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詩篇11

「主は その聖なる宮におられる。 主は その王座が天にある。 その目は見通し そのまぶたは人の子らを調べる。」詩篇11:4 「何でもお見通し」という表現があります。子どもがいたずらを隠したつもりでも親は状況を把握している、というような場合に使います。 同じように、主の目は「何でもお見通し」です。人には隠せても、主に隠すことはできません。アダムとエバが罪を犯して隠れても、主は見通しておられました。ダビデがバテシェバと不適切な関係を持った時も、預言者を通して明るみに出されました。 罪の結果、アダムとエバはエデンの園を追われ、バテシェバの生んだ子は死にました。私たちも、罪の結果の傷跡がかつての怪我の傷跡のように残ることはあります。 しかし、主は回復してくださる方でもあります。アダムとエバに皮の衣を着せてくださり、ダビデを赦し息子ソロモンを与えてくださいました。姦淫の現場で捕らえられた女性を戒め赦してくださいました。 何より、同じように数々の罪にまみれた私たちのために、ひとり子を十字架につけてあがなってくださいました。 これほどの恵みを、体験した者は語らずにはいられません。 祈り:神様、私は罪人として生まれました。十字架により、私の罪をぬぐってくださり感謝します。罪の呵責からも解放してくださいました。十字架の恵みを今日も深く味わいたいです。義なる神様、同時に愛に満ちた神様、感謝します。アーメン

詩篇10

「あなたは見ておられました。 労苦と苦痛を じっと見つめておられました。 それを御手の中に収めるために。 不幸な人は あなたに身をゆだねます。」詩篇10:14 イエス様の優しいまなざしを思い浮かべることがあります。 貧しい人、虐げられている人を見過ごさず、病気の人をあわれまれ、十字架の上でも「彼らをおゆるしください」と祈ってくださった主イエス。主は、私たちがどんなに小さい存在でも、その苦しみを見過ごしになりません。 労苦や苦痛を「御手の中に収め」、不幸な人が「身をゆだね」ることができるとは、主のあわれみは何と深いのでしょう。 私たちも、そんな主のまなざしを自分のまなざしとならえますように。 祈り:神様、世界中の労苦や苦痛で、あなたがご存知でないものがないことに案者します。その痛みをわかってくださり、私たちの避け所となってくださることに感謝します。信仰者をあなたの手足として痛む人々のそばに遣わしたいと思われる時、私も応答させてください。アーメン

詩篇9

「心を尽くして 私は主に感謝をささげます。 あなたの奇しいみわざのすべてを語り告げます。」詩篇9:1 一昨日の日曜日は感謝総会でした。「感謝」とついているのは、主に導かれた教会の歩みを感謝する時だからです。 教会の総会は、いわゆる会社の株主総会とは違います。 決議することはありますが、その過程は怒号や意見の応酬になるべきではありません。 愛とお互いへの尊敬をもって思いを出しあい、主のみこころを求める時です。 何よりも、まず教会のかしらであるキリストの方を共に向き、感謝をささげる恵みの確認の場なのです。 今回は、昨年の歩みをスライドショーにして皆で見ました。なんと多くのことが、主にあって恵みとなり、解決され、導かれていったことでしょうか。 今年も感謝総会が感謝のひとときとなったことを、主に心から感謝します。 祈り:神様、私たちに感謝の心を与えてください。心を尽くしてあなたに感謝する者にしてください。教会の歩みを守ってくださり感謝します。日本中、世界中の教会の歩みもまた、主ご自身にあって守られ、導かれることを覚えて感謝します。アーメン

詩篇8

「あなたは 人を御使いより わずかに欠けがあるものとし これに栄光と誉れの冠を かぶらせてくださいました。」詩篇8:5 ユージン・ピーターソンという人は、この詩篇について次のように書いています。 「肉体的なサイズでは、人はちっぽけな存在だ。宇宙の大きさに比べたら、ちりにすぎない。 しかし、霊的には人は巨大な存在だ。なぜなら、天地の創造主である神の目的によって造られたのだから。」(Praying  with the Psalmsより, 意訳) 力強い御名を持つ方が、人をこれほどに思ってくださるとは、何という光栄でしょう。 祈り:  神様、あなたが私を愛し、あなたの目的をもって造ってくださったことを感謝します。 あなたが願われる私の歩みに、今週も導いてください。 受験や進路が思うようにいかなかった人が、絶望ではなく、創造主の深い導きがあるのだと知り、希望を持ち歩むことができますように。アーメン

