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黙示録22

黙示録22、マラキ1〜4 「これらのことを証しする方が言われる。『しかり、わたしはすぐに来る。』アーメン。主イエスよ、来てください。」黙示録22:20 黙示録の書の終わりにあたって、ヨハネは祈りで締めくくっている。それは、主が見せてくださったことへの信頼と感謝、そして来るべきキリストの再臨への期待だった。恐ろしく思える描写も、主の御名を信じる者にとっては恐れる必要がない。同じ告白で終えたい。 「アーメン。主イエスよ、来てください。(マラナタ) 来る年も、あなたに期待します。」

黙示録21

黙示録21、ゼカリヤ13〜14 「私はまた、大きな声が御座から出て、こう言うのを聞いた。 「見よ、神の幕屋が人々とともにある。 神は人々とともに住み、人々は神の民となる。 神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。」黙示録21:3 聖書は私たちに希望と慰めを与えてくれる。知恵と戒めも多く書かれているが、それも神の愛から出ている。黙示録の戦いや恐ろしい場面ばかりに目が行きがちだが、聖書の最後が輝き希望に満ちた新しい都の描写で終わっていることがより重要だと思う。 神ご自身が共に住んで下さるから、都の中に神殿がない(22節)とも書かれている。太陽も月も不要なほど、いやそれ以上に神の栄光が都を明るくしている。 ゼカリヤ書でも、城壁のない町のことが預言されていた(ゼカリヤ2:4−5)。また、キリストを信じる者の全てが新しくされることが第2コリントに約束されていた(Ⅱコリント5:17)。その集大成のような、世界規模のみわざがなされるという約束、ここに向かって今年も歩んできた。 大きな問題でも、主の前には難しすぎることがない。その信仰が与えられるよう、信じる神の家族の間で分かち合い祈ってもらう恵みの機会は、今日すでに与えられている。

黙示録20

黙示録20、ゼカリヤ9〜12 「また私は多くの座を見た。それらの上に座っている者たちがいて、彼らにはさばきを行う権威が与えられた。また私は、イエスの証しと神のことばのゆえに首をはねられた人々のたましいを見た。彼らは獣もその像も拝まず、額にも手にも獣の刻印を受けていなかった。彼らは生き返って、キリストとともに千年の間、王として治めた。」黙示録20:4 天国には多くの座がある。定員はない。競争して天国の椅子取りをしなくても、キリストを主と信じる者は皆入ることができる。(異端の中には天国に定員があると述べ、行いを強制するものがあるが、聖書にはそう書かれていない。) 地上の生活では迫害や困難に遭い続けた信者たちがいる。「首を刎ねられた」という人々が、神のみもとで大きな権威とねぎらいを受けていることが書かれている。その時点で島流しという迫害を受けていたヨハネはどんなに慰められただろうか。当時の迫害下の教会、そして今のアフガンや北朝鮮の信者、日本の中で家族や会社で反対される信者たちの未来はこのようなものである。 目を天に向けて期待しよう。また、近くや遠くの、困難の中にあるクリスチャンのために祈ろう。

黙示録19

黙示録19、ゼカリヤ5〜8 「その後、私は、大群衆の大きな声のようなものが、天でこう言うのを聞いた。 『ハレルヤ。 救いと栄光と力は私たちの神のもの。』」黙示録19:1 19章に入ると、神をほめたたえる声がいっそう大きくなる。 「ハレルヤ(主をほめたたえよ)」という言葉は、旧約聖書の詩篇では馴染みのある言葉である。しかし、新約聖書の中ではたった4回、しかもその全てがこの19章に出てくる。 1節、3節、4節、6節での「ハレルヤ」は、究極の喜びと神への感謝の叫びであり、ただ主のみを礼拝している者の姿が浮かぶ。そこには人の顔色や身の周りの状況を恐れる様子はいっさい出てこない。 私たちの礼拝と神への姿勢は、まさにこのようなものであることを主は願っておられる。戦いも、裁きも、子羊なるイエス様が全て勝利された。私たちの力ではなく、そして私たちの心配や否定的な予測を超越した方によって勝利がもたらされるのである。今日勝利が必要な分野はどこか。御心ならば主が導いてくださる、その信仰を日々与えられますように。

