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詩篇90

「どうか教えてください。自分の日を数えることを。 そうして私たちに 知恵の心を得させてください。」詩篇90:12 年齢を重ねることは、わくわくしますか?それともがっかりしますか? その両方かもしれません。 その年齢にならなければわからないことがあり、その年齢になったから手放さなければならないことがあります。 主から与えられた人生の章の、どの部分に今いるでしょうか。 モーセは「どうか教えてください。自分の日を数えることを」と祈りました。 漫然と過ぎ去るのでなく、一日一日を数えるとは丁寧に生きていくことだと思います。 毎日が恵みの日、新しい一日を主なる神様がどのように導き、彩ってくださるでしょう。そう思いながら期待を持って迎える今日でありますように。 祈り:神様、私が何歳であっても、未来や過去だけに生きるのではなく、今日という一日を感謝と共に受けとることができるよう導いてください。 あなたの恵みを数えつつ、今週末も過ごします。アーメン

詩篇89

「主は とこしえにほむべきかな。 アーメン、アーメン。」詩篇89:52 38~51節までの否定的な叫びに対して、 13節の 1~37, 52節は主の真実を歌っています。 「14節にわたる不満は38節にわたる信仰に打ち負かされた」と表現する人もいます(Eugene Peterson, Praying with the Psalms )。 第3巻の最後が「アーメン、アーメン」と主への賛美で終わっていることにも、大きな慰めを感じます。 「人生いろいろあるけれど、最後は主がほめたたえられるのだから、大丈夫大丈夫」というメッセージが聞こえてきそうです。 悩みすぎず、内向きになりすぎず、顔をあげて主のわざを見てごらん、振り返ってごらん、という励ましを受け取ります。 祈り:神様、詩篇を読み進み、人生の波風の中でも主が生きておられることを知りました。主の変わりない御手の中で、日々の歩みが主のご計画の内にあることを覚えて感謝します。アーメン

詩篇88

「しかし私は 主よ あなたに叫び求めます。 朝明けに 私の祈りは御前にあります。」詩篇88:13 打ったはずの下書きが、保存されずに消えていました。 少しがっかりしましたが、この詩篇の作者に比べたら何でもないくらいわずかなことです。 彼は苦しんでいます。力をなくし、殺された者のようになり、苦難にあえいでいます。 親友さえも離れていき、「暗闇を親しい友」と呼ぶほどでした(18節)。 神に切々と訴えながら、詩人は「主よ あなたに叫び求めます」と言います。 どんなに否定的であっても神は叫びを聞いておられるというのが、詩人にとっての慰め、希望となっています。 今日、試練や悲しみの中にあるなら、神様に叫び求める時です。状況に絶望しても神に絶望しない者の祈りを、神は必ず聞いていてくださいます。 祈り:神様、今心に重くのしかかっている________のことを祈ります。解決はあなたにしかできません。どうか、私の叫びを聞いてください。アーメン

詩篇87

「歌う者も 踊る者も 『私の泉はみな あなたにあります』と言う。」詩篇87:7 日本では「水が合う」という表現があります。 長く体調を崩しておられた姉妹が、生まれ故郷に帰られました。しばらくして電話の声を聞いて驚きました。元気な張りのある声で、体調もよく若返ったようでした。 「彼女には故郷の水が合っていたのだ」と思いました。 神に造られた者に一番合う水は「神ご自身のもとでわき出る泉」です。 イエス・キリストを救い主と信じる人は「この都で生まれた」と天国の民として登録されています。 私たちが歌うのは主のため、踊るのも主のため。そして主が与えてくださる生ける水を飲む者は渇くことがありません(ヨハネ4章)。 祈り:神様、あなたの豊かな恵みの流れに身を寄せます。あなたの恵みが日毎にわかりますように。遠方にいる____さん、____さんの信仰が今日も励まされ、聖霊の臨在と守りを深く感じることができますように。アーメン

