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詩篇91

詩篇91−93、詩篇54−56 「いと高き方の隠れ場に住む者  その人は 全能者の陰に宿る。  私は主に申し上げよう。  『私の避け所 私の砦   私が信頼する私の神』と。」詩篇91:1−2 子どもの頃、秘密基地を作るのが好きだった。草むらでも作ったが、家の中で段ボールを使って自分だけの居場所を作るのはワクワクした。段ボールの中にいると、自分が包まれているように落ち着いた。 私たちは本能的に安心できる場所、身を任せることのできる場所を探しているま。それは肉体的に必要というよりは、精神的、霊的に安らぐからである。 それは、神様が私たちをそのように作られたからだーー真の隠れ場である、神様のもとにいくように。そこで永遠の平安と完全な安全を得るために。 神のもとに行き、ざわざわする生活、目に入る情報を横に置いて、安らぎ寄りかかり平安を得よう。

Ⅱコリント3

Ⅱコリント3、詩篇51−53 「何かを、自分が成したことだと考える資格は、私たち自身にはありません。私たちの資格は神から与えられるものです。」Ⅱコリント3:5 教会の働き、様々なミニストリー、調教派の奉仕など、関わるものは人それぞれである。しかし、主の御心にかなった働きであれば種類は関係ない。そして、主が導かれて続いていく働きに共通するのは、バトンを渡していくことである。 段々と長期的な引き継ぎのプランを祈り求める年代になってきた。バトンを渡すというのは、自分自身が中心的な存在でなくなるということである。そして、自分よりも次のリーダーが人々に愛され、重んじられていくということである。 その時に謙遜さと主にある自己肯定感が必要とされる。そうでなければ、サウル王のように妬みで失敗するか、自分たちの奉仕を渡さないという執着心に満ちたクリスチャンリーダーになってしまう。 主よ、どうか私の心からしがみつく思い、妬む思いを取り去ってください。主が与えた資格を、奉仕を、自分自身のもののように思う誤解から自由にしてください。どのような立場であっても、喜んで主に仕え、喜んで主と交わり生活を楽しむことができますように。アーメン

Ⅱコリント2

Ⅱコリント2、詩篇49−50 「しかし、神に感謝します。神はいつでも、私たちをキリストによる凱旋の行列に加え、私たちを通してキリストを知る知識の香りを、いたるところで放ってくださいます。」Ⅱコリント2:14 キリストの凱旋行列!勝利した人が町を練り歩き、人々が歓声とともに喜びに満たされるのが凱旋行列である。キリストの一行の一員として加えてくださるとは、なんという栄光だろうか。 その栄光を知っていたからこそ、どんなに涙や労苦があってもパウロは宣教をやめなかった。いつもキリストの凱旋行列を霊の目で望み見ていたからだった。 しかも、天国まで待つ必要はなく、今この地上でも、キリストの名が受け入れられ、洗礼が授けられ、解放が与えられ、クリスチャンが主を礼拝賛美するところには、キリストの凱旋行列が行われている。 主よ、いつも霊の目で見ることを教えてください。見えるものでなく、見えないそして素晴らしい報酬を見ることができるように、味わい知ることができるように、今日も導いてください。

Ⅱコリント1

Ⅱコリント1、詩篇46−48 「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。それで私たちも、自分たちが神から受ける慰めによって、あらゆる苦しみの中にある人たちを慰めることができます。」Ⅱコリント1:4 パウロは、少なくとも4通の手紙をコリントの教会に送った。さらに、第一の手紙と第二の手紙の間に、コリントの教会を短く訪問した。どれほどコリントの教会を愛しているかがわかる。 さらにアジアでひどい苦難にあい、死を覚悟するほどだったことがわかる(8−9節)。しかし、かえってそのことで自分の弱さを痛感し、神に頼る弱い者の恵みをしみじみ体験した。 主に仕える者、教会に仕える者として、誤解されることや理解してもらえない痛みは、覚悟していても辛く悲しいことである。何より自分の足りなさを痛感する。 しかし、その度に神様が召されたからこの働きをしている、という動機に立ち帰り、弱い者への恵みと光栄を確認するのである。 パウロですら一筋縄ではいかなかったことを、主の恵みにより委ねられている。これが喜びであり誇りであり原点である。 主が召してくださった、それ以上にこんなに不完全で弱い者が立たせられ続ける理由はない。

