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6月, 2022の投稿を表示しています

申命記28

「しかし、もしあなたの神、主の御声に聞き従わず、私が今日あなたに命じる、主のすべての命令と掟を守り行わないなら...」申命記28:15 イスラエルの民が主に信頼したときの祝福と、信頼しないで不従順になった時の警告とが列挙されています。 神は気まぐれに私たちに不幸をもたらすような方ではありません。祝福したいと願っておられるにもかかわらず、私たちの罪や不従順が私たちを祝福から遠ざける結果を生んでいます。 イスラエルは後に王国分裂、滅亡、そして20世紀まで世界に離散するという歴史を通りました。大変な苦労をしてきた重みを感じます。 そして、自分の町や国のために今日クリスチャンがとりなしの祈りをすることは、とても大切な務めなのだと気づかされます。選挙が近い中、みこころのリーダーが選ばれるようにと祈ります。 祈り:神様、あなたが私たちの幸せのために、約束と警告を知らせてくださったことを感謝します。この町や国のリーダーが、あなたの思いを妨げることなく、謙遜に、誠実に仕えていくことができますように。私たちも自分の心を点検し歩みたいです。聖霊様がいつも教え導いてください。アーメン

申命記27

「...民はみな答えて、アーメンと言いなさい。」申命記27:15~26 「アーメン」は「その通りです」「私もそう思います」という意味です。祈りの最後に「アーメン」というのは、私も主の前に心を合わせ、同じ思いで祈りますという宣言です。 イスラエルの民は、レビ人の宣言に一つ一つ「アーメン」と答えました。 私は礼拝の最後の祝祷が好きです。皆が心合わせて「アーメン」と言い、また新しい一週間の出発をする...まるで教会がイエス様という素晴らしい監督に導かれるチームであるかのような、一致と喜びを覚えます。 毎回のお決まりではなく、恵みをかみしめながら礼拝に参加できますように。 祈り:神様、私たちが教会に集められているのは、主をたたえるためであることを覚えます。あなたが導いてくださった教会で「アーメン」という時、共にあなたを見上げる仲間が与えられている恵みに感謝します。アーメン

申命記26

「第三年、十分の一の年にあなたの収穫の十分の一をすべて納め終え、これをレビ人、寄留者、孤児、やもめに与えて、彼らがあなたの町囲みの中で食べて満ち足りたとき、」申命記26:12 毎年十分の一を納めることは変わりませんが、三年ごとに(つまり三分の一は)特に働き人、外国人、孤児、未亡人の必要を満たすためささげ物が用いられるように、との規定でした。 自分達のことだけでなく、困っている人へのまなざしも大切に、という配慮です。 先日、業者さんが教会敷地の草刈りをしてくださいました。来られた3人のうち、2人はベトナムの方でした。 大阪狭山市にも450人ほど外国籍の方がおられます。そうした方の切実な希望のうち「災害時の情報が入らない」「もっと日本人と友達になりたい」というのが印象的です。 クリスチャン同士でも 「それぞれ、自分のことだけでなく、ほかの人のことも顧みなさい。キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい(ピリピ2:4~5)」を実践できますように。 祈り:神様、あなたの愛のまなざしを私にも与えてください。教会の兄姉とお互いにケアをし、祈り合うことができますように。地域や世界にも目を向け、必要のために祈らせてください。具体的な行動を主が示し、踏み出せるよう助けてください。アーメン

申命記25

「脱穀をしている牛に口籠をはめてはならない。」申命記25:4 脱穀作業の動力として使われている牛の口を、口籠(くつこ)でふさいではならないという掟です。 そこにある麦を食べさせないで作業だけさせるのではなく、食べても構わないということです。 新約聖書でこの箇所が引用されているのは、第一コリント9章と第一テモテ5章です。 「モーセの律法には『脱穀をしている牛に口籠をはめてはならない』と書いてあります。はたして神は、牛のことを気にかけておられるのでしょうか。私たちのために言っておられるのではありませんか。そうです。私たちのために書かれているのです。なぜなら、耕す者が望みを持って耕し、脱穀する者が分配を受ける望みを持って仕事をするのは、当然だからです(1コリント9:9~10)。」 パウロは、主のために働く人々が支えられるようにしなさい、と言いました。自分の教会の働き人だけでなく、宣教師、巡回伝道者、音楽伝道者、クリスチャン団体の事務局員...も、主にあって守られ、必要が満たされますように。私たちも心をこめて祈りに覚え、経済的にもささげていけますように。 祈り:神様、あなたの働きのために生涯をささげ、専念している方々の存在を感謝します。あなたが格別にねぎらい、支えてください。パンデミック以来、待機や延期など働きが制限されてきた働き人に、あなたが喜びと平安、忍耐を与えてください。私も必要を覚えて祈りささげることができますように。主にある気前のよさをさらに与えてください。アーメン

