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民数記3

「その登録による、名を数えられた、一か月以上のすべての男子の長子は、二万二千二百七十三人であった。」民数記3:43 この章は、 前半:祭司アロンの子孫の任務、レビ部族の諸氏族とその奉仕について 後半:長子の登録と聖別 が書かれています。 イスラエル全体の長子が22,273人となっています。全体で200万人なのに、これは少なすぎるという見解があります。聖書を写した人のミスだ、あるいは出エジプトからこの時点までに生まれた長子の数だ、という議論にもなっています。 しかし大切なのは、神様が一人ひとりを覚えてそのあがないをするようにと言われたことです。レビ人の人数が足りない分は代わりの手段をもってでも、一人ももれないようにあがなおうとされたのでした。 神様は、今日も私たち一人ひとりを覚え、十字架の血潮であがないたいと願われています。先日のお葬儀でも、福音が人を変えること、永遠のいのちを与えること、変わらない「よい知らせ」であることを再確認しました。主の恵みに感謝します。 祈り:神様、家族や親戚、同僚、友人知人が福音を受けとり、永遠のいのちの希望を持てますように。十字架のあがないの意味が、____さん_____さんにわかりますように。私自身も、さらに福音の恵みがわかり、感謝にあふれさせてください。アーメン

民数記2

「以上が、イスラエルの子らで、その一族ごとに登録された者たちであり、全宿営の軍団ごとに登録された者の総数は、六十万三千五百五十人であった。」民数記2:32 女性や子どもを含めたら200万人以上の人々が、荒野の旅をしました。水や食料は?必需品は?急病になったら?けがをしたら?世界各地の難民キャンプの状況を思い浮かべると、この旅がいかに過酷だったかが想像できます。 普通に考えたら、この人数を40年も守り率いることはできそうにありません。人間の力だけのリーダーシップでは、限界が来てしまいます。 一方、モーセのリーダーシップは神様の言われたことをその通りにするもので、そのときに神の力と守りが表されました。私たちも主に従う時、主が人の知恵や力を越えて働いてくださいます。 祈り:神様、私の前には自分ではどうすることもできない難問や課題があります(特に______のこと)。主の導きに従いますから、どうぞあなたご自身がこの状況を治め解決してください。自分だけで思い煩い、軽率な行動をとることがありませんように。アーメン

民数記1

「『イスラエルの全会衆を、氏族ごと、一族ごとに調べ、すべての男子を一人ひとり名を数えて、その頭数を調べよ。』」民数記1:2 最初と最後に民の数を調べたので「民数記」とつけられています(ヘブル語では「主は告げられた(1節)」書とも呼ぶそうです)。 スラエル人がエジプトを出て旅をした40年のうち、38年間のことが書かれています。旅のほとんどの期間をカバーしている書です。 2節では、ただ数を数えるのでなく、「一人ひとり名を数え」るようにと主が言われたことに目がとまります。 主は私たちの髪の毛の数さえ何本か知っておられます。私たちがただ多数の中の一人ではなく、私たちの名を呼び、かけがえのない存在として扱ってくださいます。 民数記、どんな発見があるのか楽しみです。 祈り:神様、全能の主が、私たち一人ひとりを「____(名前)」と呼び愛してくださっていることを感謝します。私も、救われてほしい方、心にかかる方を_____さん、_____さん、とお名前をあげて祈れますように。アーメン

レビ記27

「地の十分の一は、地の産物であれ木の実であれ、すべて主のものである。それは主の聖なるものである。」レビ記27:30 いよいよレビ記も最後の章になりました。多くのいけにえやささげ物が出てきました。十字架であがなわれた私たちには、キリストがすでにささげげ尽くしてくださったものもあります。 最後の章には、罪のあがないとは別に、進んでささげるものについて、そして全体の原則が出てきます。 主の原則はシンプルで、すがすがしい限りです。元々は、すべて創造主のものです。そのうち、十分の九を私たちにゆだね、管理し楽しむことを許してくださったのです。なんと気前のよいお方でしょう。シンプルな暮らし、シンプルな人生の原点があります。地上の生涯を終える日まで、ゆだねられたものを賢く管理できるよう、みことばと聖霊の導きを受け取っていけますように。 祈り:神様、十字架のあがないによって、レビ記の多くの動物のいけにえが不要になったことを感謝します。私たちの生涯を自由と恵みで満たしてくださり感謝します。私たちをあふれる愛で愛される主、恵みとあわれみに富む主、気前のよい主、真実な主、あなたを「お父さん(アバ、父)」と呼べる特権を感謝します。地上の生涯を終え、あなたのみ元で安らいでおられる兄弟姉妹を覚えます。 「一人ひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は、喜んで与える人を愛してくださるのです。 神はあなたがたに、あらゆる恵みをあふれるばかりに与えることがおできになります。 あなたがたが、いつもすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれるようになるためです(第2コリント9:7~8)。」  アーメン *明日からは民数記です。こうしてご一緒に読んでくださることを感謝します。 筆者も、毎日共に祈り会に集っている思いで、兄姉の顔を思い浮かべながら書いています。

