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7月, 2022の投稿を表示しています

士師記1

「 主 がユダとともにおられたので、ユダは山地を占領した。しかし、平地の住民は鉄の戦車を持っていたので、ユダは彼らを追い払えなかった。」士師記1:19 士師記は約束の地、カナンを平定する記録で始まっています...ただし、途中から「追い払えなかった」「追い払わなかった」と不完全だったことがクローズアップされてきます。 表面的には、イスラエルが情けをかけたか寛大だったかのようにも読めます。 しかし、偶像礼拝や異教の習慣、モラルの乱れに浸らないようにという主の意図からは外れていました。 私たちも「少しくらいなら良いだろう」という妥協が、大きな失敗や滅びに至る例を知っています。麻薬、ギャンブル、そして占いや偶像礼拝...。気がついた時にはがんじがらめになり、自由な選択ができなくなるのです。 心の中で、「これぐらいなら」と主の前に妥協していることがないか、考えさせられます。日曜礼拝だけでなく、それ以外の生活の中で信仰の真価が試されることを覚えます。 「私は主がともにおられるので、________。」の空欄には、どんな内容が入るでしょうか(入れたいでしょうか)。 祈り:神様、あなたがともにおられることを感謝します。家庭で、職場で、学校で、地域で、日々の生活の中_____の点で信仰が試されます。私の反応、言葉、行動があなたのみ思いにかなうよう助けてください。 「...わずかなパン種が、こねた粉全体をふくらませることを、あなたがたは知らないのですか。新しいこねた粉のままでいられるように、古いパン種をすっかり取り除きなさい。あなたがたは種なしパンなのですから。私たちの過越の子羊キリストは、すでに屠られたのです(Ⅰコリント5:6~7)。」 アーメン

ヨシュア24

「主に仕えることが不満なら、あの大河の向こうにいた、あなたがたの先祖が仕えた神々でも、今あなたがたが住んでいる地のアモリ人の神々でも、あなたがたが仕えようと思うものを、今日選ぶがよい。ただし、私と私の家は主に仕える。」ヨシュア24:15 昨日と今日の箇所は、ヨシュアの訣別説教です。今日の24章は民全体に語られています。ヨシュアは「あなたがたと家族は、主なる神に仕えるのかどうするのか選びなさい」とチャレンジします。 そして「私と私の家は主に仕える」と自分の意思表明をします。リーダーとして、まず自分の姿勢と態度を示したのでした。それは思いつきでも見せかけでもなく、ヨシュアの心からの願いでした。主なる神様がどれほど素晴らしく真実であるかを体験した人の本音でした。 日本のクリスチャンは、数は少なくてもヨシュアのような立場にあると思います。 私たちが主の愛と恵みがどれほど素晴らしいかを知ったなら、「私と私の家は主に仕える」と宣言の祈りをしてみてください。 キリストへの信仰は強制やカルト的なものではありません。自由意思による応答です。キリストとの親しい関係です。今日、何を選びますか。 祈り:神様、あなたの愛と恵みを感謝します。私自身は失敗ばかりで、人格的にも未熟なものです。キリストの姿に従い、霊的にも人格的にも成長していきたいです。私と私の家族が、心から喜んで御霊の実を結ぶことができますように。 「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものに反対する律法はありません(ガラテヤ5:22~23)。」 アーメン

ヨシュア23

「だからあなたがたは自分自身に十分に気をつけて、あなたがたの神、主を愛しなさい。」ヨシュア23:11 昨日と今日はヨシュアの訣別説教(メッセージ)です。23章はまずリーダーたちに語った部分です。当時の中東社会の法律は、祝福とのろいを対比して書く習慣がありました。神様はそうした習慣を用いつつ、ヨシュアを通して語られました。 私たちは「車にぶつかってケガをするから、道に飛び出してはいけないよ」「危ないから、包丁を振り回さないように」と子どもたちを教えます。それは子どもたちが安全で幸せに育ってほしいからです。 神様も、私たちが幸せに平安に生きていくために戒めてくださいます。 今、「聖書と政治~社会で福音をどう読むか」「科学者はなぜ神を信じるのか」という2冊の本を読んでいます。どんな分野に置かれていても、注意深く「自分自身に十分に気をつけて」神である主を愛することが原点です。私が「十分に気をつける」ために、今日どんな助けが必要でしょうか。 祈り:神様、私の目を開いてください。あなたの戒めと教えを受けとり、今日の自分自身の生活に適用することができますように。各分野にいる専門家たちがあなたを認め、あなたの前にへりくだり、平安を得ることができますように。アーメン