詩篇7

「主は諸国の民にさばきを行われます。 私の義と 私にある誠実にしたがって 主よ 私をさばいてください。」詩篇7:8 詩の初めに「シガヨンの歌。ダビデによる。ベニヤミン人クシュのことについて主に歌ったもの」とあるので、サウルに追われた時のことだと思われます。 ゆえなく追われたダビデは、自分の良心と無実を主に述べます。「私にある誠実」はIntegrity(インテグリティー)で、クリスチャンリーダーのためのセミナーでは一つの科目になる位大切なものです。 今日、私のインテグリティーについて考えてみましょう。神の前に、ダビデのように申し開きできるでしょうか。 祈り:神様、あなたにも人にも自分の良心にも誠実であるように、私の心を探ってください。もし心にちくっと痛みを感じるならば、今日修正することができますよう、導いてください。アーメン

詩篇6

「私のたましいは ひどく恐れおののいています。 主よ あなたはいつまで──。」詩篇6:3 「あなたはいつまで──」の後に、どんな言葉を入れますか。 「いつまで待たせるのですか「いつまでこの状況を許されるのですか」「いつまであの人の横暴を放っておかれるのですか」...。 神の沈黙が続く間、ダビデは泣きに泣きました。「夜ごとに 涙で寝床を漂わせ(6節)」と。王となったほどの人物でも、私たちと同じ人間です。そして、神様に甘えすがり、子どものように泣いてもよいのだと知ります。 前の節に「主よ 私を癒やしてください。私の骨は恐れおののいています」とあるので、この時ダビデは肉体的な苦痛も覚えていたようです。身体の不調があると、たましいや霊も弱ってきます。 しかし、弱さのままで神に訴える時、神によって信仰が与えられることがあります。神は沈黙しておられると思っていたダビデが「主は私の切なる願いを聞き 主は私の祈りを受け入れられる」(9節)と告白するまでに強められています。 私たちの思いが変えられること、それは神が祈りを聞いておられることの表れだと言えます。 祈り:神様、私の否定的な思考、ムードを変えてください。状況にかかわらず、私の思いが聖霊に支配されますように。明日の感謝総会でも、聖霊の与える希望が満ち溢れますように。 寒い日々、身体の不調を覚える___さん、____さんを支えてください。身体と共に霊も強められますように。アーメン

詩篇5

「主よ 朝明けに 私の声を聞いてください。 朝明けに 私はあなたの御前に備えをし 仰ぎ望みます。」詩篇5:3 うつを経験した人なら、朝起きた時の心の重さとけだるさを想像できるかもしれません。ダビデの重圧はそれに匹敵するか、それ以上だったでしょう。 起きた瞬間厳しい現実に引き戻され、暗い思いにうめきます。 しかし、彼は負のスパイラルに埋没する代わりに叫びました。 「私の叫ぶ声を耳に留めてください。私の王 私の神 私はあなたに祈っています。(2節)」 朝、目を冷ました途端悩みに圧倒されそうなら、ダビデの叫びを私たちの祈りにしてみたいと思います。 祈り:神様、朝明けに私の声を聞いてください。私の叫ぶ声を耳に留めてください。私のうめきを聞き取ってください。朝明けに私はあなたを待ち望みます。 ______のことにも、______のことにも、あなたの介入と解決を信じて待ち望みます。アーメン

詩篇4

「私が呼ぶとき 答えてください。 私の義なる神。 追いつめられたとき あなたは私を解き放ってくださいました。 私をあわれみ 私の祈りを聞いてください。」詩篇4:1 3篇に続いて神の守りを求め、神ご自身を待ち望む詩篇です。 最後が「平安のうちに私は身を横たえ すぐ眠りにつきます。 主よ ただあなただけが 安らかに 私を住まわせてくださいます」と終わっているので、「夜の詩篇」と呼ばれています。 今夜、眠る前に5分間の黙想をしてみませんか。今日一日の労苦や心配を主の前に置く。感謝なことをいくつも思い出し、感謝の祈りをささげる。8節を声に出し、主への信頼の告白とする。 いかがでしょう。 祈り:神様、今私の心にある________のこと、心配な________のことを、あなたの前に置きます。嬉しかったこと、感謝なことは __________、__________、_________でした。平安のうちに私は身を横たえ すぐ眠りにつきます。 主よ ただあなただけが 安らかに 私を住まわせてくださいます。(8節)アーメン

