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ガラテヤ5

「私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません。」ガラテヤ5:16 2024年最後の日になりました。 今年、どのくらい御霊によって歩んできたでしょうか・・・ 「はい、いつも」と答えられればよいのですが、そうでなかったこともあったのではないでしょうか。 私自身もそうです。 悔い改めつつ、あきらめず導いてくださる主に感謝します。 希望をもって、新しい年は御霊の働く領域を日々広げていただきましょう。 祈り:神様、この一年も導いてくださりありがとうございました。 私の領域で______には肉の思いが残っていました。新しい年、御霊が優しく 導き、御霊にゆだね造り変えていただくことができますように。主に従い歩ませてください。アーメン

ガラテヤ4

「ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神による相続人です。」ガラテヤ4:7 律法の下にとらわれるのではなく、キリストの十字架によって救われたことは、どれほど素晴らしいか。 それは、奴隷の身分から「子」になり、正式な相続権を持つ身分となったと言えます。 いったん自由になったのに、また奴隷になりたいと思う人はいません。自由の素晴らしさを知っているからです。 この1年、律法的になったり古い肉の性質に戻ったりしてしまったことはあったでしょうか。 神はそのこともご存知です。気づきが与えられるとはに、心のその部分に光が当たったといえます。 がっかりせず、聖霊による気づきを感謝し助けを求めましょう。 祈り:神様、私たちを一歩一歩導いてくださり感謝します。聖化の途上にある私たちです。私の心に光を当てて探り、聖霊が優しく気づきを与えてください。アーメン

ガラテヤ3

「こうして、律法は私たちをキリストに導く養育係となりました。それは、私たちが信仰によって義と認められるためです。」ガラテヤ3:24 聖書は、律法を必ずしも悪いものだとは言っていません。 それ自体では人を救うことができないものの、それは罪を明らかにし、約束された神の救いが必要だということを人に示すから(NIV Study Bibleの解説)です。 律法は「養育係」として、私たちがどこに行けば救われるのかを示します。 ですから、キリストによって救われたのに「養育係」である律法に固執したり、パリサイ人のように律法的に人を判断しようとする姿勢がふさわしくない、というのです。 教会には様々な性格や境遇の人が来ます。自分と違うからといって避けたり裁いたりするのではなく、 「キリストを着」て(27節)、 「ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男と女もありません。あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つ(28節)」 を実践する者となれますように。 祈り:神様、あなたがキリストによりくださった救いと解放を感謝します。主にある自由を、教会で霊の家族と共に日々味わえますように。御国の相続人としてくださりありがとうございます。アーメン

ガラテヤ2

「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。」ガラテヤ2:20 ガラテヤ人への手紙の中心テーマが16節にあります。 「しかし、人は律法を行うことによってではなく、ただイエス・キリストを信じることによって義と認められる」。 これをどれだけ受け取っているでしょうか。 ついつい自分の習慣、家族のしきたり、教会のいつものやり方、世間の常識と言われるものを押し付けてしまいます(自戒をこめて・・・)。 特に年末の慌ただしい時には、動いていないといけないような、じっと静まるのが悪いことのような錯覚に陥ります。 からみつく肉の性質を自覚しながらも、「もはや私ではなく、キリストが私のうちに生きておられる」と宣言します。 祈り:神様、私のうちにキリストが生きていてくださると認めます。 年末で忙しくしている___さん、___さん、そして置き去りにされたような寂しさを覚える人達に、平安がありますように。私たちの焦る肉の性質を取り扱い、あなたの安息を受け取らせてください。アーメン

ガラテヤ1

「人々から出たのではなく、人間を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中からよみがえらせた父なる神によって、使徒とされたパウロと、」ガラテヤ1:1 ガラテヤの人々に、パウロは自分をこのように紹介し始めます。 人間の努力や重用によってでなく、ただキリストと父なる神によって、自分が使徒として召されたのだ、と。 この章を読み進めると、パウロがこれまでの自分の歩みを書いているのがわかります。 かつてはクリスチャンを迫害していたこと。 救われてもその後、アラビアの荒野で訓練され、そしてようやくエルサレムに行ったこと。 自分のことは噂でしか知られていなかったこと、などです。 パウロは人に評価されることより、福音の恵みをただ伝えることに価値を置いていました。 私たちはいろいろなしがらみの中で生きています。 自分の働きが横取りされたり、正当に評価されなかったりということもあります。 仕事だけでなく、奉仕や兄弟姉妹のかかわりの中でも同じように感じることがあるかもしれません。 しかし、神がパウロをよく知っておられ、彼でなければできない働きに召されたように、 神は私たち一人ひとりをよく知っておられ、その人でなければできない働きに召してくださっています。 私にとって、あなたにとって、それはどんなことでしょうか。 祈り:神様、私の存在に価値があると言ってくださり、ありがとうございます。 あなたが私に望まれる生き方、奉仕へと導いてください。今日もみこころに沿った一日を生きることができますように。アーメン

Ⅱコリント13

「キリストは弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられます。私たちもキリストにあって弱い者ですが、あなたがたに対しては、神の力によってキリストとともに生きるのです。」Ⅱコリント13:4 キリストは肉体をもった人として来られ、一番似つかわしくない弱さをまとってくださいました。 しかし、神としてはその力により死に勝利されました。 私たちは肉、つまり生来の性質としては弱い者です。 体力には限界があり、疲れたり病気になったりします。 ちょっとしたことで腹を立てたり、誤解をしたりします。 しかし、神の力によって生かされる者となりました。 キリストと共に年末を迎える恵みを、今年も感謝します。 祈り:神様、あなたの限りない愛を感謝します。私たちの弱さを知るだけでなく、キリストにあって生きる道を与えてくださいました。この愛に応答したいです。アーメン

Ⅱコリント12

「しかし主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである』と言われました。ですから私は、キリストの力が私043をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」Ⅱコリント12:9 元力士のKONISHIKI(小錦)さんが、腎不全のため腎臓の移植手術を受け成功したというニュースを聞きました。 相撲で有名で、タレントとしても活躍した方が闘病されていたのだと初めて知りました。 奥様が自身の腎臓を提供されたということには、強い夫婦愛を感じたことでした。 さて、パウロも「とげ」、おそらくは目の病に苦しんでいました。 癒しを祈ったものの、主はそのままの状態で「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」と言われました。 弱さを通して、パウロは主の恵みをいっそう覚え、働きを続けていったことでした。 その恵みとはイエス・キリストの愛から与えられるものに他なりません。 私たちの不治の病である罪と滅びを救うため、腎臓どころでなくいのちそのものをキリストは提供してくださいました。 信じる者には、移植を受けたように永遠のいのちと白い義の衣が与えられます。 KONISHIKIさんご夫妻のニュースに感動するなら、イエス・キリストの身代わりの死による愛には、どれほど感動してもし足りないのだと思わされます。 祈り:神様、私たち永遠にいのちを与えてくださった愛を感謝します。十字架の愛がもっともっとわかるように導いてください。ひとり子を世に遣わしてくださった神の深い愛と恵みに感謝します。アーメン

Ⅱコリント11

「もし誇る必要があるなら、私は自分の弱さのことを誇ります。」Ⅱコリント11:30 パウロの通った苦難が、この章の中に具体的に列挙されています。 「労苦したことはずっと多く、牢に入れられたこともずっと多く、むち打たれたことははるかに多く、死に直面したこともたびたびありました(23節)」と始まり、 ・ユダヤ人から39回(限度ぎりぎりの)むちを受けたことが五度 ・ローマ人にむちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度 ・難船したことが三度、一昼夜にわたり海上を漂流 ・(旅での)川の難、盗賊の難、同胞から受ける難、異邦人から受ける難、町での難、荒野での難、海上の難、偽兄弟による難 「 労し苦しみ、たびたび眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さの中に裸でいたこともありました(27節)」と、肉体には数えきれないほどの苦難がありました。 それと並んで、霊的な労苦がありました。 「日々私に重荷となっている、すべての教会への心づかいがあります。 だれかが弱くなっているときに、私は弱くならないでしょうか。だれかがつまずいていて、私は心が激しく痛まないでしょうか(29節)」と、牧会の苦労を方っています。 霊的な労苦は、肉体の労苦と並ぶかそれ以上に存在します。 つまずく時は、それぞれに言い分があるでしょう。 牧会者や兄弟姉妹の不完全さ、足りなさに腹立たしく思うこともあるでしょう。 しかし、このクリスマスに、様々な困難を覚えつつ福音宣教に仕える、全国の牧師、伝道者、リーダー、クリスチャン一人一人を覚えて祈りましょう。 主にある愛と忍耐に立って祈る人に、主の祝福と喜びが格別に注がれますように。 祈り:神様、様々な形で困難の中にある働き人やクリスチャンに、あなたの慰めと励ましが豊かにありますように。大きな悩みの中にある教会、僻地や被災地にある教会とそのメンバーを力付けてください。私が集う教会の一人一人にも、主にある深い喜びがありますように。アーメン

Ⅱコリント10

「私たちの戦いの武器は肉のものではなく、神のために要塞を打ち倒す力があるものです。」Ⅱコリント10:4 武器が肉のものでないということは、霊的な戦いに用いるものであるといえます。 そして、その戦いは私たちの思いなど、目に見えない領域に挑まれてきます。 日々見聞きする悲惨な事件やニュースでさえ、私たちの心を落ち込ませるための材料として、戦いを挑んできます。 もっとも、戦いの勝利はすでに主によって確定しています。 私たちがするのは、主の御翼の陰に身を寄せ、イエス・キリストの御名をもって立ち向かうことです。 パウロはエペソ人への手紙6章でも、類似のことを書いています。 「悪魔の策略に対して堅く立つことができるように、神のすべての武具を身に着けなさい。」(エペソ6:11) キリストに属する者として、神の武具の一つ一つを今日も身に着け、主と歩む一週間になると信じます。 祈り:神様、私の心を暗くする_____の情報、_____の関係、______のことが、わなになることがないよう守ってください。霊的な要塞を打ち壊すことのできる、神の武器が信じる者に与えられていることに感謝します。アーメン

Ⅱコリント9

「一人ひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は、喜んで与える人を愛してくださるのです。」Ⅱコリント9:7 教会の献金袋にこの聖句が書かれているので、なじみの方も多いと思います。 この章が勧めているのは礼拝献金に限らず、「信仰によってささげること、与えること」全般です。 今日で言えば、教会に、宣教団体に、働き人に、信仰の友に、必要のあるところに・・・。 強制された会費や上納金ではなく、自発的に神への感謝をシェアしたい、祝福に応答したいというのが動機です。 そして、神は喜んでささげ与える人を守り、必要を満たしてくださるとも約束されています。 「わずかだけ蒔く者はわずかだけ刈り入れ、豊かに蒔く者は豊かに刈り入れます。(6節)」 「神はあなたがたに、あらゆる恵みをあふれるばかりに与えることがおできになります。あなたがたが、いつもすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれるようになるためです。(8節)」 「種蒔く人に種と食べるためのパンを与えてくださる方は、あなたがたの種を備え、増やし、あなたがたの義の実を増し加えてくださいます。(10節)」 「あなたがたは、あらゆる点で豊かになって、すべてを惜しみなく与えるようになり、それが私たちを通して神への感謝を生み出すのです。(11節)」 この聖書の約束をどこまで信じていますか。 立ち止まり、自分さえよければよいという心や惜しむ心がないか、クリスマス前に点検したいと思います。 祈り:神様、あなたが日々多くを与えてくださっていることに感謝します。どうか私を、喜んで与える者にしてください。あなたから頂く恵みを数えて感謝し、教会や宣教の働きを通してこの喜びがますます広がりますように。アーメン

Ⅱコリント8

「たくさん集めた人にも余ることはなく、少しだけ集めた人にも足りないことはなかった」と書いてあるとおりです。 Ⅱコリント8:15 参照されている箇所は、出エジプトの後、民が荒野でマナを集めたところです。 手に入れる量は人によって違ったものの、全ては神が与えてくださった恵みでした。 そして、神がそれぞれの分に応じて養ってくださいました。 献金についてパウロが引用しているのは、私たちの収入もマナと同じく、全てが神から来るからです。 自分の力で得たと思っても、それだけではありません。神が降らせたマナを集めたのです。 神が私たちの手にゆだねられたものを、感謝して適切に用いささげることが、信仰者の幸せなライフスタイルだと学びます。 祈り:神様、全てはあなたのものです。主が望まれる使い方に、気前よくさせてください。あなたに知恵と導きを頂き、もっと安心し、喜びリラックスできますように。アーメン

Ⅱコリント7

「神のみこころに添った悲しみは、後悔のない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。」Ⅱコリント7:10 悲しみにも2種類あることがわかります。 ひとつは神に近づくもの。悔い改めへと導き、救いをもたらします。 パウロがある手紙を書いて人々の罪を指摘したことで、コリント教会の人たちは悲しみました。しかしそれで終わらず、悲しんで悔い改めました。 もうひとつは世の悲しみで、死をもたらします。 解決や希望のない、この世の価値観のみによるものです。 多くの人がこの世の価値観で人生を判断し、優劣をつけています。 日本は、一度失敗すると人生のやり直しが難しい国だとも言われます。 聖書のメッセージは、人生はいつからでもやり直せるというものです。 神の愛と義に打たれ、罪や失敗を悔い改めるなら、そこに救いが用意されています。 祈り:神様、あなたの愛と義を感謝します。みこころを日々知ることができますように。事件や事故の被害にあった人たちに、回復と励ましがありますように。加害者の人たちが主を知り、心から悔い改めることができますように。アーメン

Ⅱコリント6

「また、ほめられたりそしられたり、悪評を受けたり好評を博したりすることによって、自分を神のしもべとして推薦しているのです。...」Ⅱコリント6:8 批判や悪いうわさをされた時、へこたれませんか? 私はそれらに弱い者だなあと思います。 もっとも、どんなに悪く言われても、パウロの経験ほどではないようです。 彼の苦労は生易しいものではありませんでした。 「...苦難にも苦悩にも困難にも、むち打ちにも入獄にも騒乱にも、疲れ果てた時も眠れない時も食べられない時も...(4、5節)」 と、肉体的にも苦労しました。 しかし、彼は希望を失いません。 「死にかけているようでも...懲らしめられているようでも...悲しんでいるようでも...貧しいようでも...何も持っていないようでも(9、10節)」 すべてが備わっていると宣言しています。 なぜでしょうか。 それは、見えないものに目を留めること、永遠のいのちと主の栄光に焦点を定めていたからです。 また、キリストが全ての苦労を知ってくださっているとわかっていたからです。 地上に来られたイエス様は、十字架への道を通られました。 「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。(ヘブル4:15)」 このイエス様こそ、私たちの主、クリスマスでお祝いする希望です。 祈り:神様、私たちの悩みや苦しみをわかってくださり、あわれんでくださり感謝します。 私の心は今、_________のことが気がかりです。 また、____さんの________のことでも心を痛めています。 重荷を主の足元に置きます。平安が与えられることに感謝します。アーメン 今日、心に重くかかっていることは何でしょうか。

Ⅱコリント5

「ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」Ⅱコリント5:17 洗礼式の時、いつもこの賛美をします。 だれでもキリストのうちにあるなら、新しく造られた者です。 「キリストのうちにある」とはどういうことでしょうか。 キリストが救い主だと信じてはいるものの、感情や状況だけでは「キリストのうちにある」かどうか、確信が持てないかもしれません。 それは、私たちが「地上の住まいである幕屋」、つまり肉体にあるからです。 霊的なことをすべて理解できない限界があります。 「私たちはこの幕屋にあってうめいて」います(2・4節)。 しかし、すでに霊的な天の住まいが与えられることも私たちは知っています。 内住する御霊はその保証であり(6節)、「見えるものによらず、信仰によって歩む」という信仰の道筋を共にいて導いてくださいます。 感情によらず御霊がおられるという信仰の歩みが、この1年も与えられたことに感謝します。 祈り:神様、揺れ動く私の感情や状況ではなく、御霊が変わらずいてくださる恵み、イエスキリストが永遠に救い主であるという確かさに寄り頼ませてください。 様々なニュースに不安を覚えている人たちが、永遠のいのちというプレゼント、莫大な恵みの福音の知らせを信じることができますように。アーメン

Ⅱコリント4

「私たちは、この宝を土の器の中に入れています。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものではないことが明らかになるためです。」Ⅱコリント4:7 寒くなると、体のあちこちが痛みますか?膝、首、腰・・・。 「気持ちはあっても体力がついていかなくて」という方もおられるでしょう。 13節には「たとえ私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています」とあります。 外なる人、つまり肉体は衰えます。老いは誰にでも訪れます。「死へと一日一日近づいている」と言った人もいます。 しかし、聖書は落胆だけで終わりません。「内なる人は日々新たにされる」のです。 そして、この弱い土の器にも、キリストの宝を入れていると述べています。 神の測り知れない力が土の器を通して光り輝くなら、これ以上の光栄はありません。 ろばの子がイエス様をお乗せしたように、私たちもろばの子のように用いていただけるのです。感謝です。 祈り:神様、キリストの光がそのひびから輝き出るような、土の器として用いてください。容姿や友人関係に悩みがちなティーンエイジャーの___さん、___さんがキリストのまなざしを感じられますように。老後の生活に不安を抱いている___さん、___さんに平安と備えが与えられますように。アーメン

