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箴言7

「それを自分の指に結び、 心の板に書き記せ。」箴言7:3 主の教えを忘れることがないように、肌身離さず身に付けるもののようにしておきなさいという勧めです。 後半には、夫の留守中に浮気をしようと誘惑する女性の姿が出てきます。 誘惑に負けてふらふらとついていくと、最後は滅びに至るという内容です。 主の教えに堅く結びつけられていない心は、誘惑や罪にふらふらと「心動かされ(21節)」ます。 私たちの弱さ、忘れっぽさを箴言の著者はよくわかっています。それでリボンを結ぶように「自分の指に結び」、一字一句彫るように「心の板に書き記せ」と勧めています。 聖書のことばを書き写したり、みことばカードを覚えたり、しおりにして用いたりと、日常生活でも様々な工夫ができます。決まった時間にみことばが届くアプリもあります。新しい週もみことばに親しむ者となれますように。 祈り:神様、私たちにあなたのことばである聖書をくださり感謝します。失敗しやすく忘れっぽい者ですが、あなたの教えを指に結び、心に刻んで日々の生活の道しるべとできますように。みことばに照らして判断できるよう、聖霊様が知恵を与えて助けてください。今週の歩みをお守りください。アーメン

箴言6

「主の憎むものが六つある。 いや、主ご自身が忌み嫌うものが七つある。」箴言6:16 主が嫌われるものは、17~19節によると ・高ぶる目 ・偽りの舌 ・咎なき者の血を流す手 ・邪悪な計画をめぐらす心 ・悪へと急ぎ走る足 ・まやかしを吹聴する偽りの証人 ・兄弟の間に争いを引き起こす者 が列挙されています。共通しているのは、自分は正しいという思い込みと、人間関係を壊す行いです。どれも、高慢な心が底辺にあるといえるでしょう。 他人事ではなく、自分自身の心にも高ぶりがあることを覚えます。家族や兄弟の中でのふるまいや発言はどうでしょうか。同僚や友人とつい比較して、自分の位置をはかっていないでしょうか。 キリストの前に静まり、自分の存在に平安を頂き、人を妬んだり苦い思いを持ち続けたりすることがありませんように。 「ささげ物はそこに、祭壇の前に置き、行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから戻って、そのささげ物を献げなさい。(マタイ5:24)」 祈り:神様、私の心にある高ぶりや、他人と比べてあれこれ思う心をゆるしてください。主の前に、また人の前に、へりくだった心と安心な気持ちで出ることができますように。___さんとの難しい人間関係に主にある平和と平安を与えてください。世界中の難しい国際問題にも、主にある平和が来ますように。アーメン

箴言5

「 人の道は主の御目の前にあり、 主はその道筋のすべてに心を向けてくださる。」 箴言5:21 5章では、不倫や結婚外の関係を戒めています。ふと出来心...となりがちな人間の弱さを、箴言はよくふまえています。 今週の木曜集会ではバテ・シェバの生涯を学びました。ダビデの出来心から悲劇が起こり、結果としてバテ・シェバの夫ウリヤも、生まれてきた子どもも死にました。彼は深い悔い改めに導かれ、やがてソロモンが生まれました。 ソロモンは両親からこの経緯を聞いて知っていたのでしょうか。少なくとも、自分の兄が幼くして死んだことは聞かされていたでしょう。 悪から離れることは一番よい方法です。 しかし、過去に罪を犯したとしても、神様はへりくだり悔い改める者を完全にゆるしてくださいます。バテ・シェバは「ウリヤの妻」としてキリストの系図に名前が載りました(マタイ1:6)。 恵みによってゆるされたなら、同じ失敗に陥らないよう助けてくださいと祈り続けることができます。 祈り:神様、あなたの知恵と訓戒に従えるよう助けてください。 「人の道は主の御目の前にある」ということ、主が「その道筋のすべてに心を向けてくださる」ことに信頼して、今日も歩む者とならせてください。アーメン

箴言4

「何を見張るよりも、あなたの心を見守れ。 いのちの泉はこれから湧く。曲がったことを言う口をあなたから取り除き、 ゆがんだことを言う唇をあなたから遠ざけよ。」箴言4:23~24 何よりも「あなたの心を見守りなさい」という知恵です。 敵の接近を見張るより、自然災害に備えた見張りより、防犯のための見回りより、まずは「あなたの心を見張れ」です。 続いて言葉に気をつけることが述べられます。言葉には、その人の人格、思考回路がにじみ出てきます。 「自分は宗教心にあついと思っても、自分の舌を制御せず、自分の心を欺いているなら、そのような人の宗教はむなしいものです(ヤコブ1:26)」とも言われています。 空しくない信仰を持ち、人格から作り変えられ、キリストにある真実で純粋な心を頂き歩めますように。 祈り:神様、あなたのみことばと聖霊の気づきにより、私の心を見張ることができますように。曲がった心、否定的な言葉、比較や妬みから私の心を遠ざけてください。___さん、___さんに変わってほしいと思う時、自分もまた変えられる必要のある弱く不完全な存在だと認めます。愛の心、赦す心を与えてください。 今日も主の御顔を求め、みこころを歩むことができますように。アーメン

