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8月, 2022の投稿を表示しています

Iサムエル7

「サムエルは一つの石を取り、ミツパとエシェンの間に置き、それにエベン・エゼルという名をつけ、『ここまで主が私たちを助けてくださった』と言った。」Iサムエル7:12 もう随分前のことですが、知人のクリスチャンがご自宅を「エベン・エゼル」と名付けられました。様々な困難を通ったけれども、主がここまで助けてくださったという感謝をこめられたのでした。とても素敵なあかしだと思ったことでした。 「エベン・エゼル」は「助けの石」という意味です。私たちは、主が助けてくださったことをどのように記念し、感謝しているでしょうか。 礼拝でも、一週間の主の助けを「エベン・エゼル」として毎週覚える者になりたいと願います。 祈り:神様、あなたの恵みと助けを覚えることができますように。不平ではなく感謝を表すことができますよううに。問題の中にあるとき、あなたの助けを今日も信じ求めます。アーメン

Iサムエル6

「雌牛は、ベテ・シェメシュへの道、一本の大路をまっすぐに進んだ。鳴きながら進み続け、右にも左にもそれなかった。ペリシテ人の領主たちは、ベテ・シェメシュの国境まで、その後について行った。」Iサムエル6:12 主の箱がイスラエルのしかるべき場所に戻るのを、誰もが望んでいました。敵であったペリシテ人も、国境まで行って見届けました。 現在は主の箱はありません。なぜなら、イエス・キリストを救い主と信じて心の戸を開けるなら、キリストがそこに入ってくださり、キリストの霊、つまり聖霊が信じる人の心に住まれるからです。主の箱のそばにいかなくても、どこででも祈り礼拝することができるようになったからです。 せっかく住まわれている聖霊を忘れることがないように。心の片隅に追いやって無視することがないように。聖霊の小さな声を聞き分け、自分の声と区別できるように祈りたいと思います。 祈り:神様、信じる者の心に聖霊が共にいてくださり感謝します。時々存在を忘れそうになることを許してください。聖霊の導きに敏感になれるよう、私の霊の耳を開いてください。 「主が来て、そばに立ち、これまでと同じように、『サムエル、サムエル』と呼ばれた。サムエルは『お話しください。しもべは聞いております』と言った。(Iサムエル3:10)」    アーメン

Iサムエル5

「次の日、朝早く彼らが起きて見ると、やはり、ダゴンは主の箱の前に、地にうつぶせになって倒れていた。ダゴンの頭と両手は切り離されて敷居のところにあり、胴体だけがそこに残っていた。」Iサムエル5:4 主の箱を奪って得意になっていたのもつかの間、ペリシテ人の町では信じられないようなことが連続して起こりました。結局、この箱をイスラエルに返却しようという話になります。 主なる神様は、イスラエルだけの神ではありません。ペリシテ人の国でも、今日の日本でも、世界中でも同じように力あるわざができる方です。この神様に向かって祈ることができる幸いを覚えます。 祈り:神様、あなたがどんな場所でも神様であることを感謝します。世界の約3分の1の人たちがイエス・キリストを信じています。しかし、あなたのことを一度も聞いたことのない方々も多くおられます。日本でも同じです。今週も、あなたが与えてくださる出会いに感謝し、キリストの愛を分かち合うことができるよう導いてください。アーメン

Iサムエル4

「彼女は、『栄光がイスラエルから去った』と言って、その子をイ・カボデと名づけた。これは、神の箱が奪われたこと、また、しゅうとと夫のことを指したのであった。」Iサムエル4:21 イスラエルは敗れ、神の箱は奪われ、エリと息子たちは死にました。人々の罪と不信は、時にその刈り取りもすることになります。 エリの義理の娘は絶望してこのように言い残したのかもしれません。しかし、本当にこれで終わりでしょうか。 いいえ。サムエルは生きていました。また、イスラエルの中に悔い改めと信仰の刷新が起こりました。やがて主の箱は戻され、イスラエルの新しい歴史が続いていきます(7章以降)。 今絶望的に見える情勢、状況があったとしても、神様を見上げてとりなし、祈り続けるなら、神様は決して見放されません。そして、生きておられる主は、今日もご自身のよいわざをなさいます。時には、悪い状況をも用いてご自身の栄光を表してくださいます。 祈り:神様、世界も私の周りも、課題が山積みの昨今です。悩みは尽きないと思えます。でも、あなたがすべてをご存じで、あなたが決して見捨てることのない方であることに感謝します。今後の見通しが立たないように思える時、あなたの希望と平安を与えてください。____さん、_____さんに「大丈夫だ」とあなたが今日、直接語りかけ、励ましてください。アーメン