レビ記26

「その地は彼らに捨て置かれ、彼らがいなくなって荒れ果てている間、安息を享受する。彼らは自分たちの咎の償いをすることになるが、それはただ、彼ら自身がわたしの定めを退け、わたしの掟を嫌って退けたゆえである。」レビ記26:43 従順と不従順の結果が書かれています。神は恐ろしい方なのではなく、私たちに自由を与えてくださる方です。ただ、私たちは神に喜ばれない選択をした場合、その結果を見ることになります。それでも、愛の神様は、救いと回復の機会を残してくださっていることも、44節に書かれています。バビロン捕囚とその後の帰還では、まさにこのことが起こりました。 先日来会されたポーチュー宣教師は、日本語ができなくても、神の導きに従い、たった一人で5年間も忍耐して過ごしました。彼女の確信は祈り、神の導きに従うことでした。私たちはどうでしょうか。神の導きを聞いているでしょうか。 祈り:神様、あなたが私たちを愛し、私たちがあなたの声を聞くことを喜んでくださることに感謝します。今日、進むべき方向、見上げる方向、そして心を向け考える方向を教えて下さい。私自身が、教会の牧師が、リーダーが、兄姉が、祈りとみことばを通してあなたの声を聞き、従順と自由と喜びをもって歩めるように導いて下さい。アーメン

レビ記25

「あなたがたは、『もし私たちが種を蒔かず、また収穫もしないなら、七年目には何を食べればよいのか』と言うであろうが、わたしは六年目に、あなたがたのためにわたしの祝福を命じ、三年分の収穫を生じさせる。」レビ記25:20~21 ぶどう畑を7年ごとに休ませるのは勇気のいることです。休んだら、必要な収穫がなくなるのではないか・・・でも主が守りを保証してくださいました。 人も同じです。働き続けたらよりよい生活ができるように思えます。しかし聖書は安息の大切さを教えました。実際は、休みなく働くと疲れ果て体調を崩したり、単調な人生にむなしさを感じたりします。 家事や子育て、介護で忙しい時期があります。旧約の規定のようには休めないかもしれません。しかし、普段やり過ぎているところをやめたり、前日に整えておいたり、専門家や他の人に頼んだり、工夫できる所はありそうです。そうして、自分の心身を休めることがよりよい家事、子育て、介護につながります。休まなかった過去の痛い目と反省をこめて、安息の大切さを覚えます。 祈り:神様、人も畑も、安息の大切さを教えてくださり感謝します。休むことにも信仰とエネルギーが必要ですから、それらを与えて下さい。静まって、あなたの素晴らしさとみわざに思いを向け、感謝することができますように。アーメン

レビ記24

「骨折には骨折を、目には目を、歯には歯を。人に傷を負わせたのと同じように、自分もそうされなければならない。」レビ記24:20 ハンムラビ法典にも同様の記述があります。しかし、レビ記では個人レベルでの仕返しではなく、裁く者の判決の基準として与えられています。そして、犯した罪以上のことを要求してはならないことがわかります。仕返しを肯定しているわけではありません。 イエス様:「悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい(マタイ5:39)」 パウロ:「愛する者たち、自分で復讐してはいけません。神の怒りにゆだねなさい(ローマ12:19)」 祈り:神様、感情的になりやすい者です。仕返しや中傷、うわさから守って下さい。怒っても、罪を犯さないように、悪魔に機会を与えないように(エペソ4:26 ~27)助けて下さい。アーメン

