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エペソ4

エペソ4、詩篇132−134 「怒っても、罪を犯してはなりません。憤ったままで日が暮れるようであってはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい。」エペソ4:26−27 私は非常に怒りっぽい性質を持っている。不安やストレスが、不安として感じられるよりも怒りとして認知されてしまう。怒りの背後に、自分自身の弱い部分やどうしようもない部分が出ている。 それゆえ、怒っているときは理性よりもほとんど感情でパニックになっている。言葉のコントロールや知性の判断がうまくできずにロックされているのである。 しかし、それは悪魔の格好の働き場所になる。言葉で周囲を不快にさせたり傷つけたり、自分自身もそれを聞くことでさらに不安になったり、まさに悪魔に機会を与えてしまいかねない。 「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません」とあるように、言葉数を少なく、少なくするように(特に家族の間で)試みたい。祈りながら、聖霊様の助けと働きにより、進んでいこう。

エペソ3

エペソ3、詩篇129~131 「ですから、私があなたがたのために苦難にあっていることで、落胆することのないようお願いします。私が受けている苦難は、あなたがたの栄光なのです。」エペソ3:13 パウロのエペソ教会への宣教は易しいものではなかった。苦難や困難が(いつものように)あった。さらに、教会が生まれても、その牧会に際しては様々なチャレンジがあった。しかし、パウロは落胆することのないようにと言っている。 私たちがキリストのために苦難に遭うとき、同じように言えるだろうか。 実際、世界の迫害下にある兄弟姉妹たちは、先進国の傲慢や貧富の差の歪みにより、非常な貧困や政治の不安定の下に置かれている。いわば私たちの代わりに苦難を通っている面も多々ある。心が痛み祈らされるが、同時に彼らは私たちが落胆することを望まないだろう。かえって、キリストは私たちの命をかけて信じるに値する方であることを私たちが確認し、彼らの姿勢を見て励まされ、強められてほしいと思っているのではなかろうか。 現代でも、名もなくパウロのような信仰を持つ人々が数多くいることに気づき、絶えず覚えて祈りたい。神の超自然的な働きがその地方にあるように。そして、流された血、犠牲に主が報いて答えて理解し難いほどの栄光としてくださるように。

詩篇105

詩篇103~105、詩篇126~128 「主とその御力を尋ね求めよ。  絶えず御顔を慕い求めよ。」詩篇105:4 神様をほめたたえることは、礼拝や順調な状況の時には覚えていられる。 一方、逆境にあるときには神様がすばらしいとわかっていても賛美できないし、模範的な言葉を出すことも難しい。 それでも、詩人は主を尋ね求めよ、と言う。まずは神の御顔を求めること、すなわち神の方を向くことができるようにという。 未来を憂えるよりも、これまでの歩みを振り返ることをすすめている。アブラハムに始まり、イサク、ヨセフ、モーセと民族の歩みから、主がどれほど真実な方であり続けるかを列挙している。 私たちの歩みも、神の歴史と神の真実さの中に、あわれみの積み重ねで守られている。うつの時にも、病気の時にも、すべてがうまくいかないように思える時にも、神様は私たちの行動よりも私たちと顔と顔を合わせたいと願ってくださる。 なにもできなくても、うずくまっていても、目を神の方に向けること、そこから神のわざを、神の力を思い起こす気づきをいただくのである。

