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6月, 2023の投稿を表示しています

イザヤ17

「その日、人は自分を造った方に目を留め、その目はイスラエルの聖なる方を見る。」イザヤ17:7 神が願われるのは、人間が神ご自身を知り、神から目を離さないように歩むことです。 そして、神はご自身の栄光を現したいと願っておられます。 創造主を否定し続ける国々への裁きは、神のその願いが根底にあります。 ジョン・パイパーという人は「偉大な神を知ることこそ、教会の命の根幹だと私は確信しています」と書いています(「なぜ説教の中心が神なのか」、CBIプレス)。 教会が、そして私たち一人ひとりが、神を知ることをいつも一番の願いとできますように。 祈り:神様、偉大な神、聖なるお方であるあなたをもっと深く知りたいです。夏の様々なプログラムが、神を知る人が起こされ、すでに知っている人がより神を近く知る機会となりますように。アーメン

イザヤ16

「これが、以前から主がモアブについて語っておられたことばである。」イザヤ16:13 モアブに神様の裁きが及ぶ前には、何度も警告があったことがわかります。神様の警告に従って悪を悔い改めるなら赦されていたことでしょう。 しかし、度重なる警告に耳を貸さず、自分勝手な道に歩み偶像礼拝をささげていたならば、申し開きできませんね。 警告は、神の愛のあらわれと言えます。ひとりも滅びずご自身の元に戻ってくるようにと、神様は今日もみことばを通して警告してくださいます。 弟子ぺテロはイエス様のことを「知らない」と三度否認しましたが悔い改めました。そしてゆるされ、用いられていきました。 私たちも、神の前に失敗してもごめんなさいと悔い改め、ゆるしを頂き、神の導きの方向へ今日も歩んでいきましょう。 祈り:神様、私の心には____で失敗したことがひっかかっています。今あなたの前にそのことを持っていき、至らなかったことを悔い改めます。どうぞ赦してください。主のみ思いを歩みたいです。導いてください。アーメン

イザヤ15

「モアブについての宣告。『ああ、一夜のうちにアルは荒らされ、 モアブは滅び失せる。 ああ、一夜のうちにキルは荒らされ、 モアブは滅び失せる。』」イザヤ15:1 モアブ人はロト(アブラハムの甥)と娘の子孫です。イスラエルの近くに住みましたが、トラブルが続き、イスラエルの悩みの種でした。「アル」「キル」はモアブの地名です。 彼らが滅ぼされたのは、出自や地勢ゆえではありませんでした。それはモアブの高慢ゆえでした。主なる神を神とせず、偶像礼拝に陥っていたからでした。 一夜ですべてを失ったのは、ヨブ記のヨブも同じでした。しかし彼の場合は、神を恐れる人であり、神もヨブを愛していました。そして、苦しいところを通るものの、最後には神の回復が行われました。 災害や戦争のため、一瞬で廃墟になってしまう町のニュースに心が痛みます。 しかし、その中で避難する人たちをクリスチャンが祈り励まし、必要なものを提供している働きを応援している姿、ともに聖書を読み祈る姿に希望をみます。ヨブのように神に信頼する人に、必要の守り、心身の支え、そして回復がありますように。 祈り:神様、モアブのように高慢と偶像礼拝に陥ることがないよう、心をお守りください。自分の蓄えや持ち物でなく、神に頼ることができますように。 ウクライナ、スーダン、ミャンマーの破壊された町、原発の被害ゆえまだ帰れない町や村の人々を慰め、励ましてください。主にあって回復がありますように。アーメン

イザヤ14

「異邦の使者たちにどう答えるべきか。 『主がシオンの礎を据えられたのだ。 主の民の苦しむ者たちは、ここに身を避ける。』」イザヤ14:32 「居場所」という言葉をよく聞きます。そこにいるだけでほっとできる場所、自分が安心して「いてもよい」と感じられる場所のことです。 特に弱い立場の人、悩む人、恵まれない人にとって、居場所があるかどうかは大きなことです。 今日の箇所で、「主の民の苦しむ者たち」の居場所が「シオン」つまりエルサレムだということがわかります。それは、主が礎を据えられ、建ててくださった町だからです。主がその囲みを守り、主が共にいてくださる町だったからです。 今日の私たちには、信じる一人ひとりの心に聖霊がいてくださるので、心の中に平安がやってきます。そして、教会が神の臨在を共に賛美する「居場所」だといえます。 この世の価値観は変化し、やがて過ぎさります。しかし、神の元にある憩い、神の教えと真実は、時代が変わっても過ぎ去ることはありません。 祈り:神様、教会が「居場所」として、疲れた人、悩み苦しむ人に主の愛をながしだす場所となれますように。私たちは不完全で欠けだらけですが、主にある愛と価値観を育むことができますように。アーメン

