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1月, 2024の投稿を表示しています

ハガイ2

「その日、 ──万軍の主のことば── シェアルティエルの子、 わたしのしもべゼルバベルよ、 ──主のことば── わたしはあなたを選んで印章とする。 わたしがあなたを選んだからだ。 ──万軍の主のことば。」ハガイ2:23 2章では、まずリーダーを含む民全体へ(2節~)、ついで祭司たちへ(11節~)、そしてユダの総督ゼルバベルへ名指しで(21節~)、主のことばが語られます。 「強くあれ」「恐れるな」「わたしがあなたがたとともにいるからだ」、 「銀はわたし(主)のもの。金もわたしのもの(8節)」だと、励ましが重ねて語られます。 特にリーダーだったゼルバベルには「あなたを印章とする。わたしがあなたを選んだからだ(23節)」と励まされました。 今日も、神様はさまざまな方法で励ましてくださいます。個人的に直接、祈りやみことばを通して、信仰の先輩や友を通して、状況を通して...。 みこころの歩みができなかったと感じているでしょうか? 主は民の残りの者を回復してくださったように、心の砕かれた人を回復へと導いてくださいます。 祈り:神様、あなたが励まし導いてくださることに感謝します。私の今日の歩みも、主が先に立って導いてください。長い間導きを求めている方に、主のみこころが様々に示され、確信を持って歩み出せますように。アーメン

ハガイ1

「この宮が廃墟となっているのに、 あなたがただけが板張りの家に住む時だろうか。」ハガイ1:4 民が捕囚から帰ってきました。神の宮の再建をしようとしましたが、途中で工事がストップしました。だんだん人々は、自分の家や所有物の再興を優先させていきました。 ハガイはこのような時に、民を励まし、主に心を向けるようにと述べます。 「主の宮がぼろぼろなのに、自分だけがよい家に住むのか」と。 自分の部屋を片付ける前に会堂掃除に来たという人に、宣教師が今日の箇所を引いて喜ばれたことが印象に残っています。 自分の家の再興も部屋の片付けも、悪いことではありません。しかし、主なる神のこと以上に大切にしているなら、優先順位は正しいかと心を点検する時です。 祈り:神様、自分のことが心の優先順位を占めがちな私たちです。日曜日の子どもメッセージの 「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。(マタイ6:33)」 を、今日じっくり思い巡らします。 神の国のために労する___さん、___さんに、今日も励ましと主のねぎらいがありますように。アーメン

ゼパニヤ3

「『あなたの神、主は、あなたのただ中にあって 救いの勇士だ。 主はあなたのことを大いに喜び、 その愛によってあなたに安らぎを与え、 高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる』と。」ゼパニヤ3:17 さばきの後、残った民の回復が預言されます。17節は主がその人たちを喜び、愛しておられる様子です。 ちょうど、放蕩息子(ルカ15章)で父がぼろぼろの息子の帰りを待ち、抱いて喜んだ場面と重なります。旧約の描写は、イエス・キリストご自身によっていっそう明らかにされます。 私たちがどれほどぼろぼろでも、手土産のひとつがなくても、神様の元に帰ることが神の無上の喜びだというのです。 この次には、捕囚から帰って来た民の様子に触れたハガイ書が続きます。短い預言書でも、それぞれの背景や相互の書の関係を考えながら読むと、神様の愛とご計画の素晴らしさがいっそう感じられます。 祈り:主なる神様、あなたは私に関するすべてのことのただ中におられます。あなたは勇士であり、私を救ってくださいます。私のことを喜び、愛によって私に安らぎを与え、高らかに歌って私のことを喜んでくださる方です。感謝します。アーメン

ゼパニヤ2

「すべてこの国の、 主のさばきを行う柔和な者たちよ、 主を尋ね求めよ。 義を尋ね求めよ。柔和さを尋ね求めよ。 そうすれば、主の怒りの日に、 かくまってもらえるかもしれない。」ゼパニヤ2:3 ユダの国に住む「柔和な者たち」への呼び掛けがされます。 「主を尋ね求めよ」「義を尋ね求めよ」「柔和さを尋ね求めよ」と。人間的な戦略や情報から目を離して、主のまなざしに自らの視点を重ねることが勧められます。 人々のうわさ話は、元々戦略的に生き残るための手段だったそうです。そして今日も、私たちの脳は、うわさ話をすると快感を感じるそうです。 木曜集会では、うわさが高じた「陰口」が教会の一致を妨げる主要因だと学びました。誰か(働き人でも)が陰口を始めたら、優しく諭すこと、祈りで終えることも学びました。 陰口が生き残りのためだとすれば、私たちは陰口を言う時、神の恵みでなく自分の力で生き残ろうとしているのでしょう。陰口を言うか言わないかは、主に生かされている信仰があるかどうかが問われているとも言えます。今日、どちらを選びますか。 祈り:神様、あなたを尋ね求めたいです。義と柔和を尋ね求めたいです。私に純粋で柔和な心を与えてください。 「柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです。  義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです。(マタイ5:5~6)」 アーメン

