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ヨハネ18

ヨハネ18、1列王記8−9 「一方、イエスを裏切ろうとしていたユダもその場所を知っていた。イエスが弟子たちと、たびたびそこに集まっておられたからである。」ヨハネ18:2 イエス様は、ゲッセマネの園でたびたび(しばしば)弟子と会われた。そして祈りの場所として定めておられた。イエス様の祈りの間、弟子たちが眠りこけたのも、そこが慣れた場所であったからかもしれない。 裏切り者のユダでさえ、その場所を知っていた。それは、イエス様が従来たびたびそこで会ってくださったからである。 私たちがどんな者であろうと、イエス様は会ってくださる。今日は、ゲッセマネの園ではなくこの場所で。「たびたび」ではなくいつも。 この特権に、どうして背を向け続けることができるだろう。 今こそ、イエス様の方を向いて祈り始める時である。

ヨハネ17

ヨハネ17、Ⅰ列王記6−7 「永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。」ヨハネ17:3 「永遠のいのち」というと、つい死後のことと捉えがちである。しかしそれだけではなく、今も信じた時から与えられていることをどのくらい実感しているだろうか。 イエス・キリストを信じる前には死んだような状態だった霊が新しいいのちを頂き、生かされるようになった。それも、すでに私たちが永遠のいのちを生きている一つの表れである。 スタディバイブル(NIV Study Bible, Zondervan)には、 「永遠のいのちは現在も与えられている。それは、御子イエスを通して私たちが持つことのできる父との関係による」と解説されている。イエスがそれを可能にしてくださった。イエスの名において祈る特権が与えられている。それは永遠の次元につながる神様の恵みであり、死ぬまで待たなくても今日から私たちが持つことを許された、神との生きた関係、個人的な関係である。

ヨハネ16

ヨハネ16、Ⅰ列王記3−5 「これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を得るためです。世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」 ヨハネ16:33 聖霊様が与えられることをお話しになった後、イエス様は弟子たちを励ましてくださった。そしてこの励ましは私達への励ましでもある。聖書は生きたことばであり、今日の私の暮らし、人生にも生きて働く力を持っている。 イエス様が「勇気を出しなさい(強くありなさい)」と言われるのには根拠がある。なぜならイエス様ご自身が『すでに世に勝った」からである。 十字架の救いのわざは、世の何ものも奪うことができないし、無効にすることもできない。たとえ心が責めても、確信がなくなっても、一度信じたなら永遠に有効である。もう信仰をやめた、と思っているクリスチャンは、自分が勝手にそう思っているだけで、神の側では忘れられることがない。 もっとも、「世にあっては苦難があります」ともイエス様は言われた。様々な困難や悩み、気にかかる出来事はあっても、そこに囚われるか、あるいはそこから目を離してイエス様を見上げることができるか。病や災害があっても、それを全てご存知で、変わらず守ってくださる勝利者なるイエス様がおられる。それを信じ続けることが信仰の歩みである。

ヨハネ15

ヨハネ15、Ⅰ列王記1−2 「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら、何でも欲しいものを求めなさい。そうすれば、それはかなえられます。」ヨハネ15:7 スタディバイブルには、「キリストの教えを知り信じることなしには、私たちは正しく祈ることができない」と書かれている。経験からも本当にそうだと思う。一生懸命祈っているつもりが、みこころを正しく理解せず独りよがりな願いになっていたり、神様の良い計画に完全に信頼できていなかったりする。 もしみこころを常に願っているなら、祈ったことはすでに聞かれたという信頼と確信が出てくる。あくせくせず、マンネリもせず、神様のなさることにゆったりと期待して待ち、希望を失わず、見えないものを見えるようにして望むものとなるだろう。 牧会者としての祈りは、教会の兄姉が神様をより信頼できるようにととりなすことである。決して神様は祈りを拒否しておられるのではない。愛する者により良いものと人格・信仰の成長をもたらそうとして忍耐の期間を与えられていると受け取れるよう寄り添うことである。それぞれが社会人として生きている大人であることを尊重しつつ、今日も神の深い愛を体験できるようにと祈る者である。