申命記24

「人が新妻を迎えたときは、その人を戦に出してはならない。何の義務も負わせてはならない。彼は一年の間、自分の家のために自由の身になって、迎えた妻を喜ばせなければならない。」申命記24:5 6月の花嫁(ジューンブライド)は人気があるようです。コロナウイルスの影響で結婚式のあり方がずいぶん変わりましたが、結婚で大切なのは式よりもその後の生活です。 特に結婚1年目は二人の調整期間だといえます。習慣や考え方の違い、互いの長所も短所も明らかになってきます。人生の中でも非常に重要な時期です。 今日の箇所では、新婚の人は1年間兵役や義務を免除して、家庭の土台を築くことに集中できるよう定められています。今の日本には兵役はありませんが、「結婚したから彼女(彼)のことは一段落、仕事や奉仕に集中するぞ」というのではなく、「結婚したから彼女(彼)をより大切にして、仕事や奉仕とバランスをとるぞ」というのが聖書的なのですね。 祈り:神様、あなたが小さな家庭という単位を大切にされ、祝福の基としてくださったことを感謝します。結婚された____さんに主の祝福を祈ります。同時に、離別の痛みを通られた_____さん、____さんに主の慰めと励ましがありますように。両親が離婚した子どもたちには、あなたが完全な天のお父さんであるという安心感が与えられますように。アーメン

申命記23

「不倫の子は主の集会に加わってはならない。その十代目の子孫さえ主の集会に加わることはできない。」申命記23:2 聖書は差別を勧めているのでしょうか。断片的にこの節だけを読むとそのように受けとれます。しかし、文脈を考えるなら、昨日の章では結婚以外の関係が厳しく戒められていました。その続きで、悲しい結果を生む不倫を避けるようにということをより確認していると思えます。 また、陣の中では衛生面に気をつけるように、奴隷の身元を守るように、畑での少量のつまみ食いはOK(!)といったことにも触れています。 イエス様が安息日に弟子たちと麦畑を通られた光景をほほえましく想像します。 「ある安息日に、イエスが麦畑を通っておられたときのことである。弟子たちは穂を摘んで、手でもみながら食べていた(ルカ6:1)」。 パリサイ人が安息日なのに何をしているのだ、と責めた時、イエス様はダビデの例を出し、つまみ食いをしている弟子たちを擁護されたのでした(2~5節)。そして、規則で人を縛るのは主のみこころではないことを示されました。 祈り:神様、律法の字面だけ見るとよくわからないことがあります。しかし、その背後にあるあなたの意図とみこころを考えながら読むことができるよう導いてください。実生活でも、他人を裁く思いから守られ、あなたの思いを私の思いとできるように助けてください。アーメン

申命記22

「夫のある女と寝ている男が見つかった場合は、その女と寝ていた男もその女も、二人とも死ななければならない。こうして、あなたはイスラエルの中からその悪い者を除き去りなさい。」申命記22:22 様々な規定が語られます。それは、服が長持ちするように、作物がよく育つようにといった、私たちを守り助けになる内容でした。なかでも性的な事項は、時代にかかわらずその人自身の人格や健康、そして家族と周囲の人間関係が守られるために大切です。 今日、多くの人が結婚外の関係や思わぬ妊娠の経験で深く傷ついています。 また、政治家や有名人が不倫や不適切な関係を持っていると、鋭い批判を受けます。私たちの良心が「いけないことだ」とわかっているのです。その良心は神様が人間の心に与えてくださったものです。 祈り:神様、あなたが深い意図をもって私たちを教え、良心を与えてくださったことを感謝します。不適切な性的関係を持った人が悔い改め、いやされ、人間関係が回復しますように。心の傷がいやされますように。 「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます(1ヨハネ1:9)」 アーメン

申命記21

「ある人に死刑に当たる罪過があって処刑され、あなたが彼を木にかける場合、その死体を次の日まで木に残しておいてはならない。その日のうちに必ず埋葬しなければならない。木にかけられた者は神にのろわれた者だからである...」申命記21:22~23 死体が木にかけられるのはみせしめの意味があり、罪人の最も恥ずべき姿でした。 そしてローマによる十字架刑というのは、木にかけられた姿を人前にさらすという、屈辱と恥の刑罰でした。 「キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。『木にかけられた者はみな、のろわれている』と書いてあるからです(ガラテヤ3:13)。」 本当は私たちが自分の罪のゆえに木にかけられ、さらし者となるはずでした。今こうして部屋で静かにキーボードを打っていられるのは、当たり前のことではなく、ただ恵みによるのだとしみじみ思います。なぜくよくよ悩み、選択に迷っているのでしょう。十字架刑に比べれば、どれもこれも小さいことに思えてきます。 祈り:神様、キリストが十字架で私の代わりにのろわれた者となってくださった愛を思い、感謝します。今日何かを判断するとき、イエス様の愛を思い出し、イエス様ならどうされるだろうか、と考えて決断できますように。主にある思慮深さと大胆さを与えてください。アーメン