イザヤ13

「わたしは人を純金よりも、 人間をオフィルの金よりも尊くする。」イザヤ13:12 「黄金のエルサレム」という曲があります。日本人としては短調の少し暗いメロディーですが、イスラエルの第2の国歌とも言われるくらい、愛されている曲です。 その曲を通して、イスラエルの人たちは祖国の歴史を思い、祖国への愛を確認することでしょう。 「黄金」と同じように価値がある、失いたくない都だというのが、曲名からもわかります。 神様は人を「純金よりも」「オフィルの金よりも」尊くすると言われました。「オフィルの金」はとりわけ価値のある金だったようです。 神様が人を価値のある、失いたくない存在だと思ってくださる愛が、バビロンへの宣告の中でも語られます。 6月も最後の週です。1年も半分近くが過ぎました。月日のたつのは早いですが、ふり返った時、一日一日に神様が共にいてくださる足あとを見ることができますように。 祈り:神様、あなたが私の存在を価値あるもの、かけがえのないものとして愛してくださり感謝します。孤独や失望の中にある人に、主の希望が届きますように。私自身も、毎日主とともに歩む、心の深い満足と平安をかみしめます。アーメン

イザヤ12

「見よ、神は私の救い。 私は信頼して恐れない。 ヤハ、主は私の力、私のほめ歌。 私のために救いとなられた。」イザヤ12:2 不安な時とはどんな時でしょうか。将来が見えない時、自分の今いる環境が揺らぎそうな時、つまり予測できないときや安定が失われそうな時に私たちは不安になります。 すべてを予測でき、安定して揺らがない方こそ、私たちの神です。その神の元に身を寄せる時、恐れないのだとこの聖句は語ります。 たとえ自分の周りが嵐のようでも、そこに錨のように、また動かない岩のように神はおられます。だから、神に信頼できることを知っている人は幸いです。 今週も、神の元に身を寄せましょう。 祈り:神様、私の周りには暴風が吹き、自分では進めないほどです。でも、あなたに身を寄せ、離れずにいるとき、すべてを治める主ご自身が守ってくださると信じます。「神は私の救い、私は信頼して恐れません。私の力、私のほめ歌、私の救いである(2節より)」主とともに、新しい週も歩ませてください。アーメン

イザヤ11

「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。その上に主の霊がとどまる。 それは知恵と悟りの霊、 思慮と力の霊、 主を恐れる、知識の霊である。」イザヤ11:1~2 今日の箇所はメシア預言です。その方の上にとどまる「主の霊」とは、「知恵と悟りの霊」「思慮と力の霊」「知識の霊」だとあります。 続く3・4節には 「この方は主を恐れることを喜びとし、 その目の見るところによってさばかず、 その耳の聞くところによって判決を下さず、  正義をもって弱い者をさばき、 公正をもって地の貧しい者のために判決を下す」と続きます。 まさにキリストが地上で歩まれた姿、そしてやがて来られる時の姿です。 そのキリストの霊、聖霊は、私たち信じる者にも与えられています。 古い肉の性質はそれに逆行し、妨げようとします。日々内には戦いを覚えます。けれども、そんな私たちと聖霊が共にいてくださること、とりなしてくださることは何という幸いでしょう! 祈り:神様、主の霊が信じる者と共にいてくださることに感謝します。弱く、否定的になりがちな私を助けてください。主のみ思いに私の思いを向けることができますように。この週末、学生やユースの交わりに主の霊が豊かに働いてください。アーメン