Ⅱコリント3

「私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」Ⅱコリント3:18 昨日はコンサート礼拝でした。楽器の音色に耳を傾けながら、こんなに素晴らしい音が出るとは、楽器の一部分しか知らなかったのだとわかりました。 同じように、私たちは主のご性質をまだ一部分しか知らないのだと思わされます。 主のご性質により変えられるプロセスは、御霊の働きによるのだとあります。 主を少しずつ知り、主の栄光を鏡のように反映させて頂くのです。 主のご栄光を反映する器としていただける恵みに感謝しつつ。 祈り:神様、あなたがくださった賜物や機会を感謝します。そして何よりも、主を知る歩みに招いてくださったことを感謝します。私を練り、あなたのご性質を反映する器として用いてください。アーメン

Ⅱコリント2

「しかし、神に感謝します。神はいつでも、私たちをキリストによる凱旋の行列に加え、私たちを通してキリストを知る知識の香りを、いたるところで放ってくださいます。」Ⅱコリント2:14 コリント人への手紙第二に流れているテーマは「弱い器を通して神が大きな働きをなさる」です。 神が私たちを救い、キリストによる勝利の行進(凱旋の行列)に加えてくださいました。 私たちはただ、恵みとあわれみを受けた者です。 さらに、キリストを知るための香りを、私たちを通して神が放ってくださるというのです。 メッセージもどんな奉仕も、自分の限られた知性や力ではできません。自分自身は弱い小さなものです。 しかし、主が召して志と力を与えてくださるので、祈りながら向かうときに主がさせてくださいます。 あの人の力ではなく、主の力です。 祈り:神様、あなたが小さな者を召し、救いにあずからせ、キリストの凱旋の行列に加えてくださったことに感謝します。行列の中で歩く力も、放つ香りも、すべてあなたからのものです。素晴らしい主に信頼し従う心を与えてください。アーメン

Ⅱコリント1

「 神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。それで私たちも、自分たちが神から受ける慰めによって、あらゆる苦しみの中にある人たちを慰めることができます。」Ⅱコリント1:4 神様がまず私たちを慰めてくださったから、その慰めによって他の苦しむ人を慰めることができるのだ、と述べられています。 パウロは恵みを自分だけのものにしようとはしませんでした。 また、自分だけの功績をたてようとはしませんでした。 この手紙は、「神のみこころによるキリスト・イエスの使徒パウロと、兄弟テモテから」 と始まっています。 パウロだけでなく、若いテモテが共に働き労苦していることが示されています。 後に、パウロはテモテに宛てて励ましの手紙も書いています。 主に仕えるのはチームワークです。 若い人が育ち用いられるのを喜んでいるでしょうか。 おおいに慰められた私たちには、慰め手、よいコーチとしての働きが生涯与えられているのだと期待します。 祈り:神様、他の人と比較せず、嫉妬せず、主の働きが前進するのを心から喜ぶ者になれますように。あなたからの慰めを頂いた者として、次の人たちを慰め励ます働きに召してください。アーメン

Iコリント16

「一切のことを、愛をもって行いなさい。」Iコリント16:14 コリントを訪れる予定があること、テモテやアポロのこと、 ステファナ一家や兄弟姉妹のこと、アジアの諸教会のこと... 教会や人の名前が列挙されます。 そして、コリント教会の人々へ 「目を覚ましていなさい。堅く信仰に立ちなさい。雄々しく、強くありなさい(13節)」 「一切のことを、愛をもって行いなさい(14節)」と励まします。 この励ましは私たちへの励ましでもあります。 しっかり、強く、・・・というだけではなく、 「愛をもって行う」ことがどれほど大切か、 そのことをしみじみ思います。 アフガンで働き抜いた中村哲氏の生き様と、 人々と神を喜ばせるなら「なんでもする」という姿勢は、 イエス・キリストにもみられるものだと感じました。 いいえ、まずイエス・キリストが愛をもって「なんでもしてくださった」のです。 地上に生まれ、貧しく暮らし、十字架で死ぬことまでしてくださったから、 私たちは永遠のいのちを頂けたのです。 「愛をもって行う」姿勢をキリストに学ぶアドベントの日々です。 祈り:神様、あなたが私たちに愛をまず示してくださいました。 あふれるばかりの愛を、流し出すことができるよう、導いてください。 アドベントの時期、苦しみ悩んでおられる___さん、___さんに、主にある解決、主にある希望が臨みますように。アーメン

Iコリント15

「私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、 また葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、 また、ケファに現れ、それから十二弟子に現れたことです。」Iコリント15:3~5 福音の中心がここに示されています。 パウロはこのことを伝えるために命をかけました。 それは、彼にとっては福音があまりにも素晴らしいからでした。 クリスマスは神の愛を最も伝えやすい時期です。 人々が抵抗なくクリスマスや教会を受け入れてくれます。 うまく伝えられない時や躊躇してしまう時もありますが、聖霊の導きを祈りつつ歩むなら、たとえ思うようなやり方でなくても、それは無駄ではありません。 「ですから、私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから(58節)」 と、励ましの声が聞こえるようです。 今日は中村哲氏のドキュメンタリーを見る予定です。彼も井戸を掘るということで主の愛、恵みといのちの水をアフガンで分かち合いました。 私たちは何を通して主の愛を分かち合えるでしょうか。 祈り:神様、人の心を変えることができるのは聖霊のわざです。私たちはあなたの愛と福音をさまざまな形で流すように召されています。賜物に応じて、各々の持ち場と方法で今日も働くことができますように。アーメン

Iコリント14

「神は混乱の神ではなく、平和の神なのです。」Iコリント14:33 毎年この時期、配送業者の人たちは大忙しです。その働きぶりは現代のサンタクロースのようです。 私たちも何かと忙しいですね。 こうした日々の中では、適切な優先順位を維持することが難しく思えます。 忙しさにかまけて、ろくに祈りもせず重要な判断をしたり、朝聖書を読もうと思っていたらもう夜遅くになっていた、ということがあります。 しかし、パウロは教会の中での秩序、賜物の用い方の秩序について教えています。 そして「神は混乱の神ではなく、平和の神なのです」と述べました。 教会だけでなく、私たちの心にとっても「神は平和の神」です。 人間関係や自分の心の中が混乱していると思ったら、平和の神に頼る時です。 神様は、私たちが追い詰められて混乱するのを願ってはおられません。 穏やかで幸せに過ごすことを誰よりも願っておられます。 今日も神の平和がありますように。 祈り:神様、私の生活の中にあなたの知恵と適切な優先順位を持たせてください。 繁忙期にある___さん、___さんを励ましてください。子どもたちの学期末を迎える___ファミリー、___ファミリーにも平安がありますように。アーメン

Iコリント13

「こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。」Iコリント13:13 ウクライナ、パレスチナ、地震、テロ、クーデター...。 暗いニュースを見聞きすると、「希望」や「愛」がどこに行ってしまったのかと感じます。 しかし、聖書ははっきりと「いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです」と約束しています。 その中で一番すぐれているのは「愛」であり、その特質が13章に列挙されています。 何年も前に、4~8節をクロスステッチで刺繍したことがあります。 その時のように、折にふれて「愛は寛容であり・・・」と味わう必要があるなと思わされています。 祈り:神様、あなたの愛の性質を学ばせてください。人間の愛の限界を越えたキリストの愛を受け、流し出す者となれるよう、弱い私を助けてください。一番近い隣人に、まず愛を実践できますように。アーメン

Iコリント12

「あなたがたはキリストのからだであって、一人ひとりはその部分です。」Iコリント12:27 私たちがキリストのからだであるとは!いったい私はどの部分かしら、と、考えることがあります。 自分には何もできないと思っても、神様は一人一人がかけがえのない存在だと言ってくださいます。 あの人のようにできなくても、それぞれが違った役割と賜物を与えられています。 今までできていたことができなくなっても、新たなからだの部分としての役割があるとキリストは言われます。 祈り:神様、キリストのからだとして加えられていることに感謝します。 私はどの部分であることを、あなたは望まれるでしょうか。 そのように存在すること、仕えることができるように助けてください。アーメン

Iコリント11

「女が男から出たのと同様に、男も女によって生まれるのだからです。しかし、すべては神から出ています。」Iコリント11:12 この章では、コリント教会内の秩序が乱れ、つまづきになっていたことがわかります。パウロはそれを戒め、それぞれがわきまえるようにと勧めました。 かぶり物や服装については、当時の文化習慣も影響しています。 ですから、今日それをそのまま当てはめることはできません。 しかし、そのねらいと目的を理解することは大切です。 同じ章に聖さん式への招きが出てきます。その中に以下の表現があります。 「したがって、もし、ふさわしくない仕方でパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。 だれでも、自分自身を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。みからだをわきまえないで食べ、また飲む者は、自分自身に対するさばきを食べ、また飲むことになるのです。(28~29節)」 「自分自身を吟味する」ということが勧められています。 主の前に出て、自分の信仰の姿勢、内心の振り返り、悔い改めと感謝の決意をしようということです。 聖さん式の時だけでなく、日々「自分自身を吟味」しているでしょうか。 祈り:神様、私の生き方、信仰の姿勢、動機を探ってください。主に喜ばれない 習慣や思いがあるなら気づかせてください。主の前に出て、素直に悔い改め、感謝をささげることができますように。「自分自身を吟味」させてください。アーメン

Iコリント10

「あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。Iコリント10:13 このことばに支えられた方のあかしを聞くことがあります。 私自身も、先が見えなくなりとても辛い思いをした時、「脱出の道も備えてくださっている」というみことばにすがるように過ごしました。 人として来られ、十字架への道を歩まれたイエス・キリストは、誰よりも厳しい試練を通られました。 だから、私たちの出会うどんな試練も理解し、共に寄り添ってくださいます。 そして、私たちには思いもよらない脱出の道へと導いてくださいます。 時には、私たちの思考や期待を変えるという方法も取られます。 祈り:神様、あなたが私たちを愛し、試練とともに脱出の道を備えてくださることを信じます。イエス様が私の試練と嘆きを誰よりもよくわかってくださることに感謝します。 人として来られ、私たちの弱さや限界を共に通ってくださったイエス様をお迎えするクリスマスの意味を、多くの方が知ることができますように。アーメン

Iコリント9

「競技をする人は、あらゆることについて節制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。」Iコリント9:25 アスリートの生活を取材したドキュメンタリーを見ることがあります。 栄養や筋肉トレーニング、寮生活など、華々しい活躍の影には、隠れたところでの日々の節制と努力があることに感動し、尊敬します。 しかし他人事ではなく、クリスチャンの生き方がアスリートにたとえられているのは興味深いことです。 競技にたとえた表現は、聖書の他の部分にも見られます。 「こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、一切の重荷とまとわりつく罪を捨てて、自分の前に置かれている競走を、忍耐をもって走り続けようではありませんか。」ヘブル12:1 「また、競技をする人も、規定にしたがって競技をしなければ栄冠を得ることはできません。労苦している農夫こそ、最初に収穫の分け前にあずかるべきです。」2テモテ2:5~6 アスリートのように、パウロの覚悟のように、私たちもその姿勢とスピリットを学ぶことができるのです。 そう考えると、小さい日々の事柄も神様のわざにつながると気づき、励まされます。 祈り:神様、競技をするアスリートのように、日々の信仰生活が私たちの筋肉トレーニングであり練習であることを覚えます。試練やトラブルも、信仰の筋肉を鍛えるためにあなたが用いてくださると信じます。主にある脱出も都度経験させてください。アーメン

Iコリント8

「あなたがたはこのように兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を傷つけるとき、キリストに対して罪を犯しているのです。」Iコリント8:12 キリストを救い主として信じるなら、原則的には自由が与えられます。罪のなわめから解かれ、聖霊の働きのまま、ありのままで生きることができるようになります。 同時に、霊の兄弟姉妹、家族が与えられます。 ここでは、その家族へのつまずきとなることを避けるようにと教えられています。 それぞれが良心を与えられていますが、育った環境や文化などでその思いには多様性があります。 霊の兄弟姉妹を愛するなら、愛をもって弱い人の良心に配慮するということです。 教会では、弱いところのある人を見捨てたり見下げたりすることはありません。 かえって、皆が謙遜と愛と配慮を学びます。 それは、家畜小屋で生まれてくださったキリストがそうしてくださったからです。 羊飼いも見捨てられず、貧しい人も見下げられませんでした。 祈り:神様、私たちに愛と配慮の心を与えてください。イエス様が弱い者を愛し心をとめてくださったように、私たちも必要のある人に寄り添い、理解し祈ることができますように。アーメン

Iコリント7

「私が願うのは、すべての人が私のように独身であることです。しかし、一人ひとり神から与えられた自分の賜物があるので、人それぞれの生き方があります。」Iコリント7:7 「結婚はまだ?」「お子さんは?」「二人目は?」… 世間ではこのような会話が平気でなされます。 もしかすると、挨拶程度に考えて軽く質問し、相手を深く傷つけている場合があるかもしれません。 結婚するのとしないのと、どちらがよいのでしょうか。 子どもがいないといけないのでしょうか? 聖書ははっきりと、それらが神様の召しであると述べます。 今の境遇は自分で選んだと思っているかもしれませんが、神のゆるしと召しのうちにそうなっています。 38節にも「ですから、婚約者と結婚する人は良いことをしており、結婚しない人はもっと良いことをしているのです」と書かれています。 祈り:神様、あなたが私の今の境遇を与えてくださったと受け取ります。 結婚や家庭について、人との比較や世間体に左右されないよう助けてください。 あなたの召しがなりますように。アーメン

Iコリント6

「あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではありません。」Iコリント6:19 心身の健康に気をつける理由の一つがここにあると思います。 大切なゲスト、大好きな来客が滞在するときは、部屋をを掃除しリネンを整え、気持ちよく過ごせるように心を配ります。 同じように聖霊が住まわれるなら、私たちのからだを良いコンディションに整えなさいということだと思います。 老いや病気は避けられません。しかし、生活習慣や適切な休息、ライフスタイルは神様が管理をゆだねておられます。 今年もあとひと月。忙しい年末に向け、どのように生活を整えることができるか、考えたいと思います。 祈り:神様、あなたがくださった身体と日々の生活を感謝します。自分の心身の疲れや限界に気づかせてください。主の前に憩い、日々重荷を下ろすライフスタイルを教えてください。アーメン

Iコリント5

「あなたがたが誇っているのは、良くないことです。わずかなパン種が、こねた粉全体をふくらませることを、あなたがたは知らないのですか。」Iコリント5:6 コリント教会の中には、罪をそのまま放置しているという状況がありました。 パウロは戒め、パン種にたとえて問題が大きくなることを指摘しています。 教会の中もそうですが、私たち一人一人の心の中も同じようだと思います。 小さな罪深い思いが、どんどんと偽りやごまかしを生むことがあります。 また、小さな傾向が大きくなって大問題になることもあります。 病的なものは医療の助けが必要ですが、そうでないものも気づいたら祈り、また誰かに祈ってもらうことが大切です。 心の中にパン種がないか、今日思い巡らしてみましょう。そして悔い改めましょう。昨日の聖さん式も、そのような機会を与えてくれています。 祈り:神様、心の罪深い思いや傾向を聖霊により気づかせてください。意識的な思い、無意識の思いの中にあなたに望まれないものがあるなら悔い改めます。どうかパン種が大きくならないうちに取り扱ってください。アーメン

Iコリント4

「ですから、主が来られるまでは、何についても先走ってさばいてはいけません。主は、闇に隠れたことも明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのときに、神からそれぞれの人に称賛が与えられるのです。」Iコリント4:5 パウロは、コリント教会の人たちへ福音の管理者についての説明をします。 管理者に要求されるのは「忠実だと認められること」(2節)です。 その基準は人ではなく神です。 だから、やがて主がさばかれるので、それまでは何についても先走って判断してはならないということです。 コリントの人たちは、どうやら派閥やグループを作りがちだったようです。しかし、それらは福音のためには何の役にも立ちませんでした。 教会で私たちが「推す」のはイエス・キリストだけです。人を推す派閥ではなく、キリストを愛し従う者の集まりが教会です。 祈り:神様、コリントの教会も今日と同じような人々の集まりでした。この手紙の助言が、今日の私たちへも様々なことを教えてくれることに感謝します。聖書のことばは生きていて力があり、私たちの心の奥まで刺し通します。私の心の深いところを、みことばで照らしてください。アーメン

Iコリント3

「私は、自分に与えられた神の恵みによって、賢い建築家のように土台を据えました。ほかの人がその上に家を建てるのです。しかし、どのように建てるかは、それぞれが注意しなければなりません」Iコリント3:10 パウロが据えた土台とは「イエス・キリスト」でした(11節)。 彼の命がけの労苦と福音への熱意は、各地に初代教会が生まれる基となりました。 しかし、彼はそれを自分の栄光とはしませんでした。 「私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。」(6節) 最終的には、すべてが神に帰すのだと確信していました。 「報われないなあ」と思うことがありますか。 育児や介護、家事や職場の下働きなど…。 私もそのように思う時があります。 でも、レディース研修会で語られたように「しばられた生涯」はキリストのご生涯そのものでした。 そのキリストの品性は大きな影響を与えました。 「報われない」というのが、神の視点ではもっとも報われる所に置かれている証拠かもしれないと、改めて教えられたことでした。 祈り:神様、あなたの目に私の歩みはすべて覚えられています。自分の価値観で「報われない」と落胆、卑下することがないよう、心を守ってください。あなたと共に今日も歩みます。アーメン