申命記20

「あなたが敵と戦おうと出て行くとき、馬や戦車や、あなたよりも多い軍勢を見ても、彼らを恐れてはならない。あなたをエジプトの地から連れ上ったあなたの神、主があなたとともにおられるのだから。」申命記20:1 聖書の神は、むやみに好戦的なのではありません。10節では、戦闘の前に降伏を勧めるよう命じられています。滅ぼせと命じられている町は、偶像礼拝の習慣をイスラエルにもたらし、イスラエルを誘惑したため、裁きを受けたのでした。 さらに、恐れて弱気な者や畑の収穫中の者、婚約中の者は無理に戦いに参加しなくてもよいとも言っています。集中できず、他の人の士気をくじくからです。 しかし、私たちの霊的な戦いでは、逃げ帰る場所がありません。立ち向かうしかないのです。見ないふりをしていてはやられてしまいます。「恐れるな」と聖書は語ります。なぜなら勝利はすでに決まっており、神の武具も与えられているからです(エペソ6章)。何よりも、主が共にいてくださるからです。 祈り:神様、「戦い」と聞くと恐れと拒絶の思いが出てきます。平和を常に願う者であることをあなたも喜んでくださることを知っています。けれども、霊的な戦いに関しては、すでに十字架で勝利してくださったのですから、勇気を出して、心くじけず神の武具で装備できるように助けてください。霊の戦いの渦中にある____さん、____さんを特別に励ましてください。アーメン

申命記19

「いかなる咎でも、いかなる罪でも、すべて人が犯した罪過は、一人の証人によって立証されてはならない。二人の証人の証言、または三人の証人の証言によって、そのことは立証されなければならない。」申命記19:15 私たちは、誰かの陰口やうわさを耳にしたことがあると思います。ついその内容を信じてしまいそうになります。でも、別の人が正反対のことを言っていたり、事実とかけ離れていたりすることも多いです。 裁判の証人には、公正な見方と事実に基づく証言が必要になります。宣誓してから証言するほどです。それでも、人間の見地には限界があり、歪んだ見解を持ってしまうものです。 聖書は私たちの限界をよく知っています。そして、イエス様を集団で死刑に陥れたことも、隠さず記録しています。 祈り:神様、私たちの弱さや限界をよくわかってくださり感謝します。こんな私たちを愛し、救ってくださる神様のあわれみ深さと恵みに感謝します。アーメン

申命記18

「あなたの神、主はあなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のような一人の預言者をあなたのために起こされる。あなたがたはその人に聞き従わなければならない。」申命記18:15 モーセが言ったとおり、この後の時代に預言者が起こされていきました。この節はそれだけでなく、完全で偉大な預言者であるイエス・キリストをも指し示しているようです。 使徒の働きでステパノが殉教する前に 「このモーセが、イスラエルの子らにこう言ったのです。『神は、あなたがたの同胞の中から、私のような一人の預言者をあなたがたのために起こされる。』(使徒7:37)」 と語り、人々が罪のないイエス・キリストを十字架につけた、と指摘したからです。 モーセがそこまで見据えて発言したとは考えにくいですが、神様は不完全な私たちを通してでもご自身の計画を明らかにし、実現していかれる方だとわかります。 私たちはただ、「通りよき管(くだ)」として用いられるようにと願います。 祈り:神様、あなたが時代を越えた計画を持っておられる素晴らしい方であることをほめたたえます。私たちには理解できない、スケールの大きいことが多くあります。その中で、あなたのご計画が実現するための一部に仕えることができますように。主の愛とわざを流すくだとして、私を用いてください。アーメン