ゼパニヤ1

「口をつぐめ。神である主の前で。 主の日は近い。 主はいけにえを備え、 招いた者たちを聖別されたからだ。」ゼパニヤ1:7 「ゼパニヤ」という名前には、「主がかくまってくださる」という意味があるそうです。 ユダのヨシア王の時代に、すでに北王国は滅びていました。エレミヤなど他の預言者と同じ時代に、ゼパニヤは主の日が近いこと、そして私たちの真中に主がおられることを告げました。 主が悪をそのままにされない方であること、そして罪を悔い改め、主の前にへりくだる者と共にいて守ってくださる方であることを覚えます。 今日は、何が正しくて何が悪いのか、どの基準が正しいのか、非常にあいまいになっています。こんな時代だからこそ、時代を越えてもゆるがない主の基準があることは、安全な錨だと感じられます。 その主の前で「口をつぐ」み、主のことばを聴くデボーションは、日々私たちが頼れる杖を頂く時間となります。 祈り:神様、あれかこれかと迷いの多い現代社会、そして私の心です。あなたのみことばを、日々頼りにして歩みたいです。みことばの意味がよりわかるように、それを実践できるように、聖霊様が今日も導いてください。アーメン

ハバクク3

「しかし、私は主にあって喜び躍り、 わが救いの神にあって楽しもう。」ハバクク3:18 東京都がミサイル攻撃に備えた地下シェルターを整備するそうです。ウクライナでも、地下鉄構内など地下に人々が避難していました。災害、戦争と、恐れは尽きません。 ハバククが預言したのも、バビロンが攻めてきて、国が荒れ果てる様子でした。「 いちじくの木は花を咲かせず、 ぶどうの木には実りがなく、 オリーブの木も実がなく、 畑は食物を生み出さない。 羊は囲いから絶え、 牛は牛舎にいなくなる。(17節)」 しかし、「しかし、」と彼は続けます。 どんな状態になっても、「私は主にあって喜び躍り、 わが救いの神にあって楽しもう」と。 なぜ喜び楽しめるのでしょう。それは、「 私の主、神は、私の力(19節)」だからです。主は「 私の足を雌鹿のようにし、 私に高い所を歩ませ」てくださる方です。 状況に左右されず、信仰告白する彼の姿に学びます。私たちも不安をあおるような情報に接しても、むやみにうろたえる必要はありません。必要な備えはしますが、心を静めていっそう主にすがる者となりましょう。 祈り: 「また、戦争や戦争のうわさを聞くことになりますが、気をつけて、うろたえないようにしなさい。そういうことは必ず起こりますが、まだ終わりではありません(マタイ24:6)」と教えてくださったイエス様、ありがとうございます。 不安や恐れから心を守ってください。あなたに身を寄せる者は、心の深い所に平安をいただき、いつも心がシェルターにいるようです。今日、突発的なことが起こっても、あなたから平安を受け取りたいです。私に信仰を与え、心をお守りください。アーメン

ハバクク2

「主は私に答えられた。 『幻を板の上に書き記して、確認せよ。 これを読む者が急使として走るために。』」ハバクク2:2 ハバククは主に見せられた幻を書き記して置くようにと命じられました。それは内容が明らかで、まだ知らない人にも遅れることなく伝達できるようにするためでした。 今日の箇所から、私たちのあかしを準備しておくことの大切さを学びます。あかしは、素晴らしい主が私に何をしてくださったか、主の栄光を個人的な体験を通して分かち合うことです。文章にして書き留めておく、あるいはいつでも話せるようにしておく、など方法は様々ですが、いつでもできるように準備しておくことが大切です。 「正しい人はその信仰によって生きる(4節)。」イエス・キリストを自分の主として信じた人が義人と認められます。救ってくださるのは主、その主を信じる機会を分かち合うのが私たちです。 祈り:神様、あなたが私を救ってくださったこと、これまで恵みを表してくださったことを、他の人たちに紹介したいです。未熟な私の言葉を備え、整えてください。アーメン

ハバクク1

「いつまでですか、主よ。私が叫び求めているのに、あなたが聞いてくださらないのは。『暴虐だ』とあなたに叫んでいるのに、救ってくださらないのは。」ハバクク1:2 ハバクク書は、ハバククの問いで始まります。「いつまで」「なぜ」という叫びです。 故国の乱れた様子を嘆く彼に、主は答えられます。それはカルデア人、つまりバビロンを通して故国を罰するという答えでした(5〜11節)。 それに対して、ハバククは再び「なぜですか」と主に問い叫びます。 主のなさることに口を挟むなんて、と思うでしょうか。しかし、そこには主との限りない親しさと豊かな交わりを感じます。 主とこのようにコミュニケーションを保ち、思いをそのまま言える親しさを、私たちも今日得たいと思いませんか。 祈り: 神様、あなたはいつも語りかけてくださいます。背を向けて聞かない態度を取るのでなく、そのままで主に近づかせてください。あなたと豊かな交わりに導いてください。アーメン