箴言3

「心を尽くして主に拠り頼め。 自分の悟りに頼るな。     あなたの行く道すべてにおいて、主を知れ。 主があなたの進む道をまっすぐにされる。」箴言3:5~6 箴言を読む時、1章ごとに宝石箱を開けるような気持ちになります。ストーリーが繋がっているというよりも、各章にたくさんの知恵がつまっています。いくつもの指輪やネックレスが、箱の中できらきら輝いているようです。 「心を尽くして(5節)」とは、主に視野と思いを集中して向けることです。「主を知る(6節)」ことを生活の中心におくとき、「進む道がまっすぐに」されます。 自分が知っていると思うことも、自分が所有していると思う富や持ち物も、すべては主に属するものです。託されたものをどう使うかも、究極の持ち主である神と相談しながら行うのが最善の運用法です。 ・あなたの財産で主をあがめよ。あなたのすべての収穫の初物で。そうすれば、あなたの倉は豊かさで満たされ、あなたの石がめは新しいぶどう酒であふれる。(9~10節) ・父がいとしい子を叱るように、主は愛する者を叱る。(12節) ・あなたの手に善を行う力があるとき、受けるべき者にそれを控えてはならない。(27節) ・嘲る者を主は嘲り、へりくだった者には恵みを与えられる。(34節) ...。 今日から心に留めたい知恵で満ちています。 祈り:神様、あなたの知恵と教えは宝石のようです。箴言を通して、私たちを正しい道へ教え導こうとしてくださり感謝します。すべてはあなたのもの、すべてはあなたの権威の元にあることを告白します。託されたものを、主により頼んで用いることができますように。 「御座に着いておられる方と子羊に、賛美と誉れと栄光と力が世々限りなくあるように。(黙示録5:13)」アーメン

箴言2

「銀のように、これを探し、 隠された宝のように探り出すなら、」箴言2:4 イースターの日に、庭や建物に卵(あるいは卵形のおもちゃ)を隠して「たまご探し」をしたことがありますか?大人も子どもも目をこらし、カーテンの裏、木の陰など、卵がありそうなところを探します。 今日の2章では「知恵」を宝物のように探す表現が出てきます。 卵でさえ真剣に探すなら、宝物はそれ以上に念入りにくまなく探そうとするでしょう。他の雑事は横に置き、宝物の発見に集中します。 箴言は、このように知恵を見出だしなさいと勧めます。なぜなら、 「そのとき、あなたは主を恐れることをわきまえ知り、 神を知ることを見出だすようになる(5節)」からです。 人生で最も大事な神を見出だすという宝探しのきっかけを、私たちの家族や親しい人が始めることができますように。 祈り:神様、あなたを知るという一番大切な知恵を、___さん、____さんが見出だすことができますように。永遠のいのちにつながる価値のある宝物である福音を、真剣に求めることができますように。アーメン

箴言1

「しかし、わたしに聞き従う者は、安全に住み、 わざわいを恐れることなく、安らかである。」箴言1:33 箴言に入りました。ソロモンの知恵は主なる神が与えられ、こうして私たちのためにも残されました。宝石のような知恵を、毎日少しずつ味わうのが楽しみです。 20節以下は「知恵」が叫んでいます。もちろん、それは知恵の根源である主ご自身が語っておられます。 主(の教え、知恵)に聞き従う者は、安全に生活する。「わざわいを恐れることなく安らかである」とあります。 この地上で、災いがなくなると言っているのではありません。たとえ災いがあってもそれを恐れず、平安である、と言っているのです。 それは、災いに対処する知恵があること、変わらぬ主がおられるという究極の知恵、信頼に立てるからです。 日々の生活に箴言の知恵を適用していきたいですね。 祈り:神様、あなたに「聞き従う者」になれますように。あなたに信頼し、「安全に住み」、「わざわいを恐れることなく」、「安らか」であれますように。今週も私の進むべき道を教えてください。あなたが願われる選択、あなたが望まれる道を歩めますように。アーメン