イザヤ10

「その日になると、イスラエルの残りの者、ヤコブの家の逃れの者は、もう二度と自分を打つ者に頼らず、イスラエルの聖なる方、主に真実をもって頼る。」イザヤ10:20 強い国や人ではなく、神に頼るようになる、という信仰の回復が宣言されています。 私たちも、つい他者の評価や言葉、自分自身の力に頼りがちです。 努力するのは悪いことではありません。しかし、自分の頑張りが全てではないということに気づくことも大切です。 今、人生が思い通りにいかないと感じていたら...、自分のことをマイナス評価する人にではなく、決して見捨てず最善を知ってくださる主のもとに行き、休息し、新たな希望、展望をいただくチャンスです。 主により近づく一歩をふみ出す人、キリストについて行く決心をする人が、教会や私たちの周囲にさらに与えられますように。私たち自身も、主の元で憩いつつ、主と共に状況を見渡すことができますように。 祈り:神様、今人生の岐路に立っている___さん、____さんを覚えます。主に頼りながら、主が備えておられる方向を選ぶことができますように。信仰告白や受洗を迷っている___さん、___さんが、主の真実さと愛を実感し決心できますように。 私自身も、今日一日主に頼り、いつも主の臨在を意識し、祈り心で歩めますように。アーメン

イザヤ9

「ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。 ひとりの男の子が私たちに与えられる。 主権はその肩にあり、 その名は『不思議な助言者、力ある神、 永遠の父、平和の君』と呼ばれる。」イザヤ9:6 6節は最も有名なメシア預言のひとつです。キリストのご性質が4つあげられていて(不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君)、どれもじっくり思い巡らしたい表現です。 イザヤ書は「預言書」と呼ばれるとおり、当時のことだけでなく後に来ることを預言しています。さらに、まだ実現していないけれど、これから来ることも預言されています。 ちまたの「予言」は恐怖や否定的なことを言いますが、聖書の「預言」は神のことばを預かることです。神様のみ思いが、預言者を通して語られています。そこには希望と平和があります。 「平和の君」であるキリストが人となって来てくださったこと、もう一度来られることは、人類にとって大きな希望です。また、私たち一人ひとりのにとっても、生きる希望です。 祈り:神様、「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君(6節)」であるあなたを、もっと知ることができますように。今日一日の歩みも助けてください。アーメン

イザヤ8

「それから私は女預言者に近づいた。彼女は身ごもって男の子を産んだ。すると、主は私に言われた。『その名をマヘル・シャラル・ハシュ・バズと名づけよ。』」イザヤ8:3 生まれた子どもに名前を付ける時、聖書の書かれた時代にはしばしば状況などを表す象徴的な名前がつけられました。イザヤと妻である女預言者の間に生まれた子どももそうでした。「分捕り物はすばやく、獲物はさっと(持ち去られる)」の意味でした(名付けられた子どもがかわいそうな気もしますが、聖書には改名する人の例も出てきますね)。 4節には「それは、この子が『お父さん。お母さん』と呼ぶことを知る前に、ダマスコの財宝とサマリアの分捕り物が、アッシリアの王の前に持ち去られて行くからである」とあります。これからの時代について、預言者夫婦が愛する我が子の名前によって、つまり身をもって示すようにと、神様は命じられたのでした。 私たちは、子どもの名前を指定されることはないかもしれません。けれども、信仰者として、この時代を見張り祈って、警鐘を鳴らしたり正しい方向を示したりすることを、神は望まれます。 周りに流されるのではなく、逆に周りに影響力を与える歩みをさせて頂けるよう祈りましょう。 祈り:神様、今の時代に生かされている者として、あなたのみ思いを反映できるように導いてください。人がどう想うかより、主がどう思われるかに心を向けることができますように。今日も一人ひとりに導きと主の励ましを与えてください。アーメン

イザヤ7

「それゆえ、主は自ら、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。」イザヤ7:14 クリスマスでもよく聞く聖書のことばです。マタイ1章23節で読まれることが多いのですが、その引用元は今日の箇所です。 戦いの多かったイザヤの時代は、日本の戦国時代のような緊張感があったことでしょう。そして、イエス様の生まれた時代もローマによる支配が行われ、やはり穏やかでない世相の中にありました。 そんな中で「インマヌエル」すなわち「主がともにおられる」とは希望の約束でした。 現代も、戦争や災害や痛ましい事件が日々起こります。どこに希望があるのか、と想うような日があります。けれども、今日も主の同じ約束が続いています。「わたしは共にいる」と堅く立ち、私たちを抱いてくださるインマヌエルの主に頼って一日過ごしましょう。 祈り:神様、希望のない世界に見えても、あなたが変わることなく、共にいてくださることに感謝します。うつ状態で悩みの中にある___さん、____さんに、あなたが見捨てない方であること、共におられるインマヌエルの救い主であることが明確にわかりますように。救いの確信を与えてください。アーメン