Iサムエル3

「主が来て、そばに立ち、これまでと同じように、『サムエル、サムエル』と呼ばれた。サムエルは『お話しください。しもべは聞いております』と言った。」 Iサムエル3:10 サムエルは少年でしたが、神は語られました。 エリは老人で、息子たちは不誠実でしたが、神はエリを用いてサムエルを育てられました。 当時主のことばはほとんどありませんでしたが、神様はその時語られました。 「どうせ」「だって」「まだ」というあきらめや常識は、主の前には関係ないのだとわかります。私たちが小さくても、失敗だらけでも、周りの人と違っても、主は働いてくださいます。 祈り:神様、私たちが弱くて欠点だらけでも、あなたが呼んでくださるなら応答できますよう助けてください。一歩踏み出す勇気と従う心を与えてください。アーメン

Iサムエル2

「ハンナは祈った。『私の心は主にあって大いに喜び、 私の角は主によって高く上がります。 私の口は敵に向かって大きく開きます。 私があなたの救いを喜ぶからです。主のように聖なる方はいません。 まことに、あなたのほかにはだれもいないのです。 私たちの神のような岩はありません』。」Iサムエル2:1〜2 ハンナの祈りはマリアの賛歌のようでもあり、ダビデの詩篇のようでもあります。 祈りは願い事だけではなく、信仰告白や神様への賛美も含めたものです。うまく祈れないと思う時には、聖句をゆっくり読んで告白し、心合わせて祈りとすることができます。このハンナの祈りや詩篇で祈ることも、主は喜んでくださいます。 祈り: 主なる神様、私の心はあなたにあって喜びます。 私の口は敵に向かって大きく開きます。 私があなたの救いを喜ぶからです。 あなたのように聖なる方はいません。 まことに、あなたのほかにはだれもいないのです。 私の神のような岩はありません。 アーメン  “O Lord, my heart rejoices in You. When my enemies come against me, I smile and rejoice in Your salvation. There is no one holy like You, and there is none besides You. There is no rock like You, my God! ” (Praying the Word, 1 Samuel 2:1-2, Spirit-Filled Life Study Bible)

Iサムエル1

「彼女は、『はしためが、あなたのご好意を受けられますように』と言った。それから彼女は帰って食事をした。その顔は、もはや以前のようではなかった。」Iサムエル1:18 ハンナは痛む心の思いを主にそのまま打ち明け、祈りました。その後エリと言葉を交わしました。彼女の食欲は回復し、顔も明るくなりました。 この時、まだ祈りの答えは目に見える形ではありませんでした。サムエルが生まれるのは翌年でした。それでも、信仰と励ましの言葉によって、彼女は祈りが聞かれたと確信したのでした。 祈りに主が耳を傾け、聞いてくださっている、という確信があるでしょうか。みこころがなると、主の時、主のやり方を待つことができるでしょうか。 「ですから、あなたがたに言います。あなたがたが祈り求めるものは何でも、すでに得たと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。(マルコ11:24)」 祈り:神様、ハンナのように、あなたに正直な思いを打ち明けて祈ることができますように。あなたが聞いてくださっていると確信し、安心できますように。 まだ聞かれていない祈りは、あなたの時と方法があることを信じます。自分の思ったとおりの答え方でなくても、あなたが最善をなされると信頼できる信仰を与えてください。アーメン

ルツ記4

「近所の女たちは、『ナオミに男の子が生まれた』と言って、その子に名をつけた。彼女たちはその名をオベデと呼んだ。オベデは、ダビデの父であるエッサイの父となった。」ルツ記4:17 嘆きと悲しみでベツレヘムに戻ってきたナオミに、神様は深い計画を持っておられました。未亡人で外国人、落ち穂拾いをするほど貧しかったルツに、神様は目をとめてくださいました。 想像もしなかったボアズとの結婚を通して、ダビデの祖先となりました。もっと時代が下り、救い主イエス・キリストが人として来られた家族の祖先となりました(マタイ1:5・16)。 今の悲しみと試練の向こうにも、主のよいご計画があること、主が決して私たちを見捨てない方であることを信じます。 祈り:神様、あなたのよいご計画を信じて感謝します。あなたを愛し信じる者には希望があることを感謝します。_____さん、_____さんにあなたの希望が今日心を励まし、慰め、導きとなりますように。 「あなたは、わたしが主であることを知る。わたしを待ち望む者は恥を見ることがない(イザヤ49:23)。」 アーメン

ルツ記3

「今晩はここで過ごしなさい。朝になって、もしその人があなたに親類の役目を果たすなら、それでよいでしょう。その人に親類の役目を果たしてもらいましょう。もし、その人が親類の役目を果たすことを望まないなら、私があなたを買い戻します。主は生きておられます。さあ、朝までお休みなさい。」ルツ記3:13 ボアズもルツも、誠実な人物でした。ルツは姑の指示に従い、かなりの年長者ボアズは買い戻しの権利を法律どおりの手順をふんで用いようとしました。 何よりも「主は生きておられます」という言葉に、きよい品性を覚えます。 「主の前に静まる」(片岡伸光著)という本の「夜の床で主を思う」という章が印象的でした。夜中に寝苦しくて目覚める時、眠れないことを嘆く前に、短い祈りのだととらえられたら幸いです。「主は生きておられます」と小声で言うだけでも、私たちの信仰の宣言となります。 祈り:神様、驚いた時、当惑した時にも、あなたへの信頼の言葉が出てくるように助けてください。揺れ動く私の心を守り、あなたの平安と知恵を求める品性を与えてください。アーメン

