレクの前で、頭がおかしくなったかのようにふるまい、彼に追われて去ったときに。(「アビメレク」は1サムエル記21:11~の「アキシュ」のこと)」 です。 ダビデにとってはサウルに追われ、ペリシテの地で気が変になったふりをしなければならず、さらにそこも追われました。 恐れと情けなさの極みの状況を通った後の、心からの告白です。 「味わう」とは、豊かな味をじっくりと口の中に巡らせ、目を閉じ、舌や鼻の感覚を総動員する状態です。 いつくしみ深い主ご自身をそのように思い巡らす時、なんともいえない安心感に浸ります。 辛い状況を通れば通るほど、主のいつくしみの素晴らしさをもっと知っていくのかもしれません。 ぺテロは言っています。 「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、霊の乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。  あなたがたは、主がいつくしみ深い方であることを、確かに味わいました。」  (1ぺテロ2:2~3) 祈り:神様、あなたのいつくしみを感謝します。どんな状況を通ろうとも、あなたに信頼できるように助けてください。職場や学校の人間関係に辛さを覚えている方々を励ましてください。避け所である主に身を寄せることができますように。アーメン

詩篇33

「全地よ 主を恐れよ。 すべて世界に住む者よ 主の御前におののけ。」詩篇33:8 今日の箇所には、「キリスト教国がなぜ戦争をするのか」という問いへの鍵が含まれていると感じます。 その国の為政者は「主の御前におののいて」いるでしょうか。 それとも、自分の都合のよいように宗教を利用しようとしているのでしょうか。 後者のために、様々な問題が起こってくるのだと思います。 主は心を見ておられます。もし利己的な思いなら 「主は 国々のはかりごとを破り もろもろの民の計画をくじかれる(10節)」方です。 歴史をふりかえる時、聖書の預言がそのとおりになり、「主のはかられることは とこしえに立ち みこころの計画は 代々に続く(11節)」ことがわかります。 詩人の「全地よ 主を恐れよ。 すべて世界に住む者よ 主の御前におののけ」という叫びが、今日も全世界に投げかけられています。 祈り:神様、全地を治めるあなたの前にひれ伏します。いつも自分の身の回りのことに気をとられがちですが、世界に目を向けて祈ることができますように。___国に派遣されている____宣教師、___国に派遣されている____宣教師の働きを覚えて祈ります。主が支え励まし、みこころの計画をその地で行ってくださいますように。アーメン

詩篇32

「私は自分の罪をあなたに知らせ 自分の咎を隠しませんでした。 私は言いました。 『私の背きを主に告白しよう』と。 すると あなたは私の罪のとがめを 赦してくださいました。」詩篇32:5 黙っていたときは、骨が疲れきり、一日中うめいていた(3節)と言っています。 それに比べて、罪を告白した喜びは「幸いなことよ その背きを赦され 罪をおおおわれた人は」(1節)と、なんとすがすがしいことでしょうか。 ダビデは"ビフォー・アフター"のようにその経験を歌います。5節の前後に「セラ」とあるのも、じっくりと思い巡らし、胸がいっぱいになっているのかもしれません。 「それゆえ 敬虔な人はみな祈ります。」(6節) 罪がないのでなく、祈りですぐに罪を告白する人が「敬虔な人」とされるのです。 祈り:神様、罪を告白し悔い改める者を赦してくださり感謝します。もっとあなたに近づきたいです。心の底まで隠さず、全部を探っていただきたいです。私にも教会にも、裏表のない心と態度を与えてください。主の元に、すべてを開示し相談し導きを受け取ります。アーメン

詩篇31

「私の時は御手の中にあります。 私を救い出してください。 敵の手から 追い迫る者の手から。」詩篇31:15 先日、和歌山県でロケット「カイロス」の打ち上げが試みられました。 残念ながら延期、失敗となりましたが、「カイロス」という名前に心ひかれました。 「カイロス」とは「時」という意味ですが、単なる年月日や時間の長さではなく、「予定されていたその時、タイミング」というニュアンスがあります。 聖書でも、単純な時間の流れと、神の時である「カイロス」とは使い分けられています。 人は、人生を「○○年」という単純な時の流れで理解しようとしがちです。 しかし、人生が神の御手の中にあることを覚える時、人生の「この時」「あの時」は神のご計画の「時」だと知るのです。 神がいざなってくださる歩みなら、どんなに若くても、逆にどんなに高齢になっても、神の「時」に用いてくださるという希望がわいてきます。 祈り:神様、あなたの時「カイロス」を信じます。人生を後ろ向きに自己評価する姿勢を悔い改めます。あなたに信頼し、主の時の中で歩む日々が一番平安です。今日も御手の中で歩んでいきます。導いてください。アーメン

詩篇30

「まことに 御怒りは束の間 いのちは恩寵のうちにある。 夕暮れには涙が宿っても 朝明けには喜びの叫びがある。」詩篇30:5 この詩篇は冒頭に「家をささげる歌」とあります。 自分の家も車も主のもの、今日住まうことができるのは主の恵みです。 先日の礼拝ゲストが 「どの詩篇でも、ダビデは心をこめて主を賛美した」と言われました。 試練や主の訓練がない訳ではありません。 しかし、主は本質的に「恩寵」つまりあわれみと恵みに満ちた方です。 夕暮れには涙することがあっても、朝明けには喜びの叫びを与えてくださる方です。 主を賛美し、心から礼拝をささげる者として歩みたいと願います。 祈り:神様、あなたをほめ歌います。あなたのお名前を賛美します。 「夕暮れには涙が宿っても 朝明けには喜びの叫びがある」と信じます。 今日、心にかかっている____のこと、____の問題は、すでに主が御手のうちに扱っておられると宣言し、感謝します。アーメン

詩篇29

「主は 大洪水の前から 御座に着いておられる。 主は とこしえに 王座に着いておられる。」詩篇29:10 「雷鳴」「木を引き裂く」「荒野を揺さぶる」ほどに力強い主の声。大自然を支配し、威厳のある創造主が、私の小さな祈りに耳を傾けてくださるとは、なんという光栄でしょうか。 主は偉大なゆえに、どんなに小さな声も聞き取ってくださいます。同時に、主ご自身が細いかすかな声で語られることもあります。 「...に違いない」「こうあるべき」という人の狭い常識にとらわれない方です。 今視野が狭くなっていることはないでしょうか。問題から目を離し、主を見上げて主の偉大な、あるいはかすかな御声を聞くことができるように祈りましょう。 祈り:神様、あなたは全地の造り主で全能の方であることをほめたたえます。私の霊の耳を開いてください。狭い了見を押し付けることなく、とりなしの祈り手となることができるように助けてください。悩みの中にある___さんにも、主がやさしくお語りくださり、導いてください。アーメン

詩篇28

「どうか御民を救ってください。 あなたのゆずりの民を祝福してください。 どうか彼らの羊飼いとなって いつまでも彼らを携え導いてください。」詩篇28:9 旧約時代の王は、政治のトップとして国を治め導く役割を果たしました。 一言では表せないほどの重い責任が、王の上にはありました。 旧約聖書を読むと、よい王様ばかりではありません。神への信頼を離れた時に、トップの王が国を正しく導くことが難しくなってしまったことを示しています。 ダビデは「主は私の羊飼い」と信頼し、主こそ民を正しく導く方だと知っていました。 「高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝をささげなさい」(1テモテ2:1)と聖書は語ります。主に信頼し、祈りながら責任を果たす人たちが、この国にもますます起こされていくよう祈ります。 祈り:神様、私たちの町、会社、学校、地域、府、国に与えられているリーダーを間感謝します。主を恐れ信頼する責任者がこれからも起こされていきますように。社会に影響を持つ人たちが、たましいの羊飼いである主に祈りながら決断できますように。アーメン

詩篇27

「待ち望め 主を。  雄々しくあれ。心を強くせよ。  待ち望め 主を。」詩篇27:14 かつて京都にいた頃、夏の間にこの詩篇を暗唱しようという取り組みがありました。 皆で1節ずつ覚え、礼拝メッセージも少しずつ講解されていったのを覚えています。 なかでも、宣教師の先生が「日本語の暗唱にチャレンジします」と一生懸命口ずさんで練習されていたのが印象的でした。 この詩の最後は「待ち望め 主を」と繰り返されています。 信仰者は、どんなこともただ待つだけでなく、望みをもって待つことができます。それは、主は良い方で、いつも良いご計画を持っておられると信じているからです。 祈り: 神様、あなたに信頼し、あなたの希望のご計画を信じて待ち望みます。 体調の回復を待っている方、新年度の導きを待っている方に、主の良いご計画がなりますように。アーメン

詩篇26

「主よ 私は愛します。 あなたの住まいのある所 あなたの栄光のとどまる所を。」詩篇26:8 教会には掃除や営繕、様々な連絡・関係の調整といった、表からは見えない事柄が多くあります。 いろいろな方が主と主の教会を愛し、それらを担っておられます。 ダビデも主の住まいにいることを愛しました。 失敗もありましたが、気づいた時にはすぐに主の前に出て悔い改めました。 「誠実に歩む」とは、そのような歩みです。 不完全な私たちが主に赦され、誠実に歩む歩みに入れられている恵みに感謝します。 祈り:神様、私たちを恵みのうちに赦し誠実な歩みへと導いてくださり、感謝します。もし、やり直しがきかないと思い、主や教会から離れている人がいるなら、もう一度回復させてくださる主の前に出ることができますように。私たちも、神様の愛と義の中で、祈り続けることができますように。アーメン 

詩篇25

「私のたましいを守り 私を救い出してください。 私が恥を見ないようにしてください。 私はあなたに身を避けます。」詩篇25:20 ダビデは主の恵みと慈しみに期待しています。 「主はいつくしみ深く正しくあられます(8節)」と宣言しながら。 王であるキリストは、支配するためでなく仕えるために人となって来られました。 罪から解放し、自由にし、ご自身を救い主と信じる者には聖霊がいつも共にいるようにしてくださいました。 また、主は「待ち望む者がだれも恥を見(2節)」ないようにしてくださいます。 代わりに、キリストが十字架で誰よりも恥を受けてくださったからです。 私のどんな感情も恥もこの方はわかってくださり、解決してくださる方です。 死ぬことを覚悟して、私のためにエルサレムに入り、十字架に向かってくださった方です。 祈り:神様、キリストがすべてを理解しあわれんでくださる方であることに感謝します。私が今感じている恥意識や自意識過剰の思いは_______________から来ています。その思い煩いをあなたの前に置きます。主の癒しと解決を待ち望みます。日本には恥意識で苦しんでいる方が多くおられます。キリストがすべてを背負って解放してくださる方だと知ることができますように。アーメン

詩篇24

「門よ おまえたちの頭を上げよ。 永遠の戸よ 上がれ。 栄光の王が入って来られる。」詩篇24:7・9 栄光の王が都の門に来ると、門は頭を上げ、戸を上げます。 想像してみてください。 門の厳重なロックがいっせいにガチャンと大きな音を立てて外れます。幕が上がるように戸が上がります。荘厳で感動的な光景です。 キリストが再び来られる時に、王を迎えるこのような光景が広がるでしょう。 私たちが罪の牢獄から自由にされた時にも、解放の門が上がりました。 そして毎回の礼拝でも、私たちは頭を上げ、心の戸を上げてキリストを心の深い深いところまでお迎えします。 祈り:神様、あなたの栄光をたたえます。素晴らしい主が、私たちの心の奥までお入りください。私の心を光で照らしてください。キリストを求めて来会しておられる___さん、___さんに、あなたとの確かな出会いがありますように。疲れて信仰が弱っている___さん、___さんに、あなたの励ましと力が心に注がれますように。アーメン

詩篇23

「主は私の羊飼い。 私は乏しいことがありません。」詩篇23:1 有名な詩篇です。主は羊飼いのように私を導いてくださる方、 イエス・キリストご自身が「わたしは良い羊飼いです」と言われました。 「乏しいことがない」の「乏しさ」とは何でしょうか。 お金や物質がないことを「乏しい」と表現しますが、それだけではないと思います。 頼れる友がいないことや学びのないこと、生きがいを失うことも「乏しい」と言えます。福音を知らない時の私は「乏しい」歩みでした。 キリストは私を「友」と呼んでくださいました(ヨハネ15:15)。 そして「わたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎを得ます(マタイ11:29)」とも言われました。 さらに、私たちはパウロと同様「私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です(ピリピ1:21)」と言えるようにと目指します。キリストが生きがい、人生の意味そのものとなります。 祈り:神様、福音の豊かさ、キリストの満ち満ちたご臨在の中に入れてくださり感謝します。キリストに養われる羊として、私は乏しいことがありません。いつもその信仰に立てるように手をとり、導いてください。アーメン