ヨハネ14

ヨハネ14、Ⅱサムエル記23−24 「わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません。」 ヨハネ14:27 これから十字架にかかろうとする方が、逆に弟子たちに「平安を残します」と言ってくださる。それだけでも、イエスが神であるということの証拠になりそうである。もし死刑になることを知っていたら、誰がこのような発言をすることができるだろうか。 かえって、助けて欲しいとか、これからの逃げる計画などを相談したくなるのではなかろうか。 運命を受け入れるとしても、普通は「平安を残す」とまでは言えないように思う。 イエス様はそれをなさった。この世界に、神との和解という平安と喜びを残してくださった。 もっとも、それはこの夜すぐにではなく、一連の十字架への道行き、そして死と復活を経てもたらされた朗報であった。 祈ってもすぐに聞かれない時がある。それは忍耐が試され、練られる時である。そのような時に、イエス様のこのことばに信頼し、じっと待つことができたら、希望を失わずに待つことができたら、それは素晴らしい始まりとなる。人生の新たなチャプター(章)へと主が導いてくださる時となる。

詩篇50

詩篇49−51、Ⅱサムエル記21−22 「神の神 主は語り 地を呼び集められる。  日の昇るところから沈むところまで。」詩篇50:1 全地の王、支配者である主は、ただ黙って見ておられるだけではない。私たちを呼んでくださる方である。 どんな人にも救いを提供してくださる神、恵みのお方である。 海外の人とやりとりする中で、日本が「日の昇る国(東方にある国)」と形容されることがある。西方に対して東方の、という意味だが、福音がエルサレムから東の方に向かうと、日本は東のはて、文字通り極東である。世界地図の中心が日本ではなくエルサレムにしてみると、その様子がよくわかる。 そんな日本にも、神様の愛は変わりなく、限りなく注がれている。加害で救われた日本人が日本に定着できるように、また日本のクリスチャン人口が増し加わるように、そして神に呼び集められた民がともに祈り愛を持って隣人に仕えていけるようにと祈らされる。

詩篇49

詩篇49〜51、Ⅱサムエル記19〜20 「人は栄華のうちにあっても 悟ることがなければ   滅び失せる獣に等しい。」詩篇49:20 なんと厳しい、しかし真実をついた言葉であろうか。 富と華やかな生活を求め、それがかなったとしても、幸せでない人が多くいる。 学生時代に家庭教師のアルバイトをしていた。慎ましく整理され、そこに笑顔が満ちている家庭もあれば、物や車は豪勢であっても見栄と刹那主義的な言葉が飛び交う家庭もあった。 お金や権力だけに目が止まっていると、余計に無くなるのが不安になって執着するようになる。それは人間の性質なのかもしれない。 神と富の両方に仕えることはできないとイエス様は言われた。 どちらを選ぶか。もちろん永遠のいのちに続く方だ、と即答できるか。 滅び失せる獣のような生き方よりも、忍耐しつつも見えないものを見えるようにして忍ぶ生き方を選択したい。

ヨハネ13

ヨハネ13、Ⅱサムエル記16−18 「さて、過越の祭りの前のこと、イエスは、この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時が来たことを知っておられた。そして、世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された。」ヨハネ13:1 イエス様がこれから通られる十字架の道のりをご存知であったことは疑いがない。その上で、最後まで「世にいるご自分の者たち」を最後の最後まで見捨てず、邪険にせず、愛してくださった。 イエスの愛は、生死がかかっても変わらない。そのことを再度考える朝である。昨日は聖書学校で証を書く時間に同席できた。一人一人の、大切な人生。それはイエス様が誰よりも愛し見放さずともにおられた年数の証でもある。なんと素晴らしいことか!

