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黙示録22

黙示録22、マラキ1〜4 「これらのことを証しする方が言われる。『しかり、わたしはすぐに来る。』アーメン。主イエスよ、来てください。」黙示録22:20 黙示録の書の終わりにあたって、ヨハネは祈りで締めくくっている。それは、主が見せてくださったことへの信頼と感謝、そして来るべきキリストの再臨への期待だった。恐ろしく思える描写も、主の御名を信じる者にとっては恐れる必要がない。同じ告白で終えたい。 「アーメン。主イエスよ、来てください。(マラナタ) 来る年も、あなたに期待します。」

黙示録21

黙示録21、ゼカリヤ13〜14 「私はまた、大きな声が御座から出て、こう言うのを聞いた。 「見よ、神の幕屋が人々とともにある。 神は人々とともに住み、人々は神の民となる。 神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。」黙示録21:3 聖書は私たちに希望と慰めを与えてくれる。知恵と戒めも多く書かれているが、それも神の愛から出ている。黙示録の戦いや恐ろしい場面ばかりに目が行きがちだが、聖書の最後が輝き希望に満ちた新しい都の描写で終わっていることがより重要だと思う。 神ご自身が共に住んで下さるから、都の中に神殿がない(22節)とも書かれている。太陽も月も不要なほど、いやそれ以上に神の栄光が都を明るくしている。 ゼカリヤ書でも、城壁のない町のことが預言されていた(ゼカリヤ2:4−5)。また、キリストを信じる者の全てが新しくされることが第2コリントに約束されていた(Ⅱコリント5:17)。その集大成のような、世界規模のみわざがなされるという約束、ここに向かって今年も歩んできた。 大きな問題でも、主の前には難しすぎることがない。その信仰が与えられるよう、信じる神の家族の間で分かち合い祈ってもらう恵みの機会は、今日すでに与えられている。

黙示録20

黙示録20、ゼカリヤ9〜12 「また私は多くの座を見た。それらの上に座っている者たちがいて、彼らにはさばきを行う権威が与えられた。また私は、イエスの証しと神のことばのゆえに首をはねられた人々のたましいを見た。彼らは獣もその像も拝まず、額にも手にも獣の刻印を受けていなかった。彼らは生き返って、キリストとともに千年の間、王として治めた。」黙示録20:4 天国には多くの座がある。定員はない。競争して天国の椅子取りをしなくても、キリストを主と信じる者は皆入ることができる。(異端の中には天国に定員があると述べ、行いを強制するものがあるが、聖書にはそう書かれていない。) 地上の生活では迫害や困難に遭い続けた信者たちがいる。「首を刎ねられた」という人々が、神のみもとで大きな権威とねぎらいを受けていることが書かれている。その時点で島流しという迫害を受けていたヨハネはどんなに慰められただろうか。当時の迫害下の教会、そして今のアフガンや北朝鮮の信者、日本の中で家族や会社で反対される信者たちの未来はこのようなものである。 目を天に向けて期待しよう。また、近くや遠くの、困難の中にあるクリスチャンのために祈ろう。

黙示録19

黙示録19、ゼカリヤ5〜8 「その後、私は、大群衆の大きな声のようなものが、天でこう言うのを聞いた。 『ハレルヤ。 救いと栄光と力は私たちの神のもの。』」黙示録19:1 19章に入ると、神をほめたたえる声がいっそう大きくなる。 「ハレルヤ(主をほめたたえよ)」という言葉は、旧約聖書の詩篇では馴染みのある言葉である。しかし、新約聖書の中ではたった4回、しかもその全てがこの19章に出てくる。 1節、3節、4節、6節での「ハレルヤ」は、究極の喜びと神への感謝の叫びであり、ただ主のみを礼拝している者の姿が浮かぶ。そこには人の顔色や身の周りの状況を恐れる様子はいっさい出てこない。 私たちの礼拝と神への姿勢は、まさにこのようなものであることを主は願っておられる。戦いも、裁きも、子羊なるイエス様が全て勝利された。私たちの力ではなく、そして私たちの心配や否定的な予測を超越した方によって勝利がもたらされるのである。今日勝利が必要な分野はどこか。御心ならば主が導いてくださる、その信仰を日々与えられますように。

黙示録18

黙示録18、ゼカリヤ1〜4 「その後、私は、もう一人の御使いが、大きな権威を持って天から下って来るのを見た。地はその栄光によって照らされた。」黙示録18:1 ひとりの天使の様子が冒頭に描かれている。彼は大きな権威を持ち、栄光に輝き(1節)、力強い声を持っていた(2節)。 素晴らしい姿だが、天使そのものは神ではない。権威も栄光も、主なる神ご自身から委託されて働いているのである。栄光は最終的には主にお返しするものである。高慢になり、それをしなかった天使は堕落し、サタンとして惑わすものになった(エゼキエル書参照)。 高ぶって神に栄光を帰さなかったサタンの末路は、黙示録に書かれている通りである。 人間でも同様である。賜物や権威を与えられた者は、主に栄光を帰さなければならない。自分のために用いてはならないのである。神の栄光のために、委託された資源や資格を十分に用いることを神は望まれる。多く与えられたものも、少なく与えられたものも、比較するよりそれを神のために用いることが御心である。 良い知らせ、神の希望を力強い声で叫ぶものでありたい。周囲に対しても、そして自分自身の心に対しても。

詩篇150

詩篇148−150、ハガイ1−2 「息のあるものはみな  主をほめたたえよ。  ハレルヤ。」詩篇150:6 主をほめたたえることが、全節で命じられている。中途半端な思いではなく、決意をして、意志でほめたたえるように招かれている。 礼拝で、どのようなスタイルでも、自分のベストを尽くしてほめたたえることである。あの人の賛美の姿勢が気になる、とか、歌う賛美の曲が気に入らない、とか言っている場合ではない、というのがこの紙片からわかる。主を愛するなら、そして主に救われているなら、タンバリンと踊りでダビデのように踊りながらほめたたえる、あるいはシンバルでほめたたえることは、救われ、神を愛する者のすべきことである。 昨夜、背中にうっかり低温やけどをした。また、寝ている間に手の人差し指がなぜか切り傷を負っていた。痛みと不快な感覚で目を覚ましたが、それでも、「息のあるもの」である限り、主をほめたたえるようにと招かれているのだという事実を確認しつつ、この文章を書いている。 共に、主をほめたたえよう。自分の持てる全てを持って、褒め称えよう。礼拝の賛美も、自分のベストを神の前にささげよう。誰が何を言おうと、ダビデのように賛美しよう。

詩篇148

詩篇148−150、ゼパニヤ1−3 「若い男よ 若い女よ。   年老いた者と幼い者よ。   主の御名をほめたたえよ。   主の御名だけがあがめられる。  その威光が 地と天の上で。」詩篇148:12−13 146篇からハレルヤ詩篇が続く。148篇の前半は天にあるもの、後半は地にあるもの全てが主をほめたたえよ、という箇所である。 もう高齢だから、まだ小さいから、礼拝ができないというのは間違いだとわかる。スタイルは異なるかもしれないが、それぞれの最善を尽くして礼拝することはできる。数年前に大人も子どもも一緒の礼拝を、という本を読んだ。同じ礼拝の中で、神の家族として集められている恵みを知ることができる。まさに、この詩篇も同じ情景である。人だけでなく、天にあるもの、地にあるもの、造られたもの全てが神と共に喜び楽しみ、神をほめたたえる。不満や不足は横に置いて、神の恵みと救いの喜びを、このクリスマスに、また年末年始に確認しようではないか。福音とは、私たち一人ひとりにとって、何であるか。どういう意味を持っているか。

黙示録17

黙示録17、ハバクク1−3 「それから、御使いは私を御霊によって荒野へ連れて行った。私は、一人の女が緋色の獣に乗っているのを見た。その獣は神を冒瀆する名で満ちていて、七つの頭と十本の角を持っていた。」黙示録17:3 恐ろしく思える描写が続くのだが、キリストを信じる者は恐れる必要がないことを改めて思う章でもある。というのも、ヨハネは神の霊である御霊が彼とともにいてくださるのを確認するからである。 御使いが、御霊によって彼を荒野に連れて行った。荒野はさびれた場所、獣のいる場所、危険な場所である。ひとりでは行きたくない場所だ。しかし、時に神様は私たちを荒野にいざなわれる。それは、私たちを訓練し、ご自身のみこころを示し、普段の生活や知性では見ることのできないものを見せるためである。 快適な暮らしでは体験できない訓練と信仰の成長のために、神様は荒野に行こうと言われる。そして、荒野で、私たちはひとりではない。親しく主ご自身が共にいてくださるのだ。

黙示録16

黙示録16、ナホム1−3 「─見よ、わたしは盗人のように来る。裸で歩き回って、恥ずかしい姿を人々に見られることのないように、目を覚まして衣を着ている者は幸いである─」黙示録16:15 恐ろしい災害の様子が描写される16章の中で、キリストのことばが15節で聞こえる。それは、恐ろしい内容ではなく、「幸いな人」とはどのような人かを教えてくれるものである。地上で教えて下さった時、山上で人々を前に「心の貧しい者は幸いです…」 (マタイ5章3〜12節)と教えてくださったのと同じように、変わらないキリストが語りかけて下さっているのだ。 私たちは地上の出来事にうろたえ、パニックになり、疲れ、諦めて絶望してしまう弱い者である。しかし、「目を覚ましていなさい」と励ましてくださる方が今日もおられるのである。 どのくらい、この方に信頼しているか。口からは不平や不満が出てきそうになるが、舌も裸で野放しではなく、「目を覚まして衣を着て」キリストを待つことができたら幸いである。 ひどく思える状態は長く続くものではなく、やがて『成就した」(17節)となるのである。忍耐が、試されている。                                            

黙示録15

黙示録15、ミカ6−7 「主よ、あなたを恐れず、 御名をあがめない者がいるでしょうか。 あなただけが聖なる方です。 すべての国々の民は来て、 あなたの御前にひれ伏します。 あなたの正しいさばきが 明らかにされたからです。」黙示録15:4 7つの災害を怖がるだけではなく、その中で主の御名があがめられること、ほめたたえられていることを覚えたい。 神殿が神の栄光と御力からの煙で満たされたというのも、ソロモンが神殿を献上した時と類似している(8節)。神のご栄光は当時も、そして最後の時も変わらないことがわかる。 黙示録の災害や戦いの場面が怖くて、なかなか読めないという声を聞く。私自身もそうであった。しかし、SF映画のような場面だけでなく、それを許し、御心のままになさる神様の深い愛と限りない力を覚える時、描写の背後にある神の壮大なご計画をほめたたえたいと思わされる。神のご栄光は変わらない。そして、信じる者を守ってくださることも変わらない。恐れるものは何もないのだ。

黙示録14

黙示録14、ミカ4−5 「また私は、もう一人の御使いが中天を飛ぶのを見た。彼は地に住む人々、すなわち、あらゆる国民、部族、言語、民族に宣べ伝えるために、永遠の福音を携えていた。」黙示録14:6 この箇所からも、神のみこころは全世界のあらゆる民族が福音を聞いて救われることだとわかる。福音は「永遠の福音」と書かれている。今日だけでなく、順調な時だけでなく、永遠に続く、永遠の良い知らせである。そして、将来のことだけでもない。私たちの人生に希望を与え、今すでに働いている良い知らせでもある。 死ぬ間際になったら信仰告白をする、と話す人がいる。もちろん、人生のどの段階でキリストを信じても、永遠のいのちは与えられる。しかし、死ぬ間際にタイミング良く信仰を持つことができるとは限らない。今日、事故や事件で突然死んでしまう可能性もゼロではないのだ。さらに、福音が死んでからのものではなく、今生きている日々に関係があるものだとすれば、福音を受け入れるのは1日でも早い穂が良い。なぜなら、キリストと共に歩む人生は、キリスト抜きで歩む人生とは質が違うものだからである。決心するなら、早い方が良い。そしてその決心は、後悔することがない。

黙示録13

黙示録13、ミカ1−3 「耳のある者は聞きなさい。  捕らわれの身になるべき者は 捕らわれ、 剣で殺されるべき者は 剣で殺される。 ここに、聖徒たちの忍耐と信仰が必要である。」黙示録13:9〜10 クリスチャンたちが順風満帆で苦労をしないのではなく、苦労続きになり命を失う場合もある。しかし、黙示録13章は忍耐と信仰を働かせるようにと励ましている。現に、7つの教会、あるいは各地の主の教会は迫害の中にあった。それでも、神を信頼し崇め続けた。 忍耐と信仰を働かせるには、神の驚くべき力に信頼し、良いプランー計画を信じる希望が必要である。私たちのちっぽけな頭では到達し得ないが、神にはその信仰や希望を与えてくださることができる 。それゆえに今日も生きていこうと思える。 年末近くなり、悲しい犯罪や自殺のニュースが入ってくる。その事件にまつわる苦悩はどれほどかと思う。もし、その人たちがイエスに出会っていたら、もう少し違った結果になったのではと心痛む。そして、福音が伝わるように、届けられるようにと祈るのである。

詩篇147

詩篇145−147、ヨナ1−4 「主は心の打ち砕かれた者を癒やし  彼らの傷を包まれる。」詩篇147:3 「心の打ち砕かれた(Brokenhearted)者」とは、バビロン捕囚で捕虜として引いていかれた者、残された者、あるいは帰還してエルサレムを再建しようとして反対者にあった者のような状況の人のことである。 聖書は昔の書物で終わらせるものではなく、今日も生きて力のある神のことばである。今も、家族が信仰に反対する人、教会を批判してある人が出ていき残された人、大変な状況に置かれた人など、同じように「心の打ち砕かれた者」がいる。 そして、同じ神様が癒やし、傷を包んでくださることにも変わりはない。その真実と約束を握って、今年のクリスマスを迎えようとしている。

詩篇145

詩篇145−147、オバデヤ 「主は倒れる者をみな支え   かがんでいる者をみな起こされます。   すべての目はあなたを待ち望んでいます。    あなたは 時にかなって   彼らに食物を与えられます。」詩篇145:14〜15 主は私たちに近くあられる。そして、わたしたちを助け引き上げてくださる。神の介入は私たちには遅く思えるが、時にかなって必要を与えられる。それは神が全てをご存知だからである。 なぜ苦難があるか。苦難自身は神が与えるものではないが、それを許されるのは、もしかすると神が私たちの手を取りたい、かがんでいる私たちの手を取って起こしてあげたい、と思ってくださるからかもしれない。

黙示録12

黙示録12、アモス7−9 「女は荒野に逃れた。そこには、千二百六十日の間、人々が彼女を養うようにと、神によって備えられた場所があった。」黙示録12:6 この荒野は、辛い試みの場所ではない。神が守りを与えるために備えて下さった安全な場所である。 預言者エリヤが荒野で休息したり、モーセがエジプトを逃れてミデヤンまで荒野を旅したり、イエス様が群衆から離れて寂しい所に退いて祈られたりと、荒野は神と出会い静まる大切な場所として記されている。 私たちの霊と心も、日々荒野に行く必要がある。荒野は日常から距離をとり、深呼吸し、神と出会い願いを述べ、神の声を聴き、リセットし、また日常に戻っていく作業をする場所である。特に敵の攻撃が激しい時(私の場合は陰口を言われたり批判されたりすることで心が落ち込みやすい)、「それは真実か?」「相手の品性が問題ではないのか?」「誇張されていないか?」と吟味する必要がある。陰口を伝える人が、一番問題があり、サタンの攻撃に圧倒されている場合が多い。だから、その人のために祈ることから始めるためにも、一度荒野に退いて神から祈ることをも教えていただくのである。

黙示録11

黙示録11、アモス4−6 「諸国の民は怒りました。  しかし、あなたの御怒りが来ました。  死者がさばかれる時、  あなたのしもべである預言者たちと聖徒たち、  御名を恐れる者たち、  小さい者にも大きい者にも  報いが与えられる時、  地を滅ぼす者たちが滅ぼされる時です。」黙示録11:18 神の裁きの時は、恐ろしいだけではない。これまで忠実に歩んできた者たちが報いを受ける時でもある。小さい者、大きい者、その働きの大きさは関係ない。ただ、主の御名を恐れる者であれば等しく平安と報いが与えられる。 主の裁きは恐ろしい。しかし、それは主を信じない者にとってであって、信じる者には栄光と平安の時である。 今も労苦の中にあって、信じる者、主に信頼する者にはこうした結末があることを信じたい。信じる者同士のトラブルであっても、そうでなくても、主が全てをご存知である。そして、私自身に必要なのは、その主に信頼し、主の御名を呼び求め続けることである。

黙示録10

黙示録10、アモス1−3 「私はその御使いのところに行き、『私にその小さな巻物を下さい』と言った。すると彼は言った。『それを取って食べてしまいなさい。それはあなたの腹には苦いが、あなたの口には蜜のように甘い。』」黙示録10:9 口に甘く、腹に苦いというのは、一見すると良いものが実は良くない結果を引き起こすというように受け取っていた。 しかし、スタディーバイブルの解説には「腹には苦い」というのは、来るべき裁きが到来し、災いが起こるからである。「口には甘い」というのは、神の目的が十分に実現されるからである、とある。 諸説あるだろうが、このように、自分の読み方が浅かったり歪んでいたりすることはよくある。 聖書の神を誤解している人、キリストを信じられない人はそのような面もあるのだと思う。 信仰者でも、神が良い方であること、全てを益に変えてくださる方だということを信じられない時がある。私もそうである。ベストを尽くしていたつもりなのに人からの批判、非難を受けるとしんどくなってしまい、意欲も喜びも失ってしまう。人の力でベストはない。それを自分の限界を超えて何かしているからこそしんどくなってしまうのかもしれない。元々8割の力でやっていれば、それはそうだ、と流せるのかもしれない。いや、所詮完全なことはできないし、人の反応も予測できないことがあるのだから、ただ神を見上げ、神のみに聞きながら進むのみである。また、被害妄想的な思いや焦る思い、取り返しがつかないと思う思いはサタンが持ってきていることを自覚したい。破滅に追い込むのは彼の常套手段である。

黙示録9

黙示録9、ヨエル1−3 「そして彼らは、地の草やどんな青草、どんな木にも害を加えてはならないが、額に神の印を持たない人たちには加えてよい、と言い渡された。」黙示録9:4 出エジプトの10の災いと同じく、神を知り神に祈る者には災いが与えられないことがわかる。 つまり、主のさばきに合わないのだ。 この患難のときにクリスチャンがどこにいるかは諸説ある。しかし、どの説に立っても。神が覚えていてくださること、神の支配の中で天変地異がここでは行われていることが読み取れる。恐れすぎず、怖がり過ぎず、日々の主の守りを確信して今日も歩みたい。

黙示録8

黙示録8、ホセア9−11 「香の煙は、聖徒たちの祈りとともに、御使いの手から神の御前に立ち上った。」黙示録8:4 黙示録の患難の記述の中でもほっとするのは、クリスチャンの祈りが神の前に覚えられていること、祈りが天国でも大切なものとして届いているということである。 神は私たちの祈りを決して軽視されない。祈りがどのような形式であれ、祈りによって神に届く叫び、願い、賛美、礼拝は香のように立ち上るのである。 人の声より神の声。人の言葉より、神の励ましと慰め。人との会話より、神との対話。

詩篇144

詩篇142-144、ホセア 「主よ 人とは何ものなのでしょう。  あなたがこれを知っておられるとは。  人の子とはいったい何ものなのでしょう。  あなたがこれを顧みられるとは。」詩篇144:3 私の存在は神の前にはちっぽけで、取るに足りないものだと感じる。私がいてもいなくても、変わりないのではないか。 その問いはダビデの問いでもあった。王であっても主の前には限りある、小さな存在だということを彼は自覚していた。 しかし、主はそんな私を忘れてはおられない。 私を知っておられ、顧みてくださるのだ。なぜ?神にとっての私の価値はほとんどないとも思える。私は神に何もお返しできないし、何もまともな働きができないから。 それでも神は私を愛し、尊い存在として認め続けていてくださる。不完全な私だが、感謝いっぱいに受け取り、その愛を流し出せるようにと祈る。

