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11月, 2023の投稿を表示しています

エゼキエル47

「この川が流れて行くどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。この水が入ると、そこの水が良くなるからである。この川が入るところでは、すべてのものが生きる。」エゼキエル47:9 神殿の入り口を流れる水は、進むにつれて足首、膝、腰の深さになり、とうとう泳げるほどの川になりました(1~5節)。 そして、その水が流れるところでは「すべてのものが生きる」という情景がエゼキエルに見せられます(9節)。回復を象徴する光景です。 明日から12月です。アドベントが始まります。今年も1年を振り返る時期になりました。神様が生かしてくださった恵み、いのちと希望を与えてくださった恵みは何だったでしょうか。 喪失を体験して、何も考えられない人がいるかもしれません。旧約時代の人々もそうでした。今は先が見えないかもしれません。しかし、やがて、主が必ず希望を与えてくださる日が来ます。焦らず、気持ちをゆっくり整えて、主を待ち望みましょう。 祈り:神様、今年もここまで導いてくださり感謝します。今日は信仰の友である___さん、___さんを覚えてお祈りします。引き続きあなたが支え励ましてください。今年のクリスマスが、一層の慰めと希望をしみじみと感じる時になりますように。アーメン

エゼキエル46

「しかし、民衆が例祭の日に主の前に入るとき、北の門を通って礼拝に来る者は南の門を通って出て行き、南の門を通って入る者は北の門を通って出て行かなければならない。自分が入った門を通って帰ってはならない。その反対側から出て行かなければならない。」エゼキエル46:9 回復された神殿での、礼拝の方法が示されます。 今日の私たちは、キリストの十字架によって自由にされたので、もはや旧約時代のいけにえの規定や儀式にしばられることはありません。礼拝の意味合いも、儀式ではなく心を尽くすことが大切です。 それでも、私たちが礼拝をささげて帰る時には、異なる門から出るような思いでいたいのです。家族や仕事の悩みや重く不機嫌な心を引きずるのではありません。 神様に心を向け、賛美とみことばによって思いを新しくされて一週間の歩みを始めるのです。 祈り:神様、主日の礼拝も、日々の個人礼拝(デボーション)も大切にしたいです。儀式ではなく心からあなたを慕い求める時として、礼拝の恵みを味わうことができますように。信仰生活が豊かになり、日々霊的な食物、潤いを受け取ります。アーメン

エゼキエル45

「あなたがたが相続地としてその地をくじで分けるときは、その地から奉納地として聖なる区域を主に献げなければならない。その長さは二万五千キュビト、幅は一万キュビト。その全域は聖なる地である。」エゼキエル45:1 国を失った人々に、再び土地が回復されるという預言です。故郷に住む場所が与えられるという希望の内容です。 もっとも、土地は自分たちのためだけに使うのではありません。 11キロメートル×4.4キロメートルを、聖所と祭司のために取り分けなさいと命じられました。 それは礼拝する場所、主に出会う場所でした。そして、君主たちは隣接する土地に住みました。いつも聖所を意識しながら暮らす位置関係でした。 当時の土地に限らず、今日私たちがもっている物のすべては、神様から与えられ、託されているものです。 自分の利益だけのために取り込んでおくのは、あまりにも空しい考え方です。主に感謝をささげるために取り分け、周囲の人を潤すためにも取り分け、その残りで生活する時、本当に豊かな生活を送ることができます。 祈り:神様、私に今日も必要を与えてくださり感謝します。 「おおらかな人は豊かにされ、他人を潤す人は自分も潤される(箴言11:25)」 のように、主に喜んでささげ、他者を潤す者になれますように。アーメン

エゼキエル44

「祭司たちへのゆずりとなるのはこれである。わたしが彼らへのゆずりである。あなたがたはイスラエルの中で彼らに所有地を与えてはならない。わたしが彼らの所有である。」エゼキエル44:28 新しい神殿で祭司職が回復し、その規定と戒めが書かれています。 割り当て地についても、民数記18章、ヨシュア記13章等で出て来た先の祭司への規定と似た内容が書かれています。 祭司たちには一般の土地はありませんでした。けれども、神殿の周囲の場所にきちんと住む場所が与えられていました。彼らは神の恵みのうちに住まうことができました。そして、神の臨在をより近く、より明確に体験する日々を送りました。 主に従おうとして日々労苦し、励んでいる人たちがいます。さまざまな制約と厳しい環境の中、真摯に主に仕えようとする働き人やクリスチャンの兄弟姉妹がいます。主ご自身が守り、支え、ご自身の栄光をより一層体験させてくださいますように。 祈り:神様、信仰に立ち主に従う歩みのひとりひとりの歩みを、どうか支えてください。奮闘する働き人を励ましてください。また信仰者が反目でなく愛のうちにさらに祈り合うことができますように。日本中の教会が主の栄光を求めて今週も歩めますように。アーメン

