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Ⅲヨハネ

Ⅲヨハネ、エゼキエル37−39 「愛する者よ。あなたのたましいが幸いを得ているように、あなたがすべての点で幸いを得、また健康であるように祈ります。」Ⅲヨハネ 2節 来訪する教師たちをもてなすようにとの勧めを、パウロは書き送った。現代の私たちで言えば、教会へのゲストや宣教師に対する態度であろうか。 信者である兄弟たちの、しかもよそから来た人たちのための働きを忠実に行なっているガイオをパウロはほめている(5節)。 そして、そうすることで真理のために働く同労者となれると言っている(8節)。 それならば、宣教師やゲスト、働き人を受け入れ、協力する私たちも同労者となれるということである。外国に行ったり巡回したりしていなくても、同じ働きを担っているということである。 大きな励ましである。宣教が出ていく人だけの働きではなく迎える人にとっても、外国だけでなく日本にいても、同じ価値のある働きなのだから、歳をとっても、コロナで行けなくても、励んでいこう。

Ⅱヨハネ

Ⅱヨハネ、エゼキエル35−36 「御父から私たちが受けた命令のとおりに、真理のうちを歩んでいる人たちが、あなたの子どもたちの中にいるのを知って、私は大いに喜んでいます。」Ⅱヨハネ 4節 福音を伝えてそれを受け入れ、キリストの愛を知った霊の子どもが、真理のキリストのうちを歩んでいるのを知るとは、どんなに嬉しいことだろうか。洗礼を受けてからのクリスチャン生活の平均が3年とも囁かれるが、せっかくの愛を3年で離れてしまうとはどんなに勿体無いことかと思う。十字架を無駄にしてほしくないし、キリストの愛を軽く考えることのないようにと願う。 ところで、自分自身はどうだろうか。当然のように考えていないか。また、せっかくのプレゼントを自分だけのものにしていないか。愛の神のように、もっと気前よく、そしてもっと純粋な心で、キリストを分かち合う者となっていきたい。

詩篇138

詩篇136−138、エゼキエル33−34 「私が呼んだその日に あなたは私に答え  私のたましいに力を与えて強くされました。」詩篇138:3 神がどれほど誠実に愛してくださり、私に同じまなざしを注いでくださっているかを示している。 私たちはその愛を十分に受け取っているだろうか。偏った部分だけしか見えなかったり、鈍感になっていたりしないだろうか。 すぐに見える効果がなければ愛されていないと思っていないか。御利益宗教の神ではないことをよく理解する必要がある。神はすぐに見える利益を与えて終わりではない。そこに至る対話、コミュニケーション、そして私たちの視点の変革をも願っておられるのである。 それはちょうど、父が子どもを一つ一つ丁寧に訓練されるように、あるいは家族として団欒を楽しんでくださるようなものである。 この醍醐味を多くの方が体験されますように。

詩篇136

詩篇136−138、エゼキエル30−32 「…主の恵みはとこしえまで。」詩篇136:1〜26 26回も、「主の恵みはとこしえまで」と言う。主のわざ、なさったこと、素晴らしさの一つ一つが主の恵みによる。そしてその恵みが尽きないこと、ずっと続くことが歌われている。 さっと読むにはあまりにも大きく重い内容ではないか。 なぜ恵みが尽きないのか。なぜ神がこれほどまでに私たちによくしてくださるのか。それなのに、なぜ私たちは気づかず、神の思いに応えようとしないのか。 牧師は教会のトップではなく、むしろ番犬(シェパード犬)のように羊飼いなるイエス様の元で群れと共にいる。あるいは、羊の一匹かもしれない。その中で誰か羊が反抗して違う道に行こうとも、止めても聞かない時がある。人間的には悲しいが、神がそれを許されているなら、じっと見送り帰りを待つことも大切である。 また、何から何まで自分の責任だと思わなくても良い。神様がせよと言われたことをして、あとはじっくり群れ全体を見守ることが委ねられているのだから。群れ全体に気を配ること、気をつけていることであり、自分自身もキリストの望まれる方向から外れないように、心を見張ることである。