ヨブ記42

「あなたには、すべてのことができること、 どのような計画も不可能ではないことを、 私は知りました。」ヨブ記42:2 ヨブは主が全知全能であることを、改めて認めました。 それに比べ、自分が何と無知で不完全か、と 「それで、私は自分を蔑み、悔いています。 ちりと灰の中で。(6節)」 と告白します。 その後、主はヨブの名誉も所有物も家族もすべて回復させてくださいました。 何より、彼は神を再発見し、神の素晴らしさをよりあがめる深い信仰が与えられました。 辛い経験でさえ、神はよいことのために用いることができる方です。 へりくだる経験を経て、私たちは神と出会い、十字架の救いと永遠のいのちを頂き、同じ主を信仰する人たちと教会に集められています。何となくではなく、キリストが命がけで愛し、それを受けとる経験をした人と共に集められていることを、感謝とともにじっくり考えてみましょう。 祈り:神様、信仰の友の存在に感謝します。教会には性格が全然違う人、自分と合わないと思う人がいるかもしれません。しかし、同じ主に出会い、心探られ、救いを受け取るという経験を通った一人一人です。互いにあかしし、励ましあい、同じ主を見上げることができますように。見かけの態度や言葉だけで判断しないよう、私にヨブのようなへりくだった心を与えてください。アーメン

ヨブ記41

「あなたは釣り針で レビヤタンを釣り上げることができるか。 輪縄でその舌を押さえつけることができるか。」ヨブ記41:1 「レビヤタン」はどんな生き物かには諸説ありますが、人間の力ではたち打ちできない、恐ろしく強い生物だというのは確かです。 でも、神様はレビヤタン以上に強い方、レビヤタンをも支配しておられる方だと、この章でははっきり述べられています。 人間の小ささと限界を、38章以降で繰り返し繰り返し神様はヨブに語ってくださいました。それだけでも、忍耐強いお方だなあと思います。 同じ主なる神様が、私たちの失敗も、私たちの至らなさも、悔い改めるごとに忍耐強くゆるしてくださいます。神なんていない、という人たちを滅ぼさず、ひとりでも救われるようにと、忍耐づよく待っていてくださいます。何とすばらしい、深く広い愛に満ちたお方でしょうか。 祈り:神様、あなたの愛と忍耐を感謝します。今週は___のことが気にかかりました。どうか私の至らなさをゆるしてください。あなたにゆだねます。 また、キリストが心の戸の外で立っておられることを、___さんが知ることができますように。心の戸を開け、キリストをお迎えできますように。アーメン

ヨブ記40

「ああ、私は取るに足りない者です。 あなたに何と口答えできるでしょう。 私はただ手を口に当てるばかりです。」ヨブ記40:4 今までは、自分が正しいと自信を持っていたヨブでした。 しかし、神の偉大さの前には自分が何と足りない存在かと気づき、黙して御前に立つと告白しました。預言者イザヤの召命の時も同様でした。 「ああ、私は滅んでしまう。この私は唇の汚れた者で、唇の汚れた民の間に住んでいる。しかも、万軍の主である王をこの目で見たのだから。(イザヤ6:5)」 主なる神の偉大さと聖さの前に、私たちは黙しひれ伏すしかありません。 もし他の信仰者との人間関係で、自分が正しいと言い張っているならば、 両者ともに主の前には「ただ手を口に当てるばかりです」という存在であることを覚え、祈ってゆるし合い、和解できますように。 祈り:神様、あなたの前には私はどれほど小さな存在でしょうか。___さんとの人間関係に主が介入し、祝福してください。私にへりくだる心と、主の方を見つめ歩み続ける信仰を与えてください。アーメン

ヨブ記39

「あなたは岩間の野やぎが 子を産む時を知っているか。 雌鹿が子を産むのを見守ったことがあるか。」ヨブ記39:1 主のことばが続きます。宇宙や気象に加え、野生動物の生態もご自身の支配の下にあることが示されます。 大自然のドキュメンタリー番組やビデオは、動植物の生態を紹介します。撮影クルーの努力には脱帽します。興味深く初めて見ることばかりです。それでも、手付かずの自然や知らない生態はその何百倍、何千倍とあります。 ヨブは、自分の知らないことだらけだと気づき、沈黙して聞いています。 私たちも、自然に限らず身の回りでさえ、知らないことばかりです。 神はそんな知識のない者、弱い者、無に等しい者を選んでくださいました。それは、 「肉なる者がだれも神の御前で誇ることがないようにするためです。 しかし、あなたがたは神によってキリスト・イエスのうちにあります。キリストは、私たちにとって神からの知恵、すなわち、義と聖と贖いになられました。(第一コリント1:29~30)」 だと書かれています。「誇る者は主を誇れ(同1:31)」のとおりになりますように。 祈り:神様、ヨブでさえ知らないことばかりでした。まして私は、この目に見え、この頭で考えられるほんの小さい知恵しかありません。あなたの大きなご計画をすべて理解することなど、到底無理です。 しかしあなたが愛とあわれみに満ちた方であることは知っています。あなたのご支配に信頼し、私を過剰な自意識や恥意識、パニックや不安、混乱から今日もお守りください。アーメン

