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詩篇125

詩篇124−126、エレミヤ22−23 「主に信頼する人々はシオンの山のようだ。  揺るぐことなく とこしえにながらえる。  エルサレムを山々が取り囲んでいるように  主は御民を 今よりとこしえまでも囲まれる。」詩篇125:1-2 1節では、信仰者を山にたとえている。山のように動かず、振り回されず、安定して平安と揺るぎない確信を持ち続ける者とされている。 2節では逆に主ご自身を守りの山々にたとえている。ゼカリヤ2:5ではエルサレムは…城壁のない町のようになる。わたしがそれを取り巻く火の城壁となる。わたしがそのただ中で栄光となる」と述べられている。町を守る城壁のように、主ご自身が山々のように囲み危険やわなから守ってくださるのである。 都上りの時に歌われたのだから、坂を登ったり山を越えたりする時、この歌は現実味をもっていただろう。 私たちが都上りをするとは、礼拝を捧げることである。誰かが来なくても、気がかりがあっても、もし礼拝に重要なゲストや久しぶりの旧友が来るならば、楽しみでワクワクしているので、問題は気にならない。もしそのゲストがイエス様だったとしたら…、もちろん、小さな問題は気にならず、イエス様が来られるよ!とそのことで嬉しく、心がいっぱいになるだろう。 ところが、現実に、毎回の礼拝にはイエス様がおられるのだ。だから、もっとワクワクして、喜んで、イエス様をお迎えし、イエス様はどう思われるか、喜ばれるか、そこに焦点を合わせれば良いのだ。つい忘れがちで人を見てしまいそうな礼拝、その原点を忘れないようにしよう。

詩篇124

詩篇124-126、エレミヤ20−21 「私たちの助けは  天地を造られた主の御名にある。」詩篇124:8 「もしも主が私たちの味方でなかったら」どうなっていただろうか、ということにダビデは思いを馳せている。 戦いには敗れ、災害は起こり、国は滅びていただろう、という。 王であったダビデは、自分の功績ではなく神が全てを治め救い出してくださった方だと告白している。 6−8節では、自分の栄誉でなく神の栄光をほめたたえている。 自分がどれだけ一生懸命苦労して行った奉仕、ミニストリーであっても、その背後には主の助けとご計画がある。だから、自分でなく主に栄光をお返しすること。また、同じように人知れず労苦している人をねぎらい励ますこと。感謝を表し、その人がさらに神様に対して励むことができるよう支えることが大切である。 SNSやネットの、あることないこと批判し叩くような者であってはならない。蛇のようにさといながらも、もっと愛に満ちた純粋な者であるように。

ヘブル11

ヘブル11、エレミヤ18−19 「彼らは信仰によって、国々を征服し、正しいことを行い、約束のものを手に入れ、獅子の口をふさぎ、火の勢いを消し、剣の刃を逃れ、弱い者なのに強くされ、戦いの勇士となり、他国の陣営を敗走させました。」ヘブル11:33−34 信仰の章と言われるヘブル11章で、信仰の人が列挙された後にこの聖句が置かれている。 賛美にもなっている聖句である。勇ましい記述が並んでいるが、後半に「弱い者なのに強くされ」とあるのに注目したい。 彼らが皆強い人ではなかった。かえって弱い人だったから神様の力が働いたことがわかる。強くしてくださるのは神、そして神の力によって勇敢な心と働きをさせてもらったのである。 次の35節からは、もっと素晴らしいよみがえりに預かるために、拷問を受け殺された人たちの様子が続く。この世は彼らにふさわしくなかったこと、天を見上げ続けたことが書かれている。 何よりも、信仰の人たちは、その信仰は素晴らしいが、約束されたものを地上で得たわけではないというのが興味深い。 願望や祈りが全て聞かれたわけではない。それでも、神が約束をしておられることに期待し、まだ見ないものを見るかのように生涯を終えたのである。 祈りが聞かれないから神はいない、と短絡的に言えないことが、この箇所からもよくわかる。それでも、私たちの気持ちや願いを神に申し上げ、神と対話し、神のみ思いに少しでも近づき、神に力をいただき、神に励まされて毎日を生きていくのである。神は関係を求めておられる。神は交わりを願ってくださっている。