Ⅰヨハネ5

Ⅰヨハネ5、エゼキエル27−29 「神から生まれたものはみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。」Ⅰヨハネ5:4 世への勝利とは、世の罪深い生活パターンへの勝利であり、神に従って歩むことである。私たちは新生し、聖霊様が私たちの中に住んでくださり、神に従う力をくださるからそれが可能になる。 ヨハネは2つの面での勝利を語っている。一つは信仰により世から神の方へと向きを変えること、もう一つは日々信仰生活を送って継続的に歩むこと、である。 こんなに素晴らしい約束をもらい、聖霊の確証をいただいたのだから、振り返らずに歩んでいこう。そして、神の真実さをあかししよう。それは言葉でなくとも、例えばきれいな花を植えて被造物を通し神の栄光を表すことや、心を込めて家事をして家族が喜び神を崇めるようにすることも含まれる。 忙しい1日が始まるが、丁寧な暮らしの中に神を崇め祈り心になる余白がいっぱい詰まっているのだと思う。

Ⅰヨハネ4

Ⅰヨハネ4、エゼキエル24−26 「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。恐れには罰が伴い、恐れる者は、愛において全きものとなっていないのです。」Ⅰヨハネ4:18 愛に根ざさないクリスチャン生活、牧会、奉仕は動機の確認が必要である。中でも恐れに動機付けられた場合には、自分の心が自分になんと語っているかを吟味し、神のことばとの違いを見分けなければならない。自分がどう思われるか、ちゃんとしなければという心からでは、今日の聖句によれば「全き愛」に根ざしていないということである。 全き愛に根ざすとは、キリストの目、キリストの心をいただいて相手に接することだと思う。それはただ、何も忠告しないというのではない。相手の徳を高め、信仰を励ますために、時には教え戒めること。そして、丁寧に説明すること。相手にとって何が一番良いかを祈ることだと思う。 神様、どうか忍耐と柔和を与えてください。

Ⅰヨハネ3

Ⅰヨハネ3、エゼキエル22−23 「キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに愛が分かったのです。ですから、私たちも兄弟のために、いのちを捨てるべきです。」Ⅰヨハネ3:16 ある無宗教の人が、「宗教は、本来何かを売りつけるものではない。いろんな教祖がいるが、皆自分の収入、生活を優先している。もし信者が困っている時に、自分の財を投げうって助けてくれるような人が教祖なら、その宗教は確かだ。海外旅行に行けないと言った時、これで行っておいでと旅費を出してくれるなら、その宗教は確かだ」というような意味のことを言っていた。 ああ、この人が聖書に書かれていることを知ったらなあと思った。 キリストは神のあり方を捨てて地上に来られた。そして、ご自分のいのちを捨てるほどに、私たちのためによくしてくださった。これこそ信頼できる「宗教」、いやまことの「神」ではないか。 聖書の事実を知らないから、キリストの愛の深さを知らないから、日本の中には人生に迷い、人生の目的を見失っている人が多くいるのである。 世界第2の未伝国、日本。かたくなな心が柔らかくされ、種の蒔ける土壌になるようにと願う。

Ⅰヨハネ2

Ⅰヨハネ2、エゼキエル20−21 「さあ、子どもたち、キリストのうちにとどまりなさい。そうすれば、キリストが現れるとき、私たちは確信を持つことができ、来臨のときに御前で恥じることはありません。」Ⅰヨハネ2:28 恥ずかしがらず、確信と自信を持って再臨のキリストにお会いできるとは、なんという幸いかと思う。 幼いころは、再臨ですべてがなくなってしまうと思い、とても怖かった。家族も何もかもが取り去られてしまい、まだ見たことのない情景を見ないといけないということが恐ろしいと思ったのだ。 しかし実際は、キリストが来られる日は喜びと確信と幸せの時である。恐れさせるのではなく、もっと喜び安心と平安に満ちた瞬間であることを、私たち信じる者に与えられる光栄として語っていかねばならない。特に、子どもたちに。