ヨブ記38

「主は嵐の中からヨブに答えられた。」ヨブ記38:1 ついに、主が登場されます。37章まで延々と繰り返された会話の後には、主の答えが力と権威あるものに感じられます。自然界を創造された主が全知であることが、次々と示されます。 ところで、38章まで主はどこにおられたのでしょうか。ヨブと友人の会話をご存じなかったのでしょうか。いいえ、主は知っておられました。沈黙されていてもそこにおられ、主の時、主のタイミングで介入されたのでした。 私たちの祈りや願いも、主の時までは沈黙が続くように思われることがあります( 遠藤周作「沈黙」もこのテーマが底辺にあるそうです)。しかし、万物を治めておられる全知全能の主がそこにおられることを信じて待つのが、私たちの信仰を練り、忍耐を与えます。主はよいお方です。ヨブ記の結末が今から楽しみです! 祈り:神様、祈ってもなかなか答えられtないとき、信じることが難しくなります。___の祈りの答えを待っています。あなたがすべてを知っておられ、主のタイミングと方法で働かれることに期待します。今日も、それまで待つ忍耐と信仰を与えてください。アーメン

ヨブ記37

「ヨブよ、これに耳を傾けよ。 神の奇しいみわざを、立ち止まって考えよ。」ヨブ記37:14 エリフの言葉が終わりに近づきました。「ヨブよ」という部分に自分の名前を入れて 「○○よ、これに耳を傾けよ。神の奇しいみわざを、立ち止まって考えよ」 と読んでみた時、「立ち止まって」という表現が心にとまりました。 神のみわざを考え思い巡らすには「立ち止まる」つまりポーズ(間)を取ることが大切だと改めて気付かされます。動作を止めるだけでなく、心を落ち着け、黙する時間を短くても確保する時、神ご自身に思いを向けることができます。 今日、いつ「立ち止まる」ことができるでしょうか。短くても、スマホやテレビに費やす時間のうち、5分でも10分でも主に心向けることができますように。 祈り:神様、あなたの声を聞きたいと思いながら、つい日常の雑事や手軽な気分転換に心奪われてしまいます。今日(    )の時、立ち止まって主の奇しいみわざを思い巡らします。1日の優先順位と整えることができるように導いて下さい。アーメン

ヨブ記36

「見よ、神は力にすぐれておられる。  神のような教師が、だれかいるだろうか。」ヨブ記36:22 エリフは、神が罰を与える存在というよりも、素晴らしい教師のようだと言います。 自然現象の雨や雲、雷や稲妻を通して、神が力とご支配を教えておられるというのです。 私たちは、雨や雷を科学で説明できるような気がしているかもしれません。しかし、現象のメカニズムを説明することができても、地球全体の雨を降らせるとか、雷雲そのものをコントロールするということはできません。 それができるのは、ただ神おひとりです。 イエス様は、よく鳥や花といった実物教材を用いて教えられました。そして、風や嵐そのものを静められました。 偉大な教師である方が、今日も身近なものや事を通して私たちに教えようとしておられます。 祈り:神様、素晴らしい教師である主を賛美します。あなたが今週も日常生活の中で教え導いてくださることに期待します。先週から黄砂が飛来しています。飛来元のモンゴルやゴビ砂漠に住む人たちに思いを馳せます。福音が届きますように。また、科学の力を錯覚している人たちが、自然界を支配しておられる神の存在を認めることができますように。アーメン

ヨブ記35

「あなたが正しかったとしても、 神に何を与えられるのか。 神は、あなたの手から何を受けられるのか。」ヨブ記35:7 同じキリストを信じる信仰者どうしでも、意見や方針が合わないことがあります。神様が一人一人をユニークに造ってくださったので、考え方が違うこと自体は悪くありません。 しかし、自分は正しいが相手は悪いと決めつけて自己義に陥るなら、再考する価値があります。 エリフは、ヨブが自分が正しいとばかり言い張るのを責めます。そして、仮に正しかったとしても、神に与えることのできるようなものはないのだ、と言います。 方針の違う友とは、同じところで働くのでなく、やがて別の場所で主に仕えるのかもしれません。その時、互いのために祈り合うことができるか、そこに私たちのキリストにある品性が問われていると思います。 祈り:神様、___さんとの人間関係には、これまで難しさを覚えました。しかし、あなたの義を思う時、私自身もまた罪人に過ぎません。強情なところ、自分を正しいと思い込む頑固さを許してください。___さんにも主の祝福が豊かにありますように祈ります。アーメン

