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5月, 2022の投稿を表示しています

民数記34

「『あなたがたにその地を相続地として受け継がせる者たちの名は、次のとおりである。すなわち、祭司エルアザルとヌンの子ヨシュア。あなたがたは、その地を受け継ぐため、それぞれの部族から族長一人ずつを選ばなければならない。」その人たちの名は次のとおりである。ユダ部族からは、エフンネの子カレブ。』」民数記34:17~19 いよいよ約束の地を受け継ぐ具体的な地域とくじを引く族長の名前が呼ばれました。主の約束どおり、ヨシュアとカレブはその中にいました。他は新しいリーダーたちでした。前の世代は荒野で生涯を終えました。しかし、主は1部族でも欠けることなく、すべての部族をここまで導かれました。しかも、新しいリーダーも立てて。 神様は、12部族の一つも漏れることがなかったのと同様に、私たち一人一人のことを忘れてはいません。そして、長年の経験と知恵のあるモデルとなるようなリーダーと共に、新しく柔軟でエネルギーのあるリーダーも立てておられます。 主にあるJECの群れにも、日本の教会の中にも、素晴らしい先輩の働き人が、そして新しく起こされたフレッシュな働き人が両方いることに感謝します。それぞれの器のために祈り、主の働きと祝福を受け取って味わい、感謝することができますように。 祈り:神様、あなたが私のことを決して忘れず、いつも覚えていてくださることに感謝します。年上のリーダーにも年下のリーダーにも、主が権威を与えられたことを受け取って謙遜に接し、とりなしの祈りをささげ、共に主のからだを建て上げる者にしてください。アーメン

民数記33

「モーセは主の命により、彼らの旅程の出発地点を書き記した。その旅程は、出発地点によると次のとおりである。」民数記33:2 40年間の行程がこの後列挙されます。主の奇蹟を見て喜んだ場所、不満と不信仰が頂点に達した場所...。40年目に約束の地を前に、実の兄アロンが生涯を終えます。共にリーダーシップをとり、モーセの口となって人々を導き、説得したアロンでした。喪失感の中にあったでしょう。 しかし、主に命じられて、彼はこれまでの行程を書きます。なんといっても、出発地点はあのエジプトでした。奴隷からの解放という原点に戻るとき、旅の辛さや困難よりも、解放された時の喜びが勝ったことでしょう。 私たちも信仰生活にはアップダウンがあります。でも、救いの原点、十字架がわかった原点に戻るとき、恵みの大きさを確認します。信仰の友に、互いにその恵みを分かち合うこと、それがあかしです。人と比べて劇的でない、という心配は無用です。なぜなら、それは一人一人にユニークな神様と自分との個人的な出会い、関係だからです。 祈り:神様、十字架の恵みがわかったあの日、あの瞬間を感謝します。日々の生活で落ち込む時や疲れた時、原点に戻れますように。今週、その原点の体験を分かち合い、励まし合うことができる機会と勇気を与えてください。アーメン

民数記32

「私たちは、イスラエルの子らがそれぞれその相続地を受け継ぐまで、自分の家に帰りません。」民数記32:18 イスラエル人は、さらにヨルダン川をわたり、西側のカナンに入ろうとしていました。そんな中、ルベン族とガド族は、ヨルダン川の東に相続地を求めました。家畜に適した土地だったからです。 自分たちの割り当て地を得た後も、皆が割り当て地を得るまで全力で協力し続けることを、彼らはモーセの前に約束しました。 「自分さえよければ」という自己中心的な思いが、私たちにも時々やってきます。避難所や物資配給の時もそうですし、マスクや消毒液の必要以上の買い占めも、その思いが端的に現れているように思います。 しかし、聖書はそうではないと教えてくれます。自分を愛するように隣人を愛すること、良心をもった一市民として歩むことが無言のあかしとなり、キリストの光を輝かせることにもつながります。 祈り:神様、あなたが今日もこの場所で生きるようにと、新しい一日を与えてくださいました。自分勝手な考えや、自己中心的な言動からお守りください。キリストのまなざしで地域を見つめることができますように。無言のふるまいでも、キリストの手足となれるように導いてください。アーメン

民数記31

「よく聞け。この女たちが、バラムの事件の折に、ペオルの事件に関連してイスラエルの子らをそそのかし、主を冒瀆させたのだ。それで主の罰が主の会衆の上に下ったのだ。」民数記31:16 ミディアン人との戦いは、主の戦いでした。この箇所では、前々からの経緯を経て、主がミディアンと戦うことを許されたと読めます。文脈や当時の特殊な背景を知ることが大切です。 しかし、このことから現代の戦争をやみくもに肯定することはできません。なぜなら、この戦いはバラムとミディアンの女性を通して偶像礼拝がイスラエルに持ち込まれたことへのさばきだったからです。 また、聖書の神だけが残酷だ、という見方も正しくありません。ローマの軍隊の残酷さや、時代劇で垣間見る日本の歴史における殺戮や戦いは、野望と権力欲に促された、もっと自己中心的なものが多くあるからです。 祈り:神様、聖書の中でわからないこと、理解が難しいことは、そのまま「わからない」と告白します。理解できる主の知恵と知識を求めます。自分勝手に神の性質をゆがめて理解したり、間違ってとらえたりすることがないよう助けてください。アーメン