黙示録18

黙示録18、ゼカリヤ1〜4 「その後、私は、もう一人の御使いが、大きな権威を持って天から下って来るのを見た。地はその栄光によって照らされた。」黙示録18:1 ひとりの天使の様子が冒頭に描かれている。彼は大きな権威を持ち、栄光に輝き(1節)、力強い声を持っていた(2節)。 素晴らしい姿だが、天使そのものは神ではない。権威も栄光も、主なる神ご自身から委託されて働いているのである。栄光は最終的には主にお返しするものである。高慢になり、それをしなかった天使は堕落し、サタンとして惑わすものになった(エゼキエル書参照)。 高ぶって神に栄光を帰さなかったサタンの末路は、黙示録に書かれている通りである。 人間でも同様である。賜物や権威を与えられた者は、主に栄光を帰さなければならない。自分のために用いてはならないのである。神の栄光のために、委託された資源や資格を十分に用いることを神は望まれる。多く与えられたものも、少なく与えられたものも、比較するよりそれを神のために用いることが御心である。 良い知らせ、神の希望を力強い声で叫ぶものでありたい。周囲に対しても、そして自分自身の心に対しても。

詩篇150

詩篇148−150、ハガイ1−2 「息のあるものはみな  主をほめたたえよ。  ハレルヤ。」詩篇150:6 主をほめたたえることが、全節で命じられている。中途半端な思いではなく、決意をして、意志でほめたたえるように招かれている。 礼拝で、どのようなスタイルでも、自分のベストを尽くしてほめたたえることである。あの人の賛美の姿勢が気になる、とか、歌う賛美の曲が気に入らない、とか言っている場合ではない、というのがこの紙片からわかる。主を愛するなら、そして主に救われているなら、タンバリンと踊りでダビデのように踊りながらほめたたえる、あるいはシンバルでほめたたえることは、救われ、神を愛する者のすべきことである。 昨夜、背中にうっかり低温やけどをした。また、寝ている間に手の人差し指がなぜか切り傷を負っていた。痛みと不快な感覚で目を覚ましたが、それでも、「息のあるもの」である限り、主をほめたたえるようにと招かれているのだという事実を確認しつつ、この文章を書いている。 共に、主をほめたたえよう。自分の持てる全てを持って、褒め称えよう。礼拝の賛美も、自分のベストを神の前にささげよう。誰が何を言おうと、ダビデのように賛美しよう。

詩篇148

詩篇148−150、ゼパニヤ1−3 「若い男よ 若い女よ。   年老いた者と幼い者よ。   主の御名をほめたたえよ。   主の御名だけがあがめられる。  その威光が 地と天の上で。」詩篇148:12−13 146篇からハレルヤ詩篇が続く。148篇の前半は天にあるもの、後半は地にあるもの全てが主をほめたたえよ、という箇所である。 もう高齢だから、まだ小さいから、礼拝ができないというのは間違いだとわかる。スタイルは異なるかもしれないが、それぞれの最善を尽くして礼拝することはできる。数年前に大人も子どもも一緒の礼拝を、という本を読んだ。同じ礼拝の中で、神の家族として集められている恵みを知ることができる。まさに、この詩篇も同じ情景である。人だけでなく、天にあるもの、地にあるもの、造られたもの全てが神と共に喜び楽しみ、神をほめたたえる。不満や不足は横に置いて、神の恵みと救いの喜びを、このクリスマスに、また年末年始に確認しようではないか。福音とは、私たち一人ひとりにとって、何であるか。どういう意味を持っているか。

