投稿

9月, 2022の投稿を表示しています

Ⅱサムエル6

「ダビデは、主の前で力の限り跳ね回った。ダビデは亜麻布のエポデをまとっていた。」Ⅱサムエル6:14 主の箱を最初に運び上げようとした時も、ダビデたちは楽器と共に喜び踊りました(5節)。しかし、箱の運び方が主の定められたやり方ではありませんでした。本来は祭司が担ぐべきところ、荷車で運んでいました。それで牛がよろめき、ウザが手を伸ばし、死んでしまったのでした(7節)。 今回は違いました。主の箱が置かれた家は非常に祝福されていました。そこからダビデの町に移動する際は祭司は主の箱を正しく担ぎ、ダビデたちは歓声と楽器と踊りで賛美をしながら運び上げました。 神様は私たちを祝福しようとなさいます。そのための資源、機会も多く用意しておられます。私たちが主の思いにかない、全身全霊で主を喜び賛美する歩みをするとき、主は喜んで与えてくださいます。・・・それが私たちの神への信頼、信仰です。 祈り:神様、あなたは良い方です。私たちの賛美と礼拝を喜んでくださいます。 あなたにもっと信頼できますように。あなたのみ思いにかなう歩みができますように。今日もお守りください。さらに信仰を与えてください。アーメン

Ⅱサムエル5

「ダビデは、主が自分をイスラエルの王として堅く立て、主の民イスラエルのために、自分の王国を高めてくださったことを知った。」Ⅱサムエル5:12 主が自分を王として立ててくださったという自覚が、ダビデにはありました。羊飼いから王宮に召し入れられ、戦士として戦い、逆にサウル王に命を狙われ、逃亡生活を経て王となったことを思い巡らしたことでしょう。また、彼には「主の民のために自分の王国が高められた」ということを理解する、健康的なセルフイメージがありました。 私たちがどん底の経験を通ろうと、主に信頼する者を主は見放されません。 しかし、私たちは絶頂期にある時、主を覚えているでしょうか。 どん底の時に投げやりになって、主を横に押しやっていないでしょうか。 教会に行けなくても、牧師や兄弟姉妹が声をかけてくれなくても、主は私たちを忘れることがありません。日々主につながり歩むことができますように。 祈り:神様、今日は教会になかなか来れない方のためにお祈りします。信仰が守られ、主との親しい関係がいつも続きますように。私たちに何ができるでしょうか。なすべきことをあなたが教えてください。お休みの方が孤独の思いや苦々しい思いから守られますように。____さん、_____さんを祈りに覚え続けます。アーメン

Ⅱサムエル4

「さて、サウルの子ヨナタンに、足の不自由な息子が一人いた。その子が五歳のときのこと、サウルとヨナタンの悲報がイズレエルからもたらされ、彼の乳母は彼を抱いて逃げた。そのとき、あまりに急いで逃げたので、彼を落としてしまった。そのために足の萎えた者になったのであった。彼の名はメフィボシェテといった。」Ⅱサムエル4:4 1章でサウルとヨナタンの戦死が伝えられた時、幼いメフィボシェテにも足を痛めて生涯が残るという悲劇が起こりました。 しばらくは、ヨナタンの息子であった彼が生きているのかどうかすら、表立って語られることはありませんでした。しかし、神はメフィボシェテを忘れてはおられませんでした(9章)。4章の中にぽつんと1節だけ彼の記述があるのも、まるで「彼は忘れられていない」というしるしのようにも思えます。 神様は、小さな私のことも忘れてはおられません。たとえ寝たきりでも、人々が忘れても、私を造ってくださった主なる神様は、私の存在をいつも気にかけてくださっています。闘病・療養中の方々に、主の励ましと存在の大切さが今日特別にありますように。 祈り:神様、あなたは私たちがどんな状態であろうと愛し、決して忘れることのないお方であることを感謝します。療養中・闘病中の___さん、____さんを覚えてお祈りします。日々あなたの励ましと深い平安、生きる喜びがベッドにあふれますように。主の臨在が豊かに感じられ、霊性がますます深められていきますように。アーメン

IIサムエル3

「民はみな、そして全イスラエルは、その日、ネルの子アブネルを殺したのは、王から出たことではないことを知った。」IIサムエル3:37 ダビデの作戦だとしたら、イスラエルはダビデに反逆したでしょう。しかしアブネルはダビデの知らないところで殺されたのでした。それが明らかになりました。 私たちは皆罪人なので、人間関係にも難しさが生じます。学校、会社、時に教会の中でも、誤解や憶測が生まれることがあります。辛いところを通りますが、自分の誠実に説明責任を果たした後はじっと神様の介入を待ちたいと思います。焦らず、主を信頼し祈って待つ時に、事態が主によって持ち運ばれていくことに感謝します。 祈り:神様、____さんとの人間関係、____さんとの間に生じた誤解を癒してください。寛容という聖霊の実を私の心に結ばせてください。戒めることはしても、相手にいつまでも腹を立てず赦すことができますように。アーメン