民数記30

「その父が彼女の誓願、あるいは物断ちを聞いて、彼女に何も言わなければ、彼女のすべての誓願は有効となる。彼女の物断ちもすべて有効となる。」民数記30:4 当時の社会では父親あるいは夫が権威を持ち、家族の責任を負う立場でした。また、書面で証書を残すのと同じ効力が、口頭での約束に認められました。 イエス様は軽々しく誓うことを戒められました(マタイ5:34~37)。そこから、言葉の重さに改めて気づかされます。 言葉には力があります。豊かな励ましも、逆に大きなダメージも与えます。秘密を軽々しく口から漏らさないことも、誓願同様に重要です。その人の信頼度が口の固さで測られることもあるくらいです。封筒に封印を押すように、口の扉を守る大切さを日々どれくらい意識しているでしょうか。 祈り:神様、私たちにコミュニケーションをとれる口を与えてくださり感謝します。あなたに喜ばれ、周囲の徳を高めるような言葉を出せますように。言うべきでない事柄、秘密を漏らさないよう、あなたの力と知恵で私の口の扉を管理させてください。アーメン

民数記 29

「第七の月には、その月の一日に聖なる会合を開かなければならない。あなたがたは、いかなる労働もしてはならない。これを、あなたがたにとって角笛が吹き鳴らされる日としなければならない。」民数記29:1 神様が、さまざまな祝日を定められたのだなあと思いながら読みました。前の章では七日ごとの休日でしたが、今日は七ヶ月目の祝日です。 祝日は勝手きままに過ごすだけではなく、主の前にささげ物を持ってきています。神様のリズムに心の波長を合わせる日でもありました。 先日礼拝に迎えたゲストが、こんなたとえを紹介してくださいました。濁った泥水が、静かにしているとやがて上澄みと砂に分離します。同じように、みことばを読む前に、まずじっと静まり、泥水の上澄みが分離したような状態になるまで待つ。そうして神の語りかけに耳を傾ける、日々デボーションがそうありたい、と。 神様は私たちに、時々普段動き続けている手を止め、神様のみ思いを聞くことに集中してほしいと願っておられます。ながら族(古い言葉?!)ではなく、シンプルに神様のことだけを見つめるようにと招いておられるのです。 祈り:神様、雑事を置き、まずあなたの元に座り聴くことができますように。立ち止まることによって、ざわざわする心が上澄みのように透明になり、みこころとそうでないことを判断できるようにしてください。アーメン

民数記28

「これは、安息日ごとの全焼のささげ物で、常供の全焼のささげ物とそれに添える注ぎのささげ物に加えられる。」民数記28:10 安息日には、いつものささげ物に加えてのささげ物がされました。七日ごとのこの規則的なペースは、安息日を守ることと合わせて前もってささげ物を準備し、心を備えるようにしたことでしょう。 私たちは忙しい毎日を送っていると、礼拝の時間さえ惜しくなるように思うかもしれません。でも、神の前に取り分ける時間と機会がないと、もっと忙しく混乱した日々に陥ってしまいます。1週間の中で主のためにささげる時間と心を定期的に取り分けることは、主のためにとどまらず、主が愛してくださる私たちの全人的な健康のために祝福です。日曜朝がどうしてもシフトの関係で休めない方は、土曜の祈祷礼拝、日曜の夕拝を予約するなど、さまざまな方法をお試しください。霊も肉も、主にあって保たれ、健やかでありますように。 祈り:神様、あなたが私たちの霊肉の健康を願っていてくださることを感謝します。あなたに造られた私たちは、あなたの元に憩うことで安らぎをいただきます。私たちの心の深いところに、いつもあなたの所に帰りたいという願いを起こさせてください。 今___さん、____さんの信仰の回復を願います。この方々の心に、主の元に帰りたいという願いと、主が喜んで受け入れてくださるという確信を起こさせてください。主のお名前によってその方々を祝福します。アーメン