詩篇142

詩篇142−144、ホセア5−8 「私は御前に自分の嘆きを注ぎ出し  私の苦しみを御前に言い表します。」詩篇142:2 御前に嘆きを持っていくこと、誤解やトラブルの辛さも注ぎ出すことを、主は望んでおられる。 様々な牧会の困難も、また愛と知恵が乏しいことも、主の前に注ぎ出して求めることができる。 ある牧師が、「牧会は大変ですが、イエス様と一緒にするので大丈夫です」と言われていた。全くそうだと思う。イエス様としない限り、できない働きである。しかし、イエス様と共にする時、喜びと平安がやって来る。

黙示録7

黙示録7、ホセア1−4 「御座の中央におられる子羊が彼らを牧し、 いのちの水の泉に導かれる。 また、神は彼らの目から 涙をことごとくぬぐい取ってくださる。」黙示録7:17 天の国でクリスチャンをケアし導いてくれるのはキリストご自身である。そして、天の国がそうであるなら、地上でも同じく、キリスト自身が牧してくださるはずである。私が何かできなくても、あるいは十分にできなくても、キリストがなさることに期待する。 そして、自分自身のケアもキリストがしてくださる。少し前に、大変傷つくような言葉を投げかけられた。心が痛み、うつになりそうなほどだったが、その悪口と批判、鋭い言葉の陰には、相手自身の嘆きと怒りとストレスがあるのだと思った。たとえ本人が否定していても、それは明らかである。 そこに巻き込まれるのは、自分や家族を破滅に至らせようとするサタンの攻撃である。自分を確かに保つためには、キリストにあって痛みを癒やされ牧していただくことである。

黙示録6

黙示録6、ダニエル11−12 「すると、彼ら一人ひとりに白い衣が与えられた。そして、彼らのしもべ仲間で、彼らと同じように殺されようとしている兄弟たちの数が満ちるまで、もうしばらくの間、休んでいるように言い渡された。」黙示録6:11 神への信仰ゆえに迫害を受けて殺された人たちに、白い衣が与えられ、ねぎらわれていることがわかる。しかし、もうしばらく休むように命じられた。それは、まだ同じように死にまで従って殺される兄弟たちの数が満ちないからだった。 死にまで従う者か、あるいは相変わらず自己弁護して他者のせいにする者か。 太平洋戦争の時、戦犯とされた中に牧師がいた。アジアの人の虐殺に加担したというのだが、実際には逃げる手助けや慈善事業に関わっていたのだった。牢の中で初めは無実の罪への怒りだった。しかし、10年近く過ごす中で、アジアの人たちが同じ思いをしていることに気づき、自分の内面にある罪や加害者である日本人としての責任を感じ、恩赦の申請をしないで過ごしたというのである(のちに釈放)。 キリストを十字架につけた自分、福音を受け取りながらも人間関係でつまづく自分を思うときに、神の愛を受けながら肉の思いに支配される自分の弱さを思う。兄弟たちの目のちりに気づくが、自分の目のはりには気づかないのである。その状態で、死にまで従うことができるだろうか。 迫害の中にある兄姉を考えるとき、日常の中で長期間の介護や病気にある兄姉を思うとき、忍耐を尽くした人たちは天の国で白い衣を着せられるのだという神のねぎらいを思い起こし、尊敬と祈りを持って支えたい。

黙示録5

黙示録5、ダニエル8−10 「巻物を受け取ったとき、四つの生き物と二十四人の長老たちは子羊の前にひれ伏した。彼らはそれぞれ、竪琴と、香に満ちた金の鉢を持っていた。香は聖徒たちの祈りであった。」黙示録5:8 祈りが香となってたち上るとしたら、祈りはどれほど重要なものだろう。礼拝の要素として、賛美と祈りは外せない。神のことばを聴いたら、その応答として祈ること、それが天的な意味では非常に重要である。 祈りはよいことばかりでなく、心の痛みや辛さも神に申し上げてよいのだということが、詩篇のダビデの祈りからもわかる。大切なのは、肉的な、地上的な次元で祈りを留めずに、神に向かってささげ、神との関係で消化し解決へ導いていただくことである。一人で堂々巡りしていてはうつになることでも、神の方を向くときに大きな出口があることを確認し、忍耐できるのである。

黙示録4

黙示録4、ダニエル5−7 「たちまち私は御霊に捕らえられた。すると見よ。天に御座があり、その御座に着いている方がおられた。」黙示録4:2 ヨハネは御霊がおられること、彼を引き上げられたことをすぐに察知した。聖霊の存在を認めていただけでなく、聖霊が自分に働き、現実のものとして自分の状況を変える方であることを、ここでは当然のように書いている。 パウロもそうだった。第三の天を見たのだった。 今の私には、そこまでの肉体的にもインパクトを覚えるような体験がしょっちゅうあるわけではない。しかし、御霊がいつもおられ、サタンの攻撃をびくともしない私たちになって欲しいと願っておられる。否定的な思い、批判や苦い思いになる時、いじめられて深く傷ついた時に、御霊が内面で働いてくださっていること、すでに心に先住してくださっていることを思い出そう。他者のどんな言葉や態度も、私の心そのままを直接傷つけることはない。聖霊様が心にバリアを張ってくださっていて、どんな時も私の心を乱すことはない。 「だれが、私たちをキリストの愛から引き離すのですか。苦難ですか、苦悩ですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。…しかし、これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。」ローマ8:35、37

黙示録3

黙示録3、ダニエル3−4 「目を覚まし、死にかけている残りの者たちを力づけなさい。わたしは、あなたの行いがわたしの神の御前に完了したとは見ていない。」黙示録3:2 この地上で伝道できるのも、人に会えるのも、礼拝に来れるのも、永遠ではない。コロナウイルスで礼拝を持つことさえままならなくなってしまったが、礼拝はコミュニティであり、ともに捧げる群れであり、毎週集まることがどれほど価値あることかを痛感したことである。 年老いて天国が近くなった時、どのくらい礼拝に行ったことが懐かしく思い出されるかを思う。最後の時まで、神にあって本人も、周囲も、平安に過ごすことができればと願う。また、キリストが私の働きを「完了した」と認めてくださるまでは、ひたむきに、淡々と主の働きを続けたい。

詩篇141

詩篇139−141、ダニエル1−2 「主よ 私の口に見張りを置き  私の唇の戸を守ってください。」詩篇141:3 口を制することは至難のわざである。ヤコブ書にも出てくるが、舌を治めることのなんと難しいことか。クリスチャンになったからといって、この戦いが終わるわけではない。 神を褒め称えながらも、そのすぐ後で他者のことを悪く言ったり、教会への批判がくすぶったりすることがあるかもしれない。 神はそのこともご存知である。だから、「口に見張りを置いて唇の戸が守られるように」と祈らせてもくださる。 さらに口は祈るためについている。 「私の祈りが 御前への香として  手を上げる祈りが 夕べのささげ物として  立ち上りますように。」(2節) とあるように、祈りは神の前によい香りを放つ。それが口から出てくるという恵みも与えられている。 不満を神への祈りに、感謝を神への祈りに変えていこう。 人と人の間だけで口を使うのでは勿体ない。

詩篇139

詩篇139〜141、エゼキエル47−48 「神よ 私を探り 私の心を知ってください。    私を調べ 私の思い煩いを知ってください。   私のうちに 傷のついた道があるかないかを見て    私をとこしえの道に導いてください。」 詩篇139:23〜24 遠くから私の思いを読み取られる神(2節)は、どの人の心にも触れ、心を変えることのできる主である。自由意志を与えてくださってはいるが、状況や気づきを聖霊様が信じる者には注いでくださる。 まず自分自身が高潔で、主に喜ばれる思いを抱いて過ごしているだろうか。自分の品性が、聖書に照らしてふさわしいものだろうか。 主に聞き、主に正していただくことを、まず働き人から。そしてその姿勢が周囲に主の香りを放つ者となりたい。その秘訣は祈りの生活だと言える。

黙示録2

黙示録2、エゼキエル45−46 「だから、どこから落ちたのか思い起こし、悔い改めて初めの行いをしなさい。そうせず、悔い改めないなら、わたしはあなたのところに行って、あなたの燭台をその場所から取り除く。」黙示録2:5 エペソの教会は、労苦と忍耐、そして偽り者を見抜いた教会だった。主を愛し、主に従いたいという人たちが集う良い教会だった。疲れ果てることがない、耐え忍んだ教会だった。 しかし、初めの愛から落ちたことで叱責を受けている。 神がどれだけ、初めの愛を保つことを願っておられるかである。神に対して、また人に対して、初めの愛で接することを願っておられる。 神の叱責そのものは愛で満ちている。叱責と共に回復の道筋も書かれているのである。どこから落ちたのか思い起こすこと、悔い改めて初めの行いをすることで回復できることを教えてくれているのが5節である。 旧約聖書も、神の警告と回復が書かれている。警告に早く従えば従うほど、神の回復もスムーズである。教会の中でもし初めの愛で接することのできない人がいるなら、今日祈り和解することができる。また、神に対しての愛が冷えているなら、今日祈り新たな愛で満たしていただくことができるのである。 神の回復、神の解決は万全で、しかも万事を益としてくださることを覚える。

黙示録1

黙示録1、エゼキエル42−44 「あなたがわたしの右手に見た七つの星と、七つの金の燭台の、秘められた意味について。七つの星は七つの教会の御使いたち、七つの燭台は七つの教会である。」黙示録1:20 七つの燭台を七つの教会の象徴として、キリストがヨハネに見せてくださった。まず、燭台がキリストの右手にあったことに、教会をキリストがいつも見守り抱いてくださることを知る。 そして、燭台はろうそくの光を入れる器具である。光はもちろんキリストの光、その光を輝かせるのが教会である。教会自体に栄光があるのではなく、教会の頭であるキリストが輝いておられるのである。 燭台がもしろうそくを入れることなしに置かれていたら、ただのくすんだ器である。キリストがおられるからこそ、教会は教会としての機能を果たす。そして本来の働きを全うすることができるのである。キリストの光が輝いているなら、燭台の古さや安っぽさはあっまり問題ではない。私たちの器がどのような材質であったとしても、光が素晴らしければ素晴らしく用いられる可能性を秘めている。

ユダ

ユダ、エゼキエル40−41 「しかし、愛する者たち。あなたがたは自分たちの最も聖なる信仰の上に、自分自身を築き上げなさい。聖霊によって祈りなさい。」ユダ 20節 聖霊によって祈らない限り、信仰は知的なものにと留まり、祈りには力がない。異言を使うかどうかではなく、信仰そのものが聖霊を認め、聖霊の働きに期待するかにかかっている。 最も聖なる信仰とは、肉のことでなく霊のことを考える。神の目で、神の価値観に立つことである。 神が導いてくださるのでなければ、どんな働きもむなしく、自分の限られた力の範囲に終わってしまう。そうではなく、聖霊の力と神の働きに委ねることである。

Ⅲヨハネ

Ⅲヨハネ、エゼキエル37−39 「愛する者よ。あなたのたましいが幸いを得ているように、あなたがすべての点で幸いを得、また健康であるように祈ります。」Ⅲヨハネ 2節 来訪する教師たちをもてなすようにとの勧めを、パウロは書き送った。現代の私たちで言えば、教会へのゲストや宣教師に対する態度であろうか。 信者である兄弟たちの、しかもよそから来た人たちのための働きを忠実に行なっているガイオをパウロはほめている(5節)。 そして、そうすることで真理のために働く同労者となれると言っている(8節)。 それならば、宣教師やゲスト、働き人を受け入れ、協力する私たちも同労者となれるということである。外国に行ったり巡回したりしていなくても、同じ働きを担っているということである。 大きな励ましである。宣教が出ていく人だけの働きではなく迎える人にとっても、外国だけでなく日本にいても、同じ価値のある働きなのだから、歳をとっても、コロナで行けなくても、励んでいこう。

Ⅱヨハネ

Ⅱヨハネ、エゼキエル35−36 「御父から私たちが受けた命令のとおりに、真理のうちを歩んでいる人たちが、あなたの子どもたちの中にいるのを知って、私は大いに喜んでいます。」Ⅱヨハネ 4節 福音を伝えてそれを受け入れ、キリストの愛を知った霊の子どもが、真理のキリストのうちを歩んでいるのを知るとは、どんなに嬉しいことだろうか。洗礼を受けてからのクリスチャン生活の平均が3年とも囁かれるが、せっかくの愛を3年で離れてしまうとはどんなに勿体無いことかと思う。十字架を無駄にしてほしくないし、キリストの愛を軽く考えることのないようにと願う。 ところで、自分自身はどうだろうか。当然のように考えていないか。また、せっかくのプレゼントを自分だけのものにしていないか。愛の神のように、もっと気前よく、そしてもっと純粋な心で、キリストを分かち合う者となっていきたい。

詩篇138

詩篇136−138、エゼキエル33−34 「私が呼んだその日に あなたは私に答え  私のたましいに力を与えて強くされました。」詩篇138:3 神がどれほど誠実に愛してくださり、私に同じまなざしを注いでくださっているかを示している。 私たちはその愛を十分に受け取っているだろうか。偏った部分だけしか見えなかったり、鈍感になっていたりしないだろうか。 すぐに見える効果がなければ愛されていないと思っていないか。御利益宗教の神ではないことをよく理解する必要がある。神はすぐに見える利益を与えて終わりではない。そこに至る対話、コミュニケーション、そして私たちの視点の変革をも願っておられるのである。 それはちょうど、父が子どもを一つ一つ丁寧に訓練されるように、あるいは家族として団欒を楽しんでくださるようなものである。 この醍醐味を多くの方が体験されますように。

詩篇136

詩篇136−138、エゼキエル30−32 「…主の恵みはとこしえまで。」詩篇136:1〜26 26回も、「主の恵みはとこしえまで」と言う。主のわざ、なさったこと、素晴らしさの一つ一つが主の恵みによる。そしてその恵みが尽きないこと、ずっと続くことが歌われている。 さっと読むにはあまりにも大きく重い内容ではないか。 なぜ恵みが尽きないのか。なぜ神がこれほどまでに私たちによくしてくださるのか。それなのに、なぜ私たちは気づかず、神の思いに応えようとしないのか。 牧師は教会のトップではなく、むしろ番犬(シェパード犬)のように羊飼いなるイエス様の元で群れと共にいる。あるいは、羊の一匹かもしれない。その中で誰か羊が反抗して違う道に行こうとも、止めても聞かない時がある。人間的には悲しいが、神がそれを許されているなら、じっと見送り帰りを待つことも大切である。 また、何から何まで自分の責任だと思わなくても良い。神様がせよと言われたことをして、あとはじっくり群れ全体を見守ることが委ねられているのだから。群れ全体に気を配ること、気をつけていることであり、自分自身もキリストの望まれる方向から外れないように、心を見張ることである。

Ⅰヨハネ5

Ⅰヨハネ5、エゼキエル27−29 「神から生まれたものはみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。」Ⅰヨハネ5:4 世への勝利とは、世の罪深い生活パターンへの勝利であり、神に従って歩むことである。私たちは新生し、聖霊様が私たちの中に住んでくださり、神に従う力をくださるからそれが可能になる。 ヨハネは2つの面での勝利を語っている。一つは信仰により世から神の方へと向きを変えること、もう一つは日々信仰生活を送って継続的に歩むこと、である。 こんなに素晴らしい約束をもらい、聖霊の確証をいただいたのだから、振り返らずに歩んでいこう。そして、神の真実さをあかししよう。それは言葉でなくとも、例えばきれいな花を植えて被造物を通し神の栄光を表すことや、心を込めて家事をして家族が喜び神を崇めるようにすることも含まれる。 忙しい1日が始まるが、丁寧な暮らしの中に神を崇め祈り心になる余白がいっぱい詰まっているのだと思う。

Ⅰヨハネ4

Ⅰヨハネ4、エゼキエル24−26 「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。恐れには罰が伴い、恐れる者は、愛において全きものとなっていないのです。」Ⅰヨハネ4:18 愛に根ざさないクリスチャン生活、牧会、奉仕は動機の確認が必要である。中でも恐れに動機付けられた場合には、自分の心が自分になんと語っているかを吟味し、神のことばとの違いを見分けなければならない。自分がどう思われるか、ちゃんとしなければという心からでは、今日の聖句によれば「全き愛」に根ざしていないということである。 全き愛に根ざすとは、キリストの目、キリストの心をいただいて相手に接することだと思う。それはただ、何も忠告しないというのではない。相手の徳を高め、信仰を励ますために、時には教え戒めること。そして、丁寧に説明すること。相手にとって何が一番良いかを祈ることだと思う。 神様、どうか忍耐と柔和を与えてください。

Ⅰヨハネ3

Ⅰヨハネ3、エゼキエル22−23 「キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに愛が分かったのです。ですから、私たちも兄弟のために、いのちを捨てるべきです。」Ⅰヨハネ3:16 ある無宗教の人が、「宗教は、本来何かを売りつけるものではない。いろんな教祖がいるが、皆自分の収入、生活を優先している。もし信者が困っている時に、自分の財を投げうって助けてくれるような人が教祖なら、その宗教は確かだ。海外旅行に行けないと言った時、これで行っておいでと旅費を出してくれるなら、その宗教は確かだ」というような意味のことを言っていた。 ああ、この人が聖書に書かれていることを知ったらなあと思った。 キリストは神のあり方を捨てて地上に来られた。そして、ご自分のいのちを捨てるほどに、私たちのためによくしてくださった。これこそ信頼できる「宗教」、いやまことの「神」ではないか。 聖書の事実を知らないから、キリストの愛の深さを知らないから、日本の中には人生に迷い、人生の目的を見失っている人が多くいるのである。 世界第2の未伝国、日本。かたくなな心が柔らかくされ、種の蒔ける土壌になるようにと願う。

Ⅰヨハネ2

Ⅰヨハネ2、エゼキエル20−21 「さあ、子どもたち、キリストのうちにとどまりなさい。そうすれば、キリストが現れるとき、私たちは確信を持つことができ、来臨のときに御前で恥じることはありません。」Ⅰヨハネ2:28 恥ずかしがらず、確信と自信を持って再臨のキリストにお会いできるとは、なんという幸いかと思う。 幼いころは、再臨ですべてがなくなってしまうと思い、とても怖かった。家族も何もかもが取り去られてしまい、まだ見たことのない情景を見ないといけないということが恐ろしいと思ったのだ。 しかし実際は、キリストが来られる日は喜びと確信と幸せの時である。恐れさせるのではなく、もっと喜び安心と平安に満ちた瞬間であることを、私たち信じる者に与えられる光栄として語っていかねばならない。特に、子どもたちに。

Ⅰヨハネ1

Ⅰヨハネ1、エゼキエル18−19 「これらのことを書き送るのは、私たちの喜びが満ち溢れるためです。」Ⅰヨハネ1:4 ヨハネが手紙を書いた目的は、見たこと、聞いたことを伝え、小アジアのクリスチャンとキリストにある交わりを持つようになるためだった。 他のものと違うのは、いのちのことばであるキリストが、光であり、すべての罪から信じる者をきよめてくださるということである。 神道信仰、仏教信仰などが多くあるこの日本で、一つの神に決めるというのは偏狭な考え方と思われるかもしれない。しかし、もし求道する者たちが真剣に救いを求め、大きな存在を求めているとするならば、それはキリスト以外にないということを聖霊がわからせてくださるのである。 日本人の迷うところは一つに決めなければならないことだと思う。しかし、進路でも学校でも職場でも結婚でも、一つに決めることは必要である。多くの人が、二心でない信仰を持つことができたらと思う。

詩篇135

詩篇133−135、エゼキエル14−15 「主は望むところをことごとく行われる。  天と地で 海とすべての深淵で。」詩篇135:6 偶像の神々とは異なり、主は全てを造られた方でご自身が力ある神である。 天、地、海という大きな被造物を支配しておられ、どの空間でも働くことのできる方である。(NIV Study  Bible) その生きた偉大な神に私たちは仕えている。主の家で仕え、神の家の大庭で仕える者、主のしもべであるという誇りを持ち過ごすことができるのである。 先週、市内で交通事故があった。被害に遭われた80代の方はボランティア活動など地域の活動に献身的に関わられた方で、葬儀会場には「世話になった」と多くの方が集われたそうだ。 だとすれば、いのちを私たちのために自ら捨て、十字架にかかってくださったイエス様はどれほどだろうか。この国で、イエス様のもとにもっと多くの人が感謝と喜びを持って集まってほしいと思う。