ルツ記2

「ルツは出かけて行って、刈り入れをする人たちの後について畑で落ち穂を拾い集めた。それは、はからずもエリメレクの一族に属するボアズの畑であった。」ルツ記2:3 神様の備えと配慮を感じます。 ルツと同じように、私たちの日々の中でも偶然のように思えたことが、後で振り返ると神様の深いご計画の一部として用いられていたことがあります(逆に「これはすごい!」と興奮したことがその場限りのこともありますが)。 何よりも「主があなたがたとともにおられますように」(4節)とあいさつするボアズが、悪い時代の中でも信仰の姿勢を持つ誠実な人だったことにほっとします。 祈り:神様、私の人生にもあなたの采配があることを覚えて感謝します。あなたのご計画のために私自身も用いてください。ボアズのような誠実なあわれみ深い人格へと、聖霊の働きによって整えられ、御霊の実を結ばせてください。今週もあなたと共に仕事や学校、病院、地域に出ていきます。あなたが前を進んでくださいますから、その後をついて行かせてください。アーメン

ルツ記1

「ルツは言った。『お母様を捨て、別れて帰るように、仕向けないでください。お母様が行かれるところに私も行き、住まれるところに私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。』」ルツ記1:16 ルツとナオミの喪失は大きなものでした。その中で、ルツは自分の住み慣れた環境を離れ、義母ナオミと共にベツレヘムに行くという決断をします。 士師(さばきつかさ)の治めていた暗い時代、しかも隣国モアブでの出来事でした。その中で、家庭の中に温かい愛情が流れていたことを読むとほっとします。 そして何より、「あなたの神は私の神」という信仰(漠然としたものだったかもしれませんが)が表明されたことも、希望を感じさせます。 祈り:神様、あなたの元には、どんな時にも希望があることに感謝します。 特別に、最近ご家族と死別された_____さん、_____さんに主の慰めと平安がありますようにお祈りします。また、家族との別離を経験し、信仰に立ち続けておられる_____さん、_____さんの存在を感謝します。ルツのように、励ましの器として主のご栄光のためにますます用いられますように。アーメン

士師記21

「そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていた。」士師記21:25 士師記の最後は、17:6、18:1、19:1と同様、もの悲しく、混沌とした社会情勢だったとわかる記述で終わっています。 重苦しい出来事の多い士師記でしたが、この書が主によって後世に残されていることが恵みだと言えます。なぜなら、私たちは失敗を通して学ぶからです。 繰り返す失敗の歴史を読みながら、自分自身の心も同じように混沌に陥りやすいことを覚えます。そして、弱さを知るときに謙遜にさせられます。 神様が、それでも私たちを見捨てず、愛し続け、あわれんで、救ってくださったとは、何というあわれみでしょうか。 明日も、主の愛に心から感謝し、賛美する礼拝でありますように。 祈り:神様、あなたの愛とあわれみ、恵みに感謝します。どんな混沌とした社会、混乱した私の心にも、あなたの光が差すとき希望があります。 この希望を受け取り、この週末も過ごします。感謝の応答として礼拝をささげます。礼拝に行きたくても行けない入院療養中の方々、避難中の方々、それを支えるエッセンシャルワーカーの方々に、その場所で神様との確かな交わり、礼拝の時が与えられますように。アーメン

士師記20

「また当時、アロンの子エルアザルの子ピネハスが、御前に仕えていたーー」士師記20:28a ピネハスが祭司だったことから、士師記のこの記述は時代順ではなく、ヨシュアの死後ほどなく起こったとも考えられるそうです。そうだとしたら、あまりにも早く人々の生活が乱れ、内紛が起こったことに驚きます。 同時に、人は過去の恵みを忘れ、信仰がさめやすい弱い者であることを知ります。私たちも、神様がしてくださった恵みを忘れて、つい問題ばかりに目を留めがちです。人間レベルでは問題であっても、神のご計画はもっと高く、もっと深いところにあるという信仰と希望が与えられるようにと祈ります。 祈り: 「天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い(イザヤ55:9)。」 神様、あなたのご計画は私たちの思いをはるかに越えた良きものだと信じます。今、試練の中にある____さん、_____さんを覚えてお祈りします。主にある忍耐と希望をあなたが与え、励ましてください。兄姉の人間関係を祝福してください。噂話や悪口から守ってください。祈りに代えることができますように。アーメン