ヨハネ12

ヨハネ12、Ⅱサムエル記14−15 「しかし、それにもかかわらず、議員たちの中にもイエスを信じた者が多くいた。ただ、会堂から追放されないように、パリサイ人たちを気にして、告白しなかった。 彼らは、神からの栄誉よりも、人からの栄誉を愛したのである。」ヨハネ12:42-43 福音をありがたい、よい話だととらえ、好意を示していても、いざそれでクリスチャンとして生きることを問われると迷ってしまう人がいる。日本人としての体面、家の仏壇、日曜日の礼拝、献金など、いろんな制限が課されるように感じてしまうからかもしれない。 しかし、すべてひっくるめてキリストに明け渡した時、私たちは真に自由になる。びくびくする必要もなくなるし、主にあって開き直ることができる。十字架の後のアリマタヤのヨセフの行動もそうであった。遺体の引き渡しを願い、自分の墓を提供してからは、もう信仰についてとやかく言われても気にならなかっただろう。 生活を神様主導で進めるとき、神様が必要も知恵も満たしてくださる。そして、今までのようなやみくもな心配などからも解放されるのである。

ヨハネ11

ヨハネ11、Ⅱサムエル記12−13 「イエスは彼女に言われた。『わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。』」ヨハネ11:25 ラザロが死んで、イエス様は涙を流し、悲しみに寄り添ってくださった。その後も、癒しを行われる前にマルタやマリヤと何度も会話をしてくださっている。 早く、とか、要件のみ、とかいうことはされなかった。 ご自身の働く期間、そして十字架の死が近いこともご存知だっただろうが、あわてることをなさらなかった。 まったき平安、神の権威がそこにはあった。 墓から出てきたラザロの姿は、復活の主が墓の中に残した布の様子を想像するのに役立つ。体にぐるぐる巻きの布、そして頭には別の布であった。イエス様の復活では、それらが墓の中にそのままおかれていた。もう、この世の常識も風習も制限も、いっさいを超越した神の力と希望がそこにはある。

ヨハネ10

ヨハネ10、Ⅱサムエル記9−11 「わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っており、わたしのものは、わたしを知っています。ちょうど、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じです。また、わたしは羊たちのために自分のいのちを捨てます。」ヨハネ10:14−15 ヨハネ10章は「羊飼いの章」と呼ばれている。イエス様がどれだけ私たちを愛し気にかけてくださるかが、羊を世話する良い牧者にたとえられている。しかも、いのちを捨てるほどに愛してくださる覚悟ができていると、この時にはっきりとおっしゃった。そして、実際にそうしてくださった。言ったことを守られる、真実な神様の姿がここにもある。 その神様を知って信じることができるのは、これまた神様の恵みであり働きによるのである。くよくよと考える時、近視の羊が右往左往している姿を思い浮かべよう。まるで自分の姿のようである。羊飼いであるイエス様は、すぐそばで、微笑みながら待っていてくださる。そして、目を上げるとき、その優しい杖で導いてくださるのである。

ヨハネ9

ヨハネ9、Ⅱサムエル6−8 「イエスは答えられた。『この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。」」ヨハネ9:3 清書学院で聖書解釈学の授業を受けたとき、ヨハネ9章のこの箇所が私の割り当ての場所だった。当時はなんの気なしにセオリー通りにレポートを書き、提出した。しかし、10年以上たって息子の障がいが分かった時、この箇所がまた自分のこととして迫ってきた。そして、当時先生が拙い解釈をとてもほめてくださったことを思い出した。 それは、まるで神様がこの箇所のみこころをしっかりと覚え、忘れないように、とあらかじめ励ましておいてくださったかのようだった。 今思うと、その先生もお子さんのことでよく祈っておられた。先生自身もここから慰めと励ましを受けておられたのでは、と思う。 そして、私たちの場合は祈っても障がいが癒やされることはなかったが、息子はとても愛すべき存在になり、私たちの生活を日々楽しいものにしてくれている。また、息子を通して教会を多くの子供たちが訪れてくれ、福音に触れるきっかけが与えられた。神の栄光、わざが現れるための様々な用いられ方があるのだと、学んでいるところである。

詩篇48

詩篇46−48、Ⅱサムエル記3−5 「この方こそまさしく神。  世々限りなく われらの神。  神は 死を越えて私たちを導かれる。」詩篇48:14 この詩篇では46篇を裏打ちするように、神ご自身が聖なる都に臨在され守られることが歌われている(参照:1〜3節等)。 そしてこの神は、生きている時だけの神ではない。 地上の人生を終えてからも、限りなく神であられ、私たちをその後も永遠のスケールで導いてくださる方である。 信仰生活で、神概念が生きている間のことに限られがちだが、死の後こそ永遠という物差しで神の臨在のそばに憩うことができると考えると、なんと素晴らしいことか。「死ぬときはひとりぼっち」と言われるが、実際には生まれる時も死ぬ時も、神が私たちから離れておられることはない。むしろ、生と死を支配している神様がより近くそこにおられ、神のご計画と許しの元で生じるということを覚えていたい。

