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民数記23-25

通読: 民数記23-25、マルコ7:14-37  「バラムはイスラエルを祝福することが主の目にかなうのを見て、これまでのようにまじないを求めに行くことをせず、その顔を荒野に向けた。」民数記 24:1 バラムという人は、まじないなど、主に喜ばれないことをしていました。 それでも、主の霊が臨んだ時だけ、彼は主の目にかなう言葉を告げます。 「...ヤコブから一つの星が進み出る。 イスラエルから一本の杖が起こり、 モアブのこめかみを、 すべてのセツの子らの064脳天を打ち砕く。(24:17)」 メシアの預言さえしています。 なぜこのような人物を神が用いられたのか、私たちの常識で説明することは難しいdえす。 新約聖書ではバラムは非難されています(2ぺテロ2:15、ユダ11、黙示録2:14)。 それでも、神の知恵は人の知恵に勝っています。 反面教師にしつつ、自分の先入観の危うさと神の知恵の深さとを考えさせられます。 祈り:神様、私の勝手な思い込みや先入観を取り除いてください。弱く思える人でも主は用いることができます。みこころかどうか、聖霊により頼んで判別できますように。アーメン

民数記20-22

通読: 民数記20-22、マルコ7:1-13  「すると主はモーセに言われた。『あなたは燃える蛇を作り、それを旗ざおの上に付けよ。かまれた者はみな、それを仰ぎ見れば生きる。』」民数記 21:8 プリズン・ミニストリー(刑務所伝道の働き)のあかし本を読んでいます。 刑務所の塀の中で、キリストに出会った囚人は変えられていきます。 きれいごとではなく、社会復帰や再犯防止には、多大な労力が自他ともに払われます。 それでも、キリストにあって新しい人生をやり直そうと志す人を支えていきます。 「仰ぎ見れば生きる」というこの箇所を、イエス様は引用されました。 「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」(ヨハネ 3:14-15) 「人の子」つまりキリストにあって、塀の上を見上げていた人がキリストを見上げるようになりました。 私たちも、成績、収入、社会的地位の上ばかり見る者から、まずイエスご自身を仰ぎ見る者へと変えられました。 祈り:神様、今日も主を仰ぎ見ます。落胆するような状況、難しい局面に立たされても、いや立たされる時だからこそ、十字架のキリストを見上げて助けを求めます。アーメン

民数記17-19

通読: 民数記17-19、マルコ6:30-56  「祭司は自分の衣服を洗い、からだに水を浴びる。その後、宿営に入ることができる。しかし、この祭司は夕方まで汚れる。」 民数記 19:7 母が入院している病院の中で、どうしても好きになれない臭いがありました。 マスク越しでも感じられ、家に帰ってからも鼻の奥に残るような気がします。 臭いは目には見えないけれど、洗い流されない限り残ります。 罪も同じで、きよめられない限りまとわりつきます。 祭司はいけにえをささげる時、動物の血や生肉の臭いがついたでしょう。 衣服を洗い、水浴びをするのには、臭いを流す意味もあったと思います。 キリストが私たちの罪を洗い流し、きよめてくださいました。 もうまつわりつく罪のけがれた臭いを恐れる必要はありません。 感謝します。 祈り:神様、様々な実物教材を使って教え示してくださり、感謝します。悪臭をはなつ罪のけがれが、キリストによって洗い流され、きよめられたことの素晴らしさを覚えます。アーメン

民数記15-16

通読: 民数記15-16、マルコ6:1-29  「彼が死んだ者たちと生きている者たちとの間に立ったとき、主の罰は終わった。」民数記 16:48  安息日を破った者、そしてモーセに反逆したコラたちは即座に滅びました。 それだけでなく、不満をぶちまけた者たちにもさばきが行われました。 旧約の記事を読むと、厳しすぎると思うかもしれません。 しかし、昔も今も、主の義の前には小さな罪も罪には変わりありません。 本来は言い訳も申し開きもできないものです。 民が滅ぼされようとした時に、アロンが間に立ちました。 なだめの仲介者としての、祭司の働きを見ます。 キリストが仲介者となってくださったから、私たちは安心して過ごすことができます。 キリストがご自身をささげ、私たちの身代わりになってくださった大きな犠牲を、 このレントの時期に黙想したいと思います。 祈り:神様、キリストが間にたってご自身をささげてくださり、さばきを免れたことを覚えます。私のために、十字架の上でその身をささげてくださり感謝します。アーメン