レビ記23

「七回目の安息日の翌日まで五十日を数え、あなたがたは新しい穀物のささげ物を主に献げる。」レビ記23:16 主の民が主を覚えて集まる祭りが定められています。16節は、今では「ペンテコステ」として私たちも記念しています(10~12節の過越の祭り周辺は「イースター」)。 「祭り」はどんちゃん騒ぎではなく、安息と聖なる会合、つまり神への礼拝の時でした。同信の友と会うのは喜びの時です。少年時代のイエス様も毎年エルサレムに行かれました。 共に集まり礼拝するのは、今の私たちにとっても喜びです。ブログという形ですが、兄姉と共に祈り、主の語りかけを聞く思いで日々記しています。 毎週日曜日に実際に会い、礼拝できるのはなんという楽しみでしょうか。明日の礼拝にも期待します! 祈り:神様、私たちが集まることを定めてくださり、礼拝することを励ましてくださり感謝します。 「ある人たちの習慣に倣って自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう。その日が近づいていることが分かっているのですから、ますます励もうではありませんか。」(ヘブル10:25)  アーメン

レビ記22

「あなたがたが受け入れられるには、それは牛、羊、あるいはやぎのうちの、傷のない雄でなければならない。」レビ記22:19 聖書全体は、イエス・キリストを指し示すために書かれました。レビ記も例外ではありません。無味乾燥に見える記述の中にキリストの「型」が示されています。 ささげ物が傷のない完全なものでなければならなかったのは、やがて来られるキリストが罪のない完全なお方であることを、「型」として示すためでした。 福音の時代に生きる恵みは、こうした旧約の「型」と「本物」であるキリストとの両方を見ることができることです。そして、聖書の真実さと神のご計画の深さを改めて教えられます。 祈り:神様、あなたが聖なる方であること、旧約聖書でもキリストの型を教えてくださったことを感謝します。私が聖書を読む時、さらによくわかるように聖霊が助けてください。知的な理解だけでなく、信仰の書物として日々親しむことができますように。アーメン

レビ記21

「祭司アロンの子孫のうち、身に欠陥のある者はだれも、主への食物のささげ物を献げようと近寄ってはならない。彼の身には欠陥があるから、神のパンを献げるために近寄ってはならない。しかし神のパンは、最も聖なるものであっても、聖なるものであっても食べることが許される。」レビ記21:21~22 祭司たちには、通常以上に厳しい規定がありました。異教の風習を真似て自傷行為をすることや、欠陥のある身でささげ物をしてはならないというものです。それは、神に一番近いところでいけにえをささげる任務があったからです。 障がい当事者の家族として、ここは障がい者差別ではないことがわかります。すべて普通通りにせよということが、かえってその人を追い詰めることがあるからです。 その人の受ける分についても触れられています(22節)。 イエス様が、目の見えない人に「罪を犯したからではなく、神の栄光が現れるためです」と言われた優しいまなざしを覚えます(ヨハネ9章)。 祈り:神様、あなたの配慮を感謝します。主に喜ばれる姿勢を教えると共に、障がいを持つ人へのまなざしも示してくださり感謝します。____さん、_____さんの歩みが守られますように。社会的弱者と言われる方々が差別されず、主の栄光が輝き出ますように。養子縁組、障がい者福祉、週末期ケアで奉仕するクリスチャンを励ましてください。アーメン

レビ記20

「霊媒や口寄せのところに赴き、彼らを慕って淫行を行う者があれば、わたしはその人に敵対してわたしの顔を向け、彼をその民の間から断ち切る。」レビ記20:6 周囲の異教の国々では、自分の子どもを偶像に焼いてささげ、偶像の前で性的に乱れた行為が行われていました。それは混乱と悲しみ、霊肉の健康を損ない滅びに至る結果を生みます。主は決してそのような悲劇に陥らないようにと、厳しく戒められました。 霊媒や口寄せも同様です。星占い、おみくじ、手相などが身近に行われていますが、それも、主なる神以外の霊的なものに頼ろうとすることです。 主は私たちを造り、私たちのを一番よく知り、最善を備えてくださいます。 その主なる神ご自身を見上げ主に導かれていくのが、私たちの幸せな生涯の秘訣です。 祈り:神様、あなたが私の最善の歩みを知ってくださり感謝します。 今日もあなたの道を私に教えてください。あなたのみこころを知り、霊的にぶれずに歩めるよう助けてください。アーメン

レビ記19

「あなたは復讐してはならない。あなたの民の人々に恨みを抱いてはならない。あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。わたしは主である。」レビ記19:18 「聖なる者」としての掟が続きます。十戒と重なる内容が繰り返されます。 そして、随所に主の愛が感じられます。 18節の「隣人を自分自身のように愛しなさい」というのは、最も大切な戒めのひとつとしてイエス様がマタイ22:39でもおっしゃっています。 また、 9~10節では 貧しい人や寄留者のために落ち穂や実を畑に残しておくこと 14節では  身体の不自由な人を差別してはならないこと   など、神様が社会的弱者にどれほど目をとめてくださっているかがわかります。 主がそうなら、私たちも主のまなざしに目を重ね、みこころを行いたいと願わされます。 祈り:神様、あなたが弱い者、貧しい者を忘れずにいてくださることを感謝します。 ____さん、_____さんに、主の手足として私にできることがあれば教えてください。何よりも今日、あなたの元にその方々のための祈りを置きます。主にある平安と安息がありますように。アーメン

