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詩篇72

「ほむべきかな 神である主 イスラエルの神。 ただひとり 奇しいみわざを行われる方。 とこしえにほむべきかな その栄光の御名。 その栄光が全地に満ちあふれますように。 アーメン、アーメン。 エッサイの子ダビデの祈りは終わった。」詩篇72:18~20 詩篇第2巻の最後は、主への賛美と「ダビデの祈りは終わった」という文言です。 ダビデの詩は、もちろん詩篇の他の箇所にも出てきています。 それでも、「アーメン、アーメン」と一つ一つの祈りに心合わせ、それを重ねています。 私たちも同じです。共に祈り、「アーメン、アーメン」と心合わせることに、クリスチャンが一人ではなく主の共同体として歩んでいることの意味を覚えます。 信仰生活は一人で完結するのではありません。少し面倒に思えても、信仰者の集まりがどれほど意味のあるものか、じっくり考えてみたいと思います。 祈り:神様、信仰の友の祈りに心合わせ「アーメン」と言える恵みに感謝します。私が祈る時、共に祈ってくれる人たちの存在を感謝します。アーメン

詩篇71

「年老いたときも 私を見放さないでください。 私の力が衰え果てても 見捨てないでください。」詩篇71:9 年を重ねた自分を想像してみてください。体力がなく、足も弱く、ばりばり働くこともない自分。 世の中は、引退した人のことを忘れるかもしれません。 しかし、神様は決して忘れることがありません。 年を重ねたからこそ、いっそう主の恵みと守りの経験を通り、確信を持つことができます。 ダビデも 「神よ あなたは私の若いころから 私を教えてくださいました。 私は今なお あなたの奇しいみわざを告げ知らせています。(17節)」 と、若い頃も今も変わらない主の真実を歌います。 「年老いて 白髪頭になったとしても 神よ 私を捨てないでください。 私はなおも告げ知らせます。あなたの力を世に。 あなたの大能のみわざを 後に来るすべての者に。(18節)」 とも述べます。何歳になっても、主の素晴らしさを後世に伝えるという使命は変わりません。たとえ病気であっても、寝たきりになっても、クリスチャンは生涯神に愛され、霊的な歩みでは現役だと、聖書が保証してくれています。 祈り :神様、何歳になっても使命のある、価値ある存在だと保証してくださり、感謝します。 高齢の愛する兄姉である___さん、___さんを祝福してください。 そして___さんの父親、___さんの母親...がキリストに出会うことができますように。あかしする兄姉を励ましてください。彼らが、天国の望みをこの地上でも一日も早く体験できますように。アーメン

詩篇70

「神よ わたしを救い出してください。 主よ 急いで私を助けに来てください。」詩篇70:1 詩篇のダビデの祈りは、同じようなことが繰り返されていると感じます。 それでよいのだと思います。 私たちの思いは、同じ傾向にありますし、日々同じようなことを考えます(思考が堂々巡りをすることもあります)。 急に整理がついた、解決したということもあれば、長期にわたって祈り続けることもあります。 詩篇がダビデの同じ願いをそのまま残していることに、かえってほっとします。 しかも70篇は「記念のために」と副題がついています。 神が「私の助け 私を救い出す方(5節)」という信仰告白をしながら、たゆまずあきらめず祈り続ける信仰は、自身や民族の記念となり、信仰者の姿勢の記念ともなっています。 祈り:神様、私が同じような祈りをしていても、あなたが疎ましく思われず聞いてくださる恵みを感謝します。祈りこそがあなたとの会話であり、私の人生の一歩一歩の記念碑となっていくことを覚えます。新しい週も、一日の初めと終わりに祈りを置くことができますように。アーメン

詩篇69

「心の貧しい者たちよ 見て喜べ。 神を求める者たちよ あなたがたの心を生かせ。」詩篇69:32 ダビデの祈りです。彼の心は、深い泥沼に沈むような、水が喉にまで入って窒息するような状況です。 理由もなく憎まれ、断食して祈ると笑い者になる...強いストレスと嘆きに押し潰されそうな状態です。 彼は祈ります。 「私を泥沼から救い出し 沈まないようにしてください。 私を憎む者どもから 大水の底から 救い出してください。 奔流が私を押し流さず 深い淵が私を吞み込まず 穴が私の上で口を閉じないようにしてください。(14~15節)」 そして、 「心の貧しい者たちよ 見て喜べ。 神を求める者たちよ あなたがたの心を生かせ(32節)」と励ましています。 ストレスにさらされる中、神に助けを求める人たちに神は遠くあられません。 主はダビデの「心を生かせ」の言葉どおり、励まし生かしてくださる方です。 今日も主は、心の貧しい者に耳を傾けてくださいます。 祈り:神様、あなたの助けにより頼みます。ストレスと重圧の中で働いているビジネスマンや主婦を励ましてください。 大きな問題や危機にある教会の牧師たちを覚えてください。その重荷をすべてキリストが背負い、水が喉に入って溺れるような状態からお守りください。アーメン