ナホム3

「アッシリアの王よ。おまえの牧者たちは眠り、 高貴な者たちはじっととどまっている。 おまえの民は山々の上に散らされ、 集める者はだれもいない。」ナホム3:18 自分たちで一生懸命備えた防御が役に立たなかった時には失望します。 さらに、頼みにしていたリーダーが肝心な時に頼りにならないという時、どれほどがっかりすることでしょう。 アッシリアに起こるというのは、そのようなことでした。 では、アッシリアはどうすればよかったのでしょうか。ナホム書の最後である3章は、私たちに問いかけているように思えます。 私たちも、頼りにしていた人や財産が当てにならず、落胆する時があるかもしれません。 どうすればよいのでしょうか。 それは、主を知り、主にすがることです。 神様がいなければどうしようもないという事態が、人生の歩みでは必ず起こってきます。 神様はアッシリアが悔い改めるよう、ヨナやナホムに預言を与えられました。 私たちにも呼び掛けておられます。 祈り:神様、敵のために祈りなさいと、イエス様を通じて教えてくださいました。どうか、私たちにもっと愛を教えてください。キリストを知らずに悩み苦しむ人々のため、真剣に祈ることができるよう助けてください。アーメン

ナホム2

「主がヤコブの威光を、 イスラエルの威光のように回復されるからだ。 まことに、荒らす者が彼らを荒らし、 彼らのぶどうの枝を損なう。」ナホム2:2 ニネベがやがてさばかれ、ヤコブとイスラエル(旧約の南北に分裂していた国)が守られる宣言です。旧約時代には、神様は実物教材として具体的な民族を用いて約束を示してくださいました。 もちろん、独りよがりの義を主は喜ばれません。新約時代の私たちは、特定の民族だけでなく、救いが全世界に広がったことを知っています。かかったイエス・キリストの十字架は、信じる人すべてにとって神の救いです。 今日も、世界を見回せば罪と悪が満ちています。しかし、今日の箇所は、やがて悪がさばかれ、最後まで主に信頼する者は救われるという信仰へと私たちを導いてくれます。 祈り:神様、悪が栄える今日の世界には、うそやごまかしが満ちています。見分ける心をください。こんな時だからこそ、教会と信仰者一人一人が、主の光をいっそう反映させることができますように。特に、介護や医療福祉分野で働く___さん、___さんに、今日主の励ましがありますように。アーメン

ナホム1

「主はいつくしみ深く、 苦難の日の砦。 ご自分に身を避ける者を知っていてくださる。」ナホム1:7 ナホム書は、アッシリアの首都ニネベへのさばきの宣言を記しています。 しかし、やみくもに怒る方では決してありません。 悪を「決して罰せずにおかれることはない」方ですが、「怒るのに遅」い方、「力強い方」(2節)でもあられます。 さらに、「いつくしみ深く」「苦難の日の砦」、「ご自分に身を避ける者を知っていてくださる」のです。 私たちの周囲に静かに耳を傾けると、トラブルや悲しみの真ん中にいる人の声が聞こえてきます。愛する家族の死が近いという方の沈んだ声を聞くと、胸が痛みます。 叫び求める時主以上に頼れる方がないこと、この方に身を寄せ永遠のいのちが与えられる平安を、一人でも多くの方が知り体験できますようにと、切に祈ります。 祈り:神様、あなたのくださる平安といのちを、___さんも____さんも受け取ることができますように。苦難の日の砦であり、ご自身に身を避ける者を知ってくださる主との出会いが、日本中の人々にありますように。アーメン

ミカ7

「しかし、私は主を仰ぎ見、 私の救いの神を待ち望む。 私の神は私の言うことを聞いてくださる。」ミカ7:7 「私の神は私の言うことを聞いてくださる」は、ご利益主義のように聞こえるかもしれません。 しかし、この節の前半から見ると、忍耐して神を信じ待ち望む信仰の姿勢のあらわれだとわかります。 私たちも、神様が祈りと願いに耳を傾けてくださることを信じましょう。たとえ祈ることさえ難しい試練にあっても、共にいてくださる聖霊がうめきとりなしてくださいます。 「私の敵よ、私のことで喜ぶな。 私は倒れても起き上がる。 私は闇の中に座しても、 主が私の光だ。(8節)」 倒れても、闇の中にいるようでも、それで終わりではありません。 罪は悔い改めにより赦されます。そして、どんな苦境や試練の中でも神は見捨てられません。 祈り:神様、倒れている私の手をとって起こしてくださる主、闇の中に輝く光である主を賛美しあがめます。 闇の中にいるような苦境にある___さん、___さんに、イエス・キリストの愛を届けたいと願っています。機会と言葉を与えてください。私らしく、自然な形で福音のあかしができますように。アーメン