IIサムエル2

「サウルの子イシュ・ボシェテは、四十歳でイスラエルの王となり、二年間、王であった。しかし、ユダの家だけはダビデに従った。」IIサムエル2:10 人々がサウルを丁重に葬り、ダビデは全土の王となり平和がきた、とはなりませんでした。そうなるまでには時間がかかりました。 ダビデはかつてサムエルから油注ぎを受けました。そして2:4ではユダの人々から油注ぎを受け、ユダの王となりました。しかしイシュ・ボシェテがもう一人の王となり、戦闘は続きました。 信仰告白をしたから、洗礼を受けたからといって、すべての状況が手品のように即座にバラ色に変わるわけではありません。神様は少しずつ状況に働かれます。そして、私たちの視点も、神中心のものへと少しずつ変えられていきます。時間がかかります。 忍耐が必要ですが、その忍耐も主が与えてくださいます。 祈り:神様、あなたのご計画と解決に期待します。時間がかかることでも忍耐を与えてください。みことばと聖霊の助けに期待し続けることができるよう、助けてください。今週もお守りください。アーメン

IIサムエル1

「彼らは、サウルのため、その子ヨナタンのため、また主の民のため、イスラエルの家のために悼み悲しんで泣き、夕方まで断食した。サウルらが剣に倒れたからである。」IIサムエル1:12 サウル王に長年命を狙われたダビデでしたが、王に手をかけることはしませんでした。それは、サウル王は神に油注がれた人物だったと知っていたからでした。 悼み悲しんで泣いたという記述に、ダビデの純粋な心が表れています。 先日はエリザベス女王の葬儀が行われました。多くの人に親しまれた女王でした。 私事ですが、ここ数週間の間に何人かの信仰の友が思いがけなく連続して召されるという経験をしました。 一緒に祈りあったこともあれば、意見が違って苦労したこともありました。でも振り返ると、すべてが主の御手の中にあったことを覚えます。 命もまた、主の御手の中にあり、主の許しなしには雀の一羽ですら地に落ちることがないことに感謝します。 祈り: 「五羽の雀が、二アサリオンで売られているではありませんか。そんな雀の一羽でも、神の御前で忘れられてはいません。それどころか、あなたがたの髪の毛さえも、すべて数えられています。恐れることはありません。あなたがたは、多くの雀よりも価値があるのです。(ルカ12:6~7)」 神様、私たちの生涯も出来事も友情も、あなたの御前に覚えられていることを感謝します。ダビデのような純粋な心で今日も生きていけるよう、助けてください。アーメン

Iサムエル31

「そこで勇士たちはみな立ち上がり、夜通し歩いて行き、サウルの死体と息子たちの死体をベテ・シャンの城壁から取り下ろし、ヤベシュに帰って来て、そこでそれらを焼いた。」Iサムエル31:12 サウルの死体は城壁でさらし者になっていました。旧約聖書の時代は残酷な場面が出てくるのでいやだ、という声を聞きます。確かに、人間の罪の性質がそのまま現れています。 罪の性質は旧約時代にとどまりません。今まさに起こっているウクライナとロシアの戦争でも、虐殺や拷問が行われています。時代と共に技術は発展したかもしれませんが、人間の罪の性質は何一つ変わっていないのだと思い知ります。 しかし、神の愛の性質もまた、時代を越えて変わりません。そして、2000年前にゴルゴダの丘で十字架にかかり成し遂げられたキリストの救いの効力も変わりません。 昔の出来事ではなく、今日の私と直結する救いです。 祈り:神様、あなたの愛と救いを感謝します。悲しみや苦しみのある世界に、キリストが人として来られ、究極の解決を成し遂げてくださったことを感謝します。希望を失わず、祈り続けることができますように。____さん、____さんもこの救いを受けとることができますように。 「しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。(ローマ5:8)」 アーメン

Iサムエル30

「ダビデは言った。『兄弟たちよ。主が私たちに下さった物を、そのようにしてはならない。主が私たちを守り、私たちを襲った略奪隊を私たちの手に渡されたのだ。だれが、このことについて、あなたがたの言うことを聞くだろうか。戦いに下って行った者への分け前も、荷物のそばにとどまっていた者への分け前も同じだ。ともに同じく分け合わなければならない。』」Iサムエル30:23~24 略奪隊を追った600人のうち、200人は疲れきって川のほとりにとどまりました。追撃し勝利した400人は、分捕り物を待機していた200人に分けるのをいやがりました。その時にダビデが言った言葉です。 「主が私たちを守り、略奪隊を私たちの手に渡された」のだから、平等に分けることを命じ、それがイスラエルの慣例となりました。 教会も同じ原則だと思います。豊かに奉仕する人の働きに感謝しています。主が賜物と能力と環境を与え、ご本人も主の恵みに応じて喜んでされている姿は麗しいものです。 そして忘れてはならないのは、教会に注がれる恵みと守りはその人だけにとどまらず、教会全体で喜び感謝するものだということです。牧師や働き人も例外ではなく、教会が共に主を喜び、互いに愛し合うために仕える者だともう一度確認しています。 祈り:神様、あなたがくださる恵みと守りを感謝します。私たちの日々の信仰生活や祈りや奉仕が、自分だけのものではなく、教会の徳を高め、教会の喜びとなり、宣教の広がりにつながっていきますように。アーメン