ヨブ記34

「この方は、首長たちをえこひいきせず、 上流の人を貧しい民より重んじることはない。 彼らはみな、神の御手のわざだからだ。」ヨブ記34:19 キリスト教が日本で迫害された一つの理由が、平民も為政者も神の前には平等だと教えたからだと言われています。支配者にとっては、皆が同じ価値というのが脅威だったのでしょう。 神様はどんな人も価値ある存在として扱ってくださいます。そして、思いがけない人を通してご自身のみわざをなさいます。 若いから、高齢だから、主婦だから、学生だから、退職者だから、といって分け隔てなさいません。神の選びは、 「しかし神は、知恵ある者を恥じ入らせるために、この世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、この世の弱い者を選ばれました(第一コリント1:27)」 とある通りです。この一週間はどんなことがありましたか?いつもの日々の繰り返しだったでしょうか。もし自分が何もできない、取るに足りない者だと思っても、神の前には左右されないことを覚えて、一週間の歩みの振り返りをしてはどうでしょうか。 祈り:神様、今週もいつもの日々でした。失敗し、考えの至らないことも多々ありました。でもこんな私をいつも愛し導いてくださり感謝します。過ぎる一週間を、あなたと共に振り返ります。来る新しい一週間も、私をあなたのご用のためにお使いください。アーメン

ヨブ記33

「神はある方法で語り、 また、ほかの方法で語られるが、 人はそれに気づかない。」ヨブ記33:14 学生時代、「神の声を聞いた」「天使を見た」というあかしを聞くと、うらやましく思ったものでした。私にも感じられないかしらと、部屋でじーっと目をこらし、耳をすましたこともありました。 しかし、神は様々な方法でご自身を現し、語ってくださいます。20年ほど前にケン・ガイアの「魂の窓」という本を読みました。そこでも、日常の中で神が語ろうとしてくださることを改めて教えられました。 「気づかない」のは私たちの側の鈍感さやゆとりのなさゆえです。今日も、日々のみことばを通し、メッセージを通し、信仰者を通し、私たちが日常接するものを通して、主は語ろうとしてくださっています。私たちと共にいてくださる御霊が、それを教えてくださいます。 祈り:神様、あなたが日々語っておられることに感謝します。「主よ、お語りください」という心で今日も過ごすことができますように。聖霊様の働きに敏感になり、柔らかい、砕かれた心であなたのみむねを知り、従うことができますように。アーメン

ヨブ記32

「だが、年長者が知恵深いわけではない。 老人が道理をわきまえているわけでもない。」ヨブ記32:9 32章から、エリフの言葉が始まります。彼はじっと待っていました。自分より年長の3人の友、そしてヨブが語り尽くした時、彼は話し始めました。 年が若いため言葉を控えていたというのは、日本の上下関係とも似ていて興味深いです。 家庭や社会はもちろん、教会の中でも年下の人や女性、子どもが軽く見られがちです。しかし、その人たちがベテランの人より良い感性をもっていることもあります。 パウロは、「あなたは、年が若いからといって、だれにも軽く見られないようにしなさい。むしろ、ことば、態度、愛、信仰、純潔において信者の模範となりなさい(第一テモテ4:12)」とテモテに勧めました。 主の前には年齢は関係なく、むしろ人格と信仰の姿勢によって模範となりうるのだとわかります。私たちの周りにいる若い働き人やリーダーに敬意を払い、その人たちのために祈りましょう。 祈り:神様、若い信仰者の___さん、____さんのために祈ります。あなたが選び、クリスチャンのリーダーとして召されました。人格、品格を整え、年長者の中でも背伸びせず、あなたに与えられた賜物を生かしてよいリーダーシップがとれますように。アーメン

ヨブ記31

「...ヨブのことばは終わった。」ヨブ記31:40 自分の正しさを何とかわかってもらおうと、ヨブは言葉を尽くして説明します。様々な出来事に自分がどれほど誠実に対処してきたか、重ね重ね述べます。因果応報の考え方をする友人たちが理解してくれるようにと、思わずヨブを応援したくなります。 しかし一方で、どんなに優れた人格者でも完璧な人はいません。神の前には一人残らず罪人です。気づいていない罪や、罪深い性質さえも持っています。そこからきよめられる方法はただ一つ、イエス・キリストの十字架だけです。 先週来会されたヴァナジャ牧師は、多神教の背景で育ちました。キリストも数ある神のひとりだろうと思っていました。ところがある時教会から帰り、彼女は「キリストを信じるか、信じないか」という選択をしなければならないと悟りました。「これも、あれも」ではなく「これか、あれか」一つを選ぶ必要を感じたのでした。 どれでもよいというより、焦点を定めて本当によかった、と彼女は語ります。 日本の多くの人たちは、一つの神を選ぶことを避けます。でも、結婚相手を何人も同時に持つことはしません。進路も、就職も、老後の療養先も、一つの身体で一つしか選択できない場面の方が多いのです。 信仰についても、選びとることで焦点が定まり、生き方の柱がはっきりすることに気づきますように。 祈り:神様、普段の生活で一つを選ぶことには勇気がいりますが、一つしか選べないこともたくさんあります。___さん、____さんがイエス・キリストを唯一の神だと確信を持てますように。また、今日私が何かを選択する時に、祈りながらあなたのみこころを選べるよう助けてください。アーメン