詩篇3

「私は身を横たえて眠り また目を覚ます。 主が私を支えてくださるから。」詩篇3:5 だんだんと日が長くなってきました。春が近いのを感じます。 夜明けは希望の代名詞のように使われますが、一方で不眠に悩まされ、眠れないうちに朝になってしまったと嘆く人もいます。 ダビデの状況も、不眠症に陥りそうな苦しいものでした。王権が確立するどころか、息子アブサロムが謀反を起こし、ダビデは追われる身となっていました。 しかし彼は「主よ あなたこそ 私の周りを囲む盾」(3節)と告白します。 「私は声をあげて主を呼び求める。すると 主はその聖なる山から私に答えてくださる」(4節)と、ただ主の守りにすがる姿も描かれます。 それが主の支えのうちに眠り、目を覚ますという5節へと続きます。野宿や追っ手を恐れる逃避行の中、彼が何時間眠ったのかは明らかではありません。 しかし、睡眠時間ではなく主に守られるという信仰が、彼の健康を支えたのだと思います。 祈り:神様、あれこれ気になって眠れないことがあります。夜中に目が覚めた時、主が共にいて守ってくださることを思い出させてください。不眠に悩む人たちに、あなたの臨在と深い安心感とが、今晩豊かに感じられますように。私自身もよく眠れますように。アーメン

詩篇2

「なぜ 地の王たちは立ち構え 君主たちは相ともに集まるのか。 主と 主に油注がれた者に対して。」詩篇2:2 2篇は、メシアに関する詩篇と呼ばれています。イエス様が来られた時、学者や祭司たちは敵対しました。自分の権益や価値観を守ろうとしたからでした。 反対に、「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです(マタイ5:3)」とイエス様は言われました。 ヘンリ・ナウエンは「貧しさこそ、わたしたちの守りを取り払い、敵を友に変える気持ちをひき出すのです。何か守るものがある限り、わたしたちは他の人を敵としか見ないようになります」と述べています。 多くの人が自分で何かを守ろうとして、救い主を受け入れるのを拒みます。救われた私たちも、肉が守りや敵対心を生むことに警戒し、心を貧しくすることができますように。 祈り:神様、私の心がむなしい守りに入ることがありませんように。主に心開き、主の守りと勝利に期待します。 自分の力に頼ろうとして疲れ果てている人が日本中に多くおられます。主の救いを知り、主の元で憩うことができますように。アーメン

詩篇1

「主のおしえを喜びとし 昼も夜も そのおしえを口ずさむ人。その人は 流れのほとりに植えられた木。 時が来ると実を結び その葉は枯れず そのなすことはすべて栄える。」詩篇1:2-3 旧約聖書の詩篇を、今日から150日間にわたって読みます。 1篇の2~3節は、2023年の教会年間聖句ともなっていたので、なじみ深く思い出す方もおられるでしょう。 主のおしえを「口ずさむ」は「思い巡らす」とも訳せるそうです。 まるで木にとっての水のように、私たちにとって主のおしえであるみことばはたましいの栄養であり、いのちの源なのだと教えられています。 食欲のある日とない日があるように、聖書を読みたくてたまらない日とそうでも ない日があります。けれども、少しだけでもみことばに触れる時、私たちの知性ではなく霊が栄養を受けていることを覚えます。本でなくても、アプリや音声でも聖書が読める時代です。この恵みの時代に感謝します。 祈り:神様、あなたのみことばに親しみたいです。難しく思える時や気分が乗らない時には、新しい方法や気づきを与えてください。律法的になるのではなく、喜んで読めますように。多様な聖書が与えられていて感謝します。まだ聖書にふれたことのない人の元にも、みことばが届きますように。アーメン

マラキ4

「見よ。わたしは、 主の大いなる恐るべき日が来る前に、 預言者エリヤをあなたがたに遣わす。彼は、父の心を子に向けさせ、 子の心をその父に向けさせる。 それは、わたしが来て、この地を聖絶の物として 打ち滅ぼすことのないようにするためである。」マラキ4:5~6 マラキのこの預言の後、バプテスマのヨハネがイエス様の先駆者として送られるまで400年かかりました。人々は、預言の成就がいつかいつかと、400年も待ち続けました。 神様の約束はスケールが大きすぎて、人間の感覚では待たされ過ぎだと思うことがあります。同時に、必ず約束を果たす方だと信じることが信仰だと、古来多くの信仰者が通った思いを共有します。 キリストの再臨は、2000年も待っています。待ち時間は長いけれども、偽りではないことを私たちは知っています。だから、新約聖書の時代と同じことばで私たちも祈ります。 祈り: 「これらのことを証しする方が言われる。『しかり、わたしはすぐに来る。』アーメン。主イエスよ、来てください。(黙示録22:20)」 *明日からは詩篇を読みます。