ミカ6

「主はあなたに告げられた。 人よ、何が良いことなのか、 主があなたに何を求めておられるのかを。 それは、ただ公正を行い、誠実を愛し、 へりくだって、 あなたの神とともに歩むことではないか。」ミカ6:8 主が求めておられることは 「公正を行い」 「誠実を愛し」 「へりくだって、あなたの神とともに歩む」 ことです。 とはいえ、私たちは不完全です。公正でありたい、誠実でありたいと願いますが、偏った視点しかもてなかったり、誠実を尽くしたつもりでも他者を傷つけたりします。 へりくだりたいと思っても、心のどこかに比較したい気持ちがあるのかもしれません。 イエス様も「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」(マタイ22:37,39)と言われました。 シンプルながら、なんと高い基準でしょうか!できない自分の弱さと限界を知ります。 失敗を悔い改めつつ、主の手にすがってよちよち歩きをする、そんな私たちを主は導いてくださいます。一歩一歩、イエス様の姿を目指して今日もあわれみにすがります。 祈り:神様、私にあなたのみ思いに歩めるよう、今日も助けてください。主と共に歩みたいと切に願います。腹の立つことには、あなたの愛のまなざしを教えてください。誠実でへりくだった歩みをさせてください。____のことも、主の御手にゆだねます。アーメン

ミカ5

「ベツレヘム・エフラテよ、 あなたはユダの氏族の中で、あまりにも小さい。 だが、あなたからわたしのために イスラエルを治める者が出る。その出現は昔から、 永遠の昔から定まっている。」ミカ5:2 クリスマスによく読まれる箇所です。イエス・キリストがベツレヘムで生まれる預言は、そのまま成就しました。中心都市エルサレムでなく、近郊の小さな村ベツレヘム。 そして、彼は王宮ではなく家畜小屋で生まれたのでした。 人には弱く取るに足りないと思えても、神の素晴らしい選びにあずかったベツレヘムの記事は、私たちにとっても励ましです。 日本のクリスチャンが少数派だとか、あるいは私たちの教会を「小さな群れ・・・」と卑下する必要はありません。むしろ、神様はこの世の常識とは異なり、弱い者を選び、守り、恵みを与えてくださる方です。 ベツレヘムが神の選びと恵みに預かったように、私たちも選びと恵みに預かっています。この特権を、どうして隠しておけるでしょうか。 祈り: 「私は福音を恥としません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、信じるすべての人に救いをもたらす神の力です。(ローマ1:16)」 神様、パウロのように、私も福音を恥とせず、恵みを流すことができますように。家族や知人の中で最初の信仰者として選ばれた___さん、___さんに大胆な勇気と主の力を与えてください。私も同じようにしてください。 寒い中、被災地のために働く方々に主の励ましがありますように。現地の教会に、格別の支えがありますように。アーメン

ミカ4

「多くの国々が来て言う。『さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。 主はご自分の道を私たちに教えてくださる。 私たちはその道筋を進もう。』それは、シオンからみおしえが、 エルサレムから主のことばが出るからだ。」ミカ4:2 聖書の書かれた当時の舞台は中東です。 しかし、聖書は特定の国のためにだけ書かれた書物ではありません。 そして主である神様も、外国の神様ではありません。 「多くの国々が来て言う」や「もろもろの民(1節)」「多くの民族の間(3節)」などは、世界へのメッセージであることの表れです。 主は今日も、「ご自分の道を私たちに教えてくださ」います。「私たちはその道筋を進もう」と、今日の私たちも宣言し、歩みましょう! 明日は有名なメシア預言の箇所があります。 祈り:神様、時代や国を越えた聖書の真理を感謝します。自分の都合の良いところだけつまみ食いするのではなく、聖書全体の指し示すイエス・キリストをより近く知ることができますように。今日の私の歩みに適用できるよう導いてください。アーメン

ミカ3

「しかし、私には力が満ちている。 主の霊によって、公正と勇気に満ちている。 ヤコブにはその背きを、 イスラエルにはその罪を告げる。」ミカ3:8 周りの占い師たちや偽預言者たちは権力になびき、人々に気に入られるようなことばかりを述べていました。 一方、ミカは人々の背きの罪を告げました。 それは彼が強かったからでしょうか?知恵や才能に恵まれていたからでしょうか? 聖書はそうは語っていません。 彼に力が満ちているのも、公正と勇気に満ちているのも、「主の霊によって」だったと述べています。 私たちが自分の狭い見識や自己義で人を裁くことは、聖書の勧めることではありません。 しかし「主の霊」「聖霊」が働かれるなら、愛に根差しつつも人に罪への気づきを与える言葉や機会が与えられます。神の深いみ思いを反映するのは、私たちの怒りや衝動ではなく、聖書と神の霊の働きによるのです。 祈り:神様、私は人を恐れ、あるいは怒りに任せて失敗することがあります。___さんや___さんを傷つけたことをゆるしてください。ますます主の助けにより忍耐を持ち、愛に根差した祈り心を与えてください。アーメン