レビ記18

「あなたがたは、自分たちが住んでいたエジプトの地の風習をまねてはならない。また、わたしがあなたがたを導き入れようとしているカナンの地の風習をまねてはならない。彼らの掟に従って歩んではならない。」レビ記18:3 エジプトもカナンも、異教の風習がはびこり、性的なモラルが乱れていました。民が偶像礼拝と堕落に陥らないよう、滅びに至らないよう、主ははっきりと正しい基準を教えられました。 私たちも日本に住んでいて、つい「周りも皆しているから」というのが判断基準になっていないでしょうか。神様がOKとおっしゃるならOK、NoとおっしゃるならNoだと、みことばと聖霊の御思いに聴いていきたいです。 祈り:神様、誘惑や非聖書的な価値観から私を、私の家族を守ってください。家族という単位を創られた主が、家族のあり方を教えてくださいました。今日も家族に互いの愛とへりくだりを与えてください。ひとり暮らしの方には教会に霊の兄姉、霊の子どもをたくさん与えてください。アーメン

レビ記17

「それゆえ、わたしはイスラエルの子らに言う。あなたがたはだれも血を食べてはならない。あなたがたの間に寄留している者も血を食べてはならない。」レビ記17:12 17~26章は"Holiness Code"(ホーリネス・コード、聖さのあり方を示すもの)と呼ばれています。今日の部分からは、血がいかに大切であるか、それゆえむやみに飲んだり食べたりして粗末に扱ってはいけないか、ということがわかります。 この節を根拠に輸血を拒否する異端・カルトのグループがあるそうです。しかし、素直に読めば、神様のみこころが人の命を救わない方向であるとは到底読み取れません。 周囲の民族の偶像崇拝に陥らないように、神の民としての聖さを保つように、そして血を介した感染症から守られるようにと、神様がご自身の民の歩みを守るために定めてくださったものです。 究極の神様のみこころは、キリストの十字架と死、そして復活に現れています。私たちが悔い改めと信仰告白をすれば、いつでも「ホーリネス・コード」を満たす者としてキリストの内を歩めるように、神様の側で計画し、実現してくださったのです! 祈り:神様、キリストの内に入れられ、きよい者とされた恵みを感謝します。イースターが恵みを分かち合う、宣教の機会として用いられますように。今日、あなたの望まれる場所・人・機会に、イースターの意味を紹介することができるよう導いてください。アーメン

レビ記16

「アロンは生きている雄やぎの頭に両手を置き、それの上で、イスラエルの子らのすべての咎とすべての背き、すなわちすべての罪を告白する。これらをその雄やぎの頭の上に載せ、係りの者の手でこれを荒野に追いやる。」レビ記16:21 2匹のやぎのうち、1匹は罪のためのいけにえとしてほふられました。もう1匹は「アザゼルのやぎ」として、罪を背負って荒野に放たれ、罪が取り去られたことを象徴しました。なんと寂しい、わびしい、心がしめつけられる光景でしょう。旧約の民は毎年、毎年、同じ儀式をしていました。 キリストは一度で「罪のいけにえ」「罪を除き去る」ことを成し遂げてくださいました。もう、アザゼルのやぎは必要ありません! 使徒信条の「...十字架につけられ、死にて葬られ、よみに下り、三日目によみがえり、天にのぼり、全能の父なる神の右に座したまえり」のことばを、心をこめて宣言します。キリストこそ、私たちの救い主、完全な解決者、生きている主です! 祈り:神様、あなたの救いのご計画を感謝します。 「ところがむしろ、これらのいけにえによって罪が年ごとに思い出されるのです(ヘブル10:3)」という状態から解放してくだり、感謝します。ご自身のからだをささげて救ってくださったキリストの愛、よみにまで下り、復活してくださったキリストの力に感謝します。アーメン