黙示録17

黙示録17、ハバクク1−3 「それから、御使いは私を御霊によって荒野へ連れて行った。私は、一人の女が緋色の獣に乗っているのを見た。その獣は神を冒瀆する名で満ちていて、七つの頭と十本の角を持っていた。」黙示録17:3 恐ろしく思える描写が続くのだが、キリストを信じる者は恐れる必要がないことを改めて思う章でもある。というのも、ヨハネは神の霊である御霊が彼とともにいてくださるのを確認するからである。 御使いが、御霊によって彼を荒野に連れて行った。荒野はさびれた場所、獣のいる場所、危険な場所である。ひとりでは行きたくない場所だ。しかし、時に神様は私たちを荒野にいざなわれる。それは、私たちを訓練し、ご自身のみこころを示し、普段の生活や知性では見ることのできないものを見せるためである。 快適な暮らしでは体験できない訓練と信仰の成長のために、神様は荒野に行こうと言われる。そして、荒野で、私たちはひとりではない。親しく主ご自身が共にいてくださるのだ。

黙示録16

黙示録16、ナホム1−3 「─見よ、わたしは盗人のように来る。裸で歩き回って、恥ずかしい姿を人々に見られることのないように、目を覚まして衣を着ている者は幸いである─」黙示録16:15 恐ろしい災害の様子が描写される16章の中で、キリストのことばが15節で聞こえる。それは、恐ろしい内容ではなく、「幸いな人」とはどのような人かを教えてくれるものである。地上で教えて下さった時、山上で人々を前に「心の貧しい者は幸いです…」 (マタイ5章3〜12節)と教えてくださったのと同じように、変わらないキリストが語りかけて下さっているのだ。 私たちは地上の出来事にうろたえ、パニックになり、疲れ、諦めて絶望してしまう弱い者である。しかし、「目を覚ましていなさい」と励ましてくださる方が今日もおられるのである。 どのくらい、この方に信頼しているか。口からは不平や不満が出てきそうになるが、舌も裸で野放しではなく、「目を覚まして衣を着て」キリストを待つことができたら幸いである。 ひどく思える状態は長く続くものではなく、やがて『成就した」(17節)となるのである。忍耐が、試されている。                                            

黙示録15

黙示録15、ミカ6−7 「主よ、あなたを恐れず、 御名をあがめない者がいるでしょうか。 あなただけが聖なる方です。 すべての国々の民は来て、 あなたの御前にひれ伏します。 あなたの正しいさばきが 明らかにされたからです。」黙示録15:4 7つの災害を怖がるだけではなく、その中で主の御名があがめられること、ほめたたえられていることを覚えたい。 神殿が神の栄光と御力からの煙で満たされたというのも、ソロモンが神殿を献上した時と類似している(8節)。神のご栄光は当時も、そして最後の時も変わらないことがわかる。 黙示録の災害や戦いの場面が怖くて、なかなか読めないという声を聞く。私自身もそうであった。しかし、SF映画のような場面だけでなく、それを許し、御心のままになさる神様の深い愛と限りない力を覚える時、描写の背後にある神の壮大なご計画をほめたたえたいと思わされる。神のご栄光は変わらない。そして、信じる者を守ってくださることも変わらない。恐れるものは何もないのだ。

黙示録14

黙示録14、ミカ4−5 「また私は、もう一人の御使いが中天を飛ぶのを見た。彼は地に住む人々、すなわち、あらゆる国民、部族、言語、民族に宣べ伝えるために、永遠の福音を携えていた。」黙示録14:6 この箇所からも、神のみこころは全世界のあらゆる民族が福音を聞いて救われることだとわかる。福音は「永遠の福音」と書かれている。今日だけでなく、順調な時だけでなく、永遠に続く、永遠の良い知らせである。そして、将来のことだけでもない。私たちの人生に希望を与え、今すでに働いている良い知らせでもある。 死ぬ間際になったら信仰告白をする、と話す人がいる。もちろん、人生のどの段階でキリストを信じても、永遠のいのちは与えられる。しかし、死ぬ間際にタイミング良く信仰を持つことができるとは限らない。今日、事故や事件で突然死んでしまう可能性もゼロではないのだ。さらに、福音が死んでからのものではなく、今生きている日々に関係があるものだとすれば、福音を受け入れるのは1日でも早い穂が良い。なぜなら、キリストと共に歩む人生は、キリスト抜きで歩む人生とは質が違うものだからである。決心するなら、早い方が良い。そしてその決心は、後悔することがない。