ミカ2

「ヤコブよ。 わたしは、あなたを必ずみな集め、 イスラエルの残りの者を必ず呼び集める。 わたしは彼らを、囲いの中の羊のように、 牧場の中の群れのように、一つに集める。 こうして、人々のざわめきが起こる。」ミカ2:12 さばきの警告の後、11~12節では回復の約束が告げられます。 しかも、人々がばらばらに脱出するのではありません。 「囲いの中の羊のように」「牧場の中の群れのように」まとまって導かれるのです。一つに集められ、「人々のざわめき」つまり人々が互いに混み合うように共に歩む回復です。 戦争や災害の後、集落が崩壊することが大きな問題になっています。 共同体で生きる存在として、神様は人をデザインされたからです。地域コミュニティを失うと、行き場を失い弱ってしまう人が出てきます。 教会は、霊的な家族として神様が置いてくださった共同体です。人の集まりである限り、完璧な存在ではありません。しかし、完全な神様の臨在を共に仰ぎ、共に賛美し礼拝する時、主の栄光とみわざの中で共に歩む恵みがあります。 祈り:神様、あなたは十字架によって私のいのちを回復してくださいました。回復された人々を教会に集めてくださり、共にあなたを礼拝する者としてくださり感謝します。共に回復された兄姉の存在を感謝し、主の愛で愛します。アーメン

ミカ1

「これはみな、ヤコブの背きのゆえ、イスラエルの家の罪のゆえだ。『ヤコブの背きとは何か。 サマリアではないか。 ユダの高き所とは何か。 エルサレムではないか。』」ミカ1: 5 旧約聖書の後半には、なぜ同じような預言書が長々と続くのでしょう。難しいし、自分と関係ないことばかり、と思うかもしれません。 しかし、預言書には当時だけでなく、今日の私たち、あるいはこれからの希望について記されている部分が多くあります。 今日の部分は、私たち人間の罪の大きさを教えてくれます。「ヤコブ」「イスラエルの家」はどちらも神の民のことです。本来は「ユダの高き所」つまり礼拝所のあった当時の「エルサレム」で主なる神を礼拝するべきでした。 それなのに「サマリア」で偶像礼拝に陥ったのが罪である、ということです。 何度も何度も教えられても、主なる神をすぐに忘れ、別のものを神としてしまう、それが人間の愚かさであり「的外れ」の罪の本質です。 だから繰り返し預言者を送り、主に立ち返るようにと呼びかけられたのです。 今日の私たちにも、主は生きて呼びかけておられます。 祈り:神様、あなたの呼びかけに応答したいです。私の霊の耳を開き、あなたに喜ばれることと喜ばれないことを区別できるように導いてください。 ____さん、____さんも、イエス・キリストを救い主として受け入れ、愛の主の呼びかけに答えることができますように。アーメン

ヨナ4

「主は言われた。『あなたは、自分で労さず、育てもせず、一夜で生えて一夜で滅びたこの唐胡麻を惜しんでいる。ましてわたしは、この大きな都ニネベを惜しまないでいられるだろうか。そこには、右も左も分からない十二万人以上の人間と、数多くの家畜がいるではないか。』」ヨナ4:10~11 神のみこころを、私たちはすべて喜べるでしょうか。自分自身や自分の好きな人が祝福されるなら、もちろん喜びます。しかし、過去に害を及ぼした人が祝福されても、心から喜べるでしょうか。自分の面目がつぶれても喜べるでしょうか。かえって、苦々しい思いや嫉妬がくるかもしれません。 ヨナが体験したのも、そのような出来事でした。敵国の都市ニネベが滅びるという警告をしたのに、結果は異なりました。人々は悔い改めて救われ、滅びることはありませんでした。ヨナは素直に喜べませんでした。 神様のみこころはすべての人が悔い改め、救われることです。神のあわれみと祝福を受け取ることです。主の思いを私たちの思いとするには、何が必要でしょうか。 相手へのゆるし、妬みや比較からの解放、こだわりを手放すこと...、私が今日、主に助けていただくことを求めましょう。 祈り:神様、ヨナにやさしく教え続けてくださったように、私にも教えてください。心の苦みを取り去ってください。そのために____が必要です。私が神様にどれほどゆるして頂いたかを味わい、感謝します。アーメン

ヨナ3

「すると、ニネベの人々は神を信じ、断食を呼びかけ、身分の高い者から低い者まで粗布をまとった。」ヨナ3:5 ヨナに再び「ニネベに行き預言せよ」という主のことばがありました。 今度は「ヨナは、主のことばのとおりに、立ってニネベに行った」のでした(2節)。 結果を見るのに、時間はかかりませんでした。一日分の道のりを歩き回って主の警告を伝えると、ニネベの人々は神を信じ、断食を呼びかけ、身分の高い者から低い者まで粗布をまといました(5節)。 何というリバイバル、何という宣教の実でしょうか。 ヨナは「伝える人」として用いられました。そして、悔い改めに至らせたのは神ご自身のわざでした。 私たちも「伝える人」として召されています。そして、ある人が「キリストは主です」と受けとるには神ご自身、聖霊の働きが必要です。 福音宣教は「神と人との共同作業」と言われます。人と共に働くことを望んでくださった神様の思いに感謝します。そして聖霊の働きを期待し、イエス様に出会う方々が起こされるように祈ります。 祈り:神様、私たちに主イエス・キリストを分かち合う特権を与えてくださり、感謝します。託されたことを喜んで実行できるよう助けてください。そして、聖霊様が働かれる救いのみわざをさらに見せてください。 「...宣べ伝える人がいなければ、どのようにして聞くのでしょうか。...『なんと美しいことか、良い知らせを伝える人たちの足は』と書いてあるようにです。(ローマ10:14-15)」 「また、聖霊によるのでなければ、だれも『イエスは主です』と言うことはできません。(第一コリント12:3)」   アーメン