イザヤ6

「互いにこう呼び交わしていた。『聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。 その栄光は全地に満ちる。』」イザヤ6:3 セラフィムたち(天使)がこのように叫んでいたのを、イザヤは聞きました。そして、叫び声のために神殿が揺れ、宮に栄光の煙が満ちたのを見ました。 素晴らしい光景と共に、イザヤの罪の赦しが宣言されます。 さらに、今度はイザヤが応答する番でした。 「だれを、わたしは遣わそう」という主の声に 「ここに私がおります。私を遣わしてください」と答えます。 なぜ即答できたのでしょう。それは主の栄光の素晴らしさを知り、罪赦されたからです。 私たちもイザヤと同じような状況にありまうs。罪赦され、主の素晴らしさを知っているからです。では、私たちの応答はどうでしょうか。イザヤと同じなら、幸いです。 祈り:神様、あなたの素晴らしさと罪の赦しを感謝し、ほめたたえます。いつも原点に戻り、主の恵みとご栄光に思いを向けることができますように。今週の一人ひとりの働きをお守りください。主が「遣わそう」と言われた場所で、主の臨在を感じることができますように。アーメン

イザヤ5

「こうして人間はかがめられ、人は低くされる。 高ぶる者の目も低くされる。  しかし、万軍の主はさばきによって高くなり、 聖なる神は正義によって、 自ら聖なることを示される。」イザヤ5:15~16 神の高さと、人間の立場というものを考えさせられます。 自分がまるで神であるかのように考えている人が何と多いことでしょう。それどころか、人間に利益を与えてくれる召し使いのような神々を求めて、多くの人が参拝したり賽銭を入れたりしています。 しかし、聖書ははっきりと「神は人よりも高い」と書いています。私よりも私をよく知り、私のすべてをわかっておられる神様です。目先の願掛けやお願い事だけでなく、人生を委ねる(元々は神のものですが)ことのできる方です。今週の歩みを始める時、願いをすでに知ってくださっている主に感謝をささげて一歩踏み出しましょう。 祈り:天の神様、私のすべての思いと願いを知ってくださり感謝します。あなたが私を生かしてくださっていることを味わいながら、今週も歩みます。生きている意味がわからないと悩んでいる人や、自分の命は自分のものだと思っている人が、人生は主のもの、命は神のものだと気づくことができますように。生きる希望が主にあって与えられますように。アーメン

イザヤ4

「その日、主の若枝は麗しいものとなり、栄光となる。地の果実はイスラエルの逃れの者にとって、誇りとなり、輝きとなる。」イザヤ4:2 3章での悲しい状況を回復させることができるのは、「主の若枝」であるメシアただお一人です。 旧約時代の人たちはそのことを信じて、メシアの到来を待っていました。 私たちが「マラナタ」、「主よ来てください」と待っているのも、キリストが再び来られ、さばきをなさり、新しい統治をされることを期待しています。 でもそれだけではありません。悲しい思い、すさんだ心にメシアなるキリストが入ってくださるのは、今すでに実現しています。「神の国はあなたがたのただ中にある(ルカ17:21)」と言われたイエス様のことばを、今日胸に手を当てて確認しましょう! 祈り:神様、神の国の現れを待ち望みます。そして、すでに私の心にはキリストが来てくださり、治めてくださっていることに感謝します。この週末も、キリストを心にお迎えした信仰の友や、心にお迎えしたいと願っている方々と共に過ごせることが楽しみです。主が交わりのただ中にいて、私たちを整え、建て上げてください。アーメン