民数記12-14

通読: 民数記12-14、マルコ5:21-43  「ただ、主に背いてはならない。その地の人々を恐れてはならない。彼らは私たちの餌食となる。彼らの守りは、すでに彼らから取り去られている。主が私たちとともにおられるのだ。彼らを恐れてはならない。」 民数記 14:9 かつて、ハガイセミナーを率いておられたリーダーが私にアドバイスをくださいました。 「あなたの問題は語学力ではない。真の問題は『恐れ』だ」と。 自分の資源や能力のなさに、私たちは無理だと思います。 しかし、その奥には主に信頼しきれない恐れと不信仰があります。 旧約の民も、相手の体格や武力を自分と比較して恐れました。主のみこころは、すっかり抜け落ちていました。 主がともにおられる、恐れてはならない、と励ますリーダー、また私たち自身でありたいと思います。 祈り:神様、私の不信仰と恐れを悔い改めます。 「あなたのみこころなら」という信仰と信頼に立てますように。アーメン

民数記9-11

通読: 民数記9-11、マルコ5:1-20  「雲が長い間、幕屋の上にとどまるときには、イスラエルの子らは主への務めを守って、旅立たなかった。また、雲がわずかの間しか幕屋の上にとどまらないことがあっても、彼らは主の命により宿営し、主の命により旅立った。 ...二日でも、一月でも、あるいは一年でも、雲が幕屋の上にとどまって、去らなければ、イスラエルの子らは宿営を続けて旅立たなかった。しかし、雲が上ったときは旅立った。」民数記 9:19-20,22 民がいかに戦いに備えていったかがわかります。 主は軍の長、その号令に従って行動するよう、訓練されていきました。 雲で示される出発と待機の印に、理屈でなく従順に従いました。 それが敵に対して強くなる秘訣でした。 私たちは、主の「待て」のサインにどれだけ従えるでしょうか。 つい不安になり、自分の感覚で動きたくなります。 しかし、主の導きこそ、敵に立ち向かう最善の方法です。 焦らず、待機という戦術を学びましょう。 祈り:神様、あなたが確かな導きをしてくださいます。私の肉の焦りから解放してください。主と共に一歩高い信仰の世界に入れてください。アーメン

民数記7-8

通読: 民数記7-8、マルコ4:21-41   「モーセは、主と語るために会見の天幕に入ると、あかしの箱の上にある『宥めの蓋』の上から、すなわち二つのケルビムの間から、彼に語られる御声を聞いた。主は彼に語られた。」民数記 7:89 「主と語る」というのは、自分だけが話すのではありません。 モーセのように「御声を聞い」ていくことが大切です。 もし、自分の声と思いが邪魔をしてしまうことがあるなら、御声を聞くどんな工夫ができるでしょうか。 祈り:神様、あなたに聞くことができますように。みことばやメッセージを通し、心に響く語りかけを通し、また信仰者の交わりを通し、主の語りかけを聞いていきたいです。アーメン

民数記4-6

通読: 民数記4-6、マルコ4:1-20  「彼らは主の命により、モーセを通して任じられ、それぞれその奉仕とその運ぶ物を受け持った。主がモーセに命じた、主によって登録された者たちである。」民数記4:49 4章では会見の天幕で奉仕をする人たちについて、 5章では償いの規定と、不貞の罪かどうかの判断(罪がなければ心配はいらない)、 6章ではナジル人の聖別、そしてアロンの祝福の祈り が記されています。今の礼拝にも、同じ要素が含まれています。 4章では、天幕でそれぞれの役割を果たしたことに、礼拝や教会でのさまざまな役割により、ともにキリストのからだを建て上げる姿を覚えます。 5章からは、礼拝での悔い改めと、罪の大きさを考えさせられます。もし責められるところがなければ、安心していられます。 キリストがすべての罪を償から解放してくださった恵みを改めて思います。 6章の祈りは、今も祝祷で読まれ祈られています。 祈り:神様、それぞれがからだの部分として、教会を建て上げるよう召されていることを受け取ります。不完全な者が、キリストの恵みによって罪を赦され、祝福を受ける者とされたことを感謝します。アーメン