詩篇46

詩篇46−48、Ⅱサムエル記1−2 「やめよ。知れ。  わたしこそ神。  わたしは国々の間であがめられ  地の上であがめられる。」詩篇46:10 これを書いている2021年4月、コロナウイルスの感染拡大が止まらない。もう1年以上この状況が続いていて、医療崩壊までささやかれる昨今である。現代医学は素晴らしいという常識とは裏腹に、かえって医学も、科学も、技術も、常識も、政策も、人の力は感染症の前にまだまだ力及ばないということを実感させられる。 懸命に対応しておられる方々のために日々祈りつつ、自分自身の不安や先行き不透明の中でこの46篇が深い慰めとなっている。 災害の時も、どんな危機の時も、神が只中に住まわれる町は安全である。そして、ひととき静まり、手をとめ、神に聴き平安をいただくことが一番大切な行動であることを教えられる。 万軍の主がともにおられること、どんな時にもついておられることを思い起こし、確認し、実感することが、この1日のスタートである。

ヨハネ8

ヨハネ8、Ⅰサムエル記30−31 「神から出た者は、神のことばに聞き従います。ですから、あなたがたが聞き従わないのは、あなたがたが神から出た者ではないからです。」ヨハネ8:47 神のことば、神ご自身を理解しようとするならば、神を信じなければならない。イエス様のことを誤解し、屁理屈をつけようとするユダヤ人たちに対して、イエス様は神に属する者と属さない者の違いを言われた。 神に属する者となりたい。そして、心を開き、神に変えていただいたら、誰でも神に属する者になれるということを伝えていきたい。

ヨハネ7

ヨハネ7、Ⅰサムエル記27−29 「そこで人々はイエスを捕らえようとしたが、だれもイエスに手をかける者はいなかった。イエスの時がまだ来ていなかったからである。」ヨハネ7:30 イエス様が天の父なる神のところから来られたこと、ご自身が神であることを、当時のパリサイ人や祭司長たちは信じなかった。それゆえ、イエスを殺す計画を立てた。 しかし、そうした計画にもかかわらず、神の時が来るまでは実行されることはなかった。人間の理解を超えているがーみこころにより捕らえられないようにすることももちろん可能だったのだがー神は歴史を支配しておられ、ご自身のご計画の時に状況を変え、状況を許し、状況を逆転させることのできるお方である。 人の目には悲しみ、試練のように見えることが起こってきても、神の許しと深い配慮に満ちたご計画なしには起こり得ないというのが私たちの信仰ではなかろうか。良い時だけの神様、ご利益だけの神様ではない。神の願いは、私たちがより神にすがるようになること、自分勝手な生き方をやめて神中心の人生をより歩むように変えられていくこと、そして私たちの生き方に影響されて他の人も神と出会い従うようになることである。神の御思いを、もっと深い次元で理解し信頼することができますように。

ヨハネ6

ヨハネ6、Ⅰサムエル記25−26 「イエスは答えられた。『神が遣わした者をあなたがたが信じること、それが神のわざです。』」ヨハネ6:29 洗礼式のたびに、神様がなさる働き、人の心が変えられる不思議への驚きを感じる。 人が救いを求め、イエス・キリストを主として心に受け入れることは、人の力ではない。決して人間的な説得では考えられないような変化が、思いがけない時にその人の内側に生じる。その経緯も、人によって全く違う。人の救いは、経験があるから予測できるとか、長年やっていれば分かってくる、というわけでもない。 イエス様は、神が遣わした者キリストを信じること、それこそが神のわざだ、と言われた。癒しや物質的な奇蹟にまさって、心の変化は人の熱心だけではできないことである。神のわざを期待しつつ、日々働くことができるとは、不思議でやりがいのある働きである。