ヨシュア22

「ルベン族とガド族はその祭壇に『これは私たちの間での、主が神であることの証しだ』と言って名をつけた。」ヨシュア22:34 ルベン族、ガド族、マナセ族(の半分)は、ヨルダン川の東側にすでに土地を得ていました。でも引き続き、同胞がヨルダン川の西側に割り当て地を得るまで共に協力し、務めを果たしました。ヨシュアは彼らの忠実さをほめています(2~3節)。 彼らが建てた記念の祭壇は、当初誤解を招きました。偶像礼拝ではないのか、と。しかし彼らはきちんと意図を説明し、誤解を解きます。そして、その祭壇を 「これは私たちの間での、主が神であることの証しだ」 と名付けます。 動機がどんなによいものであっても、私たち人間の理解力や知恵には限界があるので、時に誤解や行き違いが生じます。信仰の友の間でもそうです。 傷つき、悲しくなることもあります。けれどもそれで終わらないで、主と人の前に純粋に申し開きをすること、説明をすることが大切なのだと学びます。 誤解が解けて許しあったら、いつまでもこだわらず、思いを一新して再び歩み始める姿勢を、今日の3部族の対応から教えられました。 祈り:神様、過去に受けた誤解や傷ついた言葉、態度への苦みから解放してください。あなたが和解とゆるしに導いてくださいましたから、心のわだかまりを十字架の元に置きます。何よりも、イエス様が十字架で私たちの罪をあがなってくださり、ゆるしてくださったのですから、その恵みを思い出させてください。 「わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたの背きの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない(イザヤ43:25)。」 感謝します。アーメン

ヨシュア21

「主がイスラエルの家に告げられた良いことは、一つもたがわず、すべて実現した。」ヨシュア21:45 相続で親族がもめたり、うまくいかなかったりという話を時々聞きます。 ひとつの家族でも難しいのですから、部族ごとの相続地を確定するのはもっと難しい事業でした。 ヨシュアのリーダーシップは、主なる神様のみこころを求め、従うという姿勢に基づいていました。また、人々の信仰も、荒野の旅や主の奇蹟を通して整えられていきました。 数々の困難を通りながらも、主がイスラエルの人々に告げられたことは、「一つもたがわず、すべて実現した」のでした。 家族や親族の間のトラブルは、私たちの知恵や思惑だけでは解決できません。 コミュニケーションの取り方に悩んでおられる方もおられるでしょう。 神様の知恵と介入がありますように。主のみこころを求める方が、家族や親戚の中に起こされますように。 祈り:神様、カナンの土地分割という難しい事業が平安のうちに行われたことを知りました。あなたにとっては、私の家族や親族の中にある問題も難しくありません。あなたの介入、あなたの解決を信じます。私を、謙遜で純粋な者としてください。同じ主を見上げて祈る信仰者が、家族や親戚の中に起こされますように。アーメン

ヨシュア20

「人がこれらの町の一つに逃げ込む場合、その人はその町の門の入り口に立ち、その町の長老たちに聞こえるようにその事情を述べよ。彼らは自分たちの町に彼を受け入れ、彼に場所を与える。そして彼は彼らとともに住む。」ヨシュア20:4 当時の中東では、目には目、いのちにはいのち、と、同じだけの復讐が認められていました。けれども過失で人を殺してしまった場合には、逃れの町に避難することが定められました。その町に入る際に長老たちに事情を話し、もっともだと思われれば町に受け入れられ、命が守られました。 聖書は「罪の報酬は死です(ローマ6:23)」と語ります。「いのちにはいのち」と同様に、本来は「罪には死」でした。 しかし、キリストの十字架の死が、私たちの罪のために支払われました。キリストを救い主と信じる者には「罪にはキリストの死」となりました。 逃れの町は各地に置かれ、どこからでも半日以内で到達できたようです。 私たちには、キリストの十字架という逃れ場所がいつもそばにあることに感謝します。 祈り:神様、逃れの町はあなたの愛の配慮でした。十字架は、あなたの愛とさらに素晴らしい逃れの道であることを覚えます。キリストの十字架の死が私の罪の代価として支払われたので、もう必死で逃げ回る必要はなくなりました。この恵みを、一日を始めるにあたり日々心にとどめることができますように。アーメン

ヨシュア19

「カタテ、ナハラル、シムロン、イデアラ、ベツレヘム。十二の町とその村々。これがゼブルン族の諸氏族の相続地であり、その町々とそれらの村々である。」ヨシュア19:15~16 「ベツレヘム?ユダ族の町なのでは(15章参照)?」と思った方は、とても注意深く聖書を読んでおられるのだと思います。 たしかに、エルサレム近郊のベツレヘム(イエス様が生まれた村)は、ユダ族の割り当て地にあります。 そして、今日の「ベツレヘム」は、同じ名前ですが、ガリラヤ地方(北部)の別の町の名前です。きっと古来から、よく混同されてきたことでしょう。 ...なんだか親しみを覚えます。教会のある大阪狭山も、よく埼玉の狭山と間違えられるからです。教会宛の小包が、関東地方経由で届くこともあります。 「大阪に狭山市があるとは知らなかった」と言われます。 今日のガリラヤ・「ベツレヘム」を含め、私たちに馴染みのない地名の列挙にも、人々の生活と歩みを身近なものとして感じます。 祈り:神様、世界の町や村とそこに住む人々を、あなたが覚えてくださり感謝します。人の目には紛らわしくても、あなたは決して混同することなく、私自身の存在をわかってくださり、あなたのご計画に従って住まわせてくださっていることを受けとります。アーメン

