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ローマ12

ローマ12、ヨブ17−19 「ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。」ローマ12:1 「神のあわれみによって」は、パウロが進めることについてとも取れるが、「神のあわれみによって.…献げなさい」とも訳せる(NIV)。いずれにしても、私たちが主のみこころを行っていくためには、神のあわれみによってさせていただくのであるということがわかる。 自分で何か良いことをしたと思っても、そこに神の助けとあわれみがなかったら、する能力もタイミングも備わってはいなかっただろう。 神がさせてくださるからこそ、私たちの働きは実りのあるもの、神のご計画を実現するものとなる。そして、そこに深い喜びがある。 人は自己実現をしたいし、自分が評価され、中心になりたいという肉の欲求がある。しかし、神の被造物としての立場を思い起こすとき、地上ですることが神の計画にかなっていることこそ、造られた目的に沿った自己実現のあり方だと言える。 今日は何をして生きていくことを主は求めておられるか。 ヤコブ5:15 「あなたがたはむしろ、『主のみこころであれば、私たちは生きて、このこと、あるいは、あのことをしよう』というべきです。」

ローマ11

ローマ11、ヨブ14−16 「神の賜物と召命は、取り消されることがないからです。」ローマ11:29 元々は、イスラエル人が神の選びの民だということが変わらない、という文脈である。どんなに反逆しても、神様はイスラエルを見捨てず、また召しを変えられなかった。 同じように、私たちの側で神様の召しと導きが本当だろうかと落胆するようなことがあっても、神様はご自身のご計画に沿って私たちを召してくださる。その方法は、私たちが思いもよらない過程を通るかもしれないし、私たちにとっては試練や苦労に思えるかもしれない。だがそれは、神様の大きな計画の中では必要な過程である。何よりも私たちをきよめ造り替え、主に従うことのできる整えられ得た器にするために、訓練をしてくださるのである。訓練がなければ倒れてしまうし、神の目に叶った働きはできない。 まず王の王である主に目を向け、主の指令と主の思いを知ろうとする忠実なしもべとなる歩みを受け取ろう。そして、日々の雑用の中にも主の大きな愛と恵みがあることを確認しよう。

ローマ10

ローマ10、ヨブ11−13 「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。」ローマ10:9 同じ主を信じる人が世界にいるとは、なんと素晴らしいことか。そして、同じ主を、さまざまな言語でたたえ礼拝することができるとは、なんと素晴らしいことか。さまざまな言語でイエスを主と告白できるとは、なんと素晴らしいことか。 口で告白し、心で信じるなら救われる、と約束されているとは、なんとシンプルでかつ力強いことか。 そして、信じる者の中に住まれる聖霊様はお一人である。それゆえ、同じ聖霊が住む信仰者同士は、たとえ言語や肌の色が違っても、霊の目で見ると兄弟姉妹だということがわかる。 聖書所持が自由にできないある国に、聖書を届けたことがある。誰に渡せば良いのか顔も名前も知らなかったが、その人が待ち合わせ場所に来たときはっきりと分かった。聖霊の輝きがその顔にあり、危険と隣り合わせ、命懸けであっても主を愛している柔和さと平安があった。私たちはそのように聖霊の臨在を自らの目印としているだろうか。 を

詩篇78

詩篇76−78、ヨブ8−10 「それを私たちは 息子たちに隠さず  後の時代に語り告げよう。  主の誉れを  主が行われた 力ある奇しいみわざを。」詩篇78:4 次世代(the next generation)への信仰継承は、大切なテーマである。もし自分の世代が堅く信仰を持っていたとしても、続く世代がそこから離れてしまったらどれだけ辛いことだろうか。 イスラエルの歴史でも、ヨシュアの後の世代が主を忘れて勝手なことをしていた。士師たちが立てられたが、彼らがいなくなるとまた好き勝手なことをした。不信仰ゆえ、ダビデ、ソロモンの後王国が分裂し、やがて捕囚にあって滅びていった。 イスラエルだけではない。私たち自身の家族も、教会も、次の世代へ信仰のバトンを渡すということがどれほど重要か。それが、すぐそこにある未来の生き方を決定する。自分の子に幸せになってほしいと思うなら、家庭の、教会の、信仰継承について真剣に考え、何より祈りに覚える迫りを感じるのである。