士師記19

「それを見た者はみな、『イスラエルの子らがエジプトの地から上って来た日から今日まで、このようなことは起こったこともなければ、見たこともない。このことをよく考え、相談し、意見を述べよ』と言った。」士師記19:20 読むと気が重くなるような記事が続きます。レビ人の側女の死、堕落しきったギブアの町...。そして、この章をいっそう暗くしているのは、主を求めて祈る記述が出てこないからです。せめて、同じ事態の中で彼らが主に叫び求めていたら、と思います。 最近の私たちの周りにも、暗いニュースが続きます。それらを聞いて嘆くだけではなく、主の前にその嘆きを持っていくことが私たちの務めであり、幸いでもあります。 今日の情勢の中に、「そこで主の民は祈った」という一行が加えられますように。 祈り:神様、現代の ・_________ ・_________ のために祈ります。あなたが難しい事態を治めてください。あなたが痛ましい事件で傷ついた人々の心を癒してください。あなたが絶望的に見える状況を打破してください。私たちに平安と勇気を与えてください。 「世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました(ヨハネ16:33)」 イエス様の宣言を感謝します。アーメン

士師記18

「祭司の心は躍った。彼はエポデとテラフィムと彫像を取り、この人々の中に入って行った。」士師記18:20 祭司の心はなぜ踊ったのでしょうかーーそれは、自分がより良い条件で働けると思ったからでした。一個人でなく部族全体の祭司になるのは、いわゆる「出世」「抜擢」と思えたのです。 しかし、彼が神に聞いた形跡はありません。祈った形跡も聖書には出てきません。それどころか、自分の心の踊るままに、しかも用具や偶像まで勝手に持ち出しました。 心探られ、身が引き締まる思いです。私は、自分の心の踊るままに任せたことがないだろうか、と。神に聞いているという確信があるだろうか、と。 人の目に良いと見えることでも、神のご計画から外れたことには注意して立ち止まる者でありたいです。一時の熱意や情に流されず、神の導きを今日冷静に受け取ることができますように。 祈り:神様、あなたのご計画と導きは確かです。あなたに信頼し、あなたの声に従い進めますように。 今日は特に____さん、____さんを覚えて祈ります。今まであまり気の合わない人です。しかし、あなたのご計画のうちに出会ったと信じます。彼ら(彼女ら)のために祈り、あなたの愛で愛せるように助けてください。アーメン

士師記17

「このミカという人には神の宮があった。彼はエポデとテラフィムを作り、その息子の一人を任命して、自分の祭司としていた。」士師記17:5 家の中に宮・祭司の着るエポデ・テラフィムを作り、勝手に自分の祭司を任命するほど、この頃のイスラエルにはカナンの異教の風習が入り込んでいました。 読みながら、やれやれとため息が出るかもしれません。 私たちも日本という国に住み、さまざまな風習に囲まれて暮らしています。死者の霊が帰ってくると言われるお盆や、仏壇・仏像などに囲まれています。 聖書を信じるなら、天国の希望、永遠のいのちを得て再会する希望があります。また、主なる神様だけを礼拝するので、人の作った偶像は不要です。 同時に、キリストと出会う前の方に対しては、まずその方々を愛することから始めたいのです。そして、心の寂しさ、悲しさを慰めてくださる方がイエス・キリストだとわかるよう、聖霊の働きを祈りたいです。 異教の風習に影響を受けるのではなく、影響を与える者として、さりげない態度や言葉を主が用いてくださいますように。 祈り:神様、お盆休みの時期、さまざまな日本の風習を目にしました。自分も家族もなんとか救われたいと願う方々が、あなたこそ確かなゆるぎない救い主だと知ることができますように。 数少ないクリスチャンとして、この国の救いを信じて祈りたいです。あきらめないで祈り続ける信仰を与えてください。アーメン

士師記16

「サムソンは主を呼び求めて言った。『「神、主よ、どうか私を心に留めてください。ああ神よ、どうか、もう一度だけ私を強めてください。私の二つの目のために、一度にペリシテ人に復讐したいのです。』」士師記16:28 ナジル人として選ばれたにもかかわらず、サムソンは奔放に過ごし、選びを軽んじてしまいました。それでペリシテ人に捕らえられ、失明させられ、異教の祭りで見せ物にされました。 サムソンは牢屋で臼をひきながら、何を考えていたのでしょうか。主にどのように祈っていたのでしょうか。聖書はなにも語っていません。 しかし、その最期の祈りに神は答えてくださいました。神殿がペリシテ人の上に落ち、中にいた人は滅びました。 サムソンの後半生は切なく、彼の生涯の行動も手放しで喜べないものです。しかしそんなサムソンをも、神様は最期まで見捨てず用いられました。 信仰の章と言われるヘブル11章にも彼の名が列挙されています。 「...これ以上、何を言いましょうか。もし、ギデオン、バラク、サムソン、エフタ、またダビデ、サムエル、預言者たちについても語れば、時間が足りないでしょう。(ヘブル11:32)」 祈り:神様、あなたの深いあわれみを感謝します。あなたがサムソンを見捨てなかったように、私のこれまでの失敗も、あなたを裏切ったことも悲しませたことも、全部ご存知の上で見捨てずにいてくださったことに感謝します。都度悔い改め、あなたの前に正直に出ていくことができますように。 終戦の日を迎えます。戦争の悲しみも憎しみも、私たちの罪の性質がもたらしました。貪欲と高慢、憎しみの心を許してください。 そして、何か心にわだかまりがあり、一時的にあなたから離れようとしている方には、今日あなたの限りなく圧倒的な愛がわかりますように。アーメン