Ⅰヨハネ1

Ⅰヨハネ1、エゼキエル18−19 「これらのことを書き送るのは、私たちの喜びが満ち溢れるためです。」Ⅰヨハネ1:4 ヨハネが手紙を書いた目的は、見たこと、聞いたことを伝え、小アジアのクリスチャンとキリストにある交わりを持つようになるためだった。 他のものと違うのは、いのちのことばであるキリストが、光であり、すべての罪から信じる者をきよめてくださるということである。 神道信仰、仏教信仰などが多くあるこの日本で、一つの神に決めるというのは偏狭な考え方と思われるかもしれない。しかし、もし求道する者たちが真剣に救いを求め、大きな存在を求めているとするならば、それはキリスト以外にないということを聖霊がわからせてくださるのである。 日本人の迷うところは一つに決めなければならないことだと思う。しかし、進路でも学校でも職場でも結婚でも、一つに決めることは必要である。多くの人が、二心でない信仰を持つことができたらと思う。

詩篇135

詩篇133−135、エゼキエル14−15 「主は望むところをことごとく行われる。  天と地で 海とすべての深淵で。」詩篇135:6 偶像の神々とは異なり、主は全てを造られた方でご自身が力ある神である。 天、地、海という大きな被造物を支配しておられ、どの空間でも働くことのできる方である。(NIV Study  Bible) その生きた偉大な神に私たちは仕えている。主の家で仕え、神の家の大庭で仕える者、主のしもべであるという誇りを持ち過ごすことができるのである。 先週、市内で交通事故があった。被害に遭われた80代の方はボランティア活動など地域の活動に献身的に関わられた方で、葬儀会場には「世話になった」と多くの方が集われたそうだ。 だとすれば、いのちを私たちのために自ら捨て、十字架にかかってくださったイエス様はどれほどだろうか。この国で、イエス様のもとにもっと多くの人が感謝と喜びを持って集まってほしいと思う。

Ⅱペテロ3

Ⅱペテロ3、エゼキエル11−13 「主は、ある人たちが遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」Ⅱペテロ3:9 神の介入がなぜ遅いのかと、不思議に思うことがある。迫害されている人を早く助けてくれたら良いのに、とか、悪者を懲らしめてくれたら良いのに、とか思う。しかし、それは神が冷たいからでもなく無関心だからでもない。かえって、その状況に忍耐しておられるというのである。 介護、病気、後遺症、障害、いろんな状況が日常にも起こる。教会は、こうした状況の中でも主にあって歩む。もっと言えば、クリスチャン一人一人が教会であり、主のはたらきをするように召されている。 牧師でなくなっても、引退しても、教会でありクリスチャンであることに変わりはない。その時に主につながり、福音を伝えていく方法をさまざまに与えられることを望む。

Ⅱペテロ2

Ⅱペテロ2、エゼキエル8−10 「その人たちに自由を約束しながら、自分自身は滅びの奴隷となっています。人は自分を打ち負かした人の奴隷となるのです。」Ⅱペテロ2:19 厳しい言葉である。しかし、人は自分を打ち負かした人の奴隷となるとは真実だ。 人生訓と良い人になるための訓練と称するグループに通っていた人がいた。実際は新興宗教、カルトであり、たくさんの健康グッズを買わされていた。そして、その製品を身につけていると体調が悪くなり、見た目もずっと老けて見え、腰は曲がり、回復できないようになっていた。イエス様に出会ってからも体に良いものだからと信じ続けていた。 しかしある時、これはイエス様に対する浮気だ、とはっと気づかれ、全てを処分した。すると、まさにその日以降、彼女に次々と助けが与えられ、生活の喜びが戻ってきた。見事にそのグループの罠から解放されたのだった。 クリスチャンであっても、お金や物質や名誉の奴隷となっている人がいる。それは自由ではなく、心が囚われ、平安を失う原因となる。 マタイ6:33のように、まず神の国を第一に求め、神の国のためにお金や力、心を使う人でありたい。

Ⅱペテロ1

Ⅱペテロ1、エゼキエル5−7 「だからこそ、あなたがたはあらゆる熱意を傾けて、信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。」Ⅱペテロ1:5−7 その結果は、キリストを知る点で役に立たない者とか実を結ばない者になることはない(8節)という。 どこまで熱意を傾けているだろうか。 徳も知識も自制も忍耐も敬虔も兄弟愛も愛も、信仰という根にねざしていなければただの道徳訓になってしまう。神様の願われるどんな美徳も、ヒューマニズムに貶められてしまうのである。 これは、心しなければならないところである。クリスチャンなので良心が鋭くなることはもちろんだが、親切な行為の動機が主への信仰から来ているのか、あるいは単なる正義感からなのか、見極める必要がある。