Iコリント2

「しかし、このことは、  『目が見たことのないもの、 耳が聞いたことのないもの、 人の心に思い浮かんだことがないものを、 神は、神を愛する者たちに備えてくださった』 と書いてあるとおりでした。」Iコリント2:9 私たちが見聞きしたことがなく、心に浮かんだこともないものを、神様はすでに備えておられます。 そして、それは御霊により啓示されます。 御霊は今日も働いておられます。 聖書の中だけでなく、私たちの日々生きる中で、御霊の働きをどれくらい意識しているでしょうか。 あるいは御霊の働きを、どれくらい期待しているでしょうか。 信じる者の内に住まわれている御霊を、折にふれ思い起こして一日を過ごしてみませんか。 昔から多くのクリスチャンが御霊と共に歩み、御霊に満たされ、ごく小さなことの中に、一言では言い表せないような恵みや助けを経験しました。 神様は常に、私たちの最善を考えてくださっています。御霊は私たちのカウンセラーです。 祈り:神様、見聞きするものに感情が揺さぶられたり、希望を失いそうになったりする私たちです。そんな私たちを知っていてくださり感謝します。御霊の満たしと助けが必要です。今日ふと立ち止まり、御霊に聴くことができるよう、導いてください。アーメン

Iコリント1

「十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。」Iコリント1:18 神様のみわざは、人間にとっては逆接的に思えます。 最もみじめな十字架が、最も素晴らしい救いをもたらします。 「神の知恵により、この世は自分の知恵によって神を知ることがありませんでした (21節)」とも書かれています。 また、神様は弱い人間を通してこの地上でみこころを行われます。 たとえば、貧困や災害に苦しむ人を助けることも、超自然的な方法だけでなく、人間の働きを通して実現していきます。 福音宣教も同じです。 「それゆえ神は、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救うことにされたのです。(21節)」 不十分な、至らない私たちでさえ、神はお用いになれるのです。その幸いと光栄を覚え、小さい働きでも心をこめてしようと願わされます。 祈り:神様、あなたの十字架の恵みと力によって救われたことに感謝します。神の知恵は私たちの小さな働きにもみこころのままに働いてくださることを信じます。アーメン

ローマ16

「キリスト・イエスにある私の同労者、プリスカとアキラによろしく伝えてください。」ローマ16:3 パウロに「同労者」と言われたプリスカとアキラについては、使徒の働きにも出てきます。 パウロが信頼をおき、共に働いて教会を開拓し、宣教を進めていった人たちです。 ただ有能なわけではありませんでした。 「二人は、私のいのちを救うために自分のいのちを危険にさらしてくれました。彼らには、私だけでなく、異邦人のすべての教会も感謝しています(4節)」と、いのちがけの行動をとってくれたのでした。   聖書に名前が載ったり有名になったりというのは、名誉なことでしょう。しかしそれ以上に、その中身である彼らの心からの献身と、神と人に仕えた生涯こそ、永遠の価値につながることです。 永遠の価値につながるために、私たちは今日、どのように生きていきたいですか。 祈り:神様、あなたの目に価値あることに目をとめさせてください。消えていくものではなく、消えないもの、永遠のいのちとキリストに関することを、大切にできますように。今日が漫然とした一日ではなく、あなたに与えられた貴重な一日として喜び味わいたいです。アーメン

ローマ15

「このように、ほかの人が据えた土台の上に建てないように、キリストの名がまだ語られていない場所に福音を宣べ伝えることを、私は切に求めているのです。」ローマ15:20 パウロほど自分の召しを受け取ってその通りにした人はいませんでした。 イエスに出会って改心した時から、誤解や困難が続きました。多くの批判も受けました。 それでも、福音の働きをやめることはありませんでした。 旅をし、あちこちの町での異邦人への福音伝達という召し、そしてキリストにあるゴールを見据えていたからです。 翻って、私たちはどのくらい召しに立っているでしょうか。 転職、退職、病気、離別...という人生の転機で、何かを失うような思いになるかもしれません。しかし、それは召しを再確認するチャンスだとも言えます。 無力の中で、キリストが手招きしておられるのはどの方向でしょうか。 祈り:神様、パウロが福音のために手放したものは多くありました。しかし同時に、キリストの召しがいっそう明確になりました。 私は無力感を覚えることがありますが、それが主の召しを確信する時となりますように。 ____さん、____さんに、あなたの召しの確信と希望が豊かにありますようお祈りします。アーメン

ローマ14

「こういうわけで、私たちはもう互いにさばき合わないようにしましょう。いや、むしろ、兄弟に対して妨げになるもの、つまずきになるものを置くことはしないと決心しなさい。」ローマ14:13 人をさばくつもりがないのに、いつの間にか批判的になっている自分を発見しませんか。あの人はなぜ礼拝に遅れるのだろう、奉仕を無責任に投げ出すのだろう、言葉に配慮が足りないのだろう...、と。 昨日の礼拝はマルタとマリアの箇所でした。 私たちも、ともすればマルタのようになってしまいます。 そして、つい自分の尺度を相手に当てはめ、求めてしまいます。 「他人のしもべをさばくあなたは何者ですか(4節)」と聖書は戒めます。 私には見えない心を主は見て評価されます。 人をさばくよりも、自分自身がつまづきにならないようにへりくだり、配慮することを求めることができますように。 祈り:神様、私の批判的な心、さばく心をゆるしてください。互いに認めあい、覆い合うことができますように。キリストの愛の心を与えてください。アーメン

ローマ13

「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられているからです。」ローマ13:1 これが現代日本のように民主的な政治体制なら、「そうかもしれない」と納得するかもしれません。 しかし、この手紙が書かれたのは1世紀、ローマ帝国の時代でした。 それはイエス様を十字架につけ、クリスチャンにネロが激しい迫害を行った、同じ世紀の同じ国のもとで書かれました。 歴史上最も残忍な軍隊とも言われる、あのローマ軍を擁する国でした。 その時代についてもこう言われるなら、今日の私たちが為政者やリーダーたちのために祈るのは、もっと容易だと言えます。 「税金を納め(6節)」、「争いやねたみの生活ではなく(13節)」、「品位のある生き方をし(13節)」、「主イエス・キリストを着なさい(14節)」も、私たちの生き方の目標だと教えられます。 祈り:神様、私たちの国のリーダーたちが主のみこころにかなった政治、決断ができますように。平和がきますように。世界を治めている政治家たちが主を恐れ、へりくだった人格となりますように。主のご計画のために用いられますように。アーメン

ローマ12

「ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。」ローマ12:1 「私たちのからだをささげる」とは、なんと難しいことでしょう。 肉体がそこにあって心で別のことを考えているなら、「からだをささげ」ていることにはなりません。 全身全霊でキリストに焦点を合わせることが求められています。 毎日、起きた途端にその日のことが気になるかもしれません。 しかし、3分でも5分でもキリストに思いを向け(たとえ布団の中にいても)、そこから今日を生きる習慣を身に付けたいと願います。 祈り:神様、とても難しい命令のように感じます。しかし、歯を磨く習慣、顔を洗う習慣と同じように、思いをキリストに向けて一日を始める習慣を身に付けることができるよう導いてください。そこから始めます。アーメン

ローマ11

「それと同じように、彼らも今は、あなたがたの受けたあわれみのゆえに不従順になっていますが、それは、彼ら自身も今あわれみを受けるためです。」ローマ11:31 かつてのイスラエルの選びについてパウロは述べます。そして、今は不従順であることも。それは、キリストを救い主として信じず、福音を受け入れないからでした。 キリストが旧約聖書の預言の成就であったのに、それを信じないことを指摘しています。 今日のイスラエルは特別かどうかという議論があります。 しかし、その議論をする前に、イスラエルに限らず神の目にはすべての民族、すべての人が特別であるとわかります。 どの人も神のあわれみが必要であり、あわれみを受ける存在です。 だから、日本のために祈るように韓国、中国、・・・と国々のために祈り、イスラエルの為にも祈ります。 「すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至るのです。この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。」(36節) 祈り:神様、あなたはすべてのものの源であり、すべてを造られた方です。 造られた者として、神に栄光をお返しできますように。イスラエルをはじめ、世界の国々のために祈ることができますよう、福音宣教の働きへの目を開いてください。アーメン

ローマ10

「ですから、信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです。」ローマ10:17 「聴く聖書」CDやオンラインの「聴くドラマ聖書」をよく聞くという方がおられます。字が読みにくくなっても、みことばを枕元で聞きながら休むという方もおられます。 印刷術がない時代、多くの人にとって聖書は朗読されたものを「聞く」ものでした。 聞くことで信仰を養い、みことばの力を体験したのでした。 今も変わらず、神のことばであるみことばには力があります。それは心に届き、人生を変え、家庭や社会を変える力があります。 本やスマホアプリで、こんなに手軽にみことばにふれることができるようになりました。現代に与えられた大きな祝福の一つです。 祈り:神様、みことばに手軽に触れられることに感謝します。信仰の基であり、信仰を成長させ、キリストをより知るためのみことばを、私のたましいが慕い求めることができるよう、導いてください。アーメン

ローマ9

「人よ。神に言い返すあなたは、いったい何者ですか。造られた者が造った者に『どうして私をこのように造ったのか』と言えるでしょうか。」ローマ9:20 この後、「陶器師は同じ土のかたまりから、あるものは尊いことに用いる器に、別のものは普通の器に作る権利を持っていないのでしょうか(21節)」と続きます。 パウロは一つ一つ丁寧に説明していきます。 そして、この節ではよくわかるように陶器師と陶器の例を出しています。 すべては神の主権の元にあるので、造られた卑下したり比較したりするのは意味がないこと、文句や不平を言う必要がないことがわかります。 同時に、陶器師のように神様の大きな御手のうちにあること、心をこめて造られた私たちです。 それぞれの人に味があるということ、かけがえのない存在として造られたことを感じます。 どれほどの愛を神様は注いでくださっていることでしょう。 祈り:神様、陶器師であるあなたのみ旨によって造られたことに感謝します。 一人一人が主に愛され、価値ある存在であると知ることができますように。人生に絶望している人の元に、福音をあかしやトラクト、福音番組などを通して届けることができますように。アーメン

ローマ8

「しかし、これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。」ローマ8:37 35節は「だれが、私たちをキリストの愛から引き離すのですか」と問いかけています。 「...苦難ですか、苦悩ですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか」 肉体の痛みだけではなく、心の痛み、恥、恐れ、不安は私たちを揺さぶります。 この境遇のどこに希望があるのか、と思います。 しかし、そうした弱さがあるからこそ、いや弱さを通してこそキリストの愛が変わらないこと、キリストが栄光へと引き上げてくださることを、私たちは少しずつ教えられ、気づかされます。 挫折は挫折のままではなく、神様が次の章の扉を開けてくださることの備えだと、ある牧師先生がおっしゃいました。 一つの章を終え、次の章に導いてくださる主にあって、私たちは「圧倒的な勝利者」とさせていただけます。 祈り:神様、私たちを比較や劣等感から解放してください。うまくいかなかったことも含めてあなたの御手のうちにあり、運ばれると信じます。 今挫折感を覚えている_____さん、____さんを励ましてください。アーメン

ローマ7

「私たちの主イエス・キリストを通して、神に感謝します。こうして、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。」ローマ7:25 前の24節でパウロは嘆いています。 「私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」 というのも、善を行いたいのに自分の中には悪が存在し、肉の行いをしてしまうと自覚しているからです。 このパウロの嘆きは、私たち自身の嘆きでもあります。聖書の教えを聞いているのに、礼拝で「こうしよう」と決心したのに、ついまた失敗してしまいます。 しかし、パウロは続く25節で「それでも主イエスを通して、神に感謝する」と宣言します。 この弱さ、不完全さ、肉がまだ支配する至らなさをも、神が知ってくださっていること。 主の前に善を行いたいと願う思いが与えられていること。 その思いを与えてくださった方は、弱い私たちに聖霊をつかわし、肉を持ちながらも永遠のいのちの望みに生きることができるように導いてくださいます。 祈り:神様、私たちの弱さを知ってくださり感謝します。肉の思いに任せてしまい失敗します。聖霊の気づきと、悔い改めて向きを変える柔らかい心を与えてください。 ________のことについても、今日助け導いてください。アーメン

ローマ6

「同じように、あなたがたもキリスト・イエスにあって、自分は罪に対して死んだ者であり、神に対して生きている者だと、認めなさい。」ローマ6:11 この箇所にくると、いつも故我喜屋光雄先生を思い出します。 11節の「認めなさい」は「計算しなさい」「すでに計算ずみの伝票のようなもの」と聞いて、学生だった私は聖書の行間にメモしたことでした。 なんといっても、救いは行いではなく恵みによる、ということを繰り返し聞きました。 私たちの努力ではなく、キリストが成し遂げてくださったみわざです。 自分の感情ではぴんとこなくても、神様がすでに完了したと言われたから信じなさい、ということなのです。 肩の力を抜いて恵みに浸り、恵みが動機となって行動に至るのです。 毎週の礼拝も、主の恵みを確認し、その感謝で応答をする恵みの機会です。 祈り:神様、救いが信じる者に無条件で与えられる恵みであることを感謝します。このプレゼントの素晴らしさを日々味わう者となりたいです。気分や感情ではなく、救いの事実を認めます。一人一人が主を見上げる今日の礼拝に期待します。アーメン

ローマ5

「しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。」ローマ5:8 あこがれの人のために、なにか贈り物をしたことがありますか? 片想いかもしれないけれど、バレンタインにチョコをあげたということがありますか? 思いが届かないかもしれないのに、いのちまであげることができるでしょうか? それをしてくださったのがイエス・キリストです。 しかも、私たちがまだ罪人であった時に、すでになさったのです。 キリストを救い主として受け入れるかどうかは、私たちの自由意思にゆだねてくださいました。 言葉で表現するにはあまりにも大きく、あまりにも素晴らしいことです。 「どうしてそこまで」というほどの愛を注いでくださったキリストに、どのように感謝できるでしょうか。 祈り:神様、あなたの愛が大きすぎで、どう表現したらよいのかわかりません。でも、いつもその愛を思い返し、感謝したいです。導いてください。___さん、___さんの心にもこのキリストの愛が届きますように。アーメン

ローマ4

「しかし、『彼には、それが義と認められた』と書かれたのは、ただ彼のためだけでなく、私たちのためでもあります。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、義と認められるのです。」ローマ4:23〜24 アブラハムの信仰が、私たちの義認と関係があるとは! 100歳で、人間的にはもはや望みがないと思った時に、アブラハムはそれでも神ならできると信じました。 私たちにも信じる心、信仰があれば義と認められるとは、なんと希望のある約束でしょう。 今日一日、じっくりとこの恵みを味わいたいです。 祈り: 神様、あなたの恵みを感謝します。「信仰義認」という言葉では到底表しきれない素晴らしい約束です。宝物を扱うように受け取りたいです。日々この素晴らしさを味わわせてください。アーメン

ローマ3

「すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。」ローマ3:23~24 シンガポールに行った時、あるクリスチャンの方が私たちに名物のクラブチリ(蟹の煮込み料理)をごちそうしてくださいました。安くはない高級料理です。その方は神の恵みを分かち合うのだとおっしゃり、感謝してごちそうになりました。 私たちは、もし3000円のランチをごちそうしてもらったら「ありがとう!}と思います。 もしお年玉に1万円札が入っていたら「こんなにいいの?ありがとう」と思います。 しかし、1000万円、1億円と額が大きくなってくると、どういうことかピンとこなくなってしまうのが正直なところです。 「値なしに義と認められる」こともあまりにも価値のあることです。なぜなら、永遠のいのちがもらえるのですから。そして、その価値がどれほどかピンとこないのかもしれません。 しかし、そこにはイエス・キリストの十字架という対価が支払われています。 この大きすぎる恵みを感謝して受けとり、味わう者でありたいと願います。 祈り:神様、あなたの大きなプレゼントを感謝します。値なしに義と認め、信じる者には永遠のいのちをくださいました。どうか私も、神の恵みを人々に分かち合う者となれますように。与えられているものを、主にあって気前良く、同時に賢く用いる知恵を与えてください。アーメン

ローマ2

「かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による心の割礼こそ割礼だからです。その人への称賛は人からではなく、神から来ます。」ローマ2: 29 ユダヤ人として割礼を受けていることや、律法を守ることが大切だと考えていたユダヤ人クリスチャンに、パウロは教えています。 外見や決まりを守ることではなく、心の思いこそ神の前に大切である、と。 当たり前のようにも読めます。 しかし、ともすれば私たちもユダヤ人クリスチャンのような態度を取りかねません。 例えば、礼拝はとても大切で、他の用事よりも優先させるべきものです。 しかし、ある日礼拝に遅れて来られた方が、その日家庭でトラブルがあったのだけど、どうしても礼拝に出席したいと必死で運転して集われたことがあります。 ある日の遅刻だけで信仰が弱いとは決して判断できないことを教えられます。 どのような思いで集い、主を見上げているかが大切です。 たとえ人にはわからなくても、主はそれを知っておられます。 祈り:神様、見かけだけで判断することがないように、私の先入観や偏った常識から解放してください。兄姉を愛します。ひとりひとりの心を主が知っておられるという事実に憩います。教会に集う特権が与えられていることに感謝します。アーメン