詩篇86

「しかし主よ あなたはあわれみ深く 情け深い神。 怒るのに遅く 恵みとまことに富んでおられます。」詩篇86:15  詩篇第3巻の中で、ダビデによる唯一の詩篇です。 いろいろな表現で神様をほめたたえているのが印象的です。 「主よ まことにあなたは いつくしみ深く 赦しに富み あなたを呼び求める者すべてに 恵み豊かであられます。(5節)」 「主よ 神々のうちであなたに並ぶ者はなく あなたのみわざに比べられるものはありません。(8節)」 「まことに あなたは大いなる方 奇しいみわざを行われる方。 あなただけが神です。(10節)」 「あなたの恵みは私の上に大きく あなたが私のたましいを よみの深みから救い出してくださるからです。(13節)」 「しかし主よ あなたはあわれみ深く 情け深い神。 怒るのに遅く 恵みとまことに富んでおられます。(15節)」  今日、どんな言葉で主を賛美し、ほめたたえることができるでしょうか。 自分の言葉がうまく思い付かなくても、詩篇のことばを用いて、あるいは礼拝で歌う聖歌やワーシップの歌詞を用いて、主を賛美することができます。 祈り:神様、あなたをほめたたえたいです。私の口にもいつも主への賛美があるように助けてください。不満や不平を言う口を良きもののために用いることができますよう、私を支配してください。アーメン

詩篇85

「主が 良いものを下さるので 私たちの大地は産物を産み出します。」詩篇85:12 聖書の神への信仰はご利益宗教ではありません。かえってそれは「自分さえ得をすれば」という思いから私たちを解放してくれます。 なぜなら、無限の神が良いものを無限に与えることのできるお方だと知っているからです。限られたものを奪い合わなくてもよいからです。 「まことは地から生え出で 義は天から見下ろします」(10節) 「義は 主の御前に先立って行き 主の足跡を道とします」(13節) と、絵空事のような遠く離れた出来事ではなく、私たちの日々生きるところに主の栄光があることを体験するからです。 主から預かっている持ち物も経済も、主の喜ばれる用い方と管理をし、地上で主の栄光が現れるよう循環させていくこと、これこそ幸せで満足な生活を送る秘訣だと教えられます。 祈り:神様、私の持ち物も経済も、すべてはあなたが下さったものです。感謝して用いることができるよう助けてください。私を偏狭な心や浪費の思いから守ってくださり、主にあって楽しみ、主にあって賢く管理させてください。アーメン

詩篇84

「まことに あなたの大庭にいる一日は 千日にまさります。 私は悪の天幕に住むよりは 私の神の家の門口に立ちたいのです。」詩篇84:10 悪の満ちている天幕の中(屋内)より、門のところでも神のおられるところの方が幸い、本当にそうだと思います。 学生時代、定期的に1件のお宅でアルバイトをしていました。豪宅で豊かな家で、物質敵には何不自由ない暮らしでしたが、そこで交わされる会話の冷たさ、刹那的な生き方に心が痛みました。 つつましくても、もっと心豊かな生き方をしている信仰者の歩みと対照的でした。 このことが、献身に導かれた一つの経験でした。 「私のたましいは 主の大庭を恋い慕って 絶え入るばかりです。 私の心も身も 生ける神に喜びの歌を歌います。 (2節)」 「雀さえも 住みかを 燕も ひなを入れる巣を あなたの祭壇のところに得ます。 万軍の主 私の王 私の神よ。(3節)」 雀のように小さい私にも、主のすぐそばに憩う場所が与えられているとは、何という幸いでしょうか。 祈り:神様、あなたのもとに身をを寄せることのできる人生は、何と幸いなことでしょうか。心の奥の平安と望みが与えられていることに感謝します。今日も主の庭にいる一日を味わいます。アーメン