申命記17

「その王国の王座に就いたら、レビ人の祭司たちの前にある書から自分のために、このみおしえを巻物に書き写し、自分の手もとに置き、一生の間これを読まなければならない。それは、王が自分の神、主を恐れ、このみおしえのすべてのことばと、これらの掟を守り行うことを学ぶためである。」申命記17:18~19 王になった人がするべきことは、神のおしえとことばをより学ぶことだ、と書かれています。国のトップが、ずっと耳にしてきたことを、あえて重ねて守るよう教えられています。逆説的でしょうか。 いいえ。役割が多くなればなるほど、忙しくなればなるほど、主に頼り主の助けを求めるのでなければ、正しく務めを果たすことはできません。 マルティン・ルターは「私にはあまりにも多くの仕事があるので、一日に3時間祈らなければやっていけない」と言いました。 王でなくても、今日は私たち一人一人が、家庭や教会、職場、学校、地域の一人として、多くの役割を担う存在です。何時間祈った、聖書を読んだ、というのではなく、歩きながらでも、家事をしながらでも、いつも祈り心で、主に頼り助けをいただいて歩めたら幸いです。 祈り:神様、あなたにいつでも祈れる幸い、いつでも聖書を読める恵みを感謝します。何をしている時でもふと立ち止まり、私の意識や思いをあなたに向けることができますように。共にいてくださる聖霊様が気づきを与え、正し、導いてくださることを受け取れますように。アーメン

申命記16

「そこでは種入りのパンを食べてはならない。七日間、種なしパン、苦しみのパンを食べなさい。あなたはエジプトの地から急いで出て来たからである。それは、あなたがエジプトの地から出て来た日を、一生の間覚えているためである。」申命記16:3 80代の方で「脱脂粉乳が飲めない」という方がおられました。終戦後の貧しい時代、給食で出された脱脂粉乳の味が合わなかったそうです。無理に我慢して飲んだ思いでと、当時のみじめな生活を、脱脂粉乳から思い出すと言われました。 「おふくろの味」もよく聞きます。あるものを食べるとなつかしい故郷や実家をありありと思い出すのです。 食べることと記憶は密接に結び付いているようです。 種なしパンの祭りは、エジプトから神が救ってくださったことを記念するために定められました。種なしパンといけにえを食べ、毎年毎年神の救いと恵みを思いだし、語り告げました。 聖さん式もキリストの十字架の血とからだを覚えるためにもたれます。次は7月の第1週の予定です。 毎月の行事として漫然と参加するのではなく、自分がどんなところから救われ、今日まで導かれてきたかを思い出し、味わいながら持つ時であるようにと願います。洗礼を受けようか迷っておられる方も、この神の家族の食卓を味わう日が一日も早く来ますように、お祈りします。 祈り:神様、私たちに味覚を与え、記憶と結びつけてくださり感謝します。あなたのよくしてくださったことを感謝し、覚えることができますように。聖さん式に共に集える人が、さらに起こされますように。_____さんが受洗できますように。アーメン

申命記15

「必ず彼に与えなさい。また、与えるとき物惜しみをしてはならない。このことのゆえに、あなたの神、主は、あなたのすべての働きと手のわざを祝福してくださるからである。」申命記15:10 7年ごとに同胞の負債を免除することと合わせて、貧しい者に手を差し伸べることが命じられています。 数年前に、教会としてある負債を免除する決議を行いました。様々な感情や葛藤があった中で、信仰に立って決断した役員や教会員の勇気と気前良さに、主が報いてくださることを信じます。 さらに、私たちは社会的弱者と言われる方々にどのように手を差し伸べることができるでしょうか。 普通はたくさん与えたら自分の分が減ってしまう、と心配になります。でも、聖書は困っている人を助ける時、自分もまた祝福され満たされると述べています。 「おおらかな人は豊かにされ、他人を潤す人は自分も潤される。(箴言11:25)」 祈り:神様、あなたが気前の良い方、恵みを惜しみなく注がれる方であることを感謝します。私も、あなたの約束を信じ、気前良くささげる者、助けの手を伸ばす者としてください。イエス様が手を伸ばされるところに、私も共に持ち運んでください。アーメン

申命記14

「あなたがたは、あなたがたの神、主の子どもである。死人のために自分の身を傷つけたり、また額を剃り上げたりしてはならない。」申命記14:1 当時の異教の国々では、死者を弔うために身体に傷をつけたり、額の髪を剃ったりしました。それは偶像礼拝の儀式としての行為でした。 14章は、そうしたことを真似ないようにと語ります。食物規定は、衛生面と合わせて周りの国が異教の習慣として食べていたものを禁じています。 1節ではまた、「あなたがたは、主の子どもである」と述べています。旧約の時代に、すでに「主の子ども」という表現が出てきているのは驚きですね。そして、主の子どもにふさわしい生活、ささげ物、そして弱者への優しいまなざし(29節)が命じられています。 私たちも主の子どもとして、生活、ささげ物、弱者への優しいまなざしについて、今日実践できる者となれますように。 祈り:神様、信じる者を「神の子ども」にしてくださり感謝します。 「あなたがたはみな、信仰により、キリスト・イエスにあって神の子どもです。(ガラテヤ3:26)」 「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。(ヨハネ1:12)」 この恵みを特別なプレゼントとして受け取ります。今日、神の子どもにふさわしい歩みができるよう助けてください。アーメン