詩篇77

詩篇76−78、ヨブ5−7 「私は あなたのなさったすべてのことを思い巡らし  あなたのみわざを 静かに考えます。」詩篇77:12 神の前に静まることなしに、みこころを正しく知ることはできないし、神の私の人生へのご計画と使命を受け取ることはできない。 静まりの恵み、静まりの大切さを知りながら、ついつい他のことに忙しく死がちな私たちである。 一人暮らしでいくら時間があっても、テレビやスマホ、電話などで時間を消費しているという人もいる。 一方で、一人静まり、主から与えて頂いた事柄があれば、それを親しい人に分かち合い、祈ってもらうことも不可欠である。自分の思い違いや独りよがりでないよう、吟味と知恵をもらえることもある。 バランスを取る人生を歩んでいきたい。

ローマ9

ローマ9、ヨブ3−4 「なぜでしょうか。信仰によってではなく、行いによるかのように追い求めたからです。彼らは、つまずきの石につまずいたのです。」ローマ9:32 私たちは努力が報われた時には喜ぶし、報われなかった時にはがっかりする。努力そのものは悪いことではないし、私たちを目標に向かわせ前向きにさせるものである。 しかし、努力だけでは得られないものがあることも事実である。生まれつきの障がいがある人に、その障がいを乗り越えようと励ましても難しいし、赤ちゃんに数学の難問を解けというのも酷だろう。 人の救い、永遠のいのちは、人間の努力や行いでは不可能なものだというのもそれと似ている。得るには信じること、神への信仰である。救いのための行いの努力をしてきた当時のユダヤ人ほど、転換するのは難しかった。そして、現代でも、人生について悩み考え、リスク回避のために労苦してきた人の中には、あっさりと救われることにかえって違和感を感じるのかもしれない。しかし、自分の限界を知ったときには、他に道がないことも知るのである。

ローマ8

ローマ8、ヨブ1~2 「こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」ローマ8:1 これほど繰り返し、キリストを信じる者の罪が赦されたと神様が約束しておられるとは!聖書の神は気前の良い神様であることがわかる。ご自身から人間に近づき、救いの方法をご自身の愛と犠牲で開いてくださった。 その愛と恵みがあまりにも大き過ぎでピンと来ないように思う。例えば、お金でも小銭を負けてもらったらすぐにありがたがるが、大きな額を受け取っても最初はよくわからないのではなかろうか。同じように、私たちの感覚を超えて神様がしてくださったことを全て理解するのは、莫大すぎて不可能である。 しかし、恵みはあふれている。たとえ、実感できなくても、事実として。

ローマ7

ローマ7、エステル9−10 「私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいますが、私のからだには異なる律法があって、それが私の心の律法に対して戦いを挑み、私を、からだにある罪の律法のうちにとりこにしていることが分かるのです。」ローマ7:22~23 学生の頃、規則で「~してはいけない」と言われると、かえってそのことを意識してしまい、反発したり少し破りたくなってしまったりした。反抗期といえばそれまでだが、人間の生まれながらの性質でもあろう。パウロはこの章で、律法は罪を犯したい思いへと導くものだと述べている。そして、神に救われている者も、善を行いたいと願いながらも悪の性質が存在しているという原理があると述べている。 本当にみじめな人間の性質であるが、すでにキリストが救ってくださったこと、そして霊的には神の律法に仕える者とされていることを日々確認するのである。自分の努力では脱出できないなわめを、主がここまで来て助け出してくださった。その十字架の素晴らしさと愛とに、今日も思いを馳せひれ伏すのみである。

ローマ6

ローマ6、エステル6−8 「なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。」ローマ6:10 アフリカへ宣教旅行する前に、黄熱病のワクチンを打った。当時はイエローカード(接種証明書)の期限が10年だったので、10年を過ぎた頃に処分してしまった。ところが、その後にワクチンの効力がおそらく一生続くということがわかり、期限が廃止された。イエローカードを持っていなくても、一度打てば私の体にはワクチンの効力が続いているという事実があるのだ。 キリストが一度十字架で死んでくださったことで、私たちの一切の罪を精算することができた。だから、一度救われた者は何度も罪の裁きの中に戻されることはない。一度救いの決心と告白をした人は、天国行きの切符を手にしたのであり、それが取り消されることはない。 しかし、時にはその確信が揺らいでしまう。ある人は長年教会から離れてしまい、こんな自分は救われているだろうかと疑うようになった。また別の人は、一生懸命奉仕をしなければと心配になる。逆に、救われているから何をしても良いのだ、どんなにいい加減でも許されるのだ、と奔放な生活に戻ってしまう人もいる。 キリストの十字架のパワーと犠牲の大きさを理解するなら、そうした両極端から守られる。もっとリラックスして、もっと安心して、そしてもっと情熱的に、イエス様を愛する者とされる。