詩篇103

詩篇103-105、詩篇123-125 「天が地上はるかに高いように   御恵みは 主を恐れる者の上に大きい。  東が西から遠く離れているように  主は 私たちの背きの罪を私たちから遠く離される。」詩篇103:11-12 「わがたましいよ 主をほめたたえよ。主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな」(2節)が有名だが、主はどのような目で私たちを見てくださっているのかが、11~12節を読むとよくわかる。 天の父なる神は、私たちの視点よりもっと高いところにおられる。そして、その恵みも私たちの予想をはるかに越えて高いところから、思いもよらない注がれ方をしている。逆境の時にも、恵みが取り去られたように思えても、はるか天のかなたからそれは確実に注がれている。 そして、罪の意識や悔恨にさいなまれていたとしても、私たちの罪は東と西が正反対にあるがごとく、主が私たちから隔て分かたってくださった。私たちは、自分の罪がまだすぐそばにあるようにこだわっているが、神の目には私たちはそこからすでに抱き抱えられている。最近、情勢の緊迫するアフガニスタンから多くの人々の脱出作戦が行われている。命の危険にさらされ、脱出が必要な人々が安全に出国できるようにと祈らされている。もちろん、作戦を遂行する人たちの守りも願ってやまないが、爆発で命を落とした米軍の兵士もいると聞き、心が痛む。 霊的には、神は私たちが混沌とした情勢から脱出してほしいと、救出作戦をたててくださった。イエス・キリストがその作戦の仲介となられた。他に適任者はいなかった。そして、キリストは救出作戦のためにご自身のいのちを捨ててくださった。 イエス・キリストこそが救出者だと信じる者は、霊的な死の運命から救出される。神の脱出作戦が完了した者は、霊的いのちが保証されている。時々混沌の中での体験がフラッシュバックすることがあるが、事実は今現在安全なところ、保証されているところにいるのである。そして約束されているのは永遠のいのちである。 地上のニュースに心騒がせるのと同様、神の定められた霊的な脱出作戦の完璧さと脱出の事実をもっと喜んで受け取ろう。

エペソ2

エペソ2、詩篇120−122 「実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。」エペソ2:10 神の作品というには、自分自身はあまりにもみすぼらしく、不完全である。救われたというのに、主に仕えているというのに、欠点だらけで自分自身の心や口さえ制御できない者である。 しかし、神はあわれみ深く、良い行いさえも備えてくださっているというのである。私たち自身にはできなくても、すでに用意されているものを選びとることである。 健康の弱さを感じる昨今、ストレスチェックテストではストレスが高いという結果が出る。しかし、主が今日何を望んでおられるかを選びとること、ひとつひとつの突発的なことに自分の心が反応せず、心は背後に、聖霊が全面に出て反応してくださることを願う。

エペソ1

エペソ1、詩篇119:89~176 「この恵みを、神はあらゆる知恵と思慮をもって私たちの上に溢れされ、みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。」エペソ1:8−9 救いは恵み、神の御思いは恵み、神のご計画は恵み、恵みがこの世界に注がれているということが、この章前半のテーマとなっている。 恵みを注がれた私たちには望みがある。神の恵みを受け継いだものとして、その望みを抱いていつも生活することができたら、どんなにか幸いだろうか。 地上では疫病、戦い、災害など暗いニュースが絶えない。そのニュースをインターネットやテレビでチェックする時間は、I日どのくらいだろうか(自戒を込めて)。その時間以上に、天的な、素晴らしい恵みのニュースに触れようとしているだろうか。 みことばを日々口ずさむとは、天的な価値観に浸るように生活スタイルを整えることである。ニュースをチェックしたくなったら、そのかわりに聖書の通読プランを試したり、信仰書を読んだりしていきたい。否定的な情報に心囚われるより、それを祈りに代えよう。神の恵みに浸って今日も生きていきたい。

ガラテヤ6

ガラテヤ6、詩篇119:1~88 「失望せずに善を行いましょう。あきらめずに続ければ、時が来て刈り取ることになります。」ガラテヤ6:9 互いの重荷を負い合いなさい(2節)、すべての良いものを分かち合うこと(6節)など、パウロが勧めていることがある。 人間関係を見直してみると、様々な発見がある。自分にとって本当に大切な家族を大切にしているか。また、他者がわかってくれると思って依存しすぎていないだろうか。 私自身の人間関係のスタイルは、表面的なつきあいよりも少数で深くかかわることを好む傾向にあると思う。よい面もあるのだが、自分はわかってもらっているはずという期待や依存あるいは共依存が生じる可能性がある。 しかし、私が手放しですべての本音を話せるのは神様ご自身だけであるということを確認すべきだ。 時にその事実は、人間同士では100パーセントの理解者がいないことの確認と失望とにつながりかねない。では、なるべく関わりを控えたほうがよいのか。 いや、そうではない。聖書は善を行うことを「失望せずに」励み続けるようにと語ってくれる。あきらめないことである。時が来て、刈り取る恵みにあずかることがある。それはもしかすると、他の人がまいた種の刈り取りかもしれないし、私たちの種蒔きを他の人が刈り取ることかもしれない。いずれであっても、聖書はあまり意に介していないようである。重要なのは、誰がまいたか、刈り取ったかではなくて、蒔かれた種が刈り取りの時を迎えるのだというメッセージである。