ローマ1

「福音には神の義が啓示されていて、信仰に始まり信仰に進ませるからです。『義人は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです。」ローマ1:17 「私は福音を恥としません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、信じるすべての人に救いをもたらす神の力です」(16節)と述べたパウロは、福音の力を確信していました。 この福音は「信仰に始まり信仰に進ませる」と断言しています。 なぜなら、それは聖書に書かれており、神の真理の義が表れているからです。 福音の素晴らしさを断言できるでしょうか。福音の体験をどのように説明できるでしょうか。 どんなに小さくても、ありきたりでも、それこそがあかしであり、人生の宝です。土に埋めておくのはもったいないですね。 祈り:神様、私が福音を受けとったのは、_______のことがきっかけでした。どんな経験を通しても主が働いてくださり、永遠のいのちを与えるために導いてくださったことを感謝します。私も、福音を恥とせず、折にかなった方法であかしすることができるよう助けてください。アーメン

使徒28

「パウロは、まる二年間、自費で借りた家に住み、訪ねて来る人たちをみな迎えて、 少しもはばかることなく、また妨げられることもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えた。」使徒28:30,31 使徒の働きの最後は、パウロが捕らわれの身でありながらいよいよ力強く福音を伝える様子で終わります。 そこには悲壮感はありません。 パウロの多くの手紙が各地の教会に届き、人々はどんなに励まされたことでしょう。 神様の計画は回り道に見えて最短距離です。 挫折に見えて飛躍です。 それは、聖霊が共におられ、その働きが自由でユニーク、希望を与えるからです。 祈り: 神様、当時と同じ聖霊というお方が、今日も働かれていることを感謝します。 今週も期待します。 主にあって謙遜に、たゆみなく歩ませてください。アーメン

使徒27

「さて、穏やかな南風が吹いて来たので、人々は思いどおりになったと考え、錨を上げて、クレタの海岸に沿って航行した。」使徒27:13 11節を見ると、「百人隊長は、パウロの言うことよりも、船長や船主のほうを信用した」と書かれています。 船長や船主は普段から海のことに関わっているので、素人のパウロよりも信頼できると思ったのでしょう。 しかし、パウロの忠告を聞き入れなかったので、船は難破します。命からがらマルタの陸にたどりつく一行でした。 パウロの忠告は、祈りと聖霊の導きに基づくものでした。 百人隊長はようやくそのことに気付いたのでしょうか。 「百人隊長はパウロを助けたいと思い、彼らの(パウロを殺してしまうという)計画を制止し」た(43節)とあります。 私たちは誰の言葉に耳を傾けているでしょうか。 人の評価に頼り、神のことばを聞きそびれないようにと願います。 祈り:神様、あなたが聖霊を通して語ってくださることば、聖書のことばを聞き逃さないよう、霊の耳を開いてください。今信仰が弱っている人がいるなら、励まし導き、その霊を奮い立たせてください。アーメン

使徒26

「しかし、パウロはこう答えた。『わずかな時間であろうと長い時間であろうと、私が神に願っているのは、あなたばかりでなく今日私の話を聞いておられる方々が、この鎖は別として、みな私のようになってくださることです。』」使徒26:29 どんな時もパウロの視点の中心は自己弁明でなく、福音をどのように証しできるかということに向けられていました。 人間関係の問題はつらいものです。特に誤解されたり根も葉もないうわさを流されたりする時は。 しかし、それは一時的だということを心に留めましょう。 そして、もっと価値のある永遠に心を向けることができるよう、助けを祈り求めましょう。 祈り:神様、あなたのくださる永遠のいのちの素晴らしさに比べたら、今の一時の辛さや問題はずっと小さいものだと信じます。どうか忍耐を与え、主の御腕の陰に私を隠してください。アーメン

使徒25

「もし私が悪いことをし、死に値する何かをしたのなら、私は死を免れようとは思いません。しかし、この人たちが訴えていることに何の根拠もないとすれば、だれも私を彼らに引き渡すことはできません。私はカエサルに上訴します。」使徒25:11 パウロを巡る、ユダヤ人や政治家たちの策略や陰謀、自己保身による弁明が交錯します。 昔も今も人間の性質は変わらないのだなあと思います。 シンガポールで最高裁判所跡に行きました。法廷がそのままギャラリーになっていました。 2階席が傍聴人のためのもので、そこから下を見下ろして裁判を見学したのです。 被告を見下げるような配置でした。 パウロも同じように見下げられたでしょう。 しかし、彼の弁護人は最も高いところにおられるキリストであり、聖霊がいつも語るべき言葉を与えてくれていたのでした。 祈り: 神様、主の名のために見下げられている人を助けてください。聖霊様が語るべき言葉を教えてください。 今パウロのように迫害にあっている人が強められますように。アーメン

使徒24

「二年が過ぎ、ポルキウス・フェストゥスがフェリクスの後任になった。しかし、フェリクスはユダヤ人たちの機嫌を取ろうとして、パウロを監禁したままにしておいた。」使徒24:27 フェリクスはパウロの話に興味を持ちました。 この道(福音)についてもかなり詳しく知っていた(22節)ようです。 それなのに、パウロを監禁しておき、結局キリストを救い主と信じることがないまま去っていきました。 今日も福音が知らされているなら、受け入れるかどうかはその人にかかっています。 フェリクスのようでしょうか。あるいは素直に受け入れるでしょうか。永遠のいのちがかかっています。 祈り:神様、福音を聞いた人、興味ある人が、それを開かれた心で受け入れることができますように。___さん、____さんが救われますように。アーメン                      

使徒23

「その夜、主がパウロのそばに立って、『勇気を出しなさい。あなたは、エルサレムでわたしのことを証ししたように、ローマでも証しをしなければならない』と言われた。」使徒23:11 神様のみこころがローマへパウロを遣わすことだったと、ここでわかります。パリサイ人だったことも、ローマ市民権を持っていたことも、全てはこの神の計画のために用いられました。 人生で、無駄な選択をしたと思うことがあるでしょうか。 人の目には回り道に見えることも、神の御心を果たすために必要な備えであることがあります。 理解するのに時間がかかる、あるいは理解することは地上ではないかもしれませんが、やがて明らかになることに期待します。 祈り:神様、私の目には選択を誤ったとか、回り道だったとか思うことがあります。しかし全てを主のものとしてください。あなたの良いみこころの実現のために用いてください。そのことを信じて感謝します。アーメン

使徒22

「すると主は私に、『行きなさい。わたしはあなたを遠く異邦人に遣わす』と言われました。」使徒22:21 パウロは自分の信仰の経緯を話します。 「主よ。この私が会堂ごとに、あなたを信じる者たちを牢に入れたり、むちで打ったりしていたのを、彼らは知っています。 また、あなたの証人ステパノの血が流されたとき、私自身もその場にいて、それに賛成し、彼を殺した者たちの上着の番をしていたのです。』(19〜20節)」 人々はそれを途中で遮り、殺してしまおうとしました。 しかし神はパウロを守られました。ローマ兵を通してさえ、パウロの命を守られたのです。 キリストを迫害する存在だったことを、神ご自身は誰よりもよくご存知でした。しかしパウロの心を生まれ変わらせ、異邦人に遣わす器として造りかえてくださったのです。 どんな過去があっても、主はその全てを知っておられます。そしてそれにもかかわらず、私たちをご自身の働きのために用いてくださるのです。 祈り:神様、私の過去の___のこと、___のことをあなたはご存知でした。それでも私を愛し、救い、導いてくださることに感謝します。あなたの御心を行うものとなれますように。アーメン

使徒21

「すると、パウロは答えた。『あなたがたは、泣いたり私の心をくじいたりして、いったい何をしているのですか。私は主イエスの名のためなら、エルサレムで縛られるだけでなく、死ぬことも覚悟しています。』」使徒21:13 前章から、聖霊の示しが何度も出てきます。パウロに関する聖霊の語りかけがあったことがわかります。 複数の信仰者が、エルサレムにパウロが行くのは危険だと忠告しました。 中には「行かないでくれ」と懇願する人たちもいました(12節)。 使徒の働きを記したルカも案じていました。 しかし、パウロは答えます。 「あなたがたは、泣いたり私の心をくじいたりして、いったい何をしているのですか。私は主イエスの名のためなら、エルサレムで縛られるだけでなく、死ぬことも覚悟しています。(13節)」 聖霊の語りかけを無視したのでしょうか?いいえ。 聖霊の警告は警告として受け止めました。 しかし、泣いて「行かないで」というのは聖霊ではなく、人々の感情でした。 人の情と神のみこころ、どちらを聞き入れ優先するかという判断にも、聖霊がパウロに働いたことを学びます。 祈り:神様、感情や理性はあなたが備えてくださったものですが、みこころ以上になることがないよう、謙遜さと主に従う心を与えてください。決断が必要な時こそ、主にゆだねることができますように。アーメン

使徒20

「あなたがたは自分自身と群れの全体に気を配りなさい。神がご自分の血をもって買い取られた神の教会を牧させるために、聖霊はあなたがたを群れの監督にお立てになったのです。」使徒20:28 エペソの教会へのパウロの勧め、励ましは一貫しています。 教会がいかにキリストに愛されているかということ、 その教会を愛し建て上げることが主のみこころにかなっているということ、 群れに属する者として教会のからだの一部となることなどです。 離れて旅路にあっても、投獄されても、エペソの教会(その人々)を思う心は変わりませんでした。エペソ人への手紙にも同じ思いがあふれています。 このパウロの思いは、神の愛の思いが流れ出たものでした。 「神がご自分の血をもって買い取られた」 「神の教会」 なのです。 今日、礼拝に集うことは、私たちが神の教会に属する特権ゆえに与えられた、かけがえのない機会です。キリストを頭として礼拝する恵みを覚えます。 祈り:神様、今日も礼拝に集えることに感謝します。それが霊肉にとってどれほどの恵みであるか、それを信じ受けとります。オンラインで参加する方にも、聖霊がその場所に行き巡り、同じ思いで礼拝できますように。語られるみことばに期待します。アーメン

使徒19

「 これが二年続いたので、アジアに住む人々はみな、ユダヤ人もギリシア人も主のことばを聞いた。」使徒19:10 何が続いたかというと、 「パウロは会堂に入って・・・神の国について論じて、人々を説得しようと努めた。しかし、ある者たちが心を頑なにして聞き入れず、会衆の前でこの道のことを悪く言ったので、パウロは彼らから離れ、・・・毎日ティラノの講堂で論じた」(8~9節) でした。 頑なな人々や、妨害する人たちはいました。 けれども、あきらめず神の国について論じ続けたのでした。 福音からぶれることはありませんでした。 そうした時に聖霊が信じた人に臨み、異言や預言が語られました。 またしるしと奇跡が起こりました。 それらは神が行われたのでした。 霊的な妨害には霊的な力で神ご自身が働いてくださいます。 私たちにゆだねられているのは「あきらめず、神が置いてくださった所で信頼し続ける」ことです。 祈り:神様、私にあなたを信頼する心を増し加えてください。今の環境の中で、あなたが私に望まれていること知ることができますように。聖霊の導きと促しを期待します。アーメン

使徒18

「そこで、ポントス生まれでアキラという名のユダヤ人と、彼の妻プリスキラに出会った。クラウディウス帝が、すべてのユダヤ人をローマから退去させるように命じたので、最近イタリアから来ていたのである。パウロは二人のところに行き、」使徒18: 2 コリントでパウロはアキラとプリスキラに出会います。 二人は元々イタリアにいましたが、退去命令を受けて来ていたのでした。 しかもパウロの同業者でした。 この運命的な出会いがあり、コリント教会とエペソ教会の基礎が築かれました。 意図しなかった人生の転換があっても、それが神の御手の中にある事実を確認します。 やむを得ない事情を通じてでさえ、大きな神のご計画のために用いられます。 祈り:神様、あなたの大きなご計画に期待します。人生が思うようにいかなかった時でも、あなたの守りとみこころが進むことを信じて希望を失わないよう、助けてください。アーメン

使徒17

「神は、一人の人からあらゆる民を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、住まいの境をお定めになりました。それは、神を求めさせるためです。もし人が手探りで求めることがあれば、神を見出すこともあるでしょう。確かに、神は私たち一人ひとりから遠く離れてはおられません。」使徒17:26~27 テサロニケで難にあい、ベレアではテサロニケからの追っ手が群衆を扇動して迫害しました。 さらにアテネに移動したパウロでしたが、そこでも彼は福音を語り続けました。 彼のメッセージの中には、生かされている場所と時代が決まっているのは、神を求めるためであるということが語られています。そして、神は私たちの近くにおられることも話されています。 私たちが今日、日本に生かされているのもまた、神を求めるようになるためです。 「なぜここにいるのか」という存在の問いへの答えがあります。 祈り:神様、生きている意味を問うとき、それはあなたが意図をもってこの時代、この場所に置かれたからである、と答えられることを感謝します。 生き甲斐を失っている人が、キリストに出会い、生きる意味を見いだすことができますように。___さん、___さんを覚えてお祈りします。アーメン

使徒16

「二人は言った。『主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。』」使徒16:31 木曜集会で、テサロニケ人への手紙第一を読んでいます。 テサロニケに行く前、パウロとシラスはティアティラで投獄されていました。 しかし、その投獄を通して他の囚人や看守の家族に福音が届きました。 むち打ちと獄中での暮らしは身体的には過酷でしたが、それさえも益に変えられました。 どこかに不調を感じているでしょうか。たゆまずあきらめず、主に期待しましょう。何よりも、この福音には永遠のいのちが明確に示されています。 人が本当に必要なものが提示されているのです。 祈り:神様、あなたのあわれみと、困難を益に変えてくださる恵みの大きさに感謝します。いやな思いをした時も、落ち込まずあきらめず、主を見上げ続けます。___さん、___さんを励ましてください。アーメン

使徒15

「私たちは、主イエスの恵みによって救われると信じていますが、あの人たちも同じなのです。」使徒15:11 今日、教会には様々な人が集っています。生まれも育ちも、現在の環境もさまざまです。 初代教会も同じでした。 教会の中に多様性があるのは良いことです。教会の幅が広げられ、多くの人に福音を届けることができるからです。 ところが、元パリサイ派の者で信者になった人たちが立ち上がり、「異邦人にも割礼を受けさせ、モーセの律法を守るように命じるべきである」と言った(5節)のでした。 経験や過去の常識に固執し押し付けようとする時に、教会にひずみが生じます。 エルサレム教会で起こった問題は、律法はキリストが成就されたことと、福音が異邦人にも無条件の恵みとして与えられることを軽んじていました。 救われる前の宗教、前に集っていた教会、家庭でしつけられたこと、職場の常識... それを今の教会に当てはめること、比較することはひずみを生みかねません。 エルサレム教会は、最低限の共通認識で一致しました(19節~)。 立ち返るところは、昔も今も 「私たちは、主イエスの恵みによって救われると信じていますが、あの人たちも同じなのです」ということです。 祈り:神様、私の偏狭な常識や思い込みをゆるしてください。あなたが愛され、恵みを注いで救われた教会の人たちを愛することができますように。サタンの惑わしや混乱させようとする霊から、教会をお守りください。アーメン

使徒14

「彼はパウロいの話すことに耳を傾けていた。パウロは彼をじっと見つめ、癒やされるにふさわしい信仰があるのを見て、」使徒14:9 日曜日の礼拝メッセージでは、この後の部分、パウロたちが神だと誤解された箇所以降が語られました。 もちろん、彼らは神ではありませんでした。 ただ、彼を「じっと見つめ、癒やされるにふさわしい信仰がある」かを見ました。 そして、その信仰があることを確信できたので、主の癒やしを宣言しました。 癒されたのは神です。 私たちも、人を見てではなく神を見て歩むことが大切です。人を見ると落胆します。主を見上げる時に、主が変わらないお方であることに安心し、平安をいただきます。 祈り:神様、人の言葉や態度に左右されがちな私を助けてください。あなたを見上げ、あなただけに信頼することができますように。今週の歩みも導いてください。アーメン

使徒13

「総督はこの出来事を見て、主の教えに驚嘆し、信仰に入った。」使徒13:12 魔術師エリマは総督を信仰から遠ざけようとしました(8節)。 ところがパウロは聖霊に満たされたパウロによって罪を指摘されました。 それには力とわざが伴いました。 結果として総督は主の教えに驚嘆し、信仰に入った(12節)というのです。 信仰が試されていますか。伝道してもうまくいかないと思うことがありますか。 挫折や失敗でさえも、神様は用いることができるお方です。 逆転の結果、逆転の人生を備えてくださいます。 新しい週も、この主に期待しましょう。 祈り:神様、伝道や信仰生活がうまくいかないと思うときにも、すべてを益としてくださるあなたに信頼します。破産や失業、不合格や引きこもりなど、行き詰まりを通った人生がキリストにあって用いられ、主の栄光と希望が輝く人生となりますように。渦中にある人たちにキリストの励ましがありますように。 「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。(ローマ8:28)」アーメン