ローマ5

ローマ5、エステル3−5 「  敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させていただいたのなら、和解させていただいた私たちが、御子のいのちによって救われるのは、なおいっそう確かなことです。 」ローマ5:10 日本の民事裁判では和解の割合が高いと聞いたことがある(近年は約3分の1)。しかし、それ以上に裁判になる前に話し合って和解するケースもあると思われる。これまで対立していた相手方と、ともかくなんらかの合意に達することができたというのは、支払いや償いの必要があったとしてもストレスからの大きな解放である。 キリストは、なんの支払いも受けず、ただただ一方的に罪の代価を支払ってくださった。十字架の死によって私たちが神と和解できるように仲介してくださった。そして、復活によってキリストとともに生きるようにさせてくださった。 「どうしてそんなうまい話があろうか」と思うような、信じられないみわざ、それが神の愛の大きさであり、人の常識外の計画とスケールである表れだと言える。理性の限界があり、私たちには十分理解することができないかもしれない。しかし、理解されなくても注ぎ続けてくださる神の愛に心から感謝を表したい。神の救いを知れば知るほど、キリストから離れて生きることなど不可能に思えてくる。

詩篇75

詩篇73−75、エステル1−2 「高く上げることは 東からでもなく  西からでもなく 荒野からでもない。  まことに 神こそさばき主。   ある者を低くし ある者を高く上げられる。」  詩篇75:6〜7 神が私たちの全てをご存知で報いる方である。 だれも地上にいる者は、私たちを正当に、また完全に評価することはできない。ということは、私たちが気にするのは神がどう見られるか、神がどう思われるか、なのである。 私自身は、目立たず下積みに思える生活を長年送ってきたと感じている。しかし、それは人の価値観で下積みと思っているわけで、神からは何かの下に隠れているわけではなかった。 たとえ雑用ばかりに見えても、神がその全てを知りご覧になっている。神がよしと言われたらそれで良しだということを、これまでも、そしてこれからも、自分に語り仕えていきたいと思っている。

詩篇73

詩篇73−75、ネヘミヤ12−13 「あなたのほかに   天では 私にだれがいるでしょう。  地では 私はだれをも望みません。  この身も心も尽き果てるでしょう。  しかし 神は私の心の岩  とこしえに 私が受ける割り当ての地。」詩篇73:25−26 アサフの賛歌となっているので、彼(アサフ)は神殿に仕えるレビ人だった。約束の地で、レビ族には他の部族のような割り当て地がなかった。代わりに、主ご自身が彼らの割り当て地だと約束された(民18章、申10・18章)。 しかしレビ人に限らず、主を信じるどの人にとっても神は岩であり割り当ての地すなわち私自身の居場所であるお方である。 人間はなんと弱くはかない存在だろうかと愕然とすることがある。ほんの少しのきっかけで罪を犯してしまうし、事件に巻き込まれてしまうこともある。元政府の高官であっても、実刑判決を受ければ服役する(もちろん、その渦中でも救いはある)。 そうした状況であっても、すなわち私の身も心も尽き果ててさえ、主は私の居場所であり、私が帰るべきところであられる。

ローマ4

ローマ4、ネヘミヤ10−11 「主イエスは、私たちの背きの罪のゆえに死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられました。」ローマ4:25 アブラハムが義と認められたのは信仰によってであり、律法や行いによってではなかった。 それは、私たちも主イエスを死者からよみがえらされた方を信じる私たちも、義と認められるためである(24節)。 簡単なようでいて、この信仰の橋を渡ることが意外と難しい人が多い。キリストのことばや人格が素晴らしいと分かっていても、その方が自分とどういう関わりがあるのか、個人的な関係があることにピンと来ないようである。 「あしながおじさん」という小説がある。誰なのかわからないが、ある資産家が、定期的に手紙を書くことを条件に主人公の奨学金を援助するという筋書きである。最後にその資産家が思いがけない身近な人であることがわかる。 キリストは、同じように私たちがこの方が誰かわからないうちから恵みをくださっている。しかし、それがどなたから来るのかわかった時に、感動と喜びと疑問が解けた深い平安がやってくるのである。そして、キリストの十字架と復活を信じることこそが、私たちを神の前で義と認められる唯一の条件である。

