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ルカ20

ルカ20、士師記11−12 「彼らは、民の前でイエスのことばじりをとらえることができず、答えに驚嘆して黙ってしまった。」ルカ20:26 律法学者、祭司長、反対派の人たちが次から次へとイエス様に難題を出して罠に陥れようとした。しかし、イエス様の知恵、つまり神の知恵は人の悪巧みを遥かに凌ぐものだった。 中には「先生、立派なお答えです」と反対派の中にも驚いて賛辞を述べる者もいた。 周りからの批判や中傷を受けるとき、私たちの理性や感情で反応すると失敗する。余計に事態がこじれたり、人間関係が壊れたりすることさえ多い。 毎日デボーションをして祈り、神に頼り、とっさの時にも祈って落ち着き対処できるように、神がこの1日も私やあなたの心身と霊性を守ってくださるように。

ルカ19

ルカ19、士師記9−10 「それで、先の方に走って行き、イエスを見ようとして、いちじく桑の木に登った。イエスがそこを通り過ぎようとしておられたからであった。」ルカ19:4 ザアカイは、背が低かったので、イエスを見ようとしても人混みで見えなかった。そのまま諦めて帰ってしまうこともできた。 しかし、彼は諦めなかった。それがどのような心境から来ているのか、聖書には詳しく書かれていない。しかし、どうしても見たかったので、群衆がまだまばらな先の方に行って木に登り、イエス様を待ち構えた。 そのとき、イエス様が彼の名を呼んでくださり、なんとザアカイの家に行こうと告げられたのであった。 神がわからない、見えないと諦めてしまうのは簡単である。しかし、なんとしても神にお会いしたい、神に近づきたいと願うなら、神様は決してその願いを無視なさらない。 不完全、不十分であったとしても、私たちの思いを喜び、名で呼んでくださり、私たちのところに来てくださる神様なのである。 誰一人、神の前には忘れ去られていない。

ルカ18

ルカ18、士師記7−8 「イエスは言われた。『人にはできないことが、神にはできるのです。』」ルカ18:27 受難週に、イエス様の十字架への道を思い巡らす。その道は、人には到底できないことである。十字架につくという悲惨な残酷なことを、自分に罪がないまま受け入れるのは人には不可能だ。 人を救うのも、神の力が働かなければ難しい。ときには、私たちが思いもつかない方法で神様が状況を変えられ、人の心を変えられることもある。 頑固だった私の父は思いがけない病気を通して心が開かれ、神を礼拝する者になっていった。病床で天国の話をし、共に毎日祈る日々が与えられたことは、私にとって大きな慰めである。まさかと思う方法ででも神様は人の心を開き、愛を示し、救いに導いてくださる。まさに「人にはできないことが、神にはできる」のである。

詩篇39

詩篇37−39、士師記4−6 「私は言った。   私は自分の道に気をつけよう。  私が舌で罪を犯さないように。  口に口輪をはめておこう。  悪しき者が私の前にいる間は。」詩篇39:1 多くの人は(自分を含め)家庭では自分のありのままの姿が出る。家庭で平和に、また徳を高める言葉を語ることができる人は、人格そのものも平和で主にあってきよいと言えるのではないか。 ダビデは非常な困難と罪の呵責の中でこの詩篇を作った。良いことにさえ沈黙すると、心の痛みが激しくなる(2節)。しかし、悪い言葉を控え、口輪をはめておくことは罪を犯さないようにするための知恵でもある(ヤコブ3章)。 聖霊により頼み、神の力によって舌を制御していただきたいと願う。

詩篇37

詩篇37−39、士師1−3 「主によって 人の歩みは確かにされる。  主はその人の道を喜ばれる。  その人は転んでも 倒れ伏すことはない。  主が その人の腕を支えておられるからだ。」詩篇37:23−24 クリスチャンになれば問題は全くないというのではない。問題はやってくるが、それをキリストとともに通り抜ける力が与えられるのである。 転んでも、倒れて起き上がれないことはないのである。 その理由は、主がその人の腕を支えておられるからである(24節)。 つまずき、転んでも、イエス様はいつも手を差し伸べ、いや、すでに腕でしっかりと抱いてくださっているのである。 困難の中にいるときには感じられなくても、それが事実であると聖書は語る。健康、仕事、家庭、ミニストリーで行き詰まったと思っても、脱出の道が主にあってすでに備えられている(1コリント10:13)。

