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Iペテロ5

「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」Iペテロ5:7 日々の暮らしには苦労があります。 誘惑もあります。 それらの悩みを、自分だけで負わなくてもよいのは朗報です。 むしろ、自分で負ったままではつぶれてしまいます。 「身を慎み、目を覚ましていなさい。 あなたがたの敵である悪魔が、吼えたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回ってい( 8畝)」るからです。 心配してくださる神の元に避難し、悩みを主の足元に置きます、と宣言しましょう。 祈り:神様、あなたの元に憩います。私の悩みをそこに置きます。とりなしの祈りができますように。この週末の礼拝と行事を導いてください。アーメン

Iペテロ4

「それぞれが賜物を受けているのですから、神の様々な恵みの良い管理者として、その賜物を用いて互いに仕え合いなさい。」Iペテロ4:10 賜物は、神が与えてくださいます。 それらが何のためかがよくわかります。 ・神の恵みを良く管理するため ・互いに仕え合うため と書かれています。 自分の栄光や自慢のためでなく、神と人の為に使うようにということです。 何が得意ですか?何に喜びがありますか? 比較する必要はありません。 自分に神がくださった賜物を、感謝しつつ神と人に対して使うなら、それが一番喜ばれることです。 祈り:神様、私にあなたが望まれる賜物を与えてくださり、感謝します。恵みの良い管理者として、また仕えるためにそれらを用いさせてください。アーメン

Iペテロ3

「同じように、夫たちよ、妻が自分より弱い器であることを理解して妻とともに暮らしなさい。また、いのちの恵みをともに受け継ぐ者として尊敬しなさい。そうすれば、あなたがたの祈りは妨げられません。」Iペテロ3:7 妻と夫へのすすめが書かれています。 夫は妻を「尊敬しなさい」とあります。 エペソ人への手紙では、妻が夫に従うようにと書かれていました。 つまり、男女の優劣はないとわかります。 互いに尊敬し尊重しあって過ごすようにというのが、聖書の教えです。 教会でも、性差や年齢にかかわらず、互いを尊重し祈り合う関係が与えられて感謝します。 多様な者がキリストにあって集められ、建て上げられていきます。 祈り:神様、あなたがひとりひとりを愛しておられることを感謝します。個性の違う人との関係に、主の知恵と平和を与えてください。アーメン

Iペテロ2

「あなたがた自身も生ける石として霊の家に築き上げられ、神に喜ばれる霊のいけにえをイエス・キリストを通して献げる、聖なる祭司となります。」Iペテロ2:5 日曜日の礼拝メッセージで、第二のアダムとしてのイエス・キリストについて聞きました。 このイエス様が隅のかしら石(コーナーストーン)であり、土台を据える重要な方だとも。 6節にこうある通りです。 聖書にこう書いてあるからです。「見よ、わたしはシオンに、選ばれた石、尊い要石を据える。この方に信頼する者は決して失望させられることがない。」 それだけではありません。 私たちも、霊の家の生ける石として共に連なることができます(5節)。 キリストを救い主として信じた人は、祭司として主の素晴らしい働きに参加できます。光栄なことですね。 祈り:神様、あなたの恵みを感謝します。キリストについて行く者として、健康的なセルフイメージを持つことができますように。今日も主と共に歩ませてください。アーメン

Iペテロ1

「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っています。」Iペテロ1:8   「見ずに信じる人は幸いです」と、イエス様はおっしゃいました。 弟子トマスが、イエスの復活を信じられなかった時のことでした。 地上を歩まれたイエス・キリストと、今物理的に顔を合わすことはできません。 それでも、世界の多くの人たちはイエスと人格的に出会い、信じ、喜んでいます。 それは彼が今も生きて働く主だからです。 祈り:神様、イエス・キリストが私の主であるという「栄えに満ちた喜び」を覚えます。やがて実際にお会いする日を待ち望みつつ、今日も祈りつつ歩ませてください。アーメン

Iペテロ5

「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」Iペテロ5:7 このことばを、今週も何度繰り返したことでしょう。思い煩いやすい者なのです。 しかし、思い煩いに心をとらわれている暇はありません。 なぜなら、私たちは霊的な戦いに出て行き、キリストの名にあって勝利するよう招かれているからです。 「身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、吼えたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。堅く信仰に立って、この悪魔に対抗しなさい。」(8~9節) 恐れる必要はなく、ただその場に身を置き、主の勝利の力で対抗することが求められているのです。 祈り:神様、いつもキリストの名には勝利があることに感謝します。思い煩いに心を向けようとさせる悪の力に対抗します。聖霊による心の一新によって体勢を整えさせてください。アーメン