ヨハネ5

ヨハネ5、Ⅰサムエル記22−24 「イエスは彼らに答えられた。『わたしの父は今に至るまで働いておられます。それでわたしも働いているのです。」」ヨハネ5:17 イエス様はベテスダの池に38年間も寝ていた人を癒やされた。彼が床を取り上げて歩けるようになったのが安息日であり、床を持って歩いているのをパリサイ人たちに目撃されたことで、パリサイ人の批判はイエスに向くこととなった。 しかし、イエス様は父なる神様が絶えず働いておられること、そしてご自身も神として律法を超越していることを言われたのである。 もちろん、批判者たちにそのことが理解できるわけがない。なぜなら、イエスを救い主と信じて初めて理解できること、目が開かれることがたくさんあるからである。 パリサイ人のように目に見えるところ、自分たちの言い伝えに頼るのではなく、もっとダイナミックに働かれる主を見上げ、期待していきたい。その方は日曜も祝日も関係なく、今日も私たちの全てをご存知で、この世界を創造し支配しておられるお方である。

ヨハネ4

ヨハネ4、Ⅰサムエル記19−21 「彼らはその女に言った。『もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方が本当に世の救い主だと分かったのです。』」ヨハネ4:42 サマリアの女性がイエス様と出会い、この方が救い主だと分かった時、彼女は黙っていなかった。「自分の水がめを置いたまま町へ行き」(28節)、人々にそのことを伝えたのだった。 伝える人がいて初めて、福音に直接ふれることができる。そして、確信が強くなればなるほど、もはや初めに伝えてくれた「人」に頼らず、神ご自身との関係に頼ることができるようになる。 自分自身の個人的な救い主である。 伝える側にとっては、相手のそうした変化は時に寂しいものかもしれない。しかし、人に頼るのではなく、神に頼るという正しい方向に変化することを心から喜ぶ者でありたい。バプテスマのヨハネが、自分は道備えであり、救い主が来られたら自分にはくつひもを解く値打ちもないと言ったような態度で。

詩篇45

詩篇43−45、Ⅰサムエル記17−18 「神よ あなたの王座は世々限りなく  あなたの王国の杖は公平の杖。」詩篇45:6 当時、イスラエルの王は神が油注がれ任命されたことから、神の代弁者とされていた。そしてダビデに代表されるように、神様と特別の親しい関係を築いていた王もいた。キリストがダビデの子孫として来られたことで、神が油注がれ任命された王としての預言が成就した。 杖の持ち手側の先端には、様々な装飾や目印が施された。 銅と銀で作られた、紀元前9世紀の杖の持ち手がダン部族の領地から出土している。 神は「公平」という目印のある杖を持っておられる。誰よりも確かで、誰よりも強いお方である神が、全世界も私の個人的な生活も、その公平と義をもって見ておられるのである。

詩篇43

詩篇43−45、Ⅰサムエル記15−16 「こうして 私は神の祭壇に  私の最も喜びとする神のみもとに行き  竪琴に合わせて あなたをほめたたえます。」詩篇43:4 非常な苦しみ、助けが必要な状態でこの詩篇も書かれた。 神の臨在によって、そこから助けてください、回復させてくださいと祈っている、祈りの詩篇の一つである。 良いクリスチャンリーダーの態度とは、トラブルや苦しい状況の時に諦めないこと、愚痴を言わないことである、という(ジョン・エドモンド・ハガイ)。この詩人はまさに愚痴の代わりに、思いを祈りに変えた人である。そして、神がさばいてくださる(1節)、神が導いてくださる(3節)ことを期待し、「私はなおも神をほめたたえる」(5節)と信仰告白と励ましを自分に言い聞かせて祈りを終えている。 祈れない、祈りが下手だという人は、この詩篇を朗読し、祈りにしてはどうだろうか。私も今朝、この詩篇をゆっくり読んで自分の祈りとしたい。