ヨシュア18

「ベニヤミン部族の諸氏族のくじが引かれた。くじで当たった彼らの地域はユダ族とヨセフ族の間にあった。」ヨシュア18:11 ヤコブの息子12人のうち、末っ子だったベニヤミン。その子孫の割り当て地は、聖書地図で見るとそれほど広くありません。しかし地理的にはカナンの中央に位置し、エリコやエルサレムといった主要な町を含む場所にあります。 問題に直面することもありましたが、子孫は祝福されました(参照 創世記49:27)。初代の王サウルや使徒パウロも、ベニヤミン族の出身でした。 家族の中で、弱い立場でしょうか?普段、あまり意見を聞いてもらえないでしょうか?それでも、神様の目にはとても重要な存在として映っています。 祈り:神様、あなたが私のような小さな存在も忘れず、目にとめてくださっていて感謝します。自分のことを過大評価も過小評価もせず、あなたに喜ばれる者となれるように導いてください。健全な、聖書的なセルフイメージをもって今週も歩めますように。各教会で子どもたちのために計画されている、夏の行事にも知恵を与えてください。アーメン

ヨシュア17

「彼女たちは、祭司エルアザルとヌンの子ヨシュアと族長たちの前に進み出て言った。『主は、私たちにも自分たちの親類の間に相続地を与えるよう、モーセに命じられました。』ヨシュアは主の命により、彼女たちにも、彼女たちの父の兄弟たちの間に相続地を与えた。」ヨシュア17:4 当時、女性や子どもたちは、人口調査で数にも入らない弱い存在でした。 そのような中、ツェロフハデの娘たちは自分たちの願いを大胆に申し述べました。 すでにモーセと全会衆の前でその願いを述べた時、主は 「ツェロフハデの娘たちの言い分はもっともだ。あなたは必ず彼女たちに...相続の所有地を与えよ。...人が死に、その人に息子がいないときは、あなたがたはその相続地を娘に渡さなければならない(民数記27:7~8)。」 と答えてくださいました。 主は、弱く見える者の訴えを聞いてくださいます。そうして、正しい願いに答えてくださいます。自分のことを、弱く恥じ入るような存在だと感じるでしょうか。 たとえそうであっても、主に願う時に主はそれを蔑まれません。今大胆に、主のもとに近づきます。 祈り:神様、今日は聖書のことばを私の祈りとします。 「神へのいけにえは 砕かれた霊。打たれ 砕かれた心。 神よ あなたはそれを蔑まれません(詩篇51:17)」 「ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか(ヘブル4:16)」 感謝します。アーメン

ヨシュア16

「ヨセフ族、マナセとエフライムは自分たちの相続地を受け継いだ。」ヨシュア16:4 ヨセフ族は、創世記37~50章で出てきたヨセフの子孫です。兄たちの妬みを買い、エジプトに売られ、誤解されて牢に入れられ、ファラオの夢を解き明かし、大臣になり、飢饉を乗り越え、やがて兄たちや家族を呼び寄せた、あのヨセフです。マナセとエフライムはヨセフの子どもたちでした。 父ヤコブ(=イスラエル)は死ぬ前に孫たちのために祈り、祝福しました。 「神はおまえたちとともにおられ、おまえたちを先祖の地に帰してくださる(創世記48:21) 。」 何百年も経ち、その日がきました。とうとう割り当て地が与えられました。 ヨセフの骨も、やがてヨセフ族の割り当て地にあるシェケムに葬られることになります(ヨシュア24章)。 私たちは自分の死に直面した時、何を考えるでしょうか。もしあと1週間で生涯を終えるとしたら、何をしますか。子どもや孫、周囲の人にどんな祈りや言葉を残したいですか。 祈り:神様、私が信仰を持つようになったのは、誰かの祈りがあったことを感謝します。私も周囲の方々の救いと祝福を祈る者となりたいです。 生涯を終える時に、祝福ととりなしの祈りとその答えが、家族への遺産として残りますように。アーメン

ヨシュア15

「さらに境界線はベン・ヒノムの谷を上ってエブス、すなわちエルサレムの南の傾斜地に至る。それから境界線は、ヒノムの谷を見下ろす西の方の山の頂、レファイムの谷間の北の端を上る。」ヨシュア15:8 大阪府の市町村が列記されていたら、もう少し親しみが持てるのでしょうね...耳慣れない地名の列挙で、ぴんとこないかもしれません。 聖地旅行に参加した人は、いくつかは情景を思い出せるかもしれません。参加したことがなくても、聖書巻末の地図を指でたどりながら確認すると、なるほどと思います。 エルサレムの南側を通る線がユダ族の割り当て地の境界だと書かれています。それは、エルサレム近郊のベツレヘムがユダ族のものとなることを意味しています。 やがて預言者ミカによって 「ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で、あまりにも小さい。だが、あなたからわたしのためにイスラエルを治める者が出る。その出現は昔から、永遠の昔から定まっている(ミカ5:2)」 と救い主の誕生地が預言されます。さらに時代がくだり、イエス・キリストが誕生します。 エルサレムもベツレヘムも、ある町が歴史を越えてピンポイントで覚えられていることに、神様のご計画の壮大さと確かさを思います。そして、この日本も私たちの住んでいる町にも、同じ主の目が注がれていることに感謝します。 祈り:神様、あなたが小さな村ベツレヘムを用いられたように、私の住む地域をあなたのご栄光のために用いてください。あなたが愛しておられる人々に、あなたの愛を知らせることができますように。近所の_____さん、______さんの救いを願ってお祈りします。アーメン