詩篇68

「ほむべきかな 主。 日々 私たちの重荷を担われる方。 この神こそ 私たちの救い。」詩篇68:19 多くの職業に「守秘義務」があります。立場上知りえた情報を、むやみに他の人に話してはいけないというものです。対人職では、クライアントの個人情報や秘密を漏らさないことが大切です。 職業でなくても「ここだけの話ね」とか「誰にも言わないで」と相談を受ける時、それをどれだけ守れるかで信頼性や品性が問われます。 しかし、守秘義務にせよ他のことにせよ、胸にしまっておくには重いことが多くあります。誰にも話せないことであっても、主には話すことができます。この方は「日々私たちの重荷を担われる方」です。この方に胸の内を打ち明け、重荷から解放されて生きていきましょう。 「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」マタイ11:28 祈り:神様、あなたが私の心の重荷すべてを負ってくださる方であることに感謝します。あなたに私の心をお話しします。アーメン

詩篇67

「神が私たちを祝福してくださり 地の果てのすべての者が 神を恐れますように。」詩篇67:7 福音宣教と、自らも神の祝福を受けることとは矛盾しないようです。 神の恵みを受け取り、十分に感謝し味わうことで、ますます福音の素晴らしさを分かち合いたいという願いも強くなるのかもしれません。 一昨日、アメリカの友人から小包が届きました。 開けてみると、スタディーバイブル(解説つきの聖書)とカードが入っていました。 なかなか買う決心がつかない私のために買い求め、梱包し、高い送料を払って送ってくれたのでした。 しかも皮装の質の良いものでした。カードには「あなたは神の国の大切な娘よ」と書かれていました。 素敵な贈り物をしてくれた友人に感謝すると共に、神様が彼女を通して恵みと励ましをくださったことを覚えます。そして、私も信仰の友を励ましたい、福音の恵みをもっと分かち合いたい、と思わされました。 神様の恵みと祝福は、私たちの今日という日常に満ち溢れています。 祈り:神様、あなたの恵みと祝福を数えます(詩篇103:2)。今週も______という恵み、______という祝福を頂いていることを感謝します。受けた恵みに感謝し、私も福音の素晴らしさと感動に促されて恵みを流し出していくことができるように。アーメン

詩篇66

「神よ まことに あなたは私たちを試し  銀を精錬するように 私たちを錬られました。」詩篇 66:10 錬ることは銀の割合を純粋にします。クリスチャンも同じです。もちろん、働き人も例外ではありません。神様から錬られるごとに、私たちの動機が探られ、心がどれほど純粋に主に向かうかに変化が訪れます。 「自分が」というのではなく、神の御名がどれほど高められるかに関心が向かっていくのです。自分自身はそのための小さな存在であり、それでも主の手足として使っていただける恵みを実感するようになります。 今日の詩篇の11、12節には 「私たちは 火の中 水の中を通りました。   しかし あなたは私たちを 豊かな所へ導き出してくださいました。」 と、試練には終わりがあり、その後には平安と喜びの豊かさがあることが歌われています。 さらに、後に与えられる報いも保証されています。 「試練で試されたあなたがたの信仰は、火で精錬されてもなお朽ちていく金よりも高価であり、イエス・キリストが現れるとき、称賛と栄光と誉れをもたらします(1ぺテロ1:7)。」 祈り:神様、試練を通して私たちの動機を探ってください。心が精錬され、純金・純銀のように純粋にきよめられたいです。今試練を通っている___さん、___さんに主の平安と大きな報いがありますように。アーメン