ヘブル10

ヘブル10、エレミヤ15−17 「心に血が振りかけられて、邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われ、全き信仰をもって真心から神に近づこうではありませんか。」ヘブル10:22 神に近づくための4つの点が、この1節で表現されている。(参照:NIV  Study  Bible) 1 血が振りかけられて、邪悪な良心をきよめられた心 2 きよい水で洗われたからだ 3 全き信仰をもって 4 真心から このうち、2の「きよい水で洗われたからだ」は、キリストの血と水のバプテスマによる(マタイ28:19)。もちろん、水のバプテスマを受ける前の信仰告白でも救われてはいるが、バプテスマを受けることでいっそう確信と確証が出てくる。水の描写は、エゼキエル36:25でも出てくるが、洗いきよめであり回復である。 神の回復と真実のみわざ、そして深い愛が、私たち自身に注がれていることを覚える。 「約束してくださった方は真実な方」だから、動揺しなくてよいし、希望を告白し続けることができるのである。 今日与えられた聖書の約束は何か。また希望を告白し、不安になっても、心配になっても、聖書のことばを自分で何度も何度も黙想し、力をいただこう。

ヘブル9

ヘブル9、エレミヤ12−14 「まして、キリストが傷のないご自分を、とこしえの御霊によって神にお献げになったその血は、どれだけ私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者にすることでしょうか。」ヘブル9:14 「私たちの良心をきよめる」とはどういうことか、と思った。良心が研ぎ澄まされるのか。もちろん、キリストを信じた時から聖霊がともにいてくださるので、より気づきが与えられるだろう。 しかし、元々の意味は、原罪を持って生まれ、罪を犯した私たちの、その罪そのものが取り去られたことで良心がきよめられたということである。 死から解放された私たちは、肉の行いから離れ、霊なるものに目を向け、霊的な事柄に仕えることができるようになった。神を信じることなしには、霊的な良いものに目が開かれることはない。 また、神に委ねられることで、霊的なことに仕えることが許された。今日の24時間の多くを、肉のためでなく霊の務めのために割けるように。霊の働きに敏感な毎時を過ごせるように。

ヘブル8

ヘブル8、エレミヤ9−11 「この祭司たちは、天にあるものの写しと影に仕えています。それ絵は、モーセが幕屋を設営しようとしたときに、御告げを受けたとおりのものです。神は、『よく注意して、山であなたに示された型どおりに、すべてのものを作らなければならない』と言われました。」ヘブル8:5 旧約聖書で、幕屋や神殿の作り方や様子が事細かく描写され、指示されている。なぜ退屈な記述が続くのかとよく思ったものだった。 そして、その理由がここに記されている。 天にあるものの写し、つまりコピーを神が地上で見せてくださるためだったのだ。それは、より素晴らしいものが天国にあることを教えてくれるだけではない。地上で私たちがイメージを持ちやすくなり、さらには地上でもそのひな形、コピーがあってすでに神の国が味わえるのだということがわかる。 旧約時代の厳しそうに見える神像は、ここでもやはり愛の神ゆえだということを学ぶ。神の壮大な計画、深すぎる愛がここにもある。 私たちの人生にも、神の計画が反映するように。今日の歩みがみ心、神の思いにかないますように。

ヘブル7

ヘブル7、エレミヤ6−8 「したがってイエスは、いつも生きていて、彼らのためにとりなしをしておられるので、ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになります。」ヘブル7:25 大祭司イエスのしてくださることが書かれている。長い間、メルキゼデクがいったい何者か分からず、それゆえにヘブル書が難しく感じられた。 しかし、この章で大切なことは、メルキゼデクの正体ではなく、大祭司であるイエス様の働きが完全であり、尽きないことを把握することだ。 しかも、とりなしをしてくれる方である。だから「イエスの御名によって」祈る時、イエスの仲介を経て神に完全に祈りが届くのである。聖霊のとりなし、そして御子のとりなしがあるのだから、思いの丈を話しても大丈夫である。