民数記27

「『すべての肉なるものの霊をつかさどる神、主よ。一人の人を会衆の上に定め、彼が、彼らに先立って出て行き、先立って入り、また彼らを導き出し、導き入れるようにしてください。主の会衆を、羊飼いのいない羊の群れのようにしないでください。』」民数記27:16~17 自分が約束の地に入ることはなく生涯を終えるのだと、モーセは知りました。その時彼が願ったことは、自分の後にリーダーを立ててほしいということでした。民が羊飼いのいない羊の群れのように迷い滅びることのないように、と。 民のことを愛し導き、同時に謙遜であったモーセの胸中を思うと、胸がつまります。誰よりも約束の地に入ることを願い、苦難や批判に耐えてきたのは彼だったからです。 しかし、神様がゆだねてくださった奉仕や責任を、どのように引き継いでいくかということをここから学びます。私たちは主のみこころが行われるようにとベストを尽くし、誠実に仕えます。同時に、主がバトンタッチを願われる時、その奉仕を引き継ぐ態度、謙遜さが問われます。その奉仕が大きくても小さくても、同じです。 祈り:神様、私の存在そのものを愛してくださり、感謝します。今あなたが与えてくださっている_______の奉仕を感謝します。誠実に仕えます。また、その働きは自分のものでなく主のものであることをいつも覚えることができますように。神の国がこの地上に来るために仕えさせてください。謙遜な心を与えてください。アーメン

民数記26

「以上が、エリコをのぞむヨルダン川のほとりのモアブの草原で、モーセと祭司エルアザルがイスラエルの子らを登録したときに登録された者たちである。」民数記26:63 38年前に登録された人は603,550人でした。そして今、新しい世代が 601,730人登録されました(51節)。38年間も荒野で難民のような生活を続け、ほぼ同じ人数が維持されていることは驚異的です。主の守りと導きがなければありえないことでした。 私たちの毎日が、変化のない生活に思えたとしても、日々命が守られ、細胞が入れ替わり、食物や水が与えられ、新しい一週間が7日ごとに始まるのは、当たり前ではありません。なんという恵み、生かされていること自体が自分の力だけではない、と改めて驚きます。 しかも、主は永遠のいのちまで与えようとして、キリストをこの地上に送り、シンプルで完全な方法も与えてくださったのです。 祈り:神様、数えきれない恵みをありがとうございます。地上で生きている時も、その後も、あなたが素晴らしいプレゼントをくださっています。永遠のいのちという壮大すぎるプレゼントがあることを、今週分かち合う機会を与えてください。独り占めするには勿体なすぎるあなたからの恵みを、受けとる人が一人でも多くなりますように。アーメン

民数記25

「『彼らは巧妙に仕組んだ企みによって、ペオルの事件であなたがたを襲ったからだ。ペオルの事件の主の罰の日に殺された彼らの同族の女、ミディアンの族長の娘コズビの一件だ。』」民数記25:18 主がミディアン人を討てと言われたのには理由があります。 「淫らなこと(1節)」の背後には、偶像バアル礼拝がありました。バアル神と神殿娼婦は切り離せないものでした。イスラエル人は「娘たちの神々を拝んだ(2節)}とも書かれています。 民の一部に罪が入ると、だんだんと広がりやがて全体を蝕みます。イスラエル人にはまず民の内部のきよめが命じられました。 イスラエル人だけが正しく素晴らしい民だったのではありません。彼らも正され、自身が実物教材となっていったのでした。 私たちも、ある人に「寄り添う」ことと「迎合する」こととの区別ができるよう、主に尋ねながらみこころを求めて行動できますように。 祈り:神様、あなたが私の天のお父さんであり、私を守ろうと愛してくださっていることを感謝します。 「わざわいだ。彼らはカインの道を行き、利益のためにバラムの迷いに陥り、コラのように背いて滅びます(ユダ1:11)」とならないよう、導いてください。 主の愛をもって「寄り添い」、主の義をもって「迎合しない」あなたの子どもとして歩めますように。アーメン

民数記24

「私には彼が見える。しかし今のことではない。 私は彼を見つめる。しかし近くのことではない。 ヤコブから一つの星が進み出る。 イスラエルから一本の杖が起こり、 モアブのこめかみを、 すべてのセツの子らの脳天を打ち砕く。」民数記24:17 えっ、と驚きました。バラクとバラムの愚かなやり取りの中で、この箇所はきらりと光っています。バラクのことばの「一つの星」からは、ダビデ王のこと、ひいては救い主イエス・キリストが来られることが想起されます。 主は異教のまじない師の口を使うことさえおできになりました。今日も、主はどんな人物でもご自身のみこころを行うため、思いのままに用いることができます。 たとえその人が主に使われていると自覚していなくても、歴史や私たちの歩みをふり返ると、主のご計画が行われていたということがわかります。今日静かにふり返り、どんな発見がありますか? 祈り:神様、あなたがみこころを進めていかれることを感謝します。心にかかっている_______の状況、______さんの言葉があります。私の周囲の方々をあなたが愛しておられることを覚えます。あなたのみこころとそうでないものを、今日主と共に吟味できるように助けてください。アーメン