黙示録13

黙示録13、ミカ1−3 「耳のある者は聞きなさい。  捕らわれの身になるべき者は 捕らわれ、 剣で殺されるべき者は 剣で殺される。 ここに、聖徒たちの忍耐と信仰が必要である。」黙示録13:9〜10 クリスチャンたちが順風満帆で苦労をしないのではなく、苦労続きになり命を失う場合もある。しかし、黙示録13章は忍耐と信仰を働かせるようにと励ましている。現に、7つの教会、あるいは各地の主の教会は迫害の中にあった。それでも、神を信頼し崇め続けた。 忍耐と信仰を働かせるには、神の驚くべき力に信頼し、良いプランー計画を信じる希望が必要である。私たちのちっぽけな頭では到達し得ないが、神にはその信仰や希望を与えてくださることができる 。それゆえに今日も生きていこうと思える。 年末近くなり、悲しい犯罪や自殺のニュースが入ってくる。その事件にまつわる苦悩はどれほどかと思う。もし、その人たちがイエスに出会っていたら、もう少し違った結果になったのではと心痛む。そして、福音が伝わるように、届けられるようにと祈るのである。

詩篇147

詩篇145−147、ヨナ1−4 「主は心の打ち砕かれた者を癒やし  彼らの傷を包まれる。」詩篇147:3 「心の打ち砕かれた(Brokenhearted)者」とは、バビロン捕囚で捕虜として引いていかれた者、残された者、あるいは帰還してエルサレムを再建しようとして反対者にあった者のような状況の人のことである。 聖書は昔の書物で終わらせるものではなく、今日も生きて力のある神のことばである。今も、家族が信仰に反対する人、教会を批判してある人が出ていき残された人、大変な状況に置かれた人など、同じように「心の打ち砕かれた者」がいる。 そして、同じ神様が癒やし、傷を包んでくださることにも変わりはない。その真実と約束を握って、今年のクリスマスを迎えようとしている。

詩篇145

詩篇145−147、オバデヤ 「主は倒れる者をみな支え   かがんでいる者をみな起こされます。   すべての目はあなたを待ち望んでいます。    あなたは 時にかなって   彼らに食物を与えられます。」詩篇145:14〜15 主は私たちに近くあられる。そして、わたしたちを助け引き上げてくださる。神の介入は私たちには遅く思えるが、時にかなって必要を与えられる。それは神が全てをご存知だからである。 なぜ苦難があるか。苦難自身は神が与えるものではないが、それを許されるのは、もしかすると神が私たちの手を取りたい、かがんでいる私たちの手を取って起こしてあげたい、と思ってくださるからかもしれない。

黙示録12

黙示録12、アモス7−9 「女は荒野に逃れた。そこには、千二百六十日の間、人々が彼女を養うようにと、神によって備えられた場所があった。」黙示録12:6 この荒野は、辛い試みの場所ではない。神が守りを与えるために備えて下さった安全な場所である。 預言者エリヤが荒野で休息したり、モーセがエジプトを逃れてミデヤンまで荒野を旅したり、イエス様が群衆から離れて寂しい所に退いて祈られたりと、荒野は神と出会い静まる大切な場所として記されている。 私たちの霊と心も、日々荒野に行く必要がある。荒野は日常から距離をとり、深呼吸し、神と出会い願いを述べ、神の声を聴き、リセットし、また日常に戻っていく作業をする場所である。特に敵の攻撃が激しい時(私の場合は陰口を言われたり批判されたりすることで心が落ち込みやすい)、「それは真実か?」「相手の品性が問題ではないのか?」「誇張されていないか?」と吟味する必要がある。陰口を伝える人が、一番問題があり、サタンの攻撃に圧倒されている場合が多い。だから、その人のために祈ることから始めるためにも、一度荒野に退いて神から祈ることをも教えていただくのである。