詩篇83

「こうして彼らが知りますように。 その名が主であるあなただけが 全地の上におられる いと高き方であることを。」詩篇83:18 神に敵対する者、神を憎む者をやっつけてください、という祈りです。 敵同士が手を組んで向かってくることへの怒りを神に訴えています。 しかし、祈りの結びは「彼らが御名を捜し回りますように(15節)」そして主だけが全地の上におられるいと高きある方であることを知りますように(18節)です。 究極の問題解決は、人々が主を知ることです。それは外国の宗教でもなければ、国によって違う信仰でもありません。 一昨日、シンガポールチーム13人が来られましたが、彼らの信仰と私たちの信仰が同じであることを改めて確認しました。「全地の主はただお一人」です。 祈り:神様、あなたの名を知り、み前にへりくだることがすべての解決の基です。まず私に、謙遜な心を与えてください。宣教チームを祝福してください。アーメン

詩篇82

「弱い者と貧しい者を助け出し 悪しき者たちの手から救い出せ。」詩篇82:4 聖書の神様は大いなる方であると同時に、弱い者、貧しい者に格別のまなざしを注いでくださる方だと感じます。 私たちの周囲にも、思いがけないところに独り暮らしの方、困窮している方、シングルマザー、高齢のご夫妻、病気の方、来日して間もない方などがおられます。日々、見えていないこと、知らないことの多さを実感します。 しかし、神様はすべてご存じです。今日も一人もお忘れになりません。 限りのある私たちですが、その神のまなざしと御手の方向に自らをゆだねるなら、必要な方との出会いや導きが与えられるのだと思います。 祈り:神様、あなたの愛のまなざしを感謝します。私もあなたに見守られています。あなたが届きたいと御手を伸ばしておられるところに、私を連れて行ってください。あなたが語りたいと思っておられる方のところに行かせてください。アーメン

詩篇81

「わたしは あなたの神 主である。 わたしが あなたをエジプトの地から連れ上った。 あなたの口を大きく開けよ。 わたしが それを満たそう。」詩篇81:10 民をエジプトから脱出させ、荒野の40年間もマナや水を与え続けてくださったのは主でした。 では、定住してからは人々は自力で食べ物を獲得したのでしょうか? 収穫のために働いたのは人です。しかし、農作物を成長させ実らせるのは、人のわざではなく神のわざです。 今日も同じです。私たちが「自分で手に入れた」と思っている食物は、神が与えてくださっている恵みです。 先日、女性牧師の友人と話しました。 彼女は私に、食生活をもっと大切にするように、と忠告してくれました。 考えてみれば、食品の選び方やバランスに配慮することは、神の恵みである食べ物に感謝し、それを賢く管理することだと言えます。 「しかし主は 最良の小麦を御民に食べさせる。 わたしは岩から滴る蜜で あなたを満ち足らせる。(16節)」 と言われる主がくださる食べ物を、もっと感謝し味わって頂きたいと思います。 祈り:神様、私たちに日々の恵みをくださり感謝します。 与えられた食物を、さらに感謝し味わうことができますように。また、貧困や飢餓に苦しむ世界の人々、炊き出しに頼る被災地の人々に、あなたの恵みの食事が届くよう、私にできることを教えてください。アーメン

詩篇80

「神よ 私たちを元に戻し 御顔を照り輝かせてください。 そうすれば 私たちは救われます。」詩篇80:3,7,19 主の民を「ぶどうの木」と表現し、回復を祈っています。 3度にわたって「私たちを元に戻し 御顔を照り輝かせてください。そうすれば私たちは救われます」と繰り返されています。 主の御顔の輝きを見るなら、平安と回復と守りがあるという信仰は、今日も同じです。 「その木のために あなたが地を整えられたので それは深く根を張り 地の全面に広がりました(9節)」という表現が出てきます。 自分の努力がすべてだという人には、表面しか見えていないのかもしれません。自分で築いた財産や名誉は、やがて過ぎ去ります。 神が整えてくださった土台があってこそ、私たちは一日一日を生きることができるのだと認識する人が、最も幸いな人生を送るのではないでしょうか。 祈り:神様、あなたが整えられた場所に私を植えてくださり、感謝します。 無神論や自分の努力だけを信じている多くの人に、神の存在への気づきがありますように。むなしさから解放し、主に生かされる人生の素晴らしさを実感することができますように。アーメン