詩篇65

「あなたはその年に 御恵みの冠をかぶらせます。 あなたの通られた跡には 油が滴っています。」詩篇65:11 主の恵みと備えへの感謝があふれ出る詩篇です。 「その年に恵みの冠をかぶらせる」とは、とてもすてきな表現ですね。 今生きているこの年に、主が恵みの冠をかぶらせているところを想像してみてください。 元々は収穫感謝の時期に歌われたと考えられていますが、収穫の時期にかぎりません。 日々与えられているもの、備えられている事が、恵みの冠のもとで主によってなされているのだと考えると、毎日がかけがえのない24時間に思えてきます。 祈り:神様、平凡な一日の中にも、恵みが滴り落ちるほどに注がれていることに感謝します。兄弟姉妹の今日一日が、主の恵みの冠を頂いて歩んでいるのだという喜びにあふれますように。恵みの主に感謝します。アーメン

詩篇64

「正しい人は主にあって喜び主に身を避けます。 心の直ぐな人はみな 誇ることができます。」詩篇64:10 悪事を企み、うまくいったと思っている人たちの「内なる思いと心とは 底が知れません(6節)」というほど狡猾で悪賢いものです。 しかし、「神が彼らに矢を射掛けられるので 彼らは不意に傷つきます(7節)」。 人の力では悪事を暴くことが難しいと思われた事柄が、思いがけないところから綻びるのです。 そして「彼らは自らの舌につまずきました。 彼らを見る者はみな 頭を振って嘲ります(8節)」というほどになります。 今日、なんと悪巧みや欺瞞があふれているでしょう。 そうした時には主に身を避けましょう。 やがて、心の真っ直ぐな人は神にあって恵みを誇ることができるよう、ねぎらわれるという約束を信じて、ひとときの嵐が過ぎるのを祈りながら期待しましょう。 祈り:神様、理不尽なことや策略にはまり不当に扱われたことは、あなたがご存じです。復讐は、私ではなくあなたの御手にゆだねます。私に、ただあなたの陰に身を避けることを教えてください。今週も職場、学校、地域、それぞれの場所に出ていく兄姉一人一人をお守りください。アーメン

詩篇63

「神よ あなたは私の神。 私はあなたを切に求めます。   水のない 衰え果てた乾いた地で 私のたましいは あなたに渇き   私の身も あなたをあえぎ求めます。   私は あなたの力と栄光を見るために こうして聖所で あなたを仰ぎ見ています。  あなたの恵みは いのちにもまさるゆえ 私の唇は あなたを賛美します。」      詩篇63:1~3 教会でよく賛美する「主よ あなたは私の神~♪」、「あなたの恵みは いのちにもまさるから 私の唇は 主よ あなたを賛美します♪」の曲を口ずさみたくなります。 この詩篇はダビデがユダの荒野に逃れていた時の歌というのですから、どんな苦境でも賛美と祈りをささげることができると、彼はあかししてくれています。 「それゆえ私は 生けるかぎりあなたをほめたたえ あなたの御名により 両手を上げて祈ります(4節)」というダビデにならって、私たちも今日の礼拝で主を賛美し、手を上げて祈りましょう。 祈り:神様、あなたの恵みは限りなく、あなたの栄光は素晴らしいです。私に口が与えられているのは賛美するため、両手はあなたをたたえるためだと受け取ります。皆で集まる礼拝も、帰宅しての個人礼拝でも、あなたを力一杯賛美することができるよう導いてください。アーメン

詩篇62

「私のたましいは黙って ただ神を待ち望む。 私の救いは神から来る。」詩篇62:1 以前述べたかもしれませんが、いても立ってもいられないような気持ちになった時、 つい無駄な動きをして状況が余計に悪化したり、疲れ果てたりしがちです。 しかし、ダビデはたましいを黙らせることを自分に言い聞かせています。 「私のたましいは黙って」、救いの「神を待ち望む」ように、と。そして実際にそうしました。 命を狙われても、わが岩、わが救い、わがやぐらである神により、「私は決して揺るがされない」(2節)と宣言しています。 私たち夫婦は、昔神学校の先生がおっしゃっていた「肉にある時はなにもするな」 という言葉をしばしば思い出します。 じたばたせず、神を待ち望むことの大切さを教えてくださったのだと思います。 祈り:神様、あなたが私の岩、私の救いであることを覚えて感謝します。思い煩い騒がしく動く私の心を、主にあって静めることを教えてください。黙してあなたを待ち望むことができますように。アーメン