エゼキエル43

「私が見た幻は、かつて主がこの町を滅ぼすために来たときに私が見た幻のようであり、またその幻は、かつて私がケバル川のほとりで見た幻のようでもあった。私はひれ伏した。」エゼキエル43:3 東向きの門で主の栄光が現れ、地がその栄光で輝きました。大水のとどろきのような音もしました(2節)。 栄光が東向の門を通って神殿に入って来たというのも、大水のように満ちて行く様子であったことがわかります(4節)。ただ光が差すのでなく、それは壮大だったでしょう。 エゼキエルは、かつての幻を思い出します。町の滅びる時の幻、そして召しを受けた時に見た幻(1章)のようでした。もう一度原点に戻る思いでした。 私たちも、救われた時、導かれた時、神様を信じた時を思い出すことで、何が真実かを思いだし、確信をいただくことができます。 試練の中で見いだした主の恵みと励ましが、主に導かれる人生の中での道標です。 祈り:神様、これまでにあなたが示してくださった恵みや励まし、霊的なあらわれを思い起こします。あなたがいつも真実な方であり、あなたに身を寄せる時が平安です。みこころに叶う歩みを、今週も導いてください。アーメン

エゼキエル42

「彼は私に言った。『聖域に面している北の部屋と南の部屋は、聖なる部屋であって、主に近づく祭司たちが最も聖なるささげ物を食する所である。彼らはそこに最も聖なるもの、すなわち、穀物のささげ物、罪のきよめのささげ物、代償のささげ物を置く。その場所は聖だからである。』」エゼキエル42:13 神殿の描写が続きます。今ならコンピュータグラフィックで3D画像を見るような説明です。サイズが明確に述べられています。 そんな中で、「聖なる部屋」が出てきます。主に近づく祭司たちが、最も聖なるささげ物を食べる場所です。 サイズと違って「聖なる」というのは、私たちの目には見えないものです。しかし、確かに霊的に「聖なる」ものが存在するということ、それが数学的、科学的な見えるものとともに並立しうることをこの章から学びます。 社会で働く人々が「パワースポット」といわれる場所に関心を持つのも、霊的な存在を求める根元的な願いなのかもしれません。 霊的に最も偉大で、最も素晴らしいお方が主イエス・キリスト、聖書の神様であることを、社会で働く人たちがもっともっと受けとれますように。 祈り:神様、日々頑張って働くビジネスマンや研究者、公務員、学生、自営・・・の方たちに、霊的に最も偉大な存在であるあなたを紹介したいです。仕事だけが人生の評価基準になりませんように。神様に愛されている存在としての自分を見いだすことができますように。さまざまなビジネスマン伝道を祝福してください。教会員の夫や妻が救われますように。アーメン

エゼキエル41

「ケルビムとなつめ椰子の木が彫刻してあった。なつめ椰子の木はケルビムとケルビムの間にあり、それぞれのケルビムには二つの顔があった。」エゼキエル41:18 神殿が丹念に製図され装飾されている様子が続きます。大切な場所であることが伝わってきます。 神殿の壁には、2つの顔を持つケルビム(天使)となつめ椰子の細かい図柄が彫刻されていました。 そういえば、「なつめ椰子」は子どものころにはあまりなじみがなく、ぼんやりと遠くアラビアン・ナイトの世界を思い描いていました。 ところが、最近は少し大きなスーパーに行くと、「デーツ」という名前で乾燥果実が売られています。遠い世界のものと思っていたのが自分の日常の範囲にあり、初めは驚きました。 世界が緊密につながっていることを感じました。 来年(2024年)の世界祈祷日で祈る地域はパレスチナで、何年も前から決まっていたようです。今年(2023年)は台湾でした。タイムリーな対象国に、神様が祈るように導いておられると感じます。 祈り:神様、私たちの周りでも、世界でも、日々いろんなことが起こります。ともしびの油を用意していた賢い娘たち(マタイ25章)のように、イエス・キリストが再び来られる日まで目を覚まして祈ることができるよう、今日も導いてください。 「ですから、目を覚ましていなさい。その日、その時をあなたがたは知らないのですから。(マタイ25:13)」 アーメン