Iペテロ4

「それぞれが賜物を受けているのですから、神の様々な恵みの良い管理者として、その賜物を用いて互いに仕え合いなさい。」Iペテロ4:10 神の賜物は恵みです。その人に能力があるのは、資質を神様が与えてくださり、その人も努力したことの表れです。努力できるというのも賜物かもしれません。 ともあれ、「それぞれが賜物を受けている」と聖書は語ります。各人に与えられた「様々な恵み」の良い管理者であることを主が望まれます。良い使い方とは、賜物によって互いに仕え合うことです。 無理をするのでなく喜んでできること、苦にならないことがあると思います。 そこに賜物が表れているのではないでしょうか。 祈り:神様、前に立つ奉仕だけでなく、私たちが隠れたところで喜んで奉仕することもあなたの栄光を表すことを覚えて感謝します。互いに仕えるために、与えられた恵みの賜物を適切に用いることを教えてください。アーメン

Iペテロ3

「この水はまた、今あなたがたをイエス・キリストの復活を通して救うバプテスマの型なのです。バプテスマは肉の汚れを取り除くものではありません。それはむしろ、健全な良心が神に対して行う誓約です。」Iペテロ3:21 ノアの洪水がバプテスマの型とは! すべてを覆い浸す水の中、箱舟に入って洪水を通り抜け救われた人が8人いました。 同じように、私たちは水に浸され、キリストと共に通り抜けるというバプテスマを受けました。それは信仰のあかしとしてです。 救いは信じた時に与えられますが、神と人との前に誓約としてバプテスマの式を受けます。 そして、「あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでも、いつでも弁明できる用意をしていなさい(15節)」の通り、あかしをする者として整えられていきます。 祈り:神様、旧約時代の様々な事柄を通しても私たちに意味をわからせてくださり、感謝します。 あなたの前に真実に歩めるよう、今日も助けてください。私たちがあかしをする用意ができているように整えてください。アーメン

Iペテロ2

「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、霊の乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。」Iペテロ2:2 聖書は甘い菓子のように感じられるでしょうか。 そうとは限りませんね。 時にはわかりにくく耳に痛いこともあります。 それでも霊の乳としてのみことばを慕い求めるようにと、この聖句は語ります。 なぜなら、肉体が成長するためには栄養のある食物が必要なように、霊の成長には神の知恵と教えがつまったみことばが必要だからです。 祈り:神様、みことばがよくわかるように助けてください。知的な理解だけでなく霊の目を開いて理解させてください。 霊の乳を慕い求め、成長できますように。アーメン

Iペテロ1

「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っています。Iペテロ1:8 ぺテロの書いた手紙は、ぺテロがイエス様について各地を旅した頃よりずっと成熟した人物になったことがわかります。 同時に、ぺテロの持ち味である熱心さや情熱が、手紙の表現のあちこちに感じられます。 ことばでは表しきれない「栄えに満ちた喜び」に踊る信者の喜びを、彼も共に喜んでいます。 それは安全な幸せの中ではなく、試練の中でそうであったからです。 試練を耐えた信仰は金よりも価値があり、キリストからの報いを受けることができるという永遠の希望が伴います。 祈り:神様、試練はそれだけで終わりではなく、信仰を成長させキリストからの労いがあることに感謝します。今、試練を通っている___さん、___さんに励ましと力を与えてください。私もとりなしの祈りができますように。アーメン

Ⅰペテロ5

Ⅰペテロ5、エゼキエル3−4 「割り当てられてる人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい。そうすれば、大牧者が現れるときに、あなたがたは、しぼむことのない栄光の冠をいただくことになります。」Ⅰペテロ5:3〜4 割り当てられたというのは機会的にではなく、神がみこころにしたがって委ね担当させてくださったということである。 牧会していると、自分の今の賜物と能力では難しく感じる人、意見が合わない人、時間を割いても成長がないかのように見える人がいる。心を尽くしても教会から離れる方もおられ、がっかりすることもある。しかし、どの人も神に愛され、神がこの教会に送られ、神の定める期間ともに歩んでいるのであり、その群れの中で仕えることが許されているのである、と考えると随分見方が違ってくる。 皆さんは尊敬を込めて「先生」と呼んでくださるが、私自身も教会員から学ぶことが多くある。社会の中でも、また介護や家事をする生活でも、忍耐強く信仰を保ち献身的にされている姿に、キリストの御心と信仰を教えられることもある。 主よ、もっとへりくだり仕えることを教えてください。兄姉を愛し、寛容で、教え戒め、建て上げ、仕えることができますように。