民数記23

「バラクはバラムに言った。『彼らに呪いをかけることも祝福することも、決してしないでください。』」民数記23:25 民数記23章は、まるでコメディーを見るかのような展開です。 王バラクは、バラムを呼び寄せて、イスラエルを呪わせようとしました。ところが、逆にバラムからは祝福の言葉しか出てきませんでした。 別の場所に連れて行き、アングルを変えたら言葉が変わるかと思いました。が、やはり祝福が出てきました。 自分勝手に物事を進めようとしても限界があります。神様のご計画ははるかに優れています。また、私たちの見え方が変わっても、神様の目は変わりません。 人間の考えを越えて主が歴史を支配しておられることを信じます。 私の価値も、他人がどう評価しようと神様からは愛の目で見られていることを信じます。 祈り:神様、あなたが全知全能のお父様であることを感謝します。日本や世界の_____のニュース、_____のニュースに心痛みますが、あなたが歴史の真の主人公であることを覚えます。あなたのみこころが地上でなりますように。そのために、私に祈ることを教えてください。あなたが願われることができるよう、今日も導いてください。アーメン

民数記22

「ろばは主の使いを見て、バラムを乗せたまま、うずくまってしまった。バラムは怒りを燃やし、杖でろばを打った。」民数記22:27 ろばには主の使いが見えていましたが、バラムの目は覆われていて見ることができませんでした。自分の命を救ってくれたろばに怒りを燃やしました。王に指名され呼ばれるほどの人物も、主に対してはろばより劣っていました。 私たちの霊の目は開いているでしょうか。私たちの周りには静まりを妨げる雑音、雑事がいっぱいです。私たちの内側の心も普段はざわざわします。だからこそ、聖霊の静かな声を聴くために、ひとりで静まる時間(たとえ短くても)を大切にしたいのです。散歩しながら、ひとりでコーヒーを飲みながら、湯船につかりながら、電車にゆられながら、運転しながら、拭き掃除をしながら、みじん切りをしながら・・・その時間は、生活の中に必ずあります。今日はいつ、どこで静まりましょうか。 祈り:神様、あなたを愛します。あなたのみこころを歩みたいです。もっともっと、あなたと親しく交わることができますように。静かなみ声を聴きたいです。 ♪「わが目を開きて さやに見せたまえ  今まで知らざりし 聖書(みふみ)の真実(まこと)を  われ今静かに わが主を待つなり  主よ与えたまえ 悟りを」(聖歌195) アーメン

民数記21

「モーセは一つの青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上に付けた。蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぎ見ると生きた。」民数記21:9 イエス様はヨハネの福音書の中で、ニコデモにこの箇所を話されました。 「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません(ヨハネ3:14)」と。 荒野で毒蛇にかまれると、毒がやがて全身に回って死に至りました。唯一命が助かるのは、青銅の蛇を見上げることでした。 同じように、罪の性質が体内にある人間はやがて永遠の死に至ります。唯一永遠のいのちを得られるのは、人の子すなわち十字架にかかられたイエス・キリストを信じ見上げることです。 「それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです(ヨハネ3:15)」。 荒野で蛇にかまれた人が、何をおいても青銅の蛇を見上げたように、私たちも何をおいてもイエス様を慕い見上げる今日の歩みになりますように。主と共に歩む一日は素晴らしい! 祈り:神様、キリストの十字架の死と復活が私のためだったと告白します。永遠の死からいのちに移してくださり感謝します。同じく永遠のいのちを持つ方々とこうして祈れる恵みを感謝します。 まだこの素晴らしいニュースを知らない____さん、____さんが、あなたの愛に感動し、福音の恵みを受け取れますように。アーメン

民数記20

「モーセは手を上げ、彼の杖で岩を二度打った。すると、豊かな水が湧き出たので、会衆もその家畜も飲んだ。」民数記20:11 素晴らしい主のみわざを見ました...表面的には。ほとんどの人々は喜び、豊かな水を飲みました。 しかし、主はモーセとアロンの不従順を指摘されました。「彼らの目の前で岩に命じれば、岩は水を出す(8節)」と言われたのに、岩を杖で打ったからです。そのため、二人は約束の地に入ることができなくなりました(12節)。 厳しすぎるでしょうか?しかし、主は結果オーライではなく、ご自身の望まれるやり方で行うことを願っておられます。 私たちの伝道も仕事も、介護も子育てもボランティアも同じです。人の目には良いと見えることでも、神が私に望まれる方法は違うかもしれません。主の方法に従うのは勇気がいることですが、従うなら主のご栄光を見せていただけると確信します。 祈り:神様、あなたが私たちの思いを越えたご計画を持っておられることを感謝します。自分であれこれ心配しすぎず、あなたの望まれる方向に、私の手をとって導いてください。見えるものにではなく、見えないものに目をとめることができますように。アーメン