使徒12

「こうしてペテロは牢に閉じ込められていたが、教会は彼のために、熱心な祈りを神にささげていた。」使徒12:5 投獄され、解放は困難だと思われるぺテロのために、教会はあきらめませんでした。 「教会があきらめない」というのは、「教会に集う一人一人があきらめない」ということでした。 ぺテロのために「熱心な祈りを神にささげていた」とあります。 あきらめず集って、祈り会を持っていたのでした。 今の教会も、大きな問題が来たときに「あきらめない」教会となれます。 弱い者の集まりでも、互いに支えあい、共に主を見上げる集まりです。 生まれたての初代教会がこのように祈れたのは、聖霊の助けがあるからでした。 同じ聖霊が、私たちの教会にも注がれています。 祈り:神様、初代教会と同じように、熱心に祈ることを私たちに教えてください。聖霊の助けを頂いて共に立ち上がり祈ることができますように。アーメン

使徒11

「...弟子たちは、アンティオキアで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった。」使徒11:26 「キリスト者(クリスチャン)」の名前の由来です。キリストに似た者、キリスト派と呼ばれるようになりました。 「推し活」でアーティストを推す人たちは、グッズをそろえ、サイトをチェックし、ライブに参加し、一体感を楽しみます。時間や労力を惜しみません。 一般のアーティストに対してでさえそうなら、イエス・キリストに対してはもっと「推す」ことができます。 なぜなら、キリストは私たちを命がけで愛し、永遠のいのちを与えてくださった素晴らしい方だからです。 祈り:神様、あなたの愛に感謝します。「キリスト者」と呼ばれて幸いです。さらにキリスト者としてキリストを推薦し、歩み続けることができますように。アーメン

使徒10

「そこで、ペテロは口を開いてこう言った。『これで私は、はっきり分かりました。神はえこひいきをする方ではなく、どこの国の人であっても、神を恐れ、正義を行う人は、神に受け入れられます。』」使徒10:34~35 えこひいき...子ども心に、学校で、ひいきされている(ように思える)友達と自分との扱いの差に敏感でした。 家庭の状況や地縁、血縁は、自分の努力ではどうしようもありませんでした。 そして、聖書の当時はユダヤ人だけが選ばれた民族だ、というのが常識でした。 ところが、ぺテロとコルネリウスに聖霊が働かれ、ぺテロは神が全世界のどの民族も同じように愛しておられることを確信しました。 今でも「神はえこひいきをする方ではなく」という表現を読むたび、子ども心の不安が癒される思いを経験します。 祈り:神様、あなたがえこひいきをする方ではないことを感謝し賛美します。あなたの愛が全世界のどんな人にも等しく注がれていることを、多くの方が知ることができますように。___さん、___さんが体験できますように。アーメン

使徒9

「そこで、ペテロは立って二人と一緒に出かけた。ペテロが到着すると、彼らはペテロを屋上の部屋に案内した。やもめたちはみな彼のところに来て、泣きながら、ドルカスが一緒にいたころ作ってくれた下着や上着の数々を見せるのであった。」使徒9:39 サウロ(パウロ)の回心、アナニアの勇気、ダマスコからの決死の脱出、アイネアの癒しと、劇的な出来事が続きます。 しかし、それと同じくらい輝いているのは、あのサウロを引き受けたバルナバのあわれみです。 そして、表舞台には出ず、しかし心をこめてやもめのために衣類を作っていたドルカス(タビタ)の心です。 目立つ働きをする人に劣らず、キリストの性質を生きざまで表した人たちでした。 そして、周囲の人にキリストの愛と大きなインパクトを与えたのでした。 祈り:神様、教会や社会で、キリスト者として人知れず奉仕をしている人たちを覚えます。___さん、____さんに、主の祝福とねぎらいがありますよう祈ります。アーメン

使徒8

「ピリポはサマリアの町に下って行き、人々にキリストを宣べ伝えた。」使徒8:5 使徒の働きの筆者ルカは、ピリポについて淡々と記しています。 葛藤はあったかもしれませんが、それほど肩に力が入っていた印象も受けません。 確かなことは、彼が聖霊の働きに素直に従って行動した人物であったということです。 聖霊の導きに従ってサマリアで伝道すると、 ・群衆はピリポの話を聞き、彼が行っていたしるしを見て、彼が語ることに、そろって関心を抱くようになった。(6節) ・ピリポが神の国とイエス・キリストの名について宣べ伝えたことを信じて、男も女もバプテスマを受けた。(12節) その後、 ・主の使いがピリポに言った。「立って南へ行き、エルサレムからガザに下る道に出なさい。」そこは荒野である。そこで、ピリポは立って出かけた。(26~27節) 荒れた場所だとわかりつつ出かけて行くと、福音が必要な人に出会いました。 ・御霊がピリポに「近寄って、あの馬車と一緒に行きなさい」と言われた。 そこでピリポが走って行くと、(29~30節) ・ピリポは口を開き、この聖書の箇所から始めて、イエスの福音を彼に伝えた。(35節) 再び別の場所へ移動します。 ・それからピリポはアゾトに現れた。そして、すべての町を通って福音を宣べ伝え、カイサリアに行った。(40節) 私たちはピリポほどあちこちへ移動するよう召されてはいないかもしれません。しかし、彼と同じように聖霊の語りかけを聞く者となりましょう。 祈り:神様、私の歩みが聖霊に導かれた日々とならせてください。行くところ、思いがけず出会う人、導かれている行動について、霊的に敏感であれますように。アーメン 祈り:

使徒7

「 しかし、聖霊に満たされ、じっと天を見つめていたステパノは、神の栄光と神の右に立っておられるイエスを見て、『見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます』と言った。」使徒7:55~56 ステパノの殉教です。石打ちになる直前に、このように勇敢に語れるでしょうか。人の力ではなく神の力、聖霊の力であることを感じます。 青年だったサウロもその現場におり、証人たちの上着が置かれるのを間近にしていました(58節)。 そのサウロが後の大使徒パウロであるとは、周りの人も本人も思いもよらなかったでしょう。 しかしその時、聖霊は確かに働き、神のご計画が動きはじめていたのでした。 祈り:神様、あなたの霊の働きは、人間の知恵や力の到底及ばないものです。信じられないほどの神のご計画がなされていくことを、期待し祈る信仰を与えてください。アーメン

使徒6

「この提案を一同はみな喜んで受け入れた。そして彼らは、信仰と聖霊に満ちた人ステパノ、およびピリポ、プロコロ、ニカノル、ティモン、パルメナ、そしてアンティオキアの改宗者ニコラオを選び、」使徒6:5 初代教会の働きは使徒たちだけでなく、信仰と聖霊に満ちた人たちが実際面のリーダーとして仕えました。 一同はみな喜んでこのことを受け入れました。 その結果、神のことばはますます広まっていき、エルサレムで弟子の数が非常に増えました。それだけでなく、あの祭司たちが大勢、次々と信仰に入りました(7節)。 一大リバイバルが起こりました。 今の教会も、牧師や働き人だけでなく、リーダー、メンバー一人一人の祈りと愛の奉仕(もちろん祈りの奉仕も!)で歩んでいきます。 祈り:神様、教会の一人一人がかけがえのない存在であり、キリストが召してくださったことを感謝します。私たちを神と教会に仕える者として信仰と聖霊で満たしてください。アーメン

使徒5

「そして、教会全体と、このことを聞いたすべての人たちに、大きな恐れが生じた。」使徒5:11 アナニヤとサッピラの事件は、いつ読んでも心が痛みます。 ささげるというのは良いことのはずなのに、そこに偽りを言うという混ぜ物が入ったゆえに滅びてしまいます。 この夫婦の一連の出来事に、教会全体と聞いた人々には大きな恐れが生じました。 死そのものだけでなく、神の前と教会に誠実であること、自分を過大に装うプライドの罪深さなど、厳粛な思いになったことでしょう。 さらに、罪の結果死んだことにこれほど驚き恐れるなら、 罪がないのに死んでくださったイエス・キリストの愛には、その何倍も驚きあがめます。 教会は、キリストが死をもって買い取ってくださった者の集まりです。 祈り:神様、私の罪を背負い死んでくださったキリストの愛に感謝します。私の歩みが誠実であるように、自分を大きく見せようとか自分に栄光を帰そうとかいう誘惑からお守りください。アーメン

使徒4

「彼らが祈り終えると、集まっていた場所が揺れ動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語り出した。」使徒4:31 初代教会の純粋な信仰と勇気ある証しの記録です。 キリストの復活を大胆に述べたぺテロとヨハネについて、 「彼らはペテロとヨハネの大胆さを見、また二人が無学な普通の人であるのを知って驚いた。また、二人がイエスとともにいたのだということも分かってきた。そして、癒やされた人が二人と一緒に立っているのを見ては、返すことばもなかった。(13~14節)」 と書かれています。 高学歴でなくても、普通の人でも、神様は証し人として用いてくださいます。 そして、神様が何をしてくださったかをそのまま分かち合う時、それは真実な証言になります。 どのようにキリストと出会ったか、信じるようになったか、そしてその後の歩みでどのように神がよくしてくださったか。 機会が与えられたら、気負わず、黙さず、そのままを分かち合えますように。 祈り:神様、普通の人をあなたが愛し、永遠のいのちを与えてくださり感謝します。日々恵みを受けていることを覚えます。主の良くしてくださったことを分かち合う時、言葉を与えてください。証し人としてキリストに栄光をお返しできますように。アーメン

使徒3

「このイエスの名が、その名を信じる信仰のゆえに、あなたがたが今見て知っているこの人を強くしました。イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの前で、このとおり完全なからだにしたのです。」使徒3:16 美しの門にいた足の不自由な人は、ぺテロの 「金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」(6節)という言葉の後、歩けるようになりました。 しかしぺテロは、自分の力や敬虔さではなく、「イエスの名」に力があり、その名を信じる信仰のゆえに癒しが起こったのだ、と明言しました。 どんなに有名な伝道者も、賜物豊かで用いられている人でも、その人に力があるのではありません。イエスの御名に力があり、その名を信じる信仰によって癒しや奇跡が起こるのです。 イエス様こそが唯一の癒し主、救い主です。この方は「悔い改めて神に立ち返りなさい。そうすれば、あなたがたの罪はぬぐい去られます。」(19節)とある通り、罪をゆるす力があります。 祈り:神様、私たちにイエス・キリストに従う信仰を与えてくださり感謝します。この名に力があり、私たち信じる者に働いてくださることを信じます。様々な悪の力や惑わしから、今日もお守りください。見分ける力、見抜く力を聖霊によって与えてください。アーメン

使徒2

「そして、毎日心を一つにして宮に集まり、家々でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、民全体から好意を持たれていた。主は毎日、救われる人々を加えて一つにしてくださった。」使徒2:46~47 最初のキリスト教会の誕生が記されています。何と麗しい、何と喜びに満ちた様子でしょう! それはイエスを主と信じる者に注がれた聖霊の働きによるものでした。 様々な言語で話したことも、あのぺテロが大胆にメッセージを語ったことも、みな聖霊のみたしによるものでした。 月曜日のJEC聖会のテーマは「天的教会」でした。 教会は天から与えられ、また天に還るもの。地上で、天の領域の祝福を受けているものである、というメッセージの部分が印象的でした。 この世にあって、この世のものではないということです。それは、天の領域である聖霊が直接働いてくださるからです。 祈り:神様、地上にある天の領域である教会に招いてくださり感謝します。キリストの霊により導かれていることに感謝します。聖霊の働きがもっとわかるように助けてください。アーメン

使徒1

「しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」使徒1:8 「使徒行伝(使徒の働きをかつては使徒行伝と呼んだ)は聖霊行伝です」 と言われた聖書学院の先生の言葉を今でも思い出します。 使徒の働きの中に、聖霊が働いている箇所がなんと多いことでしょう。 そして、聖霊が臨むとき私たちが力を受けるというのも、なんと心強いことでしょう。 イエス様がお命じになられたのも聖霊によってでした(2節)。 そして、信じる者には聖霊によるバプテスマが授けられ、力を受け、キリストの証人となることが語られました。 私たちの原動力は聖霊によります。そして、聖霊によって私たちは力ある働きを、主の栄光のためにさせていただけます。 祈り:神様、聖霊の働きについてわかるように目を開いてください。聖会のテーマ「天的教会」の歩みが、聖霊の働きによって進むことを覚えます。私たちの心を柔らかくし、聖霊の働きを喜びをもって期待し、信じることができますように。アーメン

ヨハネ21

「イエスは三度目もペテロに、『ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛していますか』と言われた。ペテロは、イエスが三度目も『あなたはわたしを愛していますか』と言われたので、心を痛めてイエスに言った。『主よ、あなたはすべてをご存じです。あなたは、私があなたを愛していることを知っておられます。』イエスは彼に言われた。『わたしの羊を飼いなさい。』」ヨハネ21:17 イエスを知らないと3度言ったぺテロに対して、イエス様は叱責ではなくやさしく尋ねてくださいました。ぺテロはこのやり取りを、生涯の最後までことあるごとに思いだしただろうと想像します。 イエス様のような完全な愛を、私たちが自ら生み出すことはできません。しかし、その愛を反映し、応えたいと願う者です。 初めにキリストが愛を与えてくださいました。私たちはそれに感動した時の、初めの愛にとどまるよう招かれています。その一人ひとり、またその教会を、主は喜んでくださいます。 祈り:神様、主の愛の大きさに圧倒されます。その愛の素晴らしさに応答したいという願いが、私たちの原動力でありますように。肉の思いでなく、主の導きに敏感にならせてください。アーメン

ヨハネ20

「これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。」ヨハネ20:31 ヨハネの福音書が書かれた目的がこれです。 面白い読み物としてとか、自分のために記録したとかではなく、 ・イエスが神の子キリストであることを、あなたがた(読者)が信じるため ・信じて、イエスの名によって(読者)が永遠のいのちを得るため です。 ヨハネの福音書は今日も私たち読者に問います。 公生涯、十字架、復活・・・の記事を通して、 「あなたはこの福音書が書かれた目的を受け取りますか」と。 受け取るためには、自分の知性に加えて、聖霊の働きが必要です。 都度「聖霊様、今から読む箇所をわからせてください」と祈りながら読んでみてください。 祈り:神様、聖書を読む時、聖霊の助けをいただいて読みます。 信仰を持とうかどうしようかと迷っている人に、聖霊の働きが豊かにありますように。聖書が霊感によって書かれた書物であるとわかりますように。アーメン

ヨハネ19

「これらのことが起こったのは、『彼の骨は、一つも折られることはない』とある聖書が成就するためであり、また聖書の別のところで、『彼らは自分たちが突き刺した方を仰ぎ見る』と言われているからである。」ヨハネ19:36~37 木曜集会で、テサロニケ人への手紙を読み始めました。 当時のローマ帝国は、皇帝を主、神として広大な領土を有していました。 反逆する者には容赦ない「見せしめの刑」を行いました。 最も残酷なのが「十字架刑」でした。 その刑を受けている最中にも預言が成就し、兵士が槍で突き刺した時でさえも神のご計画は成就していきました。 人間の残忍さも勝手さも、神の深遠なご計画には及びません。 罪深い人間と荒廃したこの世に、それでも神の愛と忍耐が注がれ続けていることに気づく者は幸いだと思います。今日、神の愛と恵みをいくつ数えることができるでしょうか。 祈り:神様、イエス・キリストが身代わりになって死んでくださるほどの愛を感謝します。今日立ち止まり、あなたの恵みを数えます。________のこと、______のこと、そして秋晴れの日差しも、あなたの恵みであることを覚えて感謝します。アーメン

ヨハネ18

「これは、『あなたが下さった者たちのうち、わたしは一人も失わなかった』と、イエスが言われたことばが成就するためであった。」ヨハネ18:9 捕らえるためにやって来た人に向かい、イエス様は 「わたしがそれだ、と言ったではないか。わたしを捜しているのなら、この人たちは去らせなさい(8節)」と言われました。 ご自身が全面的に裏切り者たちに向かい、弟子たちを守られたのでした。 その態度は十字架の上でも変わりませんでした。 十字架につけた者のためにさえ祈られました。 そして何より、十字架で受けられた罰は私たちを救うため、永遠の滅びから守るため、全面的にイエス様が引き受けてくださったものでした。 今日もイエス様は私たちの前に立ち、信じる者をあらゆる悪から守ってくださいます。 イエス様のこの姿は、昔も今も永遠に変わりません。 祈り:神様、罪の身代わりでイエス・キリストが十字架にかかってくださった恵みを、日々思います。この方は誰のせいにもせず、私たちの罪を背負ってくださいました。その血によってあがなわれたことに感謝します。アーメン