Ⅰペテロ4

Ⅰペテロ4、エゼキエル1−2 「さばきが神の家から始まる時が来ているからです。それが、まず私たちから始まるとすれば、神の福音に従わない者たちの結末はどうなるのでしょうか。」Ⅰペテロ4:17 裁きというと怖く苦しいイメージがあるが、クリスチャンにとってさばきは主にあって引き上げられ、労われ報われる希望さえも持つ。 特にペテロの手紙が書かれた当時のクリスチャンたちはローマ帝国から厳しい迫害に遭っていた。しかし、そのことゆえに福音がローマ全土に広がっていき、殉教するクリスチャンでさえも神の民を励まし大きなあかしを立てていった。何より信者にとっては、永遠のいのちが保障されている。しかし、信じない人たちにとっては、さばきの後は滅びである。

Ⅰペテロ3

Ⅰペテロ3、エレミヤ51−52 「むしろ、心の中でキリストを主とし、聖なる方としなさい。あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでも、いつでも弁明できる用意をしていなさい。」Ⅰペテロ3:15 最近、聖書学校のあるコースに参加する機会があった。 あかしをしないクリスチャンは、アブラハム契約のトップライン(あなたは祝福される)だけで、そのボトムライン(あなたは国々の祝福となる)という流し出す必要性を見落としていると学んだ。 ボトムラインを遂行するには、いつも証ができる用意をしていることである。同時に、心の中でいつもキリストを主とし、聖なる方としなさい、と書かれている通り、キリストの心を我が心としたいという愛、キリストの弟子となることが重要である。 祝福を受けるだけというのは、流し出すことができず滞り、祝福が沈滞する。種も蒔けば収穫があるが、蒔かないで食べてしまうとそれっきりである。気前の良い神様の願いは、私たちも気前が良くなることである。

Ⅰペテロ2

Ⅰペテロ2、エレミヤ50 「聖書にこう書いてあるからです。  『見よ、わたしはシオンに、選ばれた石、  尊い要石を据える。  この方に信頼する者は  決して失望させられることがない。』」Ⅰペテロ2:6 キリストが要石であり、要石は動くことがない。位置を決め、基礎となり、全ての土台、始まりとなってくださるのである。 だから、キリストに信頼する者は失望させられることがない。 「キリストは昨日も今日も、いつまでも変わることがない」という約束が、信仰の揺るぎない保証を与えてくださっているのである。 たとえ教会の中のある人たちが揺らいでも、たとえミニストリーが行き詰まっても、キリストが変わらない方で、そのお方が許されるならば良しとしなければならない。私たちの歩みも、奉仕も、キリスト抜きでは空しく力ないものである。自分の力で頑張っているようなところがあれば、もう一度手放して祭壇に置こう。主から受け取ったことを淡々となしていこう。

Ⅰペテロ1

Ⅰペテロ1、エレミヤ48−49 「今しばらくの間、様々な試練の中で悲しまなければならないのですが、試練で試されたあなたがたの信仰は、火で精錬されてもなお朽ちていく金よりも高価であり、イエス・キリストが現れるとき、称賛と栄光と誉れをもたらします。」Ⅰペテロ1:6−7 試練は永遠ではなく、一時的なものである。しかし、その結果は素晴らしい信仰が生み出されていくのである。 これは個人的な試練にも当てはまるが、教会が通る試練にも同様だと思う。パンデミックの間や後、教会が直面した様々な変化や経緯にも神が働いてくださる。それはちょうど、一時的な精錬所の過程を経て質の良い金が作られていくかのようである。 初代教会の純粋な信仰に戻り、キリストの愛に戻り、律法的なあるいは人間的な縛りから自由になること。時には教会の歴史で作られた決まりを見直し、主が望んでおられることがどうかの検討もする。今、そうした時期に差し掛かっているのかもしれない。