民数記19

「それから、きよい人がその雌牛の灰を集め、宿営の外のきよい所に置く。そして、イスラエルの会衆のために、汚れを除く水を作るために保存しておく。これは罪のきよめのささげ物である。」民数記19:9 律法ではあれこれと儀式的に汚れた者となり、大変だっただろうなあと思います。うっかり天幕の中に入るだけでも7日間も汚れてしまいます(14節)。コロナ感染当初の濃厚接触者よりも厳しい基準です。雄牛の灰に水を加え、そこに浸したヒソプ(植物)でその人にふりかけた上で、ようやくきよくなりました。 今はキリストの血がただ一度流されたので、私たちはきよめられています。十字架の死と復活がどんな特効薬、治療よりもすばらしい解決だということを、この章を通してさらに実感します。 祈り:神様、あなたの救いのご計画を感謝します。このみことばを告白します。 「雄やぎと雄牛の血や、若い雌牛の灰を汚れた人々に振りかけると、それが聖なるものとする働きをして、からだをきよいものにするのなら、 まして、キリストが傷のないご自分を、とこしえの御霊によって神にお献げになったその血は、どれだけ私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者にすることでしょうか。(ヘブル9:13~14)」 今週も私を、感謝と喜びをもって生ける神に仕える者としてください。アーメン

民数記18

「あなたはレビ人に告げなければならない。 わたしがあなたがたに相続のものとして与えた十分の一をイスラエルの子らから受け取るとき、あなたがたはその十分の一の十分の一を、主への奉納物として献げなさい。」民数記18:26 イスラエルの民でもレビ人でも、収入の同じ割合を主にささげるようにと主が命じられています。立場や境遇が違っても、主の前に同じ価値ある存在であることを覚えます。 ところで、私たち一人一人に与えられた時間や体力は人それぞれ異なります。 最近、地域や社会に貢献できるボランティア任務を打診されました。気持ちはもちろん「喜んで!」ですが、かなりハードな内容らしく、主のためにささげる十分の一まで使い果たすことにならないか、今祈っているところです。よい判断のためにお祈りいただけたら幸いです。 祈り:神様、あなたのために私に与えられたものの一番良い部分を取っておけるように助けてください。そして、あなたが願っておられることだけを選びとっていけますように。アーメン

民数記17

「その翌日、モーセはあかしの天幕に入って行った。すると見よ。レビの家のためのアロンの杖が芽を出し、つぼみをつけ、花を咲かせて、アーモンドの実を結んでいた。」民数記17:8 イスラエル人は、エジプトでの奇蹟、荒野での神のわざを見てきたのに、神の選びと守りを信じることができませんでした。それで各部族の杖が集められると、アロンの杖が芽を出し、花と実をつけていました。主なる神様は、実物教材を通して選びを見せてくださいました。 私たちは他の人の選びだけでなく、自分の選びも疑ってしまいます。けれども、主は今日までいくつものしるしを通して語ってくださっています。今日置かれている場所に、主がどのように導いてくださったか。そこで何をするように主が願っておられるか。それを受け取り、共に今日も信仰によって一歩歩めますように。 祈り:神様、私の人生にこれまで多くのみわざと恵みを見せてくださり感謝します。あなたが導かれる歩みができるよう、信仰を与えてください。一歩踏み出せるように助けてください。アーメン

民数記16

「コラは、二人に逆らわせようとして、全会衆を会見の天幕の入り口に集めた。そのとき、主の栄光が全会衆に現れた。」民数記16:19 出エジプトの旅の中で、最も悲劇的な出来事の一つです。モーセとアロンのリーダーシップに反逆したコラと仲間たちは滅ぼし尽くされました。 そこまで厳しかったのは、この反逆が神に背くことだったからでした。モーセとアロンは主の導きに従っていました。反逆は、主ご自身に対するものでした。もしモーセやアロンに足りないところがあるならば、もっと別の方法で指摘し話し合うことができたのに、そうしませんでした。分裂を引き起こそうとしたのです。 私たちも、主のために純粋な気持ちで仕えているとき批判されたら、主のもとに持っていきましょう。 また、自分自身がコラのように批判的になっていないか、主のさばきを招く者になっていないかも自問してみましょう。 耳の痛いことかもしれませんが、もし心当たりがあれば悔い改めの祈りをして、許していただきましょう。神の恵みとあわれみのうちに生かされている私たちです。 祈り:神様、あなたが正しいさばきをなさる方であることに感謝します。言われのない批判を受けた時、主の元にそれを持っていき、あなたの介入を求めることができますように。同時に、主に従うリーダーに対して、私自身がコラのような態度・行動を取ることがないよう、謙遜と主への従順な心を日々与えてください。アーメン