Ⅱペテロ3

Ⅱペテロ3、エゼキエル11−13 「主は、ある人たちが遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」Ⅱペテロ3:9 神の介入がなぜ遅いのかと、不思議に思うことがある。迫害されている人を早く助けてくれたら良いのに、とか、悪者を懲らしめてくれたら良いのに、とか思う。しかし、それは神が冷たいからでもなく無関心だからでもない。かえって、その状況に忍耐しておられるというのである。 介護、病気、後遺症、障害、いろんな状況が日常にも起こる。教会は、こうした状況の中でも主にあって歩む。もっと言えば、クリスチャン一人一人が教会であり、主のはたらきをするように召されている。 牧師でなくなっても、引退しても、教会でありクリスチャンであることに変わりはない。その時に主につながり、福音を伝えていく方法をさまざまに与えられることを望む。

Ⅱペテロ2

Ⅱペテロ2、エゼキエル8−10 「その人たちに自由を約束しながら、自分自身は滅びの奴隷となっています。人は自分を打ち負かした人の奴隷となるのです。」Ⅱペテロ2:19 厳しい言葉である。しかし、人は自分を打ち負かした人の奴隷となるとは真実だ。 人生訓と良い人になるための訓練と称するグループに通っていた人がいた。実際は新興宗教、カルトであり、たくさんの健康グッズを買わされていた。そして、その製品を身につけていると体調が悪くなり、見た目もずっと老けて見え、腰は曲がり、回復できないようになっていた。イエス様に出会ってからも体に良いものだからと信じ続けていた。 しかしある時、これはイエス様に対する浮気だ、とはっと気づかれ、全てを処分した。すると、まさにその日以降、彼女に次々と助けが与えられ、生活の喜びが戻ってきた。見事にそのグループの罠から解放されたのだった。 クリスチャンであっても、お金や物質や名誉の奴隷となっている人がいる。それは自由ではなく、心が囚われ、平安を失う原因となる。 マタイ6:33のように、まず神の国を第一に求め、神の国のためにお金や力、心を使う人でありたい。

Ⅱペテロ1

Ⅱペテロ1、エゼキエル5−7 「だからこそ、あなたがたはあらゆる熱意を傾けて、信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。」Ⅱペテロ1:5−7 その結果は、キリストを知る点で役に立たない者とか実を結ばない者になることはない(8節)という。 どこまで熱意を傾けているだろうか。 徳も知識も自制も忍耐も敬虔も兄弟愛も愛も、信仰という根にねざしていなければただの道徳訓になってしまう。神様の願われるどんな美徳も、ヒューマニズムに貶められてしまうのである。 これは、心しなければならないところである。クリスチャンなので良心が鋭くなることはもちろんだが、親切な行為の動機が主への信仰から来ているのか、あるいは単なる正義感からなのか、見極める必要がある。

Ⅰペテロ5

Ⅰペテロ5、エゼキエル3−4 「割り当てられてる人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい。そうすれば、大牧者が現れるときに、あなたがたは、しぼむことのない栄光の冠をいただくことになります。」Ⅰペテロ5:3〜4 割り当てられたというのは機会的にではなく、神がみこころにしたがって委ね担当させてくださったということである。 牧会していると、自分の今の賜物と能力では難しく感じる人、意見が合わない人、時間を割いても成長がないかのように見える人がいる。心を尽くしても教会から離れる方もおられ、がっかりすることもある。しかし、どの人も神に愛され、神がこの教会に送られ、神の定める期間ともに歩んでいるのであり、その群れの中で仕えることが許されているのである、と考えると随分見方が違ってくる。 皆さんは尊敬を込めて「先生」と呼んでくださるが、私自身も教会員から学ぶことが多くある。社会の中でも、また介護や家事をする生活でも、忍耐強く信仰を保ち献身的にされている姿に、キリストの御心と信仰を教えられることもある。 主よ、もっとへりくだり仕えることを教えてください。兄姉を愛し、寛容で、教え戒め、建て上げ、仕えることができますように。

Ⅰペテロ4

Ⅰペテロ4、エゼキエル1−2 「さばきが神の家から始まる時が来ているからです。それが、まず私たちから始まるとすれば、神の福音に従わない者たちの結末はどうなるのでしょうか。」Ⅰペテロ4:17 裁きというと怖く苦しいイメージがあるが、クリスチャンにとってさばきは主にあって引き上げられ、労われ報われる希望さえも持つ。 特にペテロの手紙が書かれた当時のクリスチャンたちはローマ帝国から厳しい迫害に遭っていた。しかし、そのことゆえに福音がローマ全土に広がっていき、殉教するクリスチャンでさえも神の民を励まし大きなあかしを立てていった。何より信者にとっては、永遠のいのちが保障されている。しかし、信じない人たちにとっては、さばきの後は滅びである。

詩篇131

詩篇130−132、哀歌3−5 「イスラエルよ  今よりとこしえまで 主を待ち望め。」  詩篇131:3 別の聖書訳では「今も、とこしえも、どちらも」というふうに訳出されている。 心を治めること、そして神の許しのもとで自分の分を果たすことに集中しているダビデの決心が表されている。 ダビデほどの能力と権力のある人でも、及びもつかないこと、奇しいことがある。そして、王だからといってそうした自分の範囲外のことに首を突っ込んだり貪ったりしない、と彼は決心している。 同じように、私たちも興味や関心、そしてやりたいこと、成し遂げたいこと、関わりたいことは次々とやってくる。欲しいものもあげればキリがない。その中で、神がどの方向に召しておられ、何をして欲しいと願われているか、それを見極め神とともにすることが大切である。たましいを離れて心ここにあらずな行動、ミニストリーにならないように。何よりも神を離れて独りよがりな行動、ミニストリーにならないように。神ぬきのミニストリー、肉だけに頼る信仰にならないように。

詩篇130

詩篇130−132、哀歌1−2 「私のたましいは 夜回りが夜明けを  まことに 夜回りが夜明けを待つのにまさって    主を待ちます。 」詩篇130:6 警備をしている人は、無事に任務完了することが目標である。夜回りは夜明けまで危険なく守られるように働く。 朝日が上ってくるのがどれほど待ち遠しかっただろうか。 それほどまでに主を待ち望み、朝明けを待つように恋焦がれる情熱を持って主だけを仰ぎたい。他のものにより頼まず、キリスト一筋に歩んでいきたい。

Ⅰペテロ3

Ⅰペテロ3、エレミヤ51−52 「むしろ、心の中でキリストを主とし、聖なる方としなさい。あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでも、いつでも弁明できる用意をしていなさい。」Ⅰペテロ3:15 最近、聖書学校のあるコースに参加する機会があった。 あかしをしないクリスチャンは、アブラハム契約のトップライン(あなたは祝福される)だけで、そのボトムライン(あなたは国々の祝福となる)という流し出す必要性を見落としていると学んだ。 ボトムラインを遂行するには、いつも証ができる用意をしていることである。同時に、心の中でいつもキリストを主とし、聖なる方としなさい、と書かれている通り、キリストの心を我が心としたいという愛、キリストの弟子となることが重要である。 祝福を受けるだけというのは、流し出すことができず滞り、祝福が沈滞する。種も蒔けば収穫があるが、蒔かないで食べてしまうとそれっきりである。気前の良い神様の願いは、私たちも気前が良くなることである。

Ⅰペテロ2

Ⅰペテロ2、エレミヤ50 「聖書にこう書いてあるからです。  『見よ、わたしはシオンに、選ばれた石、  尊い要石を据える。  この方に信頼する者は  決して失望させられることがない。』」Ⅰペテロ2:6 キリストが要石であり、要石は動くことがない。位置を決め、基礎となり、全ての土台、始まりとなってくださるのである。 だから、キリストに信頼する者は失望させられることがない。 「キリストは昨日も今日も、いつまでも変わることがない」という約束が、信仰の揺るぎない保証を与えてくださっているのである。 たとえ教会の中のある人たちが揺らいでも、たとえミニストリーが行き詰まっても、キリストが変わらない方で、そのお方が許されるならば良しとしなければならない。私たちの歩みも、奉仕も、キリスト抜きでは空しく力ないものである。自分の力で頑張っているようなところがあれば、もう一度手放して祭壇に置こう。主から受け取ったことを淡々となしていこう。

Ⅰペテロ1

Ⅰペテロ1、エレミヤ48−49 「今しばらくの間、様々な試練の中で悲しまなければならないのですが、試練で試されたあなたがたの信仰は、火で精錬されてもなお朽ちていく金よりも高価であり、イエス・キリストが現れるとき、称賛と栄光と誉れをもたらします。」Ⅰペテロ1:6−7 試練は永遠ではなく、一時的なものである。しかし、その結果は素晴らしい信仰が生み出されていくのである。 これは個人的な試練にも当てはまるが、教会が通る試練にも同様だと思う。パンデミックの間や後、教会が直面した様々な変化や経緯にも神が働いてくださる。それはちょうど、一時的な精錬所の過程を経て質の良い金が作られていくかのようである。 初代教会の純粋な信仰に戻り、キリストの愛に戻り、律法的なあるいは人間的な縛りから自由になること。時には教会の歴史で作られた決まりを見直し、主が望んでおられることがどうかの検討もする。今、そうした時期に差し掛かっているのかもしれない。

ヤコブ5

ヤコブ5、エレミヤ46−47 「あなたがたも耐え忍びなさい。心を強くしなさい。主が来られる時が近づいているからです。」ヤコブ5:8 繰り返し繰り返し、忍耐することを語っているのがこの5章である。ただ我慢せよというのではなく、忍耐する人の例が挙げられている。 10節では、主の御名によって語った預言者たちを模範にせよ、と。語っても民が繰り返し主に反逆し、涙ながらに語った預言者。預言が成就するまで長い時間がかかり、嘘つき呼ばわりされた預言者。 11節ではヨブが挙げられる。苦しみ続きで、なぜかもわからないまま苦闘するヨブ。最後には神の回復があった。 7節では、農夫の例が出されている。大地の実りを収穫するためには、初めの雨や後の雨を待たねばならなかった。10、11月が初めの雨、3、4月が後の雨の時期である。その間はじっと待つのである。 同じように、私たちも主の来られることを確信し、耐え忍ぶようにと勧められている。特に、心を強くして耐え忍ぶこと。ふらふらせず、主の御顔と御心を求め続けていくこと。Yes、Noについても祈り決断すること。確信を持ち、主にあって日々強められていくことを主は望まれている。

ヤコブ4

ヤコブ4、エレミヤ43−45 「あなたがたはむしろ、『主のみこころであれば、私たちは生きて、このこと、あるいは、あのことをしよう』と言うべきです。」ヤコブ4:15 明日のことはわからないから不安になるのではなく、「みこころのままに」と言って生きていく者になりたい。 それは行き当たりばったりではなく、神の手に守られ導かれる安全な日々である。 「主の御手に すがる日は いかに喜ばしき」という賛美がある。主の手に守られる日は最も安全、最も喜び、最も楽しいのである。 たとえハプニングが起こっても、それも主の御手のゆるしの中にあるという確信、主が助けてくださるという希望がある。 主と自分の関係がしっかりしていれば「隣人をさばく」(12節)ことも必要がなくなるし、比較することも不要になる。

詩篇129

詩篇127−129、エレミヤ40−42 「主は正しくあられ  悪しき者の綱を断ち切られた。」詩篇129:4 どんなに敵に苦しめられても、正しい主が最後には勝利をとって解放してくださる。それが私たちの生きる希望である。 自分の身の周りに、人だけでなく悪い影響を与えるものが存在することもある。時には、無意識のうちにそれに頼ってしまうものもある。頼るべきは主おひとりのみ、そのことを覚えて「神の国と神の義をまず第一に求めなさい。そうすれば、全て備えられる」というマタイ6:33をいつも口ずさむ必要がある。

詩篇127

詩篇127−129、エレミヤ37−39 「主が家を建てるのでなければ    建てる者の働きはむなしい。    主が町を守るのでなければ    守る者の見張りはむなしい。」詩篇127:1 どんなに華々しいことでも、素晴らしく思われることでも、主がなさるのでなければむなしい。つまり、霊的には重要性があまりないと、詩篇は言っている。2節にも続いて、どんなに朝から晩まで必死で働いたとしてもむなしいと言っている。 反対に、主は愛する者に眠りを与えてくださるという。怠けているのではなく、平安で急がず、慌てず、比較せず、主と自分との関係で生きている人の平安である。 スタディーバイブルには、良い収穫は人があくせく必死で働いた成果ではなく、神が祝福してくださった結果だ、と解説されている。 もし畑の作物でさえそうであるならば、私たちの霊的な働き、牧会や宣教は一層そうである。他のクリスチャンや教会に比べて秀でているとか盛んであるとか、目に見えるものは重要ではない。神に信頼し、神の教会であるという原点に立つこと。そこから、新しい神のわざを見ることができる。希望がある。燃え尽きないで進むことができる。焦って大切なことを見失わないようにしたい。

ヤコブ3

ヤコブ3、エレミヤ34-36 「しかし、上からの知恵は、まず第一に清いものです。それから、平和で、優しく、協調性があり、あわれみと良い実に満ち、偏見がなく、偽善もありません。」ヤコブ3:17 多くの助言の中でも、高ぶることと舌の言葉に注意することとが強調されている。牧師や働き人はへりくだる姿勢で仕えること、教師であっても覚悟をして仕えることがわかる。 また、舌は休むことのない悪で、死の毒で満ちている(8節)とあるように、舌は危険な刃物のようなものである。日々、聖霊の助けを願って舌や発言、メールの表現などを見張っていくことが求められている。 主よ、どうぞ今日一日、発する言葉、書く言葉、舌を制御できますように導いてください。他の人を傷つけることがないように。言葉足らずで誤解を招いて苦みが生じることから守ってください。また、私自身が傷つけられ、痛みを感じているところも癒してください。イエス・キリストの名によってお祈りします。アーメン

ヤコブ2

ヤコブ2、エレミヤ32−33 「からだが霊を欠いては死んでいるのと同じように、信仰も行いを欠いては死んでいるのです。」ヤコブ2:26 ヤコブ書は行いを強調し、「ただ信じるだけで救われる」という神の摂理に逆行する、という議論があったそうである。時には「藁の書物」と揶揄されたそうだ。しかし、ヤコブ書の主張はそうではない。救いは信じるだけだが、真に救われているなら行いの伴う信仰が与えられ、育ってくるということが言いたいのだ。 それはちょうど、からだが霊を持たなければ生ける屍であるのと同様である、とたとえている。内実がいのちある、生きた信仰のあかしだとイオ追うのである。 口先だけで立派なことや批判をし、実が伴わない人がいる。イエス・キリストが弟子を派遣し、自らも日々わざをなされたことを思い出そう。私たちも派遣されている。それは実際の生活での信仰の行いを神様が願っておられるからである。

ヤコブ1

ヤコブ1、エレミヤ30−31 「試練に耐える人は幸いです。耐え抜いた人は、神を愛する者たちに約束された、いのちの冠を受けるからです。」ヤコブ1:12 ステパノの死後エルサレムから散らされたクリスチャンたちに向けて、ヤコブの手紙は書かれた。クリスチャンたちは各地に散らされ、そこで福音を宣べ伝えた(使徒8:2)。 行く先々で、素晴らしい宣教の広がりがあったかと思うと、厳しい迫害にさらされることもあっただろう。パウロが実際、宣教旅行で同じような状況に置かれている。 それでも、試練の中で神に信頼し続け耐えた人たちには、いのちの冠が用意されているという希望が宣言されている。実際、命を落とす人もいたが、それでも福音は広がっていった。彼らは天の故郷を目指して歩んでいたのだった。 現在も、世界のあちこちで命懸けの信仰者たちが多くいる。その具体的な人数はわからないし、どこにいるかも情報は届かない。しかし、神様には全てが明らかで、その人たちのためにいのちの冠が用意されている。 私たちも限りある人生で、どこにポイントが置かれているか、神様の招きと訓練を受け取り歩もう。

ヘブル13

ヘブル13、エレミヤ27−29 「永遠の契約の血による羊の大牧者、私たちの主イエスを、死者の中から導き出された平和の神が、あらゆる良いものをもって、あなたがたを整え、みこころを行わせてくださいますように。また、御前でみこころにかなうことを、イエス・キリストを通して、私たちのうちに行ってくださいますように…」ヘブル13:20−21 私たちが整えられ、みこころを行えるようにというのがパウロの祈りだった。成熟したクリスチャンに全ての人がなれれば、どれほど素晴らしいだろう、と思う。それをさせてくださるのは、平和の神ご自身であるという。 いくら言っても聞かない、助言を受け入れないという人にも出会うことがある。こちらは苛立ったり落胆したりする。しかし、神にあって、こうした人も変えられる。そして、苛立つ私自身の忍耐のなさも変えられるということを覚える。 今私自身に必要なのは、もっと大胆になること。人を恐れないこと。みこころと確信して行ったら批判を気にしすぎないこと。主のために働く人生を楽しむこと。自分が邪険にされていると被害意識を持たないこと。いつまでも水面下だとひがまないこと。そして、 「金銭を愛する生活をせずに、今持っているもので満足する」(5節)こと。お金を多く得ようとすることも貪欲だが、必要以上に支出を渋り、使いすぎないことも貪欲の危険性がある。なぜなら、必要を他者から得ようとしたり、いじましくなってしまったりするからである。 お金も持ち物も、全ては神様から来る。健康も、神が私たちに管理を委ねたものだと知れば、適度な健康志向に留まるのである。  

ヘブル12

ヘブル12、エレミヤ24−26 「あなたがたは、罪人たちの、ご自分に対するこのよな反抗を耐え忍ばれた方のことを考えなさい。あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないようにするためです。」ヘブル12:3 イエス様は、恥をものともせず十字架にかかってくださった。それは、神の右に着座できるという、前にある喜びを見つめていたからだった(2節)。 前を見つめたイエス様の姿勢に倣えば、私たちも前を見つめて、自分の前に置かれている競争を、忍耐強く走り続けよう、と思える(1節)。 SNSやインターネットニュースのコメントには、小さなニュースごとに膨大な書き込みがなされる。批判的なもの、中傷なども含まれている。誰もが勝手気ままに、そして遠慮なく公に批判しクレームを言える世の中になっている。 しかし、ヘブル書は、心が元気を失い、疲れ果ててしまわないように、と言っている。そのポイントは、イエス様だけに焦点を合わせ、イエス様のことだけを考える、ということである。

詩篇125

詩篇124−126、エレミヤ22−23 「主に信頼する人々はシオンの山のようだ。  揺るぐことなく とこしえにながらえる。  エルサレムを山々が取り囲んでいるように  主は御民を 今よりとこしえまでも囲まれる。」詩篇125:1-2 1節では、信仰者を山にたとえている。山のように動かず、振り回されず、安定して平安と揺るぎない確信を持ち続ける者とされている。 2節では逆に主ご自身を守りの山々にたとえている。ゼカリヤ2:5ではエルサレムは…城壁のない町のようになる。わたしがそれを取り巻く火の城壁となる。わたしがそのただ中で栄光となる」と述べられている。町を守る城壁のように、主ご自身が山々のように囲み危険やわなから守ってくださるのである。 都上りの時に歌われたのだから、坂を登ったり山を越えたりする時、この歌は現実味をもっていただろう。 私たちが都上りをするとは、礼拝を捧げることである。誰かが来なくても、気がかりがあっても、もし礼拝に重要なゲストや久しぶりの旧友が来るならば、楽しみでワクワクしているので、問題は気にならない。もしそのゲストがイエス様だったとしたら…、もちろん、小さな問題は気にならず、イエス様が来られるよ!とそのことで嬉しく、心がいっぱいになるだろう。 ところが、現実に、毎回の礼拝にはイエス様がおられるのだ。だから、もっとワクワクして、喜んで、イエス様をお迎えし、イエス様はどう思われるか、喜ばれるか、そこに焦点を合わせれば良いのだ。つい忘れがちで人を見てしまいそうな礼拝、その原点を忘れないようにしよう。