イザヤ3

「まことに、見よ、万軍の主、主は エルサレムとユダから、 支えと頼みになるものを除かれる。 すべての頼みのパン、すべての頼みの水、」イザヤ3:1 厳しいさばきのことばが出てきます。さばきは人々の罪ゆえです。 そして、人々が主以外のものに頼っていること、神抜きで高ぶっていることを指摘されます。 神よりも、パンや水を支えと頼みにしている、というイメージが持てるでしょうか。 今の日本で言うなら、食料はもちろんのこと、貯金、不動産、保険...といったもろもろのことも含まれるでしょう。 そうしたものは悪いわけではありません。むしろ、思慮深く大切なものでしょう。 しかし、それらを神よりも頼りにするならば、主を悲しませることになります。 なぜなら、この世にある一切のものも、リスク分散の知恵も、すべては主から与えられたものだからです。 多くの人は手元のものだけを頼って不安を覚えておられます。主を見上げる信仰と天を想う視野が、多くの人に開かれますように。 祈り:神様、すべてはあなたのものです。主に頼り、天にあるものを見上げる信仰を与えてください。私のライフスタイルが主の守りをあかしするものとなりますように。 生活や将来に不安をかかえる____さん、____さんがキリストと出会い、心に平安を得ますように。アーメン

イザヤ2

「終わりの日に、 主の家の山は山々の頂に堅く立ち、 もろもろの丘より高くそびえ立つ。 そこにすべての国々が流れて来る。」イザヤ2;2 イザヤ書の中にはメシア預言が多く出てきます。また、キリストによって成就するだけでなく、これから終わりの日に成就する内容が重なっていることもあります。 神様が裁きだけでなく、希望を与えるお方だ、ということがよくわかります。  多くの民族が 「さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。 主はご自分の道を私たちに教えてくださる。 私たちはその道筋を進もう。」と言うこと(3節)や、 剣を鋤に、槍を鎌に打ち直し、もはや戦いがないこと(4節)も希望です。 日々、戦争や事件のニュースには心が痛みます。しかし、それで終わりではないことを覚え、今日も痛みを祈りに代えましょう。 祈り:神様、希望を与えるお方であることに感謝します。______の知らせ、____のニュースに心痛めています。主のご介入と解決を信じ、祈り続けます。アーメン

イザヤ1

「さあ、来たれ。論じ合おう。 ──主は言われる── たとえ、あなたがたの罪が緋のように赤くても、 雪のように白くなる。 たとえ、紅のように赤くても、 羊の毛のようになる。」イザヤ1:18 イザヤ書は、ユダ王国に対する厳しいことばで始まります。罪に満ちた社会と形骸化したささげものへの、嘆きとさばきが並んでいます。 しかし、どんな罪も主への悔い改めがあるなら「雪のように白くなる」とも語られています。 私たちはどうでしょうか。法を犯したとか、目に見えて非のある罪は認めやすいでしょう。しかし、心の底にある憎しみ、赦せない心、嫉妬心、恨みなどは、罪深いのにベールをかけて覆ってしまいがちです。それはちょうど、形ばかりのささげ物ですませていたユダ王国の人々と同じようです。 そして、隠したように思えても、言動のはしばしに心の思いが現れるので、完全に繕うことはできません。 心の思いを主に探っていただき、汚さを認め悔い改め、聖霊の働きやすい柔らかい心に整えていただけますように。 祈り:神様、私の心にある罪深い思い、否定的な思考の癖、頑固な考え方を悔い改めます。自覚していない罪、知らずに誰かを傷つけてしまったこともどうぞ赦してください。主のあわれみと赦しが必要です。私の心を柔らかく砕かれたものに造りかえ、あなたのお名前をあがめる器としてください。アーメン

雅歌8

「封印のように、私をあなたの胸に、 封印のように、あなたの腕に押印してください。 愛は死のように強く、 ねたみはよみのように激しいからです。 その炎は火の炎、すさまじい炎です。」雅歌8:6 情熱的ですね!自分自身を「封印のように」相手の身体に押してくださいとお願いしています。「愛は死のように強く」という激しい感情も表れています。 実際に「死のように強い愛」を実践してくださった方がイエス・キリストです。その強い愛が私たち一人ひとりに向けられていると、考えたことがあるでしょうか。私たちはその愛に、日々なんと鈍感で無表情な者でしょうか。 主への私たちの反応が「私をあなたに封印のように押印してください」という心からの願いでありますように。 祈り:神様、あなたの愛は「大水もその愛を消すことができません。奔流もそれを押し流すことができません(7節)」というほどです。感謝します。私を、あなたの内に封印のようにとどまらせてください。どんな嵐がやってきても、安全でゆるがない岩である主が守ってくださることを信じて感謝します。アーメン