民数記15

「一つの集会として、掟はあなたがたにも、寄留している者にも同一であり、代々にわたる永遠の掟である。主の前には、あなたがたも寄留者も同じである。あなたがたにも、あなたがたのところに寄留している者にも、同一のおしえ、同一のさばきが適用されなければならない。」民数記15:15~16 「一つの集会」は一つの「コミュニティー」、すなわち共同体です。その中に、イスラエル人だけでなく外国人も一時滞在している人も含まれる、というのはとても進んだ考え方です。 働く人と家族、留学生、難民、そして強制的に連れて来られた人たちと子孫...私たちの周りにも多くの外国の方々がいます。文化や習慣が違っても差別せず接すること、その方々も同じキリストの救いを必要としていることを覚えたいです。 祈り:神様、あなたが分け隔てをされず私たちを愛してくださることを感謝します。自由に福音を語れるこの日本で、滞在しておられる外国籍の方々にも福音を分かち合う機会が与えられますように。日本で得た最高の体験が、キリストとの出会いだという方々がもっと起こされますように。アーメン

民数記14

「わたしの栄光と、わたしがエジプトとこの荒野で行ったしるしとを見ながら、十度もこのようにわたしを試み、わたしの声に聞き従わなかった者たちは、だれ一人、」民数記14:22 イスラエルの人々は、偵察隊の報告を聞いて「大声をあげて叫び...泣き明かし(1節)」、「不平を言」い、自分たちは「死んでいたらよかった(2節)」と言いました。 主の奇蹟と守りを体験しているのに、大きな問題に直面すると信仰がなくなるのは他人ごとではありません。周囲の声や常識、自分の感情に左右されてしまう...私たちの姿も同じではないでしょうか。 不信仰で「無理だ」とつぶやく自分は、「十度もわたしを試み」たイスラエルの人々の姿と重なります。 しかし主は、ご自身に信頼し続ける者を守られます。快適な場所(コンフォート・ゾーン)から出るのは勇気が要りますが、主が促されるなら主が共におられます。私の、あなたの、コンフォートゾーンから一歩出るのはどこでしょうか。 祈り:「私は主に申し上げよう。『私の避け所 私の砦 私が信頼する私の神』と(詩篇91:2)」 神様、あなたが私たちの避け所、砦、信頼する岩であることに感謝します。今日、みこころに従い、一歩踏み出す勇気を与えてください。つぶやく代わりに、あなたに祈り信頼できる信仰も、どうか与えてください。アーメン

民数記13

「しかし、彼と一緒に上って行った者たちは言った。『あの民のところには攻め上れない。あの民は私たちより強い。』」民数記13:31  比較は私たちの自信を失わせ、妬みを起こし、時には卑屈にします。「私はあの人のようにうまくできない」「その人ほど活躍していない」「あの教会のように大きくない」などなど。競争社会はまさに比較社会です。比較が評価のものさしです。 イスラエルの族長たちも「あの民は私たちより強い(31節)」「自分たちはバッタのようだ(33節)」と嘆きました。 しかし、カレブとヨシュアは違いました。カレブは民を静め「私たちはぜひとも上って行って、そこを占領しましょう。必ず打ち勝つことができます(30節)」と言いました。  私たちを導くのは主です。主がどう見ておられるかが、今日の私たちの視点となれますように。 祈り:神様、あなたが私を大切な存在として見ていてくださることを感謝します。私を比較のわなから解放してください。誰かと比べて得意になったり落ち込んだりするのでなく、あなたのみこころを歩んで深い満足を日々得られますように。アーメン

民数記12

「『彼とは、わたしは口と口で語り、 明らかに語って、謎では話さない。 彼は主の姿を仰ぎ見ている。 なぜあなたがたは、わたしのしもべ、 モーセを恐れず、非難するのか。』」民数記12:8 アロンとミリアムはモーセの実の兄姉でした。弟モーセのリーダーシップに不満あるいは妬みを抱いたと考えられています。自分たちの義妹をめぐって非難しました。 非難された方はたまったものではありませんね。私たちも、突然、思いもかけない事柄で批判されたり非難を受けたりすることがあります。 Life Apprication Bibleでは「もしも理不尽な批判を受けたなら、批判した人はその人の現実の問題に向かうことを恐れていると知っておきなさい」と勧めています。 主なる神様はすべてご存知で、モーセを守ってくださいました。モーセの選びと権威を知らせ、アロンとミリアムをへりくだるようにされました。モーセが自分の力で民を導いているのではなく、神に選ばれ神のことばに従っていることを明らかにしてくださいました。 祈り:神様、あなたがトラブルの背後の事情をすべて知っておられることに感謝します。私の批判的な心、高慢な思いをゆるしてください。へりくだり、喜びを持ち、主の権威と主への従順を学び、仕えることができますように。アーメン