詩篇123

詩篇120−123、エレミヤ3−5 「まことに しもべたちの目が主人の手に向けられ  仕える女の目が女主人の手に向けられるように  私たちの目は私たちの神 主に向けられています。  主が私たちをあわれんでくださるまで。」詩篇123:2 主人の行動にならい、主人の意向を知るため、使用人たちは目を向ける。主人から目を離さず見続ける。 仕える者とはそうである。 Ⅱテモテ2章に、次のようなことばがある。 Ⅱテモテ2:3キリスト・イエスの立派な兵士として、私と苦しみをともにしてください。  4 兵役についている人はだれも、日常生活のことに煩わされることはありません。ただ、兵を募った人を喜ばせようとします。  5 また、競技をする人も、規定にしたがって競技をしなければ栄冠を得ることはできません。  6 労苦している農夫こそ、最初に収穫の分け前にあずかるべきです。 兵を募った人は主人つまり神である。そこで私たちは競技者のように、また労苦する農夫のように、コツコツと働く。しかも、召しにかなうという喜びと満足を持ってである。

詩篇121

詩篇120-123、エレミヤ1-2 「主は あなたの足をよろけさせず  あなたを守る方は まどろむこともない。」詩篇121:3 祈りの答えがすぐにない時も、思ったように状況が進まない時も、主は眠っておられるのではない。祈りは確かに聞かれている。そのことを信じられるかが問われている。 宣教の働きをと願いながら、フルタイムの献身をと決意したにもかかわらず、道が閉ざされたような状況が長く続き、「奥さん」の立場で長年歩むことになった。しかも外で家計を支える働きをし、障害児を育て、とうとう燃え尽きたのだった。 それでも神の召しは無くなったのではなかった。燃え尽きた後で再び立ち上がるきっかけが与えられ、素晴らしいメンターが与えられ、英語のブラッシュアップをいやがおうでもする状況になり、さらに宣教の働きを深く知る機会が与えられ、教会でもフルタイムで働く環境が与えられ、さらに超教派のミニストリーにまで導かれ…、順風満帆ではなかったにせよ、もっと良きもの、もっと大きな広がりを神様が与えてくださった。 ただしそれは、私の自己実現のためではない。主の働きをするため、主により忠実に仕えるためである。主のご計画と宣教のミッションを、私に委ねられた分を果たして歩むためである。

ヘブル6

ヘブル6、イザヤ65~66 「私たちが持っているこの希望は、安全で確かな、たましいの錨のようなものであり、また幕の内側にまで入って行くものです。」ヘブル6:19 キリストにある希望は変わらない。ちょうど、安全で確かな、たましいの錨のようなものだと、この聖書の箇所は述べている。 パンデミックで一変した世界、人の動き、計画、学びのスタイルなど、そして政府や専門家でさえも予測のつきがたい感染の状況に、人の知恵の限界と私たちの及ばない力があることを覚える。今ちょうど日本は感染が不思議におさまっている。それもまた、人の予測を越えた状況である。 多くの愛する人が世界で感染し、命を落とした。大切な友人も多く感染したが、私たちのすべきことは神に叫び求め、私自身の高慢を悔い改め、とりなしの祈りができるように神の前にへりくだることだ。 聖書の中には、イスラエルの民の中での感染症についても書かれている。神がことばを発せられると感染がやんだことも書かれている。 今の状況が私たちの手に追えなくても、神の支配のうちにはある。 そして、自分の無力さを知り神の前に謙遜になることが、私たちの態度に必要なことだ。

ヘブル5

ヘブル5、イザヤ62ー64 「キリストは御子であられるのに、お受けになった様々な苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、ご自分に従うすべての人にとって永遠の救いの源となり、」 ヘブル5:8~9 ピリピ2章にも書かれている、キリストの謙遜と従順が、ここでも描かれている。しかもここでは、完全な者とされたこと、永遠の救いの源となられたことが加えて強調されている。 恥ずべき十字架にかかられた方が、完全に名誉を回復され、父なる神の右の座につかれ、そして大祭司として罪のあがないを成し遂げられたことの影響が全人類に及ぶ。 このことを、乳ではなく固い食物を食べることのできる大人の信仰者として受けとりたい。