ガラテヤ5

ガラテヤ5、詩篇116−118 「兄弟たち。あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕え合いなさい。」ガラテヤ5:13 私たちが救われたのは、愛をもって仕え合うためであると述べられている。しかし、肉の性質ではそねみや妬み、憤りなどでそれが妨げられる。 私たちの仕える動機は愛でなければならない。しかも、自分の力や性質によりたのむ愛ではなく、御霊による愛である。キリストの霊である御霊がともにいてくださるからこそ、私たちは自分では身につけ得ない愛や御霊の性質にあずかることができるのである。 自分自身を見るとがっかりする。しかし、いつも御霊から目を離さないようにすること、そしてその恵みに浸り受けとることが、日々の原動力となっていたい。

ガラテヤ4

ガラテヤ4、詩篇113-115 「ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神による相続人です。」ガラテヤ4:9 神が私たちを罪と律法の下にある奴隷の状態から解放してくださった。それだけではなく、神の子どもとして相続人にまでしてくださった。特別な身分、特別な待遇を受けることができる者に変えてくださった。 だから、信じる者はリラックスすることができる。あれをしなければ、これをしなければと焦らなくても、相続人としての身分が剥奪されることはない。私たちがするのはただ、この恵みをくださった神への感謝、そして、神の愛に応えたいという自発的な思いからである。 この恵みにいつも帰ろう。そして、神の愛に応えるために、私たちは今日も一日生きていく。肩の力を抜いて、しかし正しい方向を目指して、主を見上げていく。

詩篇102

詩篇100-102、詩篇110-112 「苦しむ者の祈り。彼が気落ちして、自分の嘆きを主の前に注ぎ出したときのもの。  主よ 私の祈りを聞いてください。  私の叫びが あなたに届きますように。」詩篇102:表題、1節 詩人がどれだけ気落ちしていたかは4節の「私の心は青菜のように打たれてしおれ パンを食べることさえ忘れました」という表現からよくわかる。抑うつ状態にある時には、自分の気力や意欲もなく、希望がもてないような心境になる。 それでも、詩人は主に祈ることをした。ありのままを主に申し上げ、自分の弱さも神への嘆きもすべて祈りにした。 祈る時に、不思議に混乱していた心が落ち着くことがある。一人で祈るだけでなく、何人かで祈っていると顕著である。 それは、自分で問題が整理できるというだけでなく、祈りの大切な側面、神から平安をいただくという側面である。 最後には、神の永遠の恵みと信じる者の希望まで述べられている。 「しかし あなたは変わることがなく  あなたの年は尽きることがありません。  あなたのしもべたちの子らは 住まいを定め  彼らの裔は 御前に堅く立てられます」(27―28節) 祈りの力、祈りの恵みと祝福である。

詩篇101

詩篇100-102、詩篇107-109 「朝ごとに 私は国の中の悪しき者を  ことごとく滅ぼし  主の都から 不法を行う者を  ことごとく断ち切ります。」詩篇101:8 王として国を治めたダビデの詩篇である。 当時は朝に王が裁判や判断をするならわしだったようである。朝は頭がすっきりしていて気温も快く、決断や判断をするのにふさわしかった(スタディーバイブルによる)。 もちろん、裁判は一度きりの仕事ではない。朝がくると、持ち上がった問題がまたあって、新たな判断が迫られる。忍耐のいる仕事だった。 ダビデはそれでも、「主の都から不法を行う者をことごとく」断ち切る、すなわち追い出すと決意している。 ダビデ王にとっては神がゆだねられた実際の都だが、私たちにとっても心を治めることは重要である。なぜなら、私たちのうちに聖霊が住まわれるからである。朝ごとに、自分の心の中に悪いもの、苦い思いが巣くっていないか点検する必要がある。それをことごとく、徹底的に主に明け渡し、除いていただくことが日々の祈りである。王でなくても、自分の心を治めることは主から預かった仕事である。 悪を除き、みこころの判断と選択をしていくための訓練を、日々受け取っていこう。