ローマ3

ローマ3、ネヘミヤ7−9 「すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、値なしに義と認められるからです。」ローマ3:23−24 前の22節には「すなわち、イエス・キリストを信じることによって、信じるすべての人に与えられる神の義です。そこに差別はありません」とある。すべての人が罪人でそのままでは救いがないこと、しかしすべての人が平等にキリストの救いに招かれていることがわかる。 比較して、どちらかが良く、どちらかが悪いとしたくなるのが人間の習性である。しかし、神にはえこひいきがない。神に近づき、イエス・キリストを信じる者には誰にでも救いと希望が約束されている。どれだけこのことが素晴らしいか、一生かかってもその何分の一かしか理解できないほどだと思う。救われた状態に安住しているが、そこにはキリストの血が捧げられたことを思い、人間にはなしないことをご自身の知恵で成し遂げてくださった神の愛の大きさを 垣間見る(全部は理解できないが)のである。

ローマ2

ローマ2、ネヘミヤ4−6 「かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による心の割礼こそ割礼だからです。その人への称賛は人からではなく、神から来ます。」ローマ2:29 パウロはローマ人への手紙を、訪問前に正しい教えを伝えようとして書いた。ローマの栄華、首都に住んでいるユダヤ人としての誇りに対して、パウロは心の中の思いが大切だと教えた。 心がキリストの愛と福音によって一新されているかどうかが、身体的な割礼よりも大切である。そして心の一心は聖霊によってもたらされる。人の評価や賛辞ではなく、神からどう評価されるかが大切である。 これは今日の私たちにも当てはまる。外見や言葉が立派で信仰深そうでも、その人の深いところが何を考え、何を大切にしているか、神はご存知である。そして価値観は知らず知らずにその人の人格にも反映するので、実は周りの人も気づいていることが多い。 神の称賛を求めるか、人からの称賛を気にするかもその人の霊性と人生の目的を明らかにする。言い換えれば、この地上のものに目を止めるか、天的なものに目を止めるかの違いである。

ローマ1

ローマ1、ネヘミヤ1−3 「私は福音を恥としません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、信じるすべての人に救いをもたらす神の力です。」ローマ1:16 当時の帝国の首都ローマの人々に対してでさえ、福音は恥ではない、とパウロは言い切った。なぜなら、福音こそが力を持っていて、神の愛により救いをもたらすことができるからだった。 福音がこれほどまでにパワフルであるということを、実生活で感じているだろうか。自分の周りの生活がうまく回っていたら、それで良しと考えがちである。毎日の仕事や予定に追われて、福音の意味を黙想する機会がないならば、それを分かち合う心の準備もできない。 ネヘミヤは、エルサレムの荒廃を聞いた時、まず神に祈ってどうしたら良いかを尋ねた。その後で異教の王に事情を打ち明け、エルサレムに行く許可を得ることができた。神の話させてくださるままを話した時に、状況が整えられた。 何かをすることばかりに追われず、主について考えることーたとえ家事をしながらでも、運転しながらでもーを今日意識的に行ってみよう。

使徒28

使徒28、エズラ9−10 「ですから、承知しておいてください。神のこの救いは、異邦人に送られました。彼らが聞き従うことになります。」使徒28:28 使徒の働きが書かれた目的は、このことを知らせるためだった(NIV Studying Bible注釈参照)。ユダヤ人たちが、自分たちこそ神に選ばれた民という意識を持っていた最中に、ペテロ、パウロ、そして使徒の働きを書いたルカをはじめ、聖霊がクリスチャンの中に全世界的な視点に気づかせてくださった。 今も働かれている聖霊は、私たちにも視点の転換を迫られることがある。当たり前と思っていたことが当たり前ではない、ユニークな聖霊の働き、神の導きとみ旨をどのように受け取るか、私たちにも柔軟な心と従順さが要求される。 思い込みや先入観でなく、神に導きを明け渡しているだろうか。それは、たとえ同じ場所で同じことをしていても、日々刷新されうるものである。自分を吟味し、週の初めに新たな出発をしたい。