Iサムエル29

「ダビデとその部下は、翌朝早く、ペリシテ人の地へ帰って行った。ペリシテ人はイズレエルへ上って行った。」Iサムエル29:11 ペリシテ人の領主たちは、ダビデが自軍で戦うのを拒絶しました。なぜなら、戦いの相手はイスラエルであり、ダビデが途中で寝返っては困るからでした。 ダビデは裏切らないつもりでしたが、結果として軍には加わらず、滞在していた町に帰ることとなりました。 ダビデは勇士でした。活躍できる場を奪われてがっかりしたかもしれません。でも、これは神の摂理、あわれみだったと思います。なぜなら、 ・留守の間に町が襲われていて、このタイミングで戻っていなければ家族や町が滅びたかもしれないから(30章) ・戦いに加わったサウル王やヨナタンを、自らの手で戦死させてしまったかもしれないから(31章) です。 思うように機会が与えられず、賜物が発揮できないでしょうか。しようとすることがとどめられ、抑圧されているように感じられているでしょうか。 それでも、今与えられている持ち場に感謝し、今日できることを誠実に行っていきましょう。神様は最善をよくご存じです。 祈り:神様、あなたが私の人生の最善をデザインされる方であることを信じます。あなたの導き、あなたのご計画を歩みたいです。どうぞ私に忍耐と心の深い喜びを与えてください。また、今行き詰まりを感じている____さん、____さんに、あなたの突破口が思いがけない形で与えられますように。 「わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っているーー主のことばーー。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。(エレミヤ29:11)」 アーメン

Iサムエル28

「サウルは主に伺ったが、主は、夢によっても、ウリムによっても、預言者によってもお答えにならなかった。」Iサムエル28:6 サウルはペリシテ人の陣営を見て恐れました。主に、どのように伺ったのか、詳細はわかりません。もしこのまま断食し、自分のこれまでの姿勢を悔い改めて真剣に祈り続けたなら、この後は違った展開になっていたかもしれません。 残念なことに、サウルは霊媒師に頼ろうとしました。(サムエルの霊が語るという部分の神学的な解釈には深入りしませんが、)自分が滅びるという言葉を聞いて、さらに恐怖に陥りました(20節)。 人に頼るか神に頼るか選択を迫られた時、今日も神に頼る者になれますように。 祈り:神様、たとえ私が地上で孤独でも、あなたはいつも共にいてくださることを感謝します。 「人間に頼るな。鼻で息をする者に。そんな者に、何の値打ちがあるか。(イザヤ2:22)」 主に頼ります。弱い私たちをお助けください。アーメン

Iサムエル27

「ダビデは心の中で言った。『私はいつか、今にサウルの手によって滅ぼされるだろう。ペリシテ人の地に逃れるよりほかに道はない。そうすれば、サウルは、イスラエルの全領土内で私を捜すのをあきらめ、こうして私は彼の手から逃れられる。』」Iサムエル27:1 ダビデの生涯で、信仰の危機として思い浮かぶのは、バテシェバとの不倫に陥った時です。 しかし、今日のこの箇所も、かなり危うい時であったように思われます。それは、自分の心の中で、悲観的な現状把握と、自分の思いに頼った作戦が行われているからです。神様に祈り尋ねた形跡がありません。 私たちも自問自答し、悩むことが多々あります。しかし、それを祈りとして主の元に持っていかない限り、よい解決はありません。自分でうまくやったと思っても、どこかに足りなさがあります。 逆に主の元に持っていくなら、状況は変わらなくても「祈ってゆだねた」という深い安心感があります。救命ボードに乗ったような、嵐の中での希望と安堵感が与えられます。 祈り:神様、あなたが私の救いであり、私の望みです。どうしようもない思いになった時に、あなたに思いのたけを申し上げ、すがっていきたいです。あなたの深い知恵と尽きない恵みに信頼します。 「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、あなたがたの道は、わたしの道と異なるからだ。ーー主のことばーー(イザヤ55:8)」アーメン

Iサムエル26

「主は一人ひとりに、その人の正しさと真実に応じて報いてくださいます。主は今日、あなたを私の手に渡されましたが、私は、主に油注がれた方に、この手を下したくはありませんでした。今日、私があなたのいのちを大切にしたように、主は私のいのちを大切にして、すべての苦難から私を救い出してくださいます。」Iサムエル26:23~24 ダビデは、徹底して主のサウルへの油注ぎがあったことを忘れませんでした。たとえ自分が危険な目にあってもサウルに自ら害を加えず、主のなさることに信頼しました。 正当防衛、自分の命を守るため、という感覚に慣れている私たちには「なぜ」と思う部分もあります。聖書の他の部分にも、理解できない所が多くあるかもしれません。とことん調べ、納得しようとするのも悪くはありません。 しかし、わからないことは「まだわからない」まま、ダビデのような態度で、主を信頼して一歩踏み出す時、主の素晴らしさを理詰めでなく「体験」できるのも多くの人のあかしです。 祈り:神様、あなたの真実と素晴らしさを感謝します。聖書がわからない、信じられない、と迷っておられる____さん、____さんが、あなたに信頼することを選び取り、あなたの素晴らしさを体験できますように。信じた時に聖霊による知恵と理解力が与えられることも経験できますように。アーメン