詩篇79

「先祖たちの咎を 私たちのものとして思い出さないでください。 あなたのあわれみが 速やかに私たちを迎えるようにしてください。 私たちは ひどくおとしめられているのです。」詩篇79:8 この詩篇は、エルサレムがバビロンによって陥落した後で書かれたと言われています。 前の世代の度重なる反逆と不信仰が、悲しい状況につながりました。 しかし、詩篇の作者は希望を失っていません。 今までの歴史を思い巡らしつつ、神様が救い出してくださる方だということに望みを置いています。 「私たちはあなたの民 あなたの牧場の羊です(13節)」と、主のあわれみと守りの中に憩うことも知っています。 神様は罰すべき罪を見落とす方ではありません。しかし、先祖の咎をいつまでも覚えてはおられません。恵みは千代にまで保ち、咎と背きと罪を赦してくださいます。 祈り:神様、あなたが悔い改める者を赦し、恵みをあふれさせてくださる方であることに感謝します。連休の間に起こった喜びに感謝し、失敗を悔い改め、またこの月も歩んでいきます。導いてください。アーメン

詩篇78

「それを私たちは 息子たちに隠さず 後の時代に語り告げよう。 主の誉れを 主が行われた 力ある奇しいみわざを。」詩篇78: 歴史を忘れず次の世代に語り継ぐことの大切さは、今日もよく耳にします。 今日の詩篇は、神様がなさったわざを次の世代に語り継ぐという内容です。 神様がいかにあわれみ深く素晴らしいお方であるかが出来事と共に語られています。 成功だけでなく不信仰も隠さず伝え、同じ間違いをしないようにという警告も混じっています。 私たち信仰者にも、信仰を次世代に継承するという使命が与えられています。 年齢が高い者にも、それだけ大切な働きが託されているということです。 「自分冴えよければ」という偏狭な考えでなく、日本に福音が広がるようにという祈りをもって歩みます。 祈り:神様、私が何歳になっても、置かれたところで使命があると教えてくださり感謝します。私の知っている次世代の___さん、___さんに信仰を継承できるよう、知恵を与えてください。自然な形で機会を与えてください。アーメン

詩篇77

「苦難の日に 私は主を求め 夜もすがら たゆまず手を差し伸ばした。 けれども 私のたましいは慰めを拒んだ。」詩篇77:2 矛盾するような反応が並んでいます。 苦難の日に「主を求め 夜もすがら たゆまず手を差し伸ばし」て助けを求めたのです。 にもかかわらず、「私のたましいは慰めを拒んだ」のでした。 第三者として読むと、あまのじゃくだと思います。 しかし、私たちは神に対しても人に対しても、素直になれないことがあるのではないでしょうか。 一方で近づきたいと願いながら、もう一方で知らないふりをするという反応は、私たち罪人の姿です。 そんな自分の弱く矛盾した姿を、神の前に正直に出てあわれんでいただきましょう。 祈り:神様、あなたのあわれみを感謝します。私の一貫性のない言葉、態度を許してください。___さんを悲しませたことを悔い改めます。神の前にも人の前にも、真実な心を与えてください。アーメン

詩篇76

「まことに 人の憤りまでもがあなたをたたえ   あなたは あふれ出た憤りを身に帯びられます。」詩篇76:10 数日前、歯科で詰め物を取り替える治療を受けました。ところが詰め物が合わなくて隣の歯が圧迫され、痛みと不快感を覚えつつ連休を過ごしています。 なぜこの時期に予約を入れたのだろうか?なぜすぐに違和感を覚えなかったのだろうか?などと悶々としています。 歯の不調だけでもこんなに影響が及ぶのですから、不慮の事故や災害に巻き込まれて人生が変わった人の思いはいかばかりでしょうか。 「人の怒りは神の義を実現しないのです(ヤコブ1:20)」とあります。 私たちが怒りに任せて感情をぶちまけても、それは神のみ思いではありません。 しかし、そんな人の憤りまでも、「神をたたえ」神が「身に帯び」てくださるのです。 それは、私たちがどんなに激しい感情で祈っても、神は拒絶されず受け入れてくださるということだと言えます。 「こんなことを祈ってはよくない」「神に怒りをぶつけてはいけない」と思っていませんか。 天のお父さんである主に、どんなことでもお話ししましょう。主は耳を傾けておられます。そして、み前に心を注ぎだすことから、私たちの癒しと回復も始まります。 祈り:神様、私は______のことで心が騒ぎ、憤りを覚えています。あなたの慰めと回復が必要です。助けてください。 信仰の友である兄姉のためにもお祈りします。____さん、____さんの状況に、あなたが涙をぬぐい、葛藤を平安に変え、人の知恵を越えた解決を与えてください。どうか優しい主の手とねぎらいを、その人たちが感じることができますように。アーメン