申命記13

「あなたと母を同じくする兄弟、あるいはあなたの息子、娘、あるいはあなたの愛妻、あるいはあなたの無二の親友がひそかにあなたをそそのかして、『さあ、ほかの神々に仕えよう』」と言うかもしれない...あなたはそういう者に同意しようとしたり、耳を貸したりしてはならない。」申命記13:6、8 十戒の中にもある通り、主なる神以外のものを拝んだり仕えたりしてはならないことを、モーセは何度も念を押すように語ります。この点では家族や親友の声にも断固ノーと言うように、と厳しく命じます。 旧約聖書を見ても、偶像礼拝は主から心を引き離すだけでなく、やがて家庭の崩壊、国の破滅へと導きました。子どもを殺していけにえにしたり、神殿娼婦と不貞を働いたりといったことが普通に行われていました。 「神か自分か、どちらが大切か」と信仰を持たない夫に言われたクリスチャンを知っています。難しい問いのようですが、正解は「主なる神を大切にしたら、夫をはじめ家族も大切にされ祝福される」だと信じます。 祈り:神様、あなたをいつも心の中心に置くことができますように。あなたが与えてくださる愛を、家族や周囲の人に流せますように。忍耐を与えてください。 信仰に反対する、_____さんの家族(or 私の家族)が、主の愛に目が開かれ、共に主を礼拝する者となりますように。アーメン

申命記12

「そこであなたがたは家族の者とともに、あなたがたの神、主の前で食事をし、あなたの神、主が祝福してくださった、あなたがたのすべての手のわざを喜び楽しみなさい。」申命記12:7 主なる神様は「あれはだめ、これはだめ」と私たちを禁欲生活に陥らせることを望んではおられません。ただ偶像礼拝や無謀な飲食など、私たちの霊肉に危険のあることを避けるようにと願っておられます。そのために、主から目を離さず、主がデザインされた祝福の生活を歩むようにとガイドラインを与えてくださったのでした。 この箇所と同様、礼拝は喜びであり楽しみである、そういう時間です。窮屈な我慢の時間ではありません。主の素晴らしさを味わい、よくしてくださったことに感謝し、主のなさることに期待し、絶望が希望に変えられる時です。 この節はまた、「あなたがたは家族の者とともに」礼拝することを勧めています。 家族の救いを祈り続けている方が多くおられます。その家族と礼拝を共に持つ日が来ますように。家庭礼拝も、いろんなやり方があります。あなたが見ているビデオ、聴いている音楽、書き留めている聖句に、家族が同意しているかもしれません。あきらめないで、祈り続けましょう! 祈り:神様、あなたがくださった、家族の救いの約束を感謝します。 「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます(使徒16:31)」。 約束が実現する日が一日も早く来ますように。信じ祈り続ける信仰を与えてください。アーメン

申命記11

「今日、心得なさい。あなたがたの子どもたちが、あなたがたの神、主の訓練を、その偉大さを、その力強い御手と伸ばされた御腕、そのしるしとみわざを経験し目撃したわけではないことを。」申命記11:2 こう前置きした後、モーセは新しい地が素晴らしいところであることと共に、どんな時でも主に従うことを命じます。子どもたちに主の教えを繰り返し聞かせることを命じます。 それは、彼らが生き証人だからです。荒野での困難も、主の助けとみわざも、体験したからです。日本的に言えば「語り部」でしょうか。 あかしほど説得力のあるものはありません。私たちも、自分が救われた体験、神様に導かれた体験、十字架が心深くわかった体験があるなら、それをそのまま話せばよいのです。脚色しなくても、流暢でなくても、主がすばらしいことをそのまま普通の人が普通に話すなら、聖霊が働いてくださいます。 祈り:神様、あなたが私の人生にこれまでしてくださった素晴らしいことの数々を感謝します。私もあかし人になりたいです。誰かのようになろうとせず、うまく言えないと落ち込むこともせず、そのままの私で語らせてください。アーメン

申命記10

「あなたがたは心の包皮に割礼を施しなさい。もう、うなじを固くする者であってはならない。」申命記10:16 荒野の旅の経緯は、私たちの人生の歩みに似たところがあります。苦労や困難はあったけれど、主がよい方であることを信じるものには守りの御手がある、と。 ローマ12:2に「この世と調子を会わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで(第三版では『心の一新によって』)、自分を変えていただきなさい」 とあります。「心の包皮に割礼を施す」の意味がよくわかります。 先入観や古い価値観ではなく、霊において新しくされ柔らかい心で主を見上げることを、今日も主は望んでおられます。寄留者を愛してくださる神は、私たちにも「あなたの幸せのため」だと言ってくださるのです。 祈り:神様、あなたの真実と優しいみ思いに感謝します。私に柔らかい心とへりくだった思いを与えてください。礼拝で声をかける方、祈りが必要な方がわかりますように。えこひいきしないあなたの心を私の心とできますように。アーメン