Iサムエル25

「ダビデはアビガイルに言った。『イスラエルの神、主がほめたたえられますように。主は今日、あなたを送り、私に会わせてくださった。』」Iサムエル25:32 夫ナバルがダビデにひどい態度を取ったことを聞き、妻アビガイルは直ちに行動を起こしました。ダビデへの贈り物を用意し、ダビデの前に申し開きをしました。 当時の女性の社会的地位を考えると、今日以上に勇気のある行動でした。そこには、主にある大胆さと、家族や使用人を守ろうとする使命感があったのでしょう。 現在でも、若い人や女性が行動を起こそうとすると、内外の困難にぶつかります。家族や親戚の中でも、つい低く見られがちです。 わがままや自我は、留められるのがよいと思います。でももし、神様からの召しであり使命が促すのなら、困難に耐える力と助けも主が与えてくださると信じます。 「私なんて、どうせ・・・」という内なるささやきが聞こえますか?それは、神様から来ていますか?自分の劣等感や保守的な常識、サタンの策略から来るものかもしれません。 キリストがご自身のいのちと引き換えに与えてくださった罪からの解放と自由を、主の栄光のために用いること、それが私たちの最優先事項になりますように。 祈り:神様、私たちを劣等感やこの世の偏った価値観から解放してください。周りから抑圧された時、怒りではなくアビガイルのような知恵と行動力、そして穏やかな心をもって対応できますように。キリストが私を愛して十字架にかかってくださった恵みを、狭い箱に押し込めることがないように助けてください。アーメン

Iサムエル24

「彼は部下に言った。『私が主に逆らって、主に油注がれた方、私の主君に対して、そのようなことをして手を下すなど、絶対にあり得ないことだ。彼は主に油注がれた方なのだから。』」Iサムエル24:6 ダビデはこう言って、サウルが洞穴に用を足しに入って来たとき、すぐそばにいたのに害を加えませんでした。 部下たちには、批判やがっかりした気持ちが起こったかもしれません。せっかくのよいチャンスを無駄にし、敵の長を見逃したのですから。 しかし、ダビデの判断基準は「自分のチャンス」ではなく、「主の油注ぎ」でした。主がなさったこと、任命されたことを尊重しました。そして、サウルの上着の裾だけを切り取り、自分には悪意がないことを証明しました。結果として、ダビデの命は守られ、主と人の信頼を得て王になっていきます。 私の判断基準は何でしょうか。目先の状況や判断、それも大切です。しかし、主の油注ぎ、主のご計画が、一時的な見えるものよりも重要であることを忘れないでいたいと願います。今日の状況が思わしくなく気落ちしそうでも、主のご計画は静かに、しかし確実に行われるという希望を持って歩みたいと思います。 祈り:神様、あなたのご計画に信頼し、希望を失わず歩めるよう助けてください。みことばの約束に信頼します。信仰を与えてください。 「私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです。(第二コリント4:18)」アーメン

Iサムエル23

「サウルの息子ヨナタンは、ホレシュのダビデのところに行って、神によってダビデを力づけた。」Iサムエル23:16 さらっと書いてありますが、ヨナタンがダビデの所に行くのは命の危険がありました。ダビデ側からも、サウル側からも攻撃されかねない戦場へ行き、「神によって」ダビデを励ましたのは驚くべきことだと思います。 ダビデももちろん命の危険に日々直面していました。自分が助けたケイラの人たちが容易にサウルに寝返り、人の心が頼りにならないことを痛感していたでしょう。 しかし、今日の状況にあって、彼は詩篇54篇を作りました。神への信仰が、絶体絶命の難しい状況の中で培われていきました。 私たちも八方塞がりになった時、神を仰ぎ見ることができたら幸いです。神が解決してくださることを信じます。今日はこの詩篇を私たちの祈りと信仰の告白といたします。 祈り: 「神よ あなたの御名によって  私をお救いください。   あなたの力強いみわざによって   私を弁護してください。  神よ 私の祈りを聞いてください。   私の口のことばに耳を傾けてください。   見知らぬ者たちが 私に立ち向かい   横暴な者たちが 私のいのちを求めています。   彼らは神を前にしていないのです。  セラ   見よ 神は私を助ける方。   主は私のいのちを支える方。   神は 私を待ち伏せる者たちに   わざわいをもって報いられます。   あなたの真実によって   彼らを滅ぼしてください。   私は 心からのささげ物をもって   あなたにいけにえを献げます。   主よ あなたの御名に感謝します。   すばらしい御名に。  神がすべての苦難から私を救い出し   私の目が敵を平然と眺めるようになったからです。(詩篇54:1~7)」 アーメン