マラキ3

「十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、 わたしの家の食物とせよ。 こうしてわたしを試してみよ。 ──万軍の主は言われる── わたしがあなたがたのために天の窓を開き、 あふれるばかりの祝福を あなたがたに注ぐかどうか。」マラキ3:10 この箇所は、ささげ物の勧めに際してよく用いられます。 もっとも、旧約の律法はイエス・キリストによって成就され、私たちは自由にされたはずです。にもかかわらず、なぜ今も用いられるのでしょうか。 一つは、祝福を願われる、神のご性質を表しているからです。 喜んでささげる人には「あふれるばかりの祝福」を注がれるという、神の守りの約束だからです。 もう一つは、旧約以上の恵みを受けた私たちが、旧約の人々以上に感謝にあふれてささげるのは自然だからです。 イエス・キリストによる救いを受けた私たちが、その十字架のあがないを深く理解するならば、感謝の心を何らかの形で主に表したいと思うでしょう。 損得や強制ではありません。牧師や教会の必要のための募金でもありません。 神様への感謝の心のあらわれです。 祈り:神様、あなたが私にしてくださったことは大きすぎ、あまりにも恵みに満ちあふれています。惜しまず、喜びをもって主にささげる者となりたいです。これまでもあなたの真実の守りを経験してきました。これからもあなたの守りの約束を信じます。アーメン

マラキ2

「神は人を一体に造られたのではないか。 そこには、霊の残りがある。 その一体の人は何を求めるのか。 神の子孫ではないか。あなたがたは、自分の霊に注意せよ。 あなたの若いときの妻を裏切ってはならない。」マラキ2:15 今週水曜日からは「レント(受難節)」と呼ばれるイースターの前40日間に入っています。主の十字架を思い静まり慎む期間として、大切にしている教会や教派も多くあります。 ヘンリ・ナウエンは「イエスの示す道~受難節の黙想」という本の中で、 「信仰生活とは、感謝して生きることです。...イエスは、この世の悪を神の愛への信頼がたりないからだと考えておられます。イエスは、わたしたちが頑なに自分自身に依存し、神よりも自己に依り頼み、神の愛よりも自己愛に傾きやすい者であることを知らせてくれます」と述べています(pp.6~8)。 私たちの人間関係は不完全で自己中心的な者どうしの関係です。 しかし、人には神の霊の息が吹き込まれました。神の愛への信頼を深め、へりくだりつつ、悔い改めつつ、周囲の人たちにも誠実でありたいと願います。 祈り:神様、私の周囲の人間関係を祝福してください。疎遠になってしまった家族や親戚に、どうしたらあなたの愛への応答を示すことができるでしょうか。聖霊の導きを求め、従いたいです。アーメン

マラキ1

「宣告。マラキを通してイスラエルに臨んだ主のことば。」マラキ1:1 「マラキ」の名は「主の使い、メッセンジャー」という意味があります。 その名前のごとく、彼は旧約聖書の最後の預言、主からのメッセージを運び、伝えました。 「宣告」とは「主から託された届け物」であり、彼が運び、人々に届けるべき荷物、重荷でした。 今日、キリストの福音を知っている私たちもまた、福音のメッセンジャー、運び手です。届ける人がいなくて、どうして福音を知ることができるでしょう。 町で一生懸命働く運送会社や郵便局のドライバー、配達員の方々の姿を見ながら、私たちも福音の配達人に主が召してくださっていることを覚えます。 祈り:神様、私を福音の運び手、メッセンジャーとして用いてください。 また、教会や私の家に日々荷物を運んでくれる人たち、様々な運転や配達をする人たちに主の祝福がありますように。アーメン