ヨハネ17

「あなたは子に、すべての人を支配する権威を下さいました。それは、あなたが下さったすべての人に、子が永遠のいのちを与えるためです。永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。」ヨハネ17:2~3 私たちを愛されたイエス様は、その愛を表す祈りをされました。 「すべての人を支配する権威」を与えられたのは、使役するためや苦しめるためではありません。逆にご自身が永遠のいのちを与えるためでした。 愛するため、仕えるためにその権威を用いられたのでした。 また、「わたしは彼らのためにお願いします」(9節)と、死を前にしながらも私たちの守りを祈ってくださいました。キリストにあって私たちが一つであるようにと、切に願われました。 教会には性格も環境も異なる人が集まります。それは、神の深いご計画によるものです。イエス・キリストに多くの人が出会い、永遠のいのちを得るためです。そしてキリストにあって私たちが一つとなるためです。 祈り:神様、キリストの愛に感謝します。教会の様々な人が、あなたによって集められ、世に遣わされていきます。互いに裁いたり批判したりするのではなく、主にあって一つとなり、互いに祈り仕え合えますように。アーメン

ヨハネ16

「これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を得るためです。世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」」ヨハネ16:33 イエス様の話されることとその真剣さを、弟子たちはおぼろげながら理解しました。 そして、イエス様が「神から来られたことを信じます」と言いました。 その後、イエス様は「世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました」と言われました。 弟子たちはこの後まもなく、そのことを経験し始めます。 私たちもこの世に生きている限り、種類は違っても苦難を経験します。 しかし、すでに世に勝たれたイエス様の約束は、今日の私たちにも真実です。 イエス様にあって、私たちは平安を得ることができます。 そして、イエス様は「勇気を出しなさい」と呼びかけてくださいます。 祈り:神様、イエス様のことばと約束を感謝します。世に勝利されたイエス様が私たちの主です。 今日、学校や職場でいじめにあっている人、家族や友人関係で困難を覚える人たちに、このイエス様の励ましが現実のものと感じられますように。兄弟姉妹や私の心を守り、勇気を与えてください。アーメン

ヨハネ15

「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。」ヨハネ15:5 静まりのリトリートに参加しました。 キリストのうちにとどまっているのだろうか、と自問して過ごしました。 もちろん信仰は持っているつもりだし、クリスチャンらしく歩みたいと願っています。 しかし、心が情報や周囲の人間関係の波にさらわれ、さまよい歩いているのではないかと思うことがあります。 中村佐知さんという方が、静まり(沈黙)とソリチュードの重要性を書いておられます。 それは私たちの魂がこの世のやり方や価値観に沿って形造られることを防ぎます。また、自分の中にさまざまな衝動や依存、支配願望があるという気づきを与えます。さらに、「今、ここ」にとどまることを学ばせてくれます。 キリストを離れては何もすることができない存在だという自覚が、被造物である者の私たちの歩みの第一歩であることを覚えます。 祈り:神様、私の存在はあなたのものです。何をする時にも、言う時にも、キリストにとどまり、キリストがそうさせてくださいますように。主によって今日生かされている事実を受け取ります。アーメン

ヨハネ14

「イエスは彼に言われた。『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。』」ヨハネ14:6 教会から北野田駅まで、自転車でいろいろな道を通るのが好きです。 昔ながらの細い道が多く、慣れない道を通るといまだに迷うことがあります。 それもまた楽しい発見です。 駅へ行く道には多くの選択肢があります。 しかし、父なる神のもとに行くには 「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません」と、イエス・キリストを通るしかないと聖書は語ります。回り道や別の抜け道はないのです。 イエス・キリストを信じた者には、道のガイドである聖霊様が共に住んでくださいます。 日々の歩みで戸惑うとき、知恵が必要なとき、いつでも相談できるのが、助け主である聖霊です。 「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。(26節)」 祈り:神様、あなたのみもとに行けるキリストの道を与えてくださり感謝します。今週もそれぞれの場所に遣わされて行く兄弟姉妹を、聖霊様が導き励まし、困難や試練の中でも守ってください。主の恵みを覚えて感謝します。アーメン

ヨハネ13

「さて、過越の祭りの前のこと、イエスは、この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時が来たことを知っておられた。そして、世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された。」ヨハネ13:1 あと数日という余命宣告を受けたら、何をしますか? 家族と過ごす、親友に連絡をする、手紙を書く、身辺整理をする、見たい景色を見る...人それぞれですが、そこには大切にしているものがあらわれます。 イエス様は「世にいるご自分の者たちを最後まで愛され」ました。 人々と共に時間を過ごし、神の国を語ってくださいました。 イエス様がどれほど弟子を初めとする私たちを愛してくださったかが、この1節からもわかります。 そして、イエス様が死なれるのも、私たちを愛して罪の身代わりと成るためでした。 裏切る者を知っておられたものの、13章を通して弟子たちの足を洗い、互いに愛し合い、仕え会うようにと教え、ぺテロと静かにやり取りをしてくださるイエス様の姿を見ることができます。 このイエス様の愛のまなざしを、私たちは今日も受けています。 祈り:神様、目を閉じ、静かにイエス・キリストの愛を思い巡らします。その愛が、私自身にも向けられていることに感謝します。今日、キリストの十字架の恵みをもう一度覚えながら、聖餐式に参加します。アーメン

ヨハネ12

「わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれも闇の中にとどまることのないようにするためです。」ヨハネ12:46 教会前庭の草刈りをしていて、うっかり腕時計を落としてしまいました。 気づいたのが夕方薄暗くなってからでした。刈った草のどこかに埋もれているとお思われるものの、暗がりではよくわかりません。 ところが、夫が懐中電灯で照らしてくれると、しばらくしてぴかっと時計のベルトが反射して光りました。 光の大切さと、光により見つけられることの実地学習をした思いでした。 イエス様は「わたしは光として世に来ました」と言われました。そして信じる者は闇の中にとどまることがありません。草むらに埋もれていた時計のように見いだされ、キリストの光を反映する者へと新しくされます。 それだけではなく、主のための思いを喜んでくださいます。マリアがささげた香油は弟子には愚かに思われましたが、イエス様はその心を知って喜んでくださいました。 私たちの存在も、その心も、主の光で照らされ、その光を反映できる者とされる恵みを静かに覚えます。 祈り:神様、闇の中にいた私を見つけてくださり感謝します。私の存在も心も、あなたの光で照らしてください。その光を反映する歩みに、あなたが導き入れてください。祈りながら一週間を歩んできた、愛する兄弟姉妹に主の平安と安息がありますように。アーメン

ヨハネ11

「イエスは彼女に言われた。『わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。』」ヨハネ11:25 所用であるお宅に初めて伺いました。 ご高齢ながらも親切な方で、冷たいお茶を出してくださいました。 ひとしきり話した後、奥の部屋に案内されました。仏壇に、最近なくなった息子さんの写真がありました。 外国にも滞在し見識の広かったであろう息子さんが、きっと福音にも触れておられることを思いながら、ご家族の慰めを聖書の神様にお祈りしました。 イエス様は「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです」と言われました。 イエス様を信じる者は、肉体が死んでも永遠のいのちを与えられています。何と希望に満ちているのでしょう。 教会の葬儀は寂しさや悲しみだけでなく、キリストの慰めと平安でおおわれています。 御国で再会できるという希望が、年ごとに何と幸いで恵みなのかを実感します。 一人でも多くの方が、キリストに出会い、永遠のいのちを持ち、福音を家族に分かち合って永遠の望みを持つことができますように。 祈り:神様、主にある永遠のいのちの望みを感謝します。今年愛する家族との別れを経験した___さん、____さんに主の平安がありますように。家族の皆が、イエス様にある永遠のいのちを受け取ることができますように。アーメン

ヨハネ10

「わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら救われます。また出たり入ったりして、牧草を見つけます。」ヨハネ10:9 近所を散歩していると、文化財のように立派な門構えの家がありました。だれも押し破ることのできないような門と塀でした。 しかし、その家の裏側は畑で塀がありません。 もし私がそれをよいことに、いきなり裏から入ったら不審者です。家には入れてもらえないでしょう。門から入るのが来訪の方法だからです。 私たちも、イエス様という門を通って入るよう招かれています。それはイエス様を救い主として信じることによります。 そうすれば、羊が門の中で安心して憩うように、平安を持つことができます。 イエス様は「わたしは良い牧者です」(11、14節)とも言われました。羊のためにいのちを捨てるほどの牧者であるイエス様を信じる恵みを覚えます。 祈り:神様、あなたが救いの道を与えてくださり感謝します。門であり良い牧者であるイエス様を見上げます。ご近所の、なかなか会えない方々、門構えの奥で過ごす方々に福音を分かち合う機会を与えてください。配られるトラクト1枚1枚を用いてください。アーメン わたしの羊たちはわたしの声を聞き分けます。わたしもその羊たちを知っており、彼らはわたしについて来ます。27 盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかなりません。わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです。10

ヨハネ9

「イエスは答えられた。『この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。』」ヨハネ9:3 個人的には、この章に何度となく励まされ慰められてきました。 障がいを持ったのは誰のせいでもなく「神のわざが現れるため」とイエス様が語ってくださったからです。 癒しのわざは素晴らしいですが、それだけではありません。 この人が、ありのままで証しする者となっていることも素晴らしいです。 ・こういうわけで再び、パリサイ人たちも、どのようにして見えるようになったのか、彼に尋ねた。彼は、「あの方が私の目に泥を塗り、私が洗いました。それで今は見えるのです」と答えた。15節 ・彼は答えた。「すでに話しましたが、あなたがたは聞いてくれませんでした。なぜもう一度聞こうとするのですか。あなたがたも、あの方の弟子になりたいのですか。」27節 ・私たちは知っています。神は、罪人たちの言うことはお聞きになりませんが、神を敬い、神のみこころを行う者がいれば、その人の言うことはお聞きくださいます。31節 ・彼は「主よ、信じます」と言って、イエスを礼拝した。38節 主のご栄光が、この人を通して現れているのがわかります。 祈り:神様、あなたがどんな人でも用いてくださることを感謝します。障がいを持って生まれた、あるいは途中で障がいを持った人たちへの、イエス様の変わらぬ愛のまなざしを感謝します。___さん、___さんの生涯が、主にあって輝きご栄光のために用いられますように。アーメン

ヨハネ8

イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』なのです。」ヨハネ8:58 「わたしはある(I AM)」とは、神様がモーセに出エジプト記3章14節で語られたことばを思い出します。 そして、イエス様もまさしくそのことに言及しながらご自身を明らかにされました。 アブラハムが生まれたのは、過去のある時点でした。しかし、イエス様は世の初めからおられ、永遠におられる方です。 「I AM」と現在形が使われています。 どんなに世が暗くても、私たちに悩みがあっても、神は変わらずここにおられます。 「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」(12節) 「あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。 32 あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」(31、32節) 祈り:神様、世の光であり、真理のことばであり、わたしたちに自由を与えてくださるイエス・キリストが、今日も変わらず生きておられることを信じます。 イエス様に出会い、真理を知り、希望を持つ方が起こされますように。悩みの中にある___さん、____さんに主にある希望と解決を与えてください。アーメン

ヨハネ7

「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の059心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」 」ヨハネ7:38 当時は、祭司が祭儀用の水をシロアムの池(貯水槽)から神殿に日々運んで来たと言われています。 水は神へのささげ物として、賛美とともに儀式の中で祭壇に注がれました。 続く39節には 「イエスは、ご自分を信じる者が受けることになる御霊について、こう言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ下っていなかったのである」とあります。 イエス様はご自分を信じる者には聖霊が与えられ、心の奥底から「生ける水の川」として流れ出ると言われました。 尽きることのない水源のように、信仰者に与えられた聖霊が自由に流れ続けてくださると約束されています。 季節の変わり目で夏の疲れが出る頃です。気力がわかないこともあります。 しかし自分の力ではなく、聖霊の力が働いておられる事実を認めたいと思うのです。 余計なことはせず、静まって聖霊の語りかけを待ち望みます。 祈り:神様、心も身体も疲れ気味の方々をねぎらってください。あなたの愛で励まし聖霊様で心を満たしてください。必要な休息と静まりの時間が与えられますように。アーメン

ヨハネ6

「わたしはいのちのパンです。」ヨハネ6:48 聖餐式は楽しみですか?毎月行う教会もあれば、毎週行う教会もあります。いずれにしても、キリストの教会はこの礼典を大切にしています。 イエス様はご自身を「いのちのパン」と表現されました。 信じる者は肉体は滅びても、霊的な永遠の「いのち」を持っています。 聖餐式は、十字架で裂かれた主の肉体と流された血を覚えて行います。 「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。(54節)」 という意味をかみしめながら行います。ぶどう液とパンを通して、十字架の恵みを思い起こします。 月1回として、1年に12回、10年で120回。主の恵みを改めて思い起こす、貴重な機会です。体調を整えて臨む方々の中に、キリストの愛を味わい応えたいという熱い思いを感じます。 祈り:神様、主イエス・キリストの十字架の恵みと意味が、ひとり一人の心に迫りますように。からだを「いのちのパン」として差し出してくださった熱い愛を、さらに多くの方が知ることができますように。アーメン

ヨハネ5

「そこに、三十八年も病気にかかっている人がいた。」ヨハネ5:5 袴田さんの無罪判決が出ました。冤罪だと言われてからも長い年月がかかり、事件から60年近くを経ての判決でした。 お姉さんの笑顔が印象的でした。 ところが、ご本人は判決を聞いても自身のこととはピンとこないようでした。長年精神の極限状態を経験した人なのだと、改めて考えさせられました。 38年間ベテスダ池のそばにいた人も、自分が癒されるとは思えなくなっていました(「良くなりたいか」と聞かれた後の返答、7節)。 癒された後に尋ねられると、誰が癒してくれたのかわかりませんでした(13節)。 後になってイエス様だと知ったこの人は、その時に救い主をはっきり知ることができました。 私たちも、イエス様の救いを知りながらピンと来ていないところがあるかもしれません。長年の自己中心的な歩みのせいであったり、肉の習慣に引きずられていたり、いろんな原因があるでしょう。 救いと罪からの解放ということの大きさをじっくり思い巡らし、味わい、感謝を新たにする秋になりますように。 祈り:神様、あなたの救いがぼんやりとしているところがあるなら、その意味がよくわかるように助けてください。もうわかったつもりでも、さらにその素晴らしさと主の愛の大きさに気づかせてください。アーメン

ヨハネ4

「ですから、『一人が種を蒔き、ほかの者が刈り入れる』ということばはまことです。」ヨハネ4:37 以前狭山の教会に来られていた方が、他の教会で洗礼を受けたという知らせを聞くことがあります。 逆に、よその教会のチラシを見て狭山の教会に来られる方もおられます。 どちらにしても、福音を分かち合うのは神様が私たちに託された共同作業です。 縄張りはなく、独り占めでもなく、互いに協力し福音の収穫を喜び合うのだと、教会も、そしてひとり一人も、いつも意識していたいものです。 祈り:神様、ひとりの救いには多くの人々と祈りがあることを覚えます。___さんの救い、___さんの信仰のリバイバルを祈ります。近隣の____教会、____教会のために祈ります。主にあって共に歩む信仰者の群れを祝福してください。アーメン

ヨハネ3

「神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。」ヨハネ3:17 夏の疲れが出てくる頃です。教会もいくつか行事が重なりました。 疲れると、些細なことが気になったり、対人関係の距離感が難しかったりします。 静まって神様の安息にひたる時間が必要な時期かもしれません。 16節の「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」 は、聖書の中の聖書と言われる有名な箇所です。 さらに、続く17節でも、神が御子を世に遣わされたのは、「さばくためではなく、御子によって世が救われるため」だと述べられています。 神様は良いお方です。私たちが日々生きるのも、神様の愛の上に土台を置いているから平安です。様々なことに目が向いてしまうほど疲れたら、今ひとたび自分の足はどこに土台を置いているかを確かめたいと思います。 祈り:神様、。あなたの愛に感謝します。今両手を広げ受け取ります。私の今日の歩みの足を、あなたの愛の上に置きますから導いてください。 疲れを覚えている___さん、___さんのために。 能登半島に住む人々のために、心が支えられ、実際的な助けが満たされるようお祈りします。アーメン

ヨハネ2

「それで、イエスが死人の中からよみがえられたとき、弟子たちは、イエスがこのように言われたことを思い起こして、聖書とイエスが言われたことばを信じた。」ヨハネ2:22 イエス様は「この神殿を壊してみなさい。わたしは、三日でそれをよみがえらせる」(19節)と言われました。 それは、46年かかって建てられたエルサレム神殿の建物ではなく、イエス様ご自身のからだという神殿(21節)についてでした。 十字架にかかって「壊れた」ように思われた主のからだは、三日目によみがえりました。しかも、今も生きておられます。 「イエス・キリスト」という名前は、偉人として日本人の多くが知っています。しかし、その方が救い主であり、今日の私たちを愛して十字架にかかったことをどれだけの人が知っているでしょうか。三日目によみがえり今も生きておられる主であることを知っている人は、ごくわずかです。 先に知った私たちは、そのよい知らせを分かち合うよう召されています。 祈り:神様、復活のからだでよみがえられたイエス様が、今も生きておられ、私たちの人生と大きな関係があることに感謝します。今日職場で、学校で、近隣で、家庭で、どのように福音を分かちあえるか、そのための備えができるのか、歩みの中で教えてください。アーメン