Ⅰコリント16

Ⅰコリント16 「目を覚ましていなさい。堅く信仰に立ちなさい。雄々しく、強くありなさい。一切のことを、愛をもって行いなさい。」Ⅰコリント16;13−14 献金のこと、兄弟たちのこと、来訪者への対応、と細々したことを最後に書きつつも、パウロの要点は「愛をもって」行うことであること、お互いに兄弟愛を表して欲しいということである。 パウロはコリントの教会にただ叱責やアドバイスを送るだけでなく、彼自身の誠意と愛も表している。最後に自分の手であいさつを書くのも、目の悪いパウロにとってコリントのクリスチャンたちへの愛と親しみの表れであった。 伝道者、開拓者としてだけでなく、牧会者、教師としてのパウロの姿勢にも学ぶものが多くある。

Ⅰコリント15

1コリント15、詩篇43−45 「ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは無駄にはならず、私はほかの全ての使徒たちよりも多く働きました。働いたのは私ではなく、私とともにあった神の恵みなのですが。」Ⅰコリント15:10 この章でパウロは福音について説明し、またやがて復活のからだとされること、死がすでに勝利に飲み込まれたことを確認し、そして「堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから」(58節)とコリントの教会の人々を励ましている。 パウロの救いの経緯やそれまでの行いを思うと、彼には自分がただ神のあわれみによって福音の働きに任命されたことはあきらかだった。だから、全力で神の愛に応えたかったのだ。たとえ弱さがあっても、目に病気があっても。そして、労苦は決して無駄でないと彼自身も知っていた。それは、肉体的な困難を超えて余りある、神の恵みの大きさ、天的な報いの大きさだった。 私自身も、疲れやすく肉体の弱さと限界を日々感じる。また、自意識過剰になったり、人が怖くて引っ込み思案になりがちな者である。しかし、それでも神様が私への召しを与え、空を打つような拳闘(9章)ではなく、主が導かれた的を見極めて打つようにと願っておられる。パウロの励ましを受け取り、的を見極めるための休息を取ることも学びつつ、勇気を出して今日も歩んでいきたい。

Ⅰコリント14

Ⅰコリント14、詩篇40-42 「それでは、どうすれば良いのでしょう。私は霊で祈り、知性でも祈りましょう。霊で賛美し、知性でも賛美しましょう。」Ⅰコリント14:15 パウロは預言の賜物を追い求めなさい、と冒頭で勧めている。それは、異言だけでは教会の他の人の徳を高めることができないから、解き明かすためである。 そして、この章で言っていることは一貫して教会の中が混乱せず、秩序を持って礼拝するように配慮することである。 意味のわからないことばで祈ったり、誰彼なく大きな声で話したりするのでなく、秩序と愛を持ってしなさい、と勧めている。 その意味で、異言はとても良いものだが配慮して使うものであるのと同じように、女性もうるさいおしゃべりを控えなさいということである。 後半は女性教職を認めるかどうかでよく取り上げられる箇所である。私自身も女性教職であるから、この箇所をどう受け取ったら良いのだろうかと迷ってきた。 しかし、パウロがこの章を書いた文脈に照らすと、男女の役割や女性教職を禁じているというよりは、教会の中で無用なおしゃべりや混乱を避けるようにというアドバイスであるように理解できる。何よりも、礼拝に集中することのできる雰囲気、兄弟愛に基づく思いやりを大切にするようにという勧めであろう。

詩篇90

詩篇88-90、詩篇37-39 「どうか教えてください。自分の日を数えることを。  そうして私たちに 知恵の心を得させてください。」詩篇90:12 モーセの祈りの詩篇である。モーセほどの素晴らしいリーダー、神との親しい関係にあった人が切に祈っている詩篇は、ゆっくり朗読し心を重ねて自分自身の祈りともしたい。 なかでも、12節で「自分の日を数えることを教えてください」と願っていることを覚える。人生はいつまでも続くのではない。その中で、神様が与えてくださった使命を受け取り、ぶれずに歩むことができれば幸いである。そのためには神からの知恵もまた必要である。

