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ピリピ4

 「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」ピリピ4:6~7 自分自身を見ると、思い煩うことの何と多い者かと驚きます。一つが解決すると次の問題が出てきます。 まるで心の中に「思い煩い」の部屋が予約されているようです。 パウロは「私は、どんな境遇にあっても満足することを学びました(11節)」と言いました。パウロほどの苦難を通っても感謝をささげ、牢に入れられても賛美することができる秘訣とは、 「感謝をもってささげる祈りと願いによって、願い事を神に知っていただく」ことです。 私たちはどのようにパウロの姿勢にならうことができるでしょうか。 祈り:神様、私の心の中にある思い煩いは、自分だけで解決しなくてよいことに感謝します。あなたに願い、祈り、すべてがあなたのご支配の下にあることの幸いを覚えます。 信仰を与えてください。希望を与えてください。アーメン

ピリピ3

 「しかし、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます。」ピリピ3:20 パウロは人間的な標準ではエリートと呼ばれる人でした。 しかし、地上のものよりも天にあるものの価値に目を留めるよう勧めました。 最も素晴らしいことは、キリストにあって罪が赦され、天の国籍を持っているということです。 天でキリストに出会い、主を信じる者が再会できると思うと、希望が与えられます。 祈り:神様、キリストが今おられる天の御国で、私たちも主に会い、友と再会の喜びを分かち合えることに感謝します。アーメン

ピリピ2

「キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、 人間と同じようになられました。」ピリピ2:6~7 キリストには、先入観やプライドがありませんでした。 私たちのために地上に来られ、限界のある人間の姿になり、十字架にかかってくださいました。 退職したとき、試験に失敗したとき、 怪我や老いで動けなくなったとき… その心境をイエス・キリストが一番わかってくださるとしたら、何と慰められることでしょう。 祈り:神様、私たちのどんな悩みもわかってくださり感謝します。今、人生の空しさを覚える人がいるなら、主の深い慰めと新たな希望を与えてください。アーメン

ピリピ4

「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」ピリピ4:6~7 「思い煩い」という言葉が聖書の中にどのように出てくるか、調べてみました。 新約聖書では、 ・マルタがイエス様のおもてなしにあれこれと気をもんで「思い煩った」こと(ルカ10章) ・種のたとえで、茨の中に蒔かれてこの世の「思い煩い」と富の誘惑でみことばがふさがれ、実を結ばない人のこと(マタイ11章、マルコ4章) ・心が放蕩や深酒や生活の「思い煩い」で押しつぶされていて、主の日が突然臨むことへの警告(ルカ21章) などに使われています。 心が主に定まらず、見えるところの心配であれこれ心が分裂していることのようです。 そして、もっとも大切なことに心を向けることができなくなっている状態です。 パウロは「私は、どんな境遇にあっても満足することを学びました(11節)」と言います。それは、彼がイエス・キリストの福音に心を定めていたからです。 私たちはどのようにパウロの姿勢にならうことができるでしょうか。 祈り:神様、私の心を乱すものは_______________________です。 今、その悩みのあれこれを、主の足元におきます。すべてがあなたのご支配の下にあることを信じます。私に信仰を増し加えてくださり、導いてください。アーメン

ピリピ3

「しかし、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます。」ピリピ3:20 イエス様はもう一度天から来られるという約束を、どのくらい楽しみに待ち望んでいるでしょうか。 マタイの福音書や黙示録に書かれている患難を思うと、かえって怖い思いがしていました。 しかしよく読むと、神様は患難までに救いの機会を何度も提供してくださっていること、キリストを信じるならどんな人でも救いに入れられることがわかります。 悪いニュースに振り回されず、主を信じれば救われるという希望に目をとめることが大切です。 「私たちの国籍は天にある」ーー天でキリストに出会い、信じる者が再会できると思うと、あの人、この人に会いたいと楽しみになってきます。 祈り:神様、キリストが今おられる天の御国で、やがて信仰者が共に再会し、主を賛美できる時が来ることに感謝します。阪神淡路大震災などの災害の遺族に慰めがありますように。豪雪の被害地域で除雪のために働いている人たちに守りがありますように。アーメン

ピリピ2

「キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、 人間と同じようになられました。」ピリピ2:6~7 アドベントの礼拝でこの箇所が語られました。 キリストが天から降りて来られた神であり、その謙遜と従順の姿勢を学びました。 「~であるべき」「~でなければ」という先入観やプライドを捨てて、私たちのために地上に来てくださいました。 退職や一線から退くとき、あるいは試験に不合格だったとき、 私たちのプライドは砕かれます。 その心境をイエス・キリストが一番わかってくださるとしたら、何と慰められることでしょう。 それだけでなく、キリストは今父のみもとにおられ、喪失の中にある私たちに新たな召しも備えてくださっています。 その幸いを覚えます。 祈り:神様、あなたが私たちのどんな悩みもわかってくださいます。今、人生の空しさを覚える人がいるなら、主の深い慰めと新たな召しの希望を与えてください。キリストの姿勢にならい従う私たちとしてください。アーメン

ピリピ1

「ただキリストの福音にふさわしく生活しなさい。そうすれば、私が行ってあなたがたに会うにしても、離れているにしても、あなたがたについて、こう聞くことができるでしょう。あなたがたは霊を一つにして堅く立ち、福音の信仰のために心を一つにしてともに戦っていて、」ピリピ1:27 救いはただ福音の恵みにより、行いではなくプレゼントです。ただで、信じるだけで受けとることができます。 もっとも、聖書は救われたら好き勝手に生きてもよいとは言っていません。 救いの喜びをともに分かち合うこと、 そして福音にふさわしく生きることを勧めます。 「霊を一つにして堅く立ち」 「福音の信仰のために心を一つにしてともに戦う」 ことが、ピリピ書でも示されています。 日々、多くの祈りの課題があります。自分のことだけでなく、体調不良の人、家族に困難をかかえている人、仕事や学校でチャレンジを覚える人、世界の貧困や迫害・・・。 それらについてとりなしの祈りをするのは「霊を一つにして」「心を一つにしてともに戦っている」ことの表れです。 祈り:神様、周囲で起こる様々な問題や課題を、聞き流すのでなく都度祈りに代えることができますように。霊の家族を与えてくださり感謝します。互いに祈り合い、信仰を励まし合い、ともに建てあげることができるよう導いてください。アーメン