Iサムエル22

「そして、困窮している者、負債のある者、不満のある者たちもみな、彼のところに集まって来たので、ダビデは彼らの長となった。約四百人の者が彼とともにいるようになった。」Iサムエル22:2 ダビデの所には、だんだんと人々が集まってきました。 対照的に、サウルからは人心が離れていきました。 ダビデたちにパンを与えた祭司アヒメレクはサウルに申し開きをしました。王の近衛兵たちも、サウルに命令されてもアヒメレクに手をかけようとはしませんでした。 何よりも、サウルの王権を、主ご自身がストップされたからでした。 世界の政治家を見ても、嫉妬と権力欲にかられ、このサウルのようなふるまいをしている人がいます。中には、ご機嫌取りをする者もいるでしょう。しかし、適任ではないとわかっている人もいます。そして権力の下で苦しんでいる人たちがたくさんいます。神様のみ思いがなされていくように、世界に目を向けて祈りたいと思います。 祈り:神様、あなたは全地の主です。主の祈りの「みこころの天になるごとく 地にもなさせたまえ」を心からの祈りとしてささげます。 圧政に苦しむ人、食糧や水がない人、すべての財産を失い難民になった人、家族を殺された人、拷問を受けた人、行きたくない戦地に派遣された人、自由に礼拝が持てない人、密告の危険にさらされている人...。あなたが共に悲しみ、涙を流してくださる方であることを感謝します。必要な助けを人々に送ってください。 あなたの正義が行われますように。あなたの救いと裁きが地上になりますように。全能の主、神を恐れる指導者が立てられますように。アーメン

Iサムエル21

「ダビデは彼らの前でおかしくなったかのようにふるまい、捕らえられて気が変になったふりをした。彼は門の扉に傷をつけたり、ひげによだれを垂らしたりした。」Iサムエル21:13 逃亡生活中のダビデの記事です。共にいる若者たちのために食料調達をしたり、武器を求めたり、果ては気が狂ったふりをしたりという様子が記録されています。 ダビデは当時20代。逃亡生活は、彼の生涯の中でもどん底の経験の一つでしょう。 しかし、この期間に、ダビデは主に祈り深く交わることを学び、後には詩篇の祈りを残しました。従者のために労するリーダーシップを学び、よい牧者、王の資質を身に着けました。 今、下積みの状態でしょうか。どん底にいるでしょうか。しかし神様は忘れておられません。かえって私たちに辛いと思われる期間に、主は与えた賜物を培い、トレーニングして用いやすい者へと変えてくださるのです。たとえ私たちが気づかなくても、主はご自身のよいご計画をお持ちです。 祈り:神様、あなたが私たちの下積みとも思える期間に、私たちを用いやすい器へと整えてくださることを信じます。忍耐を与えてください。 また現在、試練や訓練の期間を通っている_____さん、_____さんのために、とりなしてお祈りします。主にある希望と忍耐が与えられますように。この期間を通り、主の器として用いられますように。アーメン

Iサムエル20

「子どもが行くと、ダビデは南側から出て来て地にひれ伏し、三度礼をした。二人は口づけし、抱き合って泣いた。ダビデはいっそう激しく泣いた。」Iサムエル20:41 自分の王位を求めず、かえって命まで危険にさらしながら、ヨナタンはダビデを守ろうとしました。そして、ダビデを逃がして助けます。 毎朝このように祈りを記しながら、お一人一人の顔を思い浮かべます。しかし、ヨナタンとダビデのような深い友情、愛の配慮には至らないと思わされています。 神様がひとり子を十字架につけるほどに愛された人たち、神のかたちに造られた兄弟姉妹がどれほど大切な存在か、今朝はそのことを特に思い巡らしています。 祈り:神様、あなたが愛されている兄弟姉妹お一人ひとりを感謝します。共に主を見上げて祈り、礼拝できる恵みを感謝します。あなたの愛を頂いた者として、互いに愛し合い、祈り合うことができますように。 「愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた、互いに愛し合うべきです。 いまだかつて神を見た者はいません。私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにとどまり、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。(ヨハネの手紙第一4:11、12)」アーメン