士師記15

「そのとき、彼はひどく渇きを覚え、主を呼び求めて言った。『あなたは、しもべの手で、この大きな救いを与えてくださいました。しかし今、私は喉が渇いて死にそうで、無割礼の者どもの手に落ちようとしています。』」士師記15:18 超自然的な力を与えられ、ペリシテ人を倒していくサムソン。子どもの頃に見た、アニメのヒーローのような戦い方です。しかし、何かが足りませんでした。力任せに行動する彼は、聖書のリーダーにしては、祈る姿が出てこないなあ、と思っていました。 今日の18節で、ようやく彼が主に叫ぶ姿が出てきてほっとしました。(聖書記者が書いていないだけで、実際は祈っていたのかもしれませんが。) 私自身も、祈りなくして咄嗟に対応し、失敗したことを思い出します。 日常の買い物や電話、批判的な相手の言葉や態度への対応...。私たちは、生活のあらゆるところに主をお迎えし、主の助けを頂く者でありたいと願います。 祈り:神様、どんな時も共にいてくださり感謝します。あなたに相談しつつ、助けを求めつつ、今日一日歩めますように。今、気にかかっているのは________のことです。あなたのみこころを教え、導いてください。アーメン

士師記14

「そのとき、主の霊が激しくサムソンの上に下った。彼はアシュケロンに下って行って、そこの住民を三十人打ち殺し、彼らからはぎ取って、謎を明かした者たちにその晴れ着をやり、怒りに燃えて父の家に帰った。」士師記14:19 もし現在サムソンが生きていて、仮に私の上司だったら苦労しただろうな...と思います。 たしかに、イスラエルを率いるさばきつかさとしては、未熟な面が目立ちます。激しい性格で怒りに燃えたり、奔放で両親の忠告を聞かなかったりします。 けれども、そんな彼を主は用いられました。「主によること(4節)」、「主の霊が激しくサムソンの上に下った(19節)」と、背後には主の働きがありました。 この後、サムソンは大きな失敗と屈辱を経てイスラエルを解放します。 どんなリーダーでも完全な人はいません。そして、主はどんな不完全な人をも用いることがおできになり、その人を造り変えながら訓練され、(時にはサムソンのように命に代えて)ご自身の計画を成し遂げていかれます。 祈り:神様、私自身の未熟さや足りなさにもかかわらず、愛してくださり感謝します。 また、牧師や教会リーダーの不完全さを知りながらも、愛し祈りに覚えてくださる兄姉の心の広さと謙遜さに感謝します。 どうか、主が私の内面を訓練し、きよめてください。霊性を成長させてください。御霊の実(ガラテヤ5:22~23)を結ぶ者となれますように。アーメン

士師記13

「主の使いは彼に言った。『なぜ、あなたはそれを聞くのか。わたしの名は不思議という。』」士師記13:18 主の使いは「不思議」と名乗りました。そして、マノア夫婦は全焼のいけにえを通して主のなさる「不思議なこと」を見ました(19節)。 妻の名前は記されていません。しかし、とても魅力的な人物です。 彼女は主の使いに最初に会ったとき、そのことを夫に分かち合いました。二度目は夫を呼びに行きました。それで、夫婦で神の使いと話し、ヤギのいけにえをささげて主の不思議なわざを見ることができました。 さらに、主を見たから死ぬのでは、と恐れる夫を励ましています(23節)。 聖書には、目立たないけれど神を恐れて誠実に歩んだ人、神に用いられた人が出てきます。神様のご計画のために、ひっそりと名脇役のように、神が用いられた人と出会うのは、通読の恵みのひとつです。 祈り:神様、あなたが様々な人をお用いになることを感謝します。マノアの妻のように、主との出会いを分かち合い、周りの人も主と出会うことができますように。すぐに信じてもらえなくても、時間がかかっても、神様の時に期待して救いを祈り続けます。あなたの約束を実現してください。アーメン