詩篇61

「どうか王のいのちを延ばし その齢を代々に至らせてください。 王が 神の御前でいつまでも 王座に着いているようにしてください。」。」詩篇61:6,7 前半では「私の心が衰え果てるとき 私は地の果てから あなたを呼び求めます。 どうか 及びがたいほど高い岩の上に 私を導いてください」と自分の守りを祈っています。 ところが後半では王のためにも祈っています。 ダビデにとっての王とは誰でしょう? サウルに他なりません! ダビデの命をねらい、ひどい仕打ちをしたサウルのために祝福を祈っているのです。 イエス様も、十字架につけた人々のために祈られました。 私たちも、周りの人はもちろん、自分とそりが合わない人のために何らかの祈りをささげることができるか考えたいと思います。 祈り:神様、私に日々の必要と恵みをお与えくださり感謝します。普段、なかなか祈れない___さんや___さんのために、今日は祝福を祈ります。主が目を留め、その方々の信仰を励まし霊性を強め、あるいは主との出会いを与えてください。 私の苦い心をあなたにおゆだねします。アーメン

詩篇60

「あなたは あなたを恐れる者に 旗を授けられました。 弓から逃れた者をそこに集めるために。  セラ」詩篇60:4 今年は、狭山池の桜を見るためにインバウンドの旅行者が多く訪れていました。 「こんな郊外にまで」と驚きました。 ガイドが持つツアーの旗を目印に、周辺の道路を歩いておられました。 日本語のあまりわからない方もいるようでしたが、旗から目を離さなければ迷わずについていくことができます。 「弓から逃れた者をそこに集めるために」、「あなたを恐れる者に旗を授けられました」とダビデは歌います。弓から逃げた後、安全な場所へ導くための旗です。 神様は、私たちの人生の歩みを旗で導く方のようです。 その旗が見える方向に歩んでいれば、迷うことなく安全です。 もし視界から消えたら、それは旗がないのではなく、私たちの方向が誤っているのです。旗が見える方向に修正することが求められます。 今日も、神様の旗が見えているでしょうか。 祈り:神様、あなたをいつも見ていたいです。みことばに聞き、祈りの中で語られるか細い声を聞くことができますように。ボタンをかけ違えないように、早い段階で修正して向きを変えることができるように導いてください。アーメン

詩篇59

「私の力よ 私はあなたを見続けます。 神が私の砦だからです。」詩篇59:9 51篇以降、ダビデの祈りが続いています。多くは苦境の中で祈られたものです。 今日は命を狙うサウルによって、自宅が見張られている時の詩篇です。 自宅が敵に包囲されたらどんな気持ちかと想像します。武装した敵の姿が窓から見えます。敵が目に入るたび、恐れて震えあがるでしょう。 しかし、ダビデは意図的に敵を見る代わりに神を見ることを選びました。ちらっとではなく、「見続ける」ことを選びました。「砦」である神を見続ける時、視点が変わります。 私たちも同じように、問題から目を離すことを「選びとる」ことを、今日試してみませんか。 結果として、ダビデには「私の恵みの神は 私を迎えに来てくださる。神は 私に敵を平然と眺めるようにしてくださる(10節)」という信仰が与えられました。 神様は、私の視点をも「敵を平然と眺める」ことができるようにしてくださる方です。私たちが主ご自身を見続けていれば。 祈り:神様、あなたが私の砦であることに感謝します。問題を見ると、恐れと落胆がやってきます。あなたを見続けることができるよう、助けてください。 私の内に、信仰の友の間に、そして教会中に、主を見続ける信仰と、そのためのみことばと励ましの言葉が満ちますように。偏った思考の習慣から解放してください。柔らかい、純粋な心を与えてください。アーメン 神は私の砦 私の恵みの神であるからです。(17節)

詩篇58

「神よ 彼らの歯をその口の中で折ってください。 主よ 若獅子たちの牙を打ち砕いてください。」詩篇58:6 なんという祈りをするのか、と思うかもしれません。敵をひどい目に合わせてください、という願いなのですから。 しかし、自分がそのように感じたことがないかと問われれば、「ありません」と胸をはって答えられる人はあまり多くないのでは、と思います。 素直に心の奥底からすべてを主に祈りで申し上げるのか。あるいは、表面はよい人を装いつつ心は憎しみでいっぱいか。どちらが砕かれた心だと言えるでしょう。 神様は「そんなことを言うな!」と怒る方ではありません。かえって、私たちの思いを探り、私たちも憎しみを受けるべき未熟な者であることに気づかせ、あわれみ、癒してくださる方です。 ダビデも最後には、常に主を賛美する言葉で終えています。いつまでも根に持つ態度でなく、神の癒しと回復に感謝する私たちでありますように。 祈り:神様、私の心の中の苦い思いを申し上げます。辛く、心を指すような言葉に傷つきました。けれども、すべてを知っておられる主がいてくださって感謝です。私もまた、同じように人を傷つけ、罪深い思考を持つ者です。そのことも告白します。 私の思いを聖霊のよいもので満たしてください。アーメン