レビ記15

「女に、月のさわりの期間ではないのに、長い日数にわたって血の漏出があるか、あるいは月のさわりの期間が過ぎても漏出があるなら、その汚れた漏出がある間中、彼女は月のさわりの期間と同じように汚れる。」レビ記15:25 神様は結婚を祝福しておられます。この章からは、水を浴びるなど衛生面や健康面への配慮を見ることができます。病的な状態の場合は、他の病気と同じように対処することが書かれています。 この章の背景の中、「長血の女」はイエス様に出会いました。 「すると見よ。十二年の間、長血をわずらっている女の人が、イエスのうしろから近づいて、その衣の房に触れた」(マタイ9:20、マルコ5:25、 ルカ8:43~)。 汚れているとして長年つまはじきにされていた彼女は、イエス様の癒しを受け、孤独からも解放されたのでした。 イエス様が律法を越えたお方、主であることに感謝します! 今日も主の癒し、解放、回復を期待します! 祈り:神様、キリストを地上にお送りくださり感謝します。私たちを癒し、十字架で罪から解放し、神様との関係を回復してくださいました。 血の流れる十字架を見上げます。あなたの愛と犠牲がしたたり落ちる十字架、そこに私の古い人も共につけられました。 _____さんの癒し、_____さんの葛藤からの解放、_____さんの回復を信じて祈ります。アーメン

レビ記14

「杉の木とヒソプと緋色の撚り糸と、生きている小鳥を取って、殺された小鳥の血と新鮮な水の中にそれらを浸し、その家に七度振りまく。」レビ記14:51 人にしても家にしても、ツァラアトからきよめられるためには複雑な過程と何日もの時間が必要でした。そこで繰り返し動物の犠牲の血が流れました。ヒソプの枝がその血に浸されました。ダビデは、 「ヒソプで私の罪を除いてください。そうすれば私はきよくなります。私を洗ってください。そうすれば 私は雪よりも白くなります。(詩篇51:7)」 と言っています。エンドレスに思えた罪・けがれ、そのきよめのために動物の血を流すというサイクルは、キリストの十字架の血によって完全に解決されました。この重みと価値を、私たちはどこまで実感しているのか、日々感謝しているのか。きよめの過程を頭に思い描きながら、そんなことを考えています。 祈り:神様、十字架の血が私自身のために流されたことを、もっともっと深くわからせてください。犠牲の大きさ、そしてあなたの愛の大きさを、感動と感激をもって受けとれますように。アーメン

レビ記13

「患部があるツァラアトに冒された者は自分の衣服を引き裂き、髪の毛を乱し、口ひげをおおって、『汚れている、汚れている』と叫ぶ。その患部が彼にある間、その人は汚れたままである。彼は汚れているので、ひとりで住む。宿営の外が彼の住まいとなる。」レビ記13:45~46 当時のツァラアトは、非常に感染性の高い皮膚病でした(現代のハンセン氏病とは異なる)。そのため、他の人にうつらないよう、道では叫んでディスタンスを取りました。住まいも隔離されました。 コロナのパンデミック初期にこの箇所を思い出しました。防護服やウイルスへの知識がなかった旧約時代には、伝染性の病気はコロナウイルス以上に恐れられたことでしょう。 しかし、イエス様はそんなツァラアトの人々に手を置き、いやしてくださいました。 「イエスは手を伸ばして彼にさわり、『わたしの心だ。きよくなれ』と言われた。すると、すぐにツァラアトが消えた。」(ルカ5:13) 恐れるどころか、愛をもって寄り添い手を触れてくださったことに、身体だけでなく傷ついた心も癒されたことでしょう。同じイエス様が、今日も私たちに寄り添いいやしてくださいます。 祈り:神様、感謝します。イエス様が十字架にかかられるまでに、どんなに嘲らればかにされ、孤独を耐えられたかを思い、感謝します。ですから私の肉体的・精神的な苦しみをすべてわかってくださいます。下がってしまったセルフイメージも、キリストにあって回復させてくださると信じます。 同時に、この日本で絶望して自死を考えている方が、キリストの希望に出会えますように、切に祈ります。アーメン