詩篇124

詩篇124-126、エレミヤ20−21 「私たちの助けは  天地を造られた主の御名にある。」詩篇124:8 「もしも主が私たちの味方でなかったら」どうなっていただろうか、ということにダビデは思いを馳せている。 戦いには敗れ、災害は起こり、国は滅びていただろう、という。 王であったダビデは、自分の功績ではなく神が全てを治め救い出してくださった方だと告白している。 6−8節では、自分の栄誉でなく神の栄光をほめたたえている。 自分がどれだけ一生懸命苦労して行った奉仕、ミニストリーであっても、その背後には主の助けとご計画がある。だから、自分でなく主に栄光をお返しすること。また、同じように人知れず労苦している人をねぎらい励ますこと。感謝を表し、その人がさらに神様に対して励むことができるよう支えることが大切である。 SNSやネットの、あることないこと批判し叩くような者であってはならない。蛇のようにさといながらも、もっと愛に満ちた純粋な者であるように。

ヘブル11

ヘブル11、エレミヤ18−19 「彼らは信仰によって、国々を征服し、正しいことを行い、約束のものを手に入れ、獅子の口をふさぎ、火の勢いを消し、剣の刃を逃れ、弱い者なのに強くされ、戦いの勇士となり、他国の陣営を敗走させました。」ヘブル11:33−34 信仰の章と言われるヘブル11章で、信仰の人が列挙された後にこの聖句が置かれている。 賛美にもなっている聖句である。勇ましい記述が並んでいるが、後半に「弱い者なのに強くされ」とあるのに注目したい。 彼らが皆強い人ではなかった。かえって弱い人だったから神様の力が働いたことがわかる。強くしてくださるのは神、そして神の力によって勇敢な心と働きをさせてもらったのである。 次の35節からは、もっと素晴らしいよみがえりに預かるために、拷問を受け殺された人たちの様子が続く。この世は彼らにふさわしくなかったこと、天を見上げ続けたことが書かれている。 何よりも、信仰の人たちは、その信仰は素晴らしいが、約束されたものを地上で得たわけではないというのが興味深い。 願望や祈りが全て聞かれたわけではない。それでも、神が約束をしておられることに期待し、まだ見ないものを見るかのように生涯を終えたのである。 祈りが聞かれないから神はいない、と短絡的に言えないことが、この箇所からもよくわかる。それでも、私たちの気持ちや願いを神に申し上げ、神と対話し、神のみ思いに少しでも近づき、神に力をいただき、神に励まされて毎日を生きていくのである。神は関係を求めておられる。神は交わりを願ってくださっている。

ヘブル10

ヘブル10、エレミヤ15−17 「心に血が振りかけられて、邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われ、全き信仰をもって真心から神に近づこうではありませんか。」ヘブル10:22 神に近づくための4つの点が、この1節で表現されている。(参照:NIV  Study  Bible) 1 血が振りかけられて、邪悪な良心をきよめられた心 2 きよい水で洗われたからだ 3 全き信仰をもって 4 真心から このうち、2の「きよい水で洗われたからだ」は、キリストの血と水のバプテスマによる(マタイ28:19)。もちろん、水のバプテスマを受ける前の信仰告白でも救われてはいるが、バプテスマを受けることでいっそう確信と確証が出てくる。水の描写は、エゼキエル36:25でも出てくるが、洗いきよめであり回復である。 神の回復と真実のみわざ、そして深い愛が、私たち自身に注がれていることを覚える。 「約束してくださった方は真実な方」だから、動揺しなくてよいし、希望を告白し続けることができるのである。 今日与えられた聖書の約束は何か。また希望を告白し、不安になっても、心配になっても、聖書のことばを自分で何度も何度も黙想し、力をいただこう。

ヘブル9

ヘブル9、エレミヤ12−14 「まして、キリストが傷のないご自分を、とこしえの御霊によって神にお献げになったその血は、どれだけ私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者にすることでしょうか。」ヘブル9:14 「私たちの良心をきよめる」とはどういうことか、と思った。良心が研ぎ澄まされるのか。もちろん、キリストを信じた時から聖霊がともにいてくださるので、より気づきが与えられるだろう。 しかし、元々の意味は、原罪を持って生まれ、罪を犯した私たちの、その罪そのものが取り去られたことで良心がきよめられたということである。 死から解放された私たちは、肉の行いから離れ、霊なるものに目を向け、霊的な事柄に仕えることができるようになった。神を信じることなしには、霊的な良いものに目が開かれることはない。 また、神に委ねられることで、霊的なことに仕えることが許された。今日の24時間の多くを、肉のためでなく霊の務めのために割けるように。霊の働きに敏感な毎時を過ごせるように。

ヘブル8

ヘブル8、エレミヤ9−11 「この祭司たちは、天にあるものの写しと影に仕えています。それ絵は、モーセが幕屋を設営しようとしたときに、御告げを受けたとおりのものです。神は、『よく注意して、山であなたに示された型どおりに、すべてのものを作らなければならない』と言われました。」ヘブル8:5 旧約聖書で、幕屋や神殿の作り方や様子が事細かく描写され、指示されている。なぜ退屈な記述が続くのかとよく思ったものだった。 そして、その理由がここに記されている。 天にあるものの写し、つまりコピーを神が地上で見せてくださるためだったのだ。それは、より素晴らしいものが天国にあることを教えてくれるだけではない。地上で私たちがイメージを持ちやすくなり、さらには地上でもそのひな形、コピーがあってすでに神の国が味わえるのだということがわかる。 旧約時代の厳しそうに見える神像は、ここでもやはり愛の神ゆえだということを学ぶ。神の壮大な計画、深すぎる愛がここにもある。 私たちの人生にも、神の計画が反映するように。今日の歩みがみ心、神の思いにかないますように。

ヘブル7

ヘブル7、エレミヤ6−8 「したがってイエスは、いつも生きていて、彼らのためにとりなしをしておられるので、ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになります。」ヘブル7:25 大祭司イエスのしてくださることが書かれている。長い間、メルキゼデクがいったい何者か分からず、それゆえにヘブル書が難しく感じられた。 しかし、この章で大切なことは、メルキゼデクの正体ではなく、大祭司であるイエス様の働きが完全であり、尽きないことを把握することだ。 しかも、とりなしをしてくれる方である。だから「イエスの御名によって」祈る時、イエスの仲介を経て神に完全に祈りが届くのである。聖霊のとりなし、そして御子のとりなしがあるのだから、思いの丈を話しても大丈夫である。

詩篇123

詩篇120−123、エレミヤ3−5 「まことに しもべたちの目が主人の手に向けられ  仕える女の目が女主人の手に向けられるように  私たちの目は私たちの神 主に向けられています。  主が私たちをあわれんでくださるまで。」詩篇123:2 主人の行動にならい、主人の意向を知るため、使用人たちは目を向ける。主人から目を離さず見続ける。 仕える者とはそうである。 Ⅱテモテ2章に、次のようなことばがある。 Ⅱテモテ2:3キリスト・イエスの立派な兵士として、私と苦しみをともにしてください。  4 兵役についている人はだれも、日常生活のことに煩わされることはありません。ただ、兵を募った人を喜ばせようとします。  5 また、競技をする人も、規定にしたがって競技をしなければ栄冠を得ることはできません。  6 労苦している農夫こそ、最初に収穫の分け前にあずかるべきです。 兵を募った人は主人つまり神である。そこで私たちは競技者のように、また労苦する農夫のように、コツコツと働く。しかも、召しにかなうという喜びと満足を持ってである。

詩篇121

詩篇120-123、エレミヤ1-2 「主は あなたの足をよろけさせず  あなたを守る方は まどろむこともない。」詩篇121:3 祈りの答えがすぐにない時も、思ったように状況が進まない時も、主は眠っておられるのではない。祈りは確かに聞かれている。そのことを信じられるかが問われている。 宣教の働きをと願いながら、フルタイムの献身をと決意したにもかかわらず、道が閉ざされたような状況が長く続き、「奥さん」の立場で長年歩むことになった。しかも外で家計を支える働きをし、障害児を育て、とうとう燃え尽きたのだった。 それでも神の召しは無くなったのではなかった。燃え尽きた後で再び立ち上がるきっかけが与えられ、素晴らしいメンターが与えられ、英語のブラッシュアップをいやがおうでもする状況になり、さらに宣教の働きを深く知る機会が与えられ、教会でもフルタイムで働く環境が与えられ、さらに超教派のミニストリーにまで導かれ…、順風満帆ではなかったにせよ、もっと良きもの、もっと大きな広がりを神様が与えてくださった。 ただしそれは、私の自己実現のためではない。主の働きをするため、主により忠実に仕えるためである。主のご計画と宣教のミッションを、私に委ねられた分を果たして歩むためである。

ヘブル6

ヘブル6、イザヤ65~66 「私たちが持っているこの希望は、安全で確かな、たましいの錨のようなものであり、また幕の内側にまで入って行くものです。」ヘブル6:19 キリストにある希望は変わらない。ちょうど、安全で確かな、たましいの錨のようなものだと、この聖書の箇所は述べている。 パンデミックで一変した世界、人の動き、計画、学びのスタイルなど、そして政府や専門家でさえも予測のつきがたい感染の状況に、人の知恵の限界と私たちの及ばない力があることを覚える。今ちょうど日本は感染が不思議におさまっている。それもまた、人の予測を越えた状況である。 多くの愛する人が世界で感染し、命を落とした。大切な友人も多く感染したが、私たちのすべきことは神に叫び求め、私自身の高慢を悔い改め、とりなしの祈りができるように神の前にへりくだることだ。 聖書の中には、イスラエルの民の中での感染症についても書かれている。神がことばを発せられると感染がやんだことも書かれている。 今の状況が私たちの手に追えなくても、神の支配のうちにはある。 そして、自分の無力さを知り神の前に謙遜になることが、私たちの態度に必要なことだ。

ヘブル5

ヘブル5、イザヤ62ー64 「キリストは御子であられるのに、お受けになった様々な苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、ご自分に従うすべての人にとって永遠の救いの源となり、」 ヘブル5:8~9 ピリピ2章にも書かれている、キリストの謙遜と従順が、ここでも描かれている。しかもここでは、完全な者とされたこと、永遠の救いの源となられたことが加えて強調されている。 恥ずべき十字架にかかられた方が、完全に名誉を回復され、父なる神の右の座につかれ、そして大祭司として罪のあがないを成し遂げられたことの影響が全人類に及ぶ。 このことを、乳ではなく固い食物を食べることのできる大人の信仰者として受けとりたい。

ヘブル4

ヘブル4、イザヤ59ー61 「さて、私たちには、もろもろの天を通られた、神の子イエスという偉大な大祭司がおられるのですから、信仰の告白を堅く保とうではありませんか。」ヘブル4:14 偉大な大祭司イエスが、ヘブル書の中心的なテーマである。大祭司が完全な方で、自分のあがないのために捧げ物をする必要がないのなら、私たちは完全に大祭司の行為によってあがなわれている。 しかも、お高くとまっている大祭司ではない。ご自身が誘惑にあわれ、この地上での苦労を通られたので、私たちの弱さがどのようなものかも知っておられ、私たちと共に寄り添い、体験してくださった方である。 だから、子どもが大好きな担任の先生や親戚のおばさん、おじさんに飛び付くように、私たちも神の恵みの御座に近づくことができるのである。

ヘブル3

ヘブル3、イザヤ56~58 「しかしキリストは、御子として神の家を治めることに忠実でした。そして、私たちが神の家です。もし確信と、希望による誇りを持ち続けさえすれば、そうなのです。」ヘブル3:6  モーセは神の家のしもべ、家は私たち、家を造られたのは神ご自身、そして、キリストは神の家を治める方である。 1節では、私たちが天の召しにあずかっていることが述べられている。つまり、神とまみえ、神のみこころを行うことを共有し、参加できる恵みが与えられている。 日々雑事や疲れ、思い煩いはやってくる。しかし、神のくださるものは希望であり、栄光に満ちたものである。緊急ではないが重要なこと、いわゆる第二象限にくることを祈りながら日々できるように努めていきたい。

ヘブル2

ヘブル2、イザヤ53−55 「そのうえ神も、しるしと不思議と様々な力あるわざにより、また、みこころにしたがって聖霊が分け与えてくださる賜物によって、救いを証ししてくださいました。」ヘブル2:4 キリストが大祭司であることの説明が深められていくが、その前提として神が私たちに救いを示してくださったことが書かれている。本当に、いろいろな方法による。しるし、不思議なわざ(しかも力強い)、そして賜物(教え、異言、預言、あわれみなど...)を通して明らかにされるのである。 神様がこんなにも様々な方法を用いて愛と救いを提示してくださるなら、私も様々な方法を用いて神を礼拝し賛美しよう。あるときは聖書を読むことで。あるときは黙想することで。あるときは書き、話すことで。あるときは親切や誠実を示すことで。あるときは捧げることで。今日いただいている機会と賜物を見極め、神が導いておられる行動を神とともにしていくこと。それが神の愛に応える思いの現れである。

詩篇119(4)

詩篇119;89〜176、イザヤ50−52 「私は いつもいのちがけです。  それでも あなたのみおしえを忘れません。」詩篇119:109 命の危機にあっても、恐れや脅しがあっても、主の教えから離れることはない、という驚くべき信仰告白である。 「驚くべき」と書いたが、初代教会から今まで多くのクリスチャンがこのみことばの通りに一生を終えていった。迫害を受けても、福音のために犠牲を払っても、信仰を捨てなかった。 日本でも禁教時代があったし、戦時中も、また今日でも、家族や友人の反対やプレッシャーの中で信仰を守り続けている人がいる。どうかこの告白が私自身の告白となりますように。

詩篇119(3)

詩篇119;89−176、イザヤ47−49 「私の唇に  賛美が湧きあふれるようにしてください。  あなたが私に  あなたのおきてを教えてくださるからです。」詩篇119:171 「湧きあふれる(Overflow)」。口から出るものが、不平や不満、心配や動揺ではなく賛美だったら、どんなに素晴らしいことだろうか。 ヤコブ書には、口から出るものに賛美とのろいが挙げられている。同じ器官から使い方によって正反対のものが出力されることに、神様の与えた自由意志の素晴らしさと、それを管理することの難しさを感じる。

ヘブル1

ヘブル1、イザヤ45~46 「またこう言われました。  『主よ。   あなたははじめに地の基を据えられました。   天も、あなたの御手のわざです。』」ヘブル1:10 神ご自身が、キリストのことをこのように言われたというのが、驚きである。 申命記の中で神ご自身が言われたこと(ヤハウェ)を、そのまま御子であるキリストに当てはめて記述している。 またこの章は、恥と名誉の価値観を持つ、聖書が書かれた当時の文化に根ざして書かれている。日本人だけでなく、ヘブル人の持つ恥と名誉意識の中で、名誉とは血統や家柄によるものと、成し遂げた功績によるものとの2種類がある。その両方の名誉をキリストは持っておられるのである。

ピレモン

ピレモン、イザヤ43−44 「彼は、以前はあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにとっても私にとっても役に立つ者となっています。」ピレモン 11節 逃げ出してきたどうしようもない(と思える)オネシモを、パウロは諭して悔い改めに導き、主人ピレモンの所へ手紙をつけて帰らせようとしている。 ピレモンはきっと彼を許しただろうと想像する。いわば、パウロがオネシモの連帯保証人、身元引受人となったのだ。 それはピレモンが改心し、神の元に生まれ、新しい人となったからである。人が神にふれられ、聖霊に満たされるとき、確実に変化が起こる。他人を見るのでなく、神を仰ぎ見て歩む時、神はともにいてくださり、手をとって導いてくださる。 オネシモの変化は私の変化だろうか。私は主にあって、聖霊に満たされ変革された歩みをしているだろうか。古い人により頼み続けていないだろうか。

テトス3

テトス3、イザヤ41−42 「神は、私たちが行った義のわざによってではなく、ご自分のあわれみによって、聖霊による再生と刷新の洗いをもって、私たちを救ってくださいました。」テトス3:5 神のあわれみと愛のみで救われ、私たちが霊的に新しく生まれることと、その人のうちには聖霊が住まわれることとが福音の真髄である。 「刷新の洗い」、まさにリニューアルである。古い団地が、再生計画によってリノベーションされ、骨組みは同じでも内実が新築同様にされるというニュースを見るが、私たちも同じである。外の肉体はそのままでも、中身が新しくされ、聖霊が住んでくださる。ときに古い性質が邪魔をすることがあっても、再生プロジェクトの中にある私たちは聖化の段階でも日々少しずつ神によって少しずつリノベーション工事がされ、作り変えられていく。やがて主とお会いするとき、その聖化プロジェクトも完成するのである。

テトス2

テトス2、イザヤ39−40 「その恵みは、私たちが不敬虔とこの世の欲を捨て、今の世にあって、慎み深く、正しく、敬虔に生活し、祝福に満ちた望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるイエス・キリストの、栄光ある現れを待ち望むように教えています。」テトス2;12−13 英語版(NIV)では、前半が「不敬虔とこの世の欲に“No”と言う」と訳出されている。 日常では、自分で二者択一するよりも、向こうからやってくる誘いを断る方が難しい。しかし、この文脈では、私たちを取り囲むこの世の中の様々な思いを断ることができるように、というものである。 断ることが苦手である。いつも考えすぎ、堂々巡りをする。しかし、神は私を守るために断ることを勧めてくださる。

テトス1

テトス1、イザヤ37〜38 「教えにかなった信頼すべきみことばを、しっかりと守っていなければなりません。健全な教えをもって励ましたり、反対する人たちを戒めたりすることができるようになるためです。」テトス1:9 教会のリーダーにふさわしい者の資質、態度が6節から9せつには列挙されている。特に、みことばにしっかりとつながり、神の群れを牧し、ときには悪い外部の働きに対抗することも教えられている。 自分自身を振り返ると、この働きに到底ふさわしくないと思う。欠けだらけで不足だらけの自分が、どのように主に仕えることができるかと、がっかりするほどである。 互いを尊敬しあい、仕え合い、支え合うこと。そのところから神の栄光が現れることを思い、ますます謙遜な姿勢を学んでいきたい。

詩篇119(2)

詩篇119:89−176、イザヤ34−36 「あなたのみことばは 私の足のともしび  私の道の光です。」詩篇119:105 懐中電灯で照らす足元は、真っ暗な中で用水路に落ちたり木にぶつかったりする危険から守ってくれる。 倒れている人も発見できる。夜の捜索活動で投光器がなければ話にならないのと同じである。 それだけでなく、暗がりでは気づかなかった道端の花や置かれた装飾の美しさなどにも気づく。 私は、着陸前の滑走路の光が大好きだ。希望の光、私たちを迎えてくれる光のように見える。 聖書のことばは、ちょうどそのようなものである。足元を照らし、危険を知らせ、道を教え、希望を与えてくれる。 もっとチューインガムを噛むように、聖書のことばを思い巡らし、黙想し、一日中思い出せるように。不安や否定的な思いが来たときに、みことばで対応できるように。とっさの時の行動をみことばが支配してくれますように。

詩篇119 (1)

詩篇119:1〜88、イザヤ32−33 「私は地では旅人です。  あなたの仰せを私に隠さないでください。」詩篇119:19 地上では、枕もなく文化の理解者もない旅人である。しかし、詩人が頼りにしているのは主ご自身の声、主ご自身の教えとさとしである。この詩篇は、デボーショナル詩篇と言われ、神との交わりを詩に表したものである。 海外に一人で滞在するとき、異文化と言語の壁に全く一人ぼっちだと感じることがある。孤独で、自分の思いを十分に分かち合う人もいない。思いのたけを話してわかってもらえたら、どんなに良いかと思う。そして、帰国し我が家に帰ると、そこに本音を共有できる家族がいる。 神の前にも同じである。たとえ一人暮らしになっても、家族から遠く離れていても、神はすべてを知り耳を傾けてくださる方である。そして、聴く者には神が慰めと励ましを語ってくださる。 福音について、信仰について、周りの人が理解してくれなくても、自分のことをわかってくれなくても、神はわかってくださる。神との交わりは私たちのホームであり、私たちの憩いの場である。