詩篇88

詩篇88−90、詩篇35−36 「主よ 私の救いの神よ   昼 私は叫びます。夜もあなたのみそばで。」詩篇88:1 死に瀕するような危機の中で、詩人は神に昼も夜も朝も(13節)祈っている。 それはきれいな祈りではなく「叫び求め」るものであり、なりふりかまわず、というほどのものである。 どうしてこのようなことが起こるのでしょう、という出来事や災難がふりかかるときがある。 これを書いているちょうど2021年の7月、コロナウイルスや思いがけないハプニングの中、東京オリンピックが始まった。リーダーシップをとっている人たちはまさに大変なプレッシャーと責任を負っているだろうから、彼らのためにも覚えて祈りたい。何よりも、こうした重圧の中で叫び求めることのできるお方がすぐそばにおられることを知ることができるように祈りたい。 主を知ることが知恵と知識のはじめである、それは変わらない真理である。

Ⅰコリント13

Ⅰコリント13、詩篇33−34 「こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。」Ⅰコリント13:13 愛についての章として有名である。 信仰と希望と愛が残り、その中でも一番すぐれているのが愛であるという。信仰と希望、その二つも素晴らしいものである。 しかし、愛が最も優れている。というのは、愛の中にはねたまず高慢にならないこと、寛容さや真理を喜ぶことが含まれている。そして、「すべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍びます」(7節)と、信仰と希望も包括してしまうからである。 愛は弱々しいものではない。強く、ダイナミックで、頼りがいがあるものである。そして、神はご自身を「神は愛です」と表現なさっている。愛の性質は、そのまま神の御性質でもある。

Ⅰコリント12

Ⅰコリント12、詩篇31-32 「あなたがたはキリストのからだであって、一人ひとりはその部分です。」Ⅰコリント12:27 教会の中で様々な人がいること、そして様々な持ち味があることを、パウロは述べている。 そして、賜物は様々だが、いずれも同じ御霊の働きによって与えられていることを確認している。 自分の賜物を知るのはとてもワクワクすることである。しかし、自分にない賜物を持っている人を見て自分を卑下しがちである。あるいは、自分に馴染みのない賜物の現れを見て批判したりつまずいたりするという傾向もある。預言や異言に関する現れについては、特にその傾向があるように思う。 私自身も、見慣れない激しさや雰囲気の集会に出ると、気まずくなるような者である。しかしそれは、自分自身の狭さと無知を知り、賜物の違いを認めるための訓練であると思う。もし御霊から出ているものであれば、そのお働きを否定することはできない。 「鉄は鉄によって研がれ、人はその友によって研がれる(箴言27:17)」とある。1回きりの場所でなく教会の兄弟姉妹の中では、人間的に合わない人もいる。しかし、同じ御霊がその人をとらえ、賜物を与え、教会の中のなくてはならない器官として召しておられることを覚えつつ、自分もまた研がれて整えられていることを覚える。

Ⅰコリント11

Ⅰコリント11、詩篇29−30 「だれでも、自分自身を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。」Ⅰコリント11:28 コリントの教会では、弱い人をおしのけて自己中心な態度で食事をしたり、秩序が乱れていたりと、自分勝手な問題が生じていた。リーダーシップの秩序も乱れていたようである。そこで、パウロは彼らに実際的なアドバイスを与え、戒めている。 女性の立場については、この章を根拠に男性よりも低いと主張する人もいるが、コリントの教会や地域の状況が色濃く反映しているように思われる。 パウロは聖餐式の態度についても丁寧にアドバイスしている。 今日の私たちも、洗礼を受けたからといって漫然と望むのではなく、自分自身の過ぎた歩みを振り返り、悔い改めや感謝をもってキリストの十字架の救いと復活を味わう。主の命じられた記念としての聖餐のあり方を心にとめて臨みたい。 そして、クリスチャンとして、「忠実な使者は、これを遣わす者にとって金の耳輪、黄金の飾り(箴言25:13)」といわれるような主のしもべでありたい。