ヘブル4

ヘブル4、イザヤ59ー61 「さて、私たちには、もろもろの天を通られた、神の子イエスという偉大な大祭司がおられるのですから、信仰の告白を堅く保とうではありませんか。」ヘブル4:14 偉大な大祭司イエスが、ヘブル書の中心的なテーマである。大祭司が完全な方で、自分のあがないのために捧げ物をする必要がないのなら、私たちは完全に大祭司の行為によってあがなわれている。 しかも、お高くとまっている大祭司ではない。ご自身が誘惑にあわれ、この地上での苦労を通られたので、私たちの弱さがどのようなものかも知っておられ、私たちと共に寄り添い、体験してくださった方である。 だから、子どもが大好きな担任の先生や親戚のおばさん、おじさんに飛び付くように、私たちも神の恵みの御座に近づくことができるのである。

ヘブル3

ヘブル3、イザヤ56~58 「しかしキリストは、御子として神の家を治めることに忠実でした。そして、私たちが神の家です。もし確信と、希望による誇りを持ち続けさえすれば、そうなのです。」ヘブル3:6  モーセは神の家のしもべ、家は私たち、家を造られたのは神ご自身、そして、キリストは神の家を治める方である。 1節では、私たちが天の召しにあずかっていることが述べられている。つまり、神とまみえ、神のみこころを行うことを共有し、参加できる恵みが与えられている。 日々雑事や疲れ、思い煩いはやってくる。しかし、神のくださるものは希望であり、栄光に満ちたものである。緊急ではないが重要なこと、いわゆる第二象限にくることを祈りながら日々できるように努めていきたい。

ヘブル2

ヘブル2、イザヤ53−55 「そのうえ神も、しるしと不思議と様々な力あるわざにより、また、みこころにしたがって聖霊が分け与えてくださる賜物によって、救いを証ししてくださいました。」ヘブル2:4 キリストが大祭司であることの説明が深められていくが、その前提として神が私たちに救いを示してくださったことが書かれている。本当に、いろいろな方法による。しるし、不思議なわざ(しかも力強い)、そして賜物(教え、異言、預言、あわれみなど...)を通して明らかにされるのである。 神様がこんなにも様々な方法を用いて愛と救いを提示してくださるなら、私も様々な方法を用いて神を礼拝し賛美しよう。あるときは聖書を読むことで。あるときは黙想することで。あるときは書き、話すことで。あるときは親切や誠実を示すことで。あるときは捧げることで。今日いただいている機会と賜物を見極め、神が導いておられる行動を神とともにしていくこと。それが神の愛に応える思いの現れである。

詩篇119(4)

詩篇119;89〜176、イザヤ50−52 「私は いつもいのちがけです。  それでも あなたのみおしえを忘れません。」詩篇119:109 命の危機にあっても、恐れや脅しがあっても、主の教えから離れることはない、という驚くべき信仰告白である。 「驚くべき」と書いたが、初代教会から今まで多くのクリスチャンがこのみことばの通りに一生を終えていった。迫害を受けても、福音のために犠牲を払っても、信仰を捨てなかった。 日本でも禁教時代があったし、戦時中も、また今日でも、家族や友人の反対やプレッシャーの中で信仰を守り続けている人がいる。どうかこの告白が私自身の告白となりますように。

詩篇119(3)

詩篇119;89−176、イザヤ47−49 「私の唇に  賛美が湧きあふれるようにしてください。  あなたが私に  あなたのおきてを教えてくださるからです。」詩篇119:171 「湧きあふれる(Overflow)」。口から出るものが、不平や不満、心配や動揺ではなく賛美だったら、どんなに素晴らしいことだろうか。 ヤコブ書には、口から出るものに賛美とのろいが挙げられている。同じ器官から使い方によって正反対のものが出力されることに、神様の与えた自由意志の素晴らしさと、それを管理することの難しさを感じる。

ヘブル1

ヘブル1、イザヤ45~46 「またこう言われました。  『主よ。   あなたははじめに地の基を据えられました。   天も、あなたの御手のわざです。』」ヘブル1:10 神ご自身が、キリストのことをこのように言われたというのが、驚きである。 申命記の中で神ご自身が言われたこと(ヤハウェ)を、そのまま御子であるキリストに当てはめて記述している。 またこの章は、恥と名誉の価値観を持つ、聖書が書かれた当時の文化に根ざして書かれている。日本人だけでなく、ヘブル人の持つ恥と名誉意識の中で、名誉とは血統や家柄によるものと、成し遂げた功績によるものとの2種類がある。その両方の名誉をキリストは持っておられるのである。