ヨナ2

「私のたましいが私のうちで衰え果てたとき、 私は主を思い出しました。 私の祈りはあなたに、 あなたの聖なる宮に届きました。」ヨナ2:7 ヨナの状況を思い浮かべてみましょう。...主に従わずタルシシュに向かった。逃げるつもりだった。ところが船が嵐にあい、原因が自分にあるとわかった。海に投げ込まれ、これで命が終わると覚悟した。ところが巨大な生き物に飲み込まれた。息はできるものの辺りは真っ暗である... そんな魚の腹の中で、ヨナは主に祈りました。 自分が命を失うぎりぎりの時、恥も後ろめたい気持ちも吹っ飛んで、頼れるのは主おひとりでした。そして主に叫び求め、その祈りが届いたことを確信できたのでした。 それが、この章の感謝と喜びの祈りになっています。 私たちは、主の思いから外れた選択をしてしまったと感じることがあるでしょうか。 それでも、追い詰められて主の元に走りすがるなら、主は受け入れてくださいます。 悔い改めて戻ってくる者を、主はないがしろにされません。 「救いは主のものです。(9節)」 祈り:神様、これまでの歩みを振り返ります。_____が恥や汚点に思えます。主に喜ばれないことだとわかりながら、そうしてしまいました。ゆるしてください。 同じ過ちを繰り返さず、主の恵みと解放を体験した者、告げ知らせる者として歩ませてください。アーメン

ヨナ1

「しかし、ヨナは立って、主の御顔を避けてタルシシュへ逃れようとした。彼はヤッファに下り、タルシシュ行きの船を見つけると、船賃を払ってそれに乗り込み、主の御顔を避けて、人々と一緒にタルシシュへ行こうとした。」ヨナ1:3 ヨナは旧約聖書の中で外国に遣わされた唯一の預言者でした。敵国アッシリアの首都ニネベで、主への悔い改めを呼びかけるようにと召されました。 しかしヨナは従わず、別方向の船に乗り込みました。 そして嵐にあい、海に投げ込まれ、魚に飲み込まれるというのが1章です。 童話のような展開で、子どもメッセージでもよく語られます。 「神様に従えばよかったのに」と、ヨナの行動が滑稽に思えますか? 後に第三者的に見れば、その通りかもしれません。 でも自分自身の日々を見るとき、神抜きに、あるいはみこころより自分の判断を優先していることがありませんか。 私たちの多くは、1章のヨナと変わらない失敗だらけの者です。 しかし、失敗する私たちに、神様はゆるしと回復を備えてくださる方です。なんと忍耐強いお方でしょうか。 祈り:神様、あなたのみこころを知りつつも、つい自分の判断に頼り失敗してしまう私です。本当はひと足ひと足、あなたの後についていく歩みをしたいです。どうか今日も導いてください。アーメン

オバデヤ

「おまえは兄弟の災難の日に、 それを見ていてはならない。 ユダの子らの滅びの日に、 彼らのことで喜んではならない。 その苦難の日に大口をたたいてはならない。」オバデヤ12 旧約聖書で一番短い書で、1日で読み終えてしまいます。 通読すると、普段開くことの少ない書にも出会える喜びがあります。 預言者オバデヤは、エドムへの叱責を預言します。 エドム国はイスラエル国の遠い親戚でした(創世記35-36章、エサウとヤコブは兄弟。エサウの子孫がエドム、ヤコブの子孫がイスラエル民族)。 それなのに、イスラエルが苦難を通るのを見て傍観し、高ぶっていました。 愛の神様の願いは、自らが祝福されるだけでなく「祝福の基となりなさい」ということです(創世記12章)。 「この世の財を持ちながら、自分の兄弟が困っているのを見ても、その人に対してあわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょうか。(第一ヨハネ3:17)」ともあります。 もし今まで傍観してきたことがあるなら、今年どのように愛を表していくことができるでしょうか。直接的なことだけでなく、間接的にもかかわることができないか、考え祈ってみませんか。 祈り:神様、_____のこと、_____のことが心に浮かびます。どのように祈ればよいか導いてください。また、どのようにかかわることができるか、教えてください。ただ現状を見て手をこまねいているだけではなく、痛みを祈りにかえながら踏み出すことができますように。アーメン