詩篇57

「私のたましいよ 目を覚ませ。 琴よ 竪琴よ 目を覚ませ。 私は暁を呼び覚まそう。」詩篇57:8 サウルから逃れて洞窟にいた時、ダビデは自由に行動することができませんでした。 来る日も来る日も身を潜め、暗い穴の中でじっとしていなければなりませんでした。 いつまでなのか、見通しも立ちません。 それでも、ダビデはその穴の中で自分の心に向かって語りました。神に向かって目を覚まし賛美せよ、と自分の心を励ましました。 その源は、あわれみ深い神の力への信頼でした。 私たちにも、高齢で体力が落ちたり、身体が不自由になったり、病気で療養したりということが起こります。回復の見通しがないと、まるで洞穴にいるようかもしれません。その時、どのように心を励ましますか。自分の力では無理でも、神はそうできるように励ますことさえできるお方です。 祈り:神様、礼拝に来るのが困難な状況にある方を覚えます。格別にその兄姉を励ましてください。信仰を主ご自身が支えてください。私たちも、祈りながら互いに電話や手紙などで信仰の分かち合いができますように。一人一人にあかしを与えてください。アーメン

詩篇56

「あなたは 私のさすらいを記しておられます。 どうか私の涙を あなたの皮袋に蓄えてください。 それとも あなたの書に記されていないのですか。」詩篇56:8 かくれんぼや追いかけっこは楽しい遊びですが、現実に追われるとなると大変です。 ダビデはとうとうつかまってしまいました。敵のペリシテ人によって。彼は神に向かって、逃亡生活の日々を記し、流した涙の1滴もこぼすことなく保存用の皮袋にためてくださいと願います。 それほどの苦しさ、それほどの嘆きだったのだと思います。命さえ、どうなるかわかりません。「心に恐れを覚える日(3節)」でした。 しかし、重要な真理に彼は立ち返ります。それは、人を恐れるのではなく神を恐れるべきだということです。 11節の「神に信頼し 私は何も恐れません。 人が私に何をなし得るでしょう。」はヘブル13:6にも引用されています。 私たちも他人の勝手きままな態度や言葉でなく、神とみことばに根ざす一週間となりますように。 祈り:神様、私の心がいつもあなたに向かいますように。人の顔色や言葉に左右されず、主を恐れみことばにより頼むことができますように。人間関係に難しさを覚えながら通勤、通学する兄姉をお守りください。主がその真ん中にいてくださいますように。アーメン

詩篇55

「私は言いました。 「ああ 私に鳩のように翼があったなら。飛び去って 休むことができたなら。」詩篇55:6 「翼をください」という歌があります。サビの部分は「大空に飛んでいきたい、悲しみのない自由な空へ行きたい」という内容です。 ダビデも困難のあまり、飛んでいきたいと思いました。友の裏切りと敵対に、彼の心はずたずたでした。 ユージーン・ピーターソンという人は 「神が翼をくださらなかった理由は恐らくこれだ。翼があると、我々は神のおしえに迅速に従うよりも、翼を用いて気に入らない状況から逃げてしまうからだ」 と言っています(Praying with the Psalms)。 神のみ思いは私たちが逃げて飛んでいくことではなく、 「あなたの重荷を主にゆだねよ。 主があなたを支えてくださる。 主は決して 正しい者が揺るがされるようにはなさらない。(22節)」 を受け取り、主に信頼することです。 祈り:神様、あなたの素晴らしい守りと救いを感謝します。 あなたは私が自分の力で逃げるのではなく、ご自身に頼りご自身の救いを体験するようにと願っておられます。___________のことで、主に信頼する心をください。苦境を通っておられる____さん、____さんに、主の御力と御救いを表してください。アーメン