ヨシュア14

「このようにして、ヘブロンはケナズ人エフンネの子カレブの相続地となった。今日もそうである。彼がイスラエルの神、主に従い通したからである。」ヨシュア14:14 カレブは40歳でカナンの地を偵察しました。12人の偵察員のうち、ヨシュアとカレブだけが信仰にたった発言をしました(民数記13章)。それ以来45年、彼は変わることなく主に従い通しました。当時を知る民で生きていたのはヨシュアとカレブの二人だけでした。 ヨシュアほど表に出てこないカレブですが、謙遜と強さをもった彼の存在はヨシュアにとって励ましであり、民にとっての支えであったでしょう。 教会の中にも、カレブのような方がおられます。私たち自身もカレブのような信仰の勇者になれたら素晴らしいですね。 祈り:神様、私たちの信仰の先輩の存在に感謝します。あなたについていく人生が、何よりも確かで安全であることを信じます。 教会から離れている_____さん、______さんにも主の愛が今日強く感じられ、信仰が再び強められますように。アーメン

ヨシュア13

「レビ部族にはモーセは相続地を与えなかった。主が彼らに約束されたとおり、イスラエルの神、主が彼らへのゆずりである。」ヨシュア13:33 「霞(かすみ)を食って生きていけるのか。」 かつて父がこう言いました。主に仕える生活は、経済的な保証も基盤もなく不安定な、仙人の暮らしのように思えたのでしょう。しかし、主の真実さと、祈ってくださる兄姉の愛に支えられ、守られてきました。 レビ部族には相続地としての不動産はありませんでした。しかし、主ご自身がゆずりとなられ、主が彼らを養われました。 同時に、他の部族には、それぞれに応じた割り当て地が与えられていきます。今日はモーセの代に割り当てられたヨルダン川の東側の土地が記されています。 明日からは、ヨシュアの代に割り当てられたヨルダン側の西側の土地の割り当てです。 祈り:神様、あなたが真実な方であることに感謝します。それぞれに主がくださった恵みに感謝し、他人との比較から解放してください。 「朝ごとに あなたの恵みで私たちを満ち足らせてください。  私たちのすべての日に 喜び歌い 楽しむことができますように。(詩篇90:14)」 アーメン

ヨシュア12

「主のしもべモーセとイスラエルの子らは、彼らを討った。...ヨシュアとイスラエルの人々が討ったその地の王たちは、次のとおりである。」ヨシュア12:6~7 ヨルダン川の東側はモーセとイスラエルの人々が、西側はヨシュアとイスラエルの人々が、それぞれ約束の地を得ていきました。東側と西側の間にリーダーが交代し、そしておそらくイスラエル人の顔ぶれも少しずつ世代交代していったでしょう。 主のご計画は世代を越えて行われることもあります。私たちは自分の生涯を基準に考えがちです。自分の代で何かを完成しなければ失敗だと思ってしまいます。 しかし、主のご計画は一世代で収まりきらないほど大きいものだということもあります。主の大きなご計画の一部に私の人生がおかれているという信仰と期待をもって、今週も一歩を踏み出していきましょう! 祈り:神様、世代を越えて働かれるあなたの偉大さを感謝します。家族の救いと回復、_____、_______(←願っているけれどなかなか答えが見えないこと)を、あなたが忘れておられるのではないことを信じます。希望を失わず、あなたの時を期待して祈り続けることができますように。アーメン

ヨシュア11

「ギブオンの住民であるヒビ人以外に、イスラエルの子らと和を講じた町は一つもなかった。イスラエルの子らは戦って、すべてを奪い取った。」ヨシュア11:19 読むのが辛くなるような戦いの記事が続きます。ある人は、聖書の神は残酷だと批判します。しかし、もう少し視点を広げて考えてみたいと思います。 日本に生きるクリスチャンとして、私たちはまず平和を願います。ところが、11章での戦いの相手は、和平交渉を拒絶した町々でした。 また、私たちは主なる神以外を礼拝することを拒みます。11章の町々では異教の偶像礼拝が行われ、罪深い習慣があったと思われます。主の民がきよくあってほしいということを、イスラエルを実物教材として神様は示されたのでした。 さらに、私たちは戦いや犯罪、抑圧や差別を嘆き、心を痛めながらとりなしの祈りを続けます。ウクライナ、ミャンマー、ウイグル、アフガニスタン...の戦い、国内外の銃乱射事件、食料危機に直面する国々、崩壊した家庭の子どもたち...。11章以上の悲惨な状況が、今日の日本や世界で起こっています。 歴史上、悲惨で残酷な出来事の最たるものは、イエス・キリストの十字架刑でした。それは私たちを救おうとする、神の愛とあわれみがあふれ出た決断ゆえでした。 「血なまぐさい」と顔をそむける前に、私がキリストを十字架につけたこと、それほどの犠牲によって救われたことの意味を、今朝はしみじみと思い巡らしています。 祈り:神様、戦いの場面は血が流されるので、読むのが辛いです。十字架がどれほど残酷だったのかを改めて思います。でも、私を救うために、その恐ろしい刑罰を受けてくださったイエス様の愛にも圧倒されています。心から感謝します。アーメン