ヨブ記30

「神は泥の中に私を投げ込まれ、 私はちりや灰のようになった。」ヨブ記30:19 自分がまるで「ちり」や「灰」のようにみすぼらしく、情けない者だと思えることがあります。実際、私自身も日々失敗が多く、気の弱い者です。 しかし、その都度思い出す聖書のことばは 「しかし主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである』と言われました。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう(第二コリント12:9)」 です。 自分が弱い者であっても、キリストの力が現れればよい、と開き直り?つつ、こんな私を愛し死んでくださったキリストの愛に押し出され、日々生きています。 復活の力はどれほど素晴らしく、希望をもたらすものでしょう。一時のことでなく、永遠という視点を与えてくださる主に感謝します。 祈り:神様、あなたは強く完全であられます。今日も拙い私を通して、キリストの栄光が輝き出ますように。自我を取り去り、純粋な心で主を待ち望む者としてください。アーメン

ヨブ記29

「ああ、できることなら、 昔の月日のようであったらよいのに。 神が私を守ってくださった 日々のようであったらよいのに。」ヨブ記29:2 退職した人で、現役時代の活躍にだけ目を留める人は、生活に目的を失ったり、閉じこもりがちになったりしてしまうそうです。逆に、第二の人生と割りきって教会の奉仕や地域ボランティアといった活動や趣味、あるいは在宅そのものを楽しんでいる人たちもおられます。 その違いは、今の自分に価値があるかどうかというセルフイメージかもしれません。 ヨブは29章で、過去のよかった日々を回顧し、嘆いています。喪失と境遇の変化の中で、彼は「今も神が私を知っておられる」ということまで見失いました。そのため、セルフイメージが極端に下がってしまいました。 私たちは、神がヨブを見捨てておられないことを知っています(ヨブ記の結末は「主の回復」です)。神は、同じように私たちのことも見捨てられません。そればかりか、永遠のいのちを与え、神と共に住まうことを願っておられます。 各地にある教会は、キリストにあるその希望を伝えるために主が建てられました。そして、各所に遣わされているクリスチャンも、主が周囲にキリストの希望を伝える器として主が派遣されています。 祈り:神様、私に何ができるのかと思うことがあります。でも、あなたが今週も私を日常の中におき、生かしてくださっていることを覚えます。私自身は弱い小さな者ですが、地の塩、世の光として、あなたのご栄光を表し、希望を流し出すことができますように用いてください。アーメン

ヨブ記28

「こうして、神は人間に仰せられた。 『見よ。主を恐れること、 これが知恵であり、 悪から遠ざかること、 これが悟りである』と。」ヨブ記28:28 「主を恐れる」とはやみくもに怖がることではなく、権威を認めへりくだることです。 申命記には 「あなたがたの神、主にしたがって歩み、主を恐れなければならない。主の命令を守り、御声に聞き従い、主に仕え、主にすがらなければならない。(13:4)」 と書かれています。主にすがり、御声に従って歩むのが「主を恐れ」た生き方だと言えます。 神にすがるのは弱い生き方でしょうか?いいえ。すべてを悟った知者であった人も「神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。(伝道者の書12:13)」と述べています。王であっても、主婦であっても、主を認め、主を知っている人が最も強いのです。主にあって、堂々と生きていくことができますように。 祈り:神様、「信仰は弱い者のすることだ」とからかわれることがあります。しかし、自分の力だけに頼る生き方ははかないものです。全能の主の力と権威を認める柔らかい心を、私の家族や同僚の___さん、___さんが持てますように。私自身も、ますますあなたに頼りへりくだる生き方ができますように。アーメン

ヨブ記27

「私は自分の義を堅く保って手放さない。 私の良心は生涯私を責めはしない。」ヨブ記27:6 私たちは年齢や経験と共に、これまでのやり方に慣れ、新しい方法を取り入れるのに躊躇することがないでしょうか。ある程度の見通しが立っているのはよいことですが、思い込みや先入観だけで判断するとしたら、神様の思いがけない働きにも心を閉ざしてしまうかもしれません。 ヨブは友人の非難に対して「自分は正しい」と主張しています。しかし「自分の義」が「神の義」と同じだとは限りません。 イエス様を十字架にかけた祭司長や律法学者たちは、自分達が正しく、イエスの死ですべてが解決したと思いました。しかし、これがすばらしいみわざの始まりでした。死の力を破り復活するのが、神の義の現れ、キリストの栄光のあかしでした。 明日はイースター、キリストの復活をお祝いします! 祈り:神様、私のちっぽけな自己義の思いをお返しします。神様の偉大な義とご計画の前にへりくだり、あなたのご計画を受け入れることができますように。 明日のイースター礼拝と墓前礼拝で、キリストの復活の素晴らしさを味わい、天に思いを馳せることができますように。アーメン