ピレモン

ピレモン、イザヤ43−44 「彼は、以前はあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにとっても私にとっても役に立つ者となっています。」ピレモン 11節 逃げ出してきたどうしようもない(と思える)オネシモを、パウロは諭して悔い改めに導き、主人ピレモンの所へ手紙をつけて帰らせようとしている。 ピレモンはきっと彼を許しただろうと想像する。いわば、パウロがオネシモの連帯保証人、身元引受人となったのだ。 それはピレモンが改心し、神の元に生まれ、新しい人となったからである。人が神にふれられ、聖霊に満たされるとき、確実に変化が起こる。他人を見るのでなく、神を仰ぎ見て歩む時、神はともにいてくださり、手をとって導いてくださる。 オネシモの変化は私の変化だろうか。私は主にあって、聖霊に満たされ変革された歩みをしているだろうか。古い人により頼み続けていないだろうか。

テトス3

テトス3、イザヤ41−42 「神は、私たちが行った義のわざによってではなく、ご自分のあわれみによって、聖霊による再生と刷新の洗いをもって、私たちを救ってくださいました。」テトス3:5 神のあわれみと愛のみで救われ、私たちが霊的に新しく生まれることと、その人のうちには聖霊が住まわれることとが福音の真髄である。 「刷新の洗い」、まさにリニューアルである。古い団地が、再生計画によってリノベーションされ、骨組みは同じでも内実が新築同様にされるというニュースを見るが、私たちも同じである。外の肉体はそのままでも、中身が新しくされ、聖霊が住んでくださる。ときに古い性質が邪魔をすることがあっても、再生プロジェクトの中にある私たちは聖化の段階でも日々少しずつ神によって少しずつリノベーション工事がされ、作り変えられていく。やがて主とお会いするとき、その聖化プロジェクトも完成するのである。

テトス2

テトス2、イザヤ39−40 「その恵みは、私たちが不敬虔とこの世の欲を捨て、今の世にあって、慎み深く、正しく、敬虔に生活し、祝福に満ちた望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるイエス・キリストの、栄光ある現れを待ち望むように教えています。」テトス2;12−13 英語版(NIV)では、前半が「不敬虔とこの世の欲に“No”と言う」と訳出されている。 日常では、自分で二者択一するよりも、向こうからやってくる誘いを断る方が難しい。しかし、この文脈では、私たちを取り囲むこの世の中の様々な思いを断ることができるように、というものである。 断ることが苦手である。いつも考えすぎ、堂々巡りをする。しかし、神は私を守るために断ることを勧めてくださる。

テトス1

テトス1、イザヤ37〜38 「教えにかなった信頼すべきみことばを、しっかりと守っていなければなりません。健全な教えをもって励ましたり、反対する人たちを戒めたりすることができるようになるためです。」テトス1:9 教会のリーダーにふさわしい者の資質、態度が6節から9せつには列挙されている。特に、みことばにしっかりとつながり、神の群れを牧し、ときには悪い外部の働きに対抗することも教えられている。 自分自身を振り返ると、この働きに到底ふさわしくないと思う。欠けだらけで不足だらけの自分が、どのように主に仕えることができるかと、がっかりするほどである。 互いを尊敬しあい、仕え合い、支え合うこと。そのところから神の栄光が現れることを思い、ますます謙遜な姿勢を学んでいきたい。

詩篇119(2)

詩篇119:89−176、イザヤ34−36 「あなたのみことばは 私の足のともしび  私の道の光です。」詩篇119:105 懐中電灯で照らす足元は、真っ暗な中で用水路に落ちたり木にぶつかったりする危険から守ってくれる。 倒れている人も発見できる。夜の捜索活動で投光器がなければ話にならないのと同じである。 それだけでなく、暗がりでは気づかなかった道端の花や置かれた装飾の美しさなどにも気づく。 私は、着陸前の滑走路の光が大好きだ。希望の光、私たちを迎えてくれる光のように見える。 聖書のことばは、ちょうどそのようなものである。足元を照らし、危険を知らせ、道を教え、希望を与えてくれる。 もっとチューインガムを噛むように、聖書のことばを思い巡らし、黙想し、一日中思い出せるように。不安や否定的な思いが来たときに、みことばで対応できるように。とっさの時の行動をみことばが支配してくれますように。