詩篇54

「神よ あなたの御名によって 私をお救いください。 あなたの力強いみわざによって 私を弁護してください。」詩篇54:1 「お救いください」...中3の臨海学校で遠泳がありました。学年がそろって沖に数百メートル泳いだところで、突然ひとりの級友の姿が見えなくなりました。 体調の異変で溺れたようでした。 遠泳は即刻中止になり、岸にもどって旅館で生徒は待機をしました。 その時、強く願ったのはただただ「お救いください」ということでした。 ダビデは、自身の生死にかかわる逃亡生活の中「お救いください」と祈りました。 救いが「神の御名によって」くると信じて祈りました。 イエスという名前は「ヨアシュア、主は救い」という意味です。 文字通り、イエスの御名には救いがあります。 そして、この方の霊である聖霊は「助け主」であり、私たちを弁護してくださる方です。 この方以外に救いはない、という強い確信が、私たちに今日も与えられますように。 祈り:神様、イエス・キリストのお名前には力があります。この方の名前によって祈る時、悪魔は逃げ去り、私たちの心には平安がやってくることを信じて感謝します。今日も、あなたにより深く信頼できますように。急な事態がやって来た時に、あなたの御名を呼び求め「お救いください」と叫べますように。アーメン

詩篇53

「愚か者は心の中で『神はいない』と言う。 彼らは腐っている。忌まわしい不正を行っている。善を行う者はいない。」詩篇53:1 聖書のいう「愚か者」とは、神を認めない人、「神はいない」と思っている人のことです。 それは、自分の力と判断だけで生きる姿勢、八百万の神といっても自分の幸運や利益のための手段とする姿勢です。 今の日本で、なんと多くの人が「神はいない」と思っていることでしょう。 クリスチャンでさえ、時に神の存在を忘れ、問題に埋没してしまいがちです。 生活の一瞬、一瞬に神の存在を認めたブラザー・ローレンスのように、今日ことごとに立ち止まり、神の存在を意識してみましょう。 祈り:神様、今日私が顔を洗う時、靴を履く時、車に乗る時、食事をする時、人と会う時、電話をとる時、メールを送る時、ベッドに入る時...、あなたがおられることを意識し、祈り心で過ごすことができるように助けてください。私にキリストの香りと品性を与えてください。アーメン

詩篇52

「私は とこしえに感謝します。 あなたのみわざのゆえに。 私はあなたにある敬虔な人たちの前で すばらしいあなたの御名を待ち望みます。」詩篇52:9 エドム人ドエグがサウルのもとに来て、「ダビデがアヒメレクの家に来た」と告げたときの詩です。 サウル王から逃げているときに密告され、絶体絶命になったダビデの状況を想像します。命の危険、裏切り、孤立...。 大きな声で演説することも、軍隊を鼓舞することもできません。 ただ待ち望み、神のあわれみにすがるのみです。 しかし、神を待ち望むことは何にも勝って安全だということを彼は体験します。 新学期が始まり、楽しそうに通学する姿を見かけます。しかし中には、新しい環境が辛く、友達もなく孤立している人がいるかもしれません。イエス・キリストが友であり、いつも共にいてくださり、独りでないことを知ってほしい、と切に望みます。 子どもだけでなく、職場や親戚、地域で暮らす大人にとっても、この事実は大きな慰めです。 祈り:神様、どんな時でもイエス様が共にいてくださることを感謝します。今日、独りぼっちだと感じている人がいるなら、あなたの慰めと臨在を感じることができますように。私に何ができるか、聖霊様の導きを聞きます。トラクトや私自身のあかしを準備します。あなたの必要な時、どうぞ用いてださい。アーメン

詩篇51

「神よ 私にきよい心を造り 揺るがない霊を 私のうちに新しくしてください。」詩篇51:10 表題に「ダビデがバテ・シェバと通じた後、預言者ナタンが彼のもとに来たときに」とあります。不倫の罪を隠そうとしたダビデでしたが、神の目には隠すことができませんでした。ナタンはダビデの罪をはっきりと指摘します。 ダビデはおののき、そして主の前にはっきりと自分の罪を認めました。 罪を認め、悔い改めることは信仰者の生き方でとても大切です。 同時に、ナタンのように愛をもって他者の罪を戒めることも必要です。 嫌われたくないからと、見て見ぬふりをしていませんか。 友を愛するなら、罪を指摘して責めること、そして共に悔い改めの祈りと神の赦しを求めるように導くことこそ、何よりの友情だと言えるのではと思います。 「ヒソプで私の罪を除いてください。 そうすれば私はきよくなります。 私を洗ってください。 そうすれば 私は雪よりも白くなります」(7節)とダビデの純粋な悔い改めの祈りの背後に、ナタンの祈りと勇気があったことも覚えます。 祈り:神様、ダビデのように純粋に悔い改める柔らかい心を与えてください。また、ナタンのように祈りつつ、悔い改めに導く戒めに必要な、愛と勇気を与えてください。アーメン