エゼキエル40

「すなわち、神々しい幻のうちに私はイスラエルの地へ連れて行かれ、非常に高い山の上に降ろされた。その南の方に、町のようなものが造られていた。」エゼキエル40:2 捕囚25年目、エルサレム陥落14年目の日、まだ故郷が滅びた悲しみにある時に、主の霊がエゼキエルを「非常に高い山」に連れていきました。見ると、故郷に「町のようなもの」が造られていました。 そして、青銅のような姿の人が 「あなたの目で見、耳で聞き、わたしがあなたに見せるすべてのことを心に留めよ。わたしがあなたを連れて来たのは、あなたにこれを見せるためだ。あなたが見ることをみな、イスラエルの家に告げよ(4節)」と話しかけました。 ここから神殿の幻が続きます。周囲の様子も、聖所に近づく所も、詳細に記されています。数値まで記すことで、神のご計画の確かさが伝わってきます。 私たちの肉の目では見えなくても、霊の世界で進んでいることがあります。 「信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです(ヘブル11:1)」 祈り:神様、あなたのみこころが私たちの街、国になりますように。日本のリバイバルを期待します。信仰者が迫害されている国々が、主をほめたたえる国へと変えられますように。戦争や武力行使がやみ、平和がきますように。私たちの心に、どんな時でも主の平安を与えてください。アーメン

エゼキエル39

「わたしは二度と、わたしの顔を彼らから隠すことはない。わたしの霊をイスラエルの家の上に注ぐからである──神である主のことば。」エゼキエル39:29 国が滅び捕囚にあった人々にとっては、自らの罪ゆえとはいえ、神がどこにおられるのかと思えたでしょう。しかし、神はおられました。そして、回復の後の計画も持っておられました。 先の見えない試練や不安に教われた時、私たちも神がどこにおられるのか、どう導いていかれるのかと不安になります。でも神は変わらずにおられます。私たちの視点ではなく、神の視点で見ておられます。 そして「わたしの顔を隠すことはない」、「わたしの霊を注ぐ」と、今日の私たちにも語りかけてくださるのです。 エゼキエルは、さらに素晴らしい幻を見せられます。エゼキエル書のキーワード「彼らは、わたしが主であることを知る」という希望が、ますます迫ってくるでしょう。 祈り:神様、八方塞がりに思える時に、すでにあなたが大きな展望とご計画をすすめておられることを感謝します。喪失の痛みを覚える___さん、___さんに、主の語りかけと希望を今日も与えてください。導きを祈る___さん、___さんに、あなたの平安と希望が注がれますように。互いに祈りあう信仰者、教会として今日も歩みます。アーメン

エゼキエル38

「神である主はこう言う。その日には、おまえの心に様々なことが思い浮かぶ。おまえは悪巧みをめぐらして、」エゼキエル38:10 ゴグとマゴグが何を指すかについては諸説あります。連合軍を率いた力ある国が滅びていくさまや、大きな天災が起こるさまは、想像すると恐ろしくなります。 周囲だけでなく、心の中で起こることはもっと深刻だといえます。悪巧みや憤り、欲望などが戦争や争いの動機になっているとは言えないでしょうか。 神様には人の心がすべてわかっています。悪い思いも、良い思いも。 私たちが悔い改めるなら赦されます。 また、主のために純粋な思いですることは、神様がねぎらってくださいます。 各地の教会で、互いの人間関係が主にあって祝福され、悪魔に対抗し、福音を伝えるために一枚岩となれますように。 祈り:神様、私の心を探り、練りきよめてください。教会の兄姉のために、愛をもって祈り続けたいです。各地の教会を祝福し、守り、主の愛で強めてください。新しい方や離れていた方を喜んで迎え入れ、父なる神の愛を体現できますように。アーメン

エゼキエル37

そのとき、主は言われた。「息に預言せよ。人の子よ、預言してその息に言え。『神である主はこう言われる。息よ、四方から吹いて来い。この殺された者たちに吹きつけて、彼らを生き返らせよ。』」エゼキエル37:9 エゼキエル書が難しく感じるのは、急に場面が変化し、様々な光景が出てくるからかもしれません。 37章では、干からびた人骨が一面にある場所(2節)が出てきます。殺された人々の骨が満ちる場所へと、主の霊がエゼキエルを連れて行ったのでした。エゼキエル自身も驚いたかもしれません。 そしてエゼキエルは、死を生に、滅びを回復に変えてくださる主の預言をします。 生き返るだけではありません。そこに主が共に住んでくださるのです。 「わたしの住まいは彼らとともにあり、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる(27節)」という約束は、なんという希望でしょうか。 私たちの人生も、主がいのちを入れてくださり、回復を与えてくださり、何よりも共にいてくださることを知るとは、なんという幸いでしょうか。 祈り:神様、干からびた骨を生き返らせるように、あなたと共に歩む意味深い人生をくださり感謝します。生きることに疲れ果て、人生の意味を見失っている方々に、福音が届きますように。届けることができますように。アーメン