詩篇22

「わが神 わが神 どうして私をお見捨てになったのですか。 私を救わず 遠く離れておられるのですか。 私のうめきのことばにもかかわらず。」詩篇22:1 昨日のこどもメッセージは「ゲッセマネの祈り」でした。十字架にかかられる前に、イエス様が父なる神に向かって必死で祈りをささげられた夜のことでした。 その後捕らえられ、十字架にかけられました。十字架の上でのことばの一つが今日の聖句でした。 「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マルコ15:34)と。 イエス様はそれだけでなく、「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです」(ルカ23:34)とも祈ってくださいました。 想像を絶する苦痛の中にありながら、徹底的に人を愛しあわれんでくださった主イエス・キリスト。 この方を「地の果てのすべての者が 思い起こし 主に帰って来ますように。 国々のあらゆる部族も あなたの御前にひれ伏しますように。(27節)」 祈り:神様、あなたの愛とあわれみのご計画を感謝します。ひとり子を地上に送ってくださり、苦痛を伴う計画をあなたご自身で完成してくださいました。 今年も、あの大きな震災の日がやってきました。あなたは、地震で人生が一変してしまった人の心に寄り添い、希望を与えてくださる方です。感謝します。 世界中のすべての者が主に帰って来ますように。あらゆる部族があなたの御前にひれ伏して、感謝と賛美をささげることができますように。アーメン

詩篇21

「あなたは 幸いに至る祝福をもって彼を迎え 頭に純金の冠を置かれます。」詩篇21:3 天国に行った時、主がどのように迎えてくださると思いますか。 今日の詩篇には、神に信頼する王が祝福される情景が描かれています。 これは、主に生涯従い通した信仰者が、やがて主の元で祝福を受ける様子と重なるとも言えます。 涙と共に主に従う決断をしたこと。友人や親戚からの同調圧力に屈せず、みことばの約束を信じたこと。聖霊の促しに降伏し、自我を十字架につけたこと。すべてを主は覚えておられます。 先週はKBIの卒業派遣式でした。派遣される一人一人の「主に信頼しているので いと高き方の恵みにあって揺るぎません(7節)」という告白を見る思いでした。 私たちも恵みによって神の王子、王女とされました。主ご自身を見上げて、純粋な心で今週も歩み出せますように。 祈り:神様、あなたの恵みははかりしれません。罪の中を歩んでいた私を救い、神の子どもとして御国に迎えてくださることに感謝します。 地上の見えるものにではなく、見えないものに霊の目を向けることができますように。やがてあなたがくださる冠を目指して生きていきます。日々の歩みを導いてください。アーメン 祈り: 「王は 主に信頼しているので いと高き方の恵みにあって揺るぎません。」詩篇21:7

詩篇20

「ある者は戦車を ある者は馬を求める。 しかし私たちは 私たちの神 主の御名を呼び求める。」詩篇20:7 5節までは王のためのとりなしの祈りです。 その後、信仰の宣言とも言えることばが続きます。 目に見えるいかにも強そうな戦車や馬よりも、神である主のお名前を呼び求めることこそ、勝利につながるのだと。 今日、何に救いを求めていますか。老後の安定は貯金や保険、社会保障、不動産によるのでしょうか。あるいは、主が共にいてくださることによるでしょうか。 先輩の信仰者たちも、今日の私たちと同じようなチャレンジを受けたはずです。 そして、多くの人が「主に頼るなら主がよくしてくださる」という証しを残して生涯を全うしました。 どんな生涯を全うしたいですか。きりのない不安にさいなまれる人生より、最後まで主に頼り通すあかしを遺産として残したいと願います。 祈り:神様、見えるもの、計算できるものばかりに意識をとらわれることがありませんように。見えないもの、主の目に価値あるものに気づかせてください。あなたの守りを信じて感謝します。あなたの約束による平安と知恵を今日も与えてください。アーメン

詩篇19

「天は神の栄光を語り告げ 大空は御手のわざを告げ知らせる。」詩篇19:1 日差しが明るくなってきました。空を見上げてこの節を思い巡らしてみませんか。 青い空の端から端までが、神のみわざをほめたたえているとしたら。夜の星空すべてが、神の栄光を賛美しているとしたら。 神を礼拝し賛美しているのは私たちだけではありません。大自然の被造物もまことの神の栄光を表していると思うと、私たちは決して孤独な信仰者ではありません。 そして、大自然さえも従わせるお方が人となってこの地上に来てくださったとは、何という謙遜、何という愛だろうかと驚くのです。 祈り:神様、感謝します。キリストは大自然や宇宙まで造られ治めているお方なのに、私を救うために人となり、十字架にかかってくださいました。私も大空を見上げながら、心を尽くしてあなたを賛美し礼拝します。アーメン

詩篇18

「主は私を広いところに導き出し 私を助け出してくださいました。 主が私を喜びとされたからです。」詩篇18:19 私は狭い場所が苦手です。エレベーターでも洞穴でも。明るく広い場所に出るとほっとして、深呼吸できる思いです。 ダビデの状況はもっと深刻でした。敵に追われ、命を狙われていました。 18篇は、そんな状況から救い出された時の賛歌です。主の力強い御手、みわざが綿々と賛美されています。 岩であり、地を揺るがせ、天を押し曲げて来られる方。雹や雷鳴に表される主の「鼻の荒い息吹」。 同じ力強い全能の主が、私たちとも共にいてくださいます。私たちにとっての大きな恐れや悩みも、この方には小さく、解決可能なものばかりです。 祈り:神様、私には____の悩みや_____の葛藤があります。あなたの力強い御手でそれらをつかんでください。解決をあなたの方法にゆだねます。主にあって、私は広いところに導き出され、安心して深呼吸をします。感謝します。アーメン

詩篇17

「瞳のように私を守り 御翼の陰にかくまってください。」詩篇17:8 ヘンリ・ナウエンは次のように書いています。 「...わたしがパン屋で働いていたとき、ちょっとした難くせをつけられたり、時たまいらいらさせられたりして、わたしは深い憂鬱な気分にまっさかさまに突き落とされたのです。...わたしは自分が崩れていくのに気がついて、なんと些細なことで心の平安を失い、自分のまわりの世界を冷静に見られなくなるのだろうか、と全く驚いたのです。ああ、わたしは何と傷つきやすいことか。」(『イエスの示す道』pp.113~114) 私たちは傷つきやすく、神なしにはその反動で恨みや憎しみに苛まれてしまいます。 しかし、神は私たちを「瞳のように」守り、「御翼の陰に」かくまってくださいます。 神の元に身を寄せましょう。心ない言葉や攻撃があっても、主がかくまってくださる私たちの内面は静けさを保つのです。 祈り:神様、無防備な心は傷つきやすく痛みます。しかしあなたが私を瞳のようにかくまい守ってくださり、そこは守りと平安の場所であることに感謝します。主の元に身を避けます。傷心の中にある____さん、____さんに、格別の主の守りと励ましがありますように。アーメン

詩篇16

「私はほめたたえます。助言を下さる主を。 実に 夜ごとに内なる思いが私を教えます。」詩篇16:7 ダビデには、生涯にわたって課題が数限りなくありました。失敗や悩み、そして重い責任を負った人でした。 しかし彼は、内なる思いに主が働き、助けてくださることを知っていました。それゆえ主をほめたたえることができました。 夜寝る前に考え事をして、眠れなくなることはありませんか。自分の知恵や思考では限界があり、解決がないまま同じことを堂々巡りすることさえあります。 そんな時、「助言を下さる主」に祈りで重荷を話しゆだね、考えを手放して切り替えることをこの詩篇から教えられます。 聖霊が助け教え、私たちを導いてくださることに期待しましょう。 祈り:神様、私の悩みをあなたにゆだねます。あなたの知恵、あなたの解決に期待し、思い煩いを手放します。導いてください。アーメン

詩篇15

「舌をもって中傷せず 友人に悪を行わず 隣人へのそしりを口にしない人。」詩篇15:3 SNSでだれもが発信できる時代です。便利で良いことも多くある反面、心ない言葉で傷つけたりデマが広がったりするトラブルも続発しています。 詩篇15篇を読むと、モラルの基準を教えられます。表裏なく誠実であること、他者への中傷や悪口を言わない人(2~3節)。損になっても約束を守る人(4節)。賄賂を受けない人(5節)...。 他人への誠実さを主は喜ばれます。気に入らない人を軽々しく引き下げるのは罪深い反応です。かえって祈りと誠実をもって対応できますように。主が喜ばれ、ご自身の臨在をもって祝福してくださいますように。 祈り:神様、私たちの弱い感情や至らない行動を赦してください。あなたの御前に悔い改め、誠実を尽くしたいです。SNS悪用の危険から、子どもや若い人たちをお守りください。SNSやインターネットでいじめにあったり傷ついたりしている人に、主の愛の希望が届きますように。アーメン

詩篇14

「愚か者は心の中で『神はいない』と言う。 彼らは腐っていて 忌まわしいことを行う。 善を行う者はいない。」詩篇14:1 パウロは、この詩篇をローマ書で引用しています。 「義人はいない。ひとりもいない。...善を行う者はいない。だれ一人いない(ローマ3:10-12)」 人間はひとり残らず罪人であることを表しています。だからこそ、イエス・キリストの救いが必要なのです。 「ああ イスラエルの救いがシオンから来るように(7節)」の叫びは、キリストの十字架によって実現しました。しかも旧約のイスラエルにだけでなく、世界中の民にとっての救いとなってくださいました。 イースターを控えた受難節と呼ばれる期間、キリストの十字架の血潮を特に覚えて静まりと悔い改めの期間を過ごしたいと願います。今日の聖餐式でも、その思いを主の前にささげ祈りましょう。 祈り:神様、私たちはだれ一人義人ではありませんでした。ただ、あなたの十字架の血潮により「義と認められ(ローマ3:24)」たことを心から感謝します。___さん、____さんがキリストを明確に救い主として受けとれますように。アーメン

詩篇13

「主よ いつまでですか。 あなたは私を永久にお忘れになるのですか。 いつまで 御顔を私からお隠しになるのですか。」詩篇13:1 ダビデは祈りの答えをなかなか見られず、このように叫びました。 神様の前に、どんな感情も包み隠さず出しました。 無礼でしょうか?いいえ、大丈夫です。 神様の前にいつも率直だったからこそ、ダビデは感謝も悔い改めも幼子のように実行しました。そして神様も、ダビデの子孫を通して約束の救い主を送ってくださいました。 ダビデはこうも叫んでいます。 「私はあなたの恵みに拠り頼みます。 私の心はあなたの救いを喜びます。 私は主に歌を歌います。 主が私に良くしてくださいましたから。(5~6節)」 どんなことでも打ち明けられる関係が、神様との関係になっているでしょうか。 祈り:神様、私の感情も叫びも聞いてくださることに感謝します。あなたはすでに全てをご存じですが、______のことを打ち明けます。 また、_____の答えを待つのはいつまででしょうか。あなたの答えを待ち望んでいます。あなたの恵みに拠り頼みます。主が私に良くしてくださいましたから。アーメン

詩篇12

「主のことばは 混じり気のないことば。 土の炉で七度試され 純化された銀。」詩篇12:6 「本音と建前」に、日本人ならほとんどの人がその場面を思い浮かべることができそうです。仲が良さそうでも、裏では陰口を言う人を見かけることさえあります。 今日の詩篇は「人は互いにむなしいことを話し へつらいの唇と 二心で話します(2節)」と語っています。 しかし、主のことばは「雑じり気のないことば(6節)」です。それは何度も精錬された貴金属のように純粋です。そして、うそ偽りのない約束です。 祈り:神様、あなたが「へつらいの唇と傲慢の舌を ことごとく断ち切ってくださいますように(3節)」。裏切られ、人間不信に陥っている者の避け所となってくださり感謝します。 あなたは「彼らを守られ 今の代からとこしえまでも 彼らを保」る神です(7節)。どうか励まし支えてください。私にも純粋な心と舌を与えてください。アーメン