雅歌7

「恋なすびは香りを放ち、 私たちの門のそばには、 すべての最上の果物があります。 新しいものも、古いものも。 私の愛する方よ、 これはあなたのために蓄えておいたものです。」雅歌7:13 男女の愛の様子が描かれています。自分の大切な人のために最善を尽くし、最良のものを差し出したいという心が現れています。 「あなたのために」という無私の心は、キリストが私たちのために十字架にかかられた時の愛に通じます。そして、その恵みに応答する私たちの神への礼拝の姿勢でもあります。 礼拝も献金も、強制されるものではありません。主なる神様への感謝の現れです。神と自分との関係がこの男女の愛のように純粋なものか、今日の章はふり返る機会を与えてくれます。 祈り:神様、私を永遠に愛してくださり感謝します。___さん、____さんが主の愛を知り、受けとることができますように。 あなたへの感謝の思いで礼拝をささげていきます。どうぞ受け取ってください。アーメン

雅歌6

「気づいたら、 私は民の高貴な人の車に乗せられていました。」雅歌6:12 雅歌の文脈とは外れるかもしれませんが、信仰者の人生はこれと似ていると思います。 経緯は様々ですが、私たちは「キリストを信じます」と決心しました。 そうすると、神様がその人を永遠のいのちにつながる高貴な車に乗せてくださったからです。 これ以上ない素晴らしいお方が、これ以上ない希望の道へといざなってくださいました。 雅歌の描写から神様のみ姿をくみだしましょう!主の優しさと麗しさを思いつつ、新しい週も共に出発しましょう。 祈り:ハレルヤ、「麗しい主 その名はイエス 栄光の主 平和のみ救い♪」と賛美します。素晴らしく麗しい主が、私を呼び、私の身代わりになり、永遠のいのちをくださいました。共に永遠に過ごしたいと願ってくださり感謝します。あなたから私の心が離れることがないよう、今週も抱き導いてください。アーメン

雅歌 5

「私は眠っていましたが、心は目覚めていました。 すると声がしました。 私の愛する方が戸をたたいています。『わが妹、わが愛する者よ。 私の鳩よ。汚れのないひとよ。 戸を開けておくれ。 私の頭は露にぬれ、 髪の毛も夜のしずくでぬれているので。』」雅歌5:2  女性は「眠っていても心が目覚めている」と言います。この後男性が去って行く部分のやりとりは、学者でもなかなか難しいそうです。けれども、なんとも柔らかい、美しい描写が続いています。 「身体が眠っていても心が目覚めている」というと、重い病状の人や寝たきりの人の状態を思い出します。反応が鈍くても、耳は最後まで聞こえるそうです。何より、その人の霊は衰えず、目覚めています。 たとえ身体でうまく応答できなくても、心で「キリストを信じます」と決心している可能性もあります。私たちにはわからない反応でも、主はご存じです。最後まであきらめず福音を伝えることの大切さを感じます。 祈り:神様、人間に霊を与えてくださり感謝します。あなたと交わりを持つことができるようになりました。私の霊に今日も語りかけ、教え導いてください。感情や見えるものに流されず、み思いに従うことができますように。アーメン

雅歌4

「私の妹、花嫁よ。 あなたの愛は、ぶどう酒にまさって麗しく、 あなたの香油の香りは、 すべての香料にまさっている。」雅歌4:10 アロマテラピー(香りによる治療・癒し)が言われます。 ラベンダーやミントなど、香り(アロマ)がよい効果をもたらすことを知っています。 この章では、 ・没薬の山、乳香の丘(6節) ・すべての香料にまさる香油(10節) ・レバノンの香りのような衣の香り(11節) ・ナルド(13節) ・ナルド、サフラン、菖蒲、シナモン、乳香、没薬とアロエ、香料の最上のものすべて(14節) ・香りを漂わせる風(16節) など香りが列挙されています。 新約聖書では、聖徒たちの祈りが香にたとえられています(黙示録5:8)。 私たちの祈りが、家庭から、教会から、香のように天に立ち上ぼりますように。 祈り:神様、今日も祈ります。自分や家族のことはもちろん、教会と兄弟姉妹のこと、職場や学校、地域のこと、全世界の教会のこと、日本や世界のことにとりなしの祈りをささげます。天に立ち上る香のように天に届き、あなたが親しく聞いていてくださることに感謝します。私をさらにとりなし手として祈る者にしてください。アーメン