Ⅱテモテ4

Ⅱテモテ4、イザヤ30−31 「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。忍耐の限りを尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。」Ⅱテモテ4:2 「時が良くても悪くても」を、社会の動きや自分の人間関係、コンディションと結びつけて解釈しやすいが、ここはさらに命がけの文脈でパウロは述べている。まさに、殺されようとしているところ、危うくライオンの前に生身で引き出されるところ、そしてもちろん投獄中だった。それでも、パウロの宣教への情熱は変わらなかった。 コロナの中でも、何ができるかできないかを考える。そして、自分の焦りではなく、神が与えた環境でできることを行うことを学んでいる。これまでの標準からは制限だらけのように思うが、神の働きと可能性は、獄中にいて身動きできないパウロによって進んでいたことを思う。今私たちにできる働きと、停止するように神が求めておられる働きを区別したい。

Ⅱテモテ3

Ⅱテモテ3、イザヤ28−29 「聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。神の人がすべての良い働きにふさわしく、十分に整えられた者となるためです。」Ⅱテモテ3:16−17 これまで、16節はよく覚えてきたが、その後に17節が続いていることに留意したい。16節の理由は、神の人つまり神に仕える人が、整えられるためであるというのである。 すべての良い働きにふさわしい、整えられた(equipped)者となるためには、聖書のことばをよく読み、自分のものにし、実践していくことであると、ここから教えられる。 聖書の原則を、文脈と背景によく照らし合わせて理解する。さらには、自分自身に聖霊が何と語っておられるかを、個人的なメッセージとして受け取る。その日々が、練達した働き人としての資質と成長をもたらし、少しずつ神に仕えるにふさわしい人物へと変えられていくのである。

Ⅱテモテ2

Ⅱテモテ2、イザヤ26−27 「キリスト・イエスの立派な兵士として、私と苦しみをともにしてください。兵役についている人はだれも、日常生活のことに煩わされることはありません。ただ、兵を募った人を喜ばせようとします。」Ⅱテモテ2:3−4 3−6節では、主に仕える者が「兵士」「競技者」「農夫」にたとえられている。どの人も、神の御心に従い、集中して自分の任務、目標を見据えている。神の戒めと導きに従い、そして神だけを喜ばせようとし、やがて祝福を受けるのである。 24−25節ではさらに、「主のしもべが争ってはいけません。むしろ、すべての人に優しくし、よく教え、よく忍耐し、反対する人たちを柔和に教え導きなさい」と姿勢について語られている。 これを、すべてのクリスチャンが主のしもべとして受けとるなら、どれほど福音が愛をもって分かち合われ、教会の中が愛で満ちるだろうか。もし今批判的な思いで苦しんでいる人がいるなら、まず自分自身からこの姿勢を始めてみて欲しい。周りや教会がそれで変わるなら恵み出し、目立って変わらなくてもあなたが誠実にこのみことばを実践するなら、農夫のように一番に収穫の恵みと祝福を得るのである。あきらめないで、失望しないで、主ご自身に期待していこう。

Ⅱテモテ1

Ⅱテモテ1、イザヤ23−25 「自分に委ねられた良いものを、私たちのうちに宿る聖霊によって守りなさい。」Ⅱテモテ1:14 「良いもの」とは福音である。福音が自分のための良いニュースだと悟らせてくださるのは聖霊であり、それを継続して守らせてくださるのも聖霊である。多くの人たちが離れていき、見えるところでは疑いが出てきそうなテモテと信者たちが、この福音から離れることがないようにとパウロは留意し励ましている。 福音は、ただ受けるだけではない。「委ねられた」とあるとおり、私たちを選び召してくださった神は、私たちが自分の特権に安住することだけでなく、他の人々とも分かち合うことを望んでおられる。その意味では、聖霊がともにいてくださる私たちは、聖霊の促しに敏感になり歩むことで、臆病から解放され、適切な、知恵を持ったやり方で分かち合う機会が与えられる。 人の反応ではなく、神が良いとされたら、受け入れられないように見えても必ず種がまかれている。その信仰も持ち続けたい。

Ⅰテモテ6

Ⅰテモテ6、イザヤ20−22 「テモテよ、委ねられたものを守りなさい。そして、俗悪な無駄話や、間違って『知識』と呼ばれている反対論を避けなさい。」Ⅰテモテ6:20 「委ねられたもの」とは「福音」のことだとスタディー・バイブルにはある。すなわち、福音を伝えること、分かち合うことは大切である。そしてそれ以上に、福音を自分自身が体験し、味わい、恵みに浸る経験を日々新しくしていくことが、分かち合うために必要だと思う。満たされることで、流し出すことができる。小さな工夫で、神の恵みを思い出しやすくすることができる。日記、スマホの待受画面などでも、福音と神が与えてくださった聖書箇所をメモしたり設定したりすることができる。 また、与えられた人間関係や奉仕も大切にはするが、全てを自分が完璧にしようとしても限界がある。ベストを尽くしつつ、召しのものに特に集中すること、それを見極め、他の人に任せたり委ねたりする知恵と寛容さも身につけていきたい。

詩篇118

詩篇117 ー118、イザヤ17−19 「主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。  その恵みはとこしえまで。」詩篇118:1、29 こう歌えた詩人は、その恵みの内容を詩の中で述べている。 特に、 5節 苦しみの中で答え助けてくださった主 6〜9節 味方である主、人を恐れる必要はない は、私たちの恐れるときの助けが神であり、一番の危機に頼れるお方であることをはっきり宣言している。 人を恐れ、人の反応や批判を気にする者にとって、目を向ける方向を変えることができるというのはなんと幸いなことか。そして、その方向には確かな助けがあるのである。

詩篇117

詩篇117−118、イザヤ14−16 「主の恵みは私たちに大きい。  主のまことはとこしえまで。  ハレルヤ。」詩篇117:2 もうすぐ聖書で最も長い章である119篇を読む。その直前に、聖書で最も短い章である117篇がある。そして、その詩は簡潔に、しかしはっきりと、すべての人に主をほめたたえよと命令している。 なぜなら、主の恵みと真実、すなわち私たちへの愛があまりにも大きいからだと2節で言う。 神の愛が底辺にあっての人生、希望、礼拝、日々の暮らしである。 言うのはたやすいが、どれだけ実感し、受け取っているだろうか。

Ⅰテモテ5

Ⅰテモテ5、イザヤ11−13 「よく指導している長老は、二倍の尊敬を受けるにふさわしいとしなさい。みことばと教えのために労苦している長老は特にそうです。」Ⅰテモテ5:17 先日、「なぜ日本の牧師は皆教えと牧会ばかりなのか」と質問を受けたことがある。つまり、もっと別の賜物を生かす人たちが教会の中でいないのか、ということである。 五役者の回復については幾つかの立場があるので、深入りしない。しかし、この聖句が一つのヒントになるように思う。つまり、 教会形成において教える立場にある人が牧師として神様が立て、教会もその人を経済的に支えながらみことばに専念してもらうように成長していくのだ(18節参照、NIV Study Bibleも同様の説明)。

Ⅰテモテ4

Ⅰテモテ4、イザヤ9−10 「あなたは、年が若いからといって、だれにも軽く見られないようにしなさい。むしろ、ことば、態度、愛、信仰、純潔において信者の模範となりなさい。」Ⅰテモテ4:12 20代、30代の頃は、教会や委員会、ミニストリーの働きで最年少という場面が多かった。それでいつもこのことばを言い聞かせていた。 今日は、自分より若い人がいる場面の方が多い。そして 逆に、若い人を軽く見ないように自戒している。若くても、自分が一生懸命であったように、神に祈りながらベストを尽くしている人を尊敬し丁寧に接したいと思うのである。

Ⅰテモテ3

Ⅰテモテ3、イザヤ7−8 「この奉仕に就く女の人も同じように、品位があり、人を中傷する者でなく、自分を制し、すべてに忠実な人でなければなりません。」Ⅰテモテ3:11 監督、執事として仕える人の条件が示されている。執事のリーダーシップは男女の別がないが、品位があること、人を中傷しないこと、自制できること、忠実であることが求められている。 品位とは尊敬に値することである。同時に、悪いことを口にしないか、信頼できる人であるかがその人の教会の中でのリーダーシップを決めることを述べているのである。 口を制するのは聖霊の助けがなければ難しい。逆に、聖霊により頼むときに、私たちの口が制御され、整えられ、聖霊の語らせてくださることを話すようにと導かれていく。 今日も聖霊の願われる言動ができますように。自分が出過ぎて言い過ぎ、恥意識や落胆で時間を費やすことがありませんように。主よ、どうぞ助けてください。

Ⅰテモテ2

Ⅰテモテ2、イザヤ5−6 「私は、女が教えたり男を支配したりすることを許しません。むしろ、静かにしていなさい。」Ⅰテモテ2:12 女性教職を認めるか、特に女性が牧師となれるかについて、賛成、反対の議論の根拠となるところである。個人的には、女性もリーダーシップの召しを神から与えられている人はおり、教師、牧師として仕えることに男女差はないと信じている。この箇所が、8節の「男たちは怒ったり言い争ったりせずに、どこででも、きよい手を上げて祈りなさい」に続いて対比されて書かれているので、当時の教会の問題点を指摘した文脈だと考えられるからである。 それでも、女性が男性を無理に超えたり、支配したりしようとするのではなく、性別よりもそれぞれの召しを恵みと捉え、謙遜の心を持って仕えていくことを主は望まれているのだと思う。 その際に、弱さとなる属性や性質について、主の取り扱いと霊的な成長を求めていくことが、主に喜ばれることであると確信する。

Ⅰテモテ1

Ⅰテモテ1、イザヤ3−4 「私の子テモテよ。以前あなたについてなされた預言にしたがって、私はあなたにこの命令を委ねます。それは、あなたがあの預言によって、信仰と健全な良心を保ち、立派に戦い抜くためです。」Ⅰテモテ1:18 テモテにエペソの教会を任せるために書いた手紙は、現在の牧会や教会のあり方にも多くを教えてくれる。 パウロは自分が労したことより、教会の将来のことを委ねる、といっている。不完全な部分もあっただろうし、パウロならもっと上手くやれると思う部分もあっただろう。ヒメナイとアレクサンドロのように、問題を起こす人もいたので気がかりでもあった。 しかしそれでも、「委ねる」という働きをより大切にした。何もしないのではなく、委ねること、任せることにフォーカスしたのだ。私も、自分のものと握りしめることなく、気前よく献金を捧げるのと同じように捧げ働き、神にその働きもお返しできるようになりたい。

詩篇116

詩篇115−116、イザヤ1−2 「主の聖徒たちの死は 主の目に尊い。」詩篇116:15 コロナウイルスによって、知人のクリスチャンが何人も主の元に返った。中でも、インドでミッションスクールを創設し、祈りを持って教育し続けてきたウィリアムズ氏の召天は衝撃的だった。 いつも胸ポケットに自分のあかしのトラクトを入れていた。 ICUに運ばれる直前の祈りが録音されていた。入院中も隣の人にキリストのことを分かち合い、次の瞬間召されていたという。 奥様のニーナさんも素晴らしい信仰者、教育者である。夫の葬儀では迷わず詩篇116:15を選び、オンライン配信をし、生徒やヒンドゥー教の人たちも聖書のメッセージを聞くことができるようにした。 主の聖徒たちの生涯、そしてその終わりは、神の目には尊いのである。そして地上生涯の後は主のみもとで、主がねぎらい抱いてくださるのだ。

詩篇115

詩篇115−116、雅歌6−8 「私たちにではなく 主よ 私たちにではなく  ただあなたの御名に 栄光を帰してください。  あなたの恵みとまことのゆえに。」詩篇115:1 英語では Not to us, Lord, not to us (NIV)。「私たちに対してでなく」ということだが、これが難しいのが私たちである。 主がさせてくださったのに、私の功績、私の優越性、と示したいのである。栄光が、主のお名前にのみ帰されるように。その祈りを持ちたい。もっとも、自分を卑下することなく、そうした能力やスキルを与えてくださった主をほめたたえるという意味で、成し遂げたことを喜び、ほめられたらありがとうと謙虚に受け取れるようになりたい。

Ⅱテサロニケ3

Ⅱテサロニケ3、雅歌4−5 「主があなたがたの心を導いて、神の愛とキリストの忍耐に向けさせてくださいますように。」Ⅱテサロニケ3:5  心が何に興味を持ちどこに向いているかは、私たちの考えや行動に直接影響を及ぼす。肯定的でいれば良いではないか、とある人は言う。しかし生まれ持った性質と環境で、つい否定的に考えてしまったり、懐疑的になったりする人もいる。 パウロも、主が心を導いて下さいと祈る。テサロニケの人たちが、神の愛とキリストの忍耐に心を向けることができるように、と。 偏った教え、どうせ再臨がもうくるから何もせず待っていようという考えは、主が喜ばれるものではない。現在を覆っている刹那的な考えも、主から出たものではない。なんといっても、神の愛が注がれていること、キリストが十字架の死に至るまで忍耐してくださったことを思い起こせば、今の苦しみや悩みは慰められ小さいものに見えてくる。 うつになりそうなら、神の愛、キリストの忍耐を覚えることができるように、もっとわかるように助けてくださいと祈ろう。

Ⅱテサロニケ2

Ⅱテサロニケ2、雅歌1−3 「どうか、私たちの主イエス・キリストと、私たちの父なる神、すなわち、私たちを愛し、永遠の慰めとすばらしい望みを恵みによって与えてくださった方ご自身が、あなたがたの心を慰め、強めて、あらゆる良いわざとことばに進ませてくださいますように。」Ⅱテサロニケ2:16−17 神ご自身が強めてくださる心は、確信を与えられる。そして、行動にも語ることばにも健康的な自信を持って臨むことができる。 批判や心ない言葉、誤解を受けるとき、心はしなえるが、慰めも神からくる。そして、偏った教えにも落胆したり怒ったりすることなく、優しい心で戒め導くことができるのである。 私自身は、怒りがきたときにその原因を神に教えていただく必要がある。何がトリガー(引き金)であり、何がその背後にあるのか、 心を見張るものとなれるように。様々な教えや論争に振り回されず、平安でしっかり立つことができるように。

Ⅱテサロニケ1

Ⅱテサロニケ1、伝道者の書10−12 「その日に主イエスは来て、ご自分の聖徒たちの間であがめられ、信じたすべての者たちの間で感嘆の的となられます。そうです、あなたがたに対する私たちの証しを、あなたがたは信じたのです。」Ⅱテサロニケ1:10 主の日に、キリストが「感嘆の的」となられる。実際に顔と顔を合わせて喜びと驚きを表し、感嘆するのである。 ところで、日々キリストを感じ、キリストとともに歩む生活に、同じ感嘆はあるだろうか。キリストが私の今日の人生に関心を持ち、手を取って歩んでくださっていること、ご自身の方向に伴ってくださることもまた、感嘆に値するのではなかろうか。 そのことを覚え感謝し味わいつつ、今日1日を生きていきたい。

Ⅰテサロニケ5

Ⅰテサロニケ5、伝道者の書7−9 「しかし、私たちは昼の者なので、信仰と愛の胸当てを着け、救いの望みというかぶとをかぶり、身を慎んでいましょう。神は、私たちが御怒りを受けるようにではなく、主イエス・キリストによる救いを得るように定めてくださったからです。」Ⅰテサロニケ5:8−9 エペソ6章と重なるところが多いが、パウロは各教会に神の武具を確認した。信仰と愛は胸当てのように私たちの心を守り支えるもの、そして希望はかぶとのように私たちの思考を守り励ますものである。それがあれば、滅びに至ることはなく落胆して絶望することもない。 そして、キリストも私たちが救いを得ることを定めてくださっている。 私自身の心は傷つきやすく、剥き出しでは批判や不測の事態にめっぽう弱い。だから、キリストが心をチョココーティングのように完全に覆ってくださり、信仰と愛をいただいて胸当てをつけること、かぶとをかぶって頭も守ることが日々必要である。そうしなければ、すぐに攻撃に負け、少しの傷でも痛んでしまい、力を失ってしまう。だが、キリストの力を知るとき、そこに頼ればどんな心の痛みや入ってくる刺激の鋭さにも私の心が守られる、と平安をいただくのである。

Ⅰテサロニケ4

1テサロニケ4、伝道者の書4−6 「ですから、これらのことばをもって互いに励まし合いなさい。」Ⅰテサロニケ4:18 スマホでホームページを見ていて、ごく稀に突然「ウイルスに感染しました」と警告が出ることがある。ほとんどはいたずらや愉快犯であるが、万一感染していても、対策ソフトで対処することができる。 私たちの日常生活もこれに似ている。誘惑やどきっとする出来事がやって来たら、落ち着いて聖書の方法を調べ、それに従って対応することができる。 短い章だが、どのように歩めばよいのかをコンパクトに、そして的確に教えている。 神に喜ばれるのは、神の教えを守って聖なる者となること、わきまえること、兄弟愛にますます豊かに富むこと、落ち着いた生活をし、自分の仕事に励むこと、品位を保つこと(3−11節)である。 再臨がいつ来るかは、主がご存知のことである。だから、それまではこの地上で淡々と、誠実に働き生きていくことを主は望まれる。

詩篇114

詩篇112ー114、伝道者1−3 「神は 岩を水の潤う沢に変えられた。  硬い岩を 水のあふれる泉に。」詩篇114:8 岩や岩地は、ゴツゴツしていて荒れた様子を思い起こさせる。すさんだ荒地、足をくじいてしまいそうな場所が、主によってみずみずしく、潤い、豊かな場所へと変えられる。 人の心、たましいも同じである。どうしようもない頑固な私の心も、主の霊の働きで水の流れる心と変えられる。自分では水を作ることができないが、神が水を注いでくださるのでそれを流す。水は柔らかいだけではない。水は石や岩を削り、尖ったところや粗野なところを滑らかにし、整えられる。そのように、神は私の心を整えてくださる。時々サタンが嵐を持ってきて、心が吹き荒んでも、また神は水を流して倒木やゴミを取り去り、再び整え始めてくださる。 、

詩篇112

詩篇112−114、箴言30−31 「その人は悪い知らせを恐れず  主に信頼して 心は揺るがない。」詩篇112:7 このような人であったらどれほど良いだろう。HSP(Highly Sensitive Person)として、少しのことでも敏感に反応しがちな者であるが、主の語りかけには敏感で、しかし悪い知らせやハプニングには恐れない者であれたら最高なのだが…。 詩篇に出てきている「正しい人」の特色は、「心が堅固」「敵を平然と見る」という強さと同時に、「貧しい人々に惜しみなく分け与える」者でもある。その結果、敵が苛立ち、歯ぎしりするほどであるという。私たちの敵は目に見えるものだけではなく、目に見えないもの、そして戦いの場は心である。どうしようもない感情が起こってきた時、これは自分の心に何か作用が起こっているか、ではどう治めれば良いか、冷静に見つめるか、気づきをすぐ神に持っていく(祈る)練習をしよう。プラクティス、訓練、練習問題である。基本から応用へ、訓練と鍛錬の法則に従って少しずつ正しい反応ができるよう、霊的な鍛錬をしよう!