ヨハネ3

ヨハネ3、Ⅰサムエル記13−14 「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」ヨハネ3:16 自分の子どもを愛するのは自然な感情である。災害や事故が起こった時、家族が駆けつけ、自分の身内は助かっていて欲しいと願うのは当然であるし、きっと私自身もそう思うだろう。 しかし、神様はひとり子を犠牲にしてまで、世を、すなわち私たちを愛してくださったのである。なぜそんなことができたのだろうか。それは神様が愛だからである。永遠のいのちを与えたい、滅びから救いたいという、神様の大きく、深く、高い愛がそのようなご計画を良しとされたのである。 この神様の愛を、自分だけでなく周囲の人にも気づいて欲しい。それが伝道の動機である。

ヨハネ2

ヨハネ2、Ⅰサムエル記10−12 「それで、イエスが死人の中からよみがえられたとき、弟子たちは、イエスがこのように言われたことを思い起こして、聖書とイエスが言われたことばを信じた。」ヨハネ2:22 イエス様が生きているときに語られたことばには、当時弟子や周りの人たちには本当の意味がわからなかったものがあった。 十字架と復活についてそうだし、一つ一つのたとえや教えについても、字面でとどまっていた。 それはある意味有限と無知を知る、悲しみと人間の限界の確認かもしれない。しかし、復活の事実を悟ってからは、一つ一つの記憶が新しい光を帯びてきただろう。イエス様がおっしゃったことばの深い意味を発見することは、人生の意味、生きていくことに新たな希望を与えてくれる。 それほどまでに私たちによくしてくださる主に、私たちも生涯ついていきたい。感謝を捧げたい。その熱い思いがクリスチャン人生の醍醐味だと思う。

ヨハネ1

ヨハネ1、Ⅰサムエル記7−9 「その翌日、ヨハネは自分の方にイエスが来られるのを見て言った。『見よ、世の罪を取り除く神の子羊。』」ヨハネ1:29 聖書中で「神の子羊」という表現が使われているのは、この29節と36節だけである。スタディバイブルによると、ヨハネはイザヤ53章やエレミヤ11章などの過越の子羊を想起しながら使ったのではないかと指摘されている。 イエス様の地上生涯を一言で言うなら、罪のなだめの子羊として捧げられた一生であった。同時に、十字架によって全ての罪を解決された勝利者でもあった。 勝利者であり解決者であるイエス様が共にいるなら、臨機応変な対応が必要な時も、困難に直面した時も、助けがあり信頼できる岩があると安心できるのである。私自身も、キリストと出会わなかったら人生は大変すぎて、到底歩いていけなかっただろうと思う。

ルカ24

ルカ24、1サムエル4−6 「それからイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、」ルカ24:45 復活されたイエス様は、女性たちに(1−10節)、エマオの途上で(13ー35節)、弟子たちに(36節ー49節)、現れてくださった。 どの場面でも、イエス様が心を開いてくださるまでは彼らは恐れたり、信じなかったり、たわごとのように思ったり(11節)している。 すでに聖書の記事を読み、信じた私たちには本当だと思うことでも、聖書を知らず、天地創造の神を信じない人には馬鹿馬鹿しく、非科学的に思えることがたくさんある。私たちも、もとはそのような存在であった。 聖霊が心を開いてくださり、恵みにより信じることができるように神が備えてくださった。私たちはただ救いを受け取ったのである。 第一コリント1:18「十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われるわたしたちには神の力です。」アーメン。

ルカ23

ルカ23、1サムエル記1−3 「おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことを何もしていない。」ルカ23:41 イエス様と共に十字架にかけられた犯罪人の一人は、最後の時になって自分の罪深さとイエス様の正しさを、はっきりと自覚認識していた。もはや死刑となり、地上の人生は終わろうとしている。その時は、人の目にはもはや遅すぎるように思われる。しかし、神の目には遅すぎることはない。 なぜなら、永遠のいのちが約束されているからである。イエス様もこの後に、「あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます」と言われた。 人は誰でも、イエスを主と告白するのに遅すぎることはない。80代、90代、死の間際であっても、救いの恵みは変わらない。 もっとも、それまでの過程で通る労苦や葛藤を思うと、救いの決心を若い時にすることの幸いもまた真実である。そして、神様は年齢が若くても、未熟でも、サムエルを愛しサムエルに語りかけてくださったように、私たちを愛し、私たちを導いてくださるのである。神様が地位や年齢、経験で愛し方を変えられることはない。 試練や問題がやってきた時に、祈りと神の平安、知恵を求めることができるとは、なんと幸いなことだろうか。