レビ記12

「しかし、もし彼女に羊を買う余裕がなければ、二羽の山鳩か、二羽の家鳩のひなを取り、一羽は全焼のささげ物、もう一羽は罪のきよめのささげ物とする。祭司は彼女のために宥めを行い、彼女はきよくなる。」」レビ記12:8 出産は祝福です。出産後の女性が「汚れる」とされたのは罪を犯したのではなく、出産後の出血や疲れの中、ゆっくり休めるようにという神様の配慮を感じます。 きよめのためには原則として羊をささげる必要がありました。しかし経済的な余裕がなければ、山鳩か家鳩でもよいとされました。ルカ2:24で、イエスの両親ヨセフとマリアが鳩をささげたとわかります。貧しい家庭に育ち、十字架にかかる前の最後の1週間ですら、イエス様は悩んでいる人の友として歩んでくださいました。今日の私たちの痛み、そして経済的に行き詰まっている人、病気やけがの人、難民や避難民の痛みも心から理解してくださる方です。 祈り:神様、私の体調や状況をわかってくださり感謝します。特に_____のことであなたの助けが必要です。体調を崩している____さん、経済的困難を通っている____さん、そして突然難民になってしまった人たちのことも、あなたが寄り添い、慰めと助けを与えてください。私も______(祈り、手紙、支援、ボランティア、献金、寄付...)によってその方々に寄り添えますように。アーメン

レビ記11

「わたしは、あなたがたの神となるために、あなたがたをエジプトの地から導き出した主であるからだ。あなたがたは聖なる者とならなければならない。わたしが聖だからである。」レビ記11:45 レビ記のテーマは「聖(Holy)」です。そのためのきまりだらけで、厳しくつまらないと感じるかもしれません。でも、主がこのような規定を与えたのには愛の理由があります。 民が周囲の民族の偶像礼拝や異教のならわしを真似ないように、主なる神様をまっすぐ見上げ続けるためでした。そして、民をご自身のものとして守るためでした。 もちろん、人間の力によっては「聖」となり続けることはできません。だから、繰り返し様々な方法でささげ物をし続けなければなりませんでした。それをイエス様が十字架ですべて完了してくださったのです。今週は特に十字架の意味を思いめぐらして過ごしたいと思います。 祈り:神様、私が聖とされるための代償がどれほど大きいかを改めて知りました。キリストの十字架が私自身のためだったことを受け取ります。イースターを前に、___さん、____さんがこの神の愛を受け取り、救いを確信できますように。アーメン

レビ記10

「さて、アロンの子ナダブとアビフはそれぞれ自分の火皿を取り、中に火を入れ、上に香を盛って、主が彼らに命じたものではない異なる火を主の前に献げた。」レビ記10:1 アロンの二人の息子は死んでしまいます(2節)。冷たく厳しい神というイメージは、こうした所から来るのかもしれません。しかし、彼らには民の代表の祭司として民全体への大きな責任がありました。神様からの召しを軽んじてはいけないことを学びます。 アロンはモーセの兄でしたから、その子たちはモーセにとって甥っ子でした。アロンもモーセも、私的には胸がつぶれる思いだったかもしれない、と想像します。しかし、彼らは主の召しに立ち続けました。 どんなに辛い試練があっても、神様の召しは変わりません。一人一人の人生に、神様がデザインしてくださった歩みを受け取りましょう。失望で終わらないよう、弱り果てないよう、そして互いに励まし合い祈り支え合うよう、私たちは教会に集められています。 祈り: 「すべての訓練は、そのときは喜ばしいものではなく、かえって苦しく思われるものですが、後になると、これによって鍛えられた人々に、義という平安の実を結ばせます。ですから、弱った手と衰えた膝をまっすぐにしなさい(ヘブル12:11~12)」。 神様、この励ましを感謝します。互いに励まし祈り合える主の群れとして、教会を導いてください。とりなし手として地域、世界のためにも祈ります。主からの愛とあわれみの心、そして信仰を私たちに増し加えてください。アーメン

レビ記9

「モーセとアロンは会見の天幕に入り、そこから出て来て民を祝福した。すると主の栄光が民全体に現れ、火が主の前から出て来て、祭壇の上の全焼のささげ物と脂肪を焼き尽くした。民はみな、これを見て喜び叫び、ひれ伏した。」レビ記9:23~24 主が命じられた通りにモーセとアロンたちは一つ一つ行いました。そして、民のために祝福の祈りをしたとき、主の栄光が現れたのでした。 私たちは、神様の顕著な働きを求めます。そこには、ただ奇蹟を見たいというだけでなく、私たちの日々の信仰の歩みと忍耐が伴っていますようにと願います。 ちょうど、23、24節のクライマックスの前に、彼らの7日間の隔離と8日目の数々のプロセスがあったように。 祈り:神様、今週もここまで導いてくださり、ありがとうございました。学校で、職場で、家庭で、あなたの栄光とみわざを見せてください。私が、心を尽くしてあなたを求め、日々失望せず祈りながら歩んでいけますように。忍耐の中にも喜びを与えてください。アーメン