Iサムエル19

「彼もまた衣類を脱ぎ、サムエルの前で預言し、一昼夜、裸のまま倒れていた。このために、『サウルも預言者の一人なのか』と言われるようになった。」Iサムエル19:24 神様の目にはすでに王座にふさわしくないとされたサウルでした。 預言するというのは立派なことのように思えますが、サウルの様子を見ると少し違います。 裸で倒れており、もはやダビデを捕らえることはできなくなりました。また、サムエルの前にも彼の居場所や企みがすべて明らかになりました。 結局、サウルがダビデをつかまえることはできませんでした。このような方法でも、神様はダビデを守ってくださったのだとわかります。 今週も、神様のユニークなお働きと守りが、お一人一人にありますように。来週は敬老礼拝です。教会に与えられている人生の先輩の存在に感謝します。 また、私事で恐縮ですが、今週近所の高齢の方々を訪問することになっています(自治会の仕事)。祈り心で、キリストが愛されたように愛をもてますようにお祈りください。 祈り:神様、あなたの不思議な守り、不思議な導きを感謝します。今週も教会のメンバー、家族、地域や職場の方々に働いてください。私たちがおかれている状況を感謝し、日々キリストの手足として、見える形・見えない形であなたの愛をお届けすることができますように。アーメン

Iサムエル18

「ヨナタンは着ていた上着を脱いで、それをダビデに与え、自分のよろいかぶと、さらに剣、弓、帯までも彼に与えた。」Iサムエル18:4 サウルの息子ヨナタンは、ダビデのことを「自分自身のように」愛しました。聖書の中で最も美しい友情の一つは、ヨナタンとダビデの友情だと思います。 上着や武具まで与えるというのは、王位継承がダビデになってもよいという心の現れでした。ヨナタンからは妬みや自己防衛心が感じられません。猜疑心と憎しみにかられた父サウル王とは対照的です。 私たちの心からも、神様が妬みや自己中心の思いを取り去ってくださいますように。神様に愛されているから大丈夫、という健全なセルフイメージをもって、他の人を敬い、祝福を分かち合う者となれますように。 祈り:神様、ヨナタンのような純粋な心を与えてください。兄弟姉妹を敬い、励まし合うことが喜びになりますように。____さん、_____さんのことを特に喜びます。 「何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい。 それぞれ、自分のことだけでなく、ほかの人のことも顧みなさい。 キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい。(ピリピ2:3~5)」アーメン

Iサムエル17

「ダビデはペリシテ人に言った。『おまえは、剣と槍と投げ槍を持って私に向かって来るが、私は、おまえがそしったイスラエルの戦陣の神、万軍の主の御名によって、おまえに立ち向かう。』」Iサムエル17:45 剣、槍、投げ槍のどれも、ダビデは持っていませんでした。羊飼いとしていつも使っていた投げ石で、ゴリヤテを倒しました。 勝利の秘訣は (1)「主の御名によって立ち向かった」(45節) ダビデは万軍の主の御名を宣言しました。 クリスチャンや教会は、一見弱い者の集まりに見えます。この社会の権力、地位、お金に乏しく地味かもしれません。しかし、地上のどんな権力よりもまさっている主が共におられます。主が働かれる時、大きな変化が起こります。 (2)普段の生活で主が訓練し備えてくださった(34節) ダビデの羊飼いとしての日常の中で、ライオンや熊と戦い、羊を救う訓練がされていました。勇気と使命感、そして投げ石の正確なコントロール技術が培われていきました。 私たちも平凡な今日という日の中で、霊的戦いへの訓練を主がさせてくださいます。実際的に必要なスキルや知恵も、霊性に伴って徐々に与えられていきます。 祈り:神様、ご自身が戦いに「救いをもたらされた(47節)」ことを知りました。 霊の戦いの最前線にあって、教会が主の守りによって建てられていることを信じ感謝します。私たちに霊の一致と主の知恵を与えてください。特に今、戦いの中にある___さん、____さんを励まし、あなたご自身の勝利を見ることができますように。アーメン

Iサムエル16

「サムエルは油の角を取り、兄弟たちの真ん中で彼に油を注いだ。主の霊がその日以来、ダビデの上に激しく下った。サムエルは立ち上がってラマへ帰って行った。」Iサムエル16:13 旧約聖書の中にも、主の霊つまり聖霊が働いておられるのがよくわかります。しかも、超自然的な現れ、目に見える不思議な力やしるしを伴う場面も多くあります。 使徒2章のペンテコステの出来事以来は「聖霊の時代」と言われます。それは、サウルやダビデだけでなく、信じる人々に、もっと一般的に聖霊が働かれるようになったからです。そして、イエス・キリストを信じ、心に聖霊が住まわれる人には、心やその人を変える働きをなさいます。 旧約聖書で特別な人だけに注がれていた特権を私たちも頂いています。 静かに働かれることもあります。私たちに深い平安と忍耐を与え、御霊の実を結ばせてくださるのは、聖霊の働きそのものではないでしょうか。 祈り:神様、あなたの霊が信じる者に与えられることに感謝します。 聖霊の顕著な働きを求める方には確証を与えてください。日々の歩みで、御霊の実を結ばせてください。 「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものに反対する律法はありません。(ガラテヤ5:22~23)」 アーメン