ゼカリヤ14

「主は地のすべてを治める王となられる。 その日には、主は唯一となられ、御名も唯一となる。」ゼカリヤ14:9 ゼカリヤ書の最後は、まるで黙示録を読んでいるように難しく感じられます。どの出来事がどれに当たるのかも、すぐにはよくわかりません。 このような箇所を読むときは、むやみに当てはめようとせず、主の知恵で隠されていることはそのままに、でも聖書が明らかに述べていることを受け取っていくことが読み手の態度ではないかと思います。 14章を読むと、主がもう一度来られること、その日は主に知られていること、そして主が全地を治める王となられることがわかります。 使徒の働き1:11でも、御使いが使徒たちに「このイエスは、天に上って行くのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになります」と言っています。同じ励ましが、旧約聖書にも新約聖書にも一貫して流れています。 私たちは今日も主が来られる日を待ち望みながら、主の力と恵みに思いをはせて歩もみましょう。 祈り:神様、聖書はあなたからのラブレターです。難しいところもありますが、聖霊の助けで読みたいです。今日世界で起こっている事象、私の日常で起こる事象にあわてたりパニックになったりすることなく、主がご存知ですべてを導いてくださる方だという平安をもって歩ませてください。アーメン

ゼカリヤ13

「わたしはその三分の一を火の中に入れ、銀を錬るように彼らを錬り、金を試すように彼らを試す。彼らはわたしの名を呼び、わたしは彼らに答える。わたしは『これはわたしの民』と言い、彼らは『主は私の神』と言う。」ゼカリヤ13:9 紀元後70年のエルサレム陥落、迫害、数々の戦乱など、この預言の後もユダヤ人の歴史は苦難に満ちてきました。しかし、民族すべてが滅びることはなく、苦難を生き延びた人々がいました。 まさにこの節の「火の中に入れ、銀を練るように練られた」ようでした。 私たちの中にも、火の中を通るような試練を通っているように感じる人がいるかもしれません。自分ではどうすることもできない家族環境や生育歴、病や死別などを経験することもあります。 しかし、試練の中で主に呼び求める人を、主は見放されません。 どんな時にも主の御腕の中に抱かれていると、後になって気づきます。 そればかりか、「主は私の神」「これはわたしの民」と言い合うような主と私との個人的な親密さが、より深まる経験とも変えてくださるのです。 祈り:神様、試練を通っています。助けてください。あなたの御腕の中に抱かれていること、あなたの訓練は後になって義の実を結ぶことをわからせてください。___さん、___さんにもあなたの平安の導きを与えてください。アーメン

ゼカリヤ12

「わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと嘆願の霊を注ぐ。彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見て、ひとり子を失って嘆くかのように、その者のために嘆き、長子を失って激しく泣くかのように、その者のために激しく泣く。」ゼカリヤ12:10 「自分たちが突き刺した者」とは人々が「わたし」すなわち神ご自身です。 ヨハネはイエス・キリストの十字架についてこの節を引用しました。 「これらのことが起こったのは、『彼の骨は、一つもおられることはない』とある聖書が成就するためであり、また聖書の別のところで、『彼らは自分達が突き刺した方を仰ぎ見る』と言われているからである。」(ヨハネ19:36~37) この節の最初は「ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと嘆願の霊を注ぐ」と始まります。たとえ人々が突き刺しても恵む、いや十字架の上に突き刺されることこそ、神の恵みの計画だったことを覚えます。 イエス・キリストを信じる者は、全世界どこにいても神の恵みを受けています。激しい涙は、神の深いあわれみゆえの感激の涙となります。 祈り:神様、イエス・キリストを十字架に突き刺したのは当時の人々だけでなく、私の罪ゆえでした。私自身のために突き刺され、いのちをもって救いの道を開いてくださったことに感謝します。十字架の恵み、はかりしれない価値に感謝します。 ___さん、___さんがこの贈り物を純粋に受けとることができますように。アーメン

ゼカリヤ11

「私は羊の商人たちのために、屠られる羊の群れを飼った。私は二本の杖を取り、一本を「慈愛」と名づけ、もう一本を「結合」と名づけた。こうして私は群れを飼った。」ゼカリヤ11:7 「慈愛」と「結合」と名付けられた杖が出てきます。 神様が預言者ゼカリヤを通して、羊を飼うという実物教材を示してくださいました。 残念ながら旧約の人々は神様のみこころを行うことができませんでした。 しかし、杖に名付けられた「慈愛」と「結合」は神の愛のキーワードだといえます。 「慈愛」に満ちた神様のご性質、「結合」という平和と和解こそ、主が私たちに与え、私たちも流し出していくよう望まれている性質だと思います。 言うのは易し、行うのは難しです。でも私たちは聖霊の助けを頂けるのです。祈り心で主を仰ぎ、新しい週の歩みを始めましょう。 祈り:神様、イエス・キリストの麗しいご性質を、私も目指して歩みたいです。主の御顔を仰ぎ見て、今週も出発します。アーメン