ヨハネ1

「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」ヨハネ1:14 チャリティーコンサートがありました。地震と大雨が重なった能登のためにささげられます。 ヨハネの福音書は「すべての人を照らすまことの光」であるキリストを宣言することから始まっています。 ことばであるこの方は人となり、私たちの間に住まわれ、恵みとまことに満ちておられました。 この方は「父のみもとから来られたひとり子としての栄光」を現されました。 暗いニュースが多い世の中にあっても、私たちは同じキリストの栄光を今日見出だすことができます。 祈り:神様、キリストの栄光を私たちが今日見いだすことができるよう、霊の目を開いてください。あなたの希望がこの日本に広がりますように。自分のことだけでなく、日本や世界のために祈れるよう、私の祈りを開いてください。アーメン

ルカ24

「二人は話し合った。『道々お話しくださる間、私たちに聖書を説き明かしてくださる間、私たちの心は内で燃えていたではないか。』」ルカ24:32 「心は内で燃えていた」 とふりかえる二人の弟子でした。 彼らはそれを流してしまいませんでした。 ただちに立ち上がってエルサレムに戻り、道中のことを話しました。 エルサレムにいた十一人と仲間も、イエス様が復活されたことを話していました。 これらのことを話していると、イエスご自身が彼らの真ん中に立ち、「平安があなたがたにあるように」と言われました(36節)。 さらに焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で召し上がられました(42~43節)。 あかしと分かち合いが励ましだけでなく、主の臨在を共に喜ぶ時となりました。 今日も、教会ではあかしと分かち合いが行われています。そしてその中止にはイエス様がおられます。 祈り:神様、共に分かち合い祈り合える、霊の兄弟姉妹を感謝します。主のからだである教会につながる幸いを、感謝しつつ今週も歩みます。アーメン

ルカ23

「百人隊長はこの出来事を見て、神をほめたたえ、『本当にこの方は正しい人であった』と言った。」ルカ23:47 聖書の中でも最も暗い章の一つです。神の子を十字架にかけて殺すという場面です。 しかし、23章の暗闇の中で、一筋の光が見えるような節があります。 イエス様の姿が信仰をもたらした人々の様子が出てくる節です。 イエス様の無実を信じ、「あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます」と言われた犯罪人の一人(41~43節)。 「本当にこの方は正しい人であった」と言った百人隊長(47節)。 議員たちの計画や行動に同意せず、ピラトのところに行って、イエス様のからだの下げ渡しを願い出たアリマタヤのヨセフ(50~53節)。 絶望に思える時でさえ、神様は生きておられ、人の心に働かれます。 神にある希望はなくなることがありません。 私たちの歩みも、どんなに暗く思えても、そこに主が生きて働いておられます。 祈り:神様、私たちにはわからない状況でも、そこに働いておられることを信じてあなたに信頼します。孤立無援に思える時、主が共にいてくださることが感じられますように。難しい状況を通っている___さん、____さんに主の希望が確信と共に感じられますように。アーメン

ルカ22

「しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」32節 まもなく捕えられ十字架にかけられることを、イエス様は知っておられました。ぺテロがご自身を否認することも知っておられました。 そうした極限の状況で、ぺテロのために祈り励ましてくださったのでした。 「あなたがたの間で一番偉い人は、一番若い者のようになりなさい。上に立つ人は、給仕する者のようになりなさい。(26節)」と語られた以上のことを、イエス様は身をもって示されました。 この方が、私たちのことを愛し続けてくださらないわけがあるでしょうか。いいえ、徹底的に愛し、いのちをささげ、世の終わりまで私たちと共にいてくださいます。 この方のお名前を通して、私たちは祈ります。仲保者であり、祈りを聞き届けてくださる方であることを信じています。「イエスの御名」には力があります。 祈り:神様、キリストの愛を感謝します。この方のお名前を通して祈ることが許されていることに感謝します。この特権を受け取ります。 ____のことも、_____のことも、イエス様にますます信頼して祈ることができますように。アーメン

ルカ21

「これらのことが起こり始めたら、身を起こし、頭を上げなさい。あなたがたの贖いが近づいているからです。」ルカ21:28 私は子どもの頃、終末の話が怖くてたまりませんでした。一人置き去りにされ、見捨てられたらどうしようかと、その恐怖におびえました。幸い、今は黙示録が希望に満ちていることに気づき、その恐怖から脱出することができました。 一般に終末が恐ろしく感じられるのは、映画や小説で滅亡の場面が出てくるからでしょうか。苦難ばかりが強調されるからでしょうか。 たしかに、聖書には苦難が記されています。 しかし同時に、終末がキリストの再臨と栄光、歴史の完成である輝かしい時であることが約束されています。それは、信仰者の完全な贖いの時でもあります。 「しかし、あなたがたは、必ず起こるこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈っていなさい。」(36節) とあるように、注意深く主に聞き、信仰から離れることなく過ごしているなら大丈夫です。 信仰者にとっては、恐れる必要はありません。 むしろ、終末を待ち望み、預言の成就を期待するというのが健全な姿勢です。 祈り:神様、歪んだ恐怖でなく、キリストと共にいるなら大丈夫だという平安を私たちに与えてください。「マラナタ(主よ、来てください)」と祈った初代教会の信仰者のように、キリストの再臨の素晴らしさを期待します。信仰を強め、希望をもって祈る者にしてください。アーメン

ルカ20

「彼らは、民の前でイエスのことばじりをとらえることができず、答えに驚嘆して黙ってしまった。」ルカ20:26 政治家や実業家が、ふと漏らした一言で大変な批判を受けたり失職したりするのをニュースで見聞きします。 私自身も、発言が意図しないニュアンスで記録されたことがあります。自分の言葉足らずを反省するものです。 エルサレムでのイエス様は、十字架にかかられることを知りつつも、一つ一つに的確に対応されました。 宗教リーダーたちが何とか陥れようとしますが、ことごとく失敗します。 この態度と知恵を見るだけでも、不完全な人間には真似ができません。 イエス様が普通の人ではなく神の子、キリストであると知り得ます。 祈り:神様、イエス・キリストが神の子として地上に来てくださり、もう一度来られるといういう約束を感謝します。不完全な私たちの言葉や態度が相手を傷つけたり、傷つけられたりします。そのたびにキリストの元で悔い改め、ゆるすことができますように。兄弟姉妹が今日直面する人間関係を祝福し、そこでの問題に解決が与えられますように。アーメン

ルカ19

「それで、先の方に走って行き、イエスを見ようとして、いちじく桑の木に登った。イエスがそこを通り過ぎようとしておられたからであった。」ルカ19:4 小学生の頃、ザアカイの話が大好きでした。 自分と同じように小さくて、それでもイエス様をひとめ見ようと木に登ったこと。イエス様がちゃんと彼に気づいていて、声をかけてくださったこと。そして、彼が自宅に招いて、今までの悪い行いを悔い改め、償うと決心するハッピーエンドであること。 子どもの心は、ザアカイと一緒にそばのいちじく桑の木へ走り、よいしょ、よいしょと木に登り、どきどきしながら彼と一緒に木の上から道を見下ろすのでした。 今も、教会で子どもたちが目を輝かせて聖書の話を聞いています。1回1回がかけがえのない種まきの機会だと教えられます。 子どものために、また子どものような開かれた心を持った人のために、教会は祈り仕える幸いを託されています。 祈り:神様、教会に来る子どもたちに福音がまっすぐに入りますように。毎週はもちろん、キャンプやクリスマスの機会も用いさせてください。心を開いて集う大人にも、十字架の恵みと主の愛がまっすぐに届きますように。____さん、____さんを覚えてお祈りします。アーメン

ルカ18

「イエスは言われた。『人にはできないことが、神にはできるのです。』」ルカ18:27 教会にいると、このことばを実感します。 さまざまなきっかけで教会を訪れる方がいます。誘われたわけでもないのに、行ってみようと思う方もいます。 長年「信じられない」と悩んでいた人が、あるとき救いを受け入れるお祈りをされます。そして洗礼を受けます。 誰からも強制されていないのに、喜んで教会の奉仕をします。礼拝が楽しみになります。 その他にも不思議な思いや導きを、じわじわと体験します。 すべて、人のわざではありません。神がそのようにしてくださるのです。 私への聖霊の働きが、確実に日々あることに気づきます。 祈り:神様、人にはできないことがあなたにできることを信じます。私にも日々聖霊が働かれ、導いてくださることを感謝します。____さん、____さんが、あなたの導きに確信を持てますように。アーメン

ルカ17

弟子たちが、「主よ、それはどこで起こるのですか」と言うと、イエスは彼らに言われた。「死体のあるところ、そこには禿鷹が集まります。」ルカ17:37 再臨のときまでに起こることをイエス様が説明されると、弟子たちは「主よ、それはどこで起こるのですか」と尋ねました。 イエス様の答えは「死体のあるところ、そこには禿鷹が集まります」でした。 これは、死体にはげたかが群がるように、当然の帰結、結果であるという意味です。 再臨までのプロセスが必ず起こるのだということを言われました。 もっとも、怖がる必要はありません。聖書の預言を通して神様はご計画を示し、約束を果たしてくださいます。 そして、主のご計画は希望を与えるものです。 黙示録を読むオンライングループに参加しました。聖書を少しずつ、丹念に読み、祈り、思いめぐらし、主のご計画と希望を学びたいと思っています。 祈り:神様、終わりの時までのご計画が、信じる者にとっては決して恐ろしいものではないことを感謝します。主に期待し、みことばの約束を見上げて歩めますように。私たちの生涯に、あなたのご計画がなされていきますように。アーメン

ルカ16

「最も小さなことに忠実な人は、大きなことにも忠実であり、最も小さなことに不忠実な人は、大きなことにも不忠実です。」ルカ16:10 「不正な管理人のたとえ」が語られます。 イエス様は、不正をほめられたわけではありません。 そうではなく、賢く行動したその知恵について言われたのです。 富やお金自体は悪いものではありません。しかし、それを偶像のように扱う人の何と多いことでしょう。 地上の富は、天の国に比べたら些細なものです。過度に心奪われず、どのように管理しおじけず上手に用いるかが問われています。 今日、与えられた最も小さなこととは何でしょう。それを誠実に行うことから、信仰生活を実践することができます。 祈り:神様、私の心が小さなことにも忠実でありますように。祈り、聖霊に頼って判断し、今週も歩めますように。日常の中に主の栄光が表れますように。アーメン

ルカ15

「あなたがたに言います。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人のためよりも、大きな喜びが天にあるのです。」ルカ15:7 一人が主の元に戻ってくるのが、どれほど天で素晴らしい喜びかが連ねられています。 ・100匹の羊のうち1匹がいなくなり、それが見つかった ・銀貨10枚のうち、なくした1枚が見つかった ・放蕩の限りを尽くした弟息子が帰ってきた 「私一人くらいいなくてもたいしたことがない」という考えを、聖書は完全に否定します。あなたには価値がある、というのが聖書のメッセージです。 元ヤクザの方が紆余曲折の上に改心し、とうとう洗礼を受けることになったそうです。洗礼式の日に、天使たちが「生まれたよ!」「生まれたよ!」と叫ぶ幻が見えたそうです。 「だが、おまえの弟は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのは当然ではないか。(32節)」という父親のように、神様は一人がご自身の元に帰ってくることを喜んでくださいます。 祈り:神様、私がキリストを信じた時、どれほど喜んで迎えてくださったかを思います。私たちを愛してくださり感謝します。私たちも、一人の救いを天使と共に喜びます。明日の敬老礼拝、特別集会に期待します。アーメン

ルカ14

「あなたがたのうちに、塔を建てようとするとき、まず座って、完成させるのに十分な金があるかどうか、費用を計算しない人がいるでしょうか。」ルカ14:28 ある友人が、「神様のものを賢く管理する」という人間の責任について、この節が大きな励ましだと話してくれました。 その人は不動産など、多くのものの管理を任されているそうです。 それらの管理は片手間でできるものではなく、専門家に相談し、誠実に税金や費用を納め、よい状態に保っていくために大きな労力と時間がかかる、とのことでした。 大きな財産を託される人には、私には想像もつかない苦労があるのだなあと思いました。 しかし、私たちには時間という貴重な資産が日々平等に与えられています。また、身のまわりにあるものは、私たちが管理を託されています。 今日着る服も、与えられていることに感謝し身に付けたいと思います。 祈り:神様、与えられているものに感謝します。量や種類は違っても、日々私に託されているものを感謝して管理できますように。教会に与えられている環境や状況にも感謝します。アーメン

ルカ13

「そこで、イエスはこう言われた。『神の国は何に似ているでしょうか。何にたとえたらよいでしょうか。』」ルカ13:18 続けて言われました。 1. それはからし種に似ています。ある人がそれを取って自分の庭に蒔くと、生長して木になり、空の鳥が枝に巣を作りました。(19節) 2. それはパン種に似ています。女の人がそれを取って三092サトンの粉に混ぜると、全体がふくらみました。(21節) 共通点は からし種もパン種も、小さな種であること その種から、全体がとても大きくなること です。 そしてもう一つ、「人が種を取って蒔く(入れる)」ことです。 種を造られたのも大きくしてくださるのも神様です。ただ、私たちにゆだねられているのは、与えられた種を「取って蒔く(入れる)」ことです。 宣教は人と神との共同作業です。神様がそのように、私たちにも役割を与えてくださったことを光栄と受けとり、応答したいと思います。 祈り:神様、神の国について教えてくださり感謝します。小さな者にもともに関わる機会を与えてくださっていることを覚えます。成長させてくださる神様をあおぎながら、今日も聖霊によって歩ませてください。アーメン

ルカ12

「主は言われた。『では、主人によって、その家の召使いたちの上に任命され、食事時には彼らに決められた分を与える、忠実で賢い管理人とは、いったいだれでしょうか。 主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見てもらえるしもべは幸いです。』」ルカ12:42~43 先週のある夜、町内会の帰りのことです。道端に黒い財布が落ちていました。現金だけが入っており、名前はありませんでした。しかし、会社のマークが財布にあり、業務用のようでした。それですぐに連絡しお渡しすることができました。 クリスチャンならば、誰でも同じようにするでしょう。直接お返しするなり警察に届けるなり、所有者の手元に届くように行動することと思います。 聖書のいう賢い管理人とは、すべての所有者である神のために管理する人のことです。 地上にあるものを、神様の望まれるように用い、最終的には神様にお返しすることです。 今日手元にゆだねられているものを、どのように用いることが神様の喜ばれることでしょうか。管理が苦手だと思う人(私を筆頭に)こそ、浪費からもケチな心からも守られるよう、よい使い方ができるよう日々祈りたすごしたいです。 祈り:神様、あなたの知恵を頂いて、時間、体力、お金、賜物、その他与えられているものを使うことができますように。あなたが一人一人を管理人として召してくださいました。ゆだねられたものをみこころに従って用いることができるよう、今日も教えてください。アーメン

ルカ11

「私たちの日ごとの糧を、毎日お与えください。」ルカ11:3 礼拝の子どもメッセージは、出エジプトの民に日々マナが与えられる箇所でした。 肉体の食物だけでなく、霊の食物も与えてくださいと日々祈る者に、神様は必要を必ず与えてくださいます。 「ですから、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っています。それならなおのこと、天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます。(13節)」 祈り:神様、日々の必要を与えてくださり感謝します。肉体の必要と同じくらい、霊の必要について気づき、求めることができるように助けてください。アーメン

ルカ10

「主は答えられた。『マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています。しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。それが彼女から取り上げられることはありません。』」ルカ10:41~42 教会の中には、さまざまな性質や特性を持つ人が集まっています。 そして、神様が一人一人に望まれることも違います。 マリアのように、そこでじっとみことばに聞く存在奉仕もあれば、 マルタのようにもてなしや実働の奉仕もあります。 大切なのは、それぞれが主の願われることをし、 互いにさばかないことです。 感性も違えば理想も違う、しかも不完全な人間の集まりです。 そしてその集まりはキリストのからだであり、キリストに花嫁のように愛されています。 なんという不思議、あわれみ、感謝でしょう! 祈り:神様、教会に集められている一人一人を感謝します。誰かをさばきそうになった時、自分自身の至らなさに思いをはせ、何よりも主の忍耐とあわれみに感謝することができますように。アーメン

ルカ9

「さて、天に上げられる日が近づいて来たころのことであった。イエスは御顔をエルサレムに向け、毅然として進んで行かれた。」ルカ9:51 イエス様はついてきた群衆を喜んで迎え、神の国のことを話し、また、癒やしを必要とする人たちを治されました(11節)。 5つのパンと2匹の魚から、群衆を養われました。 悪霊につかれた息子を癒されました(42節)。 一人の子どもの手を取って、自分のそばに立たせ、一番小さい者が一番偉いと言われました(48節)。 やさしく、あわれみに満ちたまなざしの一方、ご自身の召しについては徹底的に父なる神に従われました。 十字架にかかるために、自らエルサレムに「毅然として進んで行かれた(51節)」のでした。 また、時に厳しく弟子たちを戒められました。 厳しさと優しさが両立することを、イエス様自身の中に見ることができます。 戒める勇気と、慰め励ます愛の両方を、私たちにも与えてくださいと祈ります。 同時に、他者からの戒めも愛と同様、素直に受けとることができますようにとも願います。 祈り:神様、私の心を守ってください。主にある勇気と謙遜さを、イエス様の姿から学びます。恵みも戒めも、受けとることができますように。アーメン

