Ⅰテサロニケ2

Ⅰテサロニケ2、箴言25−26

「むしろ私たちは、神に認められて福音を委ねられた者ですから、それにふさわしく、人を喜ばせるのではなく、私たちの心をお調べになる神に喜んでいただこうとして、語っているのです。」Ⅰテサロニケ2:4

誰がこのような光栄な務めを断るだろうか。他人事ならそのように言える。しかし、実際に自分が委ねられるとなると、その責務の大きさに「とてもできない」と言いたくなる。
実際、「人を喜ばせるのではなく」神を喜ばせることにフォーカスできているだろうか。人の顔色、批判への恐れ、自己弁護、プライド、そして自分への評価と報いを求めてしまう者である。

しかし、神は「私たちの心をお調べになる」のである。どんな動機でしているか。いやいやながらにしているのなら、それは人には勤勉、誠実に映っても神には喜ばれない。訪問も、メールも、もしそれが神の力、喜びから来ていないなら、サタンに煽られて行っているに過ぎない。牧会の働きが、サタンのあおりでなされているなら、なんと恐ろしいことか。

私自身は、一人になり、じっくり時間をかけ、後方で整える働きに召されていると思う。それならば、心を込めて掃除をし、部屋のレイアウトを考え、技術的な部分を整え、1対1の面談と祈りを丁寧に行い、皆が教会に来て平安に神の恵みを味わい、建てあげられるようにしたい。無理に伝道や訪問に行けというのはサタンの誘惑であることもある。それならば、お茶を飲み、じっくり主の御顔を求め、体調を整え、気持ちよく他の人が働けるように自分自身がまず安定することから始めるべきである。