ピリピ4

ピリピ4、箴言3−5 「私は、貧しくあることも知っており、富むことも知っています。満ち足りることにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。」ピリピ4:12 こんな「秘訣」を会得していたら、どんなに人生が生きやすく、気が楽になることだろう。 しかし、この柔軟で適応力のあるのはパウロ自身の特性ではない。それはキリストがパウロに教え、秘訣へと導いてくださったのだった。13節では「私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです」」と言っている。キリストがおられ、一つ一つを導いてくださるからこそ、秘訣を会得できたのだった。 私自身は耐性に乏しく、適応性や柔軟性もあまりなく、不安症であり、緊急時にはどうして良いかわからず右往左往するような者である。しかし、時折「落ち着いている」と言われることがあり、とても意外である。内面はともかく、もしそう見えるならば、ひとえにキリストが覆っていてくださるからである。自分の内面も伴っていればどんなに素晴らしいかと思うが、その時その時でギリギリ (と感じる)心理状態をキリストによって治めていただき、助けていただくしかない。 主よ、今日も私の心を治めてください。一日に起こってくることに、肉で対処せずにあなたの覆いの元で感知し、歩むことができますように。

ピリピ3

ピリピ3、箴言1−2 「兄弟たち。私は、自分がすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ一つのこと、すなわち、うしろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばし、キリスト・イエスにあって神が上に召してくださるという、その賞をいただくために、目標を目指して走っているのです。」ピリピ3:13−14 去年までなら、この節に対して私は手放しで「アーメン!」と言っていたと思う。しかし、今年は初め「自分はそこまで一心に走る元気と勢いがあるのだろうか」と感じた。 一つには、心身の疲れと不調を感じており、そこまで自由に動くことができるだろうかと思ったからである。 しかし、ここで勧めているのは肉の熱心ではなく(3節にも 「キリスト・イエスを誇り、肉に頼らない私たちこそ、割礼の者なのです」とある)、キリストにある霊の熱心、信仰の熱心である。その熱心さ、力をもキリストから来るという信頼が求められているのではないか。パウロも持病があってさえ、このように言えたのだから。 もう一つは、アフガン、北朝鮮、その他の迫害下にあるクリスチャンたちを思うと、彼らこそ命がけでこのみことばを生きているのではないか、と自分の覚悟の甘さを反省したからである。 きれいごとではなく、自分の命、財産、家族、仕事、快適な生活、趣味…、持てるもの全てをキリストのために手放すことができるか。覚悟を問われている。

ピリピ2

ピリピ2、詩篇148−150 「神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です。」ピリピ2:13 神様は志を与えてくださるが、それは「みこころの」ままに、と書かれている。私たちはともすれば「自分の都合の良いように」「自分の栄光のために」願いを持ちがちだが、何がみこころであるかを吟味することが求められている。次の告白の祈りを味わいたい。 ー悩み苦しむ者のための告白ー 成功したいと思い、 強さを与えてくださいと神に願った。しかし、私は弱くされた。 それはへりくだって従うことを学ぶためだった。 何か大きなことをし、成し遂げたいと思い、 健康にしてくださいと神に願った。 しかし、私には病弱な体が与えられた。それはもっと良いことをするためだった。 幸せになりたいと思い、富をくださいと神に願った。 しかし、私は貧しくされた。それは賢さを得るためだった。 称賛を得たいと思い、権力を与えてくださいと神に願った。 しかし、私には無力さが与えられた。 それは自分には神が必要であることを知るためだった。 人生を楽しみたいと思い、あらゆるものを与えてくださいと神に願った。しかし、私には命が与えられた。それは、あらゆることを楽しむためだった。 私が神に願ったものは何一つ与えられなかった。 しかし、望んでいたものはすべて与えられた。 全く思いもかけず、言葉にならなかった数々の祈りがこたえられていた。 私は誰よりも豊かに祝福されているのだ。

ピリピ1

ピリピ1、詩篇140−142 「…あなたがたの愛が、知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、あなたがたが、大切なことを見分けることができますように。こうしてあなたがたが、キリストの日に備えて、純真で非難されるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされて、神の栄光と誉れが現されますように。」ピリピ1:9〜11 パウロが祈ったのは、ピリピの教会の普通の人々のためにだった。意外に感じるかもしれないが、ここで、愛が豊かになるのは知識と識別力によるのだと言っている。 愛は感情に振り回されるものだけではなく、もっと冷静な要素が含まれているというのである。 そして、愛は増し加わり、成長できるものであることもわかる。 そしてゴールは私たちが義の実に満たされて、神の栄光と誉れを現す者となることである。私たち自身から出る善行や努力ではなく、キリストが与えられる義の実によるのである。 そして、目指すところはキリストの再び来られる日であり、一時的な状況で落胆しないというのがパウロの信仰である。パウロ自身も投獄されていたので、人間的には先が見えなかった。今の私たち(2021年)もコロナウイルスの流行がおさまらず、先が見えないような思いになっている。それでも、しばしの状況に落胆せず、義の実をいただき、愛が増し加わるように、成長するようにと歩み続けるのだ。私たちの究極のゴール設定がキリストの日にある。