詩篇11

「主は その聖なる宮におられる。 主は その王座が天にある。 その目は見通し そのまぶたは人の子らを調べる。」詩篇11:4 「何でもお見通し」という表現があります。子どもがいたずらを隠したつもりでも親は状況を把握している、というような場合に使います。 同じように、主の目は「何でもお見通し」です。人には隠せても、主に隠すことはできません。アダムとエバが罪を犯して隠れても、主は見通しておられました。ダビデがバテシェバと不適切な関係を持った時も、預言者を通して明るみに出されました。 罪の結果、アダムとエバはエデンの園を追われ、バテシェバの生んだ子は死にました。私たちも、罪の結果の傷跡がかつての怪我の傷跡のように残ることはあります。 しかし、主は回復してくださる方でもあります。アダムとエバに皮の衣を着せてくださり、ダビデを赦し息子ソロモンを与えてくださいました。姦淫の現場で捕らえられた女性を戒め赦してくださいました。 何より、同じように数々の罪にまみれた私たちのために、ひとり子を十字架につけてあがなってくださいました。 これほどの恵みを、体験した者は語らずにはいられません。 祈り:神様、私は罪人として生まれました。十字架により、私の罪をぬぐってくださり感謝します。罪の呵責からも解放してくださいました。十字架の恵みを今日も深く味わいたいです。義なる神様、同時に愛に満ちた神様、感謝します。アーメン

詩篇10

「あなたは見ておられました。 労苦と苦痛を じっと見つめておられました。 それを御手の中に収めるために。 不幸な人は あなたに身をゆだねます。」詩篇10:14 イエス様の優しいまなざしを思い浮かべることがあります。 貧しい人、虐げられている人を見過ごさず、病気の人をあわれまれ、十字架の上でも「彼らをおゆるしください」と祈ってくださった主イエス。主は、私たちがどんなに小さい存在でも、その苦しみを見過ごしになりません。 労苦や苦痛を「御手の中に収め」、不幸な人が「身をゆだね」ることができるとは、主のあわれみは何と深いのでしょう。 私たちも、そんな主のまなざしを自分のまなざしとならえますように。 祈り:神様、世界中の労苦や苦痛で、あなたがご存知でないものがないことに案者します。その痛みをわかってくださり、私たちの避け所となってくださることに感謝します。信仰者をあなたの手足として痛む人々のそばに遣わしたいと思われる時、私も応答させてください。アーメン

詩篇9

「心を尽くして 私は主に感謝をささげます。 あなたの奇しいみわざのすべてを語り告げます。」詩篇9:1 一昨日の日曜日は感謝総会でした。「感謝」とついているのは、主に導かれた教会の歩みを感謝する時だからです。 教会の総会は、いわゆる会社の株主総会とは違います。 決議することはありますが、その過程は怒号や意見の応酬になるべきではありません。 愛とお互いへの尊敬をもって思いを出しあい、主のみこころを求める時です。 何よりも、まず教会のかしらであるキリストの方を共に向き、感謝をささげる恵みの確認の場なのです。 今回は、昨年の歩みをスライドショーにして皆で見ました。なんと多くのことが、主にあって恵みとなり、解決され、導かれていったことでしょうか。 今年も感謝総会が感謝のひとときとなったことを、主に心から感謝します。 祈り:神様、私たちに感謝の心を与えてください。心を尽くしてあなたに感謝する者にしてください。教会の歩みを守ってくださり感謝します。日本中、世界中の教会の歩みもまた、主ご自身にあって守られ、導かれることを覚えて感謝します。アーメン

詩篇8

「あなたは 人を御使いより わずかに欠けがあるものとし これに栄光と誉れの冠を かぶらせてくださいました。」詩篇8:5 ユージン・ピーターソンという人は、この詩篇について次のように書いています。 「肉体的なサイズでは、人はちっぽけな存在だ。宇宙の大きさに比べたら、ちりにすぎない。 しかし、霊的には人は巨大な存在だ。なぜなら、天地の創造主である神の目的によって造られたのだから。」(Praying  with the Psalmsより, 意訳) 力強い御名を持つ方が、人をこれほどに思ってくださるとは、何という光栄でしょう。 祈り:  神様、あなたが私を愛し、あなたの目的をもって造ってくださったことを感謝します。 あなたが願われる私の歩みに、今週も導いてください。 受験や進路が思うようにいかなかった人が、絶望ではなく、創造主の深い導きがあるのだと知り、希望を持ち歩むことができますように。アーメン

詩篇7

「主は諸国の民にさばきを行われます。 私の義と 私にある誠実にしたがって 主よ 私をさばいてください。」詩篇7:8 詩の初めに「シガヨンの歌。ダビデによる。ベニヤミン人クシュのことについて主に歌ったもの」とあるので、サウルに追われた時のことだと思われます。 ゆえなく追われたダビデは、自分の良心と無実を主に述べます。「私にある誠実」はIntegrity(インテグリティー)で、クリスチャンリーダーのためのセミナーでは一つの科目になる位大切なものです。 今日、私のインテグリティーについて考えてみましょう。神の前に、ダビデのように申し開きできるでしょうか。 祈り:神様、あなたにも人にも自分の良心にも誠実であるように、私の心を探ってください。もし心にちくっと痛みを感じるならば、今日修正することができますよう、導いてください。アーメン

詩篇6

「私のたましいは ひどく恐れおののいています。 主よ あなたはいつまで──。」詩篇6:3 「あなたはいつまで──」の後に、どんな言葉を入れますか。 「いつまで待たせるのですか「いつまでこの状況を許されるのですか」「いつまであの人の横暴を放っておかれるのですか」...。 神の沈黙が続く間、ダビデは泣きに泣きました。「夜ごとに 涙で寝床を漂わせ(6節)」と。王となったほどの人物でも、私たちと同じ人間です。そして、神様に甘えすがり、子どものように泣いてもよいのだと知ります。 前の節に「主よ 私を癒やしてください。私の骨は恐れおののいています」とあるので、この時ダビデは肉体的な苦痛も覚えていたようです。身体の不調があると、たましいや霊も弱ってきます。 しかし、弱さのままで神に訴える時、神によって信仰が与えられることがあります。神は沈黙しておられると思っていたダビデが「主は私の切なる願いを聞き 主は私の祈りを受け入れられる」(9節)と告白するまでに強められています。 私たちの思いが変えられること、それは神が祈りを聞いておられることの表れだと言えます。 祈り:神様、私の否定的な思考、ムードを変えてください。状況にかかわらず、私の思いが聖霊に支配されますように。明日の感謝総会でも、聖霊の与える希望が満ち溢れますように。 寒い日々、身体の不調を覚える___さん、____さんを支えてください。身体と共に霊も強められますように。アーメン

詩篇5

「主よ 朝明けに 私の声を聞いてください。 朝明けに 私はあなたの御前に備えをし 仰ぎ望みます。」詩篇5:3 うつを経験した人なら、朝起きた時の心の重さとけだるさを想像できるかもしれません。ダビデの重圧はそれに匹敵するか、それ以上だったでしょう。 起きた瞬間厳しい現実に引き戻され、暗い思いにうめきます。 しかし、彼は負のスパイラルに埋没する代わりに叫びました。 「私の叫ぶ声を耳に留めてください。私の王 私の神 私はあなたに祈っています。(2節)」 朝、目を冷ました途端悩みに圧倒されそうなら、ダビデの叫びを私たちの祈りにしてみたいと思います。 祈り:神様、朝明けに私の声を聞いてください。私の叫ぶ声を耳に留めてください。私のうめきを聞き取ってください。朝明けに私はあなたを待ち望みます。 ______のことにも、______のことにも、あなたの介入と解決を信じて待ち望みます。アーメン

詩篇4

「私が呼ぶとき 答えてください。 私の義なる神。 追いつめられたとき あなたは私を解き放ってくださいました。 私をあわれみ 私の祈りを聞いてください。」詩篇4:1 3篇に続いて神の守りを求め、神ご自身を待ち望む詩篇です。 最後が「平安のうちに私は身を横たえ すぐ眠りにつきます。 主よ ただあなただけが 安らかに 私を住まわせてくださいます」と終わっているので、「夜の詩篇」と呼ばれています。 今夜、眠る前に5分間の黙想をしてみませんか。今日一日の労苦や心配を主の前に置く。感謝なことをいくつも思い出し、感謝の祈りをささげる。8節を声に出し、主への信頼の告白とする。 いかがでしょう。 祈り:神様、今私の心にある________のこと、心配な________のことを、あなたの前に置きます。嬉しかったこと、感謝なことは __________、__________、_________でした。平安のうちに私は身を横たえ すぐ眠りにつきます。 主よ ただあなただけが 安らかに 私を住まわせてくださいます。(8節)アーメン

詩篇3

「私は身を横たえて眠り また目を覚ます。 主が私を支えてくださるから。」詩篇3:5 だんだんと日が長くなってきました。春が近いのを感じます。 夜明けは希望の代名詞のように使われますが、一方で不眠に悩まされ、眠れないうちに朝になってしまったと嘆く人もいます。 ダビデの状況も、不眠症に陥りそうな苦しいものでした。王権が確立するどころか、息子アブサロムが謀反を起こし、ダビデは追われる身となっていました。 しかし彼は「主よ あなたこそ 私の周りを囲む盾」(3節)と告白します。 「私は声をあげて主を呼び求める。すると 主はその聖なる山から私に答えてくださる」(4節)と、ただ主の守りにすがる姿も描かれます。 それが主の支えのうちに眠り、目を覚ますという5節へと続きます。野宿や追っ手を恐れる逃避行の中、彼が何時間眠ったのかは明らかではありません。 しかし、睡眠時間ではなく主に守られるという信仰が、彼の健康を支えたのだと思います。 祈り:神様、あれこれ気になって眠れないことがあります。夜中に目が覚めた時、主が共にいて守ってくださることを思い出させてください。不眠に悩む人たちに、あなたの臨在と深い安心感とが、今晩豊かに感じられますように。私自身もよく眠れますように。アーメン

詩篇2

「なぜ 地の王たちは立ち構え 君主たちは相ともに集まるのか。 主と 主に油注がれた者に対して。」詩篇2:2 2篇は、メシアに関する詩篇と呼ばれています。イエス様が来られた時、学者や祭司たちは敵対しました。自分の権益や価値観を守ろうとしたからでした。 反対に、「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです(マタイ5:3)」とイエス様は言われました。 ヘンリ・ナウエンは「貧しさこそ、わたしたちの守りを取り払い、敵を友に変える気持ちをひき出すのです。何か守るものがある限り、わたしたちは他の人を敵としか見ないようになります」と述べています。 多くの人が自分で何かを守ろうとして、救い主を受け入れるのを拒みます。救われた私たちも、肉が守りや敵対心を生むことに警戒し、心を貧しくすることができますように。 祈り:神様、私の心がむなしい守りに入ることがありませんように。主に心開き、主の守りと勝利に期待します。 自分の力に頼ろうとして疲れ果てている人が日本中に多くおられます。主の救いを知り、主の元で憩うことができますように。アーメン

詩篇1

「主のおしえを喜びとし 昼も夜も そのおしえを口ずさむ人。その人は 流れのほとりに植えられた木。 時が来ると実を結び その葉は枯れず そのなすことはすべて栄える。」詩篇1:2-3 旧約聖書の詩篇を、今日から150日間にわたって読みます。 1篇の2~3節は、2023年の教会年間聖句ともなっていたので、なじみ深く思い出す方もおられるでしょう。 主のおしえを「口ずさむ」は「思い巡らす」とも訳せるそうです。 まるで木にとっての水のように、私たちにとって主のおしえであるみことばはたましいの栄養であり、いのちの源なのだと教えられています。 食欲のある日とない日があるように、聖書を読みたくてたまらない日とそうでも ない日があります。けれども、少しだけでもみことばに触れる時、私たちの知性ではなく霊が栄養を受けていることを覚えます。本でなくても、アプリや音声でも聖書が読める時代です。この恵みの時代に感謝します。 祈り:神様、あなたのみことばに親しみたいです。難しく思える時や気分が乗らない時には、新しい方法や気づきを与えてください。律法的になるのではなく、喜んで読めますように。多様な聖書が与えられていて感謝します。まだ聖書にふれたことのない人の元にも、みことばが届きますように。アーメン