ヨシュア10

「主が人の声を聞き入れられたこのような日は、前にも後にもなかった。主がイスラエルのために戦われたからである。」ヨシュア10:14 戦いの記事が続いて、通読がしんどいなあと思うかもしれません。 ヨルダン川を渡って約束の地に入ったら、何不自由ない幸せな暮らしが待っているはずではなかったでしょうか。偵察隊の報告は聞いていたものの、こんなに戦いが続くとは...と私なら思ってしまいそうです。 信仰を持つことは喜びであり、人生での大きな一歩です。 とはいえ、すべての問題が消えてなくなる訳ではなく、日々直面しなければなりません。 しかし、主がイスラエルのために戦われたように、私たちのためにも戦ってくださいます。私たちは主が戦ってくださるところに身を置き、主の戦い方で問題に相対できるようになったのです。 人間の策略や肉の思いを越えた主の働きとご計画に期待します。 祈り:神様、戦いから目をそむけ、逃げてしまいたい私です。でも、それで戦いがなくなるわけではありません。解決が主の知恵と力にあることを信じます。 今日気になっている_______のこと、______のことに、あなたの介入と導きがありますように。アーメン

ヨシュア9

「そこで人々は彼らの食糧の一部を受け取った。しかし、主の指示を求めなかった。」ヨシュア9:14 ギブオン人は変装し、「遠い国から来た」と言ってイスラエル人を騙しました。 ヨシュアたちは主の指示を求めませんでした。それで、このギブオン人とのやり取りではだまされてしまったのでした。痛い経験を通して、ヨシュアたちは主にまず聞くことの大切さをいやというほど学んだことでしょう。 失敗したら終わりではなく、やり直す道を神様は与えてくださいます。同時に痛みのレッスンを通して、私たちは同じことを繰り返さないように教えられ、整えられていきます。 いつも同じようなことで悩み、失敗しがちでしょうか?痛みを覚えるレッスンを通っているでしょうか?辛い経験ですが、主が見放さず、共にいてくださいます。純粋で砕かれた心で通るなら、その経験は私たちの信仰を大きく成長させてくれます。 祈り:神様、私が失敗しても見捨てないでくださり、感謝します。痛みのレッスンを通して、私を整えてください。さらにあなたのみ思いを知り、あなたの知恵と導きを受け取る者となりたいです。アーメン

ヨシュア8

「翌朝ヨシュアは早く起きて、兵を召集し、イスラエルの長老たちとともに、兵の先頭に立ってアイに上って行った。」ヨシュア8:10 正直なところ、旧約聖書に限らず戦争の記事を読むと辛い気持ちになります。平和を得るための考え方は、国や文化によって違います(自らで勝ち取らなければ、誰も守ってくれない、という国も多くあります)。 主なる神様は、決して好戦的な方ではありません。 「あなたが、ある町を攻略しようとしてその町に近づいたときには、まず降伏を勧めなさい(申命記20:10)」 と命じられています。 それでも、時には、ある町の偶像礼拝や堕落に対して、主はイスラエルを用いてさばかれた、ということがわかります。 もし自分だけの利益を求める王なら、最前線には新米の兵士を置きます。しかし、ここでヨシュアとイスラエルの長老は、兵の先頭に立ちました。自らが最も危険な場所に立ったので、利己的な思いからの戦いでなかったことがわかります。 それでも、ある聖書の箇所がよく理解できない時には「神様、よくわかりません」とそのまま祈る私たちでよいのだと思います。正直な私たちの思いを、主はさげすまれません。 祈り:神様、聖書にはまだまだ私の理解を越えたところがあります。知性ではよくわからない箇所があります。聖霊様が、私の心に少しずつ教えてください。みことばを蜜のように日々味わうことができるよう、助けてください。アーメン

ヨシュア7

「ヨシュアは衣を引き裂き、イスラエルの長老たちとともに、主の箱の前で夕方まで地にひれ伏し、自分たちの頭にちりをかぶった。ヨシュアは言った。『ああ、神、主よ。あなたはどうして、この民にヨルダン川をあえて渡らせ、私たちをアモリ人の手に渡して滅ぼそうとされるのですか…。』」ヨシュア7:6〜7 2つのことが心に留まります。 ・率直な祈りが解決の突破口を開くこと。 祈りは当たり障りのない優等生的なことや願いだけではありません。「なぜですか」「どうしてですか」と正直な思いを主に持っていって良いことがわかります。ヨシュアの率直な祈りに、主はなすべきことを教え、答えてくださいました。 ・リーダーだけでなく、共同体として心を合わせて祈ること。 長老たちは、ヨシュアと思いを共にして夕方まで悲しみました。危機の時、リーダーが葛藤しているのをただ眺めていますか。それとも、そばに駆け寄って共に祈りますか。リーダーも一人の弱い人間です。私たちが、ぜひ後者のようでありますように。 祈り:神様、私の思いをそのまま受け止めてくださり、感謝します。あなたにより親しく祈ることができますように。また、教会、 JEC、日本や世界のクリスチャン団体の働きとリーダーたちを覚えて祈ります。主にあって守り導かれ、ますます愛に満ちて仕えられますように。私たちも共同体の一人として、労苦を共にする思いで祈ります。アーメン