ルカ17

ルカ17、ヨシュア22−24 「『見よ、ここだ』とか、『あそこだ』とか言えるようなものではありません。見なさい。神の国はあなたがたのただ中にあるのです。」ルカ17:21 イエス様は、信じる者のところには、すでに神の国が来ているのだ、と言われた。神の国の一員として生きているなら、人格も、霊性も、神の国に相応しく日々ありたいと願う。 長年主の働きに歩んでこられた素晴らしい伝道者、教師の先生にご奉仕をお願いする機会があった。ご高齢ながらもカレブのように精力的、デジタルも使いこなしておられた。最も印象的だったのは、先生が神様のおっしゃる通りに歩みます、という決断を一瞬一瞬にしておられ、否定的な言葉を使わない、という生活を長年されていることだった。 ヨシュア記の最後で、ヨシュアは「私と私の家は主に仕える」と公に宣言した(ヨシュア24:15)。 私たちもヨシュアのように宣言できるか。ライフスタイル、その人のそのものが、神の国を表すものであるか。欠けの多い者であることを認めつつ、一歩一歩近づいていきたいと願わされる。

ルカ16

ルカ16、ヨシュア19−21 「どんなしもべも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは、神と富とに仕えることはできません。」ルカ16:13 「利益相反行為の禁止」という言葉がある。たとえば、裁判で弁護する者が原告と被告両方の弁護をすることは、双方の利益が衝突するので認められていない。両立しない行為なのである。 同じように、神に仕えることと富に仕えることとは両立しない、とイエス様は語られた。それは、神に仕えようとするならば、金儲け主義ではできないということである。 イスラエルの民がカナンの地に入り、分割するときも、カレブが最初、その後に12部族、そしてリーダーヨシュア自身は最後だったが希望する土地が与えられた。さらに、レビ人は神に仕える人々だが、彼らには所有地としての相続地がなかった。もっとも、一番良い町々が彼らの居住と生活の基盤として割り当てられていた。主に仕える者には主がよくしてくださる、という約束の表れである(ヨシュア20−21章)。 神は表面的な善行ではなく、心の動機を探られる。自分の得にならなくても、人を助けたいと思うか。主の元に来て欲しいと思うか。金銭は神から託されたツールであり、神の国を成長させるために使いたいか。 動機が神に喜ばれるなら、神は限られた家計の中での賢い使い方も教えてくださる。少なくても、乏しいことはないのである。

ルカ15

ルカ15、ヨシュア16−18 「あなたがたに言います。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人のためよりも、大きな喜びが天にあるのです。」ルカ15:7 1匹の羊が行方不明になったら探し出し、見つかったことを大喜びしてくださる羊の飼い主と同じように、イエス様は失われた魂が救われるのを喜んでくださる。その喜びは天にあるとも言われた。 私たちも、自分の家族や友人が救われるのはとても嬉しい。そして、教会はそうした救いに預かった、とても大切で豊かな人々の集まりである。 しかし、ともすれば私たちの古い性質が出てしまい、裁きや比較が起こることもありうる。そんな時に「一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから」(6節)という喜びを覚えているか、どんなに主が一生懸命に探し見つけてくださった魂かということを思い起こしたい。丁寧に、愛を持って祈り牧会する者とならせて頂きたいと願う者でもある。

ルカ14

ルカ14、ヨシュア13−15 「塩は良いものです。しかし、もし塩が塩気をなくしたら、何によってそれに味をつけるのでしょうか。」ルカ14:34 福音書は繰り返し信じる者を塩にたとえた記事を記録している(マタイ5:13、マルコ9:50)。塩気のきいた言葉で神を証することが進められていると読むのはたやすい。しかし、同時に塩気をなくしたら、塩は外に投げ捨てられるというところを読み飛ばしがちである。 出エジプトからカナンの地に入るまでのカレブはまさに塩気のきいた、そして忠実なしもべだった。カナン偵察の時の信仰、そして85歳でカナンに割り当て地を願い出る時もらう時も壮健で自ら山地の敵と戦うという気力があった(ヨシュア記14:12)。彼を支え続けたものは主への信仰、そして信頼であった。主がともにおられるなら可能であるということを、生涯を通してあかしした。 私たちは行いによらず、恵みによって救われている。たとえ一度も証をしなくても、神様の栄光を表さなくても、救いが取り去られることはない。 しかし、救いの恵みをしみじみ感じ受け取ったら、じっとはしていられなくなる。形ばかりのクリスチャン生活では我慢できなくなる。キリストのために何かしたい、どうにかして分かち合いたいと思うのである。キリストの弟子になりたいと願うのである。 外に投げ捨てられる塩気のない物質は役立たないものである。そうではなく、塩気があり、いつも食卓や調理で必要となる塩のような キリストの弟子、キリストの証人としての歩みをしていきたい。