民数記1-3

通読: 民数記1-3、マルコ3   「さて、モーセとアロンは、これら指名された者たちを伴い、 第二の月の一日に全会衆を召集した。そこで氏族ごと、一族ごとに、二十歳以上の者の名を一人ひとり数えて、その家族表で本人を確認した。 主がモーセに命じられたように、モーセはシナイの荒野で彼らを登録した。」民数記1:17~19 ニッキー・ガンベルは、自らのデボーションガイドの中で、旧約の各書を次のように描写しています(意訳)。 「...出エジプト記で、神の民は解放された人々として表されました。レビ記では聖なる人々として表されました。民数記では戦いに備える力として表されています。 ...イエス・キリストというレンズを通して読むとき、クリスチャン生活は霊的な戦いだと言えます。」 今日の箇所を読むと、民の数を数えたのは荒野ででした。 旅の目的地で落ち着いてからではなく、戦いの直前でもなく、道中でした。 「旅の最中では流動的ではありませんか」と言わず、神の命じられたタイミングでした。 霊的な備えも同じだと言えます。 周囲の状況が落ち着いてからではなく、戦いがいつ起こっても向かえるように、今備えを始めるのです。エペソ6章で、日々神の武具を身につけるように列挙されているとおりです。 民数記を通して、さらに霊的戦いへの備えを確認することを期待します。 祈り:神様、荒野で一人一人が数えられたように、。私もあなたの目に数えられていることを感謝します。霊的な攻撃は周囲からも、私自身の内面でもやってきます。個人も教会も、さらにみことばと神の霊に強められて歩めますように。アーメン

レビ記26-27

通読: レビ記26-27、マルコ2      「もし、あなたがたがわたしの掟に従って歩み、わたしの命令を守り、それらを行うなら、わたしは時にかなってあなたがたに雨を与える。それにより地は産物を出し、畑の木々はその実を結ぶ。...あなたがたは満ち足りるまでパンを食べ、安らかに自分たちの地に住む。また、わたしはその地に平和を与える。...」 レビ記 26:3、4、6 レビ記の煩雑(に思える)な決まりは何のためだったでしょうか。 今日の箇所を読むと、それは人の幸せのためだったとわかります。 聖書の神は、私たちを愛し恵みたいと思われる方です。 私たち人間を丁寧に創造され、扱ってくださるお方です。 下の規定も、今の社会制度でなじみのある原則です。 「イスラエルの子らに告げよ。人が人間の評価額にしたがって主に特別な誓願を立てるときには、その評価額を次のとおりにする。二十歳から六十歳までの男子なら、その評価額は聖所のシェケルで銀五十シェケル。...六十歳以上なら、男子の評価額は十五シェケル、女子は十シェケル。その人が落ちぶれていて評価額を払えないなら、その人を祭司の前に立たせ、祭司が彼の評価をする。...」レビ記 27:2-3,7-8 シルバーや子どもには負担が低く、また困窮している人には事情に合わせて額が決められます。 イエス・キリストが十字架にかかり、律法から解放してくださった今、レビ記の規定を私たちが文字通り守る必要はありません。 でも、そこに流れる原則と神の愛を学ぶことは現代でも大切だと言えます。 祈り:神様、なぜこのような命令が与えられたのかを知りました。創造主のデザインにかなって歩むことが幸せの秘訣です。みこころを歩めるよう、これからも導いてください。アーメン

レビ記25

通読: レビ記25、マルコ1:23-45 「あなたがたは五十年目を聖別し、国中のすべての住民に解放を宣言する。これはあなたがたのヨベルの年である。あなたがたはそれぞれ自分の所有地に帰り、それぞれ自分の家族のもとに帰る。」レビ記 25:10 50年目はヨベル(またはジュビリー Jubilee)の年です。 解放の宣言と安息の一年です。 耕作しない、借りが免除になるというのは、一方では感謝ですが、もう一方では信仰が試されます。 必要が満たされるのか。 これからやっていけるのか。 主への信頼が真に問われる時です。 狭山福音教会は50年、主の守りで歩んできました。 もう一度それを確認し、原点にかえって主への信頼を強くしましょう。そうして、次の歩みに踏み出しましょう。 祈り:神様、あなたの守りを感謝します。教会にも、私個人の歩みにも、主がともにいてくださいました。将来への漠然とした不安や不信仰を、主の足元におきます。導いてくださることを信じます。アーメン