士師記12

その人に、「『シボレテ』と言え」と言い、その人が「スィボレテ」と言って、正しく発音できないと、その人を捕まえてヨルダン川の渡し場で殺した。こうしてそのとき、四万二千人のエフライム人が倒れた。士師記12:6 エフライムとギルアデとの戦いで多くの人が犠牲になりました。悲しい記事が続きます。エフライム人かどうかを、「シボレテ」を「s」と発音するか「sh」と発音するかで見分けたのでした。 ウクライナ語とロシア語の発音には、似ているけれどこうした違いがあるそうです。同系統の言語を持ち、互いの国にルーツを持つ人が多く住む場所に、早く平和が訪れるようにと祈ります。 私たちの住む日本にも方言があり、少しの違いで地元出身かそうでないかがわかります。同じ日本語なのに、自然と聞き分けているのですね。今週は帰省や旅行をされる方も多いことでしょう。故郷の方々、そして普段故郷を離れて暮らしている方を覚えて祈りたいと思います。 祈り:神様、実家を離れて暮らしている方々を覚えます。特に独り暮らしで孤独を感じる時、文化や習慣の違いを覚える時、主の愛と励ましが注がれますように。また、夏休みの帰省や旅行で家族が共に過ごす機会を祝福してください。自然な形で、あるいは生き方を通して、福音を分かち合うことができますように。希望が家族に与えられますように。 アーメン

士師記11

「エフタは主に誓願を立てて言った。『もしあなたが確かにアンモン人を私の手に与えてくださるなら、私がアンモン人のところから無事に帰って来たとき、私の家の戸口から私を迎えに出て来る者を主のものといたします。私はその人を全焼のささげ物として献げます。』」士師記11:30~31 アンモン人との戦いに勝利したかったのでしょう。しかし、むやみに誓ったのがエフタの失敗でした。 家で飼っていた家畜が出てくると思ったのでは、という学者もいます(英語聖書ではwhatever;itと訳しているものもある)。周りの異教の国々の習慣に影響されたのかもしれません。とにかく、戦いの勝利とは裏腹に、悲しすぎる結末になりました。 「誓い」とまでいかなくても、私たちは軽々しく口にしたことで誰かを混乱させたり、傷つけたり、誤解を生じさせたりすることがあります。 日々の暑さと疲れに任せて言葉で失敗することがないように、今日は祈りたいと思います。 祈り: 「私たちは、舌で、主であり父である方をほめたたえ、同じ舌で、神の似姿に造られた人間を呪います。同じ口から賛美と呪いが出てくるのです。私の兄弟たち。そのようなことが、あってはなりません(ヤコブ3:9~10)。」 神様、私の舌を守ってください。疲れたり思うようにいかなかったりすると、つい不満や不足が出てきます。よく考えないで言葉を出すこともあります。どうか聖霊が、私の思いと舌を制御してくださいますように。暑い日が続きますが、兄姉が霊肉ともに守られ、今日も主にあって歩めますように。突然起こるハプニングにも、主が知恵と力を与えてください。アーメン

士師記10

「彼(トラ)は二十三年間イスラエルをさばき、死んでシャミルに葬られた。彼の後にギルアデ人ヤイルが立ち上がり、二十二年間イスラエルをさばいた。」士師記10:2~3 トラやヤイルはわずか5節の中にしか出てきません。でもトラは23年間、ヤイルは22年間という長い間、仲介者また裁判者としてイスラエルの平和をもたらしました。 記述は短いですが、治めた年数は決して短くありませんでした。 ギデオンやサムソンのような目立つ士師だけでなく、目立たない士師も、神様がそれぞれにユニークに召してくださっているということがわかります。 私たちも、華々しくなくても、忠実に仕える者でありたいと思います。 祈り:神様、たとえ能力や目立つ賜物がなくても、あなたの召しに忠実に仕えさせてください。職場に行く時、いつもキリストと共に向かえますように。介護をする時、あなたの手に重ねて私の手を伸ばせますように。就職、転職、復職を控えた____さん、_____さんのために祈ります。介護をしている____さん、_____さんを覚えて祈ります。  アーメン

士師記9

「こうして神は、アビメレクが兄弟七十人を殺して自分の父に行った、その悪の報いを彼に返された。神はまた、シェケムの人々のすべての悪の報いを彼らの頭上に返された。エルバアルの子ヨタムののろいが彼らに臨んだ。」士師記9:56~57  ギデオンの死後の混乱が書かれています。ギデオンの息子だったアビメレクが自分の兄弟70人を殺し(5節)、それに手を貸したシェケムの住民がアビメレクを裏切り(24節)ます。情勢が次々と変わる中で、神様は一連の悪事を覚えておられました。 一時的には悪い者が得をするように思えても、やがて神が介入され、正しいさばきがあるのだと学びます。 私たちの近所にも世界にも、不条理なことが起こります。一喜一憂します。私たち信仰者には、神の介入と解決を祈り、時には勇気をもって声を上げる使命が与えられています。 祈り:神様、身近な地域や職場の不公平、政治や権力のごまかし、侵略や戦いがあちこちにあります。あなたが介入し、悪のたくらみを打ち砕いてください。私たちが誠実に歩めるよう助けてください。社会に向け、聖書的な意見、主の愛に押し出された声をあげることができますように。アーメン