エゼキエル36

「あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を与える。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。」エゼキエル36:26 神の名を汚し偶像礼拝に陥っていた民を、神は見捨てたままにされませんでした。 さばきの後に回復があることが宣言されます。 固くていのちのない「石の心」を取り除き、柔らかくいのちのある「肉の心」を与える、と言われました。 同じ神様は、今日の私たちにも柔らかい砕かれた心、肉の心を与えることができる方です。神の前に自分の心を点検していただきましょう。頑固な心、不信仰やあきらめの心があるなら、造り変えていただきましょう。 祈り:神様、私の心を探り、石のように固い部分があるなら取り扱ってください。あなたが陶器師のように私の心を練り、新しくしてください。主の前に大切なこととそうでないことを見分け、あなたが与えた人生を、みこころに従って歩むことができますように。アーメン

エゼキエル35

「おまえは、イスラエルの家のゆずりの地が荒れ果てたことを喜んだが、わたしはおまえに同じようにする。セイルの山よ。おまえは荒れ果て、エドム全体もそうなる。そのとき彼らは、わたしが主であることを知る。」エゼキエル35:15 「セイルの山」はエドムの国の山です。 当時のイスラエルの王国が滅んだことを嘲り喜んだエドムが、自らも滅び荒れ果てるという宣告です。 聖書を読むと、神様は高ぶりや他者への虐げを嫌われることがわかります。逆境にある隣人を見て優越感にひたるのではなく、隣人に助けの手を差し伸べることが聖書的な態度です。 倒れている男性を助けたサマリヤ人(ルカ10章)のたとえもそうです。 私たちは今日、どなたに手を差し伸べることができるでしょうか。 祈り:神様、私を今日も生かしてくださり感謝します。苦境の中にある方、試練を通る方に力を与えてください。もしあなたが望まれるなら、主の愛で励ましの言葉、必要な助けを届けることができますように。アーメン

エゼキエル34

「わたしは失われたものを捜し、追いやられたものを連れ戻し、傷ついたものを介抱し、病気のものを力づける。肥えたものと強いものは根絶やしにする。わたしは正しいさばきをもって彼らを養う。」エゼキエル34:16 主ご自身が民を治めるという、羊飼いの姿が描写されます。 イエス・キリストは、「羊飼いのいない羊の群れのように、弱り果てて倒れていた(マタイ9:36)」群衆を見て、深くあわれまれました。 この世の思い煩いに、下を向いてうなだれる羊のような私たちです。しかし、主はそのような知恵の足りない羊を探し、救い出し、存在そのものを喜んでくださる方です。 主が守り養い、足りない者には知恵を与えてくださいます。 祈り:神様、失敗だらけ、間違いだらけの私をあわれんでください。あなたの力と恵みの豊かさに、羊のように憩います。アーメン

エゼキエル33

「人の子よ、わたしはあなたをイスラエルの家の見張りとした。あなたは、わたしの口からことばを聞くとき、わたしに代わって彼らに警告を与えよ。」エゼキエル33:7 見張りは、遠くから迫る危険をいち早く見つけ、コミュニティに知らせます。 当時は角笛を吹きならして警告したようです。 角笛の音を聞きながらある人が警告を聞き入れなければ、その人自身の責任です。 しかし、見張りが危険を知りながら角笛を吹き鳴らさず、町が攻められて被害者が出た場合、責任は見張りにあります(4~6節)。 預言者エゼキエルに、神様は霊的な見張りとしての使命を再確認されました。エゼキエルはその使命に立ちました。 私たち信仰者も、霊的な見張りとして神に喜ばれることと喜ばれないことを見分け、伝える使命があると思います。今日は様々な情報が飛び交い、人々は混乱しています。みことばと相容れないことも多くあります。節度をもって、しかしはっきりとそのことを伝える見張りでありたいと願います。 祈り:神様、見分ける力を与えてください。あなたが喜ばれないことについては近寄らず、線を引く勇気をください。聖書の基準が与えられて感謝します。情報過多の中でさ迷っている方々が、聖書という人生の指針があることに気づけますように。アーメン