Ⅰペテロ5

Ⅰペテロ5、エゼキエル3−4 「割り当てられてる人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい。そうすれば、大牧者が現れるときに、あなたがたは、しぼむことのない栄光の冠をいただくことになります。」Ⅰペテロ5:3〜4 割り当てられたというのは機会的にではなく、神がみこころにしたがって委ね担当させてくださったということである。 牧会していると、自分の今の賜物と能力では難しく感じる人、意見が合わない人、時間を割いても成長がないかのように見える人がいる。心を尽くしても教会から離れる方もおられ、がっかりすることもある。しかし、どの人も神に愛され、神がこの教会に送られ、神の定める期間ともに歩んでいるのであり、その群れの中で仕えることが許されているのである、と考えると随分見方が違ってくる。 皆さんは尊敬を込めて「先生」と呼んでくださるが、私自身も教会員から学ぶことが多くある。社会の中でも、また介護や家事をする生活でも、忍耐強く信仰を保ち献身的にされている姿に、キリストの御心と信仰を教えられることもある。 主よ、もっとへりくだり仕えることを教えてください。兄姉を愛し、寛容で、教え戒め、建て上げ、仕えることができますように。

Ⅰペテロ4

Ⅰペテロ4、エゼキエル1−2 「さばきが神の家から始まる時が来ているからです。それが、まず私たちから始まるとすれば、神の福音に従わない者たちの結末はどうなるのでしょうか。」Ⅰペテロ4:17 裁きというと怖く苦しいイメージがあるが、クリスチャンにとってさばきは主にあって引き上げられ、労われ報われる希望さえも持つ。 特にペテロの手紙が書かれた当時のクリスチャンたちはローマ帝国から厳しい迫害に遭っていた。しかし、そのことゆえに福音がローマ全土に広がっていき、殉教するクリスチャンでさえも神の民を励まし大きなあかしを立てていった。何より信者にとっては、永遠のいのちが保障されている。しかし、信じない人たちにとっては、さばきの後は滅びである。

詩篇131

詩篇130−132、哀歌3−5 「イスラエルよ  今よりとこしえまで 主を待ち望め。」  詩篇131:3 別の聖書訳では「今も、とこしえも、どちらも」というふうに訳出されている。 心を治めること、そして神の許しのもとで自分の分を果たすことに集中しているダビデの決心が表されている。 ダビデほどの能力と権力のある人でも、及びもつかないこと、奇しいことがある。そして、王だからといってそうした自分の範囲外のことに首を突っ込んだり貪ったりしない、と彼は決心している。 同じように、私たちも興味や関心、そしてやりたいこと、成し遂げたいこと、関わりたいことは次々とやってくる。欲しいものもあげればキリがない。その中で、神がどの方向に召しておられ、何をして欲しいと願われているか、それを見極め神とともにすることが大切である。たましいを離れて心ここにあらずな行動、ミニストリーにならないように。何よりも神を離れて独りよがりな行動、ミニストリーにならないように。神ぬきのミニストリー、肉だけに頼る信仰にならないように。

詩篇130

詩篇130−132、哀歌1−2 「私のたましいは 夜回りが夜明けを  まことに 夜回りが夜明けを待つのにまさって    主を待ちます。 」詩篇130:6 警備をしている人は、無事に任務完了することが目標である。夜回りは夜明けまで危険なく守られるように働く。 朝日が上ってくるのがどれほど待ち遠しかっただろうか。 それほどまでに主を待ち望み、朝明けを待つように恋焦がれる情熱を持って主だけを仰ぎたい。他のものにより頼まず、キリスト一筋に歩んでいきたい。