ガラテヤ3

ガラテヤ3、詩篇105~107 「キリストにつくバプテスマを受けたあなたがたはみな、キリストを着たのです。ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男と女もありません。あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つだからです。」ガラテヤ3:28 キリストを着た者は、その国籍、立場や身分、性別に関係なく、同じ神の子、公同の教会のメンバーとされる。キリスト・イエスにあって一つであり、平等である。 プライドのある人や権力者にとっては不都合なことである。クリスチャンが迫害され、為政者がキリスト教を握りつぶそうとしたのは、平等思想ゆえとも言われる。 しかし、神に比べたらどんな権力や地位もとるに足りない。 牧師や宣教師も、もちろん神の前では小さな存在にすぎない。 その中でキリストにあって仕える者、建て上げる働きにある者とされるのである。 建て上げる働きは、他の人のプライドに耐え、誤解を解き、神に目を向けるようにしていくのである。その労苦に召されたことのゆえに、周囲が敬意を払い、働き人はますます謙遜に仕えていくのである。

ガラテヤ2

ガラテヤ2、詩篇103~104 「しかし、人は律法を行うことによってではなく、ただイエス・キリストを信じることによって義と認められると氏って、私たちもキリスト・イエスを信じました。律法を行うことによってではなく、キリストを信じることによって義と認められるためです。というのは、肉なる者はだれも、律法を行うことによっては義と認められないからです。」ガラテヤ2:16 パウロは救われてから 14年もの間、アラビアの砂漠で過ごしたり、ダマスコを中心に福音を宣べ伝えたりして、いわば目立たない生活を送っていた。その下積みの年月があって神にさらに用いられるようになる。いずれの場所でも、信仰生活では走り続け、神の栄冠を目指して一心に励み続けたパウロだった。 そんなパウロがガラテヤの人々に言いたかったのは、割礼ではなく恵みで救われるということだった。パウロ自身も恵みで救われた。 私たちの回心の方法や環境は問題ではない。ある人は劇的に、ある人は平凡な日常の中での気づきがあって救われた。その恵みのありがたさ、大きさをわかればわかるほど、神の愛に答えたくなる。 今も世界各地で、信仰ゆえに迫害を受けている人々がいる。この恵みとひきかえなら命も惜しくない、キリストを裏切ることはできないという信仰にたっている。 彼ら、彼女らは、まさにパウロと同じく信仰の勇者である。世界情勢が揺れ動くなか、今日も命がけで過ごす彼らを特に祈りに覚える。

ガラテヤ1

ガラテヤ1、詩篇100-102 「今、私は人々に取り入ろうとしているのでしょうか。神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、人々を喜ばせようと努めているのでしょうか。もし今なお人々を喜ばせようとしているのなら、私はキリストのしもべではありません。」ガラテヤ1: 10 パウロは救われたときにすぐに使徒のところに以降ともせず、神との関係に生きるようになった。パリサイ派の人々からは裏切り者といのちをねらわれ、自分自身もすべての後ろ楯を失い、それでも本当に価値のある福音に生きることを確信した。 アラビアの砂漠での年月を通し、その後も知られることなく歩み、主ご自身がパウロに語ってくださったことと救いの確信とを持ち続けた。 パウロの態度は一貫して、人の顔色ではなく神の御顔を見上げていた。 それゆえ、人の評価ではゆるがないこと、神の評価であることを求めていた。 異端児かもしれない。しかし、神がお立てになったものは実現する、そのことをパウロは今日も全身で教えてくれる。 私たちは自分の立場が弱く力がないと思う。しかし、主がよしと言われればその確信に立つ勇気と信頼を持とう。人の顔色ではなく、神の思いをうかがい、その召しを感謝して受け取ろう。

詩篇100

詩篇100、詩篇97ー99 「知れ。主こそ神。  主が 私たちを造られた。  私たちは主のもの 主の民 その牧場の羊。」詩篇100: 3 自分のアイデンティティについて考えることが多かった。とくに牧師夫人というユニークな立場で仕えていた時には、自分自身の召しと違うような、それでも教会に住んで教会の雑務をし、さらに同じ牧師夫人でも立ち位置が様々で、とても悩んでいた。 しかしある時、「主がそれをよしとされた」ということを教えられ、自分に何度も言うようにした。牧師夫人という召しも主から来ていること、主が期待してそれをゆだねられたことを覚えた。今牧師の立場で牧会をしているが、自分の足りなさ、人格的な弱さを覚える時、やはり同じことを確認する。 「私たちは主のもの」「主の民」「主の牧場の羊」である。羊は広い牧場の中で安心して過ごせる。私たちも、主の采配とゆるしの中で今日も生き、動き、話し、仕え、進んでいくのである。