Iサムエル15

「サウルとその兵たちは、アガグと、肥えた羊や牛の最も良いもの、子羊とすべての最も良いものを惜しんで、これらを聖絶しようとしなかった。ただ、つまらない値打ちのないものだけを聖絶したのである。」Iサムエル15:9 サウルの弱さは、私たち自身の弱さでもあります。 高級なものを処分するのは勿体ないと思います。また、失敗を誰かのせいにして責任を逃れようとします(サウルは15節で、兵たちのせいにしています)。 「主の前にすべてをささげる」と賛美するとき、その歌詞の意味の重さを感じているでしょうか。時に圧倒されそうになります。 主に香油を注いだ女性のように、一番大切なものは主のもの、主のために気前よい心を与えていただきたいと祈ります。 祈り: 「ある女の人が、非常に高価な香油の入った小さな壺を持って、みもとにやって来た。そして、食卓についておられたイエスの頭に香油を注いだ... 『まことに、あなたがたに言います。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられるところでは、この人がしたことも、この人の記念として語られます。』(マタイ26:7、13)」 神様、この女性のような心を与えてください。すべてをくださったあなたのために、私も惜しまずささげることができますように。お金だけでなく、握っている思い、プライド、自己中心な心を手放すことができるよう、助けてください。アーメン

Iサムエル14

「民はサウルに言った。『この大勝利をイスラエルにもたらしたヨナタンが死ななければならないのですか。絶対にそんなことはあり得ません。主は生きておられます。あの方の髪の毛一本でも地に落ちてはなりません。今日、あの方は神とともにこれをなさったのです。』こうして民がヨナタンを救ったので、彼は死ななかった。」Iサムエル14:45 ヨナタンと道具持ちは神に頼りながら戦いました。「多くの人によっても、少しの人によっても、主がお救いになるのを妨げるものは何もない(6節)」と勇敢に出て行きました。 一方、サウルは「夕方、私が敵に復讐するまで、食物を食べる者はのろわれよ(24節)」と、兵士が食事をするのを禁じました。そこには主に祈って誓った形跡がありません。 ヨナタンが死罪になるかと思われた時、民は「主は生きておられます。あの方(ヨナタン)の髪の毛一本でも地に落ちてはなりません。今日、あの方は神とともにこれをなさったのです(45節)」と弁護しました。 見ていないようで、人々は見ています。それが神から出たものか、本人の思いかということも、第三者の方がよく見えることもあります。私たちの今日の思いは神から出たものでしょうか。それとも、自分の思いにすぎないでしょうか。勇気をもって忠告してくれる人のアドバイスに耳を傾ける謙遜な心を持てますように。 祈り:神様、今日行おうとすることが主の御旨にかないますように。兄姉の忠告を受けとるへりくだった心を与えてください。 「あなたがたはむしろ、『主のみこころであれば、私たちは生きて、このこと、あるいは、あのことをしよう』と言うべきです。(ヤコブ4:15)」 アーメン

Iサムエル13

「サムエルはサウルに言った。『愚かなことをしたものだ。あなたは、あなたの神、主が命じた命令を守らなかった。主は今、イスラエルにあなたの王国を永遠に確立されたであろうに。』」Iサムエル13:13 サウルがサムエルを待ちきれなかった気持ちはよくわかります。兵士たちが自分から離れていこうとしていたこと、7日間待ってもサムエルが来なかったことから、自分が代理で全焼のささげ物を献げたのでした。 しかし、主はもうしばらく待つことを彼に望んでおられました。それは神様からサウルへの霊的訓練だったようにも思えます。 もし彼が自分の力に頼らず、神の介入をひとことでも祈ったら、結果は違ってきたでしょう。 私たちの「主よ、いつまでですか」という叫びも、自分のつぶやきではなく祈りとなる時、神が遅すぎることなく(ぎりぎりかもしれませんが)介入してくださると信じる信仰が与えられますように。 祈り:神様、あなたが道を作ってくださることを信じたいです。 自分の力や視野に頼らず、神様のダイナミックな働きを待ち望むことができますように。 ♪主は道を造られる(God Will Make a Way, Don Moen) 「主は道を 日々造られる  何もないように 思える時でも 主は御手で 御元で支え   新しい明日(あす)へ 主は道を造られる 天地が滅び失せても  主の言葉は落ちず 荒野(あらの)に道を 砂漠に川を   今日も造られる」 アーメン

Iサムエル12

「ただ主を恐れ、心を尽くして、誠実に主に仕えなさい。主がどれほど大いなることをあなたがたになさったかを、よく見なさい。」Iサムエル12:24 イスラエルの人たちは、「私たちは、王を求めることによって、私たちのあらゆる罪の上に悪を加えてしまったからです(19節)」と言いました。しかし、向きを変えて真摯な姿勢で主に仕えること、自分もとりなしの祈りを続けることをサムエルは語ります。 時々「洗礼を受けた後、神様を忘れて好き勝手なことをしたから、もう救われないのでは」と心配する声を聞きます。しかし、神様は救いを取り去られることはありません。それどころか、忍耐強く、その人が向きを変えて戻ってくることを待っておられます。 祈り:神様、今日は教会から一時的に離れている人のために祈ります。一人で信仰が弱ってしまいそうな人たちに、あなたが忍耐強く待ってくださっていることがわかりますように。____さん、_____さんを覚えて祈ります。アーメン