ルカ13

ルカ13、ヨシュア10−12 「再びイエスは言われた。『神の国を何にたとえたらよいでしょうか。それはパン種に似ています。女の人がそれを取って三サトンの粉に混ぜると、全体がふくらみました。』」ルカ13:20−21 家庭パン焼き器(ホームベーカリー)でがパンを焼いていたことがあった。小麦粉、砂糖、塩、バターと投入し、最後にイーストを小さじで入れる。すると、数時間後にはふっくら食パンが焼けた。 イーストの量は、小麦に比べるとほんの少しであった。しかし、全体に作用する、なくてはならないものだった。 イエス様は、神の国をこうしたパン種(イースト)にたとえられた。たとえ小さくても、全体を膨らませうる可能性があるというのである。日本でクリスチャンが少ないからと嘆かなくても、イーストのような存在になることを願い祈れば良いのだというのはとてもほっとする。

詩篇36

詩篇36、ヨシュア7−9 「主よ あなたの恵みは天にあり  あなたの真実は雲にまで及びます。」詩篇36:5 主の恵みが大いなるところにあり、限りなく神の真実は続くことを確認する。 私たちが日々小さいことに振り回され、刻一刻と感情が変わってしまうのに比べて、なんと変わらない主のご性質であろうか。 私たちのすべてを知り、それでも恵みを注ぎ続けてくださる神は、内戦地であろうと悪のはびこる地にも雨や太陽を変わらず与えておられる。一人でも多くの方が、この神の愛を知ることができるようにと願う。同時に、この愛の神について知らせるために、書くこと、発信することをますます祈りながら続けていきたい。

詩篇34

詩篇34〜36、ヨシュア4〜6 「私が主を求めると 主は答え  すべての恐怖から 私を救い出してくださった。」詩篇34:4 逃げていったアビメレクの領地で、正気でないかのようにふるまい難を逃れようとしたものの、やはり追い出され、再び逃亡生活に入らなければならなかったダビデの状況は、避難に次ぐ避難をしなければならない被災地の状況とも共通点がある。 明日が見えず、命も狙われる中でダビデが歌ったのは 「私とともに主をほめよ。一つになって 御名をあがめよう」という賛美(3節)、それに「私が主を求めると 主は答え すべての恐怖から 私を救い出してくださった」という恐れからの勝利の宣言であった(4節)。 賛美と信仰の宣言には力がある。それは、神への信頼であり自分の肉への宣言でもある。肉はマイナスのことばかり考え、不信仰になりがちである。しかし、賛美によって心を奮い立たせ、信仰の宣言によって周りや自分自身にも言い聞かせることがさらに主にある勇気を奮い立たせることがある。 私自身も、BGMに今日も賛美を流しながら過ごしたい。

ルカ12

ルカ12、ヨシュア1−3 「言うべきことは、そのときに聖霊が教えてくださるからです。」ルカ12:12 権力者や宗教たちのところに連れて行かれ、弁明しないといけない時、心配は無用だとイエス様は言われた。なぜなら、言うべきことを聖霊が教えてくださるからである。 どこに引いて行かれても、聖霊が共にいてくださる、そして聖霊は助け主である、というのが私たちの信仰である。 しかし、聖霊の働きが感じられないという時にはどうすれば良いか。それもまた祈って求めてみるのである。 昨夜、夢を見た。とても小さな洋品店の高齢のご夫妻に、だんだんと親しくなっていき最後には祈れた夢だった。自分が何をしたわけではなく、ただ靴下を買いたいと思って行ったその店にあかしの機会が与えられていた、というものであった。しかしこれは夢にとどまらず、クリスチャンに与えられている特権である。実際の日々も、遣わされている思いを持って歩みたい。