マラキ4

「見よ。わたしは、 主の大いなる恐るべき日が来る前に、 預言者エリヤをあなたがたに遣わす。彼は、父の心を子に向けさせ、 子の心をその父に向けさせる。 それは、わたしが来て、この地を聖絶の物として 打ち滅ぼすことのないようにするためである。」マラキ4:5~6 マラキのこの預言の後、バプテスマのヨハネがイエス様の先駆者として送られるまで400年かかりました。人々は、預言の成就がいつかいつかと、400年も待ち続けました。 神様の約束はスケールが大きすぎて、人間の感覚では待たされ過ぎだと思うことがあります。同時に、必ず約束を果たす方だと信じることが信仰だと、古来多くの信仰者が通った思いを共有します。 キリストの再臨は、2000年も待っています。待ち時間は長いけれども、偽りではないことを私たちは知っています。だから、新約聖書の時代と同じことばで私たちも祈ります。 祈り: 「これらのことを証しする方が言われる。『しかり、わたしはすぐに来る。』アーメン。主イエスよ、来てください。(黙示録22:20)」 *明日からは詩篇を読みます。

マラキ3

「十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、 わたしの家の食物とせよ。 こうしてわたしを試してみよ。 ──万軍の主は言われる── わたしがあなたがたのために天の窓を開き、 あふれるばかりの祝福を あなたがたに注ぐかどうか。」マラキ3:10 この箇所は、ささげ物の勧めに際してよく用いられます。 もっとも、旧約の律法はイエス・キリストによって成就され、私たちは自由にされたはずです。にもかかわらず、なぜ今も用いられるのでしょうか。 一つは、祝福を願われる、神のご性質を表しているからです。 喜んでささげる人には「あふれるばかりの祝福」を注がれるという、神の守りの約束だからです。 もう一つは、旧約以上の恵みを受けた私たちが、旧約の人々以上に感謝にあふれてささげるのは自然だからです。 イエス・キリストによる救いを受けた私たちが、その十字架のあがないを深く理解するならば、感謝の心を何らかの形で主に表したいと思うでしょう。 損得や強制ではありません。牧師や教会の必要のための募金でもありません。 神様への感謝の心のあらわれです。 祈り:神様、あなたが私にしてくださったことは大きすぎ、あまりにも恵みに満ちあふれています。惜しまず、喜びをもって主にささげる者となりたいです。これまでもあなたの真実の守りを経験してきました。これからもあなたの守りの約束を信じます。アーメン

マラキ2

「神は人を一体に造られたのではないか。 そこには、霊の残りがある。 その一体の人は何を求めるのか。 神の子孫ではないか。あなたがたは、自分の霊に注意せよ。 あなたの若いときの妻を裏切ってはならない。」マラキ2:15 今週水曜日からは「レント(受難節)」と呼ばれるイースターの前40日間に入っています。主の十字架を思い静まり慎む期間として、大切にしている教会や教派も多くあります。 ヘンリ・ナウエンは「イエスの示す道~受難節の黙想」という本の中で、 「信仰生活とは、感謝して生きることです。...イエスは、この世の悪を神の愛への信頼がたりないからだと考えておられます。イエスは、わたしたちが頑なに自分自身に依存し、神よりも自己に依り頼み、神の愛よりも自己愛に傾きやすい者であることを知らせてくれます」と述べています(pp.6~8)。 私たちの人間関係は不完全で自己中心的な者どうしの関係です。 しかし、人には神の霊の息が吹き込まれました。神の愛への信頼を深め、へりくだりつつ、悔い改めつつ、周囲の人たちにも誠実でありたいと願います。 祈り:神様、私の周囲の人間関係を祝福してください。疎遠になってしまった家族や親戚に、どうしたらあなたの愛への応答を示すことができるでしょうか。聖霊の導きを求め、従いたいです。アーメン

マラキ1

「宣告。マラキを通してイスラエルに臨んだ主のことば。」マラキ1:1 「マラキ」の名は「主の使い、メッセンジャー」という意味があります。 その名前のごとく、彼は旧約聖書の最後の預言、主からのメッセージを運び、伝えました。 「宣告」とは「主から託された届け物」であり、彼が運び、人々に届けるべき荷物、重荷でした。 今日、キリストの福音を知っている私たちもまた、福音のメッセンジャー、運び手です。届ける人がいなくて、どうして福音を知ることができるでしょう。 町で一生懸命働く運送会社や郵便局のドライバー、配達員の方々の姿を見ながら、私たちも福音の配達人に主が召してくださっていることを覚えます。 祈り:神様、私を福音の運び手、メッセンジャーとして用いてください。 また、教会や私の家に日々荷物を運んでくれる人たち、様々な運転や配達をする人たちに主の祝福がありますように。アーメン

ゼカリヤ14

「主は地のすべてを治める王となられる。 その日には、主は唯一となられ、御名も唯一となる。」ゼカリヤ14:9 ゼカリヤ書の最後は、まるで黙示録を読んでいるように難しく感じられます。どの出来事がどれに当たるのかも、すぐにはよくわかりません。 このような箇所を読むときは、むやみに当てはめようとせず、主の知恵で隠されていることはそのままに、でも聖書が明らかに述べていることを受け取っていくことが読み手の態度ではないかと思います。 14章を読むと、主がもう一度来られること、その日は主に知られていること、そして主が全地を治める王となられることがわかります。 使徒の働き1:11でも、御使いが使徒たちに「このイエスは、天に上って行くのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになります」と言っています。同じ励ましが、旧約聖書にも新約聖書にも一貫して流れています。 私たちは今日も主が来られる日を待ち望みながら、主の力と恵みに思いをはせて歩もみましょう。 祈り:神様、聖書はあなたからのラブレターです。難しいところもありますが、聖霊の助けで読みたいです。今日世界で起こっている事象、私の日常で起こる事象にあわてたりパニックになったりすることなく、主がご存知ですべてを導いてくださる方だという平安をもって歩ませてください。アーメン

ゼカリヤ13

「わたしはその三分の一を火の中に入れ、銀を錬るように彼らを錬り、金を試すように彼らを試す。彼らはわたしの名を呼び、わたしは彼らに答える。わたしは『これはわたしの民』と言い、彼らは『主は私の神』と言う。」ゼカリヤ13:9 紀元後70年のエルサレム陥落、迫害、数々の戦乱など、この預言の後もユダヤ人の歴史は苦難に満ちてきました。しかし、民族すべてが滅びることはなく、苦難を生き延びた人々がいました。 まさにこの節の「火の中に入れ、銀を練るように練られた」ようでした。 私たちの中にも、火の中を通るような試練を通っているように感じる人がいるかもしれません。自分ではどうすることもできない家族環境や生育歴、病や死別などを経験することもあります。 しかし、試練の中で主に呼び求める人を、主は見放されません。 どんな時にも主の御腕の中に抱かれていると、後になって気づきます。 そればかりか、「主は私の神」「これはわたしの民」と言い合うような主と私との個人的な親密さが、より深まる経験とも変えてくださるのです。 祈り:神様、試練を通っています。助けてください。あなたの御腕の中に抱かれていること、あなたの訓練は後になって義の実を結ぶことをわからせてください。___さん、___さんにもあなたの平安の導きを与えてください。アーメン

ゼカリヤ12

「わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと嘆願の霊を注ぐ。彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見て、ひとり子を失って嘆くかのように、その者のために嘆き、長子を失って激しく泣くかのように、その者のために激しく泣く。」ゼカリヤ12:10 「自分たちが突き刺した者」とは人々が「わたし」すなわち神ご自身です。 ヨハネはイエス・キリストの十字架についてこの節を引用しました。 「これらのことが起こったのは、『彼の骨は、一つもおられることはない』とある聖書が成就するためであり、また聖書の別のところで、『彼らは自分達が突き刺した方を仰ぎ見る』と言われているからである。」(ヨハネ19:36~37) この節の最初は「ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと嘆願の霊を注ぐ」と始まります。たとえ人々が突き刺しても恵む、いや十字架の上に突き刺されることこそ、神の恵みの計画だったことを覚えます。 イエス・キリストを信じる者は、全世界どこにいても神の恵みを受けています。激しい涙は、神の深いあわれみゆえの感激の涙となります。 祈り:神様、イエス・キリストを十字架に突き刺したのは当時の人々だけでなく、私の罪ゆえでした。私自身のために突き刺され、いのちをもって救いの道を開いてくださったことに感謝します。十字架の恵み、はかりしれない価値に感謝します。 ___さん、___さんがこの贈り物を純粋に受けとることができますように。アーメン

ゼカリヤ11

「私は羊の商人たちのために、屠られる羊の群れを飼った。私は二本の杖を取り、一本を「慈愛」と名づけ、もう一本を「結合」と名づけた。こうして私は群れを飼った。」ゼカリヤ11:7 「慈愛」と「結合」と名付けられた杖が出てきます。 神様が預言者ゼカリヤを通して、羊を飼うという実物教材を示してくださいました。 残念ながら旧約の人々は神様のみこころを行うことができませんでした。 しかし、杖に名付けられた「慈愛」と「結合」は神の愛のキーワードだといえます。 「慈愛」に満ちた神様のご性質、「結合」という平和と和解こそ、主が私たちに与え、私たちも流し出していくよう望まれている性質だと思います。 言うのは易し、行うのは難しです。でも私たちは聖霊の助けを頂けるのです。祈り心で主を仰ぎ、新しい週の歩みを始めましょう。 祈り:神様、イエス・キリストの麗しいご性質を、私も目指して歩みたいです。主の御顔を仰ぎ見て、今週も出発します。アーメン

ゼカリヤ10

「エフライムは勇士のようになり、 その心はぶどう酒に酔ったように喜ぶ。 彼らの子らは見て喜び、 その心は主にあって大いに楽しむ。」ゼカリヤ10:7 主が回復させてくださるとき、人々は大喜びします。 捕囚から故郷に帰るという回復は、とても喜ばしいものでした。 そして、やがてキリストが来られる時、すべての秩序が回復され、キリストを主と信じている人は大喜びします。 喜びの様子が「大いに楽しむ」と描写されています。陽気に、無邪気に、主の前で喜び楽しむ様子です。 毎週の礼拝は、共に主を喜び楽しむ時、天国を垣間見る時です。明日の礼拝も、心をこめて主を礼拝し賛美しましょう! 祈り:神様、あなたが私たちを見捨てたままにされず、回復してくださる方であることに感謝します。キリストが来られる日を待ち望みつつ、毎週の礼拝を信仰の友と共に心から楽しみささげます。アーメン

ゼカリヤ9

「娘シオンよ、大いに喜べ。 娘エルサレムよ、喜び叫べ。 見よ、あなたの王があなたのところに来る。 義なる者で、勝利を得、 柔和な者で、ろばに乗って。 雌ろばの子である、ろばに乗って。」ゼカリヤ9:9 もし江戸時代に今日のことが語られていたとしたら、とても驚くでしょう。 ゼカリヤの預言はそのようなものでした。 イエス様の生まれる400年も前に、彼は王であるその方が「柔和な者で、ろばに乗って」来られると預言しました。 イエス様がエルサレムに入られる記事を読むと、この預言が成就したことがよくわかります。 ヨハネ12:14~15「イエスはろばの子を見つけて、それに乗られた。次のように書かれているとおりである。『恐れるな、娘シオン。見よ、あなたの王が来られる。ろばの子に乗って。』」 旧約、新約と分かれていても、聖書がすべてイエス・キリストについて語っていることがわかります。イエス・キリストにあってメシア預言が具体的に成就していくことを探しながら読むのもまた、聖書の泉を掘る楽しみの一つです。 祈り:神様、聖書が真実であること、イエス・キリストが救い主であることを信じます。みことばを通して、主の素晴らしさと真実な愛をますます知ることができますように。主の約束が確かであることに感謝します。アーメン

ゼカリヤ8

「多くの国の民、強い国々が、 エルサレムで万軍の主を尋ね求め、 主の御顔を求めるために来る。」ゼカリヤ8:22 平和な町の広場は、再び長寿で杖を持った男女が座り(4節)、多くの男の子と女の子が遊ぶ(5節)、と描写されています。 教会の近所の公園に行くと、手押し車や杖を持った高齢の方が散歩に来ています。また、親子連れで滑り台を滑ったりボール投げをしたりしている家族もいます。 なんと平和なのどかな光景でしょう。 それと同じような回復が、廃墟にしか見えない都に起こるという預言です。 当時のエルサレムが再び都として栄えることだけではありません。やがてキリストが王として治められる時代に、究極の平和が訪れるという希望をも語っています。 その前味を、近所の公園で見ているのだと思うと、本番が楽しみです。 祈り:神様、平和をもたらす君としてイエス・キリストが来られたことを感謝します。権力や兵力に頼るのではなく、主にある平和を追い求めることができますように。私の心にも、この預言の広場のような平安を今日与えてください。トラブルのあるところには主の光と解決をもたらしてください。アーメン 祈り:  