ヨシュア6

「民はときの声をあげ、祭司たちは角笛を吹き鳴らした。角笛の音を聞いて民が大声でときの声をあげると、城壁は崩れ落ちた。」ヨシュア6:20 この時まで、民は声を出さずにいました。見守る民の目に入ったのは、主の箱が城壁を回る様子でした。 私たちは、主のみわざを見ようとする前に、自分であれもこれも状況を整えようとしがちです。でも、「私が何をするか」よりも「主が何をなさるか」に目をとめ、それを心に焼き付けることがより大切です。 それから、主の望まれる行動(ここでは「ときの声をあげる」)を主と共に行うのが、信仰の歩みだと学びます。 祈り:神様、あなたがなさろうとしている、よいご計画を感謝します。 「私が何をすべきか」よりも、まず「神が始めておられること」を驚き喜び発見できますように。そして、私をそのお働きに主のタイミングで、主の望まれるように加わらせてください。アーメン

ヨシュア5

「イスラエルの子らはギルガルに宿営し、その月の十四日の夕方、エリコの草原で過越のいけにえを献げた。」ヨシュア5:10 変化(引っ越し、就職、卒入学、出産、介護、退職、病気、離別...)の中で主を礼拝するのは、普段より難しいかもしれません。礼拝する気持ちになれないときもあるでしょうか? ヨルダン川を渡り、40年ぶりの割礼が施されました。新しい宿営地で民がしたことは過越を守ることでした。慣れない宿営地で、強固なエリコの町を前に礼拝する気持ちになれない人もいたのではと想像します。それでも、淡々と(いつものように)過越のいけにえを献げることを「選びとり」ました。 そこから、また約束の地に向けての前進が始まりました。 礼拝したいかしたくないかという感情や気分に任せるのでなく、礼拝することを「選びとる」かどうかに集中してはどうでしょうか。意志を働かせて選択することそのものが、私たちの信仰のあらわれです。 祈り:神様、あなたへの礼拝を「選びとる」意志を与えてください。 礼拝の中で、あなたが新しい心を与えてくださると信じます。たとえ劇的でなくても、あなたが日々つくり変えてくださることに期待します。アーメン 「あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を与える。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える(エゼキエル36:26)。」

ヨシュア4

「それは、地のあらゆる民が主の手が強いことを知るためであり、あなたがたがいつも、自分たちの神、主を恐れるためである。」ヨシュア4:24 私たちは、自分の人生計画を思い描き、描いた自分軸の中で主に「○○してください」と願いがちです。 しかし本来は、主のご計画が先にあり、私たちはその中で用いられていくのです。 イスラエルの民たちにとって、40年の放浪生活を送るとは予定外でした。しかしその中で、主のご計画に従うことと、また主のなさることに期待することを学び、整えられていきました。自分軸から主のご計画へと、視点が変わりました。 記念の石をヨルダン川の真ん中から取って積み上げたのは、主のなさったことを記憶し、周りの国々にも主の栄光をあかしするためでした。 私たちの人生の曲がり角ごとに、記念の石を積み上げ、主の栄光を記憶し、周囲にあかしする目印にできれば幸いです。 祈り:神様、あなたの偉大なご計画を感謝します。その中で私を導き、用いてください。霊的な権威はあなたが与えてくださいます(14 節)。 信仰者としてリーダーシップを取るとき、社会に発言するとき、自我からではなくあなたが語れと言われたことを語れるよう、助けてください。アーメン

ヨシュア3

「箱を担ぐ者たちがヨルダン川まで来たとき、ヨルダン川は刈り入れの期間中で、どこの川岸にも水があふれていた。ところが、箱を担ぐ祭司たちの足が水際の水に浸ると、川上から流れ下る水が立ち止まった。」ヨシュア3:15~16a 私たちにも、ヨルダン川をわたるようなチャレンジや変化が起こります。結婚や昇進といった嬉しい変化があれば、死別や引退など悲しみや困惑を伴う変化もあります。昨日(7月8日)の出来事のように、国内がショックで揺れるような時もあります。 とても渡れそうにない困難が目の前にあるとき、どうすればよいのでしょうか。 ・主が先頭、その後を歩む:ヨルダン川を最初に渡ったのは、主の箱とそれを担ぐ祭司でした。川に入った時、水がせきとめられ、渡れるようになりました。私たちも主なる神様が備えてくださる道を、主の後についてわたります。 ・前方を見つめる:たとえ遠くの上流で水が盛り上がっていても、向こう岸を見つめ、主に信頼してわたることに専念すれば大丈夫です。ガリラヤ湖を歩き出した時のぺテロのように。 向こう岸での苦労は、向こう岸についてから主がまた導いてくださいます。 ・主の前に罪を悔い改め処理する:民は自分を聖別しました(5節)。主の前に隠し事のない者、悔い改め赦しを確信した者が、主の不思議とみわざをみることができます。 ・過去の執着を手放す:これから向こう岸に主が導かれるのだ、と確信を持つことです。これまでの習慣や思い込みを手放し、主がこれからくださる新しいよいもの、みことばの約束に目をとめる。 祈り:神様、今私は____の点でヨルダン川をわたるような時期に来ています。____について悔い改めます。みことばの約束を握り、あなたの後をついて行きます。あなたを見つめます。しがらみや執着から解放してください。 過渡期にある____さんのことも覚えてお祈りします。 「新しいぶどう酒は、新しい皮袋に入れなければなりません(ルカ5:38)」 アーメン