ルカ11

ルカ11、申命記32−34 「しかし、わたしが神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。」ルカ11:20 悪霊を追い出しておられるイエス様に向かって、悪霊のかしらベルゼブルによって追い出しているのだ、とか、もっと天からのしるしを見せるようにとか、リクエストする人がいた。 かつて、出エジプトに際してモーセが呪法師たちと対決した時、ブヨを出そうとして呪法師たちは出せなかった。そしてモーセを通して行われた神の働きを「これは神の指です」とファラオに報告した(出エジプト8:19)。 同じように、イエス様は神の指によって悪霊を追い出し、解放を与えておられた。さらに、「神の国」がすでに到来していることを告げられた。 イエス様とともに歩むなら、神の国はこの地上でもすでに到来している。たとえ心が騒いでも、疲れ果てても、どうしようもなく思えても、そのちっぽけな私のところにも、イエス様によってすでに神の国が来ているのである。この世界に絶望せず、人生の最後の日まで神の国の広がりを見るように生き、動いていきたい。

ルカ10

ルカ10、申命記30−31 「ところが、旅をしていた一人のサマリア人は、その人のところに来ると、かわいそうに思った。」ルカ10:33 隣人とは誰かと問うた律法の専門家に対して、イエス様はたとえを語られた。そして、サマリア人が良い隣人であり、「あなたも行って、同じようにしなさい」と言われた(37節)。 サマリア人のようにけが人を介抱し、宿に連れて行き宿泊代を払うのは、煩わしい予定外の用事であるとも言える。しかし、そこに神の逆転の発想がある。予定外の歩みの中に神の栄光が現れる大きなチャンスがあり、ルーティンよりもかえって神の国が進む結果をうむと言える。 牧会していても、普段の家事や子育てをしていても、予定外のハプニングや用事が入り、思うように仕事が進まない時がある。しかし、そこに神の何か特別な介入と予定があることを覚えて、イライラしないで今日も過ごしたい。神は人間の時間の計算や感覚を超えた方である。

ルカ9

ルカ9、申命記28−29 「イエスは彼らに言われた。『あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。』ペテロが答えた。『神のキリストです。』」ルカ9:20 弟子の中のスポークスマンとして、ペテロは答えたのだと解釈されている。もっとも、このように答えるには、自分自身もそのように思っていたゆえであろう。ペテロが答えた時に、別の箇所ではこのことを明らかにしたのは天の父だとイエス様が言われたとも言及されている。 私たちは、聖霊の働きなしにはイエスが主だと告白することはできない。洗礼を受ける人、決心する人にイエスが主だと確信させるのは神のわざである。そのように、私たちのすぐそばで今日も神が実際に働いておられること、この神が愛と平和の方であることを伝えるのが私たちの今日の仕事である。 「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を追って、わたしについて来なさい」(23節)というのは、一度の決意ではなく毎日、毎日新たに確認しリニューアルされていく決意である。

ルカ8

ルカ8、申命記26−27 「また、悪霊や病気を治してもらった女たち、すなわち、七つの悪霊を追い出してもらったマグダラの女と呼ばれるマリア、」ルカ8:2 マグダラという町出身のマリアという女性は、かつては悪霊に支配されていた。しかしイエスとの出会いが全てを変えた。イエスの宣教旅行に同伴し、十字架にかかるのも墓に納められるのも見届け、さらには復活のイエスに一番に出会い、証人第一号となった。 過去の苦しみやライフスタイルからは転換し、前を向いて歩み続けた彼女の信仰が、そうして2000年も経っても語られているのである。キリストとの出会いは、人生を変える。そして、神には不可能はない。 過去の失敗やつまずきにいつまでも左右されるのでなく、イエス様だけを真っ直ぐに見て従ったこの女性の生き方にならいたい。 後ろを向き続けなくても、過度の内省を続けなくても、新しいライフスタイルが与えられていることを喜び味わおう。