申命記9

「知りなさい。あなたの神、主は、あなたの正しさゆえに、この良い地をあなたに与えて所有させてくださるのではない。事実、あなたはうなじを固くする民なのだ。」申命記9:6 一昨日、レディースカンファレンスがありました。3年ぶりの開催で、半日でしたが恵みたっぷりの時でした。十字架の福音が語られ、受け取るようにとのおすすめがありました。 今日の聖句の「良い地」を「救い」「天の国」に入れ換えて読んでみました。 主ご自身の定めた方法(アブラハム契約 or 十字架)で与えられ、私たちの正しさや行いへの報酬ではないこと。神の無条件の愛と恵みで導かれ、与えられていること。神様の恵みがいっそう伝わってきました。 約束の地を見ながら万感の思いでモーセが語ったように、私たちも今日の恵みを受け取り歩む者でありますように。 祈り:神様、あなたの計り知れない恵みと約束を感謝します。今日も天の国を仰ぎながら、恵みのうちを歩ませてください。無条件の愛で与えられる救いを、_____さん、_____さんも受け取れますように。アーメン

申命記8

「それで主はあなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの父祖たちも知らなかったマナを食べさせてくださった。それは、人はパンだけで生きるのではなく、人は主の御口から出るすべてのことばで生きるということを、あなたに分からせるためであった。」申命記8:3 イエス様は荒野で悪魔の試みにあわれた時、このみことばを引用され勝利されました(マタイ4:4)。 主はよいお方です。訳もなく苦しめることはなさいません。この後を読むと、 「あなたは、人がその子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを知らなければならない(5節)」 「それは、あなたを苦しめ、あなたを試し、ついにはあなたを幸せにするためだったのである(16節)」 と、子どもとして扱っておられるから、また幸せにするためだったとわかります。 父なる神様は、今日の私たちも子として扱い、訓練してくださいます(へブル12:7)。それは、私たちが所有物や目先のものにかかわらず幸せになるため、主のことばで生きるのだと、経験を通して学んでいくためです。 祈り:神様、あなたがよい方であると宣言します。荒野を歩むような、乾燥した、危険のある殺風景な日々も、あなたの御手にあります。子どもとして訓練してくださる神様、やがて主にあって幸せだと言えるように整えてくださる神様、今日も1日分だけ進む力を与えてください。アーメン

申命記7

「主があなたがたを慕い、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実あなたがたは、あらゆる民のうちで最も数が少なかった。」申命記7:7 何か優れているから、何かできるから選ばれたのではありませんでした。数が多くて強いからでもありませんでした。主が愛され、ご自身の約束を守られたからです。 (「あなたがた」の代わりに、「この教会」を入れて読んでも励まされますね!) また、神はやみくもに他国と戦うようには言っておられないということが、この章を注意深く読むとよくわかります。聖絶せよと命じているのは、偶像礼拝や不道徳な行為のゆえだということが読み取れます。 偶像礼拝を離れ、主を信じる在留異邦人については、差別せず公平に扱うようにとも言われています。 「あなたがたとともにいる寄留者は、あなたがたにとって、自分たちの国で生まれた一人のようにしなければならない。あなたはその人を自分自身のように愛さなければならない。あなたがたも、かつてエジプトの地では寄留の民だったからである...(レビ19:34)」。 神様が私たちに求めるのは、強さや立派さではなく、主を愛し主についていきたいと願う心です。 祈り:神様、あなたが私を愛してくださるように、私もあなたのことを愛しついていきたいです。教会のメンバーとして、あなたを中心に歩みたいです。新しく加わる方を歓迎し親切にする心を与えてください。日々みこころを教え、導いてください。アーメン

申命記6

「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」申命記6:5 6章の4~9節は申命記の中心とも言われている箇所です。イスラエルの人はこの箇所を「シェマー(Hear、聞く)」と呼び、日々暗唱しました。そして、自分の額と左腕にも結びつけたそうです(9節の「これをしるしとして自分の手に結び付け、記章として額の上に置きなさい」を文字通り行った)。 旧約聖書に出てくる律法の中には、キリストが十字架で成し遂げ完成されたこと、当時の文化背景ゆえに定められたことがあります。同時に、時代を越えて普遍的なものもあります。5節はその一つです。イエス様も 「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』これが、重要な第一の戒めです(マタイ22:37~38)」 と言われました。 自身に適用するために自分の言葉で言い換えるなら、どうなるでしょうか? たとえば、 「真心で、心をこめて、丁寧に、やけにならず、あきらめず、主なる神が共にいてくださることをできる限り意識して、(人よりもスマホ検索よりも)神様といつもオンラインだと思い出し、与えられた時間や賜物をどう使えばよいか尋ねながら、主と対話しつつ、落胆せず、希望を失わず、日々生きていくこと」 のように表せるかもしれません。 祈り:神様、あなたが私を愛し、あなたの最善の計画のために私の人生をデザインしてくださったことを信じます。あなたのご計画にかなった歩みができるよう導いてください。みことばをガイドライン、道しるべとできるよう、知性だけでなく霊で理解できるよう助けてください。アーメン