Ⅰコリント10

Ⅰコリント10、詩篇26−28 「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい。」Ⅰコリント10:31 偶像にささげた肉は、当時市場に出回っていたり、判別が付かなかったりして、知らないうちに食べてしまう場合もあった。そして、クリスチャンの中にも、それをあまり気にしない人と、とてもこだわり嫌悪感を抱く人とがいたようである。パウロはどちらもOKとしながらも、弱い人、つまずきを覚える人への配慮を教えていた。また、28節では自分の良心のためにも態度を加味するようにと言っている。 個々の判断は委ねられているとしても、大切な原則は「神の栄光を現すためにする」ということである。 もし自分が正しいと思っていても、神の栄光が現れないならば、強い主張をする前に胸に手を当てて考えてみることである(自戒を込めて)。また、隣のクリスチャンが違うことをしていても、互いに神の栄光を現しているならば、裁き合うことを神は望まれていないと思う。 私たちの判断基準は狭い、限りがあり、歪んでいるものである。神の前に自分の良心をもって出ていき、神に点検していただこう。 判断が間違っていたら、潔く態度を改め、謝罪し、和解することも神の栄光を現す行為である。 私たちの周りを見ても、お酒を嗜むかワクチン

Ⅰコリント9

Ⅰコリント9、詩篇23-25 「競技をする人は、あらゆることについて節制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。」Ⅰコリント9:25 パウロは福音を述べ伝えることに情熱的であった。命がけであり、福音を伝えないなら自分はわざわいだ、とまで言っている(16節)。経済的に支えられてもそうでなくても、人がどう評価しようとも、神から委ねられた務めだから自発的にそうしている、と言っている。 ちょうどそれは、オリンピックや大きな大会のために節制をし、厳しい練習をし、全てをかけて臨む選手のようである。一流のアスリートの生活態度とブレない目標の定め方はさすがと思わされるが、パウロは福音を宣べ伝える者として、同じ態度と行動で臨むことを自分にも、またクリスチャンたちにも勧めている。 主に仕える奉仕は、経済的に恵まれないこともある。しかし、もし神が私たちを福音のトップアスリートとして召してくださったのなら、見方が変わってくる。無給であってもその力を最大限発揮したいと思うだろう。神の伝道チームの一員として、恥じない態度と憧れとなる深い人格的な喜びを持って仕えたい。必要が与えられたら、それは大きな恵みと主に感謝して受け取りたい。

詩篇87

詩篇85−87、詩篇20−22 「歌う者も 踊る者も  『わたしの泉はみな あなたにあります』と言う。」詩篇87:7 主への賛美と喜びに満ちた賛美の最後は、「わたしの泉はみな あなたにあります」という全員の宣言を歌っている。 「泉」とはすべてを潤す源であり、その水で人々や地を新しく、みずみずしくするものである。いろいろな汚れや疲れが、泉のそばに行けば、その水で洗えば取り去られる。 私たちの暮らしでも、様々な罪や失敗をしてしまうが、神の元に行き、告白と悔い改めをするときに泉の水で洗ったように洗い流される。私たちがすることは、日々泉のところに行くことである。 また、心配事や悩み、気がかりがあったとしても、やはり泉のそばに行くときに神が潤し、心を新しくし、希望を失わないように養い続けてくださる。家族のこと、体調や仕事、人間関係、私たちの心がからからに渇くような思いになる原因は日々やってくる。しかし、そのときに神のそばに行き、泉の豊かさ、尽きず変わらない愛と力と希望に出会う日々が私たちには許されているのである。

詩篇86

詩篇85〜87、詩篇18〜19 「主よ あなたの道を私に教えてください。  私はあなたの真理のうちを歩みます。  私の心を一つにしてください。  御名を恐れるように。」詩篇86:11 ダビデがこう祈った時、彼には外敵ももちろんあったが、内なる敵についても意識していたと思われる(NIVスタディバイブル、Zondervan)。神に完全に信頼していたが、それは目に見える敵からの救いだけではなく、心が揺れることのないように、神以外のものに心が奪われたり、神に喜ばれないような思いが来ないようにという祈りでもあった。 ダビデも、バテシェバと不適切な関係をもち罪を犯ったり、子育てで失敗したりと、完全な人ではなかった。王ではあったが弱さもあった。だから、権威や地位があっても人が弱く、神の助けと教えなしには歩めないことを痛感していたのだろう。 この詩篇で、ある時は神を賛美しほめたたえ、ある時は自分の心の願いを申し上げ、ダビデは神に向かって真心の祈りを捧げている。 この祈りが私たちの祈りとなりますように。この祈りのように、神様を愛し親しく祈りを捧げることができますように。