ゼカリヤ7

「彼らは心を金剛石のようにし、万軍の主がその御霊によって先の預言者たちを通して送られた、みおしえとみことばを聞き入れなかった。そのため、万軍の主から大きな御怒りが下った。」ゼカリヤ7:12 私たちの教会の最寄りは「金剛駅」です。以前近隣の牧師先生が、「金剛」という名のつく地域で伝道することに、主のチャレンジをもらったと話してくださいました。 「金剛石」というのはダイヤモンドの次に固い石だそうです。 今日の節では人々の心がとても頑固だったことを「金剛石のような心」と形容しています。 しかし、主は御霊によって語り続けてくださったのでした。預言者たちは、拒絶されてもあきらめず、そのことばを忍耐強く伝え続けました。 今日の私たちの周りには、心が金剛石のように固い人がいるかもしれません。しかし、聖霊はこの場所でも働いておられます。私たちもあきらめず、忍耐強くこの地域の救いを祈り続けましょう。 祈り:神様、霊的に固いと言われる地域や人々にも、語り続けてくださり感謝します。あなたの愛が注がれていることを信じて、私たちも祈り、主の与えてくださる機会と忍耐を受け取って宣教できますように。八方塞がりのように感じる時には、あなたが励ましを与えてください。アーメン

ゼカリヤ6

「彼にこう言え。 『万軍の主はこう言われる。 見よ、一人の人を。その名は若枝。 彼は自分のいるところから芽を出し、 主の神殿を建てる。』」ゼカリヤ6:12 6章前半の戦馬の幻が終わった後、平和の王が治めるようになるという希望が続きます。 大祭司ヨシュアに冠をかぶらせ、主のことばを与えるというのは、文字通りの意味と同時に、来るべきメシア、イエス・キリストが「若枝」として神の国をこの地にもたらされることも示しています。 「 彼が主の神殿を建て、 彼が威光を帯び、 王座に就いて支配する。 その王座の傍らに一人の祭司がいて、 二人の間には、平和の計画がある。」(13節) 平和の君イエス・キリストは、あなたの心を治め、奥底からの平和を与えてくださる方です。今日怒りや嘆きがあるなら、心の現状をイエス様に見て頂きましょう。うわべだけ繕うのではなく、まさに平和が必要な現場にお迎えしましょう。 祈り:神様、イエス・キリストは平和の君として地上に来られました。私の痛み嘆いている心、許せない怒りのある心の奥底の状況を、どうぞ見てください。そのままの状態を、あなたに明け渡します。________の事柄に主の方法で介入してください。あなたにゆだね、心が解放されることを信じて感謝します。アーメン

ゼカリヤ5

「私が再び目を上げて見ると、なんと、一つの巻物が飛んでいた。」ゼカリヤ5:1 5章では、悪が取り除かれる2つの幻が記されています。 一つは「飛んでいる巻物(1~4節)」です。盗む者、偽って誓う者が、その文面に従って取り除かれるのでした。 もう一つは「エパ升の女(5-11節)」です。偶像礼拝と邪悪を象徴しています。それが升ごと「シンアル」すなわちバビロンに移される幻です。 両方とも、帰還した土地から悪と偶像礼拝が除かれ、きよめられるメッセージでした。 私たちの身の回りに不条理や悪が満ちていると感じられるでしょうか。主は全地を納めておられ、悪をきよめることのできる方です。同時に、ひとりも滅びることを望まず悔い改めを待っている方でもあります。さらに、愛する者を訓練し、熟練した信仰者へと成長させてくださる方です。 今日悔しく思えることが、やがて神によってどのように解決されるか、期待して待ち望めますように。 祈り: 「...霊の父は私たちの益のために、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして訓練されるのです。(ヘブル12:10)」 神様、あなたが正義を実現される方であることを信じます。主の目には善悪が明らかです。私がもし歪んだ肉の正義感を持っていたら修正してください。虐げられている人、苦しむ人を救ってください。私も、そして___さん、____さんも共に、「キリストは主です」と告白できますように。アーメン

ゼカリヤ4

彼は私にこう答えた。 「これは、ゼルバベルへの主のことばだ。 『権力によらず、能力によらず、 わたしの霊によって』 と万軍の主は言われる。ゼカリヤ4:6 燭台の幻を通して、政治的リーダーだった総督ゼルバベルへのメッセージが語られます。彼は再建工事が進まず、落胆していたかもしれません。 主は、ご自身のご計画が必ずなることを保証されます。そして「権力によらず、能力によらず、神の霊によって」なるのだ、と言われました。 ハガイ2章でも、ゼルバベルに向けて「銀はわたしのもの。金もわたしのもの(ハガイ2:8)」と主は語られました。 違う預言者から、主からの励ましを語られて、どれほど彼が慰められ、主にあって立ち上がる力を与えられたことでしょう。 奉仕やリーダーとしての働きは、時に孤独です。主が前を進んでくださるからこそ、私たちはその後についていくことができるのです。 祈り:神様、大きな責任を持っている働き人やクリスチャンリーダーたちのために祈ります。霊肉が守られ、主の召しに忠実に歩めますように。孤独を感じる時に主の励ましがありますように。 私も日々覚えて祈り、主の愛に促された言葉をかけることができるよう、主の道を今日も歩ませてください。アーメン

ゼカリヤ3

「御使いは、自分の前に立っている者たちにこう答えた。『彼の汚れた服を脱がせよ。』そしてヨシュアに言った。『見よ、わたしはあなたの咎を除いた。あなたに礼服を着せよう。』」ゼカリヤ3:4 ここに出てくる「ヨシュア」はヨシュア記の人物ではなく、捕囚から戻った時代の大祭司です。別人ですが、どちらも民のリーダーでした。 そのリーダーの汚れがきよめられ、罪が除かれるということばです。 彼の力ではなく、主が汚れた服を脱がせ、礼服ときよいターバンを着せてくださいます。 サタンはヨシュアを訴えようとしますが(1節)、逆に主はサタンをとがめられます(2節)。 イエス・キリストの「イエス」は「ヨシュア」と同じ名前です。そしてこの方は、私たちのすべての罪をぬぐい、きよめて白い衣を着せてくださる方です。 キリストの血潮で私たちはきよめられました。そればかりか、礼服を着せて頂き、主の祝宴に招かれているのです。なんという光栄でしょうか。主の愛と恵みの大きさに圧倒されます。 祈り:神様、罪の中で滅びるしかなかった私を、救いきよめてくださり感謝します。 「たとえ、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。(イザヤ1:18)」 主の愛と恵みの大きさ、福音を、この週末もさらに味わい感謝することができますように。アーメン

ゼカリヤ2

「エルサレムは、その中に人と家畜があふれ、 城壁のない町のようになる。わたしが ──主のことば── それを取り巻く火の城壁となる。 わたしがそのただ中で栄光となる。」ゼカリヤ2:4~5 復興した都には人と家畜があふれるほど増え、再び栄える様子が描かれています。 城壁は町を守る役割を果たします。ところがそれがない(不要)だというのです。なぜなら、主ご自身が火の城壁となって守ってくださるからです。 同じように、主に頼る者には神ご自身が砦となり守ってくださることが聖書には約束されています。 「主は私の光 私の救い。だれを私は恐れよう。  主は私のいのちの砦。だれを私は怖がろう。  ...それは 主が 苦しみの日に私を隠れ場に隠し  その幕屋のひそかな所に私をかくまい  岩の上に私を上げてくださるからだ。(詩篇27:1,5)」 家庭で信仰の戦いを感じており、弁護してくれる人が誰もいないと思うでしょうか。職場で批判の矢面に立っていると感じられるでしょうか。 しかし主は私の周りを囲み、守ってくださる方です。肉の力で防御壁を築く必要はありません。 祈り:神様、あなたが城壁となって守られる方であることに感謝します。肉の抵抗を手放し、あなたに頼ります。私のただ中で、あなたのご栄光を現してください。アーメン

ゼカリヤ1

「すると主は、私と話していた御使いに、恵みのことば、慰めのことばで答えられた。」ゼカリヤ1:13 ハガイと同時代の預言者、ゼカリヤの書が始まりました。 私はゼカリヤ書が大好きです。神様の慰めと希望がきらきらとちりばめられています。旧約聖書の終わりの方にある目立たない?書物ですが、夜空に光る星のような輝きを放っていると感じられます。 またゼカリヤ書には、70年間の捕囚を経て帰ってきた民への励ましだけでなく、メシアであるキリストの到来、そして再臨を待つ私たちへの希望が満ちています。 ゼカリヤと話していた御使いに主は「恵みのことば、慰めのことばで」答えられました。 さらに「わたしの町々には、再び良いものが満ちあふれ、 主は再びシオンを慰め、再びエルサレムを選ぶ(17節)」とも語ってくださいました。 70年を経て、すっかり荒廃している故郷エルサレム。しかし、そこは必ず回復されるという約束です。 同じ主は、どんなに荒廃した私たちの心も状況も、必ず回復させることのできるお方です。主を信じる者にとって「再起不能」はありません。そして、単に前と同じに戻るのではなく、主によって整えられきよめられ、違った様で回復させられるのです。 祈り:神様、あなたが恵みと慰めの主であられることを感謝します。主にあって、私の人生は最後の日まで意味のあるものです。 今日人生に絶望している人が、主の愛と回復を知ることができますように。私をあなたの手足として用いてください。アーメン

ハガイ2

「その日、 ──万軍の主のことば── シェアルティエルの子、 わたしのしもべゼルバベルよ、 ──主のことば── わたしはあなたを選んで印章とする。 わたしがあなたを選んだからだ。 ──万軍の主のことば。」ハガイ2:23 2章では、まずリーダーを含む民全体へ(2節~)、ついで祭司たちへ(11節~)、そしてユダの総督ゼルバベルへ名指しで(21節~)、主のことばが語られます。 「強くあれ」「恐れるな」「わたしがあなたがたとともにいるからだ」、 「銀はわたし(主)のもの。金もわたしのもの(8節)」だと、励ましが重ねて語られます。 特にリーダーだったゼルバベルには「あなたを印章とする。わたしがあなたを選んだからだ(23節)」と励まされました。 今日も、神様はさまざまな方法で励ましてくださいます。個人的に直接、祈りやみことばを通して、信仰の先輩や友を通して、状況を通して...。 みこころの歩みができなかったと感じているでしょうか? 主は民の残りの者を回復してくださったように、心の砕かれた人を回復へと導いてくださいます。 祈り:神様、あなたが励まし導いてくださることに感謝します。私の今日の歩みも、主が先に立って導いてください。長い間導きを求めている方に、主のみこころが様々に示され、確信を持って歩み出せますように。アーメン

ハガイ1

「この宮が廃墟となっているのに、 あなたがただけが板張りの家に住む時だろうか。」ハガイ1:4 民が捕囚から帰ってきました。神の宮の再建をしようとしましたが、途中で工事がストップしました。だんだん人々は、自分の家や所有物の再興を優先させていきました。 ハガイはこのような時に、民を励まし、主に心を向けるようにと述べます。 「主の宮がぼろぼろなのに、自分だけがよい家に住むのか」と。 自分の部屋を片付ける前に会堂掃除に来たという人に、宣教師が今日の箇所を引いて喜ばれたことが印象に残っています。 自分の家の再興も部屋の片付けも、悪いことではありません。しかし、主なる神のこと以上に大切にしているなら、優先順位は正しいかと心を点検する時です。 祈り:神様、自分のことが心の優先順位を占めがちな私たちです。日曜日の子どもメッセージの 「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。(マタイ6:33)」 を、今日じっくり思い巡らします。 神の国のために労する___さん、___さんに、今日も励ましと主のねぎらいがありますように。アーメン