Ⅰペテロ3

Ⅰペテロ3、エレミヤ51−52 「むしろ、心の中でキリストを主とし、聖なる方としなさい。あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでも、いつでも弁明できる用意をしていなさい。」Ⅰペテロ3:15 最近、聖書学校のあるコースに参加する機会があった。 あかしをしないクリスチャンは、アブラハム契約のトップライン(あなたは祝福される)だけで、そのボトムライン(あなたは国々の祝福となる)という流し出す必要性を見落としていると学んだ。 ボトムラインを遂行するには、いつも証ができる用意をしていることである。同時に、心の中でいつもキリストを主とし、聖なる方としなさい、と書かれている通り、キリストの心を我が心としたいという愛、キリストの弟子となることが重要である。 祝福を受けるだけというのは、流し出すことができず滞り、祝福が沈滞する。種も蒔けば収穫があるが、蒔かないで食べてしまうとそれっきりである。気前の良い神様の願いは、私たちも気前が良くなることである。

Ⅰペテロ2

Ⅰペテロ2、エレミヤ50 「聖書にこう書いてあるからです。  『見よ、わたしはシオンに、選ばれた石、  尊い要石を据える。  この方に信頼する者は  決して失望させられることがない。』」Ⅰペテロ2:6 キリストが要石であり、要石は動くことがない。位置を決め、基礎となり、全ての土台、始まりとなってくださるのである。 だから、キリストに信頼する者は失望させられることがない。 「キリストは昨日も今日も、いつまでも変わることがない」という約束が、信仰の揺るぎない保証を与えてくださっているのである。 たとえ教会の中のある人たちが揺らいでも、たとえミニストリーが行き詰まっても、キリストが変わらない方で、そのお方が許されるならば良しとしなければならない。私たちの歩みも、奉仕も、キリスト抜きでは空しく力ないものである。自分の力で頑張っているようなところがあれば、もう一度手放して祭壇に置こう。主から受け取ったことを淡々となしていこう。

Ⅰペテロ1

Ⅰペテロ1、エレミヤ48−49 「今しばらくの間、様々な試練の中で悲しまなければならないのですが、試練で試されたあなたがたの信仰は、火で精錬されてもなお朽ちていく金よりも高価であり、イエス・キリストが現れるとき、称賛と栄光と誉れをもたらします。」Ⅰペテロ1:6−7 試練は永遠ではなく、一時的なものである。しかし、その結果は素晴らしい信仰が生み出されていくのである。 これは個人的な試練にも当てはまるが、教会が通る試練にも同様だと思う。パンデミックの間や後、教会が直面した様々な変化や経緯にも神が働いてくださる。それはちょうど、一時的な精錬所の過程を経て質の良い金が作られていくかのようである。 初代教会の純粋な信仰に戻り、キリストの愛に戻り、律法的なあるいは人間的な縛りから自由になること。時には教会の歴史で作られた決まりを見直し、主が望んでおられることがどうかの検討もする。今、そうした時期に差し掛かっているのかもしれない。

ヤコブ5

ヤコブ5、エレミヤ46−47 「あなたがたも耐え忍びなさい。心を強くしなさい。主が来られる時が近づいているからです。」ヤコブ5:8 繰り返し繰り返し、忍耐することを語っているのがこの5章である。ただ我慢せよというのではなく、忍耐する人の例が挙げられている。 10節では、主の御名によって語った預言者たちを模範にせよ、と。語っても民が繰り返し主に反逆し、涙ながらに語った預言者。預言が成就するまで長い時間がかかり、嘘つき呼ばわりされた預言者。 11節ではヨブが挙げられる。苦しみ続きで、なぜかもわからないまま苦闘するヨブ。最後には神の回復があった。 7節では、農夫の例が出されている。大地の実りを収穫するためには、初めの雨や後の雨を待たねばならなかった。10、11月が初めの雨、3、4月が後の雨の時期である。その間はじっと待つのである。 同じように、私たちも主の来られることを確信し、耐え忍ぶようにと勧められている。特に、心を強くして耐え忍ぶこと。ふらふらせず、主の御顔と御心を求め続けていくこと。Yes、Noについても祈り決断すること。確信を持ち、主にあって日々強められていくことを主は望まれている。