レビ記8

「また、注ぎの油をアロンの頭に注いだ。こうして彼に油注ぎを行い、彼を聖別した。」レビ記8:12 油を注がれ聖別されたアロンは、年に一度至聖所に入り、仲介者としてなだめの供え物をしたのでした。自分が偉くなるためでも、得をするためでもありませんでした。 祭司アロンが担った役割は、やがてイエス・キリストが完全に、ただ一度で成し遂げてくださいました。ご自身が地上の王として支配するためでも、金銭と引き換えにするためでもありませんでした。今度の日曜日から受難週です。私たちのために子羊として自分をささげてくださったキリスト、そして仲介者となってくださったキリストを覚え、この解決と解放を感謝しかみしめる時になりますように。 祈り:神様、あなたの救いのご計画に感謝します。祭司が繰り返し担った任務の数々を、キリストは一度で完全に成し遂げてくださいました。しかもご自身を犠牲にして。イースターを前に、私がさらに福音の恵みを深くわかるように助けてください。またそれを他の人に分かち合えるよう助けてください。戦争や紛争、災害にあって苦しんでいる方々にも、あなたの愛と慰めが届きますように。アーメン

レビ記7

「これは、主がシナイの荒野でイスラエルの子らに、主にささげ物を献げるように命じた日に、主がシナイ山でモーセに命じられたものである。」レビ記7:38 ささげ物についての教えは、カナンに定住してからではありませんでした。まだ荒野を旅している間に、神様がひとつひとつ教え命じられたものでした。いわば避難生活、失業生活の間に言われたようなものです。しかし、人々は「なぜこんな大変な時に言うのか。自分の生活が先ではないのか」とは言いませんでした。それは神が彼らを導き、神に従うことが幸せへの最善の道だとわかっていたからです。 時々「今は大変だから、落ち着いてから礼拝出席や献金をします」という人がおられます(この教会ではありませんが)。しかし、「今が大変だから」こそ、神様の前に礼拝すること、ささげることを大切にしたいのです。大変な時にできないことは、落ち着いてもやはり難しくなります。だから、今の状況で、一歩踏み出し信仰の実践を始めたいのです。 祈り:神様、私には_____のことが気にかかっています。大変なこともあります。だからこそ、神様にたより、主を第一にできるよう助けてください。 「ある人たちの習慣に倣って自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう。その日が近づいていることが分かっているのですから、ますます励もうではありませんか」(ヘブル10:25)。アーメン

レビ記6

「火は絶えず祭壇の上で燃え続けさせなければならない。消してはならない。」レビ記6:13 祭司たちは朝も晩も、祭壇の火を燃やし続けました。それはイスラエルの民全体のために燃え続けさせ、消してはならないと命じられました。 聖霊の炎も同じです。聖霊は信じる者の内にいてくださいます。その炎が消えることないように、一時の興奮だけでなく(もちろん素晴らしいことですが)、私たちが日々求め体験し続けるよう、主は招いておられます。私たちの群れは「十字架」と「聖霊」を大切にしています。春はイースターとそれに続くペンテコステの季節です。聖霊の臨在を豊かに覚える日々となりますように。 祈り:神様、聖霊の火が私の心でいつも燃やし続けられるように働いてください。知性や常識も大切です。しかし、それを越えた主の大いなるわざがあることを信じたいです。子どものような純粋な心で、聖霊の現れと働きを受けとることができますように。アーメン

レビ記5

「これらの一つについて責めを覚える場合には、自分が陥っていた罪を告白し、」レビ記5:5 知っていたのに証言しなかったり、逆にできないことを軽々しく口にして誓ったりというのは、今日でもあちこちで見られることです。 もしかすると、私たちも言うべき時に人の目を恐れて黙っていたり、面白くしようとオーバーに話し過ぎたりということがあるかもしれません。 「責めを覚える」つまり神様が与えてくださった良心の痛みを覚えることに、今日も敏感でありたいと祈ります。 旧約時代はひとつひとつ償いのささげ物をしました。今日は神様の前に出て、告白し悔い改めることで私たちは赦されます。手続きが簡単になったからといって、これは当たり前のことではありません。「驚くべき恵み」です! 祈り:神様、十字架による赦しを感謝します。信じられないほどの恵みです! わかっていても失敗を繰り返す私たちです。正直にあなたの前に出てごめんなさい、と隠さず祈ることができますように。子どものような純粋な心を与えてください。アーメン