雅歌3

「私は彼らのところを通り過ぎると間もなく、 私のたましいの恋い慕う方を見つけました。 私はこの方をしっかり捕まえて放さず、 ついには私の母の家に、 私を身ごもった人の奥の間に、お連れしました。」雅歌3:4 3章の解釈は、学者でも難しいところだそうです。しかし、文字通りには女性が捜し求めている姿が描かれています。 女性は「私のたましいの恋い慕う方」と呼んでいます。捜し求め、そしてとうとう「見つけました」。女性は「しっかり捕まえて放さず」、「奥の間に」連れて行きました。 大切な来客は玄関先で追い返さず「どうぞお入りください」と言います。 同じように、心の扉をたたいてくださったキリストを、玄関先のち話にとどめておくのはもったいないことです。私たちの心の奥の間にお連れして、部屋の隅々までどうすればよいか相談したいと思います。時には補修、時には大規模な改修(リノベーション)が必要かもしれませんが、すべては益となります(ローマ8:28)。 祈り:神様、私の心の奥までお入りください。散らかっているところ、補修や改修が必要なところを探り、あなたの方法で直してください。 「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。(ローマ 8:28)」アーメン

雅歌2

「私の愛する方の声がする。 ほら、あの方が来られる。 山を跳び越え、丘の上を跳ねて。私の愛する方は、 かもしかや若い鹿のようです。」雅歌2:8~9 かもしか(ガゼル)や若い鹿のように、愛する人が軽やかに、そして喜んでやって来る様子が描写されています。 大切な人のためには、私たちも万難を拝して駆けつけます。たとえ交通が不便でも、時間がかかっても、危機にあるなら助けに行こうとします。  主なる神様も、私たちのことを同じように思っておられます。そして、駆けつけて戸口で待っておられます。扉を開けるかどうかは私たちにかかっています。    信じた時に戸を開けたように、日々心の扉を主に向かって開き、み声に耳を傾ける者となれますように。 祈り:神様、私の心を砕き柔らかくし、主の声と導きを聞くことができますように。悔い改めること、謝り和解するべきこと、一歩踏み出すこと、とどまることを教えてください。聖霊の促しに敏感になれますように。アーメン

雅歌1

「わが愛する者よ。私はあなたを ファラオの戦車の間にいる雌馬になぞらえよう。」雅歌1:9 今日からは雅歌です。男女の麗しい愛の関係が、神と私たち人間の関係、神と教会の関係をも表していると言われています。 女性に「雌馬のようだ」と言うのはほめ言葉なのですね(驚き)! もっとも、ただの馬ではありません。「ファラオの戦車の間にいる」雌馬です。 王の御用達の馬、王のすぐそばで用いられている馬で、よく手入れされた毛並みは輝き、きりりと容姿端麗です。その美しさが女性の美しさにたとえられています。 女性は「...私を見ないでください。私は日に焼けて、浅黒いのです(6節)」と言いますが、男性の目には非常に美しく慕わしい存在として映っています。 同じように、神様が私たちのことを愛し見つめてくださることを想像すると嬉しくなります。「あなたはわたしの目には高価で尊い」と、いのちまで投げ出してくださった主の愛に感謝します。 祈り:神様、あなたの深い愛に感謝します。私をおおってくださり、罪の身代わりに なってくださったキリストの愛を思いめぐらします。読むことの少ない雅歌ですが、これからの数日、主の豊かな恵みを再発見させてください。アーメン

伝道者の書12

「結局のところ、 もうすべてが聞かされていることだ。 神を恐れよ。神の命令を守れ。 これが人間にとってすべてである。」伝道者の書12:13 伝道者の書の末尾は、神を恐れ神の命令を守ることが「人間にとってすべてである」 という勧めです。 今日が人生最後の日だとしたら、何を考えるでしょうか。財産や食べ物のことではなく、残る人々に大切なことや感謝を言い残したいことでしょう。 究極の人生訓は金儲けでも成功でもなく、神のことばを心に留めて歩むことです。この世の富と知恵を得たソロモン王が記しただけに、いっそう真実を感じます。 祈り:神様、人生にとって大切なことは何かに気づかせてくださり、ありがとうございます。今週も神を恐れ、神の命令を守って歩むことができますように。人生の方向を見失っている人、孤独を感じている人に、主の希望の光が届きますように。ひとり暮らしの___さん、____さんが、神様を知ることができますように。アーメン           