ゼカリヤ10

「エフライムは勇士のようになり、 その心はぶどう酒に酔ったように喜ぶ。 彼らの子らは見て喜び、 その心は主にあって大いに楽しむ。」ゼカリヤ10:7 主が回復させてくださるとき、人々は大喜びします。 捕囚から故郷に帰るという回復は、とても喜ばしいものでした。 そして、やがてキリストが来られる時、すべての秩序が回復され、キリストを主と信じている人は大喜びします。 喜びの様子が「大いに楽しむ」と描写されています。陽気に、無邪気に、主の前で喜び楽しむ様子です。 毎週の礼拝は、共に主を喜び楽しむ時、天国を垣間見る時です。明日の礼拝も、心をこめて主を礼拝し賛美しましょう! 祈り:神様、あなたが私たちを見捨てたままにされず、回復してくださる方であることに感謝します。キリストが来られる日を待ち望みつつ、毎週の礼拝を信仰の友と共に心から楽しみささげます。アーメン

ゼカリヤ9

「娘シオンよ、大いに喜べ。 娘エルサレムよ、喜び叫べ。 見よ、あなたの王があなたのところに来る。 義なる者で、勝利を得、 柔和な者で、ろばに乗って。 雌ろばの子である、ろばに乗って。」ゼカリヤ9:9 もし江戸時代に今日のことが語られていたとしたら、とても驚くでしょう。 ゼカリヤの預言はそのようなものでした。 イエス様の生まれる400年も前に、彼は王であるその方が「柔和な者で、ろばに乗って」来られると預言しました。 イエス様がエルサレムに入られる記事を読むと、この預言が成就したことがよくわかります。 ヨハネ12:14~15「イエスはろばの子を見つけて、それに乗られた。次のように書かれているとおりである。『恐れるな、娘シオン。見よ、あなたの王が来られる。ろばの子に乗って。』」 旧約、新約と分かれていても、聖書がすべてイエス・キリストについて語っていることがわかります。イエス・キリストにあってメシア預言が具体的に成就していくことを探しながら読むのもまた、聖書の泉を掘る楽しみの一つです。 祈り:神様、聖書が真実であること、イエス・キリストが救い主であることを信じます。みことばを通して、主の素晴らしさと真実な愛をますます知ることができますように。主の約束が確かであることに感謝します。アーメン

ゼカリヤ8

「多くの国の民、強い国々が、 エルサレムで万軍の主を尋ね求め、 主の御顔を求めるために来る。」ゼカリヤ8:22 平和な町の広場は、再び長寿で杖を持った男女が座り(4節)、多くの男の子と女の子が遊ぶ(5節)、と描写されています。 教会の近所の公園に行くと、手押し車や杖を持った高齢の方が散歩に来ています。また、親子連れで滑り台を滑ったりボール投げをしたりしている家族もいます。 なんと平和なのどかな光景でしょう。 それと同じような回復が、廃墟にしか見えない都に起こるという預言です。 当時のエルサレムが再び都として栄えることだけではありません。やがてキリストが王として治められる時代に、究極の平和が訪れるという希望をも語っています。 その前味を、近所の公園で見ているのだと思うと、本番が楽しみです。 祈り:神様、平和をもたらす君としてイエス・キリストが来られたことを感謝します。権力や兵力に頼るのではなく、主にある平和を追い求めることができますように。私の心にも、この預言の広場のような平安を今日与えてください。トラブルのあるところには主の光と解決をもたらしてください。アーメン 祈り:  

ゼカリヤ7

「彼らは心を金剛石のようにし、万軍の主がその御霊によって先の預言者たちを通して送られた、みおしえとみことばを聞き入れなかった。そのため、万軍の主から大きな御怒りが下った。」ゼカリヤ7:12 私たちの教会の最寄りは「金剛駅」です。以前近隣の牧師先生が、「金剛」という名のつく地域で伝道することに、主のチャレンジをもらったと話してくださいました。 「金剛石」というのはダイヤモンドの次に固い石だそうです。 今日の節では人々の心がとても頑固だったことを「金剛石のような心」と形容しています。 しかし、主は御霊によって語り続けてくださったのでした。預言者たちは、拒絶されてもあきらめず、そのことばを忍耐強く伝え続けました。 今日の私たちの周りには、心が金剛石のように固い人がいるかもしれません。しかし、聖霊はこの場所でも働いておられます。私たちもあきらめず、忍耐強くこの地域の救いを祈り続けましょう。 祈り:神様、霊的に固いと言われる地域や人々にも、語り続けてくださり感謝します。あなたの愛が注がれていることを信じて、私たちも祈り、主の与えてくださる機会と忍耐を受け取って宣教できますように。八方塞がりのように感じる時には、あなたが励ましを与えてください。アーメン