Ⅰテサロニケ3

Ⅰテサロニケ3、箴言27−29 「そして、あなたがたの心を強めて、私たちの主イエスがご自分のすべての聖徒たちとともに来られるときに、私たちの父である神の御前で、聖であり、責められるところのない者としてくださいますように。アーメン。」Ⅰテサロニケ3:13 パウロの祈りは、信仰のうちにテサロニケ教会の人たちが堅く信仰に立つため、心が強められることであった。最後まで信仰を捨てず、横道にそれず、信仰を守り抜くことだった。 教会とは、愛の共同体であると同時に戦う共同体でもある。戦うのは、この地上の勢力ではなく、霊的な勢力に対してである。しかしそれは、地上での迫害や誘惑の形をとってやってくる。また、戦場は私たちの心(マインド)である、とジョイス・マイヤーは言っている(『Battlefield of the Mind、邦訳『思考という名の戦場』)。 与えられている武器がみことばであること、そして理屈をこねたり批判しようとするときに、サタンの巧妙な働きに巻き込まれる危険があること、さ迷う心の危険性を彼女は論じている。 まず、心がどこに集中するか。また愛の心で、比較せず、その人の祝福を祈れるか、心を点検したい。

Ⅰテサロニケ2

Ⅰテサロニケ2、箴言25−26 「むしろ私たちは、神に認められて福音を委ねられた者ですから、それにふさわしく、人を喜ばせるのではなく、私たちの心をお調べになる神に喜んでいただこうとして、語っているのです。」Ⅰテサロニケ2:4 誰がこのような光栄な務めを断るだろうか。他人事ならそのように言える。しかし、実際に自分が委ねられるとなると、その責務の大きさに「とてもできない」と言いたくなる。 実際、「人を喜ばせるのではなく」神を喜ばせることにフォーカスできているだろうか。人の顔色、批判への恐れ、自己弁護、プライド、そして自分への評価と報いを求めてしまう者である。 しかし、神は「私たちの心をお調べになる」のである。どんな動機でしているか。いやいやながらにしているのなら、それは人には勤勉、誠実に映っても神には喜ばれない。訪問も、メールも、もしそれが神の力、喜びから来ていないなら、サタンに煽られて行っているに過ぎない。牧会の働きが、サタンのあおりでなされているなら、なんと恐ろしいことか。 私自身は、一人になり、じっくり時間をかけ、後方で整える働きに召されていると思う。それならば、心を込めて掃除をし、部屋のレイアウトを考え、技術的な部分を整え、1対1の面談と祈りを丁寧に行い、皆が教会に来て平安に神の恵みを味わい、建てあげられるようにしたい。無理に伝道や訪問に行けというのはサタンの誘惑であることもある。それならば、お茶を飲み、じっくり主の御顔を求め、体調を整え、気持ちよく他の人が働けるように自分自身がまず安定することから始めるべきである。

Ⅰテサロニケ1

Ⅰテサロニケ1、箴言22〜24 「あなたがたも,多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、私たちに、そして主に倣う者になりました。」Ⅰテサロニケ1:6 結果として、彼らはその地方(マケドニアとアカイア)の信者の模範と言われるようになった。パウロからの素晴らしいほめ言葉である。 みことばを受け入れるのは聖霊による。聖霊に頼って生きる時、さらに私たちは主に似たものとされる。模範になるのは、肉の力ではない。聖霊の働きによって、日々作り変えられ、成長していくのである。 私たちにできることは、聖霊の働きを妨げないこと、また心が悪魔の策略に負けないようにみことばの武器で武装することである。 暗唱聖句は、一生の財産である。

コロサイ4

コロサイ4、箴言19−21 「あなたがたのことばが、いつも親切で、塩味の効いたものであるようにしなさい。そうすれば、一人ひとりにどのように答えたらよいかが分かります。」コロサイ4:6 「親切で」は「恵みに満ちた」という意味でもある。そして、「塩味の効いた」とあるので、徳を高め、ぴりっとひきしめるような真理をつく言葉であるように。 霊の賜物を頂いて、他者がすごいというのでなく神が自分に望まれる、そのやり方で行っていくことである。比較はわなであり、劣等感と妬みを生む。

コロサイ3

コロサイ3、箴言16−18 「キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのために、あなたがたも召されて一つのからだとなったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。」コロサイ3:15 心がキリストの平和で満たされ、支配されているというのはどれほど素晴らしいことかと思う。私などはすぐにイライラしたり不安になったりするのだが、それが体調から来ているのか、人格的な未熟さからか、あるいはその双方か、とにかく不測の事態にめっぽう弱い。 ハイベルト(Evelyn & Richard Hibbert)という人の書いた「多文化チームを率いるために( Leading Multicultural Teams)」という本がある。その中で、様々な文化や考え方のメンバーからなるチームのリーダーには、有能さ以上に人格的な成熟が大切である、と論じている(8章)。 全く惨めな私たちに、神様は試練や様々な知恵、耳の痛い言葉を通して人格を養ってくださる。それは、「あなたがたはすでに死んでいて、あなたがたのいのちは、キリストとともに神のうちに隠されている(3節)」からである。 そのために、調子の良い時から訓練をしていこう。そして、調子の悪い時にそこで学んだことを適用して乗り越えられるようにしよう。軍隊や消防、救急隊員は平時に技術の訓練をしている。だからこそ、非常事態であんなに迅速かつ的確に動くことができるのである。もう少し、自分の心を同じように見張り鍛錬しよう。

詩篇111

詩篇109−111、箴言13−15 「知恵の初め それは主を恐れること。  これを行う人はみな賢明さを得る。  主の誉れは永遠に立つ。」詩篇111:10 神への賛歌の終わりは、「主を恐れること」が知恵の初めであることで結ばれている。旧約聖書の中で、主を恐れることが知恵を得るための必須条件である、と他の箇所(箴言9:10、1:7など)にも書かれている。 人の知恵がなんと小さく、限界があり、不完全なものかは、ある程度年齢を重ねた者なら実感していると思う。若い時には言うに及ばず、自分が小さく未熟な者であることを痛感してきた。 結局、自分が何かできると思えることは何もなく、ただ主の導きに従ってせよと言われることをすることしかないことを覚える。 謙遜に。しかし、主が前を歩き、導き、教えてくださるなら、主が指し示された方向に今日も一歩進むのである。

詩篇110

詩篇109−111、箴言10−12 「主はあなたの力の杖を シオンから伸ばされる。  『あなたの敵のただ中で治めよ』と。」詩篇110:2 直接的にはダビデについてだが、同時にキリストの統治についても述べていると言われる節である。 神がダビデに治めよと言われたのは、平和で問題のない街ではなかった。敵に囲まれ、危機が残っている、その「ただ中」だった。 キリストも、反対者が多くいる中でメシアとして十字架にかかられ、それでも復活のみわざを成し遂げられた。 私たちの心も、問題や検討事項、そして弱さだらけである。まさに不安という敵に囲まれているようである。 しかし、問題山積の中で治めることを選び取るかどうかは、主に信頼するかどうかであると、この詩篇は教えてくれている。 ダビデが信頼したように、また子が父なる神に従い通されたように、不安と自信のなさに苛まれそうな時、主が心の「右におられる主は…王たちを打ち砕かれる」のである。自分で自分の心を無理に防衛しようとするのでなく、まず共にいてくださる主を見上げ感じよう。

コロサイ2

コロサイ2、箴言8−9 「私が苦闘しているのは、この人たちが愛のうちに結び合わされて心に励ましを受け、さらに、理解することで豊かな全き確信に達し、神の奥義であるキリストを知るようになるためです。」コロサイ2:2 奥義とはキリストのことである(参照1:26)。NIVスタディーバイブルでは、「奥義」について次のように説明されている。 〜「奥義」とは元々異教の用語であり、特別に選ばれた人々だけにしか知らされない秘密の内容を示す単語であった。しかしパウロは、ここで違う意味でこの語を使っている。というのも、「明らかにされた」「知らされた」「現された」という表現と共に用いているからである。つまり、クリスチャンにとっての「奥義」とは、限られた人への秘密の知識ではなくて、かつては隠されていたが今は明らかになった神の真理を表している。〜 奥義というのは何かよくわからないことではなく、キリストが来られて救いのみわざを成し遂げてくださったこと、信じる者に永遠のいのちが約束されたこと、聖書が全てキリストを指し示しているということである。 私も、あなたも、この「奥義」を知っている。そして、キリストと出会う人が起こされるように、その人も「奥義」を知ることができるようにと願っている。

コロサイ1

コロサイ1、箴言6−7 「…どうか、あなたがたが、あらゆる霊的な知恵と理解力によって、神のみこころについての知識に満たされますように。また、主にふさわしく歩み、…」コロサイ1:9−10 1章は、なんと凝縮され、あらゆる主の恵みと勧めが散りばめられた章であるかと思う。新改訳ではあまり表現されていないが、どれも人の努力ではなく、聖霊により与えられ、神によって備えられたものである様々な賜物、良いものが列挙されている。 1節 神のみこころによる by the will of God 9節 霊的な that the Spirit gives (聖霊が与えてくださった) 10節 主に相応しく歩み so that you may live a life in every worthy of the Lord (主の前に全て価値ある人生を生きることができるよう) 12節 資格をあなたがたに与えてくださった御父 Father, who has qualified you  25節 神から委ねられた務め by the commission God gave me 29節 自分のうちに力強く働くキリストの力によって with all the energy Christ so powerfully works in me  これほどまでに、神が私たちに関わり、御国のために、救いのために、私たちとの共働作業を願ってくださるとは。

ピリピ4

ピリピ4、箴言3−5 「私は、貧しくあることも知っており、富むことも知っています。満ち足りることにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。」ピリピ4:12 こんな「秘訣」を会得していたら、どんなに人生が生きやすく、気が楽になることだろう。 しかし、この柔軟で適応力のあるのはパウロ自身の特性ではない。それはキリストがパウロに教え、秘訣へと導いてくださったのだった。13節では「私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです」」と言っている。キリストがおられ、一つ一つを導いてくださるからこそ、秘訣を会得できたのだった。 私自身は耐性に乏しく、適応性や柔軟性もあまりなく、不安症であり、緊急時にはどうして良いかわからず右往左往するような者である。しかし、時折「落ち着いている」と言われることがあり、とても意外である。内面はともかく、もしそう見えるならば、ひとえにキリストが覆っていてくださるからである。自分の内面も伴っていればどんなに素晴らしいかと思うが、その時その時でギリギリ (と感じる)心理状態をキリストによって治めていただき、助けていただくしかない。 主よ、今日も私の心を治めてください。一日に起こってくることに、肉で対処せずにあなたの覆いの元で感知し、歩むことができますように。

ピリピ3

ピリピ3、箴言1−2 「兄弟たち。私は、自分がすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ一つのこと、すなわち、うしろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばし、キリスト・イエスにあって神が上に召してくださるという、その賞をいただくために、目標を目指して走っているのです。」ピリピ3:13−14 去年までなら、この節に対して私は手放しで「アーメン!」と言っていたと思う。しかし、今年は初め「自分はそこまで一心に走る元気と勢いがあるのだろうか」と感じた。 一つには、心身の疲れと不調を感じており、そこまで自由に動くことができるだろうかと思ったからである。 しかし、ここで勧めているのは肉の熱心ではなく(3節にも 「キリスト・イエスを誇り、肉に頼らない私たちこそ、割礼の者なのです」とある)、キリストにある霊の熱心、信仰の熱心である。その熱心さ、力をもキリストから来るという信頼が求められているのではないか。パウロも持病があってさえ、このように言えたのだから。 もう一つは、アフガン、北朝鮮、その他の迫害下にあるクリスチャンたちを思うと、彼らこそ命がけでこのみことばを生きているのではないか、と自分の覚悟の甘さを反省したからである。 きれいごとではなく、自分の命、財産、家族、仕事、快適な生活、趣味…、持てるもの全てをキリストのために手放すことができるか。覚悟を問われている。

ピリピ2

ピリピ2、詩篇148−150 「神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です。」ピリピ2:13 神様は志を与えてくださるが、それは「みこころの」ままに、と書かれている。私たちはともすれば「自分の都合の良いように」「自分の栄光のために」願いを持ちがちだが、何がみこころであるかを吟味することが求められている。次の告白の祈りを味わいたい。 ー悩み苦しむ者のための告白ー 成功したいと思い、 強さを与えてくださいと神に願った。しかし、私は弱くされた。 それはへりくだって従うことを学ぶためだった。 何か大きなことをし、成し遂げたいと思い、 健康にしてくださいと神に願った。 しかし、私には病弱な体が与えられた。それはもっと良いことをするためだった。 幸せになりたいと思い、富をくださいと神に願った。 しかし、私は貧しくされた。それは賢さを得るためだった。 称賛を得たいと思い、権力を与えてくださいと神に願った。 しかし、私には無力さが与えられた。 それは自分には神が必要であることを知るためだった。 人生を楽しみたいと思い、あらゆるものを与えてくださいと神に願った。しかし、私には命が与えられた。それは、あらゆることを楽しむためだった。 私が神に願ったものは何一つ与えられなかった。 しかし、望んでいたものはすべて与えられた。 全く思いもかけず、言葉にならなかった数々の祈りがこたえられていた。 私は誰よりも豊かに祝福されているのだ。

詩篇108

詩篇106−108、詩篇146−147 「どうか敵から私たちを助けてください。  人による救いはむなしいのです。  神にあって私たちは力ある働きをします。  神こそが 私たちの敵を踏みつけてくださいます。」  詩篇108:12−13 私にとっては、焦りと無力感からの解放がテーマである。 迫害で苦しんでいる世界のクリスチャンを見ると、行って何かしなければ、といても立ってもいられないような気持ちになる。日本の被災地のニュースを聞くと、自分に何かできないかと焦りが出てくる。そして、無力な自分、ある人たちのように実効的な働きができないことに落ち込むということが今でもある。 しかし、神がそれを望んでおられるかどうかは別である。 「人による救いはむなしい」とあるように、人間的な思いや突発的な行為は長続きしないし、時には迷惑にさえなる。 実際には「神にあって力ある働き」ができるということ、 つまり、神が私に何をするように召しておられるかをキャッチすることが第一段階であるということである。 ある人にとっては即座に飛び出すことである。しかし、私にとっては熟考して戦略を練ること、書いて励ますこと、スポット的な動きよりは長期的、持続的なオプションを見出すこと、そしてレポートして協力者を発掘することであると感じる。 そうであれば、状況を集め、祈り、祈りを分かち合い、人知れず献金し、分析し、影響を与えていくというシンクタンク的な働きに神が召しておられるのである。他者と比べずに神に相談しながら進めていれば、家にいても、人に知られなくても、神が戦ってくださることを知り、同時に自分も神の戦いを体験しているのである。 主よ、人間的な比較の罠から自由であらせてください。アーメン

詩篇107

詩篇106−108、詩篇143−145 「主に感謝せよ。その恵みのゆえに。  人の子らへの奇しいみわざのゆえに。」詩篇107:8,15,21,31 詩篇の第5巻がこの107篇から始まる。そして、この詩で繰り返し出てくるフレーズが 「主に感謝せよ」 「その恵み(英語ではhis unfailing love)のゆえに」 「くすしいみわざのゆえに(his wonderful deeds)」 というものである。しかも、こうした恵みやみわざは 「人の子らへの(for mankind)」すなわち私たちへのものである。 神は私たち一人一人を名指しして救ってくださった。様々な恵み、みわざがあるのに、すぐに忘れるのが人間である。 だから最後に「知恵のある者は誰か。これらのことに心を留めよ。主の数々の恵みを見極めよ」とすすめている。

ピリピ1

ピリピ1、詩篇140−142 「…あなたがたの愛が、知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、あなたがたが、大切なことを見分けることができますように。こうしてあなたがたが、キリストの日に備えて、純真で非難されるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされて、神の栄光と誉れが現されますように。」ピリピ1:9〜11 パウロが祈ったのは、ピリピの教会の普通の人々のためにだった。意外に感じるかもしれないが、ここで、愛が豊かになるのは知識と識別力によるのだと言っている。 愛は感情に振り回されるものだけではなく、もっと冷静な要素が含まれているというのである。 そして、愛は増し加わり、成長できるものであることもわかる。 そしてゴールは私たちが義の実に満たされて、神の栄光と誉れを現す者となることである。私たち自身から出る善行や努力ではなく、キリストが与えられる義の実によるのである。 そして、目指すところはキリストの再び来られる日であり、一時的な状況で落胆しないというのがパウロの信仰である。パウロ自身も投獄されていたので、人間的には先が見えなかった。今の私たち(2021年)もコロナウイルスの流行がおさまらず、先が見えないような思いになっている。それでも、しばしの状況に落胆せず、義の実をいただき、愛が増し加わるように、成長するようにと歩み続けるのだ。私たちの究極のゴール設定がキリストの日にある。

エペソ6

エペソ6、詩篇137−139 「悪魔の策略に対して堅く立つことができるように、神のすべての武具を身に着けなさい。」エペソ6:11 私たちの格闘が、血肉に対するものではなくて霊的なものであると続く12節では述べている。 意識しなくても、霊的な攻撃にさらされているものであるという自覚が必要であろう。なぜなら、丸腰で向かっていくのでなく、すでに着装可能な武具が神様から与えられているのだから。 毎朝、真理の帯、正義の胸当て、平和の福音の備え、信仰の盾、救いのかぶと、みことばの剣、祈りと願いによって、戦いに勝利することができる。 そして、キリストの奴隷として仕える幸いをかみしめることである。当時の「奴隷」は、教師やマネージャーのような仕事をしていたようで、強制労働や人種差別とは異なったようである。 今のサラリーマンや給与所得者に近いかもしれない。それならば、キリストが雇い主で、賜物に見合った仕事を割り当てられていることが「キリストの奴隷」だと言える。正しく柔和な雇い主の元で働くことができるとは、平安と安心が保障されていることに他ならない。この特権を味わっているだろうか。

エペソ5

エペソ5、詩篇135−136 「ですから、自分がどのように歩んでいるか、あなたがたは細かく注意を払いなさい。知恵のない者としてではなく、知恵のある者として、機会を十分に活かしなさい。悪い時代だからです。」エペソ5:15−16 英語ではBe very careful, と書かれている(NIV)。細心の注意を払って自分の歩みを吟味することを、私たちはしているだろうか。日常の生き方が、この世のペース、この世の基準に合わせてしまっていないか。注意をそらすもの…ネットや媒体の情報、おしゃべり、他者との比較、そして何より、自分の内側にある劣等感や焦りが、どうしても大切なことから目を離すような作用を及ぼす。 「機会を十分に活かしなさい」というのは、何もたくさんのことをせよと言っているのではないことに気づく。続く文脈を見ると、むしろ心の中を吟味し、礼拝者として仕え、主の御心を歩むことである。聖霊へのアンテナが鈍らないように、日々自分を整えることこそ、機会を十分に活かすための第一条件なのである。そのために鎮まるときは、決して無駄ではない。むしろ、自分の信仰生活にとってとても大切なステップである。自戒をこめて。

エペソ4

エペソ4、詩篇132−134 「怒っても、罪を犯してはなりません。憤ったままで日が暮れるようであってはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい。」エペソ4:26−27 私は非常に怒りっぽい性質を持っている。不安やストレスが、不安として感じられるよりも怒りとして認知されてしまう。怒りの背後に、自分自身の弱い部分やどうしようもない部分が出ている。 それゆえ、怒っているときは理性よりもほとんど感情でパニックになっている。言葉のコントロールや知性の判断がうまくできずにロックされているのである。 しかし、それは悪魔の格好の働き場所になる。言葉で周囲を不快にさせたり傷つけたり、自分自身もそれを聞くことでさらに不安になったり、まさに悪魔に機会を与えてしまいかねない。 「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません」とあるように、言葉数を少なく、少なくするように(特に家族の間で)試みたい。祈りながら、聖霊様の助けと働きにより、進んでいこう。

エペソ3

エペソ3、詩篇129~131 「ですから、私があなたがたのために苦難にあっていることで、落胆することのないようお願いします。私が受けている苦難は、あなたがたの栄光なのです。」エペソ3:13 パウロのエペソ教会への宣教は易しいものではなかった。苦難や困難が(いつものように)あった。さらに、教会が生まれても、その牧会に際しては様々なチャレンジがあった。しかし、パウロは落胆することのないようにと言っている。 私たちがキリストのために苦難に遭うとき、同じように言えるだろうか。 実際、世界の迫害下にある兄弟姉妹たちは、先進国の傲慢や貧富の差の歪みにより、非常な貧困や政治の不安定の下に置かれている。いわば私たちの代わりに苦難を通っている面も多々ある。心が痛み祈らされるが、同時に彼らは私たちが落胆することを望まないだろう。かえって、キリストは私たちの命をかけて信じるに値する方であることを私たちが確認し、彼らの姿勢を見て励まされ、強められてほしいと思っているのではなかろうか。 現代でも、名もなくパウロのような信仰を持つ人々が数多くいることに気づき、絶えず覚えて祈りたい。神の超自然的な働きがその地方にあるように。そして、流された血、犠牲に主が報いて答えて理解し難いほどの栄光としてくださるように。