士師記8

「ギデオンは、それでエポデを一つ作り、彼の町オフラにそれを置いた。イスラエルはみなそれを慕って、そこで淫行を行った。それはギデオンとその一族にとって罠となった。」士師記8:27 はじめの動機はよかったのに、だんだんと本来の目的を忘れてしまうことがあります。例えば、愛する家族を養おうと働き始めたのに、だんだんと家族そっちのけで経済的な報酬が目的になってしまうこと。主のためにと奉仕を始めたのに、他の人と比べ批判する場になってしまうこと...。 あのギデオンでも失敗するのですから、私たちは誰でも失敗する危険があります。 処方せんは「初めの愛に戻るーーどこから落ちたのか思い起こし、悔い改めて初めの行いをする(黙示録2:4~5参照)」です。 祈り:神様、今日もう一度、あなたが私を救ってくださった愛を思い出し、黙想します。十字架の元に身をおきます。あなたが私を背負い、私がいつもあなたの後にいるようにしてください。最初の愛から外れそうな事柄があったら、Finetune(チューニングを合わせる;微調整)できますように。アーメン

士師記7

  主はギデオンに言われた。「あなたと一緒にいる兵は多すぎるので、わたしはミディアン人を彼らの手に渡さない。イスラエルが『自分の手で自分を救った』と言って、わたしに向かって誇るといけないからだ。士師記7:2 32000人も集まっていたのに、最終的に残ったのはわずか300人でした。そして、その300人で奇襲をかけ、イスラエルは勝利したのでした。 32000人いた時は心強かったと思います。1万人になって少し不安になったかもしれません。そして、まさか300人とは!敵は「イナゴのように大勢」、「彼らのラクダは、海辺の砂のように多くて数えきれなかった」(12節)のに。     人に頼るか、主に頼るか。規模や種類は違っても、私たちも日々直面することです。神はもちろん、人や状況を用いられます。しかし、その指揮と備えは主から来ます。大きな決断、小さな選択が、みことばと祈りによってできますように。信仰に基づく友の助言を、謙遜に受け入れることができますように。 祈り:神様、あなたは私たちの思いを越えて働かれる方です。うわべの現状や感情だけで判断しないよう、信仰と知恵を与えてください。また、大胆さと共に謙遜な心を与えてください。アーメン

士師記6

「主の使いが彼に現れて言った。『力ある勇士よ、主があなたとともにおられる。』」士師記6:12 「晴天の霹靂(へきれき)」の意味を調べると「急に起こった大事件や出来事。突然受けた衝撃」と説明されています。 ギデオンにとって「晴天の霹靂」でした。家柄も地位もなく(15節)、理解できない苦境にあり(13節)、「力ある勇士よ」はそぐわない呼び掛けでした。 しかし神が見ておられるのは、内なる人であり、その人の召しであり、神のご計画そのものです。 この後、ギデオンは主に何度も確信を求めました。主はギデオンに語り、コミュニケーションを拒絶するどころか、「わたしはあなたとともにいる」と都度答えてくださったのでした。 私たちも、自信がないとき、弱いとき、主に「しるしを見せてください!」「なぜですか」「いつまでですか」とそのまま申し上げる率直なコミュニケーションをとれますように。 祈り:神様、あなたの前にありのままで出ます。力なく、自信なく、信仰の弱い者です。あなたが力づけてくださり、助けてくださらなければ、進むことができません。 「瞳のように私を守り 御翼の陰にかくまってください(詩篇17:8)」。あなたと共に選び決断し語らせてください。 アーメン 祈り:

士師記5

「聞け、王たち。耳を傾けよ、君主たち。 私、この私は主に向かって歌う。 イスラエルの神、主にほめ歌を歌う。」士師記5:3 5章は女性の士師、デボラの作った歌だろうと言われています。 彼女はイスラエルを40年の平和に導き、堂々としたリーダーぶりを発揮し、同姓としてもすごいなあと感嘆する存在です。 士師の役目は戦いに勝つことだけでなく、民に主を見上げさせることでした。デボラは「私、この私は主に向かって歌う」と宣言しています。リーダーがまず主に目を向ける姿勢を示し、民はそれにならうのです。 私たちは正式な「リーダー」ではないかもしれません。でも、教会の新しい人たちや家族にとっては、私の信仰の姿勢が大きな影響を及ぼします。 デイキャンプに初めて来た人たちにとっては、迎えた人が教会の顔でした。 今日も、「私、この私は主に向かって歌う」と信仰の一歩を踏み出すことから始めたいです。 祈り:神様、勝利も解放もあなたからのものです。私に感謝の心、主を賛美する心を与えてください。否定的な思いや批判的な姿勢をやめ、ともに建て上げる思いと主への希望を持てますように。子どもデイキャンプをお守りくださり感謝します。参加された______さん、______さんの救いと祝福を祈ります。アーメン