エゼキエル32

「わたしが生ける者の地に恐怖をもたらしたので、ファラオとその大軍は、無割礼の者たちの間で、剣で刺し殺された者たちとともに横たわる──神である主のことば。」エゼキエル32:32 エジプトへの宣告の最後の部分には、「剣で刺し殺される」「恐怖」など、恐ろしいことばが並んでいます。 これを読んで、神様は残酷だと早合点しないようにと思います。そこに至るまでに警告が何度もありました。また、滅びの原因は神様ではなく人の罪にありました。 今日の戦争や、日本の歴史上にも、剣で刺し殺す戦いが幾度となくありました。そしてあろうことか、罪深い人間は、イエス・キリストでさえも十字架に釘で刺し通し、殺したのでした。 ところがそれが救済への道を開いたという、神の大きなご計画が動くこととなりました...考えれば考えるほど理解しがたい愛、神の方法です。 「すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように(エペソ3:19)。」 祈り:神様、あなたのはかりしれない愛と豊かさを感謝します。私はまだほんの一部分しか理解していません。ますます主に近く、主を知ることができますように。____のこともあなたのご計画と導きにゆだねます。アーメン

エゼキエル31

「それゆえ、神である主はこう言われる。『それが高くそびえ、こずえを051雲の中に伸ばし、その高さゆえにおごり高ぶったので、わたしはこれを、諸国のうちの力ある者の手に渡した。』」エゼキエル31:10~11 エデンの園にある木々までが羨む(9節)ようなレバノンの木も、高さゆえにおごり高ぶり、切り落とされます。 中東地方で「木」は権力を示す描写に用いられました。 ダニエル書では、ネブカドネツァル王が素晴らしい木として表されます。しかし、彼が高ぶった時に、ある期間理性が失われ、獣のようになりました(ダニエル4章)。それでも、神のあわれみによる回復が与えられ、ついに「今、私ネブカドネツァルは、天の王を賛美し、あがめ、ほめたたえる(ダニエル4:37)」と告白するに至りました。 神に与えられた賜物、才能、財産、環境などを正しく用いるとは、神に栄光を表すために用いることです。高ぶるのではなく、隠すのでもなく、正しい用い方ができますように。 祈り:神様、あなたが託してくださったものを正しく用いることができますように。高ぶることなく、しかし土に埋めて隠すことなく、教会での互いの賜物を喜び、用いて支えあうことができるよう導いてください。アーメン

エゼキエル30

「わたしがエジプトに火をつけ、これを助ける者たちがみな砕かれるとき、彼らは、わたしが主であることを知る。」エゼキエル30:8 エルサレム陥落の数ヵ月前に、エジプトも滅びました。主の警告が真実であることが明らかになりました。 主が 「エジプトに火をつけ、これを助ける者たちがみな砕かれるとき(8節)」 「エジプトにさばきを下すとき(19節)」 「エジプト人を諸国の間に散らし、国々に追いやるとき(26節)」 に、 「彼らは、わたしが主であることを知る」 とあります。 主が究極の支配者であり、すべてを治める方です。 神様よりもエジプトの戦力に頼っていた人の期待は打ち砕かれました。 神様の願いは「彼らが主を知ること」でした。 私たちが今日与えられている平和や社会制度は素晴らしいものです。しかし、それらの背後に主がおられるということを、どれほど意識しているでしょうか。 また、万一の時にも神がおられ導いてくださるという信頼を、どれほどおいているでしょうか。信仰を問われる思いです。 祈り:神様、あなたよりも人や人の作った制度に頼ることがありませんように。今与えられている恵みを、一つずつ数えて主に感謝できるように導いてください。アーメン

エゼキエル29

「その日、わたしはイスラエルの家のために、一つの角を生えさせる。そして、彼らの間であなたに口を開かせる。そのとき彼らは、わたしが主であることを知る。」エゼキエル29:21 エジプトへのさばきが宣言されます。40年間国が荒れ果てるというのは、出エジプトの時にイスラエルの民が荒野をさまよったのと同じ期間です。一世代が過ぎ、次の世代になるまで、という期間です。 それはさておき、21節ではイスラエルのために「一つの角」が生えるとあります。 詩篇132:17 「そこにわたしはダビデのために一つの角を生えさせる。わたしに油注がれた者のためにともしびを整える」 を想起させます。 他国への預言の中に、宝石のようにメシアの約束が散りばめられているのを覚えます。神のご計画とそこにある希望は、私たちにとってもまさに宝石のようです。 祈り:神様、あなたは良い方です。困難や問題として感じることの中に、あなたの良いご計画への備えがあることを信じます。悲しみの中にある___さん、___さんに主の光が感じられますように。私たちも、礼拝を通して主のもとに憩い、癒され、回復し、主とともに歩んでいきます。アーメン