詩篇33

詩篇31−33、申命記23−25 「まことに 私たちの心は主を喜び 私たちは聖なる御名に拠り頼む。」詩篇33:21 軍隊、馬、武器…と頼れそうなものが多くあっても、私たちが本当に頼るべきは主ご自身である。ダビデはそのことを歌っている。確認するかのようである。同時に、それが彼の確信ともなっている。 お金、人脈、地位…今日でも頼れそうなものは多くある。しかし、第一に頼るべきは昔も今も変わらず主ご自身である。日々、ダビデのようにそのことを宣言する者であり続けたい。お金に左右されず、自分の建て上げたものに固執しなくても、主が私たちの頼みであり頼りである。

詩篇32

詩篇31−33、申命記20−22 「それゆえ 敬虔な人はみな祈ります。  あなたに向かって あなたがおられるうちに。  大水は濁流となっても 彼のところに届きません。」詩篇32:6 スタディバイブルには「神への告白として歌われているが、同時に共にいる人々に聞かせるためでもあった」とのことである。 言葉の力、口に出すことの影響力は大きい。 リーダーが祈りみことばに信頼して励ますと、チーム全体が希望を持って前進する。反対に、否定的なことばかり聞いているチームはライバル心や猜疑心が刺激され、チームワークが保てない。 クリスチャンとして、リーダーとして、Integrity(インテグリティ、誠実さ、きよさ)が日々問われている。目に見えるものに頼らず、神にいつも望みを置けるように。お金も、地位も、リーダーシップも、神様から委ねられているものである。

ルカ7

ルカ7、申命記17−19 「と申しますのは、私も権威の下に置かれている者だからです。私自身の下にも兵士たちがいて、その一人に『行け』と言えば行きますし、別の者に『来い』と言えば来ます。また、しもべに『これをしろ』と言えば、そのようにします。」ルカ7:8 イエス様は、この百人隊長の信仰に驚かれた。それは、彼が「権威」についてよく理解しており、イエス様が最高の権威を持たれているということを信じていたからだった。 癒しや、目に見える働きで用いられている人たちを見ると羨ましくなったり、自分の地味な働きを卑下したりする。しかし、権威はその人からではなく主イエスご自身にあるということをいつも理解していなければ、人を見てしまう。神が権威を持ち、神があわれみ深く恵み深い方だからこそ、その人に神が賜物を授け、その人を 通して神のしるしが行われているに過ぎない。 イスラエル人たちは、自分達の王を立てるときには神の任命する人物を立てるようにと命じられた(申命記17:15)。 それは、この人物が神の御心を行うことがイスラエル全体の幸せだからであった。 自分が立てられている場所、委ねられている人々、教会を神に立てられたと受け取り、よりへりくだって歩みたい。権威の源泉は神であり、私たちが偉いからとか、他と違うからとかではない。

ルカ6

ルカ6、申命記14−16 「わたしのもとに来て、わたしのことばを聞き、それを行う人がみな、どんな人に似ているか、あなたがたに示しましょう。その人は、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて、家を建てた人に似ています。洪水になり、川の水がその家に押し寄せても、しっかり建てられていたので、びくともしませんでした。」ルカ6:47−48 キリストに土台を置くのは、目先の楽なことのためではない。もっと長い期間の視点で考えるべきことを、このイエス様のたとえは語っている。 砂の上に家を建てる方が、岩を掘るよりもずっと楽である。それにもかかわらず、岩の上に家を建てることが、長い目で見た時に結局は安心、安全なのである。 一時金、良い生活条件、支給品、家、車…。多くの人はこれらを求め、人と比較し、優越感に浸ったり劣等感に陥ったりする。ともすれば、主に仕えている者でも周りより低い条件で仕えているといって惨めな気持ちになったりする。 しかし、私たちには全世界の所有者、天の父なる神様がおられる。小さなことで比較するより、むしろ魂が躓かないように、また救いと宣教が優先順位のトップになるようにと日々自分自身を戒めていきたい。車、家、暮らしむき…は、永遠のいのちに比べたらちっぽけなものである!