黙示録11

黙示録11、アモス4−6 「諸国の民は怒りました。  しかし、あなたの御怒りが来ました。  死者がさばかれる時、  あなたのしもべである預言者たちと聖徒たち、  御名を恐れる者たち、  小さい者にも大きい者にも  報いが与えられる時、  地を滅ぼす者たちが滅ぼされる時です。」黙示録11:18 神の裁きの時は、恐ろしいだけではない。これまで忠実に歩んできた者たちが報いを受ける時でもある。小さい者、大きい者、その働きの大きさは関係ない。ただ、主の御名を恐れる者であれば等しく平安と報いが与えられる。 主の裁きは恐ろしい。しかし、それは主を信じない者にとってであって、信じる者には栄光と平安の時である。 今も労苦の中にあって、信じる者、主に信頼する者にはこうした結末があることを信じたい。信じる者同士のトラブルであっても、そうでなくても、主が全てをご存知である。そして、私自身に必要なのは、その主に信頼し、主の御名を呼び求め続けることである。

黙示録10

黙示録10、アモス1−3 「私はその御使いのところに行き、『私にその小さな巻物を下さい』と言った。すると彼は言った。『それを取って食べてしまいなさい。それはあなたの腹には苦いが、あなたの口には蜜のように甘い。』」黙示録10:9 口に甘く、腹に苦いというのは、一見すると良いものが実は良くない結果を引き起こすというように受け取っていた。 しかし、スタディーバイブルの解説には「腹には苦い」というのは、来るべき裁きが到来し、災いが起こるからである。「口には甘い」というのは、神の目的が十分に実現されるからである、とある。 諸説あるだろうが、このように、自分の読み方が浅かったり歪んでいたりすることはよくある。 聖書の神を誤解している人、キリストを信じられない人はそのような面もあるのだと思う。 信仰者でも、神が良い方であること、全てを益に変えてくださる方だということを信じられない時がある。私もそうである。ベストを尽くしていたつもりなのに人からの批判、非難を受けるとしんどくなってしまい、意欲も喜びも失ってしまう。人の力でベストはない。それを自分の限界を超えて何かしているからこそしんどくなってしまうのかもしれない。元々8割の力でやっていれば、それはそうだ、と流せるのかもしれない。いや、所詮完全なことはできないし、人の反応も予測できないことがあるのだから、ただ神を見上げ、神のみに聞きながら進むのみである。また、被害妄想的な思いや焦る思い、取り返しがつかないと思う思いはサタンが持ってきていることを自覚したい。破滅に追い込むのは彼の常套手段である。

黙示録9

黙示録9、ヨエル1−3 「そして彼らは、地の草やどんな青草、どんな木にも害を加えてはならないが、額に神の印を持たない人たちには加えてよい、と言い渡された。」黙示録9:4 出エジプトの10の災いと同じく、神を知り神に祈る者には災いが与えられないことがわかる。 つまり、主のさばきに合わないのだ。 この患難のときにクリスチャンがどこにいるかは諸説ある。しかし、どの説に立っても。神が覚えていてくださること、神の支配の中で天変地異がここでは行われていることが読み取れる。恐れすぎず、怖がり過ぎず、日々の主の守りを確信して今日も歩みたい。

黙示録8

黙示録8、ホセア9−11 「香の煙は、聖徒たちの祈りとともに、御使いの手から神の御前に立ち上った。」黙示録8:4 黙示録の患難の記述の中でもほっとするのは、クリスチャンの祈りが神の前に覚えられていること、祈りが天国でも大切なものとして届いているということである。 神は私たちの祈りを決して軽視されない。祈りがどのような形式であれ、祈りによって神に届く叫び、願い、賛美、礼拝は香のように立ち上るのである。 人の声より神の声。人の言葉より、神の励ましと慰め。人との会話より、神との対話。