エゼキエル28

「あなたの心は高ぶり、『私は神だ。 海の真ん中で神の座に着いている』と言った。 あなたは自分の心を神のように見なしたが、 あなたは人であって、神ではない。」えエゼキエル28:2 「人であって、神ではない」 頭ではわかっていても、いざという時に自分が神より先に動いてしまうことがあります。ツロの君主のような言葉は出さないかもしれません。わざとではないかもしれません。でも、不安が押し寄せて来たとき、パニックになったとき、心のままを言い、とっさに行動してしまう弱さがあります。 この弱さこそ、神にすがるしかないあわれな者であることを自覚します。 そして、弱さを神は決してないがしろにされません。むしろ、弱さのうちに働いてくださいます。何という幸いでしょうか。 今週の木曜集会で、また今週の牧師会で、同じみことばが語られました。味わいましょう。 第二コリント12:9 「しかし主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである』と言われました。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」 祈り:神様、どうしようもない弱い私を助けてください。あなたの恵みとあわれみに生かされています。___のことも、___のことも、あなたの御手で持ち運んでください。私の意識を、思いをあなたに向けます。聖霊様がおおってくださり、今日も歩みを導いてください。アーメン

エゼキエル27

「タルシシュ船がおまえの商品を運んだ。 おまえは大海のただ中で満ちあふれて、大いに栄えた。」エゼキエル27:25 ツロの滅亡と対象的に、栄えていた様子が描写されます。 当時、地理的に移動可能な南端はシェバ(アフリカ)、西端はタルシシュ(現在のスペイン)だったようです。地中海を経てスペインまで、貿易がさかんに行われていました。 預言者ヨナも、ニネヴェに行くのがいやでタルシシュ行きの船に乗りました(ヨナ1:3)。可能な限り遠い所まで主の目を逃れようとしたのでしょうか。 「大海のただ中で満ちあふれて」も、「大いに栄え」ても、主の御手はそれよりも強く偉大です。世界の果てまで行っても、そこに主はおられます。 その主は私たちに「あなたはどこにいるのか」と呼び掛けてくださる方です。失敗しても向きを変えて主を求める者には、再度機会を備えてくださる方です。方向を見失い、自暴自棄になる必要はないのだとわかります。 祈り:神様、世界のどこに行ってもあなたがおられることを感謝します。私の小さな頭や常識だけにとらわれることがないように助けてください。あなたがいつも私の前を進んでください。アーメン

エゼキエル26

「ツロは海の中の網干し場となる。 わたしが語ったからだ。 ──神である主のことば── ツロは諸国の餌食となり、それに属する沿岸側の町々も剣で滅ぼされる。 そのとき彼らは、わたしが主であることを知る。」エゼキエル26:5~6  ツロ(Tyle)はシドンと共に、地中海沿岸で栄えた国でした。しかし、北にバビロニア王国が興り、やがて滅ぼされます。 かつて主の民に向かって「あはは...私は豊かになり、エルサレムは廃墟となった」(2節)と嘲った国が、今度は海の中の網干し場のように、だだっ広い荒れた地となることが宣言されました。 世界各地で災害や戦乱が起こっています。自分と関係ない他人事だと流すのではなく、祈りに覚え、できることをしましょう。また、私たちが日々どれほど恵まれた平和な暮らしをしているのかを思い巡らし、感謝をささげましょう。 祈り:神様、今日も平和の中、衣食住が与えられていることに感謝します。災害や戦乱の___、___にいる人たちのために祈ります。思いを馳せ、祈りとささげ物を通して助け合い、主の愛がこの地に満ちていきますように。アーメン

エゼキエル25

「あなたはアンモン人に言え。『神である主のことばを聞け。神である主はこう言われる。わたしの聖所が冒されたとき、イスラエルの地が荒れ果てたとき、ユダの家が捕囚となって行ったとき、おまえは、あはは、と言って嘲った。」エゼキエル25:3 この章からは、周辺の国々へのさばきの宣言がされます。 聖書に「あはは」という言葉が出てくるのは、意外な感じがしませんか?私たちが「あはは」と笑うのは、突然に愉快なことを聞いて、深く考えず反応するときです。 一方で、ときには相手を見下すときに「あはは、ざまあみろ」とも使われたりします。聖書で「あはは」と使われているのは、敵が主や主の民をあざけり、見下し、揶揄するときです。 主なる神とそのみ思いを悟らず、主に愛される人々を見下げた諸国は、主のさばきを受けることになりました。 私たちも自分の態度を省みてみましょう。教会には、さまざまな人がいます。自分と違う個性や考えを持つ人を、「あの人は...」と見る思いがないでしょうか。神に愛されている兄弟姉妹に「あはは」と言うことがありませんように。 祈り:神様、あなたが愛されている兄弟姉妹の存在を感謝します。時にはぶつかり、時には意見が合わないことがあります。それでも、主が愛される者として互いに尊重し、祈り合い、赦し、建てあげる私たち、神の共同体となれますように。アーメン