ルカ5

ルカ5、申命記11−13 ルカ5、申命記11−13 「新しいぶどう酒は、新しい皮袋に入れなければなりません。」ルカ5:38 もともと、律法は「あなたの神、主を愛し、主への務めを果たし、主の掟と定めと命令をいつも守りなさい」(申命記11:1)と言われたモーセの律法の教えに従おうとしたものである。つまり、神を愛することが動機であるという決まりだったのである。 しかし、パリサイ人や律法学者たちはその趣旨を単なる儀式、規則にしてしまった。イエス様はそのことを戒めるとともに、新しいご自身の福音の訪れをはっきりと語ってくださった。 ともすれば、福音と教会の慣習、個人の好みがごちゃ混ぜになってしまうことがある。しかし、キリストの愛と恵みに立って、何が不要で何が大切なのか判断できるように祈っていきたい。それは働きの場だけではなく、あるミニストリーのバトンを次に渡す時にも同じである。

ルカ4

ルカ4、申命記8−10 「イエスは悪魔に応えられた。『「人はパンだけで生きるのではない」と書いてある。』」ルカ4:4 40日40夜荒野におられたイエス様は、祈りながら様々な聖書の記事を思い巡らされただろう。かつてモーセが神の山に登り、40日40夜過ごし、十戒を得たことももちろん知っておられただろう。 イエス様が悪魔の試みに遭われた時、対処はみことばによってであった。「人はパンだけで生きるのではない」とは、申命記8:3からの引用だった。 他にも見事な答え、しかもみことばを歪曲して用いるサタンに対してイエス様は完全に勝利されたのであった。 荒野にいる時、嘆き悲しみ苦行として過ごすのではなく、神のことばを自分の血肉とする機会でありたい。批判され、傷つき、泣きたくなる時に、神様の愛と憐れみと恵みの大きさ、そして自分自身の個人的な神様であり約束を決して忘れないお方であることを体験するのである。 「今や、あなたの神、主はあなたを空の星のように多くされた」(申命記10:22) アブラハムに創世記で約束された神は、確かにその約束を実現してくださった。この神様は今日も変わらない。信頼して一日を歩んでいきたい。

ルカ3

ルカ3、申命記5−7 「イエスは、働きを始められたとき、およそ三十歳で、ヨセフの子と考えられていた。ヨセフはエリの子で、さかのぼると、…エノシュ、セツ、アダム、そして神に至る。」ルカ3:23〜38 マタイの福音書では最初に置かれていた系図が、ルカの場合はここに順次遡った順序で記されている。 聖霊によって生まれたイエス様にとっては、ヨセフは育ての親であった。それでも、人々がヨセフの子だと考えられていたので、ルカはヨセフの出自をこうして記している。それも、アダムまで到達し、そのアダムこそは神が創られた最初の人間であるということを宣言しているようである。 年数が経っても、神の働きが最初から今日に至るまで綿々と続いていることが証明されている。2000年前までだけではない。最初の人アダムから、私たちが生きている今日までも、同じ神の支配が変わらず及んでいるのである。

詩篇30

詩篇28−30、申命記3−4 「まことに御怒りは束の間  いのちは恩寵のうちにある。  夕暮れには涙が宿っても  朝明けには喜びの叫びがある。」詩篇30:5 私たちの感情は常にアップダウンがある。そして、見える状況に左右されてしまう。 しかし、ダビデの確信は、神の平安、神の守りであった。 神の御顔を見ている限り、自分は守られているという信仰が、 彼の原動力となったのである。 見えるものか、神の御顔か、どちらを私たちのより頼むものとするか。選んだ方に従って、私たちの1日の歩みが変わってくる。

詩篇28

詩篇28−30、申命記1−2 「どうか御民を救ってください。  あなたのゆずりの民を祝福してください。  どうか彼らの羊飼いとなって  いつまでも彼らを携え導いてください。」  詩篇28:9 主は良い羊飼いであられる。 民を祝福し、民が平和に暮らせるような方向へ導かれる方だ。困難の中で気持ちが晴れない時も、次の状況が見渡せない時も、主は確かな方、確実な方である。 脱出時だけでなく、脱出後も、いつまでも、神は私たちの良い羊飼いであり続けてくださる。そのことに感謝。