Ⅰコリント8

Ⅰコリント8、詩篇16ー17 「ただ、あなたがたのこの権利が、弱い人たちのつまずきとならないように気をつけなさい。」Ⅰコリント8:9 クリスチャンとして、この世の中に聖書に基づく正しい生き方を伝えることは大切である。聖書に特に定めていない事柄に関して、あるいは判断が人によってわかれるような事柄に関してはどうか。 それは、弱い人のつまずきとならないような態度とやり方で、自由が認められている。もし主にあって自由だからと、他のクリスチャンの気持ちも考えずにある主張を続けるなら、相手やその家族をつまずかせることになる。 パウロはクリスチャンの自由を「権利」とも呼んでいる。キリストにあって罪赦された私たちには、これまで以上の自由と平安が与えられる。のびのびと安心して生きることができるようにされたのだ。ただし、その権利を自己中心なまま用いるのではなく、愛に根ざし、兄弟愛をもって用いるという生き方を神は喜ばれる。

Ⅰコリント7

Ⅰコリント7、詩篇13−15 「割礼は取るに足りないこと、無割礼も取るに足りないことです。重要なのは神の命令を守ることです。」Ⅰコリント7:19 この世の慣習や自分自身の地上の境遇は、神との関係に比べたら重要度はずっと低いのである。しかし、目に見えるもの、これまで慣れ親しんできたものには、人は愛着を覚え、影響を受けている。だから、宣教師たちは現地の文化を学び、福音に反しないものは頭ごなしに否定せず、福音に効果的に用いることさえある。また、福音が自分のものとして理解できるよう、文脈化する工夫も行う。 一方で、自分自身が信仰スタイルの違うクリスチャンのことを、無意識に裁いていたり愕然としたりする時もある。割礼の有無が救いと関係ないように、聖書に書いていない行動様式の違いや社会問題への取り組みなどは、違いがあってもそれゆえに多様な層にアプローチできるのだということを覚えておきたい。そうしなければ、分裂の火種としてコリントの教会に起こったのと同じような問題が起こり得てしまう。そうではなく、主にあって多様な部分を与えられ、それでもキリストの一つからだとして公同の教会に入れられている兄弟姉妹であるという点を重視し、意識していくことが求められている。

Ⅰコリント6

Ⅰコリント6、詩篇10−12 「あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではありません。」Ⅰコリント6:19 私のうちに聖霊が臨在してくださり、私の霊の部分は守られている、と信じる。しかし、身体や心は外部からの刺激に非常に弱い。そして自信をなくし、果たしてこれでもクリスチャンなのだろうかと自分自身が情けなくなりいぶかってしまう。 しかし、私のうちに聖霊様がおられるならば、霊だけでなく心も身体も聖霊の支配に委ねることは不可能ではない。なぜなら、霊・たましい・肉体は不可分ではないのだから。かえって、肉体や心の弱さを覚えるときに、人間という存在の弱さと影響されやすさを自覚するのである。だから、霊はもちろんのこと、精神も肉体も、聖霊様に支配していただけるよう、また肉体にも聖霊が働かれるのだということを覚えて、自分自身の生活をきよく保つことをパウロの筆致から教えられる。 イライラした時、聖霊様はどこにいるのか。疲れ果てた時、聖霊様はどこにいるのか。そう、ここにおられるのである。

Ⅰコリント5

Ⅰコリント5、詩篇7ー9 「私が今書いたのは、兄弟と呼ばれる者で、淫らな者、貪欲な者、偶像を拝む者、人をそしる者、酒におぼれる者、奪い取る者がいたなら、そのような者とは付き合ってはいけない、一緒に食事をしてもいけない、ということです。」Ⅰコリント5:11 パウロの厳しい言葉のように思えるが、コリントの当時の教会が、性的な乱れをそのままにしていたことへの叱責である。 人間的に仲間外れにするというよりは、きちんと戒め、神様が望まれる夫婦関係を大切に守ることを勧めている。 今日の教会はどうだろうか。若者の交際の仕方を聞いて、悲しみ教えることができているだろうか。大人の側も照れて性的な話題には触れないようにしていないだろうか。若者だけでなく、浮気や放縦な出来事を聞いても、ただ聞き流していないだろうか。 今日の箇所で、パウロはそうした問題に真正面から向き合っている。なぜなら、神様が作られた性的な秩序は、麗しく美しいものだからである。それを、人間の罪の性質で歪め濫用するのは、神様を悲しませ、周囲の人を傷つけることになる。 教会の中にもしそうした乱れがあるなら、祈り、勇気を持って指摘すること。そして一緒に悔い改めの祈りをし、その人が軌道修正できるように寄り添ってあげること。 神様、どうか教会が見て見ぬふりをするのではなく、問題を知ったときに嘆き悲しみ、そして戒める愛と勇気が与えられますように。