ヤコブ4

ヤコブ4、エレミヤ43−45 「あなたがたはむしろ、『主のみこころであれば、私たちは生きて、このこと、あるいは、あのことをしよう』と言うべきです。」ヤコブ4:15 明日のことはわからないから不安になるのではなく、「みこころのままに」と言って生きていく者になりたい。 それは行き当たりばったりではなく、神の手に守られ導かれる安全な日々である。 「主の御手に すがる日は いかに喜ばしき」という賛美がある。主の手に守られる日は最も安全、最も喜び、最も楽しいのである。 たとえハプニングが起こっても、それも主の御手のゆるしの中にあるという確信、主が助けてくださるという希望がある。 主と自分の関係がしっかりしていれば「隣人をさばく」(12節)ことも必要がなくなるし、比較することも不要になる。

詩篇129

詩篇127−129、エレミヤ40−42 「主は正しくあられ  悪しき者の綱を断ち切られた。」詩篇129:4 どんなに敵に苦しめられても、正しい主が最後には勝利をとって解放してくださる。それが私たちの生きる希望である。 自分の身の周りに、人だけでなく悪い影響を与えるものが存在することもある。時には、無意識のうちにそれに頼ってしまうものもある。頼るべきは主おひとりのみ、そのことを覚えて「神の国と神の義をまず第一に求めなさい。そうすれば、全て備えられる」というマタイ6:33をいつも口ずさむ必要がある。

詩篇127

詩篇127−129、エレミヤ37−39 「主が家を建てるのでなければ    建てる者の働きはむなしい。    主が町を守るのでなければ    守る者の見張りはむなしい。」詩篇127:1 どんなに華々しいことでも、素晴らしく思われることでも、主がなさるのでなければむなしい。つまり、霊的には重要性があまりないと、詩篇は言っている。2節にも続いて、どんなに朝から晩まで必死で働いたとしてもむなしいと言っている。 反対に、主は愛する者に眠りを与えてくださるという。怠けているのではなく、平安で急がず、慌てず、比較せず、主と自分との関係で生きている人の平安である。 スタディーバイブルには、良い収穫は人があくせく必死で働いた成果ではなく、神が祝福してくださった結果だ、と解説されている。 もし畑の作物でさえそうであるならば、私たちの霊的な働き、牧会や宣教は一層そうである。他のクリスチャンや教会に比べて秀でているとか盛んであるとか、目に見えるものは重要ではない。神に信頼し、神の教会であるという原点に立つこと。そこから、新しい神のわざを見ることができる。希望がある。燃え尽きないで進むことができる。焦って大切なことを見失わないようにしたい。

ヤコブ3

ヤコブ3、エレミヤ34-36 「しかし、上からの知恵は、まず第一に清いものです。それから、平和で、優しく、協調性があり、あわれみと良い実に満ち、偏見がなく、偽善もありません。」ヤコブ3:17 多くの助言の中でも、高ぶることと舌の言葉に注意することとが強調されている。牧師や働き人はへりくだる姿勢で仕えること、教師であっても覚悟をして仕えることがわかる。 また、舌は休むことのない悪で、死の毒で満ちている(8節)とあるように、舌は危険な刃物のようなものである。日々、聖霊の助けを願って舌や発言、メールの表現などを見張っていくことが求められている。 主よ、どうぞ今日一日、発する言葉、書く言葉、舌を制御できますように導いてください。他の人を傷つけることがないように。言葉足らずで誤解を招いて苦みが生じることから守ってください。また、私自身が傷つけられ、痛みを感じているところも癒してください。イエス・キリストの名によってお祈りします。アーメン

ヤコブ2

ヤコブ2、エレミヤ32−33 「からだが霊を欠いては死んでいるのと同じように、信仰も行いを欠いては死んでいるのです。」ヤコブ2:26 ヤコブ書は行いを強調し、「ただ信じるだけで救われる」という神の摂理に逆行する、という議論があったそうである。時には「藁の書物」と揶揄されたそうだ。しかし、ヤコブ書の主張はそうではない。救いは信じるだけだが、真に救われているなら行いの伴う信仰が与えられ、育ってくるということが言いたいのだ。 それはちょうど、からだが霊を持たなければ生ける屍であるのと同様である、とたとえている。内実がいのちある、生きた信仰のあかしだとイオ追うのである。 口先だけで立派なことや批判をし、実が伴わない人がいる。イエス・キリストが弟子を派遣し、自らも日々わざをなされたことを思い出そう。私たちも派遣されている。それは実際の生活での信仰の行いを神様が願っておられるからである。