ヨブ記26

「神は御力によって海を鎮め、 ご自分の英知をもってラハブを打ち砕かれる。」ヨブ記26:12 ヨブの言葉の中に、天地を創造された神の大いなる力が表現されています。 7節の「神は北を、茫漠としたところに張り広げ、 地を、何もないところに掛けられる」というのは、まるでテントを張られるようです。この詩的な表現が私は好きです。 そして、荒れる海も大自然も治めておられるという表現が続きます(12節の「ラハブ」は、海の怪物のことではないかと言われています)。 地上に来られたイエス様は、嵐を静められました。 「イエスは起き上がって風を叱りつけ、湖に『黙れ、静まれ』と言われた。すると風はやみ、すっかり凪になった。(マルコ4:39)」 こんなに権威ある方が、へりくだり、十字架にかけられ、私たちの罪を背負って死んでくださいました。今日は「受難日」、キリストが十字架にかかられたことを記念する日です。朝9時から午後3時までの十字架上での苦しみを覚え、永遠のいのちを頂いた恵みに感謝します。 祈り:神様、すべての支配者である主が、こんなにも私を愛し、十字架にまでかかってくださったことに圧倒されます。この愛と恵みを、どうして独り占めしていられるでしょう。___さん、____さんもこの恵みを受けとることができますように。 今日一日、主の十字架を覚えつつ過ごします。感謝します。アーメン

ヨブ記25

「主権と恐れは神のもの。 神はその高い所で平和をつくられる。」ヨブ記25:2 ビルダデが章の前半で言うことは間違っていません。主権は神のもの、高い所で平和をつくられるのも、その通りです。 ところが、後半でビルダデは月や星を神の目に価値のないものと言い、人はそれ以下だと決めつけます。残念ですね。 すべてのものは神によって造られました。披造物を、「非常によかった」と喜びつつ造られました。 人間は小さな存在です。しかし、そんな人間をよいものとしてご自身に似せて造り、霊を与えてくださった神の愛の大きさが、ビルダデにはわかりませんでした。 今日も、神様と親しく交わる恵みを経験したことのない人が、多くいます。神が愛し救いの道を開いてくださったこと、神のことを知るための霊を与えてくださっていることを、一人でも多くの方が受けとれますように。 祈り:神様、あなたが人間を愛し、大切な存在として造ってくださったことに感謝します。私の霊の目、霊の耳をさらに開いてください。もっと主と親しく交わることができますように。アーメン

ヨブ記24

「今そうでないからといって、 だれが私をまやかし者だと言えるのか。 だれが私のことばをたわごとと見なせるのか。」ヨブ記24:25  ヨブは、なぜ悪者が繁栄し正しい者がしいたげられるのか、という問いの中にあります。 そして、今の一時的な状態だけで自分が悪者だと判断しないでほしい、と願います。 友人たちのふりかざす正義論で追い詰められたヨブの苦悩を感じます。 キリストは十字架に至る過程で、つばきされ鞭打たれました。「自分で自分を救ってみろ」と嘲られました。ひどすぎる仕打ちです。しかし、なにもお答えにならず、かえって「彼らをおゆるしください」と祈られました。それは、今という視点だけでなく、父なる神の深いご計画を知っておられたからでした。 栄光に満ちた方が、悲惨な状態を通ってくださいました。それが救いの道を開きました。人類のだれも、キリストほどのひどい仕打ちを受けたことがありません。この方は私たちのどんな悲惨や罪にも共に涙し、救いをもたらすことのできる方です。 祈り:神様、私の周りには、家庭環境で苦労した方、深い傷を負う方がおられます。社会を見ても、経済的な困窮、虐待や性被害、偽りが多くあります。ご自身がしいたげられた者となり、低くなってくださったイエス様が共にいてくださることを、悩む方が知ることができますように。私自身も、イエス様に心のうちを探って頂き、十字架の恵みをもっと深く知ることができますように。アーメン