Ⅰコリント4

Ⅰコリント4、詩篇4−6 「人は私たちをキリストのしもべ、神の奥義の管理者と考えるべきです。その場合い、管理者に要求されることは、忠実だと認められることです。」Ⅰコリント4:1~2 私たちもキリストの弟子であるなら、福音をゆだねられている。どのように分かち合うかはもちろんだが、分かち合う私たちの人格が忠実であるかも問われる。 主の前に、どのような気持ち、姿勢で出ているか。キリストをどのように愛しているか。なにか起こったときに、愛する方にまず相談するか、それとも自分の考えで判断してしまうか。 周りの人々は、そんな私たちの態度や行動を見ている。そして、主が信頼に値する方であることを、聖霊が気づかせてくださるのである。 福音は恵みである。その恵みを、管理者として忠実に管理し伝えることが任務だとすれば、私たちの人生はなんと目的に満ち、日々生きがいのあるものであろうか。

詩篇84

詩篇82−84、詩篇1−3 「まことに 神である主は太陽 また盾。  主は恵みと栄光を与え  誠実に歩む者に良いものを拒まれません。」詩篇84:11 「神の大庭にいる一日は千日にまさる」との10節に続いた節である。この詩篇の作者が、王の門番だったのではないかという学者もいる。そして、彼は神の住まいの門番でありたいと願うのである。 続いて11節では、神が信じる人々にとっては太陽のようであり盾であると褒め称えている。太陽は、光り輝く栄光の種を象徴する表現であるが、その神である主が、誠実に歩む人には恵みと栄光を与えてくださるというのである。気前の良い神様は、神を見上げ続ける者に良いものを拒まれないともある。 信仰者にどうして苦難が次々と降りかかるのか、と問われることがある。順調にいったかに見えるミニストリーに問題が起こるとき、何が間違えていたのかと訝しくなることもある。 しかしそうした時、私たちは神にしがみつき、祈る。自分の力では状況を変えることができないし、何よりミニストリーのかけらさえできないことをまざまざと教えられる。 神は、私たちが誠実に歩む、すなわち神様から目を離さないでいることを願っておられる。格好良くなくても、なりふり構わなくても、失敗だらけでも、いつも主から目を離さないでその日その日を生きていくこと。イエス様に手を引かれて今週も一歩一歩を出していきたい。

詩篇83

詩篇82−84、ヨブ41−42 「こうして彼らが知りますように。  その名が主であるあなただけが  全地の上におられる いと高き方であることを。」詩篇83:18 悪人や神を神とも思わない、周りの国々の敵が世にはびこり栄えることを目の当たりにして、神に祈っている詩篇である。 率直な思いをずっと並べている。こんなにストレートで良いのかとうくらいだが、人との間で悪口を言うのではなく、神に対して思いを述べるのを、神は許してくださる。 全ての思いを吐き出した後、冷静に祈ることができる。 そして、究極の願いである、「彼らが主を知りますように」という言葉で祈ることができる。 私たちも悔しくて不条理でなんとも言えない扱いを受けた時に、どう祈れば良いのか、この詩篇は教えてくれている。

Ⅰコリント3

Ⅰコリント3、ヨブ38−40 「私たちは神のために働く同労者であり、あなたがたは神の畑、神の建物です。私は、自分に与えられた神の恵みによって、賢い建築家のように土台を据えました。ほかの人がその上に家を建てるのです。しかし、どのように建てるかは、それぞれが注意しなければなりません。」Ⅰコリント3:9ー10 神のために働く同労者、同僚であるとパウロはコリントのクリスチャン達に語っている。もしパウロが今の日本を見たら、私たちのことも神のために働く同僚だと言ってくれるだろう。 同労者には、自分が神の畑であり建物であるという自覚が必要である。それは、神の働きがまさに自分を通して周囲に表されることがあるということである。畑が荒れ果てて雑草だらけだったら…、もし建物が雨漏りだらけだったら…、神の素晴らしさを十分に伝えることが難しくなる。だから、隣人を愛するように、自分自身のメンテナンスも必要である。それは、単に体を休ませることだけを意味しない。霊性の回復と静まり、まず神からの愛をゆったり受け取り憩うことが、伝道活動にあたって重要である。 なぜなら、土台はキリストであり、私たちの努力や力にあるのではないのだから。