詩篇99

詩篇99、詩篇94~96 「われらの神 主をあがめよ。  その足台のもとにひれ伏せ。  主は聖なる方。」詩篇99:5 神様の豊かな恵みと愛を子どものように親しく受ける私たちだが、同時に神様がすべての支配者であり王の王であるということも改めて心に覚えたい。 親しくても敬うという関係は、親や学校の先生、年長者、同僚、友人などの間で練習することができる。ただ、人間同士だと失敗して互いに気まずくなり、そのままもの別れということもある。 一方、神様との関係は、私たちがごめんなさいと悔い改めれば、神様はいつでも、何回でもゆるしてくださるあわれみ深く忍耐深いお方である。 5節では足台、9節では聖なる山に向かって「ひれ伏せ」と書かれている。 主は何よりも高くそびえる山のようにすべてを見下ろしてご存じの方。 同時に、私たちがその足元のすぐそばまで行き、親しく祈りをささげることができる方である。 神様、私のゆれさまよう心を静め、深いところを探ってください。

詩篇98

詩篇97~99、詩篇91~93 「主は イスラエルの家への   恵みと真実を覚えておられる。   地の果てのすべての者が   私たちの神の救いを見ている。」詩篇98:3 ウイルス感染症、地震、大雨とさまざまな災害が重なるとき、戦争のうわさを聞くとき、絶望のような空気感が世の中にも、そして自分自身の心の中にも生じることを自覚する。 最近、Managing Leadership Anxiety ~Yours and Theirs~(リーダーの不安にどう対処するか) という本の著者、スティーブ・カスSteve Cuss氏のインタビューを聞いた。外側の問題以上に、自分自身の内側に生じる不安をどう神様に取り扱っていただき処理することの重要性を述べる。 ひとつの、そして最上の解決は、主を賛美することである。主のよくしてくださったことを思いだし、主の素晴らしさに目をとめ、被造物として主を礼拝すること、そうすれば自分の造られた目的に立ち返ることができる。 神は恵みと真実を覚えておられる、と3節に書かれている。そして、地の果てまですべての人々が神の救いを見ることができるのである。今の疲れ果て、戦いの終わりが見えないような世界にも、神の救いの恵みは昨日も今日も、変わらず注がれているのである。

詩篇97

詩篇97−99、詩篇89−90 「主を愛する者たちよ。悪を憎め。  主は 主にある敬虔な者たちのたましいを守り  悪者どもの手から 彼らを救い出される。」詩篇97:10 悪とは何か。罪深い出来事や行動、人々はもちろんである。しかし、私の心の中にある否定的な思考や感情も、外面の出来事に負けず劣らず影響を及ぼす。それは自分自身と周りの人々を不信仰にし、神に頼ろうとする視点を遠ざけてしまう。 主に焦点を合わせ続ける者を、主は守ってくださる。とくに心(たましい)を保護してくださる。SNSも、災害や疫病、紛争のニュースも、主から私たちを引き離すものはないという約束がされている。 「だれが、私たちをキリストの愛から引き離すのですか。苦難ですか、苦悩ですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。・・・しかし、これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。」(ローマ8:35~37)

Ⅱコリント13

Ⅱコリント13、詩篇87−88 「あなたがたは、信仰に生きているかどうか、自分自身を試し、吟味しなさい。それとも、あなたがたは自分自身のことを、自分のうちにイエス・キリストがおられることを、自覚していないのですかあなたがたが不適格な者なら別ですが。」Ⅱコリント13:5 信仰の歩みは、キリストの霊である聖霊ご自身が導き、成長させてくださる。そのことに疑いはない。 しかし、私たちが何もしなくても良いのではない。まず、聖霊が内住されていることを自覚すること、そして信仰の歩みを日々しようとすこと、さらにはその歩みができたか自己点検することが必要だと、この節でパウロは勧めている。 救いは恵みである。しかし、甘んじているのではいつまでも成長のないクリスチャンのままである。 キリストがいのちをかけて十字架で死んでくださり復活なさったのなら、その救いを得た私たちも全力でお従いしようではないか。 知性やきれいごとだけでなく、本気度を主は喜ばれる。