ヨブ記23

「ああ、できるなら、どこで神に会えるかを知って、 その御座にまで行きたいものだ。ヨブ記23:3 ヨブの願いへの答えを、私たちは知っています。今ここで祈る時、私たちは神の恵みの御座に近づくことができます。 「ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。(ヘブル4:16)」 けれども、試練にあっている時には御座が遠く感じられることがあります。 聖書はそれを、金銀が精錬される過程にたとえています。 「神よ まことに あなたは私たちを試し 銀を精錬するように 私たちを練られました。(詩篇66:10)」 試練にあっても、それで終わりではありません。ひとときの試練を主と共に耐え忍ぶ人は、信仰の成長と練られた品性があたえられます。ヨブも「私は試されると、金のようになって出て来る(10節)」と言いました。 祈り:神様、私は今_______という問題に直面しています。あなたに祈りながらこの過程を通っています。今日も助けてください。私を練りきよめてください。 また、試練にある____さん、____さんを覚えます。今日も新しい励ましと希望が主から注がれますように。彼(彼女)が、成熟した信仰と練られた品性のクリスチャンとして、主に用いられますように。アーメン

ヨブ記22

「あなたが神に祈ると、神はあなたに聞き、 あなたは自分の誓願を果たすことができる。」ヨブ記22:27 エリファズの言葉には、いくらかの真実があります。 私たちが祈る時、神は必ず耳を傾けてくださるというのは真実です。24時間365日、いつ祈っても神様は聞いておられます。 一方で、「自分の誓願を果たすことができる」というのは、無条件にではありません。「みこころなら」「みこころの時に」、願ったことが聞かれるのです。 みこころのご計画、もっとよいご計画が別にあるならば、神はそちらに導かれます。 「祈ってもきかれない」のではなく、「神の方法で実現される」のです。 ですから、私たちの祈りとは「神に聴く」ものでもあります。エリファズは「自分は正しい」と思い込んでいますが、神のヨブへのご計画を聴く態度が欠けていることに気づいていません。 私たちが、神に聴く者となれますようにと祈ります。 祈り:神様、あなたの声を聴きたいです。みことばから、み思いをもっと知ることができますように。一方的なお願いを祈るだけでなく、あなたのみこころに私の心を向けることができますように。今週も導いてください。 「主は あなたの足をよろけさせず あなたを守る方は まどろむこともない。(詩篇121:3)」  アーメン

ヨブ記21

「私の言い分をよく聞いてくれ。 それを、あなたがたから私への慰めにしてくれ。」ヨブ記21:2 正論をふりかざす友人たちに、ヨブは自分の話を聞いてくれ。聞いてくれることが慰めなのだ、と言います。 深く傷ついた人にいきなりアドバイスをしようとしても、うまくいきません。 その人の話にじっと耳を傾け、共に祈ることで深い慰めに至ることも多いのです。 カウンセラーやコーチの訓練では、相手の話を聞くのが9割だと言われることもあるそうです。 聖霊に頼りながら聞く時、相手の思いをよく理解できます。言葉にならない相手の深い心を見極め知るのは、まさに聖霊の働きです。私たちが互いに、聖霊に満たされたよい聞き手、カウンセラーとなれますように。 祈り:神様、ありがとうございます。聖霊が私のうちに住んでくださり、とりなしてくださることに感謝します。よい聞き手となり、霊の兄弟姉妹で互いに励まし建て上げることができますように。心に深い傷を負った方がいるなら、主の癒しを共に祈ることができますように。 「人間の心を探る方は、御霊の思いが何であるかを知っておられます。なぜなら、御霊は神のみこころにしたがって、聖徒たちのためにとりなしてくださるからです。(ローマ8:27)」アーメン

ヨブ記20

「これが悪しき人間が神から受ける分、 神によって定められた、彼の受け継ぐものである。」ヨブ記20:29 苦しみにあい落胆している人がいたら、どのように励ましますか。 「自業自得だ」とは言いませんよね。また、「頑張れ」「仕方ない」と言うのも、かえって落胆させます。元気を出してもらおうとするよりは、むしろ「大変だよね」と寄り添い、一緒に祈ることの方が慰められると思います。 ツォファルはヨブが悪いことをしたのだと決めつけています。そして、悪人には罰が下るのだ、と断定しています。 「ひどいなあ」と思いつつも、知らず知らずに自分も同じようなことをしているのではと、はっとさせられます。 新年度が始まりました。喜び期待して歩み出す人もいれば、不本意な状況におかれる人もいます。後者のもとに、神の慰めと励ましを届ける人を神様は求めておられます。 私たちが、神のよい手足として届きますように。そして、人生とは神様の素晴らしいご計画の中におかれていると知ることができますように。 祈り:神様、4月がスタートしました。 新しい環境に踏み出す人には、主にある励ましと勇気が与えられますように。 不本意な状況を受け入れようとしている人には、主にある慰めと視点の転換がありますように。「不本意」ではなく「神のよいご計画」の中にあるという希望を与えてください。 私自身がその希望を頂き、主の慰めと希望を届ける管となれますように。アーメン