ゼカリヤ6

「彼にこう言え。 『万軍の主はこう言われる。 見よ、一人の人を。その名は若枝。 彼は自分のいるところから芽を出し、 主の神殿を建てる。』」ゼカリヤ6:12 6章前半の戦馬の幻が終わった後、平和の王が治めるようになるという希望が続きます。 大祭司ヨシュアに冠をかぶらせ、主のことばを与えるというのは、文字通りの意味と同時に、来るべきメシア、イエス・キリストが「若枝」として神の国をこの地にもたらされることも示しています。 「 彼が主の神殿を建て、 彼が威光を帯び、 王座に就いて支配する。 その王座の傍らに一人の祭司がいて、 二人の間には、平和の計画がある。」(13節) 平和の君イエス・キリストは、あなたの心を治め、奥底からの平和を与えてくださる方です。今日怒りや嘆きがあるなら、心の現状をイエス様に見て頂きましょう。うわべだけ繕うのではなく、まさに平和が必要な現場にお迎えしましょう。 祈り:神様、イエス・キリストは平和の君として地上に来られました。私の痛み嘆いている心、許せない怒りのある心の奥底の状況を、どうぞ見てください。そのままの状態を、あなたに明け渡します。________の事柄に主の方法で介入してください。あなたにゆだね、心が解放されることを信じて感謝します。アーメン

ゼカリヤ5

「私が再び目を上げて見ると、なんと、一つの巻物が飛んでいた。」ゼカリヤ5:1 5章では、悪が取り除かれる2つの幻が記されています。 一つは「飛んでいる巻物(1~4節)」です。盗む者、偽って誓う者が、その文面に従って取り除かれるのでした。 もう一つは「エパ升の女(5-11節)」です。偶像礼拝と邪悪を象徴しています。それが升ごと「シンアル」すなわちバビロンに移される幻です。 両方とも、帰還した土地から悪と偶像礼拝が除かれ、きよめられるメッセージでした。 私たちの身の回りに不条理や悪が満ちていると感じられるでしょうか。主は全地を納めておられ、悪をきよめることのできる方です。同時に、ひとりも滅びることを望まず悔い改めを待っている方でもあります。さらに、愛する者を訓練し、熟練した信仰者へと成長させてくださる方です。 今日悔しく思えることが、やがて神によってどのように解決されるか、期待して待ち望めますように。 祈り: 「...霊の父は私たちの益のために、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして訓練されるのです。(ヘブル12:10)」 神様、あなたが正義を実現される方であることを信じます。主の目には善悪が明らかです。私がもし歪んだ肉の正義感を持っていたら修正してください。虐げられている人、苦しむ人を救ってください。私も、そして___さん、____さんも共に、「キリストは主です」と告白できますように。アーメン

ゼカリヤ4

彼は私にこう答えた。 「これは、ゼルバベルへの主のことばだ。 『権力によらず、能力によらず、 わたしの霊によって』 と万軍の主は言われる。ゼカリヤ4:6 燭台の幻を通して、政治的リーダーだった総督ゼルバベルへのメッセージが語られます。彼は再建工事が進まず、落胆していたかもしれません。 主は、ご自身のご計画が必ずなることを保証されます。そして「権力によらず、能力によらず、神の霊によって」なるのだ、と言われました。 ハガイ2章でも、ゼルバベルに向けて「銀はわたしのもの。金もわたしのもの(ハガイ2:8)」と主は語られました。 違う預言者から、主からの励ましを語られて、どれほど彼が慰められ、主にあって立ち上がる力を与えられたことでしょう。 奉仕やリーダーとしての働きは、時に孤独です。主が前を進んでくださるからこそ、私たちはその後についていくことができるのです。 祈り:神様、大きな責任を持っている働き人やクリスチャンリーダーたちのために祈ります。霊肉が守られ、主の召しに忠実に歩めますように。孤独を感じる時に主の励ましがありますように。 私も日々覚えて祈り、主の愛に促された言葉をかけることができるよう、主の道を今日も歩ませてください。アーメン