ゼパニヤ3

「『あなたの神、主は、あなたのただ中にあって 救いの勇士だ。 主はあなたのことを大いに喜び、 その愛によってあなたに安らぎを与え、 高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる』と。」ゼパニヤ3:17 さばきの後、残った民の回復が預言されます。17節は主がその人たちを喜び、愛しておられる様子です。 ちょうど、放蕩息子(ルカ15章)で父がぼろぼろの息子の帰りを待ち、抱いて喜んだ場面と重なります。旧約の描写は、イエス・キリストご自身によっていっそう明らかにされます。 私たちがどれほどぼろぼろでも、手土産のひとつがなくても、神様の元に帰ることが神の無上の喜びだというのです。 この次には、捕囚から帰って来た民の様子に触れたハガイ書が続きます。短い預言書でも、それぞれの背景や相互の書の関係を考えながら読むと、神様の愛とご計画の素晴らしさがいっそう感じられます。 祈り:主なる神様、あなたは私に関するすべてのことのただ中におられます。あなたは勇士であり、私を救ってくださいます。私のことを喜び、愛によって私に安らぎを与え、高らかに歌って私のことを喜んでくださる方です。感謝します。アーメン

ゼパニヤ2

「すべてこの国の、 主のさばきを行う柔和な者たちよ、 主を尋ね求めよ。 義を尋ね求めよ。柔和さを尋ね求めよ。 そうすれば、主の怒りの日に、 かくまってもらえるかもしれない。」ゼパニヤ2:3 ユダの国に住む「柔和な者たち」への呼び掛けがされます。 「主を尋ね求めよ」「義を尋ね求めよ」「柔和さを尋ね求めよ」と。人間的な戦略や情報から目を離して、主のまなざしに自らの視点を重ねることが勧められます。 人々のうわさ話は、元々戦略的に生き残るための手段だったそうです。そして今日も、私たちの脳は、うわさ話をすると快感を感じるそうです。 木曜集会では、うわさが高じた「陰口」が教会の一致を妨げる主要因だと学びました。誰か(働き人でも)が陰口を始めたら、優しく諭すこと、祈りで終えることも学びました。 陰口が生き残りのためだとすれば、私たちは陰口を言う時、神の恵みでなく自分の力で生き残ろうとしているのでしょう。陰口を言うか言わないかは、主に生かされている信仰があるかどうかが問われているとも言えます。今日、どちらを選びますか。 祈り:神様、あなたを尋ね求めたいです。義と柔和を尋ね求めたいです。私に純粋で柔和な心を与えてください。 「柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです。  義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです。(マタイ5:5~6)」 アーメン

ゼパニヤ1

「口をつぐめ。神である主の前で。 主の日は近い。 主はいけにえを備え、 招いた者たちを聖別されたからだ。」ゼパニヤ1:7 「ゼパニヤ」という名前には、「主がかくまってくださる」という意味があるそうです。 ユダのヨシア王の時代に、すでに北王国は滅びていました。エレミヤなど他の預言者と同じ時代に、ゼパニヤは主の日が近いこと、そして私たちの真中に主がおられることを告げました。 主が悪をそのままにされない方であること、そして罪を悔い改め、主の前にへりくだる者と共にいて守ってくださる方であることを覚えます。 今日は、何が正しくて何が悪いのか、どの基準が正しいのか、非常にあいまいになっています。こんな時代だからこそ、時代を越えてもゆるがない主の基準があることは、安全な錨だと感じられます。 その主の前で「口をつぐ」み、主のことばを聴くデボーションは、日々私たちが頼れる杖を頂く時間となります。 祈り:神様、あれかこれかと迷いの多い現代社会、そして私の心です。あなたのみことばを、日々頼りにして歩みたいです。みことばの意味がよりわかるように、それを実践できるように、聖霊様が今日も導いてください。アーメン

ハバクク3

「しかし、私は主にあって喜び躍り、 わが救いの神にあって楽しもう。」ハバクク3:18 東京都がミサイル攻撃に備えた地下シェルターを整備するそうです。ウクライナでも、地下鉄構内など地下に人々が避難していました。災害、戦争と、恐れは尽きません。 ハバククが預言したのも、バビロンが攻めてきて、国が荒れ果てる様子でした。「 いちじくの木は花を咲かせず、 ぶどうの木には実りがなく、 オリーブの木も実がなく、 畑は食物を生み出さない。 羊は囲いから絶え、 牛は牛舎にいなくなる。(17節)」 しかし、「しかし、」と彼は続けます。 どんな状態になっても、「私は主にあって喜び躍り、 わが救いの神にあって楽しもう」と。 なぜ喜び楽しめるのでしょう。それは、「 私の主、神は、私の力(19節)」だからです。主は「 私の足を雌鹿のようにし、 私に高い所を歩ませ」てくださる方です。 状況に左右されず、信仰告白する彼の姿に学びます。私たちも不安をあおるような情報に接しても、むやみにうろたえる必要はありません。必要な備えはしますが、心を静めていっそう主にすがる者となりましょう。 祈り: 「また、戦争や戦争のうわさを聞くことになりますが、気をつけて、うろたえないようにしなさい。そういうことは必ず起こりますが、まだ終わりではありません(マタイ24:6)」と教えてくださったイエス様、ありがとうございます。 不安や恐れから心を守ってください。あなたに身を寄せる者は、心の深い所に平安をいただき、いつも心がシェルターにいるようです。今日、突発的なことが起こっても、あなたから平安を受け取りたいです。私に信仰を与え、心をお守りください。アーメン

ハバクク2

「主は私に答えられた。 『幻を板の上に書き記して、確認せよ。 これを読む者が急使として走るために。』」ハバクク2:2 ハバククは主に見せられた幻を書き記して置くようにと命じられました。それは内容が明らかで、まだ知らない人にも遅れることなく伝達できるようにするためでした。 今日の箇所から、私たちのあかしを準備しておくことの大切さを学びます。あかしは、素晴らしい主が私に何をしてくださったか、主の栄光を個人的な体験を通して分かち合うことです。文章にして書き留めておく、あるいはいつでも話せるようにしておく、など方法は様々ですが、いつでもできるように準備しておくことが大切です。 「正しい人はその信仰によって生きる(4節)。」イエス・キリストを自分の主として信じた人が義人と認められます。救ってくださるのは主、その主を信じる機会を分かち合うのが私たちです。 祈り:神様、あなたが私を救ってくださったこと、これまで恵みを表してくださったことを、他の人たちに紹介したいです。未熟な私の言葉を備え、整えてください。アーメン

ハバクク1

「いつまでですか、主よ。私が叫び求めているのに、あなたが聞いてくださらないのは。『暴虐だ』とあなたに叫んでいるのに、救ってくださらないのは。」ハバクク1:2 ハバクク書は、ハバククの問いで始まります。「いつまで」「なぜ」という叫びです。 故国の乱れた様子を嘆く彼に、主は答えられます。それはカルデア人、つまりバビロンを通して故国を罰するという答えでした(5〜11節)。 それに対して、ハバククは再び「なぜですか」と主に問い叫びます。 主のなさることに口を挟むなんて、と思うでしょうか。しかし、そこには主との限りない親しさと豊かな交わりを感じます。 主とこのようにコミュニケーションを保ち、思いをそのまま言える親しさを、私たちも今日得たいと思いませんか。 祈り: 神様、あなたはいつも語りかけてくださいます。背を向けて聞かない態度を取るのでなく、そのままで主に近づかせてください。あなたと豊かな交わりに導いてください。アーメン

ナホム3

「アッシリアの王よ。おまえの牧者たちは眠り、 高貴な者たちはじっととどまっている。 おまえの民は山々の上に散らされ、 集める者はだれもいない。」ナホム3:18 自分たちで一生懸命備えた防御が役に立たなかった時には失望します。 さらに、頼みにしていたリーダーが肝心な時に頼りにならないという時、どれほどがっかりすることでしょう。 アッシリアに起こるというのは、そのようなことでした。 では、アッシリアはどうすればよかったのでしょうか。ナホム書の最後である3章は、私たちに問いかけているように思えます。 私たちも、頼りにしていた人や財産が当てにならず、落胆する時があるかもしれません。 どうすればよいのでしょうか。 それは、主を知り、主にすがることです。 神様がいなければどうしようもないという事態が、人生の歩みでは必ず起こってきます。 神様はアッシリアが悔い改めるよう、ヨナやナホムに預言を与えられました。 私たちにも呼び掛けておられます。 祈り:神様、敵のために祈りなさいと、イエス様を通じて教えてくださいました。どうか、私たちにもっと愛を教えてください。キリストを知らずに悩み苦しむ人々のため、真剣に祈ることができるよう助けてください。アーメン

ナホム2

「主がヤコブの威光を、 イスラエルの威光のように回復されるからだ。 まことに、荒らす者が彼らを荒らし、 彼らのぶどうの枝を損なう。」ナホム2:2 ニネベがやがてさばかれ、ヤコブとイスラエル(旧約の南北に分裂していた国)が守られる宣言です。旧約時代には、神様は実物教材として具体的な民族を用いて約束を示してくださいました。 もちろん、独りよがりの義を主は喜ばれません。新約時代の私たちは、特定の民族だけでなく、救いが全世界に広がったことを知っています。かかったイエス・キリストの十字架は、信じる人すべてにとって神の救いです。 今日も、世界を見回せば罪と悪が満ちています。しかし、今日の箇所は、やがて悪がさばかれ、最後まで主に信頼する者は救われるという信仰へと私たちを導いてくれます。 祈り:神様、悪が栄える今日の世界には、うそやごまかしが満ちています。見分ける心をください。こんな時だからこそ、教会と信仰者一人一人が、主の光をいっそう反映させることができますように。特に、介護や医療福祉分野で働く___さん、___さんに、今日主の励ましがありますように。アーメン

ナホム1

「主はいつくしみ深く、 苦難の日の砦。 ご自分に身を避ける者を知っていてくださる。」ナホム1:7 ナホム書は、アッシリアの首都ニネベへのさばきの宣言を記しています。 しかし、やみくもに怒る方では決してありません。 悪を「決して罰せずにおかれることはない」方ですが、「怒るのに遅」い方、「力強い方」(2節)でもあられます。 さらに、「いつくしみ深く」「苦難の日の砦」、「ご自分に身を避ける者を知っていてくださる」のです。 私たちの周囲に静かに耳を傾けると、トラブルや悲しみの真ん中にいる人の声が聞こえてきます。愛する家族の死が近いという方の沈んだ声を聞くと、胸が痛みます。 叫び求める時主以上に頼れる方がないこと、この方に身を寄せ永遠のいのちが与えられる平安を、一人でも多くの方が知り体験できますようにと、切に祈ります。 祈り:神様、あなたのくださる平安といのちを、___さんも____さんも受け取ることができますように。苦難の日の砦であり、ご自身に身を避ける者を知ってくださる主との出会いが、日本中の人々にありますように。アーメン

ミカ7

「しかし、私は主を仰ぎ見、 私の救いの神を待ち望む。 私の神は私の言うことを聞いてくださる。」ミカ7:7 「私の神は私の言うことを聞いてくださる」は、ご利益主義のように聞こえるかもしれません。 しかし、この節の前半から見ると、忍耐して神を信じ待ち望む信仰の姿勢のあらわれだとわかります。 私たちも、神様が祈りと願いに耳を傾けてくださることを信じましょう。たとえ祈ることさえ難しい試練にあっても、共にいてくださる聖霊がうめきとりなしてくださいます。 「私の敵よ、私のことで喜ぶな。 私は倒れても起き上がる。 私は闇の中に座しても、 主が私の光だ。(8節)」 倒れても、闇の中にいるようでも、それで終わりではありません。 罪は悔い改めにより赦されます。そして、どんな苦境や試練の中でも神は見捨てられません。 祈り:神様、倒れている私の手をとって起こしてくださる主、闇の中に輝く光である主を賛美しあがめます。 闇の中にいるような苦境にある___さん、___さんに、イエス・キリストの愛を届けたいと願っています。機会と言葉を与えてください。私らしく、自然な形で福音のあかしができますように。アーメン