詩篇105

詩篇103~105、詩篇126~128 「主とその御力を尋ね求めよ。  絶えず御顔を慕い求めよ。」詩篇105:4 神様をほめたたえることは、礼拝や順調な状況の時には覚えていられる。 一方、逆境にあるときには神様がすばらしいとわかっていても賛美できないし、模範的な言葉を出すことも難しい。 それでも、詩人は主を尋ね求めよ、と言う。まずは神の御顔を求めること、すなわち神の方を向くことができるようにという。 未来を憂えるよりも、これまでの歩みを振り返ることをすすめている。アブラハムに始まり、イサク、ヨセフ、モーセと民族の歩みから、主がどれほど真実な方であり続けるかを列挙している。 私たちの歩みも、神の歴史と神の真実さの中に、あわれみの積み重ねで守られている。うつの時にも、病気の時にも、すべてがうまくいかないように思える時にも、神様は私たちの行動よりも私たちと顔と顔を合わせたいと願ってくださる。 なにもできなくても、うずくまっていても、目を神の方に向けること、そこから神のわざを、神の力を思い起こす気づきをいただくのである。

詩篇103

詩篇103-105、詩篇123-125 「天が地上はるかに高いように   御恵みは 主を恐れる者の上に大きい。  東が西から遠く離れているように  主は 私たちの背きの罪を私たちから遠く離される。」詩篇103:11-12 「わがたましいよ 主をほめたたえよ。主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな」(2節)が有名だが、主はどのような目で私たちを見てくださっているのかが、11~12節を読むとよくわかる。 天の父なる神は、私たちの視点よりもっと高いところにおられる。そして、その恵みも私たちの予想をはるかに越えて高いところから、思いもよらない注がれ方をしている。逆境の時にも、恵みが取り去られたように思えても、はるか天のかなたからそれは確実に注がれている。 そして、罪の意識や悔恨にさいなまれていたとしても、私たちの罪は東と西が正反対にあるがごとく、主が私たちから隔て分かたってくださった。私たちは、自分の罪がまだすぐそばにあるようにこだわっているが、神の目には私たちはそこからすでに抱き抱えられている。最近、情勢の緊迫するアフガニスタンから多くの人々の脱出作戦が行われている。命の危険にさらされ、脱出が必要な人々が安全に出国できるようにと祈らされている。もちろん、作戦を遂行する人たちの守りも願ってやまないが、爆発で命を落とした米軍の兵士もいると聞き、心が痛む。 霊的には、神は私たちが混沌とした情勢から脱出してほしいと、救出作戦をたててくださった。イエス・キリストがその作戦の仲介となられた。他に適任者はいなかった。そして、キリストは救出作戦のためにご自身のいのちを捨ててくださった。 イエス・キリストこそが救出者だと信じる者は、霊的な死の運命から救出される。神の脱出作戦が完了した者は、霊的いのちが保証されている。時々混沌の中での体験がフラッシュバックすることがあるが、事実は今現在安全なところ、保証されているところにいるのである。そして約束されているのは永遠のいのちである。 地上のニュースに心騒がせるのと同様、神の定められた霊的な脱出作戦の完璧さと脱出の事実をもっと喜んで受け取ろう。

エペソ2

エペソ2、詩篇120−122 「実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。」エペソ2:10 神の作品というには、自分自身はあまりにもみすぼらしく、不完全である。救われたというのに、主に仕えているというのに、欠点だらけで自分自身の心や口さえ制御できない者である。 しかし、神はあわれみ深く、良い行いさえも備えてくださっているというのである。私たち自身にはできなくても、すでに用意されているものを選びとることである。 健康の弱さを感じる昨今、ストレスチェックテストではストレスが高いという結果が出る。しかし、主が今日何を望んでおられるかを選びとること、ひとつひとつの突発的なことに自分の心が反応せず、心は背後に、聖霊が全面に出て反応してくださることを願う。

エペソ1

エペソ1、詩篇119:89~176 「この恵みを、神はあらゆる知恵と思慮をもって私たちの上に溢れされ、みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。」エペソ1:8−9 救いは恵み、神の御思いは恵み、神のご計画は恵み、恵みがこの世界に注がれているということが、この章前半のテーマとなっている。 恵みを注がれた私たちには望みがある。神の恵みを受け継いだものとして、その望みを抱いていつも生活することができたら、どんなにか幸いだろうか。 地上では疫病、戦い、災害など暗いニュースが絶えない。そのニュースをインターネットやテレビでチェックする時間は、I日どのくらいだろうか(自戒を込めて)。その時間以上に、天的な、素晴らしい恵みのニュースに触れようとしているだろうか。 みことばを日々口ずさむとは、天的な価値観に浸るように生活スタイルを整えることである。ニュースをチェックしたくなったら、そのかわりに聖書の通読プランを試したり、信仰書を読んだりしていきたい。否定的な情報に心囚われるより、それを祈りに代えよう。神の恵みに浸って今日も生きていきたい。

ガラテヤ6

ガラテヤ6、詩篇119:1~88 「失望せずに善を行いましょう。あきらめずに続ければ、時が来て刈り取ることになります。」ガラテヤ6:9 互いの重荷を負い合いなさい(2節)、すべての良いものを分かち合うこと(6節)など、パウロが勧めていることがある。 人間関係を見直してみると、様々な発見がある。自分にとって本当に大切な家族を大切にしているか。また、他者がわかってくれると思って依存しすぎていないだろうか。 私自身の人間関係のスタイルは、表面的なつきあいよりも少数で深くかかわることを好む傾向にあると思う。よい面もあるのだが、自分はわかってもらっているはずという期待や依存あるいは共依存が生じる可能性がある。 しかし、私が手放しですべての本音を話せるのは神様ご自身だけであるということを確認すべきだ。 時にその事実は、人間同士では100パーセントの理解者がいないことの確認と失望とにつながりかねない。では、なるべく関わりを控えたほうがよいのか。 いや、そうではない。聖書は善を行うことを「失望せずに」励み続けるようにと語ってくれる。あきらめないことである。時が来て、刈り取る恵みにあずかることがある。それはもしかすると、他の人がまいた種の刈り取りかもしれないし、私たちの種蒔きを他の人が刈り取ることかもしれない。いずれであっても、聖書はあまり意に介していないようである。重要なのは、誰がまいたか、刈り取ったかではなくて、蒔かれた種が刈り取りの時を迎えるのだというメッセージである。

ガラテヤ5

ガラテヤ5、詩篇116−118 「兄弟たち。あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕え合いなさい。」ガラテヤ5:13 私たちが救われたのは、愛をもって仕え合うためであると述べられている。しかし、肉の性質ではそねみや妬み、憤りなどでそれが妨げられる。 私たちの仕える動機は愛でなければならない。しかも、自分の力や性質によりたのむ愛ではなく、御霊による愛である。キリストの霊である御霊がともにいてくださるからこそ、私たちは自分では身につけ得ない愛や御霊の性質にあずかることができるのである。 自分自身を見るとがっかりする。しかし、いつも御霊から目を離さないようにすること、そしてその恵みに浸り受けとることが、日々の原動力となっていたい。

ガラテヤ4

ガラテヤ4、詩篇113-115 「ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神による相続人です。」ガラテヤ4:9 神が私たちを罪と律法の下にある奴隷の状態から解放してくださった。それだけではなく、神の子どもとして相続人にまでしてくださった。特別な身分、特別な待遇を受けることができる者に変えてくださった。 だから、信じる者はリラックスすることができる。あれをしなければ、これをしなければと焦らなくても、相続人としての身分が剥奪されることはない。私たちがするのはただ、この恵みをくださった神への感謝、そして、神の愛に応えたいという自発的な思いからである。 この恵みにいつも帰ろう。そして、神の愛に応えるために、私たちは今日も一日生きていく。肩の力を抜いて、しかし正しい方向を目指して、主を見上げていく。

詩篇102

詩篇100-102、詩篇110-112 「苦しむ者の祈り。彼が気落ちして、自分の嘆きを主の前に注ぎ出したときのもの。  主よ 私の祈りを聞いてください。  私の叫びが あなたに届きますように。」詩篇102:表題、1節 詩人がどれだけ気落ちしていたかは4節の「私の心は青菜のように打たれてしおれ パンを食べることさえ忘れました」という表現からよくわかる。抑うつ状態にある時には、自分の気力や意欲もなく、希望がもてないような心境になる。 それでも、詩人は主に祈ることをした。ありのままを主に申し上げ、自分の弱さも神への嘆きもすべて祈りにした。 祈る時に、不思議に混乱していた心が落ち着くことがある。一人で祈るだけでなく、何人かで祈っていると顕著である。 それは、自分で問題が整理できるというだけでなく、祈りの大切な側面、神から平安をいただくという側面である。 最後には、神の永遠の恵みと信じる者の希望まで述べられている。 「しかし あなたは変わることがなく  あなたの年は尽きることがありません。  あなたのしもべたちの子らは 住まいを定め  彼らの裔は 御前に堅く立てられます」(27―28節) 祈りの力、祈りの恵みと祝福である。

詩篇101

詩篇100-102、詩篇107-109 「朝ごとに 私は国の中の悪しき者を  ことごとく滅ぼし  主の都から 不法を行う者を  ことごとく断ち切ります。」詩篇101:8 王として国を治めたダビデの詩篇である。 当時は朝に王が裁判や判断をするならわしだったようである。朝は頭がすっきりしていて気温も快く、決断や判断をするのにふさわしかった(スタディーバイブルによる)。 もちろん、裁判は一度きりの仕事ではない。朝がくると、持ち上がった問題がまたあって、新たな判断が迫られる。忍耐のいる仕事だった。 ダビデはそれでも、「主の都から不法を行う者をことごとく」断ち切る、すなわち追い出すと決意している。 ダビデ王にとっては神がゆだねられた実際の都だが、私たちにとっても心を治めることは重要である。なぜなら、私たちのうちに聖霊が住まわれるからである。朝ごとに、自分の心の中に悪いもの、苦い思いが巣くっていないか点検する必要がある。それをことごとく、徹底的に主に明け渡し、除いていただくことが日々の祈りである。王でなくても、自分の心を治めることは主から預かった仕事である。 悪を除き、みこころの判断と選択をしていくための訓練を、日々受け取っていこう。

ガラテヤ3

ガラテヤ3、詩篇105~107 「キリストにつくバプテスマを受けたあなたがたはみな、キリストを着たのです。ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男と女もありません。あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つだからです。」ガラテヤ3:28 キリストを着た者は、その国籍、立場や身分、性別に関係なく、同じ神の子、公同の教会のメンバーとされる。キリスト・イエスにあって一つであり、平等である。 プライドのある人や権力者にとっては不都合なことである。クリスチャンが迫害され、為政者がキリスト教を握りつぶそうとしたのは、平等思想ゆえとも言われる。 しかし、神に比べたらどんな権力や地位もとるに足りない。 牧師や宣教師も、もちろん神の前では小さな存在にすぎない。 その中でキリストにあって仕える者、建て上げる働きにある者とされるのである。 建て上げる働きは、他の人のプライドに耐え、誤解を解き、神に目を向けるようにしていくのである。その労苦に召されたことのゆえに、周囲が敬意を払い、働き人はますます謙遜に仕えていくのである。

ガラテヤ2

ガラテヤ2、詩篇103~104 「しかし、人は律法を行うことによってではなく、ただイエス・キリストを信じることによって義と認められると氏って、私たちもキリスト・イエスを信じました。律法を行うことによってではなく、キリストを信じることによって義と認められるためです。というのは、肉なる者はだれも、律法を行うことによっては義と認められないからです。」ガラテヤ2:16 パウロは救われてから 14年もの間、アラビアの砂漠で過ごしたり、ダマスコを中心に福音を宣べ伝えたりして、いわば目立たない生活を送っていた。その下積みの年月があって神にさらに用いられるようになる。いずれの場所でも、信仰生活では走り続け、神の栄冠を目指して一心に励み続けたパウロだった。 そんなパウロがガラテヤの人々に言いたかったのは、割礼ではなく恵みで救われるということだった。パウロ自身も恵みで救われた。 私たちの回心の方法や環境は問題ではない。ある人は劇的に、ある人は平凡な日常の中での気づきがあって救われた。その恵みのありがたさ、大きさをわかればわかるほど、神の愛に答えたくなる。 今も世界各地で、信仰ゆえに迫害を受けている人々がいる。この恵みとひきかえなら命も惜しくない、キリストを裏切ることはできないという信仰にたっている。 彼ら、彼女らは、まさにパウロと同じく信仰の勇者である。世界情勢が揺れ動くなか、今日も命がけで過ごす彼らを特に祈りに覚える。

ガラテヤ1

ガラテヤ1、詩篇100-102 「今、私は人々に取り入ろうとしているのでしょうか。神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、人々を喜ばせようと努めているのでしょうか。もし今なお人々を喜ばせようとしているのなら、私はキリストのしもべではありません。」ガラテヤ1: 10 パウロは救われたときにすぐに使徒のところに以降ともせず、神との関係に生きるようになった。パリサイ派の人々からは裏切り者といのちをねらわれ、自分自身もすべての後ろ楯を失い、それでも本当に価値のある福音に生きることを確信した。 アラビアの砂漠での年月を通し、その後も知られることなく歩み、主ご自身がパウロに語ってくださったことと救いの確信とを持ち続けた。 パウロの態度は一貫して、人の顔色ではなく神の御顔を見上げていた。 それゆえ、人の評価ではゆるがないこと、神の評価であることを求めていた。 異端児かもしれない。しかし、神がお立てになったものは実現する、そのことをパウロは今日も全身で教えてくれる。 私たちは自分の立場が弱く力がないと思う。しかし、主がよしと言われればその確信に立つ勇気と信頼を持とう。人の顔色ではなく、神の思いをうかがい、その召しを感謝して受け取ろう。

詩篇100

詩篇100、詩篇97ー99 「知れ。主こそ神。  主が 私たちを造られた。  私たちは主のもの 主の民 その牧場の羊。」詩篇100: 3 自分のアイデンティティについて考えることが多かった。とくに牧師夫人というユニークな立場で仕えていた時には、自分自身の召しと違うような、それでも教会に住んで教会の雑務をし、さらに同じ牧師夫人でも立ち位置が様々で、とても悩んでいた。 しかしある時、「主がそれをよしとされた」ということを教えられ、自分に何度も言うようにした。牧師夫人という召しも主から来ていること、主が期待してそれをゆだねられたことを覚えた。今牧師の立場で牧会をしているが、自分の足りなさ、人格的な弱さを覚える時、やはり同じことを確認する。 「私たちは主のもの」「主の民」「主の牧場の羊」である。羊は広い牧場の中で安心して過ごせる。私たちも、主の采配とゆるしの中で今日も生き、動き、話し、仕え、進んでいくのである。

詩篇99

詩篇99、詩篇94~96 「われらの神 主をあがめよ。  その足台のもとにひれ伏せ。  主は聖なる方。」詩篇99:5 神様の豊かな恵みと愛を子どものように親しく受ける私たちだが、同時に神様がすべての支配者であり王の王であるということも改めて心に覚えたい。 親しくても敬うという関係は、親や学校の先生、年長者、同僚、友人などの間で練習することができる。ただ、人間同士だと失敗して互いに気まずくなり、そのままもの別れということもある。 一方、神様との関係は、私たちがごめんなさいと悔い改めれば、神様はいつでも、何回でもゆるしてくださるあわれみ深く忍耐深いお方である。 5節では足台、9節では聖なる山に向かって「ひれ伏せ」と書かれている。 主は何よりも高くそびえる山のようにすべてを見下ろしてご存じの方。 同時に、私たちがその足元のすぐそばまで行き、親しく祈りをささげることができる方である。 神様、私のゆれさまよう心を静め、深いところを探ってください。

詩篇98

詩篇97~99、詩篇91~93 「主は イスラエルの家への   恵みと真実を覚えておられる。   地の果てのすべての者が   私たちの神の救いを見ている。」詩篇98:3 ウイルス感染症、地震、大雨とさまざまな災害が重なるとき、戦争のうわさを聞くとき、絶望のような空気感が世の中にも、そして自分自身の心の中にも生じることを自覚する。 最近、Managing Leadership Anxiety ~Yours and Theirs~(リーダーの不安にどう対処するか) という本の著者、スティーブ・カスSteve Cuss氏のインタビューを聞いた。外側の問題以上に、自分自身の内側に生じる不安をどう神様に取り扱っていただき処理することの重要性を述べる。 ひとつの、そして最上の解決は、主を賛美することである。主のよくしてくださったことを思いだし、主の素晴らしさに目をとめ、被造物として主を礼拝すること、そうすれば自分の造られた目的に立ち返ることができる。 神は恵みと真実を覚えておられる、と3節に書かれている。そして、地の果てまですべての人々が神の救いを見ることができるのである。今の疲れ果て、戦いの終わりが見えないような世界にも、神の救いの恵みは昨日も今日も、変わらず注がれているのである。

詩篇97

詩篇97−99、詩篇89−90 「主を愛する者たちよ。悪を憎め。  主は 主にある敬虔な者たちのたましいを守り  悪者どもの手から 彼らを救い出される。」詩篇97:10 悪とは何か。罪深い出来事や行動、人々はもちろんである。しかし、私の心の中にある否定的な思考や感情も、外面の出来事に負けず劣らず影響を及ぼす。それは自分自身と周りの人々を不信仰にし、神に頼ろうとする視点を遠ざけてしまう。 主に焦点を合わせ続ける者を、主は守ってくださる。とくに心(たましい)を保護してくださる。SNSも、災害や疫病、紛争のニュースも、主から私たちを引き離すものはないという約束がされている。 「だれが、私たちをキリストの愛から引き離すのですか。苦難ですか、苦悩ですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。・・・しかし、これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。」(ローマ8:35~37)

Ⅱコリント13

Ⅱコリント13、詩篇87−88 「あなたがたは、信仰に生きているかどうか、自分自身を試し、吟味しなさい。それとも、あなたがたは自分自身のことを、自分のうちにイエス・キリストがおられることを、自覚していないのですかあなたがたが不適格な者なら別ですが。」Ⅱコリント13:5 信仰の歩みは、キリストの霊である聖霊ご自身が導き、成長させてくださる。そのことに疑いはない。 しかし、私たちが何もしなくても良いのではない。まず、聖霊が内住されていることを自覚すること、そして信仰の歩みを日々しようとすこと、さらにはその歩みができたか自己点検することが必要だと、この節でパウロは勧めている。 救いは恵みである。しかし、甘んじているのではいつまでも成長のないクリスチャンのままである。 キリストがいのちをかけて十字架で死んでくださり復活なさったのなら、その救いを得た私たちも全力でお従いしようではないか。 知性やきれいごとだけでなく、本気度を主は喜ばれる。

Ⅱコリント12

Ⅱコリント12、詩篇84−86 「しかし主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである』と言われました。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」Ⅱコリント12:9 性格的な弱さ、肉体的な弱さ、忍耐のなさ、非常事態への適応力のなさ、感情面の不安定な弱さ…それらを持っているのが私である。 不安になる時、コントロールできない感情に左右される時、確かなのはキリストの力だけだと実感する。自分自身は洞穴に隠れてしまいたいような者なので、キリストの背後に隠れて衣の後ろに触れていようと思うくらいである。 もちろん、パウロは直接的には彼の肉体的な弱さを念頭に語っている。しかし、肉であれ心であれ、弱い私たちをも用いて主ご自身の栄光が現れるなら、喜んで「土の器」(4:7)の質素さ、弱さに甘んじよう。キリストが輝かれるように、キリストが前面に出てくださるように、私たちはその光をみすぼらしい器に入れているのである。 聖霊様、こんなみすぼらしい私の中にも住んでくださり感謝します。私の霊肉が、キリストの素晴らしい輝きだけを反映できますように。自分の悪あがきやプライドで、光を邪魔することがありませんように。今日も感情や言葉を主が支配してください。アーメン

Ⅱコリント11

Ⅱコリント11、詩篇81−83 「もし誇る必要があるなら、私は自分の弱さのことを誇ります。」Ⅱコリント11:30 ユダヤ人から39度むち打たれ、 ローマ人から3度むち打たれ、 石で1度打たれ、 難船したことが3度、 海上を一昼夜漂い、 川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、 町での難、荒野での難、海上の難、 偽兄弟による難、 労し苦しみ、眠れず、飢えと渇き、寒さ、 諸教会への心づかい…(24−28節) パウロほど苦労しながら福音を宣べ伝えた人が、自分の弱さを誇ると言っている。 誰かが弱くなっている時、やみくもに「頑張れ」という言わなかった。代わりに、パウロは自分のようになって欲しいこと、また、その人たちの弱さを自分の弱さとして祈りにかえた。 教会の兄弟姉妹のことも裁くのではなく、弱さを認め祈りに代える思いでいたい。自分だって完全ではないし、皆が忍耐してくれていることを受け止めたい。