Iサムエル11

「サムエルは民に言った。『さあ、われわれはギルガルに行って、そこで王政を樹立しよう。』民はみなギルガルに行き、ギルガルで、主の前にサウルを王とした。彼らはそこで、主の前に交わりのいけにえを献げた。サウルとイスラエルのすべての者は、そこで大いに喜んだ。」Iサムエル11:14~15 入学、就職、結婚...何かが始まる時はわくわくし、嬉しくなります。周りもお祝いします。 そして、よい形で始めるのと同じくらい大切なことは、「よい終わり方をする」ということです。イスラエル全体が喜んでサウルを王としたにもかかわらず、残念なことに、サウルはよい終わり方をしませんでした(今後その様子が出てきます)。 今、何かを始めようとしていますか?何かに没頭していますか?やがて、それらをどのような形で終えたいですか。やがて何かを終える時、利己的でなく、謙遜に階段を降り、寂しさにも耐えることができるでしょうか。 (デイビッド・ワング師の「最後まで走り抜け(Finishing Well)」という本には、聖書からの終わり方の例が多く出ており、考えさせられます。) 祈り:神様、始まりと同時に終わりがあることを静かに思い巡らしています。何かを終える時にこそ、私たちの人格と霊性が問われます。どうか、あなたからの日々の訓練と導きによって私たちを整えてください。聖書の例から、よく学ぶことができますように。始める時も、終わる時も、あなたからの確信と導きを与えてください。アーメン

Iサムエル10

「主の霊があなたの上に激しく下り、あなたも彼らと一緒に預言して、新しい人に変えられます。」Iサムエル10:6 今週の木曜集会では、アルファコース第9回「聖霊の働き」のビデオを視聴しました。その中で「聖霊は、何も変えずにすべてを変える」という表現があったのが印象的でした。外側の見かけに目立った変化はなくても、住んでいる場所や家族や仕事に何も変化はなくても、私たちの内側が聖霊によって大きく変えられるのです。 そうして、弱い者が聖霊によって強くされ、主のみこころを大胆に歩むことができたら、こんな幸いなことはありません。 祈り: 「『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって』と番軍の主は言われる(ゼカリヤ4:6)。」 神様、目に見えるところは弱く力も能力もなくても、あなたに信頼します。あなたが私に望まれる歩みを、今日も聖霊の力と助けによってできますように。人はうわべや先入観で判断しますが、主は心を見られます。私のうちに、きよい、純粋な心を与えてください。アーメン

Iサムエル9

「サムエルがサウルを見るやいなや、主は彼に告げられた。『さあ、わたしがあなたに話した者だ。この者がわたしの民を支配するのだ。』」Iサムエル9:17 こんな風に神の声がはっきり聞こえたらよいのに、と思います。今日でも、まれに同じように神の語りかけを聞いた人がいます。 しかし、サムエルの時代と異なり、今は旧新約聖書が与えられています。その中のことばに親しむことで、神の語りかけを日々聞くことができます。信じる人の内に住まわれる聖霊も語ってくださいます。当時よりも、誰もが神の声を聞く機会が与えられているとも言えます。 祈り:神様、聖書や内住の聖霊様が与えられていることに感謝します。心を開いて、みことばからの語りかけを受けとることができますように。 「言うべきことは、そのときに聖霊が教えてくださるからです(ルカ12:12)。」 アーメン

Iサムエル8

「彼らが、『私たちをさばく王を私たちに与えてください』と言ったとき、そのことばはサムエルの目には悪しきことであった。それでサムエルは主に祈った。」Iサムエル8:6 サムエルもまた、子育てには苦労したようです。息子たちは「利得を追い求め、賄賂を受け取り、さばきを曲げて(3節)」いました。それで民は祭司ではなく別の王を立ててほしいと言ったのでした。 サムエルは、これまでの奉仕が拒絶されたように感じたかもしれません。心外に感じた彼はしかし、民に対して怒ったりどなったりしませんでした。その思いを祈りに変え、主の元に持っていきました。 主はサムエルに、「民があなたに言うことは何であれ、それを聞き入れよ。なぜなら彼らは、あなたを拒んだのではなく、わたしが王として彼らを治めることを拒んだのだから(7節)」と答えてくださいました。サムエルではなく、主が民の批判を受け止めてくださったのでした。 教会の奉仕や人間関係で批判に合うとき、すべてを自分だけで対応せず(もちろん至らなさは悔い改めますが)、主の元にそれを持っていくことで、燃えつきや過度の落胆から守られます。 また、教会のリーダーや働き人、奉仕者が支えられ、いつも主と親しい関係が持てるよう、互いに祈りに覚えたいです。 祈り:神様、私たちが問題や批判を自分の思いだけで処理せず、主に祈り、悔い改め、主の御手に導かれるように助けてください。教会のリーダー、働き人、奉仕者である____さん、_____さんが今日も主に頼り、祈りと聖霊に助けられて歩めますようにとりなし、お祈りします。  アーメン