ミカ6

「主はあなたに告げられた。 人よ、何が良いことなのか、 主があなたに何を求めておられるのかを。 それは、ただ公正を行い、誠実を愛し、 へりくだって、 あなたの神とともに歩むことではないか。」ミカ6:8 主が求めておられることは 「公正を行い」 「誠実を愛し」 「へりくだって、あなたの神とともに歩む」 ことです。 とはいえ、私たちは不完全です。公正でありたい、誠実でありたいと願いますが、偏った視点しかもてなかったり、誠実を尽くしたつもりでも他者を傷つけたりします。 へりくだりたいと思っても、心のどこかに比較したい気持ちがあるのかもしれません。 イエス様も「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」(マタイ22:37,39)と言われました。 シンプルながら、なんと高い基準でしょうか!できない自分の弱さと限界を知ります。 失敗を悔い改めつつ、主の手にすがってよちよち歩きをする、そんな私たちを主は導いてくださいます。一歩一歩、イエス様の姿を目指して今日もあわれみにすがります。 祈り:神様、私にあなたのみ思いに歩めるよう、今日も助けてください。主と共に歩みたいと切に願います。腹の立つことには、あなたの愛のまなざしを教えてください。誠実でへりくだった歩みをさせてください。____のことも、主の御手にゆだねます。アーメン

ミカ5

「ベツレヘム・エフラテよ、 あなたはユダの氏族の中で、あまりにも小さい。 だが、あなたからわたしのために イスラエルを治める者が出る。その出現は昔から、 永遠の昔から定まっている。」ミカ5:2 クリスマスによく読まれる箇所です。イエス・キリストがベツレヘムで生まれる預言は、そのまま成就しました。中心都市エルサレムでなく、近郊の小さな村ベツレヘム。 そして、彼は王宮ではなく家畜小屋で生まれたのでした。 人には弱く取るに足りないと思えても、神の素晴らしい選びにあずかったベツレヘムの記事は、私たちにとっても励ましです。 日本のクリスチャンが少数派だとか、あるいは私たちの教会を「小さな群れ・・・」と卑下する必要はありません。むしろ、神様はこの世の常識とは異なり、弱い者を選び、守り、恵みを与えてくださる方です。 ベツレヘムが神の選びと恵みに預かったように、私たちも選びと恵みに預かっています。この特権を、どうして隠しておけるでしょうか。 祈り: 「私は福音を恥としません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、信じるすべての人に救いをもたらす神の力です。(ローマ1:16)」 神様、パウロのように、私も福音を恥とせず、恵みを流すことができますように。家族や知人の中で最初の信仰者として選ばれた___さん、___さんに大胆な勇気と主の力を与えてください。私も同じようにしてください。 寒い中、被災地のために働く方々に主の励ましがありますように。現地の教会に、格別の支えがありますように。アーメン

ミカ4

「多くの国々が来て言う。『さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。 主はご自分の道を私たちに教えてくださる。 私たちはその道筋を進もう。』それは、シオンからみおしえが、 エルサレムから主のことばが出るからだ。」ミカ4:2 聖書の書かれた当時の舞台は中東です。 しかし、聖書は特定の国のためにだけ書かれた書物ではありません。 そして主である神様も、外国の神様ではありません。 「多くの国々が来て言う」や「もろもろの民(1節)」「多くの民族の間(3節)」などは、世界へのメッセージであることの表れです。 主は今日も、「ご自分の道を私たちに教えてくださ」います。「私たちはその道筋を進もう」と、今日の私たちも宣言し、歩みましょう! 明日は有名なメシア預言の箇所があります。 祈り:神様、時代や国を越えた聖書の真理を感謝します。自分の都合の良いところだけつまみ食いするのではなく、聖書全体の指し示すイエス・キリストをより近く知ることができますように。今日の私の歩みに適用できるよう導いてください。アーメン

ミカ3

「しかし、私には力が満ちている。 主の霊によって、公正と勇気に満ちている。 ヤコブにはその背きを、 イスラエルにはその罪を告げる。」ミカ3:8 周りの占い師たちや偽預言者たちは権力になびき、人々に気に入られるようなことばかりを述べていました。 一方、ミカは人々の背きの罪を告げました。 それは彼が強かったからでしょうか?知恵や才能に恵まれていたからでしょうか? 聖書はそうは語っていません。 彼に力が満ちているのも、公正と勇気に満ちているのも、「主の霊によって」だったと述べています。 私たちが自分の狭い見識や自己義で人を裁くことは、聖書の勧めることではありません。 しかし「主の霊」「聖霊」が働かれるなら、愛に根差しつつも人に罪への気づきを与える言葉や機会が与えられます。神の深いみ思いを反映するのは、私たちの怒りや衝動ではなく、聖書と神の霊の働きによるのです。 祈り:神様、私は人を恐れ、あるいは怒りに任せて失敗することがあります。___さんや___さんを傷つけたことをゆるしてください。ますます主の助けにより忍耐を持ち、愛に根差した祈り心を与えてください。アーメン

ミカ2

「ヤコブよ。 わたしは、あなたを必ずみな集め、 イスラエルの残りの者を必ず呼び集める。 わたしは彼らを、囲いの中の羊のように、 牧場の中の群れのように、一つに集める。 こうして、人々のざわめきが起こる。」ミカ2:12 さばきの警告の後、11~12節では回復の約束が告げられます。 しかも、人々がばらばらに脱出するのではありません。 「囲いの中の羊のように」「牧場の中の群れのように」まとまって導かれるのです。一つに集められ、「人々のざわめき」つまり人々が互いに混み合うように共に歩む回復です。 戦争や災害の後、集落が崩壊することが大きな問題になっています。 共同体で生きる存在として、神様は人をデザインされたからです。地域コミュニティを失うと、行き場を失い弱ってしまう人が出てきます。 教会は、霊的な家族として神様が置いてくださった共同体です。人の集まりである限り、完璧な存在ではありません。しかし、完全な神様の臨在を共に仰ぎ、共に賛美し礼拝する時、主の栄光とみわざの中で共に歩む恵みがあります。 祈り:神様、あなたは十字架によって私のいのちを回復してくださいました。回復された人々を教会に集めてくださり、共にあなたを礼拝する者としてくださり感謝します。共に回復された兄姉の存在を感謝し、主の愛で愛します。アーメン

ミカ1

「これはみな、ヤコブの背きのゆえ、イスラエルの家の罪のゆえだ。『ヤコブの背きとは何か。 サマリアではないか。 ユダの高き所とは何か。 エルサレムではないか。』」ミカ1: 5 旧約聖書の後半には、なぜ同じような預言書が長々と続くのでしょう。難しいし、自分と関係ないことばかり、と思うかもしれません。 しかし、預言書には当時だけでなく、今日の私たち、あるいはこれからの希望について記されている部分が多くあります。 今日の部分は、私たち人間の罪の大きさを教えてくれます。「ヤコブ」「イスラエルの家」はどちらも神の民のことです。本来は「ユダの高き所」つまり礼拝所のあった当時の「エルサレム」で主なる神を礼拝するべきでした。 それなのに「サマリア」で偶像礼拝に陥ったのが罪である、ということです。 何度も何度も教えられても、主なる神をすぐに忘れ、別のものを神としてしまう、それが人間の愚かさであり「的外れ」の罪の本質です。 だから繰り返し預言者を送り、主に立ち返るようにと呼びかけられたのです。 今日の私たちにも、主は生きて呼びかけておられます。 祈り:神様、あなたの呼びかけに応答したいです。私の霊の耳を開き、あなたに喜ばれることと喜ばれないことを区別できるように導いてください。 ____さん、____さんも、イエス・キリストを救い主として受け入れ、愛の主の呼びかけに答えることができますように。アーメン

ヨナ4

「主は言われた。『あなたは、自分で労さず、育てもせず、一夜で生えて一夜で滅びたこの唐胡麻を惜しんでいる。ましてわたしは、この大きな都ニネベを惜しまないでいられるだろうか。そこには、右も左も分からない十二万人以上の人間と、数多くの家畜がいるではないか。』」ヨナ4:10~11 神のみこころを、私たちはすべて喜べるでしょうか。自分自身や自分の好きな人が祝福されるなら、もちろん喜びます。しかし、過去に害を及ぼした人が祝福されても、心から喜べるでしょうか。自分の面目がつぶれても喜べるでしょうか。かえって、苦々しい思いや嫉妬がくるかもしれません。 ヨナが体験したのも、そのような出来事でした。敵国の都市ニネベが滅びるという警告をしたのに、結果は異なりました。人々は悔い改めて救われ、滅びることはありませんでした。ヨナは素直に喜べませんでした。 神様のみこころはすべての人が悔い改め、救われることです。神のあわれみと祝福を受け取ることです。主の思いを私たちの思いとするには、何が必要でしょうか。 相手へのゆるし、妬みや比較からの解放、こだわりを手放すこと...、私が今日、主に助けていただくことを求めましょう。 祈り:神様、ヨナにやさしく教え続けてくださったように、私にも教えてください。心の苦みを取り去ってください。そのために____が必要です。私が神様にどれほどゆるして頂いたかを味わい、感謝します。アーメン

ヨナ3

「すると、ニネベの人々は神を信じ、断食を呼びかけ、身分の高い者から低い者まで粗布をまとった。」ヨナ3:5 ヨナに再び「ニネベに行き預言せよ」という主のことばがありました。 今度は「ヨナは、主のことばのとおりに、立ってニネベに行った」のでした(2節)。 結果を見るのに、時間はかかりませんでした。一日分の道のりを歩き回って主の警告を伝えると、ニネベの人々は神を信じ、断食を呼びかけ、身分の高い者から低い者まで粗布をまといました(5節)。 何というリバイバル、何という宣教の実でしょうか。 ヨナは「伝える人」として用いられました。そして、悔い改めに至らせたのは神ご自身のわざでした。 私たちも「伝える人」として召されています。そして、ある人が「キリストは主です」と受けとるには神ご自身、聖霊の働きが必要です。 福音宣教は「神と人との共同作業」と言われます。人と共に働くことを望んでくださった神様の思いに感謝します。そして聖霊の働きを期待し、イエス様に出会う方々が起こされるように祈ります。 祈り:神様、私たちに主イエス・キリストを分かち合う特権を与えてくださり、感謝します。託されたことを喜んで実行できるよう助けてください。そして、聖霊様が働かれる救いのみわざをさらに見せてください。 「...宣べ伝える人がいなければ、どのようにして聞くのでしょうか。...『なんと美しいことか、良い知らせを伝える人たちの足は』と書いてあるようにです。(ローマ10:14-15)」 「また、聖霊によるのでなければ、だれも『イエスは主です』と言うことはできません。(第一コリント12:3)」   アーメン

ヨナ2

「私のたましいが私のうちで衰え果てたとき、 私は主を思い出しました。 私の祈りはあなたに、 あなたの聖なる宮に届きました。」ヨナ2:7 ヨナの状況を思い浮かべてみましょう。...主に従わずタルシシュに向かった。逃げるつもりだった。ところが船が嵐にあい、原因が自分にあるとわかった。海に投げ込まれ、これで命が終わると覚悟した。ところが巨大な生き物に飲み込まれた。息はできるものの辺りは真っ暗である... そんな魚の腹の中で、ヨナは主に祈りました。 自分が命を失うぎりぎりの時、恥も後ろめたい気持ちも吹っ飛んで、頼れるのは主おひとりでした。そして主に叫び求め、その祈りが届いたことを確信できたのでした。 それが、この章の感謝と喜びの祈りになっています。 私たちは、主の思いから外れた選択をしてしまったと感じることがあるでしょうか。 それでも、追い詰められて主の元に走りすがるなら、主は受け入れてくださいます。 悔い改めて戻ってくる者を、主はないがしろにされません。 「救いは主のものです。(9節)」 祈り:神様、これまでの歩みを振り返ります。_____が恥や汚点に思えます。主に喜ばれないことだとわかりながら、そうしてしまいました。ゆるしてください。 同じ過ちを繰り返さず、主の恵みと解放を体験した者、告げ知らせる者として歩ませてください。アーメン

ヨナ1

「しかし、ヨナは立って、主の御顔を避けてタルシシュへ逃れようとした。彼はヤッファに下り、タルシシュ行きの船を見つけると、船賃を払ってそれに乗り込み、主の御顔を避けて、人々と一緒にタルシシュへ行こうとした。」ヨナ1:3 ヨナは旧約聖書の中で外国に遣わされた唯一の預言者でした。敵国アッシリアの首都ニネベで、主への悔い改めを呼びかけるようにと召されました。 しかしヨナは従わず、別方向の船に乗り込みました。 そして嵐にあい、海に投げ込まれ、魚に飲み込まれるというのが1章です。 童話のような展開で、子どもメッセージでもよく語られます。 「神様に従えばよかったのに」と、ヨナの行動が滑稽に思えますか? 後に第三者的に見れば、その通りかもしれません。 でも自分自身の日々を見るとき、神抜きに、あるいはみこころより自分の判断を優先していることがありませんか。 私たちの多くは、1章のヨナと変わらない失敗だらけの者です。 しかし、失敗する私たちに、神様はゆるしと回復を備えてくださる方です。なんと忍耐強いお方でしょうか。 祈り:神様、あなたのみこころを知りつつも、つい自分の判断に頼り失敗してしまう私です。本当はひと足ひと足、あなたの後についていく歩みをしたいです。どうか今日も導いてください。アーメン