ヨシュア2

「二人は彼女に言った。『私たちはあなたがたに自分のいのちをかけて誓う。あなたがたが私たちのことをだれにも告げないなら、 主 が私たちにこの地を与えてくださるとき、あなたに誠意と真実を尽くそう。』」ヨシュア2:14 この地(エリコ)を与えるのは、イスラエルの強さではなく主の力によるものでした。 ラハブはエリコの町の有力者だったようです。当時の異教の習慣、そして城壁ぞいの家ということから想像できます。そんな彼女でも、救われるためには目印として赤いひもを窓に結びつけておくことが必要でした。 私たちの救いの目印は何でしょうか。お金でも名誉でもなく、キリストの十字架で流された血です。それを信じている人は、どんなことが起こっても門に羊の血を塗った主出エジプト前のイスラエル人のように、またラハブのように、救いが保証されています。 祈り:神様、十字架の救いの約束と保証を感謝します。周りで大変な事が起こっても、どうしてよいかわからなくなっても、あなたが私の望みであり錨であることを信じます。今日も平安を与え、信仰を強めてください。 「私たちが持っているこの希望は、安全で確かな、たましいの錨のようなものであり、また幕の内側にまで入って行くものです(ヘブル6:19)。」アーメン

ヨシュア1

「わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたが行くところどこででも、あなたの神、主があなたとともにいるのだから。」ヨシュア1:9 同じJECの吉井師が作られた賛美、「♪強くあれ 雄々しくあれ」を口ずさむ朝です。  「ずっと愛されてた ずっと守られてた  倒れそうなときは 支えてくれた  目をあげて 主の御声に従おう  すべてをゆだねて  強くあれ 雄々しくあれ  主があなたの前を 進まれる  強くあれ 雄々しくあれ  主がいつも あなたと共におられるから♪」 「強くあれ」「雄々しくあれ」と繰り返し主はヨシュアに言われました。 同じように、恐れや恥意識にうめく私たちにも、主は繰り返し語ってくださいます。 「強くあれ。雄々しくあれ」と。 祈り:神様、あなたがいつも共にいてくださることを感謝します。 私たちを人の目や評価への恐れから解放してください。あなたが喜んでくださり、あなたが良しと言ってくださるならそれで十分ですし、それで良かったのだと心から思えるように助けてください。アーメン

申命記34

「そして主は彼に言われた。『わたしがアブラハム、イサク、ヤコブに『あなたの子孫に与える』と誓った地はこれである。わたしはこれをあなたの目に見せたが、あなたがそこへ渡って行くことはできない。』」申命記34:4 「よいリーダーは、今している主の働きを、生涯を通した視点で見ることができる(Effective leaders view present ministry in terms of a lifetime perspective」と、ロバート・クリントンは述べています(The Making of a Leader, p.189)。 ピスガ山の頂上で、主はモーセの働きの結果となる地をすべて見せてくださいました。 ナイル川で命拾いをして王家で育った40年、ミデヤンで葛藤と訓練を受け、家庭をもった40年、そしてイスラエル全体を率いてエジプトを脱出し、荒野を旅した40年。 すべては主が益としてくださいました。 主はこの時までいつも共におられ、彼を用いられました。これまでの苦労の一つとして無駄にならなかったことを、モーセは瞬間的に理解したでしょう。 そして、神が彼に与えたミニストリーは「完了」したのでした。 なんと美しく、なんと感動的な場面でしょう。映画のクライマックスのようです。 試練や苦労が主の目の前に覚えられていると知るのは幸いです。そして、私たちが今日している働きや奉仕が、主に与えられた生涯の中でどの方向を向いているのか、広角の視点で眺められるよう、聖霊が助け導いてくださいますように。 祈り:神様、モーセの生涯のように、私たち一人一人の歩みをすべて主がご存じであることを感謝します。日々の忙しさに埋没することがなく、私が造られた目的、あなたの召し、あなたが導かれる方向を悟らせてください。微調整が必要なところがあれば、その箇所を教え、知恵をもって修正できるよう助けてください。アーメン

申命記33

「次は神の人モーセが、その死を前にしてイスラエルの子らを祝福した、祝福のことばである。」申命記33:1 今朝、突然聖書が消えてしまいました。しかも3冊も! タブレットに入れていた新改訳聖書とスタディーバイブル2種です。昨日までは何の問題もなかったのに、いったい何が起こったのでしょう。別の端末からもきれいに抜け落ちています。消えてしまったのです。プチ・パニックになりそうでした。 しかし、モーセはこの時自分の死を前にしていたのでした。人生最後の重大な局面でしたが、イスラエルと一つ一つの部族に向かって祝福の祈りをささげています。自分の問題から目を離し、神のこれからなさることに期待していました。 問題に目を奪われそうになるとき、主にあるより大きな視点(Big Picture)を見せていただけるよう祈りたいです。もちろん、消えた電子書籍が復活するようにも! 祈り:神様、あなたから目を離さないように助けてください。問題が来ると、ついそのことばかり考えてしまいます。あなたが日々くださるすばらしい祝福に、もっと目をとめ感謝することができるよう助けてください。他の人のためにも祝福を祈る、広い心と愛を与えてください。アーメン