詩篇50

「こういうことをおまえはしてきたが わたしは黙っていた。 わたしがおまえと等しい者だと おまえは思っていたのだ。 わたしはおまえを責める。 おまえの目の前でこれらのことを並べ立てる。」詩篇50:21 神が「わたしはおまえを責める」と言われています。 「おまえ」とは「神を忘れる者、悪を行う者」です。神を認めようとせず「神のことばをうしろに投げ捨てた」者です。 はじめ神は黙っておられましたが、それは見逃しておられるわけではありませんでした。神の時に、悪はさばきを受けます。 今、理不尽な扱いを受けていますか。いじめや孤立の対象になっていますか。気落ちしないでください。神の義は、悪をそのままにはされません。そして、神の愛は、悩む者を決して見捨てません。神の介入と導きが神の時に必ずおこなわれます。 祈り:神様、理不尽な状況に陥っても、あなたがわかってくださっていることはなんという慰めでしょう。人間関係で悩み、あるいは不当な扱いを受けた___さん、____さんの心をあなたが癒し励ましてください。アーメン

詩篇49

「兄弟さえも 人は贖い出すことができない。 自分の身代金を神に払うことはできない。」詩篇49:7 大富豪が宇宙旅行をする時代になりました。お金があれば、今までできなかった体験が可能になることがあります。 しかし、たましいを救うことはお金をどれほど出してもできません。 これは厳然とした事実です。どんなに愛する人でも、大切な人でも、私たちの力やお金ではあがなうことができません。 「しかし 神は私のたましいを贖い出し  よみの手から 私を奪い返してくださる。」(15節) 神だけが救うことのできるお方です。イエス・キリストが十字架で死んでくださったことによって身代金が支払われました。 私たちはそのことを知っており、永遠のいのちを持っています。 周囲の裕福な人や成功しているかに見える人と、この世の基準で比較したり卑下したりする必要はありません。もっともっと素晴らしいものを、私たちはすでに頂いているのです。手を差し伸べ、恵みを分け与えるのは私たちの側です、 祈り:神様、毎日がイースターの恵みをかみしめる朝で始まりますように。人にはできない救いを、あなたは成し遂げてくださいました。今日も恵みの中に生かされています。永遠の価値に目をとめることができますように。新年度、新しい歩みに入る子どもたちの心をお守りください。価値ある存在として主が造ってくださったことを受け取れますように。アーメン

詩篇48

「この方こそまさしく神。 世々限りなく われらの神。 神は 死を越えて私たちを導かれる。」詩篇48:14 コラ人らによる美しい描写です。 主の聖なる山を「高嶺の麗しさは 全地の喜び。 北の端なるシオンの山は大王の都。(2節)」と表現して、主ご自身をほめたたえています。 いつも見上げることのできる方は、ただ美しいだけではありません。 私たちや愛する家族が病の宣告を突然受けた時、友人の死の知らせを受けた時にも、 やはり見上げることのできる方です。 この方は「死を越えて導かれる」方です。山の向こうだけでなく、地の果てまで行っても、死後までも、永遠に変わらず、私たちを導いてくださる方です。 祈り:神様、あなたが昨日も今日も、いつまでも変わらない方であることを感謝します。闘病中の___さん、____さん、愛する家族や友人を失った___さん、____さんに、世々限りなく私たちの神であるあなたが、深い深い慰めを語り、励ましを与えてください。アーメン

詩篇47

「すべての国々の民よ 手をたたけ。喜びの声をもって 神に大声で叫べ。」詩篇47:1 最近「Intentional living(インテンショナル・リビング)」という言葉を知りました。 文字通りには「意図的に暮らす」という意味です。クリスチャンにとっては、日々主のご計画を受け取り生きていくライフスタイルを指します。 1節は命令形です。「手をたたけ」「大声で叫べ」と、神に賛美する姿勢が命じられています。 気持ちが乗らない時も、主に賛美することはみこころです。 インテンショナル(意図的)に、「そうします!」という気持ちを向けてみませんか。主はその姿勢を喜び、思いがけない心の変化を与えてくださると信じます。 祈り:神様、インテンショナル(意図的)にあなたを賛美できるように助けてください。あなたのみこころを歩むことを選び取れるよう、今日も助けてください。アーメン