オバデヤ

「おまえは兄弟の災難の日に、 それを見ていてはならない。 ユダの子らの滅びの日に、 彼らのことで喜んではならない。 その苦難の日に大口をたたいてはならない。」オバデヤ12 旧約聖書で一番短い書で、1日で読み終えてしまいます。 通読すると、普段開くことの少ない書にも出会える喜びがあります。 預言者オバデヤは、エドムへの叱責を預言します。 エドム国はイスラエル国の遠い親戚でした(創世記35-36章、エサウとヤコブは兄弟。エサウの子孫がエドム、ヤコブの子孫がイスラエル民族)。 それなのに、イスラエルが苦難を通るのを見て傍観し、高ぶっていました。 愛の神様の願いは、自らが祝福されるだけでなく「祝福の基となりなさい」ということです(創世記12章)。 「この世の財を持ちながら、自分の兄弟が困っているのを見ても、その人に対してあわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょうか。(第一ヨハネ3:17)」ともあります。 もし今まで傍観してきたことがあるなら、今年どのように愛を表していくことができるでしょうか。直接的なことだけでなく、間接的にもかかわることができないか、考え祈ってみませんか。 祈り:神様、_____のこと、_____のことが心に浮かびます。どのように祈ればよいか導いてください。また、どのようにかかわることができるか、教えてください。ただ現状を見て手をこまねいているだけではなく、痛みを祈りにかえながら踏み出すことができますように。アーメン

アモス9

「わたしは、彼らを彼らの地に植える。 彼らは、わたしが与えたその土地から、 もう引き抜かれることはない。 ──あなたの神、主は言われる。」アモス9:15 アモス書の最後も、やはり回復の約束で終わります。 見える状況は全く逆、正反対でした。しかし、主は約束されます。 「わたしは、 わたしの民イスラエルを回復させる。 彼らは荒れた町々を建て直して住み、 ぶどう畑を作って、そのぶどう酒を飲み、 果樹園を作って、その実を食べる(14節)」と。 実際に、捕囚から民が帰還した時にこの預言が成就しました。 また、主を信じる民が終わりの時に回復される希望と、主は恵みとあわれみに富んでおられる方であることも確認できます。 今、とうてい回復できないと思うような状況があるでしょうか。 あるいは心の混乱や悲しみがあるでしょうか。 私たちにはできなくても、主は回復させることのできるお方です。 「あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは、忍耐です。(ヘブル10:36)」とあるように、共に祈り期待して待つ群れとして歩みましょう。苦しむ主の民に手を差し伸べる者ともなりましょう。 祈り:神様、あなたがあわれみに満ち、回復の主であることを感謝します。私たちに忍耐を与えてください。また、困っている兄姉に直接・間接的に手を差し伸べ、共に祈り支える信仰者の群れとしてください。アーメン

アモス8

「主は言われた。『アモス。何を見ているのか。』私が、『一かごの夏の果物です』と言うと、 主 は私に言われた。『わたしの民イスラエルに終わりが来た。わたしはもう二度と彼らを見過ごさない。』」アモス8:2 「いなご」「責める火」「下げ振り」(7章)に続き、4つ目の幻である「一かごの夏の果物」を主はアモスに見せられました。 バイブル・ナビは彼を 「ユダの片田舎で羊を飼い、いちじくの木を栽培していたアモスは預言者の息子でも、祭司の息子でもなかった」と紹介しています。 一代目の預言者として、彼には劣等感や低く見られる経験はなかったのでしょうか。アマツヤの妨害を受けたことは、昨日の箇所に書かれていました。 その中でも主が数々見せられたさばきの警告を、彼は預言し続けました。 出自や身分を越えて働いた彼の姿勢は、日本で少数派と言われるクリスチャンへの大きな励ましです。 祈り:神様、あなたの召しは人の常識や予測を越えることを知り、感謝します。私から先入観や恐れを取り去ってください。主が用いようとしている人を豊かに用いてください。私もあなたのご計画に従って用いてください。アーメン

アモス7

「しかし、主が、群れの世話をしていたところから私を取り、主が私にこう言われた。『行って、わたしの民イスラエルに預言せよ』と。」アモス7:15 7章では、いくつかのさばきがアモスのとりなしによって回避されます。 ・いなごの害が起こりそうな時、アモスがとりなしの祈りをして回避(1~3節)。 ・火が焼き尽くそうとした時、アモスがとりなしの祈りをして回避(4~6節)。 そして ・下げ振りを垂れ下げ、イスラエルを見過ごさない(7~9節)という宣告があった後、アモスとアマツヤとの対決があります。 アマツヤはベテルの祭司でしたが、実際には政治的に王に利用され、神のみこころを行う者ではありませんでした。 アマツヤに対し、アモスは「自分は羊飼いだったが、そこから主に呼ばれ、主のことばを真実に語るのだ」と自らの召しを宣べました。 悲しいことですが、今日も世界を見渡すと政治権力になびいた宗教リーダーがいます。 クリスチャンでも、家族や友人、世論に流されることがありえます。新年の初めの週、自分の態度、信仰の姿勢はいかがでしたか。 祈り:神様、私は同調圧力に弱い者です。助けてください。 家族や同僚の中でただひとりの信仰者として歩んでいる___さん、____さんを励まし守ってください。 また、信仰が弱っている___さん、___さんが、イエス様に出会った時を思い起こし、主の元に帰れますように。アーメン

アモス6

「あなたがたは、ロ・ダバルを喜び、こう言う。『私たちは自分たちの力でカルナイムを取ったではないか』と。」アモス6:13 「ロ・ダバル」は「つまらない物」、「カルナイム」は力を象徴する「二本の角」の意味です。預言者アモスの掛けことば(しゃれ)表現であると同時に、どちらもヤロブアム王の時代に復興した町の名前でもありました。 自分の力であれもこれもできる、という人々の高慢を、主は戒められます。だからといって、どうせ自分はつまらない物しか当たらない、という態度も喜ばれません。それもまた、神様の恵みを無視して自分の力にしか期待しないからです。 すべての持ち主である神様が必要な物を与えてくださること、そして私たちもまた与える者となれるよう願いましょう。 日本にも世界にも、多くの必要があります。教会からの宣教献金や緊急支援献金を通して、祈りと共に実際の助けに加われる恵みを覚えます。ニュースに心を痛めるだけでなく、主の手の伸ばされるところに私たちも参加できることを感謝します。 祈り:神様、たくさんの恵みを頂いています。健康も日々の必要も、こうして備えられていることに感謝します。教会で毎月覚えている___宣教師、___宣教師...の働きに主の祝福がありますように。また、被災地や紛争地の人々、支援を必要としている人々にも届くことができますように。アーメン

アモス5

「善を求めよ。悪を求めるな。 そうすれば、あなたがたは生き、 あなたがたが言うように、 万軍の神、主が、ともにいてくださる。」アモス5:14 自分の判断でどこかに逃げれば安全というのは、いかに頼りない考えかが語られます。「人が獅子の前を逃げても、熊が彼に会い(19節)」ということさえ起こります。 私たちも、焦ってむやみに何かしたくなることがあります。じっとするのが近道だとわかりながらも、どうしようもない心がはやるのです。 私がもし火災の飛行機に乗っていたら、自分の脱出の順番が来るまで、その場でかけ足をしたかもしれません。 聖書は「主を求めて生きよ(4、6節)」と招きます。主は「すばるやオリオン座を造り、暗黒を朝に変え(8節)」た方、「その名が万軍の神である(14、27節)」方です。 主ご自身とその「善を求める」ことが、私たちの救いであることを覚えましょう。さまざまな噂やデマに感情が高ぶる時、批判のコメントをしたくなる時には 「このようなときには、賢い者は沈黙を守る(13節)」ということばを思い出しましょう。 祈り:神様、不安になると焦り、感情的になりがちです。しかしこのような時にこそ、「心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい(ヨハネ14:1)」と言われたキリストに頼ることができますように。 今日は教会の___さん、____さんの祝福を祈ります。恵みと折々の助けが注がれますように。アーメン

アモス4

「見よ、山々を形造り、風を創造した方。 その御思いが何であるかを人間に告げる方。 暁と暗闇を造り、 地の高き所を歩まれる方。 その名は万軍の神、主。」アモス4:13 ここ大阪でも1日の地震のゆれは感じられ、長く続く横揺れに2011年の東日本大震災の時を思いだしました。「大きな地震ではないか」と直感的に思った人もいたことでしょう。 自然の前には小さい存在であることを、改めて思いました。 神様は自然を造られた方です。ですからそれほど大きな方の御思いは、私たちの考えをはるかに越えたものです。 私たちが信じ礼拝するのはその方です。そして、その方は私たちを無限の愛で愛しておられます。新年から災害や事故が連続し、日本中が重い空気感の中にあるようです。 しかし、悲しみの中での小さな恵みや奇跡が希望でもあります。神様の愛と慰めのご性質は、そのようなものです。 祈り:神様、私たちを愛してくださり感謝します。 地震が起こった北陸地方の方々、事故にあった方、特に愛する人をなくした方々を特別に慰めてください。励ましてください。主が立てられた被災地、そして全国の教会を通して、主の希望が光り出でますように。アーメン

アモス3

「まことに、神である主は、 ご自分の計画を、 そのしもべである預言者たちに示さずには、 何事もなさらない。」アモス3:7 旧約時代、主は預言者を通して人々に語られました。そして、所々に「イスラエルよ、聞け(シェマー)」という表現が出てきます。何かを決める前に、実行する前に、まず主に「聞く(聴く)」ようにというメッセージです。 年のはじめは、まっさらなページを開くようにわくわくします。今年の目標を立てる人も多いでしょう。 その時、静まってまず主に「聞く(聴く)」ことから始めませんか。 「私がやりたいこと」ではなく、 「主が私にしてほしいと望まれること」は何か、祈り黙想してみましょう。 ルカ10章に出てくる、忙しく思い煩うマルタの姿ではなく、主の足元に座ってじっと聞き入るマリアのように 「しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました(ルカ10:42)」という年になりますように。 祈り:神様、今年の歩みを導いてください。 「主によって 人の歩みは確かにされる。   主はその人の道を喜ばれる。(詩篇37:23)」 アーメン

アモス2

「わたしが、あなたがたの息子たちから預言者を、 あなたがたの若者からナジル人を起こしたのだ。 そうではなかったか。イスラエルの子らよ。 ──主のことば──」アモス2:11 主にあって新年おめでとうございます。 今日の箇所は、分裂王国の人々へのアモスの預言です。主を忘れて勝手な方向へ進む王国への警告が記されています。 その中で主は「あなたがたの息子たちから預言者を、あなたがたの若者からナジル人を起こしたのだ」と言われます。 預言者もナジル人も、主に生涯をささげ仕える人でした。 (ナジル人は髪の毛を切らず主にささげられた人として生涯を過ごしました。士師記13~16章のサムソンもその一人です) ほとんどの人々は耳を傾けなかったけれど、神様はずっと次世代の働き人を備えてくださっていたのでした。 日本にも、主が召そうとする働き人たちが次世代の中にいます。教会の「息子たち」「若者」の中にもこれから起こされようとしていると信じます。 そうした人たちを、学校の成績や偏差値、競争社会の「勝ち組」の観点に押し込めず、主の召しを握ることができるよう、祈り応援しましょう。 「私たちとは関係ない」」と思わず、声をかけ共に祈り合うなら、自分自身も励まさ力づけられます。 今年も主にあって「霊はますます燃えて若い」私たち一人ひとりでありますように! 祈り:神様、新しい年を与えてくださり感謝します。あなたが私に与えてくださる召しと共に、次世代を励まし支える召しを受けとります。いくつになっても霊に燃え、内なる人はますます若く、日々歩ませてください。アーメン

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