詩篇42

詩篇40−42、ルツ記1−4 「わがたましいよ  なぜ おまえはうなだれているのか。  なぜ 私のうちで思い乱れているのか。  神を待ち望め。  私はなおも神を褒め称える。  私の救い 私の神を。」詩篇42:5、11 短い詩篇の中で、このフレーズが2度も繰り返されている。 この詩篇の作られた状況は、心地よいものではなかった。敵から抑圧されており、そこからの解放を願う祈りが歌われている。 試練の中にあると、頭の中も大変さでいっぱいにな利がちである。そのことばかりにとらわれて、お願いばかり祈っていることがある。 しかし、信仰を招くのは信仰である。それが、この詩篇の作者の確信であった。自分の心に向かって神への信仰を語り励ますことで、さらに信仰が増し加わり、励ましと確信が与えられる。 問題の前に、自分の心が神に向かうように、神を賛美し、神の素晴らしさを確認する祈りを捧げたい。

詩篇40

詩篇40−42、士師記19−21 「わが神 主よ  なんと多いことでしょう。  あなたがなさった奇しいみわざと   私たちへの計らいは。  あなたに並ぶ者はありません。  語ろうとしても 告げようとしても   それはあまりに多くて数えきれません。」詩篇40:5 英語版聖書(NIV)では、Manyと始まり、「神のなさったみわざ、すなわち神が私たちに計画なさったことごとは」と続いて訳されている。 神がなさったことは、すでに計画されていたこと。そして、それが一つももれなく実現したこと。その不思議と素晴らしさ、神のご計画の確かさをダビデはほめたたえている。 神を愛する者のために立てておられるご計画(ローマ8:28)は私たちの信仰のよりどころである。そして、その最たるものはイエス様が人となって来られ、十字架で私の罪の身代わりとなり死んでくださり、三日目によみがえってくださったことである。 毎年受難週のたびに、イースターのたびに、神のご計画が人には思い付かないほどのものであり、緻密で確かで予想をはるかに越えるものだと驚くのである。

ルカ22

ルカ22、士師記16−18 「彼らが行ってみると、イエスが言われたとおりであった。それで、彼らは過越の用意をした。」ルカ22:13 これからどうなるのだろう、とか、どうして良いかわからない時がある。自分で先を見ようとしても見えないことが多いので、不安になったり余計な動きをしたりすることもある。 しかし、イエス様はそうではない。過越の食事をする場所も、弟子たちが心配する前からすでに備えてくださっていた。ご自身にとっての最後の食事であるのに、誰よりも配慮のある準備をしてくださった。 それならば、一番良い方法をイエス様がご存知ないわけがない。すでに先を見通し全てを知っておられる主にどこまで祈り信頼するかによって、私たちの歩みの確かさが定められるのである。 昨日のセミナーで、「献金は無くなってしまうのでなく、そこから豊かな満たしを得る」ということを改めて学んだ。それを70年続けてこられた先生がおっしゃるのだから、説得力があった。神様を愛し、感謝しつつ祈り捧げ信頼していきたい。

ルカ21

ルカ21、士師記13−15 「あなたがたの心が、放蕩や深酒や生活の思い煩いで押しつぶされていて、その日が罠のように、突然あなたがたに臨むことにならないように、よく気をつけなさい。」ルカ21:34 終わりの日が突然来て驚かないように、気をつけていなさいとイエス様は教えられた。しかも、放蕩や深酒だけではなく、心が生活の思い煩いで囚われていてはいけないということも教えられた。 生活の思い煩いをすることが、クリスチャンでもよくあるのではなかろうか。経済に限らず、子供の成長、親の介護、仕事、家事、自分の生きがい等々、自分の身の回りに心を奪われていることが多いかもしれない。 生活スタイルが丸ごと主を見上げるものか。2レプタを献金した貧しいやもめの姿をイエス様は喜ばれた。それは、生きる手立ての全て、すなわち生活の全てを神に捧げたからであった。