詩篇119 (1)

詩篇119:1〜88、イザヤ32−33 「私は地では旅人です。  あなたの仰せを私に隠さないでください。」詩篇119:19 地上では、枕もなく文化の理解者もない旅人である。しかし、詩人が頼りにしているのは主ご自身の声、主ご自身の教えとさとしである。この詩篇は、デボーショナル詩篇と言われ、神との交わりを詩に表したものである。 海外に一人で滞在するとき、異文化と言語の壁に全く一人ぼっちだと感じることがある。孤独で、自分の思いを十分に分かち合う人もいない。思いのたけを話してわかってもらえたら、どんなに良いかと思う。そして、帰国し我が家に帰ると、そこに本音を共有できる家族がいる。 神の前にも同じである。たとえ一人暮らしになっても、家族から遠く離れていても、神はすべてを知り耳を傾けてくださる方である。そして、聴く者には神が慰めと励ましを語ってくださる。 福音について、信仰について、周りの人が理解してくれなくても、自分のことをわかってくれなくても、神はわかってくださる。神との交わりは私たちのホームであり、私たちの憩いの場である。

Ⅱテモテ4

Ⅱテモテ4、イザヤ30−31 「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。忍耐の限りを尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。」Ⅱテモテ4:2 「時が良くても悪くても」を、社会の動きや自分の人間関係、コンディションと結びつけて解釈しやすいが、ここはさらに命がけの文脈でパウロは述べている。まさに、殺されようとしているところ、危うくライオンの前に生身で引き出されるところ、そしてもちろん投獄中だった。それでも、パウロの宣教への情熱は変わらなかった。 コロナの中でも、何ができるかできないかを考える。そして、自分の焦りではなく、神が与えた環境でできることを行うことを学んでいる。これまでの標準からは制限だらけのように思うが、神の働きと可能性は、獄中にいて身動きできないパウロによって進んでいたことを思う。今私たちにできる働きと、停止するように神が求めておられる働きを区別したい。

Ⅱテモテ3

Ⅱテモテ3、イザヤ28−29 「聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。神の人がすべての良い働きにふさわしく、十分に整えられた者となるためです。」Ⅱテモテ3:16−17 これまで、16節はよく覚えてきたが、その後に17節が続いていることに留意したい。16節の理由は、神の人つまり神に仕える人が、整えられるためであるというのである。 すべての良い働きにふさわしい、整えられた(equipped)者となるためには、聖書のことばをよく読み、自分のものにし、実践していくことであると、ここから教えられる。 聖書の原則を、文脈と背景によく照らし合わせて理解する。さらには、自分自身に聖霊が何と語っておられるかを、個人的なメッセージとして受け取る。その日々が、練達した働き人としての資質と成長をもたらし、少しずつ神に仕えるにふさわしい人物へと変えられていくのである。

Ⅱテモテ2

Ⅱテモテ2、イザヤ26−27 「キリスト・イエスの立派な兵士として、私と苦しみをともにしてください。兵役についている人はだれも、日常生活のことに煩わされることはありません。ただ、兵を募った人を喜ばせようとします。」Ⅱテモテ2:3−4 3−6節では、主に仕える者が「兵士」「競技者」「農夫」にたとえられている。どの人も、神の御心に従い、集中して自分の任務、目標を見据えている。神の戒めと導きに従い、そして神だけを喜ばせようとし、やがて祝福を受けるのである。 24−25節ではさらに、「主のしもべが争ってはいけません。むしろ、すべての人に優しくし、よく教え、よく忍耐し、反対する人たちを柔和に教え導きなさい」と姿勢について語られている。 これを、すべてのクリスチャンが主のしもべとして受けとるなら、どれほど福音が愛をもって分かち合われ、教会の中が愛で満ちるだろうか。もし今批判的な思いで苦しんでいる人がいるなら、まず自分自身からこの姿勢を始めてみて欲しい。周りや教会がそれで変わるなら恵み出し、目立って変わらなくてもあなたが誠実にこのみことばを実践するなら、農夫のように一番に収穫の恵みと祝福を得るのである。あきらめないで、失望しないで、主ご自身に期待していこう。