民数記11

「主はモーセに答えられた。『この主の手が短いというのか。わたしのことばが実現するかどうかは、今に分かる。』」民数記11:23 新年度の疲れ、連休の疲れが出ていませんか?疲れたり体調が悪かったりすると、否定的な考え方になりがちです。恵みよりも不足に目がとまってしまいます(自戒しつつ)。 イスラエルの民も荒野での暮らしが続き、疲れていたのかもしれません。マナが日々与えられていたのに、主が先導してくださっていたのに、様々な奇蹟を体験したのに、激しく不平を言いました。 さすがのモーセもこの民を導ききれないと絶望しそうになりました。が、その思いを主に持っていきました。 祈り:神様、心の中にある思い、特に否定的な思いを、周囲の人につぶやくのでなく、主のもとに持っていき癒して頂けますように。いっさいの悪の攻撃から守り、疲れをいやし、今日も希望をもって歩めるように助けてください。アーメン

民数記10

「こうして、彼らは主の山を旅立ち、三日の道のりを進んだ。主の契約の箱は三日の道のりの間、彼らの先に立って進み、彼らが休息する場所を探した。」民数記10:33 荒野の旅をするときには、主の臨在を表す契約の箱が共にあり、いつも民の先を進みました。さらに、民のために「休息する場所を探し」たと書かれています。 主ご自身は「まどろむこともなく 眠ることもない(詩篇121:4)」方です。私たちがいつ祈っても聞いてくださいます。」 イエス様は「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます(マタイ11:28)」 と言われました。 今、荒野を旅するような試練の中にいますか?荒野は主にお会いできる場所、主を近くに感じられる場所です。たとえ荒野の中にいたとしても、主が休息する場所を備えてくださいます。主に心の中を打ちあけ、聞いていただきましょう。そして、主の語りかけを耳を澄まして聴きましょう。 祈り:神様、あなたがいつも私の祈りに耳を傾けてくださることを感謝します。荒野の中で、あなたの導きとみこころがわかるよう、希望と信仰を与えてください。 主の愛を知らないまま試練や悲しみの中にいる人に、あなたの豊かな休み場があると知ることができますように。キリストと出会えますように。アーメン

民数記9

「もし、あなたがたのところに寄留者が滞在していて、主に過越のいけにえを献げようとするなら、過越のいけにえの掟と、その定めとにしたがって献げなければならない。寄留者でも、この国に生まれた者でも、あなたがたには掟は一つである。」民数記9:14 コロナ感染や濃厚接触した人には、入試で追試という対策がとられました。無試験ではなく、受験できる機会を与えるという救済措置がとられたのでした。 民数記9章を読むと、似た状況が書かれています。事情があった人は一月遅れで過越のいけにえを献げることができます。寄留者(外国人)もこの献げものができました。主のあわれみの深さを覚えます。そして両者とも免除でないところに、主に献げる機会が貴重であり喜びであったことがわかります。 私たちも、礼拝をささげる機会は貴重なもの、喜びの時だと思いませんか。日曜の朝が難しくても、土曜礼拝、朝夕拜の機会が開かれています。また、どんな人でも主を知りたいと願う人に、礼拝は開かれています。 祈り:神様、あなたのあわれみと恵みを感謝します。礼拝が義務でなく喜びの機会と感じられるよう、私の心を整えてください。感謝をもって主に近づき、礼拝をささげられますように。共に集う方々がおられる恵みに感謝します。主と出会う喜びをさらに多くの方が体験できますように。アーメン

民数記8

「アロンはレビ人を、イスラエルの子らからの奉献物として主の前に献げる。これは彼らが主の奉仕をするためである。」民数記8:11 私たちは偉いから、主の奉仕をするのでしょうか?牧師や宣教師は、きよくて欠けがないのでしょうか?いいえ。同じ弱い人間だけれど、主の召しゆえです。 レビ人は、イスラエルの長子を主にささげる代わりに選ばれ、ささげられました。そして、フルタイムで主の奉仕をしました。特別にきよく優れた人々ではありませんでした(もちろんそうなりたいと願ったことでしょうが)。ただ主の召しにより献身した者となったのでした。 どうぞ、働き人のためにお祈りください。欠点や弱点を見てもつまずかず、かえって祈りに覚えてください。教会で、日本各地で、全世界で主に仕える人々が、守られ誠実に力強く主のわざに励めますように。 祈り:神様、働き人たちを励まし強めてください。生涯誠実に主のわざに仕えることができますように。また、主が私自身にもユニークな召しを与えてくださっていることを受けとります。主の召しに応答し、主の栄光を表し生きることができますように。アーメン