エゼキエル24

「その朝、私は民に語ったが、夕方、私の妻が死んだ。翌朝、私は命じられたとおりにした。」エゼキエル24:18 エゼキエルは大切な妻を失いました。それは、やがてエルサレムを失う民へ、強烈なメッセージを伝えるためでした。 特別に召された預言者として、家族を葬ることを通してまで、神のメッセージを伝えました。気の毒なエゼキエル!と叫びたくなります。 しかし、今日も自分の大切な家族を母国に残し、あるいは危険な地域に伴って働く宣教師たちがいます。神の愛のメッセージを伝えるためにそうしています。 また、主に喜ばれる歩みをするために、自分の大切にしていたことを後回しにしたりささげたりして、主を見上げる人たちもいます。 今「あなたの心はどこにあるのか」と問われて「はい、主のもとにあります」と答えることができるでしょうか。 祈り:神様、信仰はファッションでも教養でもなく、私たちの生き方そのものであることを覚えます。命がけで福音を伝える人たちをお守りください。私も主を見上げて歩みたいです。身体はここにあっても、霊において同じ情熱を与えてください。アーメン

エゼキエル23

「あなたがたの淫らな行いの報いはあなたがたの上に下り、あなたがたは自分たちの偶像に対する罪責を負わなければならない。このとき、あなたがたは、わたしが神、主であることを知る。」」エゼキエル23:49 「淫らな行い」とは、まことの神様よりもエジプトの強そうな軍勢に頼った、イスラエルの間違った行動を指しています。 二人の女性、オホラとオホリバは北王国と南王国のことです。 主以外のものに頼るのは偶像礼拝であり、主にとっては浮気をされたようだということがわかります。 主が私たちを愛してくださっているのに、それ以外のものに頼ろうとしていないでしょうか。祈るより先に、誰かに相談したりスマホで検索したりしていないでしょうか。何よりもまず小さな画面の情報に頼るなら、スマホが偶像になることもありえます。私たちの小さな日常の行動パターンを見直してみましょう。 祈り:神様、あなた以上に頼りにするものがありませんように。 今あなたの導きと励ましを必要としている___さん、____さんに、そして私にも親しく語りかけ、み思いを教えてください。主を待ち望みます。アーメン

エゼキエル22

「この地を滅ぼすことがないように、わたしは、この地のために、わたしの前で石垣を築き、破れ口に立つ者を彼らの間に探し求めたが、見つからなかった。」エゼキエル22:30 最近、牧師館の玄関前の階段脇に、ひびが入っているのを見つけました。そのままにしておくと、雨のたびに隙間から水がはいり、崩れてしまうのではないかと気にかかっています。パテかセメントで埋めればよさそうですが、でこぼこしないよう、周囲とうまくなじませるには技術がいりそうです。 30節の「破れ口」とはそのような隙間やほころびている所です。放っておくと問題となります。隙間を埋めることが必要です。 そのように破れ口に立つ者を、主は求めておられました。神と民との間のとりなし手でした。しかし見つからなかったのでした。 信仰者は、破れ口に立つ者として召されています。地上の不条理や悲しみを、とりなしの祈りによって神に訴えます。 イエス・キリストはいのちをかけ、私たちを救うため神の前にとりなしてくださいました。完全な見本を見上げつつ、置かれた場所でとりなしの祈りをささげる者となれますように。 祈り:神様、この世には貧困や暴力、差別や犯罪などが数えきれないほどあります。私は特に____のこと、____のことについてとりなしの祈りをささげていきたいです。この願いをどうぞ聞いてください。また、今日私が主のために召されている行動を教えてください。アーメン

エゼキエル21

「人の子よ。エルサレムに顔を向け、聖所に向かって語りかけよ。イスラエルの地に向かって預言せよ。」エゼキエル21:2 エゼキエルに「預言せよ」と主が命じられる表現はよく出てきますが、「語りかけよ」というのは珍しいです。元々は「水のように滴らせる、流す」というニュアンスがあるそうです。 旧約聖書に18回出てくるそうで、「水、雨、はちみつ、香料、甘いぶどう酒」などを滴らせたり流したりすることに使われています。そして、「みことば」を流すことにも用いられています。 はちみつやぶどう酒、香料といった甘く貴重なものと「みことば」に同じ表現が用いられるのです。私たちにとって「みことば」は甘いでしょうか。もう一口、もう一口、と慕い求める者になれますように。 「それらは 金よりも 多くの純金よりも慕わしく 蜜よりも 蜜蜂の巣の滴りよりも甘い。(詩篇19:10)」 「あなたのみことばは 私の上あごになんと甘いことでしょう。 蜜よりも私の口に甘いのです。(詩篇119:103)」 祈り:神様、あなたのことばを慕い求める者になりたいです。聖書にはわかりにくいところが多くあります。でも、霊の目を開いてくださいと祈りながら聖霊様の助けで読むことができるように、主との楽しい交わりの時になるように導いてください。アーメン