詩篇144

詩篇142-144、ホセア 「主よ 人とは何ものなのでしょう。  あなたがこれを知っておられるとは。  人の子とはいったい何ものなのでしょう。  あなたがこれを顧みられるとは。」詩篇144:3 私の存在は神の前にはちっぽけで、取るに足りないものだと感じる。私がいてもいなくても、変わりないのではないか。 その問いはダビデの問いでもあった。王であっても主の前には限りある、小さな存在だということを彼は自覚していた。 しかし、主はそんな私を忘れてはおられない。 私を知っておられ、顧みてくださるのだ。なぜ?神にとっての私の価値はほとんどないとも思える。私は神に何もお返しできないし、何もまともな働きができないから。 それでも神は私を愛し、尊い存在として認め続けていてくださる。不完全な私だが、感謝いっぱいに受け取り、その愛を流し出せるようにと祈る。

詩篇142

詩篇142−144、ホセア5−8 「私は御前に自分の嘆きを注ぎ出し  私の苦しみを御前に言い表します。」詩篇142:2 御前に嘆きを持っていくこと、誤解やトラブルの辛さも注ぎ出すことを、主は望んでおられる。 様々な牧会の困難も、また愛と知恵が乏しいことも、主の前に注ぎ出して求めることができる。 ある牧師が、「牧会は大変ですが、イエス様と一緒にするので大丈夫です」と言われていた。全くそうだと思う。イエス様としない限り、できない働きである。しかし、イエス様と共にする時、喜びと平安がやって来る。

黙示録7

黙示録7、ホセア1−4 「御座の中央におられる子羊が彼らを牧し、 いのちの水の泉に導かれる。 また、神は彼らの目から 涙をことごとくぬぐい取ってくださる。」黙示録7:17 天の国でクリスチャンをケアし導いてくれるのはキリストご自身である。そして、天の国がそうであるなら、地上でも同じく、キリスト自身が牧してくださるはずである。私が何かできなくても、あるいは十分にできなくても、キリストがなさることに期待する。 そして、自分自身のケアもキリストがしてくださる。少し前に、大変傷つくような言葉を投げかけられた。心が痛み、うつになりそうなほどだったが、その悪口と批判、鋭い言葉の陰には、相手自身の嘆きと怒りとストレスがあるのだと思った。たとえ本人が否定していても、それは明らかである。 そこに巻き込まれるのは、自分や家族を破滅に至らせようとするサタンの攻撃である。自分を確かに保つためには、キリストにあって痛みを癒やされ牧していただくことである。

黙示録6

黙示録6、ダニエル11−12 「すると、彼ら一人ひとりに白い衣が与えられた。そして、彼らのしもべ仲間で、彼らと同じように殺されようとしている兄弟たちの数が満ちるまで、もうしばらくの間、休んでいるように言い渡された。」黙示録6:11 神への信仰ゆえに迫害を受けて殺された人たちに、白い衣が与えられ、ねぎらわれていることがわかる。しかし、もうしばらく休むように命じられた。それは、まだ同じように死にまで従って殺される兄弟たちの数が満ちないからだった。 死にまで従う者か、あるいは相変わらず自己弁護して他者のせいにする者か。 太平洋戦争の時、戦犯とされた中に牧師がいた。アジアの人の虐殺に加担したというのだが、実際には逃げる手助けや慈善事業に関わっていたのだった。牢の中で初めは無実の罪への怒りだった。しかし、10年近く過ごす中で、アジアの人たちが同じ思いをしていることに気づき、自分の内面にある罪や加害者である日本人としての責任を感じ、恩赦の申請をしないで過ごしたというのである(のちに釈放)。 キリストを十字架につけた自分、福音を受け取りながらも人間関係でつまづく自分を思うときに、神の愛を受けながら肉の思いに支配される自分の弱さを思う。兄弟たちの目のちりに気づくが、自分の目のはりには気づかないのである。その状態で、死にまで従うことができるだろうか。 迫害の中にある兄姉を考えるとき、日常の中で長期間の介護や病気にある兄姉を思うとき、忍耐を尽くした人たちは天の国で白い衣を着せられるのだという神のねぎらいを思い起こし、尊敬と祈りを持って支えたい。