Ⅰコリント2

Ⅰコリント2、ヨブ36−37 「しかし、このことは、  『目が見たことのないもの、   耳が聞いたことのない者、   人の心に思い浮かんだことがないものを、   神は、神を愛する者たちに備えてくださった』  と書いてあるとおりでした。  それを、神は私たちに御霊によって啓示してくださいました。御霊はすべてのことを、神の深みさえも探られるからです。」 Ⅰコリント2:9ー10 私たちには、神の高さ、広さ、深さ、大きさを知り尽くすことはできない。神のご計画、神の知恵がとても壮大で深遠である、ということしかわからないこともある。 なぜ災害が感染症を神がおゆるしになるのか。なぜ、このタイミングであの人は死ななければならなかったのか。そうした、私自身も疑問に思い理解できないことが日常で起こってくるが、それでも神は全てをご存知で最善をなしてくださる。それが信仰である。 理解できないことが起こってくる時、ただこの地上での結末だけではなく、自分が知らない霊の領域で起こっていることがあることを覚えたい。また、自分が地上で生きている期間だけのことではなく、前の世代、後の世代で起こっていることがあるとも覚えたい。 本当に、私たちは限定された部分しか理解できない、ちっぽけな存在である。しかし、その小さい日常の中でも、神のみこころにかなう選択ができるようにと祈る。 「神の奇しいみわざを、立ち止まって考えよ。」(ヨブ37:14)

Ⅰコリント1

Ⅰコリント1、ヨブ34-35 「しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かなことですが、」Ⅰコリント1:23 神の選びの確かさについても、パウロはこの章でふれている。人間的に見れば弱い者、取るに足りない者をあえて主は選び召してくださった。 そして、目的は十字架につけられたキリストを宣べ伝えることである。それ以上に重要なことはない。 超教派の働きで大切なのも、この点で一致していることである。その他の細かい考え方が異なっても、同じ主を愛し、みことばを信じているならば、互いの違いを尊重しつつ共に働いていくことができると確信する。かえってその違いが、福音を届ける人の幅を広げ、働きそのものを豊かにすることもある。 神様は私たちを画一化することを望まれたのではなく、それぞれの人をユニークに造り、その違いを通してもご自身の創造の素晴らしさとご栄光を現される。人間的な目でうわべだけを判断される主ではない。

ローマ16

ローマ16、ヨブ32ー33 「兄弟たち、私はあなたがたに進めます。あなたがたの学んだ教えに背いて、分裂とつまずきをもたらす者たちを警戒しなさい。彼らから遠ざかりなさい。」ローマ16:17 近年、社会的な問題や医学的な判断に関して、クリスチャンの間でも見解が異なる。様々な方針や意見があるのは悪いことではないが、どちらかが絶対に正しいように押し付けるのは問題があろう。なぜなら、分裂とつまずきをもたらしかねないからである。 そうした時の対処は、その場から身を引くこと、そして、キリストの十字架と福音の点での一致を求めることである。祈りながら、福音に反しないことであれば柔和さと寛容さをもって受け入れ合うことではないだろうか。

ローマ15

ローマ15、ヨブ31−32 「ですから、神の栄光のために、キリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに受け入れ合いなさい。」ローマ15:7 お互いに受け入れ合うことがすすめられているが、単に我慢するとか取り繕うというふうにではない。「キリストがなさったように」受け入れ合うことをパウロは書いている。キリストは無条件で、ただ悔い改める人がすべて救われるように受け入れられた。また、ぺテロのように3度も否認した人でさえ、責めることをせず「わたしの羊を飼いなさい」と受け入れミッションを与えてくださった。 さらに、ヒューマニズムや自分の人格成長のためではなく、「神の栄光のために」そうすることを神は望まれる。もし自分のためなら自己満足で終わってしまう。しかし、私たちの忍耐と寛容が神の栄光のためなら、私たちが受け入れ合うことは天的な祝福にあずかることにもなるのである。