Ⅱコリント12

Ⅱコリント12、詩篇84−86 「しかし主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである』と言われました。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」Ⅱコリント12:9 性格的な弱さ、肉体的な弱さ、忍耐のなさ、非常事態への適応力のなさ、感情面の不安定な弱さ…それらを持っているのが私である。 不安になる時、コントロールできない感情に左右される時、確かなのはキリストの力だけだと実感する。自分自身は洞穴に隠れてしまいたいような者なので、キリストの背後に隠れて衣の後ろに触れていようと思うくらいである。 もちろん、パウロは直接的には彼の肉体的な弱さを念頭に語っている。しかし、肉であれ心であれ、弱い私たちをも用いて主ご自身の栄光が現れるなら、喜んで「土の器」(4:7)の質素さ、弱さに甘んじよう。キリストが輝かれるように、キリストが前面に出てくださるように、私たちはその光をみすぼらしい器に入れているのである。 聖霊様、こんなみすぼらしい私の中にも住んでくださり感謝します。私の霊肉が、キリストの素晴らしい輝きだけを反映できますように。自分の悪あがきやプライドで、光を邪魔することがありませんように。今日も感情や言葉を主が支配してください。アーメン

Ⅱコリント11

Ⅱコリント11、詩篇81−83 「もし誇る必要があるなら、私は自分の弱さのことを誇ります。」Ⅱコリント11:30 ユダヤ人から39度むち打たれ、 ローマ人から3度むち打たれ、 石で1度打たれ、 難船したことが3度、 海上を一昼夜漂い、 川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、 町での難、荒野での難、海上の難、 偽兄弟による難、 労し苦しみ、眠れず、飢えと渇き、寒さ、 諸教会への心づかい…(24−28節) パウロほど苦労しながら福音を宣べ伝えた人が、自分の弱さを誇ると言っている。 誰かが弱くなっている時、やみくもに「頑張れ」という言わなかった。代わりに、パウロは自分のようになって欲しいこと、また、その人たちの弱さを自分の弱さとして祈りにかえた。 教会の兄弟姉妹のことも裁くのではなく、弱さを認め祈りに代える思いでいたい。自分だって完全ではないし、皆が忍耐してくれていることを受け止めたい。

Ⅱコリント10

Ⅱコリント10、詩篇79−80 「私たちは様々な議論と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち倒し、また、すべてのはかりごとを取り押さえて、キリストに服従させます。」Ⅱコリント10:5 パウロは、この手紙を自らの使徒としての権威をもって書いている。それは、自分を誇るためではなく(17節に「誇る者は主を誇れ」と引用している)正しい信仰の姿勢をコリントの人が身につけて欲しいからだった。うわべだけを見て人を評価することのないため、またパウロの権威が自分から出たものでなく神に立てられたものであり、真心から忠告しているのだと伝えようとしたからだった。 私たちは、つい自分が優れているかのように錯覚しがちである。それゆえ、批判されたりうまくいかなかったりすると落ち込んでしまう。しかし、全ては主から出たもので、主に導かれて一瞬一瞬の判断をするなら、落ち込むことも疲れ果てることもなくなる。 牧会もミニストリーも、主の命じられることを主と共に日々していくように。主がしなくて良いと導かれること、そのままにしておいた方が良いことは、自分の肉が何かしたがってもぐっと忍耐できるように。主よ、弱い私をお助けください。

Ⅱコリント9

Ⅱコリント9、詩篇77−78 「種蒔く人に種と食べるためのパンを与えてくださる方は、あなたがたの種を備え、増やし、あなたがたの義の実を増し加えてくださいます。」Ⅱコリント9:10 ささげ物について「いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい」「神は、喜んで与える人を愛してくださるのです」「神はあなたがたに、あふれる恵みをあふれるばかりに与えることがおできになります」(6、7節)と述べられている。 そして、与えてくださるのは神であり、私たちの持っているものは神が所有者であることを繰り返し述べている。 日本でも「金は天下の回りもの」という諺がある。しかし、聖書はそれ以上に、神から一時預かり、管理を任されているものだと示してくれる。自分の身辺の維持だけではなく、任されている任務の大きさに応じた用い方が求められているのである。 「良い管理者」として忠実に、そして神様が喜ばれるようなささげ方と活用ができるよう、自分の献金の姿勢、財産・時間・賜物の用い方について神の知恵と助けを求めよう。