黙示録5

黙示録5、ダニエル8−10 「巻物を受け取ったとき、四つの生き物と二十四人の長老たちは子羊の前にひれ伏した。彼らはそれぞれ、竪琴と、香に満ちた金の鉢を持っていた。香は聖徒たちの祈りであった。」黙示録5:8 祈りが香となってたち上るとしたら、祈りはどれほど重要なものだろう。礼拝の要素として、賛美と祈りは外せない。神のことばを聴いたら、その応答として祈ること、それが天的な意味では非常に重要である。 祈りはよいことばかりでなく、心の痛みや辛さも神に申し上げてよいのだということが、詩篇のダビデの祈りからもわかる。大切なのは、肉的な、地上的な次元で祈りを留めずに、神に向かってささげ、神との関係で消化し解決へ導いていただくことである。一人で堂々巡りしていてはうつになることでも、神の方を向くときに大きな出口があることを確認し、忍耐できるのである。

黙示録4

黙示録4、ダニエル5−7 「たちまち私は御霊に捕らえられた。すると見よ。天に御座があり、その御座に着いている方がおられた。」黙示録4:2 ヨハネは御霊がおられること、彼を引き上げられたことをすぐに察知した。聖霊の存在を認めていただけでなく、聖霊が自分に働き、現実のものとして自分の状況を変える方であることを、ここでは当然のように書いている。 パウロもそうだった。第三の天を見たのだった。 今の私には、そこまでの肉体的にもインパクトを覚えるような体験がしょっちゅうあるわけではない。しかし、御霊がいつもおられ、サタンの攻撃をびくともしない私たちになって欲しいと願っておられる。否定的な思い、批判や苦い思いになる時、いじめられて深く傷ついた時に、御霊が内面で働いてくださっていること、すでに心に先住してくださっていることを思い出そう。他者のどんな言葉や態度も、私の心そのままを直接傷つけることはない。聖霊様が心にバリアを張ってくださっていて、どんな時も私の心を乱すことはない。 「だれが、私たちをキリストの愛から引き離すのですか。苦難ですか、苦悩ですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。…しかし、これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。」ローマ8:35、37

黙示録3

黙示録3、ダニエル3−4 「目を覚まし、死にかけている残りの者たちを力づけなさい。わたしは、あなたの行いがわたしの神の御前に完了したとは見ていない。」黙示録3:2 この地上で伝道できるのも、人に会えるのも、礼拝に来れるのも、永遠ではない。コロナウイルスで礼拝を持つことさえままならなくなってしまったが、礼拝はコミュニティであり、ともに捧げる群れであり、毎週集まることがどれほど価値あることかを痛感したことである。 年老いて天国が近くなった時、どのくらい礼拝に行ったことが懐かしく思い出されるかを思う。最後の時まで、神にあって本人も、周囲も、平安に過ごすことができればと願う。また、キリストが私の働きを「完了した」と認めてくださるまでは、ひたむきに、淡々と主の働きを続けたい。

詩篇141

詩篇139−141、ダニエル1−2 「主よ 私の口に見張りを置き  私の唇の戸を守ってください。」詩篇141:3 口を制することは至難のわざである。ヤコブ書にも出てくるが、舌を治めることのなんと難しいことか。クリスチャンになったからといって、この戦いが終わるわけではない。 神を褒め称えながらも、そのすぐ後で他者のことを悪く言ったり、教会への批判がくすぶったりすることがあるかもしれない。 神はそのこともご存知である。だから、「口に見張りを置いて唇の戸が守られるように」と祈らせてもくださる。 さらに口は祈るためについている。 「私の祈りが 御前への香として  手を上げる祈りが 夕べのささげ物として  立ち上りますように。」(2節) とあるように、祈りは神の前によい香りを放つ。それが口から出てくるという恵みも与えられている。 不満を神への祈りに、感謝を神への祈りに変えていこう。 人と人の間だけで口を使うのでは勿体ない。