レビ記4

「『イスラエルの子らに告げよ。 人が、主がしてはならないと命じたすべてのことから離れて、気づかずに罪に陥り、その一つでも行ってしまった、以下のような場合には──」レビ記4:2 「気づかずに」犯した罪でも、罪には変わりありません。「油注がれた祭司(2節) でも、「会衆すべて(13)」でも、「族長(22節)」でも、「民衆の一人(27節)」でも、立場に関係なく罪は罪でした。 自分が気づいていなくても、学校の規則や国の法律になくても、神の目に罪ならば罪です。なんと多くの人が日々無自覚に歩んでいることでしょう。罪の本質は「的外れ」です。家族や隣近所の何人がそれに気づいているでしょうか。 キリストによる素晴らしい罪のゆるしの方法が与えられていると、回覧板を回したい気持ちですね。トラクトをポストにそうっと入れるという方法もあります。 祈り: 「しかし今、キリストはただ一度だけ、世々の終わりに、ご自分をいけにえとして罪を取り除くために現れてくださいました(ヘブル9:26)」 神様、家族の救いをあきらめていました。友達やご近所には、恥ずかしくて福音を言えない時もあります。トラクトを用いたり、何気ない会話を通したりして、キリストの十字架の救いをシェアできるように導いてください。アーメン

レビ記3

「そのささげ物が交わりのいけにえの場合には、献げようとするのが牛であるなら、雄でも雌でも傷のないものを主の前に献げなければならない。」レビ記3:1 3つめは「交わりのいけにえ」です。ささげる人は、主との交わりと平和があるようにとささげ物をしました。神様との生きた関係は、どんな動物を払っても持ち続けたいと願ったのでした。 桜が満開です。新しいスタートを切る人たちが、主との親しい関係を一層持てますように。これまでと同じ環境の人たちが、主をもっと知りたい、とわくわくして歩めますように。今日からラマダン(断食月)に入るムスリムの人たちも、イエス・キリストを救い主として信じることができますように。 祈り:神様、私はあなたとの関係を第一に求めたいです。イスラエルの人がそのためにささげ物をしたくらい、大切なことだと知りました。いろんな変化の中で、変わらないのは主ご自身です。 ____さんの新生活を祝福し、信仰の励ましの一年としてください。 また、____さん(別の人)が、日々の生活の中で主に出会い(or主にあって新たなビジョンをいただき)ますように、覚えてお祈りします。アーメン

レビ記2

「穀物のささげ物はみな、塩で味をつけなさい。穀物のささげ物に、あなたの神の契約の塩を欠かしてはならない。あなたのどのささげ物も、塩をかけて献げなければならない。」レビ記2:13 穀物のささげ物は、神への感謝を表すものとしてささげられました。そして、神との契約を覚える塩で味をつけました。一方で、パン種は入れないようにと定められています(11節)。パン種は罪を象徴していたのです。 儀式はつまらないと思いがちです。意味のわからないままでは、確かに無味乾燥な所作でしょう。しかし、旧約聖書の儀式は、主が民にご自身と信仰生活を教えるための実物教材でした。福音書ではイエス・キリストのなさったたとえ話が多くありますが、旧約の時代から神様はそうしてくださっていました! (パン種:マタイ16:6~12、1コリント5:6~8、ガラテヤ5:9等  塩:マタイ5:13、丸子9:49~50、ルカ14:34等) 祈り:神様、私たちをやさしく教えてくださり感謝します。レビ記をきまりの羅列ではなく、当時の人がどう感じ学んでいったか、自分にどう適用できるか考え、祈りながら読むことができますように。あなたの愛を学ぶことができるように助けてください。アーメン

レビ記1

「その全焼のささげ物の頭に手を置く。それがその人のための宥めとなり、彼は受け入れられる。」レビ記1:4 「犠牲を払う」という言い方が好きでない人もおられますが、レビ記で「犠牲」と「ささげ物」は同義だそうです。「主への献げ物として時間・お金・賜物...を用いる」時に「犠牲を払って」と表現するのはある意味でふさわしいのですね。 ささげる動物の頭に手を置くのは、自分の罪を身代わりの動物に移すしるしでした。残酷に思えるかもしれませんが、動物の犠牲は私たちの罪の汚さ、重さを示す実物教材でした。 キリストの十字架は、この「ささげ物」「犠牲」の完成であり罪の完全なゆるしの成就なのです。その重みを感じながら、レビ記を読んでいきたいと思います。 祈り:神様、キリストが私の罪の身代わりの犠牲となってくださったことを感謝します。4月に入りました。この愛をかみしめながら新年度も歩ませてください。アーメン