詩篇71

詩篇70−72、エズラ6−8 「神よ あなたは私の若いころから  私を教えてくださいました。  私は今なお  あなたの奇しいみわざを告げ知らせています。」詩篇71:17 若い頃も、今も、そしてやがて老いる時も、神の力を告げ知らせたいという詩人の告白からは、神が確かに守ってくださるという信頼と共に情熱が感じられる。どんな状況でも、神様、伝え続けますと祈っている。 今日でも、福音を分かち合う情熱はたとえ状況がよくなくても、自分の心が否定的な感情に打ち負かされそうでも、燃え続けることができる。なぜなら、神のご計画と愛には限界がなく、その神に発する思いだからである。感情がついていかず沈みがちな時には、人間の弱さと罪深さを思い出そう。そして対照的な神の強さと正しさ、そしてキリストの愛を確認して自分の心に言い聞かせよう。

詩篇70

詩篇70−72、エズラ3−5 「あなたを慕い求める人たちがみな  あなたにあって楽しみ 喜びますように。  あなたの救いを愛する人たちが  『神は大いなる方』と いつも言いますように。」詩篇70:4 どんなに敵が迫っても、命が狙われひどい侮辱を受けても、詩人の望みは「それにもかかわらず」神がよくしてくださることへの信頼だった。 神を慕い求める人に神がくださる喜びと、変わらず頼れる安心があることをこの詩篇は確認している。作られたのがピンチの時であることを思うと、詩人の信仰告白は自分自身にも確信を再確認できただろう。 侮辱され事態が変わらないように思える時、自分の生活や状況が危うい時、人の意見でなく神がどのように見てくださり、考えていてくださるかに目をとめよう。そうすれば、人知にまさる神の平安が私たちの心を支配してくださる。

使徒27

使徒27、エズラ1−2 「さて、穏やかな南風が吹いて来たので、人々は思いどおりに なったと錨を上げて、クレタの海岸に沿って航行した。」 使徒27:13 人の思いはなんと限定的で、自分に都合の良い近視眼な見方をしてしまうのだろうか。 もう航海には危険な時期だと言われていたのに、諸事情(自分にとっての)を鑑みて、出発することに決めた。南風も嵐の前の静けさだったかもしれないのに、自分の解釈で良いサインだとして錨をあげた。 この後の嵐について読んでいるので、愚かなことを、と思えるが、自分自身の人生についてはこうした愚かな航海をしてしまうことがある。 命は失わなかったとしても船に傷をつけ、座礁し、積荷を失い、漂流するような経験をする。 キリストの救いは、こうした難破船の乗員を救う救命ボートのようなものである。滅びに向かう私たちを気前よく乗せてくださる。 救命ボートで避難する際には、運賃を支払うとか、綺麗な身なりをするとかの必要はない。ただ、救命ボートの好意で乗せてもらえるのである。 救いも、キリストの命がけの犠牲と好意、すなわち私たちへの愛と愛によるものである。その大きな意味と代償を思い巡らしながら過ごしたい。

使徒26

使徒26、Ⅱ歴代誌34−36 「しかし、パウロはこう答えた。『わずかな時間であろうと長い時間であろうと、私が神に願っているのは、あなたばかりでなく今日私の話を聞いておられる方々が、この鎖は別として、みな私のようになってくださることです。』」使徒26:29 パウロの弁明は、自分のためではなくキリストの福音が伝わるためだった。鎖は別として皆が自分のようになって欲しいとは、キリストへの信仰を持ち、キリストの恵みのうちに入れられるようにという切なる願いから出た言葉であった。 私たちは、パウロほど福音の価値を知って生活しているだろうか。信仰は添え物ではなく、私たちが生き、存在し、活動している中心の目的であり動機である。 些細な行動の違いとか、考え方や意見の違いに目を奪われるのでなく、キリストがその人の中心にあるかどうかがその人をキリスト者として立たせてくれる。 黙っているわけにはいかない。どのように、パウロの捨て身な姿勢に学べるだろうか。