詩篇81

詩篇81、ヨブ28-29 「苦しみの中であなたは叫び  わたしはあなたを助け出した  わたしは 雷の隠れ場からあなたに答え  メリバの水のほとりで あなたを試した。」詩篇81:7 私たちの必要を知り、私たちを助けてくださる主。 …聖書を読んだり、礼拝で聞いたりしていて頭では分かっている。 しかし、実生活で窮地に立たされた時、どのくらいこの信仰に立てるだろうか。 苦しみの中で、自分の力だけでなんとかしようと右往左往したり、落胆のあまり何もできなくなったりしていないか。私たちには神様に叫び求めるという選択肢が残されている。 家庭の問題、仕事の問題、将来の問題、自分自身に関する問題… 神に叫ぶとき、神は放っておかれない。神ご自身が介入してくださること。思いがけない方法や思いがけない人を用いられること。そして、私たち自身の想いが変えられることもある。決して神の目に私たちは忘れられることがない。 「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです(マタイ5:3)」。自分の力ではできないと知った時、心が貧しくされる。すると、天的な祝福がそこから始まるのである。

詩篇79

詩篇79−81、ヨブ25−27 「私たちの救いの神よ 私たちを助けてください。  御名の栄光のために。  私たちを救い出し 私たちの罪をお赦しください。  御名のゆえに。」詩篇79:9 詩篇79~82篇は、敵の侵入で苦しむ時に作られたと言われている(79:1参照)。 まさに助けを呼び求める言葉が並んでいる。 「苦しいときの神頼み」という表現がある。苦しい時には根拠のない神にすがるしかない、というニュアンスで日本では用いられることが多い。 しかし、天地を造られた神は根拠がないどころか、そこに戻ることこそ基本であり生きる原点なのである。神を忘れて生きることこそが異常であり、本来の人生の目的や喜びが発揮できない不自然な状態におかれている。 神に助けを求める時、神は遠くにおられるのではない。私たちに近くあられ、すでにここにおられ、すべてを了解し支配しておられる主である。私たちとの人格的な交わりを願われたがゆえに、強制的ではなく自由意思を与え、私たちが選ぶ自由をゆだねてくださった。神を選ばずにはいられようか。

ローマ14

ローマ14、ヨブ22-24 「こういうわけで、私たちはもう互いにさばき合わないようにしましょう。いや、むしろ、兄弟に対して妨げになるもの、つまずきになるものを置くことはしないと決心しなさい。」ローマ14:13 クリスチャン同士でも、少しの意見の違い、方針の違いで大きな差異を感じてしまうことがある。いや、同じ主を信じているから全て同じ考え方だと思ってしまうこと自体が、主が多様に造られた人格をステレオタイプ化しているのかもしれない。 キリストが救い主であること、聖書が神のことばであることは揺るがない。しかし、何を食べるかや、汚れているかといったことに始まり、教理の中心でないことに関してはさばき合わないように、つまり兄弟を頭ごなしに「間違っている」と自己正当化しないようにとパウロは勧めている。 異端ではなく、聖書に派生する細かい違いであるならば、愛を持って受け入れ合うのがクリスチャンのあり方である。もし、教会内である人との違いに失望してある教会を離れても、別の場所でもっと大きな違いに直面する。私たちの心の中にある裁く思い、批判的な態度をキリストの前に認め差し出すこと、それがクリスチャンの分派分裂を防ぐ初めの第一歩である。

ローマ13

ローマ13、ヨブ20−21 「・・・それらは、『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』ということばに要約されるからです。愛は隣人に対して悪を行いません。それゆえ、愛は律法の要求を満たすものです。」ローマ13:9~10 私たちの生活は、イエス様の教えてくださった基準や態度にならおうとするものでありたい。つまり、自分を愛するように隣人を愛するということをどう具体的に表せるかを都度都度祈り意識して行動することである。 避難所の物資配給でも、コロナワクチンでも、並んで順番を待つのでも、他者を押し退けて自分が前に出ようとする姿は、愛を表しているのかどうか再考する必要がある。信仰を持っていても、つい本性というかお得に思えるものに飛びつきがちな私たちである。WWJD(What Would Jesus Do?;イエス様ならどうされるだろう)ということを思いつつ、行政とのやりとりでも、日々の身辺の行動でも、丁寧な目をもって見直してみたい。