詩篇139

詩篇139〜141、エゼキエル47−48 「神よ 私を探り 私の心を知ってください。    私を調べ 私の思い煩いを知ってください。   私のうちに 傷のついた道があるかないかを見て    私をとこしえの道に導いてください。」 詩篇139:23〜24 遠くから私の思いを読み取られる神(2節)は、どの人の心にも触れ、心を変えることのできる主である。自由意志を与えてくださってはいるが、状況や気づきを聖霊様が信じる者には注いでくださる。 まず自分自身が高潔で、主に喜ばれる思いを抱いて過ごしているだろうか。自分の品性が、聖書に照らしてふさわしいものだろうか。 主に聞き、主に正していただくことを、まず働き人から。そしてその姿勢が周囲に主の香りを放つ者となりたい。その秘訣は祈りの生活だと言える。

黙示録2

黙示録2、エゼキエル45−46 「だから、どこから落ちたのか思い起こし、悔い改めて初めの行いをしなさい。そうせず、悔い改めないなら、わたしはあなたのところに行って、あなたの燭台をその場所から取り除く。」黙示録2:5 エペソの教会は、労苦と忍耐、そして偽り者を見抜いた教会だった。主を愛し、主に従いたいという人たちが集う良い教会だった。疲れ果てることがない、耐え忍んだ教会だった。 しかし、初めの愛から落ちたことで叱責を受けている。 神がどれだけ、初めの愛を保つことを願っておられるかである。神に対して、また人に対して、初めの愛で接することを願っておられる。 神の叱責そのものは愛で満ちている。叱責と共に回復の道筋も書かれているのである。どこから落ちたのか思い起こすこと、悔い改めて初めの行いをすることで回復できることを教えてくれているのが5節である。 旧約聖書も、神の警告と回復が書かれている。警告に早く従えば従うほど、神の回復もスムーズである。教会の中でもし初めの愛で接することのできない人がいるなら、今日祈り和解することができる。また、神に対しての愛が冷えているなら、今日祈り新たな愛で満たしていただくことができるのである。 神の回復、神の解決は万全で、しかも万事を益としてくださることを覚える。

黙示録1

黙示録1、エゼキエル42−44 「あなたがわたしの右手に見た七つの星と、七つの金の燭台の、秘められた意味について。七つの星は七つの教会の御使いたち、七つの燭台は七つの教会である。」黙示録1:20 七つの燭台を七つの教会の象徴として、キリストがヨハネに見せてくださった。まず、燭台がキリストの右手にあったことに、教会をキリストがいつも見守り抱いてくださることを知る。 そして、燭台はろうそくの光を入れる器具である。光はもちろんキリストの光、その光を輝かせるのが教会である。教会自体に栄光があるのではなく、教会の頭であるキリストが輝いておられるのである。 燭台がもしろうそくを入れることなしに置かれていたら、ただのくすんだ器である。キリストがおられるからこそ、教会は教会としての機能を果たす。そして本来の働きを全うすることができるのである。キリストの光が輝いているなら、燭台の古さや安っぽさはあっまり問題ではない。私たちの器がどのような材質であったとしても、光が素晴らしければ素晴らしく用いられる可能性を秘めている。

ユダ

ユダ、エゼキエル40−41 「しかし、愛する者たち。あなたがたは自分たちの最も聖なる信仰の上に、自分自身を築き上げなさい。聖霊によって祈りなさい。」ユダ 20節 聖霊によって祈らない限り、信仰は知的なものにと留まり、祈りには力がない。異言を使うかどうかではなく、信仰そのものが聖霊を認め、聖霊の働きに期待するかにかかっている。 最も聖なる信仰とは、肉のことでなく霊のことを考える。神の目で、神の価値観に立つことである。 神が導いてくださるのでなければ、どんな働きもむなしく、自分の限られた力の範囲に終わってしまう。そうではなく、聖霊の力と神の働きに委ねることである。