伝道者の書11

「あなたのパンを水の上に投げよ。 ずっと後の日になって、 あなたはそれを見出す。」伝道者の書11:1 1~6節までは、怠けずおこたらず、種を蒔き続けることを教えています。 風を恐れるのでなく、雨雲を見つめるだけでなく、種を蒔き刈り入れをするように。 どちらが成功するかわからないから、朝にも夕方にも種蒔きを続けるように。 自分の判断であきらめるのではなく、神様の深いみこころが思いがけず成就していく、ということを確認させてくれます。 ある人が信仰告白をしたり、洗礼の決心をしたり、献身に導かれたり、信仰による決断をしたり...。私たちにとっては思いがけないタイミングです。でも、主にとっては想定内です。 自分の先入観であきらめているなら、もう一度祈り始めましょう。 祈り:神様、自分の心であきらめていた___さんの救い、____さんの信仰の歩み、私自身の____のことを、今御前に差し出します。あなたが望まれる祈り方を教えてください。みこころがなりますように。あきらめることがないよう、忍耐と希望を心に与えてください。アーメン

伝道者の書10

「斧が鈍くなったときは、 刃を研がないならば、 もっと力がいる。 しかし、知恵は人を成功させるのに益になる。」伝道者の書10:10 ひどい雨でした。これ以上被害が増えないようにと祈ります。 雨のたびに、教会の庭の雑草はぐんぐんと育ちます。刈るのに手作業では追い付かなくて、刈払機を使っています。つい替刃の交換を怠っていると、だんだんと切れ味が悪くなってきます。作業にむだな力が必要になるばかりか、切れ味が悪く、次の日には刈りそびれた雑草が立ち上がり伸びるのを目にします。 一方、プロの仕事は、よくメンテナンスされた刃を使います。みるみるうちに、しかも素晴らしくきれいに雑草が処理されます。メンテナンスの大切さを教えられます。 私たちも同じです。主のもとで静まり霊のメンテナンスをして頂くことは、時間の無駄遣いでないばかりか、より目的のある人生を歩むために不可欠です。 梅雨の時期、外出が難しくても、家で聖書を開いてセルフ・リトリートをしてみませんか。 祈り:神様、あなたの元に行き、霊的なメンテナンスを受けたいです。焦ってじたばたするのではなく、静まり思いを主に向けることができますように。また、与えられた賜物の斧の刃を研ぎ、あなたが望まれる使い方ができますように。アーメン

伝道者の書9

「知恵のある者の静かなことばは、 愚かな者の間での支配者の叫びよりもよく聞かれる。」伝道者の書9:17 小さな町の貧しいひとりの知者が、大王の包囲から町を救いました。だれも貧しい人を記憶にとどめませんでした。 しかし、伝道者には知恵のある人の知恵が町を救ったことが覚えられていました。 武器や権力を用いる大王よりも、静かな知恵のことばに価値があります。 イエス・キリストも武器や政治権力は用いませんでした。しかし、そのことばは神ご自身の知恵に満ちていました。 そして、人類に永遠のいのちを与えるという決定的な救いをもたらしました。 人類最高の知者こそ、人となられたイエス・キリストご自身です。 祈り:神様、私の霊の目と耳を開き、主ご自身からの知恵に心を留めることができるように導いてください。様々な価値観の中で、永遠の価値あるものを見分けることができますように。アーメン

伝道者の書8

「私が昼も夜も眠らずに知恵を知り、地上で行われる人の営みを見ようと心に決めたとき、すべては神のみわざであることが分かった。」伝道者の書8:16~17 人生の意味を追い求める伝道者は、昼も夜も探り続けました。人々の暮らしを、知恵をしぼって観察しました。 そうしてわかったことは、すべてのことは「神のみわざ」、すなわち神の御手のうちにあるということでした。 神のゆるしなしには、今日のハプニングも、人が生まれるのも死ぬのも起こらないということです。 3章の「生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。植えるのに時があり、植えた物を抜くのに時がある・・・神のなさることは、すべて時にかなって美しい」 を確認しているようです。 今日直面することも神の御手の中にあると思うと、ほっとします。歩みに平安と安心感がやってきます。 祈り:神様、日々あなたの御手の中で歩めることに感謝します。私の人生の一日、一日はあなたのものです。あなたが願われるような使い方ができますように。今日も歩む道を教えてください。アーメン