アモス9

「わたしは、彼らを彼らの地に植える。 彼らは、わたしが与えたその土地から、 もう引き抜かれることはない。 ──あなたの神、主は言われる。」アモス9:15 アモス書の最後も、やはり回復の約束で終わります。 見える状況は全く逆、正反対でした。しかし、主は約束されます。 「わたしは、 わたしの民イスラエルを回復させる。 彼らは荒れた町々を建て直して住み、 ぶどう畑を作って、そのぶどう酒を飲み、 果樹園を作って、その実を食べる(14節)」と。 実際に、捕囚から民が帰還した時にこの預言が成就しました。 また、主を信じる民が終わりの時に回復される希望と、主は恵みとあわれみに富んでおられる方であることも確認できます。 今、とうてい回復できないと思うような状況があるでしょうか。 あるいは心の混乱や悲しみがあるでしょうか。 私たちにはできなくても、主は回復させることのできるお方です。 「あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは、忍耐です。(ヘブル10:36)」とあるように、共に祈り期待して待つ群れとして歩みましょう。苦しむ主の民に手を差し伸べる者ともなりましょう。 祈り:神様、あなたがあわれみに満ち、回復の主であることを感謝します。私たちに忍耐を与えてください。また、困っている兄姉に直接・間接的に手を差し伸べ、共に祈り支える信仰者の群れとしてください。アーメン

アモス8

「主は言われた。『アモス。何を見ているのか。』私が、『一かごの夏の果物です』と言うと、 主 は私に言われた。『わたしの民イスラエルに終わりが来た。わたしはもう二度と彼らを見過ごさない。』」アモス8:2 「いなご」「責める火」「下げ振り」(7章)に続き、4つ目の幻である「一かごの夏の果物」を主はアモスに見せられました。 バイブル・ナビは彼を 「ユダの片田舎で羊を飼い、いちじくの木を栽培していたアモスは預言者の息子でも、祭司の息子でもなかった」と紹介しています。 一代目の預言者として、彼には劣等感や低く見られる経験はなかったのでしょうか。アマツヤの妨害を受けたことは、昨日の箇所に書かれていました。 その中でも主が数々見せられたさばきの警告を、彼は預言し続けました。 出自や身分を越えて働いた彼の姿勢は、日本で少数派と言われるクリスチャンへの大きな励ましです。 祈り:神様、あなたの召しは人の常識や予測を越えることを知り、感謝します。私から先入観や恐れを取り去ってください。主が用いようとしている人を豊かに用いてください。私もあなたのご計画に従って用いてください。アーメン

アモス7

「しかし、主が、群れの世話をしていたところから私を取り、主が私にこう言われた。『行って、わたしの民イスラエルに預言せよ』と。」アモス7:15 7章では、いくつかのさばきがアモスのとりなしによって回避されます。 ・いなごの害が起こりそうな時、アモスがとりなしの祈りをして回避(1~3節)。 ・火が焼き尽くそうとした時、アモスがとりなしの祈りをして回避(4~6節)。 そして ・下げ振りを垂れ下げ、イスラエルを見過ごさない(7~9節)という宣告があった後、アモスとアマツヤとの対決があります。 アマツヤはベテルの祭司でしたが、実際には政治的に王に利用され、神のみこころを行う者ではありませんでした。 アマツヤに対し、アモスは「自分は羊飼いだったが、そこから主に呼ばれ、主のことばを真実に語るのだ」と自らの召しを宣べました。 悲しいことですが、今日も世界を見渡すと政治権力になびいた宗教リーダーがいます。 クリスチャンでも、家族や友人、世論に流されることがありえます。新年の初めの週、自分の態度、信仰の姿勢はいかがでしたか。 祈り:神様、私は同調圧力に弱い者です。助けてください。 家族や同僚の中でただひとりの信仰者として歩んでいる___さん、____さんを励まし守ってください。 また、信仰が弱っている___さん、___さんが、イエス様に出会った時を思い起こし、主の元に帰れますように。アーメン

アモス6

「あなたがたは、ロ・ダバルを喜び、こう言う。『私たちは自分たちの力でカルナイムを取ったではないか』と。」アモス6:13 「ロ・ダバル」は「つまらない物」、「カルナイム」は力を象徴する「二本の角」の意味です。預言者アモスの掛けことば(しゃれ)表現であると同時に、どちらもヤロブアム王の時代に復興した町の名前でもありました。 自分の力であれもこれもできる、という人々の高慢を、主は戒められます。だからといって、どうせ自分はつまらない物しか当たらない、という態度も喜ばれません。それもまた、神様の恵みを無視して自分の力にしか期待しないからです。 すべての持ち主である神様が必要な物を与えてくださること、そして私たちもまた与える者となれるよう願いましょう。 日本にも世界にも、多くの必要があります。教会からの宣教献金や緊急支援献金を通して、祈りと共に実際の助けに加われる恵みを覚えます。ニュースに心を痛めるだけでなく、主の手の伸ばされるところに私たちも参加できることを感謝します。 祈り:神様、たくさんの恵みを頂いています。健康も日々の必要も、こうして備えられていることに感謝します。教会で毎月覚えている___宣教師、___宣教師...の働きに主の祝福がありますように。また、被災地や紛争地の人々、支援を必要としている人々にも届くことができますように。アーメン