詩篇96

詩篇94−96、詩篇74−76 「威厳と威光は御前にあり  力と輝きは主の聖所にある。」詩篇96:6 神が全ての主権をもち、世界の全てを支配することのできるお方である。そうわかりながらも、いつも目に見えるもの、インスタントなものに頼ってしまう私たちである。 かつてイスラエルが滅びに向かっていた時、エルサレムについてイザヤは預言をした。絶体絶命になった時に、民が神ではなく自分の物や知恵に頼ることへの警告だった。 「…その日、おまえは森の宮殿の武器に目を向けた。 おまえたちはダビデの町に破れが多いのを見て、下の池の水を集めた。また、エルサレムの家々を数え、その家々を取り壊して城壁を補強し、…しかし、おまえたちはこれを造った方には目もくれず、遠い昔にこれを形造った方に目を留めなかった。」(イザヤ22:9−11) これを人ごとだと言えるだろうか。今(2021年8月)も、コロナウイルスとの戦いを世界中がしている。先進国をはじめ、こぞってワクチンを打ったり対策を進めたりしているが、それでもまだ感染は続いて難航している。 そうした対策も大切で必要である。ただし、その前提として、まず初めに、神に立ち返ることが必要である。神に頼らなければ人は無力であるという基本に気づくこと、神に目を留めることなしには、どんな問題も究極的な解決は望めない。そのことを教えられているように感じる。

詩篇94

詩篇94-96、詩篇72-73 「私のうちで 思い煩いが増すときに  あなたの慰めで私のたましいを喜ばせてください。」詩篇94:19 「思い煩い」…、私の一番陥りがちな心理状態である。主が素晴らしいのはわかっているし、大丈夫なのもわかっているが、身体が疲れ、気力がなえ、課題が連続した時に、自分では処理不能になる。 そして、頭の中で思い煩うサイクルが無限に回り出す、というパターンであるように思う。 しかし、全く別のことに注意が向けられると、思い煩いと同時に考えることができなくなる。人間の知性はその程度である。そして、状況は特に変化していない。自分自身の思いに最も左右されているのだということに気づく。 たとえ周りに悪が満ちていたとしても、詩篇の作者のように神に寄り頼むことに思いを向けることが大切だと学ぶ。そして、不完全でもその態度を主は喜ばれ、砦であり避け所であり続けてくださる。

Ⅱコリント8

Ⅱコリント8、詩篇70−71 「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」 Ⅱコリント8:9 献金のこと、ささげることについてふれた後、パウロはささげることについて、最も素晴らしい例を挙げる。それは、キリストがご自身をささげてくださった例である。 すべてを所有し、すべてを支配されていた神ご自身が、貧しく制限のある一人の人として地上に来られ歩まれた。それだけでなく、誤解を受け、逮捕され、罪人として断罪され、死刑になられた。 どれだけの犠牲を払っても、キリストほどのささげ方ができる者はいない。 しかも、その貧しさは、私たちを恵みで満たすためであった。 このことを考える時、いったい私は何をけちけちしているのかと思う。私たちは、お金だけでなく自分自身をささげることを問われている。もし自分自身をささげるなら、お金もただ主にお返ししているに過ぎず、私たちが何かよいことをしているとさえ言うことができない。

Ⅱコリント7

Ⅱコリント7、詩篇68-69 「神のみこころに添った悲しみは、後悔のない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。」Ⅱコリント7:10 神様が祈りを聞いてくださるのは、いつも楽しく平和な方向というわけではない。むしろ、なぜこのような結末に、と思ってしまうような祈りの答えを受け取ることがある。 しかし、人が結末はこれだと思っても、神様の結末はその後にあることが多い。 悲しみも、みこころに添ったものはやがて救いに至らせる。死に至らせるこの世の悲しみとは結末が異なる。 だから、一時で判断しないで、神様のご計画に期待と希望を持ち続けよう。これが信仰である。「信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです」(ヘブル11:1)。