レビ記23-24

通読: レビ記23-24、マルコ1:1-22  「最初の日に、あなたがたは自分たちのために、美しい木の実、なつめ椰子の葉と茂った木の大枝、また川辺の柳を取り、七日間、あなたがたの神、主の前で喜び楽しむ。」レビ記 23:40 今日の箇所を読むと、厳しいだけでない、多彩で豊かな主にある生活が旧約時代でさえ行われていたことがわかります。 儀式的なささげものや集会ではありませんでした。 七日間も「主の前で喜び楽しむ」ことがゆるされています。 キリストによって解放された私たちの信仰生活は、本来もっと自由と喜びに満ちているのだと思います。 礼拝や集会に参加することも、単なる儀式ではありません。 主の前で喜び楽しむ要素があります。 感謝総会も同じでした。主の守りと恵みを見る、「喜び楽しむ」時でした。 祈り:神様、あなたの守りと恵みに感謝します。あなたの前で喜び楽しむ機会が、いっそう与えられていることを覚えます。悔い改めゆるされた恵みをともに味わう、霊の家族を祝福してください。アーメン

レビ記21-22

通読:  レビ記21-22、マタイ28  「彼らは淫行で汚れている女を妻としてはならない。また夫から離縁された女を妻としてはならない。祭司は神に対して聖だからである。」レビ記 21:7 祭司への基準が続きます。 祭司は「あなたの神のパンを献げる(21:8)」 ために、聖別されていたからです。 一方で、後の預言者ホセアには不思議な召しが与えられました。 「…主はホセアに言われた。『行って、姦淫の女と姦淫の子らを引き取れ。この国は主に背を向け、淫行にふけっているからだ。』(ホセア1:2)」 どちらも、私たちもは遠い存在に思えます。 しかし、神様のきよさとあわれみとが私たちの思いや常識を越えたものだということを知ります。 よくわからないことはわからない、として読むことも、聖書を読む上での謙遜な態度です。 祈り:神様、あなたのみこころが理解できないことがあります。でも、あなたがきよく、同時にあわれみ深いよい方だと信じます。信仰を与え続けてください。アーメン

レビ記19-20

通読:  レビ記19-20、マタイ27:51-66 「あなたは復讐してはならない。あなたの民の人々に恨みを抱いてはならない。あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。わたしは主である。」レビ記19:18 イエス様は、重要な命令として「隣人を自分自身のように愛しなさい(ルカ10:27)」と言われました。 ささげものや食物規定はキリストの十字架で全うされました。 しかし、モラルに関するもので、新約聖書でも継続しているものは、時代を越えて適用されています。 老人への尊敬、寄留者への配慮(32-33節)も、隣人を愛することのあらわれです。 感謝総会が終わり、主の群れの歩みをふりかえりました。教会も、この原則を実践するときに祝福されます。 祈り:神様、私たちが愛されてきたことを確認しました。私たちに隣人を愛する心を与えてください。小さなことでも、あなたの愛を頂き実践できますように。アーメン

レビ記17-18

通読: レビ記17-18、マタイ27:27-50 「実に、肉のいのちは血の中にある。わたしは、祭壇の上であなたがたのたましいのために宥めを行うよう、これをあなたがたに与えた。いのちとして宥めを行うのは血である。」レビ記 17:11 定められたやり方で血をささげるようにとの規定です。 18章では、エジプトやカナンの乱れた風習に流されてはならないと教えられます。 「あの人もやっているから」「皆がしている、『普通』のことだ」という言い訳は通用しません。 今もSNSの誹謗中傷の書き込みや、学校のいじめに加担させようとする圧力があります。 しかし、人がどう思うかより、神がどう望まれるかにより関心を持つ生き方が、今日の私たちにも求められています。 祈り:神様、困難な時代です。SNSやAIの影響が大きい中、傷ついている人が多くいます。主の慰めと癒しを与えてください。 また、同調圧力に屈してしまわないよう、みことばを握り歩む勇気を私にも与えてください。アーメン