申命記5

「モーセはイスラエルをみな呼び寄せて、彼らに言った。 聞け、イスラエルよ。今日、私があなたがたの耳に語る掟と定めを。これを学び、守り行いなさい。」申命記5:1 申命記の中では「聞け」ということばがよく出てきます(参照4:1)。 これを読んだ時、少年サムエルが主に呼ばれて「お話しください。しもべは聞いております」と応答したことを思い出しました(第一サムエル3:10)。 主のみこころを 「学び」=自分のものとして身に付け、納得し、 「守り行う」=生活の中で実行、実践する には、まず「主に聞く」(人ではなく)ことから始まります。 サムエルのように応答するためには、私たちも「主に聞く」ことが原動力になります。ずっと出力ばかりでは、からからになってしまいます。今日、しばらくスマホを置き、検索する代わりに心静めて、みことばを黙想しませんか。 祈り:神様、あなたのみことばを「聞き」「学び」「行う」ことができるよう、助けてください。私に「主に聞く」心を与えてください。 そして、_____さん、_____さん(親しい方の名前)がみことばに聞くことができますように。 「ですから、信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです(ローマ10:17)」 と書かれている通り、信仰が心に芽生える人、成長する人、強くされる人が今日も起こされますように。アーメン

申命記4

「しかし、あなたがたの神、主にすがってきたあなたがたはみな、今日生きている。」申命記4:4 目覚めると、今朝も生きている。心臓の働き、胃腸の働き、呼吸の働きが保たれ、必要な食物や酸素が日々与えられているのは、当たり前ではなく、とても不思議なことです。まさに生かされているのです。 肉体が生かされることも恵みですが、霊的に生きる者とされるのも、もっと不思議な、恵みによることです。ただ主お一人を神とし、信じるなら、死んでいた霊が生きるのです。 ある人は「信じたけれど、永遠の霊のいのちを与えられた実感がない」と思うかもしれません。肉体でさえ、すべての働きを理解できない私たちです。霊のいのちについて自覚できないこと、わからないことが多くても、キリストの救いを信じるなら、事実として与えられたのです。そして、キリストの霊である聖霊が、私たちのうちに住んでいてくださるのです。 「あなたがたもキリスト・イエスにあって、自分は罪に対して死んだ者であり、神に対して生きている者だと、認めなさい(ローマ6:11)」 祈り:神様、あなたの恵みと救いは、大きすぎて不思議すぎて理解が及びません。でも、信じる私の内に聖霊が住んでくださっていることを感謝します。聖霊の現れが、今日もさまざまにあることを認めます。批判することなく、怖がることもなく、うらやましがることもなく、私と主との深い関係を楽しみ味わい感謝できますように。アーメン

申命記3

「ピスガの頂に登り、目を上げて西、北、南、東を見よ。あなたのその目でよく見よ。あなたがこのヨルダン川を渡ることはないからだ。」申命記3:27 モーセの最後の嘆願です。しかし主の答えはノーでした。主は約束どおり、イスラエルをカナンの地に導き入れましたが、それは次の世代になってでした。 アブラハムも「あなたの子孫は星のようになる」と約束を受けましたが、その約束が実現したのは彼の子孫の世代にでした。 主は、すばらしい約束を世代間にわたって実現されることがあると学びます。私たちは拙速な結果を求めますが、たとえそうでなくても、あきらめず祈り続け、希望を失わない者でありたいと願います。 祈り:神様、あなたは約束を忘れないお方であることに感謝します。日本のリバイバルも、教会の歩みも、私の家族親族のことも、あきらめないで祈り続けます。私たちは近視眼的にしか見ることができませんが、あなたは永遠から永遠の視点とご計画を持っておられることを信じます。どうかあなたの時に良い計画を実現してください。アーメン