Ⅱコリント6

Ⅱコリント6、詩篇66−67 「悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持っていないようでも、すべてのものを持っています。」Ⅱコリント6:10 パウロの労苦と迫害にあった経験とは、普通ならもうこれ以上働けないと思うほどの厳しさだった(4節以降)。しかし、彼の心はいつも喜び満ち足りており、どんな逆境にも負けなかった。それは、キリストが彼を愛し救ってくださったという福音の恵みにいつも根差し、その素晴らしさを味わっていたからだった。 宣教師や開拓伝道者のメンタルヘルスで大切なことは"Rediscover the grace of the Gospel"(福音の恵みを再発見し続けること)だという。異文化と孤独、進まない働きのストレスは、ともすれば結婚生活、家庭生活に影響を及ぼす。働きを続けるためには、日々福音の恵みを再発見し、自分の弱さを通して神の栄光とみわざが現れることを確認し続けるプロセスが大切である。 宣教地や僻地に限らず、私たちがおかれている職場や学校、地域、そして日々の歩みの中で、福音の恵みを再発見し続けること。これが、パウロにとっても、今日の私たちクリスチャンにとっても、燃え尽きず落胆しきってしまわず、喜びと深い平安をもって生きていく最上の秘訣である。

Ⅱコリント5

Ⅱコリント5、詩篇60−62 「ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました 。 」Ⅱコリント5:17 キリストの救いを頂き、永遠の住まいがあるという保証は御霊である(5節)という。1:22にも「神はまた、私たちに証印を押し、保証として御霊を私たちの心にあたえてくださいました」とある。 だから、聖霊の臨在を覚えながら日々歩むのは、私たちの救いを確認し、希望を失わないために大切である。たとえ体調が悪くても、気分が乗らなくても、確かに救われて永遠の望みがあるということを証印として聖霊がご自身の存在を持って示してくださる。 それは理性、知性だけではできない。なぜなら、理性や知性は認知機能や思考が衰えれば働きにくくなるからだ。しかし、聖霊によって歩むのは、たとえそうした働きが弱っても可能である。 しばらく前にある高齢者施設を訪れた。認知症になられた方が、天を見上げてお祈りされる姿、「アーメン」と心から言われる姿に、聖霊の働きを感じた。私たちがたとえ自分の名前を忘れるようなことがあっても、神は私たちを忘れておられない。 救いをいただいた時点で「すべてが新しくなりました」(17節)。私たちはその希望を持って、今日も新しい人生の最新の1日を歩むことができる。

Ⅱコリント4

Ⅱコリント4、詩篇60−62 「私たちは、この宝を土の器の中に入れています。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものではないことが明らかになるためです。」Ⅱコリント4:7 この章では 「落胆することがありません」(1節)、「落胆しません」(16節)と2度も書かれている。神への務めが割り当てられ、それは神のあわれみによる。私たちの外見の弱さや、私たちの能力の足りなさに左右されない。なぜなら、私たちは土の器であり、神が私たちを召された、ということを述べている。 パウロにも外見の弱さや人格的な足りなさがあった。しかしながら、神がパウロを用いられたのは、神のご計画と召し、あわれみによるということである。 私自身も、自分の未熟さ、心身の弱さ、傷つきやすさを見るとき、主の働きには到底耐えることができない者であると思う。人からの妬みや恨みも買いたくないし、不安定な将来を生き抜くことができるとも思わない。しかし、ただ主が召されたから、そして主が望んでおられるから、あわれみによってこの働きに集中するように導かれたから、光栄なことと受け取り、はいと従うのみである。

詩篇92

詩篇91−93、詩篇57−59 「彼らは年老いてもなお 実を実らせ  青々と生い茂ります。」詩篇92:14 「安息日のための歌」と書かれている。安息日はただ休むのではなく、神様のことを思い、賛美と感謝の思いに満たされて安らぐ日である。 そうしたリズムを守り、神に信頼している人は年齢にかかわらず青々とみずみずしい生き方ができる。 節目節目で、自分も弱くなってきたなあと思うこと、かつてのようにユースの集いで仲間意識を持ってもらえないことに年齢を感じたりすることが増えている。がっかりすることもあるし、人生の終わりに向けて考えることも多い。しかし、逆にこれまでの歩みを統合し、若い時にはできなかったようなやり方ができる。 実を実らせ、青々と生い茂る人生が前にひらけているならば、老いることをもっと前向きに捉え、楽しみ、死の後にも天国があるという望みに生きよう。