ゼカリヤ3

「御使いは、自分の前に立っている者たちにこう答えた。『彼の汚れた服を脱がせよ。』そしてヨシュアに言った。『見よ、わたしはあなたの咎を除いた。あなたに礼服を着せよう。』」ゼカリヤ3:4 ここに出てくる「ヨシュア」はヨシュア記の人物ではなく、捕囚から戻った時代の大祭司です。別人ですが、どちらも民のリーダーでした。 そのリーダーの汚れがきよめられ、罪が除かれるということばです。 彼の力ではなく、主が汚れた服を脱がせ、礼服ときよいターバンを着せてくださいます。 サタンはヨシュアを訴えようとしますが(1節)、逆に主はサタンをとがめられます(2節)。 イエス・キリストの「イエス」は「ヨシュア」と同じ名前です。そしてこの方は、私たちのすべての罪をぬぐい、きよめて白い衣を着せてくださる方です。 キリストの血潮で私たちはきよめられました。そればかりか、礼服を着せて頂き、主の祝宴に招かれているのです。なんという光栄でしょうか。主の愛と恵みの大きさに圧倒されます。 祈り:神様、罪の中で滅びるしかなかった私を、救いきよめてくださり感謝します。 「たとえ、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。(イザヤ1:18)」 主の愛と恵みの大きさ、福音を、この週末もさらに味わい感謝することができますように。アーメン

ゼカリヤ2

「エルサレムは、その中に人と家畜があふれ、 城壁のない町のようになる。わたしが ──主のことば── それを取り巻く火の城壁となる。 わたしがそのただ中で栄光となる。」ゼカリヤ2:4~5 復興した都には人と家畜があふれるほど増え、再び栄える様子が描かれています。 城壁は町を守る役割を果たします。ところがそれがない(不要)だというのです。なぜなら、主ご自身が火の城壁となって守ってくださるからです。 同じように、主に頼る者には神ご自身が砦となり守ってくださることが聖書には約束されています。 「主は私の光 私の救い。だれを私は恐れよう。  主は私のいのちの砦。だれを私は怖がろう。  ...それは 主が 苦しみの日に私を隠れ場に隠し  その幕屋のひそかな所に私をかくまい  岩の上に私を上げてくださるからだ。(詩篇27:1,5)」 家庭で信仰の戦いを感じており、弁護してくれる人が誰もいないと思うでしょうか。職場で批判の矢面に立っていると感じられるでしょうか。 しかし主は私の周りを囲み、守ってくださる方です。肉の力で防御壁を築く必要はありません。 祈り:神様、あなたが城壁となって守られる方であることに感謝します。肉の抵抗を手放し、あなたに頼ります。私のただ中で、あなたのご栄光を現してください。アーメン

ゼカリヤ1

「すると主は、私と話していた御使いに、恵みのことば、慰めのことばで答えられた。」ゼカリヤ1:13 ハガイと同時代の預言者、ゼカリヤの書が始まりました。 私はゼカリヤ書が大好きです。神様の慰めと希望がきらきらとちりばめられています。旧約聖書の終わりの方にある目立たない?書物ですが、夜空に光る星のような輝きを放っていると感じられます。 またゼカリヤ書には、70年間の捕囚を経て帰ってきた民への励ましだけでなく、メシアであるキリストの到来、そして再臨を待つ私たちへの希望が満ちています。 ゼカリヤと話していた御使いに主は「恵みのことば、慰めのことばで」答えられました。 さらに「わたしの町々には、再び良いものが満ちあふれ、 主は再びシオンを慰め、再びエルサレムを選ぶ(17節)」とも語ってくださいました。 70年を経て、すっかり荒廃している故郷エルサレム。しかし、そこは必ず回復されるという約束です。 同じ主は、どんなに荒廃した私たちの心も状況も、必ず回復させることのできるお方です。主を信じる者にとって「再起不能」はありません。そして、単に前と同じに戻るのではなく、主によって整えられきよめられ、違った様で回復させられるのです。 祈り:神様、あなたが恵みと慰めの主であられることを感謝します。主にあって、私の人生は最後の日まで意味のあるものです。 今日人生に絶望している人が、主の愛と回復を知ることができますように。私をあなたの手足として用いてください。アーメン