ルカ2

ルカ2、民数記34−36 「イエスは神と人とにいつくしまれ、知恵が増し加わり、背たけも伸びていった。」ルカ2:52 皆に愛され、すくすく成長する様子が描写されている。 神であるのに人となられて、全く普通の人と同じように幼少期から青年になっていく経験を通られたことは、とても親しみやすいイメージを持つ。 しかも「知恵が増し加わり」とあるので、生まれた途端話せたとか、ペラペラ神童のような幼児でもなかったことがわかる。 もし人間離れしていたならイエス様が私たちと同じ思いをされたことを想像するのは難しいだろうし、ヘロデによって子どものうちに暗殺されてしまったかもしれない。 神はひとりごを世に送ると決められたら、徹底的にそうされたのだ。神の知恵が、こうしたところにも隠されている。

ルカ1

ルカ1、民数記31−33 「しかし、マリアはこのことばにひどく戸惑って、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。」ルカ1:29 神様の働きは、人間には思いがけない形や方法で始まる。 イエス様が家畜小屋で生まれたことがその最たるものだが、そのための準備段階でも、マリアが「ひどく戸惑う」ような始まりだった。 昨日はマルコ16章を読んだが、復活も腰を抜かすような驚きと戸惑いの中にある人々の様子が伝わってくる。 人間には理解しがたいこと、平和な日常を壊すかのように見えることが、神様の介入の始まりであることがよくある。 その時に、思い通りにいかない、不幸だと憐憫に陥るのか、あるいは神様が素晴らしい方向に導いてくださると期待できるのか。信仰が問われるのである。

マルコ16

マルコ16、民数記28−30 「ところが、目を上げると、その石が転がしてあるのが見えた。石は非常に大きかった。」マルコ16:4 墓の入口の石をどう取り除こうかというのが、彼女たちの気がかりだった。しかし、石はすでに転がされていた(英訳では had been rolled away)    。神の力がすでに働いていた。 むしろ、もっと驚き直面することがあった、それはイエスが復活された、という事実であった。 嬉しさと同時に「震え上がり、気も動転していた」(8節)とある。次元が違うことでびっくりさせられるのであった。 私自身が、私たちが、思い煩っていたことが杞憂であり、むしろもっと大きなことで主が私たちを驚かせることがある。私たちにとっては驚き、しかし主にとっては深いご計画の中で進められていたことであり、驚きでもなんでもない。私たちの驚きは、人間の知恵の浅はかで足りないものであることへの自覚へと導いてくれる。 不幸だと思った出来事が、神の深い良い計画の一部として働くことを信じ信頼したい。

マルコ15

マルコ15、民数記26−27 「アリマタヤ出身のヨセフは、勇気を出してピラトのところに行き、イエスのからだの下げ渡しを願い出た。ヨセフは有力な議員で、自らも神の国を待ち望んでいた。」マルコ15:43 たとえ有力な議員であっても、いや、有力で地位や名誉を手にしているからこそ、イエスのからだの下げ渡しを願い出るのは勇気が言った。なぜなら、自分がイエスの信棒者であると分かれば、仲間外れにされ、名誉に傷がつく恐れがあったからである。 イエスを主であると告白するのにも、人それぞれの葛藤があると思う。家族や友人に対しても気兼ねや気まずさを感じるかもしれない。 しかし、アリマタヤのヨセフは後悔したとは書かれていない。 キリストを主であると告白したら、後悔よりも新たな神の国の広がりと素晴らしさを体験できるのである。 決断に迷ったら、一歩踏み出してみよう。

マルコ14

マルコ14、民数記23−25 「また、杯を取り、感謝の祈りをささげた後、彼らにお与えになった。彼らはみなその杯から飲んだ。」マルコ14:23 この前後だけ読んでも、イエス様がただの方ではなく、人間の思いを超越した方だとわかる。自分が十字架にかかり血を流し肉を裂かれるとわかりながら、その象徴を弟子たちに見せてくださること。そして、極限の緊張と不安状態にあるはずのタイミングで、逃げも隠れもせず、食事をして感謝の祈りをささげられこと。 いずれも、普通の人間には考えにくいことである。 しかし同時に人として生きたイエス様は、はっきりとご自身の使命を掴んでおられた。また、だれよりも勇気のあるお方であった。 そのイエス様の語られた言葉を、聖書を通して日々直接聞くことができるとは、何という幸いか。一つ一つが宝石のように、また問題を解く鍵のように思われるのである。