士師記4

「ラピドテの妻で女預言者のデボラが、そのころイスラエルをさばいていた。」士師記4:4 「だが、ヘベルの妻ヤエルは天幕の杭を取ると、槌を手にしてそっと彼に近づき、そのこめかみに杭を打ち込んで地に突き刺した。彼は疲れて熟睡していたのである。こうして彼は死んだ。」士師記4:21 人口調査の時は数にも入らず、男性のようには腕力もない女性たちがイスラエルの歴史に大きな影響を与えました。一人は士師デボラ、もう一人はヘベルの妻ヤエルでした。 彼女たちが普段どのような扱いを受けていたのか、詳しくは書かれていません。デボラはリーダーシップをとっていたようですが、ヤエルについてはわかりません。 でも、神様は思いがけない人を用いて、思いがけないことをされます。神の目には「思いがけない人」ではなく、いつも目を配っている「愛する人」なのです。 祈り:神様、あなたは小さな私にも目を注ぎ、愛してくださっていることを感謝します。あなたが望まれる方向に今日も進めますように。今日はデイキャンプです。幼い子どもたちは、神様にとって大切な存在です。私たちが同じ目線で彼らを愛し、福音を受けとれるよう祈り、一日喜んで仕えられますように。アーメン

士師記3

「これは、彼らによってイスラエルを試み、主がモーセを通して先祖たちに命じた命令に、イスラエルが聞き従うかどうかを知るためであった。」士師記3:4 2節に「(主が敵を残されたのは)イスラエルの次世代の者、特にまだ戦いを知らない者たちに、戦いを教え、知らせるためであった」と書かれているので、一見「好戦的な神」のような印象を受けます。 でも、神様の目的はイスラエルの信仰を試すためでした。勝利は武器や人の力ではなく、神の力と知恵に頼るものであることを教えようとされたのです。 聖書全体を見るなら、方向は平和と和解です。ある聖書学者は ・旧約では戦争が多くあり、目立っており、聖戦とさえ宣言されているにもかかわらず、旧約自身の各部分からでさえ、神の目的の方向性が平和に向かっていることは明らかである。 ・旧約のある箇所における偏狭な国家主義への傾向にもかかわらず、神がすべての民のために、ご自分の民を選び、旧新約における神の目的の方向性が国際的であることは明らかである。 (リチャード・ボウカム「聖書と政治~社会で福音をどう読むか」いのちのことば社、p.16) と述べています。 イエス様もご自身が十字架にかかられる前に「剣をもとに収めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます(マタイ26:52)」と言われました。 戦いだらけのように思える士師記でも、計算すると平和な年数の方が多いことを知ります。 (被支配 111年、平和 200年、士師の統治 99年、計 410年: Cultural Background Study Bibleより) 祈り:神様、旧約聖書の中の戦いも今日の戦争も、私たちの罪と頑固さから生じた暗く悲しい出来事です。私たちが聖書の真意を読み取ることができますように。信仰者として、平和と和解のために祈り続けることができますように。国家間だけでなく、私の周りの痛んだ人間関係に、平和と和解がやってきますように。私をあなたの愛で満たしてください。 明日は子どものデイキャンプです。あなたの愛が子どもに届きますよ うに。私たちもあなたの恵みと愛を動機として働きます。どうぞ導いてください。アーメン

士師記2

「主が彼らのためにさばきつかさを起こしたとき、主はさばきつかさとともにおられ、そのさばきつかさが生きている間、彼らを敵の手から救われた。...しかし、さばきつかさが死ぬと、彼らは元に戻って先祖たちよりもいっそう堕落し、ほかの神々に従い、それらに仕え、それらを拝んだ。彼らはその行いや、頑なな生き方から離れなかった。」士師記2:18~19 士師記では、 人々が主を忘れて堕落する →困難が起こる →人々が主を思い出して叫ぶ →士師(さばきつかさ)が立てられ、敵から救われる →士師の死後、また主を忘れて堕落する というパターンが何度も繰り返されます。 「なぜ前の失敗から学ばないのだろうか」と感じます。 でも、自分の歩みを振り返ると、イスラエルの人たちと似たところがあることに気づきます。主がよくしてくださったことへの感謝がうすれ、今の小さな問題や自分の弱い部分でうろたえたり悩んだりしてしまいます。 主のよくしてくださったことを自分の心に記念碑のように立て、ことあるごとに確認するには、あかしをするのが一番だと思います。 あかしは自慢やメッセージではなく、自分の人生そのものに主が何をしてくださったか、主の恵みを分かち合うものです。あかしを準備し、シェアするプロセスを通して、自分自身が主のみわざを再確認でき、記憶を新たにできるからです。 祈り: 「わがたましいよ 主をほめたたえよ。 主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな。(詩篇103:2)」 神様、あなたがこれまで私の人生にしてくださった良いことを感謝します。独り占めして忘れるのではなく、恵みをあかしできますように。苦手意識を持つことなく、恵みの感謝をありのままで分かち合うことができるよう、助けてください。アーメン