申命記32

「『復讐と報復はわたしのもの。 それは彼らの足がよろめくときのため。 彼らのわざわいの日は近く、 来たるべき時が速やかに来る。』」申命記32:35 モーセがイスラエルの民に教えた歌の一節です。復讐は「わたし」=「主なる神」のすることだ、と歌われています。 悔しいこと、誤解されたこと、不条理なこと...私にもいっぱいあります。こぶしをぐっと握って悔し涙と共に耐えるようなことも。 愚痴やうわさ話をしたくもなります。でも、それは根本的な解決になりません。 聖書は、一番の解決は主の元に持っていき、手放すことだと語っています。 難しいですが、それによって自分自身が解放され、自由になります。 私が自分で復讐をしなくても、もっとよいやり方で最善を主がなさいます。 祈り:神様、____さんへの仕返しはあなたにゆだねます。苦い思いを手放したいですから助けてください。 「愛する者たち、自分で復讐してはいけません。神の怒りにゆだねなさい。こう書かれているからです。『復讐はわたしのもの。わたしが報復する。』主はそう言われます。  次のようにも書かれています。『もしあなたの敵が飢えているなら食べさせ、渇いているなら飲ませよ。なぜなら、こうしてあなたは彼の頭上に燃える炭火を積むことになるからだ。』 悪に負けてはいけません。むしろ、善をもって悪に打ち勝ちなさい。(ローマ12:19~21)」 アーメン

申命記31

「強くあれ。雄々しくあれ。彼らを恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主ご自身があなたとともに進まれるからだ。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。」申命記31:6 この章には、ヨシュアへの「強くあれ」「恐れるな」が繰り返されています。新しいリーダーの彼には、きっと恐れがあったでしょう。長年モーセの元で仕えてきて、その責任がどれだけ重いものかもよく知っていました。 私たちも、いろいろな役割の重さにたじろぐことがあります。職場の任務に、教会奉仕に、PTAや地域活動に、親の立場に、介護者としてのケアの量に...。燃え尽きるほど何かをするのはみこころではありません(私自身も燃え尽きたことがあるので、自戒をこめて)。 しかし、神が私に割り当てられ、召されたことならば、神が力と知恵を与えてくださいます。それもまた、私たちの確信です。 祈り: 「神様、あなたは私をこの働きに召されていますか。あなたが私にこれを望んでおられますか。それとも、私が自分でやりたいだけでしょうか」 「神様、これは私が一人で負うべき任務でしょうか。他の人と協力し、共にする任務でしょうか」 「神様、私が限界を超えることがないように助けてください。何を手放すかを教えてください」 「神様、あなたが私にしてほしいと思われることには、必要な力と知恵のいっさいをあなたが与えてくださると信じます。どうか恐れを取り去ってください。大胆に歩ませてください」 ーー アーメン

申命記30

「あなたの神、主は、あなたの心と、あなたの子孫の心に割礼を施し、あなたが心を尽くし、いのちを尽くして、あなたの神、主を愛し、そうしてあなたが生きるようにされる。」申命記30:6 キリストを救い主と信じる決心は、ふとした気づき、ハッとさせられる瞬間があったからだと思います。自分で思考回路を曲げようとしたり、無理に矯正したりというよりは「我に返る(1節)」経験でした。 その気づきは聖霊の働きであり、主ご自身が「心に割礼を施し(6節)」てくださったのです。 日本宣教は難しいと言われます。たしかに、キリスト教的な土壌がないので、忍耐がいる面があります。 けれども、「我に返る」気づきは主ご自身の働きです。私たちは、主とともに働ける光栄を喜びながら、自分にゆだねられた分を、主が望まれるペース、方法で種まきするよう召されています。主に聞く「余白」をつくることも大切な働きです。 祈り:神様、人を救いに至らせるのはあなたの働きです。私たちはそれを見せて頂く者です。勢いや肉だけで向かうのでなく、聖霊の指し示す方向、方法に敏感であれますように。立ち止まり、あなたに聴く習慣を培わせてください。アーメン *生活に「余白をつくる」ことに関しての参考記事: https://jbujapan.blogspot.com/2022/06/blog-post.html

申命記29

「隠されていることは、私たちの神、主のものである。しかし現されたことは永遠に私たちと私たちの子孫のものであり、それは私たちがこのみおしえのすべてのことばを行うためである。」申命記29:29 神様のご計画やみこころは、あまりにも広く大きくて、私たちの理解を越えています。もしすべてが示されたとしても、私たちは圧倒され、よくわからないのだと思います。 「天が地よりも高いように、  わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、  わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。(イザヤ55:9)」 私たちは神様が明らかにされたことには心を尽くして従います。同時にわからないことは神様の領域であると信頼してゆだねます。それが、最善の人生を生きる方法です。 祈り:神様、あなたの壮大なみこころを感謝します。十字架の救いという、人には思いもつかないご計画を実現されたあなたが、私の日常にも最善の導きを与えてくださることを信じます。これからの導きを祈っている_____さん、______さんに、あなたの道を明らかにしてください。アーメン