民数記7

「しかしケハテ族には何も与えなかった。彼らの聖なるものに関わる奉仕は、肩に担いで運ぶことだったからである。」民数記7:9 幕屋を設営し終えて聖別する日に、12部族の族長はすべて同じささげ物をもって来ました(12回同じことが書かれているので、今日の章はモーセ五書の中で最長の章となっています)。どの部族も公平に扱ってくださる主の愛を感じます。1部族のささげ物は  ・銀の皿 1枚  ・銀の鉢 1つ   小麦粉(油を混ぜて)を満たす  (全焼のささげ物として)  ・若い雄牛 1頭  ・雄羊 1匹  ・雄羊(1歳) 1匹  (罪のきよめのささげ物として)  ・雄やぎ 1匹   (交わりのいけにえとして)  ・雄牛 2頭  ・雄羊 5匹  ・雄羊(1歳) 5匹 でした。 レビ人にはそれぞれの奉仕に応じて必要なものが渡されました(5~8節)。しかし、ケハテ族の奉仕は肩に担いで運ぶことだったので、台車や動物は与えられませんでした。 神様は私たちを公平に愛し、扱ってくださいます。しかし、召された奉仕に必要なものはそれぞれ異なります。私に主が願っておられる奉仕や働きの分野は何でしょうか。主が与えてくださった力、環境、関心、情熱等々を見極めてみましょう。他の人に与えられているものを羨む必要はなく、主が私に託してくださったものを用いることに集中しましょう。 祈り:神様、私たち一人ひとりを愛してくださり感謝します。私に____、____、____、____(賜物、時間、能力、関心、持ち物...)を与えてくださり感謝します。あなたのご栄光のために用いさせてください。そのための気づきと知恵を与えてください。アーメン

民数記6

「主があなたを祝福し、 あなたを守られますように。 主が御顔をあなたに照らし、 あなたを恵まれますように。主が御顔をあなたに向け、 あなたに平安を与えられますように。」民数記6:24~26 礼拝の最後で、牧師の祝祷に使われるフレーズです。「主が~ように」と、それぞれ「主が」と始まっています。 守りも恵みも平安もすべて主のものです。主が私たちを愛し、御顔を向けてくださり、そして私たちを導き続けてくださる。それが、私たちが今日も一日生きる動機です。主が見ていてくださるから、生きる意味があるのです! 祈り:神様、私の歩みを今日も導いてくださることを感謝します。弱い者ですが、あなたが共にいてくださるから今日も生きていきます。私の悲しみや不安を、あなたが私以上にご存知であることを覚えます。どうぞ導いてください。アーメン

民数記5

「『イスラエルの子らに命じて、ツァラアトに冒された者、漏出を病む者、死体によって身を汚している者をすべて宿営の外に追い出せ。男でも女でも追い出し、彼らを宿営の外に追い出し、わたしがそのただ中に住む宿営を、彼らが汚さないようにしなければならない。』」民数記5:2~3 この状況は、コロナの隔離をイメージするとわかりやすいと思います。病、漏出、死を除くというのは、主がご自身のきよさ、汚れのなさを実物教材を用いて教えられたと言われています。隔離が終わって民の中に戻った人への差別を望まれたわけではありません。 イエス様はツァラアトの人に手を置いていやされました。罪や病気を憎まれ、人を愛する主に感謝します。いやしが必要な方々を覚えて祈れますように。 「イエスは手を伸ばして彼にさわり、『わたしの心だ。きよくなれ』と言われた。すると、すぐに彼のツァラアトはきよめられた。(マタイ8:3)」 祈り:主が罪や病を憎まれ、人を愛してくださることを感謝します。私たちを解放してくださる方であると信じます。闘病中の___さん、___さんに、主のいやしがありますように。あなたの愛の中療養できますように。アーメン

民数記4

「彼らは主の命により、モーセを通して任じられ、それぞれその奉仕とその運ぶ物を受け持った。主がモーセに命じた、主によって登録された者たちである。」民数記4:49 レビ人の氏族ごと(ケハテ族、ゲルション族、メラリ族)に、それぞれの任務が割り当てられました。彼らは聖なるものを直接見ることは許されませんでしたが、旅立つごとに幕屋の用具や建材を運びました。 組み立てたらすぐ旅立つことになった時も、なかなか旅立たず失職したかのように感じた時も(実際に感じた日とがいたかは不明ですが)、変わらずリーダーの指示に、ひいては主の指示に従いました。 他の氏族の任務が羨ましく思えても(実際に思ったかは不明ですが)、主が割り当ててくださった自分の任務、自分の分を果たしました。 私たちは、他の人と比較し落ち込むことがあるかもしれません。一昨日の聖会で、私たちが気分・感情に左右されやすい者であること、だから毎朝「天におられる私たちの父よ」と天を見上げることの大切さが語られました。地上の些細な比較よりも、天の神に目をとめることが、私たちが豊かに満足して生きる秘訣です。 祈り:神様、私に割り当ててくださった分を受けとり、満足できるように助けてください。比較のわなから救ってください。地上に目をとめず、天を見上げることができますように。アーメン