Ⅱコリント10

Ⅱコリント10、詩篇79−80 「私たちは様々な議論と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち倒し、また、すべてのはかりごとを取り押さえて、キリストに服従させます。」Ⅱコリント10:5 パウロは、この手紙を自らの使徒としての権威をもって書いている。それは、自分を誇るためではなく(17節に「誇る者は主を誇れ」と引用している)正しい信仰の姿勢をコリントの人が身につけて欲しいからだった。うわべだけを見て人を評価することのないため、またパウロの権威が自分から出たものでなく神に立てられたものであり、真心から忠告しているのだと伝えようとしたからだった。 私たちは、つい自分が優れているかのように錯覚しがちである。それゆえ、批判されたりうまくいかなかったりすると落ち込んでしまう。しかし、全ては主から出たもので、主に導かれて一瞬一瞬の判断をするなら、落ち込むことも疲れ果てることもなくなる。 牧会もミニストリーも、主の命じられることを主と共に日々していくように。主がしなくて良いと導かれること、そのままにしておいた方が良いことは、自分の肉が何かしたがってもぐっと忍耐できるように。主よ、弱い私をお助けください。

Ⅱコリント9

Ⅱコリント9、詩篇77−78 「種蒔く人に種と食べるためのパンを与えてくださる方は、あなたがたの種を備え、増やし、あなたがたの義の実を増し加えてくださいます。」Ⅱコリント9:10 ささげ物について「いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい」「神は、喜んで与える人を愛してくださるのです」「神はあなたがたに、あふれる恵みをあふれるばかりに与えることがおできになります」(6、7節)と述べられている。 そして、与えてくださるのは神であり、私たちの持っているものは神が所有者であることを繰り返し述べている。 日本でも「金は天下の回りもの」という諺がある。しかし、聖書はそれ以上に、神から一時預かり、管理を任されているものだと示してくれる。自分の身辺の維持だけではなく、任されている任務の大きさに応じた用い方が求められているのである。 「良い管理者」として忠実に、そして神様が喜ばれるようなささげ方と活用ができるよう、自分の献金の姿勢、財産・時間・賜物の用い方について神の知恵と助けを求めよう。

詩篇96

詩篇94−96、詩篇74−76 「威厳と威光は御前にあり  力と輝きは主の聖所にある。」詩篇96:6 神が全ての主権をもち、世界の全てを支配することのできるお方である。そうわかりながらも、いつも目に見えるもの、インスタントなものに頼ってしまう私たちである。 かつてイスラエルが滅びに向かっていた時、エルサレムについてイザヤは預言をした。絶体絶命になった時に、民が神ではなく自分の物や知恵に頼ることへの警告だった。 「…その日、おまえは森の宮殿の武器に目を向けた。 おまえたちはダビデの町に破れが多いのを見て、下の池の水を集めた。また、エルサレムの家々を数え、その家々を取り壊して城壁を補強し、…しかし、おまえたちはこれを造った方には目もくれず、遠い昔にこれを形造った方に目を留めなかった。」(イザヤ22:9−11) これを人ごとだと言えるだろうか。今(2021年8月)も、コロナウイルスとの戦いを世界中がしている。先進国をはじめ、こぞってワクチンを打ったり対策を進めたりしているが、それでもまだ感染は続いて難航している。 そうした対策も大切で必要である。ただし、その前提として、まず初めに、神に立ち返ることが必要である。神に頼らなければ人は無力であるという基本に気づくこと、神に目を留めることなしには、どんな問題も究極的な解決は望めない。そのことを教えられているように感じる。

詩篇94

詩篇94-96、詩篇72-73 「私のうちで 思い煩いが増すときに  あなたの慰めで私のたましいを喜ばせてください。」詩篇94:19 「思い煩い」…、私の一番陥りがちな心理状態である。主が素晴らしいのはわかっているし、大丈夫なのもわかっているが、身体が疲れ、気力がなえ、課題が連続した時に、自分では処理不能になる。 そして、頭の中で思い煩うサイクルが無限に回り出す、というパターンであるように思う。 しかし、全く別のことに注意が向けられると、思い煩いと同時に考えることができなくなる。人間の知性はその程度である。そして、状況は特に変化していない。自分自身の思いに最も左右されているのだということに気づく。 たとえ周りに悪が満ちていたとしても、詩篇の作者のように神に寄り頼むことに思いを向けることが大切だと学ぶ。そして、不完全でもその態度を主は喜ばれ、砦であり避け所であり続けてくださる。

Ⅱコリント8

Ⅱコリント8、詩篇70−71 「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」 Ⅱコリント8:9 献金のこと、ささげることについてふれた後、パウロはささげることについて、最も素晴らしい例を挙げる。それは、キリストがご自身をささげてくださった例である。 すべてを所有し、すべてを支配されていた神ご自身が、貧しく制限のある一人の人として地上に来られ歩まれた。それだけでなく、誤解を受け、逮捕され、罪人として断罪され、死刑になられた。 どれだけの犠牲を払っても、キリストほどのささげ方ができる者はいない。 しかも、その貧しさは、私たちを恵みで満たすためであった。 このことを考える時、いったい私は何をけちけちしているのかと思う。私たちは、お金だけでなく自分自身をささげることを問われている。もし自分自身をささげるなら、お金もただ主にお返ししているに過ぎず、私たちが何かよいことをしているとさえ言うことができない。

Ⅱコリント7

Ⅱコリント7、詩篇68-69 「神のみこころに添った悲しみは、後悔のない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。」Ⅱコリント7:10 神様が祈りを聞いてくださるのは、いつも楽しく平和な方向というわけではない。むしろ、なぜこのような結末に、と思ってしまうような祈りの答えを受け取ることがある。 しかし、人が結末はこれだと思っても、神様の結末はその後にあることが多い。 悲しみも、みこころに添ったものはやがて救いに至らせる。死に至らせるこの世の悲しみとは結末が異なる。 だから、一時で判断しないで、神様のご計画に期待と希望を持ち続けよう。これが信仰である。「信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです」(ヘブル11:1)。

Ⅱコリント6

Ⅱコリント6、詩篇66−67 「悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持っていないようでも、すべてのものを持っています。」Ⅱコリント6:10 パウロの労苦と迫害にあった経験とは、普通ならもうこれ以上働けないと思うほどの厳しさだった(4節以降)。しかし、彼の心はいつも喜び満ち足りており、どんな逆境にも負けなかった。それは、キリストが彼を愛し救ってくださったという福音の恵みにいつも根差し、その素晴らしさを味わっていたからだった。 宣教師や開拓伝道者のメンタルヘルスで大切なことは"Rediscover the grace of the Gospel"(福音の恵みを再発見し続けること)だという。異文化と孤独、進まない働きのストレスは、ともすれば結婚生活、家庭生活に影響を及ぼす。働きを続けるためには、日々福音の恵みを再発見し、自分の弱さを通して神の栄光とみわざが現れることを確認し続けるプロセスが大切である。 宣教地や僻地に限らず、私たちがおかれている職場や学校、地域、そして日々の歩みの中で、福音の恵みを再発見し続けること。これが、パウロにとっても、今日の私たちクリスチャンにとっても、燃え尽きず落胆しきってしまわず、喜びと深い平安をもって生きていく最上の秘訣である。

Ⅱコリント5

Ⅱコリント5、詩篇60−62 「ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました 。 」Ⅱコリント5:17 キリストの救いを頂き、永遠の住まいがあるという保証は御霊である(5節)という。1:22にも「神はまた、私たちに証印を押し、保証として御霊を私たちの心にあたえてくださいました」とある。 だから、聖霊の臨在を覚えながら日々歩むのは、私たちの救いを確認し、希望を失わないために大切である。たとえ体調が悪くても、気分が乗らなくても、確かに救われて永遠の望みがあるということを証印として聖霊がご自身の存在を持って示してくださる。 それは理性、知性だけではできない。なぜなら、理性や知性は認知機能や思考が衰えれば働きにくくなるからだ。しかし、聖霊によって歩むのは、たとえそうした働きが弱っても可能である。 しばらく前にある高齢者施設を訪れた。認知症になられた方が、天を見上げてお祈りされる姿、「アーメン」と心から言われる姿に、聖霊の働きを感じた。私たちがたとえ自分の名前を忘れるようなことがあっても、神は私たちを忘れておられない。 救いをいただいた時点で「すべてが新しくなりました」(17節)。私たちはその希望を持って、今日も新しい人生の最新の1日を歩むことができる。

Ⅱコリント4

Ⅱコリント4、詩篇60−62 「私たちは、この宝を土の器の中に入れています。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものではないことが明らかになるためです。」Ⅱコリント4:7 この章では 「落胆することがありません」(1節)、「落胆しません」(16節)と2度も書かれている。神への務めが割り当てられ、それは神のあわれみによる。私たちの外見の弱さや、私たちの能力の足りなさに左右されない。なぜなら、私たちは土の器であり、神が私たちを召された、ということを述べている。 パウロにも外見の弱さや人格的な足りなさがあった。しかしながら、神がパウロを用いられたのは、神のご計画と召し、あわれみによるということである。 私自身も、自分の未熟さ、心身の弱さ、傷つきやすさを見るとき、主の働きには到底耐えることができない者であると思う。人からの妬みや恨みも買いたくないし、不安定な将来を生き抜くことができるとも思わない。しかし、ただ主が召されたから、そして主が望んでおられるから、あわれみによってこの働きに集中するように導かれたから、光栄なことと受け取り、はいと従うのみである。

詩篇92

詩篇91−93、詩篇57−59 「彼らは年老いてもなお 実を実らせ  青々と生い茂ります。」詩篇92:14 「安息日のための歌」と書かれている。安息日はただ休むのではなく、神様のことを思い、賛美と感謝の思いに満たされて安らぐ日である。 そうしたリズムを守り、神に信頼している人は年齢にかかわらず青々とみずみずしい生き方ができる。 節目節目で、自分も弱くなってきたなあと思うこと、かつてのようにユースの集いで仲間意識を持ってもらえないことに年齢を感じたりすることが増えている。がっかりすることもあるし、人生の終わりに向けて考えることも多い。しかし、逆にこれまでの歩みを統合し、若い時にはできなかったようなやり方ができる。 実を実らせ、青々と生い茂る人生が前にひらけているならば、老いることをもっと前向きに捉え、楽しみ、死の後にも天国があるという望みに生きよう。

詩篇91

詩篇91−93、詩篇54−56 「いと高き方の隠れ場に住む者  その人は 全能者の陰に宿る。  私は主に申し上げよう。  『私の避け所 私の砦   私が信頼する私の神』と。」詩篇91:1−2 子どもの頃、秘密基地を作るのが好きだった。草むらでも作ったが、家の中で段ボールを使って自分だけの居場所を作るのはワクワクした。段ボールの中にいると、自分が包まれているように落ち着いた。 私たちは本能的に安心できる場所、身を任せることのできる場所を探しているま。それは肉体的に必要というよりは、精神的、霊的に安らぐからである。 それは、神様が私たちをそのように作られたからだーー真の隠れ場である、神様のもとにいくように。そこで永遠の平安と完全な安全を得るために。 神のもとに行き、ざわざわする生活、目に入る情報を横に置いて、安らぎ寄りかかり平安を得よう。

Ⅱコリント3

Ⅱコリント3、詩篇51−53 「何かを、自分が成したことだと考える資格は、私たち自身にはありません。私たちの資格は神から与えられるものです。」Ⅱコリント3:5 教会の働き、様々なミニストリー、調教派の奉仕など、関わるものは人それぞれである。しかし、主の御心にかなった働きであれば種類は関係ない。そして、主が導かれて続いていく働きに共通するのは、バトンを渡していくことである。 段々と長期的な引き継ぎのプランを祈り求める年代になってきた。バトンを渡すというのは、自分自身が中心的な存在でなくなるということである。そして、自分よりも次のリーダーが人々に愛され、重んじられていくということである。 その時に謙遜さと主にある自己肯定感が必要とされる。そうでなければ、サウル王のように妬みで失敗するか、自分たちの奉仕を渡さないという執着心に満ちたクリスチャンリーダーになってしまう。 主よ、どうか私の心からしがみつく思い、妬む思いを取り去ってください。主が与えた資格を、奉仕を、自分自身のもののように思う誤解から自由にしてください。どのような立場であっても、喜んで主に仕え、喜んで主と交わり生活を楽しむことができますように。アーメン

Ⅱコリント2

Ⅱコリント2、詩篇49−50 「しかし、神に感謝します。神はいつでも、私たちをキリストによる凱旋の行列に加え、私たちを通してキリストを知る知識の香りを、いたるところで放ってくださいます。」Ⅱコリント2:14 キリストの凱旋行列!勝利した人が町を練り歩き、人々が歓声とともに喜びに満たされるのが凱旋行列である。キリストの一行の一員として加えてくださるとは、なんという栄光だろうか。 その栄光を知っていたからこそ、どんなに涙や労苦があってもパウロは宣教をやめなかった。いつもキリストの凱旋行列を霊の目で望み見ていたからだった。 しかも、天国まで待つ必要はなく、今この地上でも、キリストの名が受け入れられ、洗礼が授けられ、解放が与えられ、クリスチャンが主を礼拝賛美するところには、キリストの凱旋行列が行われている。 主よ、いつも霊の目で見ることを教えてください。見えるものでなく、見えないそして素晴らしい報酬を見ることができるように、味わい知ることができるように、今日も導いてください。

Ⅱコリント1

Ⅱコリント1、詩篇46−48 「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。それで私たちも、自分たちが神から受ける慰めによって、あらゆる苦しみの中にある人たちを慰めることができます。」Ⅱコリント1:4 パウロは、少なくとも4通の手紙をコリントの教会に送った。さらに、第一の手紙と第二の手紙の間に、コリントの教会を短く訪問した。どれほどコリントの教会を愛しているかがわかる。 さらにアジアでひどい苦難にあい、死を覚悟するほどだったことがわかる(8−9節)。しかし、かえってそのことで自分の弱さを痛感し、神に頼る弱い者の恵みをしみじみ体験した。 主に仕える者、教会に仕える者として、誤解されることや理解してもらえない痛みは、覚悟していても辛く悲しいことである。何より自分の足りなさを痛感する。 しかし、その度に神様が召されたからこの働きをしている、という動機に立ち帰り、弱い者への恵みと光栄を確認するのである。 パウロですら一筋縄ではいかなかったことを、主の恵みにより委ねられている。これが喜びであり誇りであり原点である。 主が召してくださった、それ以上にこんなに不完全で弱い者が立たせられ続ける理由はない。

Ⅰコリント16

Ⅰコリント16 「目を覚ましていなさい。堅く信仰に立ちなさい。雄々しく、強くありなさい。一切のことを、愛をもって行いなさい。」Ⅰコリント16;13−14 献金のこと、兄弟たちのこと、来訪者への対応、と細々したことを最後に書きつつも、パウロの要点は「愛をもって」行うことであること、お互いに兄弟愛を表して欲しいということである。 パウロはコリントの教会にただ叱責やアドバイスを送るだけでなく、彼自身の誠意と愛も表している。最後に自分の手であいさつを書くのも、目の悪いパウロにとってコリントのクリスチャンたちへの愛と親しみの表れであった。 伝道者、開拓者としてだけでなく、牧会者、教師としてのパウロの姿勢にも学ぶものが多くある。

Ⅰコリント15

1コリント15、詩篇43−45 「ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは無駄にはならず、私はほかの全ての使徒たちよりも多く働きました。働いたのは私ではなく、私とともにあった神の恵みなのですが。」Ⅰコリント15:10 この章でパウロは福音について説明し、またやがて復活のからだとされること、死がすでに勝利に飲み込まれたことを確認し、そして「堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから」(58節)とコリントの教会の人々を励ましている。 パウロの救いの経緯やそれまでの行いを思うと、彼には自分がただ神のあわれみによって福音の働きに任命されたことはあきらかだった。だから、全力で神の愛に応えたかったのだ。たとえ弱さがあっても、目に病気があっても。そして、労苦は決して無駄でないと彼自身も知っていた。それは、肉体的な困難を超えて余りある、神の恵みの大きさ、天的な報いの大きさだった。 私自身も、疲れやすく肉体の弱さと限界を日々感じる。また、自意識過剰になったり、人が怖くて引っ込み思案になりがちな者である。しかし、それでも神様が私への召しを与え、空を打つような拳闘(9章)ではなく、主が導かれた的を見極めて打つようにと願っておられる。パウロの励ましを受け取り、的を見極めるための休息を取ることも学びつつ、勇気を出して今日も歩んでいきたい。

Ⅰコリント14

Ⅰコリント14、詩篇40-42 「それでは、どうすれば良いのでしょう。私は霊で祈り、知性でも祈りましょう。霊で賛美し、知性でも賛美しましょう。」Ⅰコリント14:15 パウロは預言の賜物を追い求めなさい、と冒頭で勧めている。それは、異言だけでは教会の他の人の徳を高めることができないから、解き明かすためである。 そして、この章で言っていることは一貫して教会の中が混乱せず、秩序を持って礼拝するように配慮することである。 意味のわからないことばで祈ったり、誰彼なく大きな声で話したりするのでなく、秩序と愛を持ってしなさい、と勧めている。 その意味で、異言はとても良いものだが配慮して使うものであるのと同じように、女性もうるさいおしゃべりを控えなさいということである。 後半は女性教職を認めるかどうかでよく取り上げられる箇所である。私自身も女性教職であるから、この箇所をどう受け取ったら良いのだろうかと迷ってきた。 しかし、パウロがこの章を書いた文脈に照らすと、男女の役割や女性教職を禁じているというよりは、教会の中で無用なおしゃべりや混乱を避けるようにというアドバイスであるように理解できる。何よりも、礼拝に集中することのできる雰囲気、兄弟愛に基づく思いやりを大切にするようにという勧めであろう。

詩篇90

詩篇88-90、詩篇37-39 「どうか教えてください。自分の日を数えることを。  そうして私たちに 知恵の心を得させてください。」詩篇90:12 モーセの祈りの詩篇である。モーセほどの素晴らしいリーダー、神との親しい関係にあった人が切に祈っている詩篇は、ゆっくり朗読し心を重ねて自分自身の祈りともしたい。 なかでも、12節で「自分の日を数えることを教えてください」と願っていることを覚える。人生はいつまでも続くのではない。その中で、神様が与えてくださった使命を受け取り、ぶれずに歩むことができれば幸いである。そのためには神からの知恵もまた必要である。

詩篇88

詩篇88−90、詩篇35−36 「主よ 私の救いの神よ   昼 私は叫びます。夜もあなたのみそばで。」詩篇88:1 死に瀕するような危機の中で、詩人は神に昼も夜も朝も(13節)祈っている。 それはきれいな祈りではなく「叫び求め」るものであり、なりふりかまわず、というほどのものである。 どうしてこのようなことが起こるのでしょう、という出来事や災難がふりかかるときがある。 これを書いているちょうど2021年の7月、コロナウイルスや思いがけないハプニングの中、東京オリンピックが始まった。リーダーシップをとっている人たちはまさに大変なプレッシャーと責任を負っているだろうから、彼らのためにも覚えて祈りたい。何よりも、こうした重圧の中で叫び求めることのできるお方がすぐそばにおられることを知ることができるように祈りたい。 主を知ることが知恵と知識のはじめである、それは変わらない真理である。

Ⅰコリント13

Ⅰコリント13、詩篇33−34 「こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。」Ⅰコリント13:13 愛についての章として有名である。 信仰と希望と愛が残り、その中でも一番すぐれているのが愛であるという。信仰と希望、その二つも素晴らしいものである。 しかし、愛が最も優れている。というのは、愛の中にはねたまず高慢にならないこと、寛容さや真理を喜ぶことが含まれている。そして、「すべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍びます」(7節)と、信仰と希望も包括してしまうからである。 愛は弱々しいものではない。強く、ダイナミックで、頼りがいがあるものである。そして、神はご自身を「神は愛です」と表現なさっている。愛の性質は、そのまま神の御性質でもある。

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