詩篇75

「まことに 神こそさばき主。 ある者を低くし ある者を高く上げられる。」詩篇75:7 イエス様も言われました。 「心の貧しい者は幸いです」(マタイ5:3) 「自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます(マタイ23:12、ルカ14:11) わかっているのに、弱い私たちです。 家庭や教会で自我が出てしまい、自分こそ正しいような言動をしてしまうことがあります。逆に、いつも抑圧を覚え、ストレスをためてしまうこともあります。 しかし、人を高くしたり低くしたりするのは神ご自身です。 神が私を抱いて持ち運んでくださるのですから、自分の感情のアップダウンに任せなくても大丈夫です。 神様のみわざを驚き仰ぎ見る主の民の一人として、今日もこの地上で生かされています。 祈り:神様、些細なトラブルや悔しさに思いが奪われることがないように、心を守ってください。裁く思いや批判の思いから、私の心や教会を守ってください。いつも主が御手で治めてくださることに感謝します。アーメン

詩篇74

「忘れないでください。 あなたに敵対する者の声を あなたに向かい立つ者どもが 絶えずあげる叫びを。」詩篇74:23 親しい友人が、以下のような引用を送ってくれました。 「私たちが住む世界は、私たちにこう言っています。 ・パフォーマンス+達成感=アイデンティティ ・ステータス+獲得したもの=安心感 ・外見+称賛=誠実さ これらは本当ですか? ...いいえ。私たちの魂に満足をもたらすのは、成功ではなく目的です。神様からの目的です。 (Edomond Chan、和訳)」 私たちが住む世界の価値観は、私たちに叫びます。「もっと!頑張って!成し遂げて!名声を得て!」と。 しかし、神の価値観に反するなら、それは神に敵対する者の声です。 知らず知らずに、私たちが、そして教会が、その声に従ってしまうことのないように。 祈り:神様、あなたの教会は、この世の中にあってこの世のものではありません。どうか塩気のきいた歩みができますように。教会の中の価値観がいつも主に喜ばれるもので満ちますように。喜ばれないものがあるなら、主が調べ精錬してください。アーメン

詩篇73

「この身も心も尽き果てるでしょう。 しかし 神は私の心の岩 とこしえに 私が受ける割り当ての地。」詩篇73:26 「天ではあなたのほか だれをも望みはしない  地上では あなたのほか だれをも望はしない...」で始まる賛美の歌詞は、25・26節から取られています。26節はコーラス部分です。 改めてじっと思いめぐらすと、不思議な気がします。 私の「身も心も尽き果てる」、神が「心の岩」なのはともかく、 神は「とこしえに私が受ける割り当ての地」だと言い切るアサフの信仰は、すでに十字架による永遠のいのちを確信しているようです。 そして、すでに十字架のあがないを聞いて知っている今日の私たちは、彼以上に福音の恵みを味わい確信しているだろうか、と問われます。 「見ずに信じる者は幸いです」と言われた主の恵みは、過去も現在も未来も、変わることがありません。 祈り:神様、あなたは「とこしえに 私が受ける割り当ての地」であるお方です。今日もあなたを何より、誰より頼ることができますように。偶像となりがちなものを心から除き去り、人の評価でなくあなたのまなざしを求めることができますように。アーメン