使徒25

使徒25、Ⅱ歴代誌32−33 「そこで、フェストゥスは陪席の者たちと協議したうえで、こう答えた。『おまえはカエサルに上訴したのだから、カエサルのもとに行くことになる。』」使徒25:12 パウロの証しを聞いてもキリストへの信仰について理解しなかったフェストゥスだった。しかし、彼こそがパウロをローマに行くための手配をすることになる。 神はどんなに頑迷で信仰に無関心な者をも、ご自身のご計画を遂行するために用いることのできるお方である。旧約聖書のエジプトのパロや、バビロンやペルシャの王もそうだった。 私たちにとって反対者や脅威でしかない人々をも、神は神を愛する 者たちの働きを進めるために出会わせ用いられる。同僚、近所の人々、親類までも、神様の御手の中にある。そして、私たちは覚えて祈り、ことあるごとに証しするためにも召されている。

使徒24

使徒24、Ⅱ歴代師30−31 「そして百人隊長に、パウロを監禁するように、しかし、ある程度の自由を与え、仲間の者たちが彼の世話をするのを妨げないように、と命じた。」使徒24:23 総督フェリクスは、ユダヤ人たちの偽の訴えとパウロの主張を聞いて、パウロが無罪だと分かった。しかし、さまざまな思惑からパウロを監禁したままにし、2年以上もそのままにしておいた。 パウロが何も罪に当たることはしていないこと、またローマ市民だったことから、フェリクスは彼にある程度の自由を与えた。しかも妻ドルシラと共にキリストについての話を聞き、関心を持っていた。それでもキリストを救い主と信じることはなく、パウロから賄賂をもらいたいという下心もあった(24−26節)。 いくら身分が高く権力があるからといっても、その人が人格者で霊的な理解にも優れているとは限らない。権力を操って自分の都合の良いように利用するということも十分にある。 しかし、神の救いは平等である。キリストを受け入れた人、すなわちこの名を信じた人には救いが与えられる。一方で、フェリクスのように気を持たせるかのような態度、また下心があっての行動は、好意的に見えても神の前に義とされることはない。 自分の態度を振り返ること。そして、人を見かけやそぶりで判断しないように霊的な洞察力を願うこと。それが今日の私の願いである。妥協せず、キリストからブレない姿勢が証しとなる。

使徒23

使徒23、Ⅱ歴代誌28−29 「その夜、主がパウロのそばに立って、『勇気を出しなさい。あなたは、エルサレムでわたしのことを証ししたように、ローマでも証しをしなければならない』と言われた。」使徒23:11 周りの混乱や不透明な状況の中で、どうなっていくだろうかと不安に思うことは多い。しかし、主が確証を下さるなら、状況がどうあろうとその通りになっていく。 私自身はアジアへの宣教師になろうとしたが、日本国内に留められた。しかし主は、宣教地でする以上の海外宣教との関わりと恵みを与えてくださった。日本の地方教会に仕えつつ、海外にも目が開かれているというのは何という希望、幸いであろうか。 主の召しは、実現の仕方が私たちの思いとは異なる。パウロも、いつもの宣教旅行のやり方でローマに行くことを想定していたかもしれない。しかし、囚人として強制的に、しかも護衛付きでローマに送られたのだった。 神は召命を、神のやり方で全うさせてくださる。私たちに必要なのは、神の御心に従うという決意、自分の思いと違う計画にあっても信頼し続けることである。

詩篇69

詩篇67-69、Ⅱ歴代誌25-27 「心の貧しい者たちよ 見て喜べ。  神を求める者たちよ あなたがたの心を生かせ。」詩篇69:32 心が貧しいとは、自分は十分だと自己満足に陥らず(マタイ5:3)、救いを求める者のことである。 神を求める人たちには神は答えてくださる。 クリスチャンになれば、もう完成なのではない。日々、神に近く歩んでいるか、自分の経験や歩みに頼っていないか、チェックが必要である。たとえ牧師であっても、教会の役員であっても。 外側から立派そうに見えても、内面でどのように神を求めているか。神の前に裸で出ているか。それが、心をご覧になる神には一目瞭然である。神を忘れて叱責されたイスラエルの多くの王のようではなく、ダビデの詩篇のように求め続ける姿勢を、私たちも一生持ちたい。