Ⅱテモテ1

Ⅱテモテ1、イザヤ23−25 「自分に委ねられた良いものを、私たちのうちに宿る聖霊によって守りなさい。」Ⅱテモテ1:14 「良いもの」とは福音である。福音が自分のための良いニュースだと悟らせてくださるのは聖霊であり、それを継続して守らせてくださるのも聖霊である。多くの人たちが離れていき、見えるところでは疑いが出てきそうなテモテと信者たちが、この福音から離れることがないようにとパウロは留意し励ましている。 福音は、ただ受けるだけではない。「委ねられた」とあるとおり、私たちを選び召してくださった神は、私たちが自分の特権に安住することだけでなく、他の人々とも分かち合うことを望んでおられる。その意味では、聖霊がともにいてくださる私たちは、聖霊の促しに敏感になり歩むことで、臆病から解放され、適切な、知恵を持ったやり方で分かち合う機会が与えられる。 人の反応ではなく、神が良いとされたら、受け入れられないように見えても必ず種がまかれている。その信仰も持ち続けたい。

Ⅰテモテ6

Ⅰテモテ6、イザヤ20−22 「テモテよ、委ねられたものを守りなさい。そして、俗悪な無駄話や、間違って『知識』と呼ばれている反対論を避けなさい。」Ⅰテモテ6:20 「委ねられたもの」とは「福音」のことだとスタディー・バイブルにはある。すなわち、福音を伝えること、分かち合うことは大切である。そしてそれ以上に、福音を自分自身が体験し、味わい、恵みに浸る経験を日々新しくしていくことが、分かち合うために必要だと思う。満たされることで、流し出すことができる。小さな工夫で、神の恵みを思い出しやすくすることができる。日記、スマホの待受画面などでも、福音と神が与えてくださった聖書箇所をメモしたり設定したりすることができる。 また、与えられた人間関係や奉仕も大切にはするが、全てを自分が完璧にしようとしても限界がある。ベストを尽くしつつ、召しのものに特に集中すること、それを見極め、他の人に任せたり委ねたりする知恵と寛容さも身につけていきたい。

詩篇118

詩篇117 ー118、イザヤ17−19 「主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。  その恵みはとこしえまで。」詩篇118:1、29 こう歌えた詩人は、その恵みの内容を詩の中で述べている。 特に、 5節 苦しみの中で答え助けてくださった主 6〜9節 味方である主、人を恐れる必要はない は、私たちの恐れるときの助けが神であり、一番の危機に頼れるお方であることをはっきり宣言している。 人を恐れ、人の反応や批判を気にする者にとって、目を向ける方向を変えることができるというのはなんと幸いなことか。そして、その方向には確かな助けがあるのである。

詩篇117

詩篇117−118、イザヤ14−16 「主の恵みは私たちに大きい。  主のまことはとこしえまで。  ハレルヤ。」詩篇117:2 もうすぐ聖書で最も長い章である119篇を読む。その直前に、聖書で最も短い章である117篇がある。そして、その詩は簡潔に、しかしはっきりと、すべての人に主をほめたたえよと命令している。 なぜなら、主の恵みと真実、すなわち私たちへの愛があまりにも大きいからだと2節で言う。 神の愛が底辺にあっての人生、希望、礼拝、日々の暮らしである。 言うのはたやすいが、どれだけ実感し、受け取っているだろうか。

Ⅰテモテ5

Ⅰテモテ5、イザヤ11−13 「よく指導している長老は、二倍の尊敬を受けるにふさわしいとしなさい。みことばと教えのために労苦している長老は特にそうです。」Ⅰテモテ5:17 先日、「なぜ日本の牧師は皆教えと牧会ばかりなのか」と質問を受けたことがある。つまり、もっと別の賜物を生かす人たちが教会の中でいないのか、ということである。 五役者の回復については幾つかの立場があるので、深入りしない。しかし、この聖句が一つのヒントになるように思う。つまり、 教会形成において教える立場にある人が牧師として神様が立て、教会もその人を経済的に支えながらみことばに専念してもらうように成長していくのだ(18節参照、NIV Study Bibleも同様の説明)。