申命記2

「事実、あなたの神、主はあなたのしたすべてのことを祝福し、この広大な荒野でのあなたの旅を見守っていたのだ。この四十年の間、あなたの神、主はあなたとともにいて、あなたには何一つ欠けたものがなかった。」申命記2:7 主は、すでに定住している人々に対して敵対してはならないこと、必要なものは購入すること、友好的であることを命じられました。時には迂回路を通るようにもされました。それでも頑固に対応してくる場合にのみ、戦うことが許されました。 約40年の荒野の旅の間に、イスラエルは主に従順になることを学びました。奴隷の性質から脱出し、紳士的な対応を学びました。 もし荒野にいると感じたら、主は私たちに従順と御霊の実を培ってくださっているのかもしれません。私自身も、40歳くらいまでは荒野をさまよう思いでした。また次の40年間をかけて、いまだ不完全な部分、弱い部分を成長させていただけるのかな、と思っています。 祈り:神様、たとえ荒野にいても、あなたの守りと愛が注がれていることに感謝します。私たちに主に聴く耳と従順な心を培い、周りの態度に影響されずあなたのみこころを受け取り実践することができますように。アーメン

申命記1

「ヨルダンの川向こう、モアブの地で、モーセは次のように、みおしえの確認を行うことにした。」申命記1:5 申命記の多くはモーセの訣別説教です。約束の地をヨルダン川の向こうに見据えながら、そこに入る前に生涯を終えると言われたモーセが、リーダーとして祈りと渾身の力をこめて語るのが、目に浮かぶようです。 エジプトを出てからの40年を回顧し、モーセは民を責めるのでも思い出話に終始するのでもありませんでした。死を前にしたリーダーが語るのは「みおしえの確認」、すなわち主の教えに従うように民に再確認のメッセージを語りました。 霊的リーダーの役割は、主の教え、みことばを語ることです。牧師や働き人だけでなく、クリスチャンの一人一人が、信仰のリーダーとして主の教え、みことばを紹介し、実践する信仰のリーダーとして家庭や職場等のコミュニティーに遣わされています。 祈り:神様、愛する兄弟姉妹が日々遣わされている場所を、彼らの存在と祈りのゆえに祝福してください。日々困難や誘惑にあっても、みことばの知恵と力で守ってください。世の光として、あなたの光を輝かせる土の器として、主ご自身が導き用いてください。アーメン

民数記36

「これらは、エリコをのぞむヨルダン川のほとりのモアブの草原で、主がモーセを通してイスラエルの子らに命じられた命令と定めである。」民数記36:13 聖地旅行で私はエリコに行きました。その付近の景色を思い出しています。ヨルダン川周辺にはナツメヤシの木が生えますが、少し離れると短い草の荒野です。 川の東側にイスラエル人たちはいました。川の向こう、西側には城壁の町エリコが見えます。相続地の割り当ては語られたものの、まだこれから川を渡り、約束の地に定住するまでには困難がいくつもあることが想像できます。 それでも、約束の地に定住した後のことを語ります(実際に定住後、ヨセフ族が神様の指示に従ったことにも触れられています)。 「取らぬ狸の皮算用」という諺がありますが、信仰によってまだ見ぬものを見るのは、主に信頼する行為でもあります。 今日主にあって、どんなものを見せていただけるでしょうか。たとえそれが、まだ肉の目には見えないものだとしても。 祈り:神様、あなたがいつも良いお方であることを信じます。____について、まだ先行きが見えず、どうなっていくのか知性ではわかりません。でも、あなたに信頼します。必ず守り導いてくださると信じます。どう祈ったら良いか、どう行動したらよいか(あるいは静まり待つべきか)、教え導いてください。アーメン

民数記35

「イスラエルの子ら、または彼らの間に在住している寄留者のために、これら六つの町は逃れの場所となる。すべて誤って人を打ち殺してしまった者が、そこに逃れるためである。」民数記35:15 殺人は重い罪でした。故意に人を殺したのが明らかな場合には、極刑となりました。 一方で、過失によるもの、偶発的な事故の場合には逃れの町に逃げ込むことができました。たとえば、大阪府の中のいくつかの市が定められたようなものです。その町の中にいれば復讐の手から守られました。 私たちは、腕力で人を殺したことはないかもしれません。でも言葉によって傷つけることはあります。言葉には力があります。たとえ故意に傷つけようと思わなくても、気づかないうちに誰かを傷つけ、殺人と同じくらいの悪影響を与えているかもしれません。 神様は義であると同時にあわれみ深く、愛あるお方です。私たちの罪を見過ごす訳にはいきませんが、その刑罰から逃れる方法を開いてくださいました。 それがイエス様の十字架によるあがないです。 祈り:神様、あなたのあわれみと愛を感謝します。私が知って、あるいは知らずに他者を傷つけてしまったことを悔い改めます。罪深い性質のある私ですが、あなたの十字架のもとに逃れます。いつもそこに身を起き、罪赦された者として感謝して歩めますように。アーメン