詩篇46

「神は われらの避け所 また力。 苦しむとき そこにある強き助け。」詩篇46:1  今年に入っても、地震や災害があちこちで起こっています。ニュースを聞くたびに 1995年の阪神大震災、2011年の東日本大震災はもちろんのこと、教会の屋根が飛ばされた2018年の台風を思い出します。 「大地は動かない」という常識が覆るとき、頼れるものは地上のものではないことを実感します。 私たちには天地を造られた神様がおられることと、この揺るがない方に頼ることを知っていることは大きな希望です。  「それゆえ われらは恐れない。 たとえ地が変わり 山々が揺れ 海のただ中に移るとも。たとえその水が立ち騒ぎ 泡立っても その水かさが増し 山々が揺れ動いても。」(2~3節) 祈り:神様、大地は揺れ地形が変わるような災害が起こります。でも、どんな時も主に祈り、主の元に身を避けることができて幸いです。私たちの教会も、多くの方々の祈りに支えられました。そして主が最善に導いてくださったことに感謝します。 今日も、様々な被害にあった人や避難生活が続いている人に、格別の励ましを与えてください。アーメン

詩篇45

「すばらしいことばで 私の心は沸き立っている。 王のために私が作った詩を 私は歌おう。 私の舌は巧みな書記の筆。」詩篇45: 1  ”指揮者のために。「ゆりの花」の調べにのせて”という表題に、「イースターにはゆりの花を飾りましょう」という賛美歌を思い出します。 「ゆりの花」のメロディーにのせて、詩人は心が沸き立つようなすばらしいことば、巧みな筆のように滑らかなことばで賛美します。 2節からは主キリストの姿が浮かびます。「人の子らにまさって麗しい」方、「唇からは優しさが流れ出る」方、「威光は勝利のうちに」「真理と柔和と義のゆえに」「義を愛し 悪を憎む」方であるキリストは、教会のかしらであり救い主です。 あがなわれた罪人の集まりであり、時には問題や試練にあう教会ですが、それでも主を賛美する姿はゆりの花のように主に愛され、花嫁のような扱いを受けます。そして、私たちはその花嫁である教会の部分です。 祈り:神様、罪赦された私はこの口を賛美のために用いたいです。「書記の筆」のようにあなたをほめたたえたいです。口で周りを汚すことがありませんように。キリストの香りを放つことができるように、私も兄弟姉妹も助けてください。アーメン

詩篇44

「私の弓に 私は頼りません。 私の剣も 私を救いません。」詩篇44:6 詩人は、自分たちの力で救われたのではないことをよく知っています。 「自分の剣によって 彼らは地を得たのではなく 自分の腕が 彼らを救ったのでもありません。 ただあなたの右の手 あなたの御腕 あなたの御顔の光が そうしたのです。 あなたが彼らを愛されたからです(3節)」 と、主の力だけが救いをもたらすことを信じています。 しかし、後半では現在の逆境が続いていることを訴えています。なぜだろうか、いつまでだろうかと思いながら、切々と苦境を訴えています。それはまるで、神が眠っておられるようだ、とさえ言います。 お願いします、助けてください、という祈りで終わる詩です。 信仰があっても、いつまで苦しみが続くのかと絶望しそうになることがあります。しかし、やみくもに自力でもがいても、空を打つ拳闘のようです。 詩人はそのこともよくわかっています。 「助けてください」と叫びながらも、「私の弓に 私は頼りません。 私の剣も 私を救いません」と自らの限界を知ってゆだねようとしています。 祈り:神様、私もあれこれと自分でもがいてきました。しかし、自分の思い、自分の力はあまりにも小さく、限界があることがよくわかりました。主が助けてくださらなければ、あのこと、このことに解決はありません。 ______のことをあなたにゆだねます。どうか助けてください。アーメン

詩篇43

「こうして 私は神の祭壇に 私の最も喜びとする神のみもとに行き 竪琴に合わせて あなたをほめたたえます。 神よ 私の神よ。」詩篇43:4 昨日はイースター、今日から新年度(2024年度)が始まります。 緊張しながら、あるいは「年度始めは忙しいなあ」と思いながら仕事や学校に出向く人もいるでしょう。 一日の働きを終えて帰宅すると、失敗や至らなさがあれこれ思い出されてしまいます。 そんな時、賛美を口ずさむと心が晴れてきます。みことばの歌詞を宣言し、神様をほめたたえるのはたましいのサプリメントのようです。 詩篇の作者も「神のみもとに行き 竪琴に合わせて あなたをほめたたえます」と歌っています。神の元で賛美することが自らの最善のケアとなることを知っていました。 祈り:神様、私もあなたの元で憩い、賛美をささげます。新しい環境や生活リズムに疲れた時、変わらない主が助けてくださることを信じます。今日も導いてください。アーメン