ピリピ3

ピリピ3、箴言1−2

「兄弟たち。私は、自分がすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ一つのこと、すなわち、うしろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばし、キリスト・イエスにあって神が上に召してくださるという、その賞をいただくために、目標を目指して走っているのです。」ピリピ3:13−14

去年までなら、この節に対して私は手放しで「アーメン!」と言っていたと思う。しかし、今年は初め「自分はそこまで一心に走る元気と勢いがあるのだろうか」と感じた。

一つには、心身の疲れと不調を感じており、そこまで自由に動くことができるだろうかと思ったからである。
しかし、ここで勧めているのは肉の熱心ではなく(3節にも
「キリスト・イエスを誇り、肉に頼らない私たちこそ、割礼の者なのです」とある)、キリストにある霊の熱心、信仰の熱心である。その熱心さ、力をもキリストから来るという信頼が求められているのではないか。パウロも持病があってさえ、このように言えたのだから。

もう一つは、アフガン、北朝鮮、その他の迫害下にあるクリスチャンたちを思うと、彼らこそ命がけでこのみことばを生きているのではないか、と自分の覚悟の甘さを反省したからである。
きれいごとではなく、自分の命、財産、家族、仕事、快適な生活、趣味…、持てるもの全てをキリストのために手放すことができるか。覚悟を問われている。