ヤコブ1

ヤコブ1、エレミヤ30−31 「試練に耐える人は幸いです。耐え抜いた人は、神を愛する者たちに約束された、いのちの冠を受けるからです。」ヤコブ1:12 ステパノの死後エルサレムから散らされたクリスチャンたちに向けて、ヤコブの手紙は書かれた。クリスチャンたちは各地に散らされ、そこで福音を宣べ伝えた(使徒8:2)。 行く先々で、素晴らしい宣教の広がりがあったかと思うと、厳しい迫害にさらされることもあっただろう。パウロが実際、宣教旅行で同じような状況に置かれている。 それでも、試練の中で神に信頼し続け耐えた人たちには、いのちの冠が用意されているという希望が宣言されている。実際、命を落とす人もいたが、それでも福音は広がっていった。彼らは天の故郷を目指して歩んでいたのだった。 現在も、世界のあちこちで命懸けの信仰者たちが多くいる。その具体的な人数はわからないし、どこにいるかも情報は届かない。しかし、神様には全てが明らかで、その人たちのためにいのちの冠が用意されている。 私たちも限りある人生で、どこにポイントが置かれているか、神様の招きと訓練を受け取り歩もう。

ヘブル13

ヘブル13、エレミヤ27−29 「永遠の契約の血による羊の大牧者、私たちの主イエスを、死者の中から導き出された平和の神が、あらゆる良いものをもって、あなたがたを整え、みこころを行わせてくださいますように。また、御前でみこころにかなうことを、イエス・キリストを通して、私たちのうちに行ってくださいますように…」ヘブル13:20−21 私たちが整えられ、みこころを行えるようにというのがパウロの祈りだった。成熟したクリスチャンに全ての人がなれれば、どれほど素晴らしいだろう、と思う。それをさせてくださるのは、平和の神ご自身であるという。 いくら言っても聞かない、助言を受け入れないという人にも出会うことがある。こちらは苛立ったり落胆したりする。しかし、神にあって、こうした人も変えられる。そして、苛立つ私自身の忍耐のなさも変えられるということを覚える。 今私自身に必要なのは、もっと大胆になること。人を恐れないこと。みこころと確信して行ったら批判を気にしすぎないこと。主のために働く人生を楽しむこと。自分が邪険にされていると被害意識を持たないこと。いつまでも水面下だとひがまないこと。そして、 「金銭を愛する生活をせずに、今持っているもので満足する」(5節)こと。お金を多く得ようとすることも貪欲だが、必要以上に支出を渋り、使いすぎないことも貪欲の危険性がある。なぜなら、必要を他者から得ようとしたり、いじましくなってしまったりするからである。 お金も持ち物も、全ては神様から来る。健康も、神が私たちに管理を委ねたものだと知れば、適度な健康志向に留まるのである。  

ヘブル12

ヘブル12、エレミヤ24−26 「あなたがたは、罪人たちの、ご自分に対するこのよな反抗を耐え忍ばれた方のことを考えなさい。あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないようにするためです。」ヘブル12:3 イエス様は、恥をものともせず十字架にかかってくださった。それは、神の右に着座できるという、前にある喜びを見つめていたからだった(2節)。 前を見つめたイエス様の姿勢に倣えば、私たちも前を見つめて、自分の前に置かれている競争を、忍耐強く走り続けよう、と思える(1節)。 SNSやインターネットニュースのコメントには、小さなニュースごとに膨大な書き込みがなされる。批判的なもの、中傷なども含まれている。誰もが勝手気ままに、そして遠慮なく公に批判しクレームを言える世の中になっている。 しかし、ヘブル書は、心が元気を失い、疲れ果ててしまわないように、と言っている。そのポイントは、イエス様だけに焦点を合わせ、イエス様のことだけを考える、ということである。