アモス5

「善を求めよ。悪を求めるな。 そうすれば、あなたがたは生き、 あなたがたが言うように、 万軍の神、主が、ともにいてくださる。」アモス5:14 自分の判断でどこかに逃げれば安全というのは、いかに頼りない考えかが語られます。「人が獅子の前を逃げても、熊が彼に会い(19節)」ということさえ起こります。 私たちも、焦ってむやみに何かしたくなることがあります。じっとするのが近道だとわかりながらも、どうしようもない心がはやるのです。 私がもし火災の飛行機に乗っていたら、自分の脱出の順番が来るまで、その場でかけ足をしたかもしれません。 聖書は「主を求めて生きよ(4、6節)」と招きます。主は「すばるやオリオン座を造り、暗黒を朝に変え(8節)」た方、「その名が万軍の神である(14、27節)」方です。 主ご自身とその「善を求める」ことが、私たちの救いであることを覚えましょう。さまざまな噂やデマに感情が高ぶる時、批判のコメントをしたくなる時には 「このようなときには、賢い者は沈黙を守る(13節)」ということばを思い出しましょう。 祈り:神様、不安になると焦り、感情的になりがちです。しかしこのような時にこそ、「心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい(ヨハネ14:1)」と言われたキリストに頼ることができますように。 今日は教会の___さん、____さんの祝福を祈ります。恵みと折々の助けが注がれますように。アーメン

アモス4

「見よ、山々を形造り、風を創造した方。 その御思いが何であるかを人間に告げる方。 暁と暗闇を造り、 地の高き所を歩まれる方。 その名は万軍の神、主。」アモス4:13 ここ大阪でも1日の地震のゆれは感じられ、長く続く横揺れに2011年の東日本大震災の時を思いだしました。「大きな地震ではないか」と直感的に思った人もいたことでしょう。 自然の前には小さい存在であることを、改めて思いました。 神様は自然を造られた方です。ですからそれほど大きな方の御思いは、私たちの考えをはるかに越えたものです。 私たちが信じ礼拝するのはその方です。そして、その方は私たちを無限の愛で愛しておられます。新年から災害や事故が連続し、日本中が重い空気感の中にあるようです。 しかし、悲しみの中での小さな恵みや奇跡が希望でもあります。神様の愛と慰めのご性質は、そのようなものです。 祈り:神様、私たちを愛してくださり感謝します。 地震が起こった北陸地方の方々、事故にあった方、特に愛する人をなくした方々を特別に慰めてください。励ましてください。主が立てられた被災地、そして全国の教会を通して、主の希望が光り出でますように。アーメン

アモス3

「まことに、神である主は、 ご自分の計画を、 そのしもべである預言者たちに示さずには、 何事もなさらない。」アモス3:7 旧約時代、主は預言者を通して人々に語られました。そして、所々に「イスラエルよ、聞け(シェマー)」という表現が出てきます。何かを決める前に、実行する前に、まず主に「聞く(聴く)」ようにというメッセージです。 年のはじめは、まっさらなページを開くようにわくわくします。今年の目標を立てる人も多いでしょう。 その時、静まってまず主に「聞く(聴く)」ことから始めませんか。 「私がやりたいこと」ではなく、 「主が私にしてほしいと望まれること」は何か、祈り黙想してみましょう。 ルカ10章に出てくる、忙しく思い煩うマルタの姿ではなく、主の足元に座ってじっと聞き入るマリアのように 「しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました(ルカ10:42)」という年になりますように。 祈り:神様、今年の歩みを導いてください。 「主によって 人の歩みは確かにされる。   主はその人の道を喜ばれる。(詩篇37:23)」 アーメン

アモス2

「わたしが、あなたがたの息子たちから預言者を、 あなたがたの若者からナジル人を起こしたのだ。 そうではなかったか。イスラエルの子らよ。 ──主のことば──」アモス2:11 主にあって新年おめでとうございます。 今日の箇所は、分裂王国の人々へのアモスの預言です。主を忘れて勝手な方向へ進む王国への警告が記されています。 その中で主は「あなたがたの息子たちから預言者を、あなたがたの若者からナジル人を起こしたのだ」と言われます。 預言者もナジル人も、主に生涯をささげ仕える人でした。 (ナジル人は髪の毛を切らず主にささげられた人として生涯を過ごしました。士師記13~16章のサムソンもその一人です) ほとんどの人々は耳を傾けなかったけれど、神様はずっと次世代の働き人を備えてくださっていたのでした。 日本にも、主が召そうとする働き人たちが次世代の中にいます。教会の「息子たち」「若者」の中にもこれから起こされようとしていると信じます。 そうした人たちを、学校の成績や偏差値、競争社会の「勝ち組」の観点に押し込めず、主の召しを握ることができるよう、祈り応援しましょう。 「私たちとは関係ない」」と思わず、声をかけ共に祈り合うなら、自分自身も励まさ力づけられます。 今年も主にあって「霊はますます燃えて若い」私たち一人ひとりでありますように! 祈り:神様、新しい年を与えてくださり感謝します。あなたが私に与えてくださる召しと共に、次世代を励まし支える召しを受けとります。いくつになっても霊に燃え、内なる人はますます若く、日々歩ませてください。アーメン