詩篇68

詩篇67−69、Ⅱ歴代誌23−24 「神よあなたは恐るべき方。あなたはご自分の聖なる所におられます。イスラエルの神こそ力と勢いを御民にお与えになる方です。ほむべきかな神。」詩篇68:35 最近、「牧師のレジリエンス」という本を読んだ。燃えつきを防ぐために、神の前に静まること、神の召しを神の栄光(自分の栄誉でなく)のために生きることを再確認させられる。牧師は神ではない。牧師だけでなく、どんなクリスチャンも神ではない。 神抜きで働き続ければ、だんだんと疲れてくる。神の臨在に浸らなくても立派なメッセージをしたり立派そうに見せたりすることはできるが、それは偽りであり欺瞞である。 今日もう一度、イスラエルの神、主こそ力と勢い(英語ではpowerとstrength)の源泉であることを黙想し、確認し、握り、自分を無にすることを点検する。

使徒22

使徒22、Ⅱ歴代誌21−22 「すると主は私に、『行きなさい。わたしはあなたを遠く異邦人に遣わす』と言われました。」使徒22:21 パウロは逮捕され弁明をする中で、自分の使命、ミッションを端的に語っている。たとえ生命の危険があろうとも、この使命は神からのものだと確信し握っていた。それゆえ、この後も思いがけない形で、つまり被疑者としてローマに送られる。 拘束され不自由に思える逮捕後の身分が、民衆、最高法院、大祭司や支配者のところにも到達できる特権として用いられた。パウロの弁舌は、一教会で留まり牧師として教える以上に、こうした外部の証の機会に用いられた。 神様が私たちに望まれる仕え方は、私たちが予想もしなかったものかもしれない。私たちの理想ともかけ離れているかもしれない。しかし、置かれている環境で、立場で、神様が最もよく用いてくださることがある。今日の環境をまず受け取ろう。

使徒21

使徒21、Ⅱ歴代誌19−20 「彼が聞き入れようとしないので、私たちは『主のみこころがなりますように』と言って、口をつぐんだ。」使徒21:14 ツロの弟子たち、預言者アガポ、同行者ルカたちやカイサリアの人たちが、揃って御霊に示されてパウロに警告を発した。 聖霊の導きなら、それでエルサレム行きを中止するという決断もできた。いや、むしろすべきであった。パウロもこれまでの行程では進路変更をしたり別の町を目指したりした。 しかし、エルサレム行きについては、パウロ自身が御霊に示され、覚悟を決めて、確信を得ていたことであった。感情的には揺れても、みこころに従うのがクリスチャンの歩みである。 日々、感情的には揺れ動き、悲しく辛い思いを通ることもある。理不尽だと腹の立つこともある。しかし、祈り、御霊に示され、みこころだという確信が与えられたら、揺るがないという強さ、確固たる姿勢もまた必要である。それを与えてくださるのはみことばと聖霊様である。

使徒20

使徒20、Ⅱ歴代誌17−18 「人々は生き返った青年を連れて帰り、ひとかたならず慰められた。」使徒20:12 ユテコという青年が居眠りをして三階から落ちてしまった。パウロによって生き返らされた。朝から集まり、礼拝と交わりが夜中まで続いていたので眠くなってしまったのであった。 まる一日!そして、ユースの年代の青年も信仰を持って共に集っていたのだ。福音の真理は、年齢に関わりなく、どの人にも価値あるものである。 年代ごとにアプローチや関心は違うかもしれない。しかし、福音に混ぜものすることなく、妥協することなく、福音そのものに真理と解放があるという中心はぶれずに握って伝えたい。

使徒19

使徒19、Ⅱ歴代誌15−6 「これが二年続いたので、アジアに住む人々はみな、ユダヤ人もギリシア人も主のことばを聞いた。」使徒19:10 パウロの伝道は、大人数を前にすることもあったが少人数のことも多かった。19章の最初に出てくる人たちは全部で12人ほど、日本の地方教会と変わらない程度であった。 一回ごとの聴衆は少なくても、それを二年間、たゆみなく続けた結果、アジアに住む人々はみなキリストについて聞いたのだった。 電話も、インターネットもない時代に、ユダヤ人もギリシア人も関係なく、主の福音を耳にすることができた。 神様が私たちに今日託してくださっているのも同じ働きである。福音をシェアすること、小さな働きでも委ねられた所で諦めずに続けることを、主は願っておられる。 それだけでなく、必要な力も日々与えてくださる。地域の隣人に、長年の友達に……主が備えてくださる機会を、主の知恵で用いることを教えてください、と祈る。