エゼキエル20

「わたしが、あなたがたの悪しき生き方や、腐敗した行いによってでなく、ただわたしの名のためにあなたがたに報いるとき、イスラエルの家よ、あなたがたはわたしが主であることを知る──神である主のことば。』」エゼキエル20:44 イスラエルとパレスチナの紛争が続いています。 旧約聖書の時代に選ばれたイスラエルが今のイスラエルという国家と同じとはいえません。しかし同じ地方を巡って長年の紛争が続いているのは確かです。 旧約聖書には「あなたがたの父祖たちに与えると誓った地、イスラエルの地にあなたがたを導き入れる(42節)」とあります。ここだけ読めば、当然のようにイスラエルの土地を手にすることができそうです。 ただし、「あなたがたはそこで、自分の身を汚したすべての行いを思い起こし、自分たちの行ったすべての悪のゆえに、自分自身を嫌うようになる(43節)」が続いています。 土地を得て終わりではありません。罪人であることの自覚と心からの悔い改めに至ることが述べられています。土地を与えるのも「ただわたし(主)の名のために(44 節)」であることも宣言されています。 悔い改めとキリストの愛をもって謙遜にならない限り、根本的な解決は不可能に思えます。「戦争があるから愛の神ではない」というのは正しくありません。「人間の罪のゆえに戦争が起こる」のです。 祈り:神様、あなたは愛なる方です。しかし、人の罪が争いや憎しみを引き起こしています。私の心の中の憎しみ、怒り、腹立たしい気持ちも、自分ではどうしようもなく起こってきます。赦してください。あなたのあわれみと介入が、紛争地域にありますように。私たちの身近にある不和が、一日も早く解決しますように。アーメン

エゼキエル19

「『...火がその枝から出て、 その若枝と実を焼き尽くした。 もう、それには 王の杖となる強い枝がなくなった。』 これは悲しみの歌、哀歌となった。」エゼキエル19:14 今日の箇所は、「獅子」と表現される王権が没落し、国が滅んでしまった様子が嘆きの歌になっています。 私たちは繁栄や喜びを「良いこと」、衰退や嘆きを「良くないこと」と思いがちです。そして、なるべく「良くないこと」は隠しておき、表面に出さないようにしようとします。 しかし、聖書を読むと、嘆きや悲しみがそのまま表されている箇所が多くあります。詩篇もそうですし、今日の箇所もそうです。悲しんでもよいのだと学びます。 悲しみは、私たちを休止と静まりに導きます。神の前で思いめぐらし、明るいことばかりでは見えなかったものに気づかされます。地位や権力のある人には見えないものが見えます。十分悲しんだ人は、神により近く生きる者となれます。 祈り:神様、秋の季節と共に、今年あったことを思いめぐらしています。失ったもの、できなかったことが多くあります。寂しい気持ちにもなります。でも、あなたは私の悲しみをわかってくださる方です。また、どんな人の喪失の嘆きや悲しみをも理解してくださる方です。神であることの栄光を投げ捨て人となって来られ、いのちまで十字架で失ってくださったキリストの犠牲と愛を感謝します。アーメン

エゼキエル18

「わたしは、だれが死ぬのも喜ばない──神である主のことば──。だから立ち返って、生きよ。」エゼキエル18: 私たちは勧善懲悪のストーリーが大好きです。悪者がやっつけられて滅び、正義が勝つ...そんなハッピーエンドには胸がすっとします。 神様は義なる方で、最終的にご自身の正義を現されます。 しかし、私たちの短絡的な思いとは少し異なる見方をされます。悪者でさえも「立ち返って」つまり「悔い改めて」ほしいと思ってくださるというのです。 どんなに神を無視し、滅茶苦茶な生き方をしている者であっても、向きを変えて主の元に来るならば、赦しを与えるというのです。 救いに招かれていない人はいないと神様がおっしゃるなら、私たちがあきらめるのは早すぎますね。あの人も、この人も、キリストを礼拝し、キリストの弟子となっていく人物かもしれません。神様の愛のまなざしが注がれていることを感謝します。 祈り:神様、あなたの愛と招きの恵みを改めて覚えます。今、反抗期の子どもがいる人、家族や周囲から傷つけられた人、上司や同僚からひどい扱いを受けている人を覚えて励ましてください。そして、傷つける側の人たちが主の前にひれ伏し、悔い改め、主をあがめる日が来ますように。