ルカ8

「また、別の種は良い地に落ち、生長して百倍の実を結んだ。」イエスはこれらのことを話しながら、大声で言われた。「聞く耳のある者は聞きなさい。」ルカ8:8 酷暑の8月よりも、朝晩しのぎやすくなった9月の方が、雑草が茂ります。 教会の駐車場にも、あっという間に雑草がのびてきます。 雑草の生える地は、一見緑ですが、「良い地」とは限りません。 かちかちで、雑草の根が強すぎることもあります。 種のたとえで言えば「茨の地」でしょうか。 対して良い地とは、耕され、雑草を取り除かれ、黒色のふかふかした土の場所です。 ぱっと見ただけの緑でなく、今はむき出しの大地でも、やわらかさと備えができている土地です。 人のうわべや表面的なやり取りだけでなく、その奥の心まで判別されるのは神の霊です。聖霊に聞きながら「平安の子」と出会い、福音の種まきができますように。 祈り:神様、あきらめることなく、しかし空を打つようなことなく、あなたが導いてくださる所にみことばの種をまかせてください。収穫の秋のように、救われる人を起こしてください。アーメン 「しかし、良い地に落ちたものとは、こういう人たちのことです。彼らは立派な良い心でみことばを聞いて、それをしっかり守り、忍耐して実を結びます。」ルカ8:15

ルカ7

「主はその母親を見て深くあわれみ、『泣かなくてもよい』と言われた。」ルカ7:13 「言行一致」ということばがあります。イエス様ほどそのことばと行いが一貫していた方はいませんでした。 6章ではさばかないこと、あわれみ深くあることを教えられました。 そして7章では息子を葬る母親に会い、深くあわれまれました。 死人をよみがえらせた奇跡がその後に記されています。 悲しんでいますか?落ち込んでいますか?主はそんな私たちを見て、今日も深くあわれんでくださいます。「泣かなくてもよい」と声をかけてくださいます。 その方の元に身を避けるとき、慰めとあわれみの大きさを知ります。 木曜集会では「恥」がテーマでした。 私たちが恥意識を覚える時も、イエス様はあわれんでくださいます。 どうしようもない時でも、身を避ける場所があります。 祈り:神様、私の持っている恥、悲しみ、落胆をあなたの元に持っていきます。 あなたの深いあわれみで、私を救ってください。 今落胆している___さん、___さんを、あなたが慰めてください。アーメン

ルカ6

「与えなさい。そうすれば、あなたがたも与えられます。詰め込んだり、揺すって入れたり、盛り上げたりして、気前良く量って懐に入れてもらえます。あなたがたが量るその秤で、あなたがたも量り返してもらえるからです。」ルカ6:38 「与える賜物」という表現があります。 クリスチャンは皆、キリストの十字架の恵みに応答して喜んでささげる者ですが、中でもささげること、与えることが喜びだ、という人がいます。 その人が特別裕福とは限りません。 むしろ、普段はつつましく暮らしておられる人がほとんどだと思います。 でも、宣教や助けのために必要だとわかると、気前よくささげます。 額そのものというより、その人の姿勢が周囲や教会を励まします。 そして、神様はその人を守られます。 「若かったころも年老いた今も 私は見たことがない。  正しい人が見捨てられることを。その子孫が食べ物を乞うことを。(詩篇37:25)」 祈り:神様、私に与える心を増し加えてください。聖書の約束に信頼し、神様に信頼する心を与えてください。祈る心を加えてください。______、______の働きのためにお祈りします。アーメン

ルカ5

「話が終わるとシモンに言われた。『深みに漕ぎ出し、網を下ろして魚を捕りなさい。』」ルカ5:4 シモンたち漁師は網を洗いながら、不漁の夜を思いめぐらしていたでしょうか。 舟から群衆を教えるために、イエス様は舟を陸から少し漕ぎ出すよう頼まれました。 群衆に語られることばを、シモンはどんな気持ちで聞いていたでしょうか。 きっと彼の耳にはイエス様の教えが入っていたのだと思います。 その後のイエス様のことばに従い、彼は網を下ろしました。プロの漁師ならありえない見立てでしたが、ことば通りに魚がおびただしくとれました。 漁師の心をイエス様が段階を追って柔らかくし、ご自身にすすんで従うことができるように導いてくださいました。 イエス様は、私たちを無理矢理引きずっていく方ではありません。私たちの心の動きをよく知り、紳士的に導いてくださる方です。 祈り:神様、あなたは人の心を一番よく知っておられる方です。私の心も、そして___さんの心も知っておられ、導き優しく変えることのできる方です。まず私自身を整えてください。アーメン

ルカ4

「しかしイエスは、彼らにこう言われた。『ほかの町々にも、神の国の福音を宣べ伝えなければなりません。わたしは、そのために遣わされたのですから。』」ルカ4:43 働きを終え別の所に移動する宣教師、新たに開拓を始める牧師・伝道師、あちこちを回る巡回伝道者...。 その生きざまを尊敬し、指導を受けていた人と会えなくなるのはとても寂しいことです。 しかし、神様の導きに従い出ていく人たちの、勇気と従順に励まされもします。 その姿は使徒パウロのようでもあります。 そして、そのパウロはイエス様の教えに従いました。 イエス様ご自身が「ほかの町々にも、神の国の福音を宣べ伝えなければなりません」とご自身の使命からぶれることがありませんでした。 今日も同じように使命に従う人たちを祈りに覚え、支えるミッションが私たちにも与えられています。教会の掲示板にある宣教師や団体のニュースレター、献金先からの情報...。それらに関心を持ち、祈り心で読むことも、宣教の第一歩です。 祈り:神様、あなたの召しに従い出ていく宣教師や牧師、伝道者たちを覚えます。今____で、困難の中主の働きに励む方々に、あなたがねぎらい、報いてください。私にできることを教え、実行に移すことができるよう導いてください。アーメン

ルカ3

「イエスは、働きを始められたとき、およそ三十歳で、ヨセフの子と考えられていた。ヨセフはエリの子で、さかのぼると、...」ルカ3:23~ マタイに続き、ルカ3章でも系図が出てきます。今度はヨセフ側です。 厳密には、イエス様とヨセフは血がつながっているわけではありませんでした。 それでも、処女降誕からマリアと共にイエス様の成長を見守り、エルサレムで3日間行方不明の彼を捜しまわり、地上で家族として歩みました。 このヨセフも、さかのぼると「アダム、そして神に至(38節)」ります。 ヨセフを造られた神様は、彼の生涯と地上での召しを明確にもっておられました。 彼の存在はそれほど目立たなかったかもしれませんが、イエス様を育てるという彼の果たした役割は、救いの計画のために特別に備えられたものでした。 私たちも、それぞれに役割を神様から与えられています。 人と比較しなくても、それが神の望まれる歩みなら、最大限に意味のある人生だといえます。 祈り:神様、私に備えてくださった環境や歩みを受け取ります。幸せそうな他者と、表面で比較することがないよう守ってください。様々な事情で一人で子育てをしている___さん、____さんと子どもたち、里親と子どもたち、最近別離を経験した人たちに、主の力強い御腕と愛が感じられますように。アーメン

ルカ2

「すると、イエスは両親に言われた。『どうしてわたしを捜されたのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当然であることを、ご存じなかったのですか。』」ルカ2:49 台風10号が迷走し、予想とかなり異なるコースを進みました。また、上陸した地域だけでなく、離れた場所で雨の被害が出ました。 これだけスーパーコンピューターや予報技術が発達しても、私たちの知恵や知識に限界があることを改めて感じました。 12歳のイエス様がエルサレムからの帰り道で行方不明になりました。 同行グループの中にもいなかったので、両親はエルサレムまで引き返しました。 探し回って三日後、イエス様が宮で教師たちの真ん中に座って、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけました(41~46節)。 3日間も行方不明では、事件や事故に巻き込まれたのではないかと心配します。 今のようにSNSがあったら呼び掛けたことでしょう。しかし、見つかったかどうかはわかりないと思うのです。 私たちの力の限界、テクノロジーの限界は、今日でもなおあります。 もっとも、この出来事は神の御手のうちにありました。「自分の父の家にいる」とイエス様が言われた通り、神の守りほど確かなものはありません。 同じ神の守りを、今日も私たちはいただいています。 祈り:神様、何でもコンピューターや検索、SNSに頼りがちな私たちです。しかし、あなたの守り以上に頼みにすることがありませんように。じっとあなたの御前に静まり、黙想する時間のじゃまにならないよう、スマホやメディアとの付き合い方を教えてください。台風の被害や影響を受けた地域の教会を励ましてください。私たちも数年前の被害とその後の主のみわざを思い起こし、記念し感謝したいです。アーメン

ルカ1

「私も、すべてのことを初めから綿密に調べていますから、尊敬するテオフィロ様、あなたのために、順序立てて書いて差し上げるのがよいと思います。それによって、すでにお受けになった教えが確かであることを、あなたによく分かっていただきたいと思います。」ルカ1:3~4 日記をつけたことがありますか? 日々献立や一日の出来事を書き留めていた一主婦が、夫のアリバイを立証して冤罪から救ったというドラマの場面を見たことがあります。 ルカも、初めからこつこつと調べ、書き表していきました。 直接的には福音を聞いたテオフィロがよく理解するためでした。 そして、聖霊が導いて書いたルカの福音書は、主が働かれて「福音書」として世界中の人に2000年にわたってキリストの福音を示しています。 私たちの平凡な日々の歩みの中にも、主があかしとして書き留めてほしいということがちりばめられています。今日、どんなことを発見するでしょうか。 祈り:神様、キリストの愛がよくわかるようにと、福音書を与えてくださり感謝します。私の日々の歩みも、あなたの前に覚えられていることを受け取ります。恵みを忘れず、あかしとできるよう導いてください。アーメン

マルコ16

「彼女たちは墓を出て、そこから逃げ去った。震え上がり、気も動転していたからである。そしてだれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」マルコ16:8 あまりにも予想外のことに驚くと、腰がぬけたり体が固まってしまったりします。 体験をなかったことにしようというバイアスが働くことも、現在知られています。 マルコの福音書が女性たちのとっさの反応をこのように書いたのは、不信仰を責めようとしたのではありません。 かえって、復活が事実であることが裏付けられています。 復活の主にたしかに出会ったからこそ、そのときに人間の自然な反応があったのです。 当時生きていたなら、私もきっと同じようになったでしょう。 その後、補遺にあるようなことが続いたのでしょう。 祈り:神様、復活してくださったことを、人間の弱さゆえの反応からも示してくださり感謝します。 九州をはじめ、台風のひどい被害で頭が真っ白になっている人に、あなたの励ましと回復がありますように。イエス・キリストが、すべての痛みや重荷を背負ってくださることに安息できますように。アーメン

マルコ15

「マグダラのマリアとヨセの母マリアは、イエスがどこに納められるか、よく見ていた。」マルコ15:47 主であり神であるイエス・キリストが十字架にかかるという、極めて重大な世界の歴史の転換点が 「それから、彼らはイエスを十字架につけた。そして、くじを引いて、だれが何を取るかを決め、イエスの衣を分けた(24節)」 と記述されています。ローマ兵にとっては、日常の雑務のようでした。確かに、多くの人にとっては、日常の出来事、見せしめの一場面でした。 しかし、主を救い主と信じる人にとっては、その重みと価値、重要性がよくわかります。 マグダラのマリアやヨセの母マリアにとってもそうでした。このあとどうなるかわからないけれど、どこに納められるか、よく見ていました。 よく見ていた彼女たちには、その場所が空っぽになり、キリストが確かによみがえられたこともよくわかりました。 祈り:神様、私たちが霊的に重要なことを見過ごさないように助けてください。日常の中で、些細な物事の中にも、あなたの恵みや語りかけに気づく視点を与えてください。台風の通過する地域をお守りください。台風にも勝る、聖霊の風が日本に吹きますように。アーメン

マルコ14

「まことに、あなたがたに言います。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられるところでは、この人がしたことも、この人の記念として語られます。」マルコ14:9 香油を塗った女性も、イエス様を売ったユダも、失敗したぺテロも、聖書の記事として今日の私たちに届いています。 香油を塗ったのは、エルサレム入城から十字架に至る週の、ほんのひと時です。 逮捕や策略に比べたら、見落としてしまいそうな場面です。 しかし、主はこの女性を喜び、埋葬に備えて「良いことをしてくれた」と言われました。 私たちのしていることは、人には目立たないことかもしれません。しかし、私たちの心を主は見ていてくださいます。 かつて教会(他府県の)に通っていたのに、この世の惑わしや歪んだ常識の影響を受けてしまった人の話を人づてに聞きました。周囲の人は嘆き悲しみ、立ち直れるように祈り続けています。 巧妙な詐欺の被害にもさらされる現代です。 鳩のように素直で、蛇のようにさとい心で、今日も信仰の歩みができますように。 祈り:神様、私たちに気前よくささげる勇気と共に、見分ける知恵を与えてください。一人一人を詐欺や犯罪の被害からお守りください。愛する方々を聖霊に満たし、鋭い霊的洞察力を与えてください。アーメン

マルコ13

「天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません。」マルコ13:31 台風の動きが気になります。 2018年に教会の屋根が台風で飛ばされてからは、台風に備えることの大切さをいっそう感じるようになりました。 しかし、どんなに備えても不足の事態はやってきます。災害しかり、事故しかりです。 私たちの想像の及ばないことも数々あります。 イエス様はやがて「天地は消え去ります」と言われました。想像し難いけれど、その日があるということです。 けれども、その日は絶望で終わりません。信じる人には希望があります。 イエス様は「わたしのことばは決して消え去ることがありません」と続けてくださいました。 個人的に、この秋黙示録をゆっくり味わいたいと思います。それは怖い預言ではなく、希望のことばだと言われているからです。主イエスに頼る者には、どんな時にも希望があるということを確認し、確信を持ちたいのです。 聖書には、そうした希望の約束が満ち満ちています。食わず嫌いでなく、通読する恵みをさらに味わいたいと願います。 祈り:神様、台風や地震で不安な心に平安を与えてください。キリストにある希望を握ります。さらにみことばに親しむことができますように。台風の進路にある地域の人々や教会をお守りください。アーメン

マルコ12

「イエスは弟子たちを呼んで言われた。「まことに、あなたがたに言います。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れている人々の中で、だれよりも多くを投げ入れました。」マルコ12:43 レプタ銅貨2枚を献金箱に入れた貧しいやもめを見て、イエス様は「だれよりも多くを投げ入れた」とおっしゃいました。それは、皆があり余る中から投げ入れたのに、この人は乏しい中から、持っているすべてを投げ入れたからでした(44節)。 ここに、見える世界と見えない世t界の価値基準を見ることができます。 私たちが日頃見聞きするのは、見える収入や、それに応じた暮らし向きです。 しかし、教会ではそうではありません。 見える量では量れないことがあります。 たとえば、お金にかかわらず心を尽くして奉仕している人は、主に多くをささげているといえます。 祈り:神様、見えないものに目を向ける者となれますように。私を見えるもので比較するわなから解放してください。全国の教会で仕える伝道者、牧師の妻や家族、奉仕者たちをあなたが愛し、格別に祝福してください。アーメン

マルコ11

「また、祈るために立ち上がるとき、だれかに対し恨んでいることがあるなら、赦しなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの過ちを赦してくださいます。」マルコ11:25 信仰を持って祈ることと同時に、心を整えること、自分の中に苦い思いがないようにすることもイエス様は教えてくださいました。 祭司長や律法学者たちにも、イエス様は苦い思いを持たれなかったのでした。父のみこころにかなわないことは厳しく戒められましたが、恨んでいるわけではありませんでした。 10日ほど前から歯痛に悩まされています。虫歯ではなく、埋伏した親知らずが奥歯を圧迫しているようです。 薬で炎症がおさまるのを待っていますが、気分がすっきりせず、ついつい考え方も言葉も否定的になってしまいます。 天の父が赦してくださったことの大きさを思い、恨み言を悔い改めつつ過ごす週末です。 祈り:神様、あなたの赦しと愛を感謝します。「われらに罪を犯す者を われらがゆるすごとく われらの罪をもゆるしたまえ」という主の祈りを覚えます。 あなたが赦してくださったゆえに、他者のことを赦す力と思いを与えてください。 台風に備える教会一つ一つに、守りと平安を与えてください。アーメン

マルコ10

「イエスは彼を見つめ、いつくしんで言われた。『あなたに欠けていることが一つあります。帰って、あなたが持っている物をすべて売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。そのうえで、わたしに従って来なさい。』」マルコ10:21 マルコの福音書では、イエス様の表情が見えてくるようです。この青年に欠けていることを教える時も、怒って言われたのではありませんでした。「彼を見つめ、いつくしんで」教えてくださったのでした。 ヤコブとヨハネが的外れな願いをするときも、大声で叫ぶバルティマイにも、「わたしに何をしてほしいのですか」(36、51節)と言ってくださいました。 イエス様に何をしてほしいのか、みこころなのか単なる欲望なのか。わからない時には祈って申し上げたらよいのだとわかります。 あわれみに満ちた、イエス様のまなざしの元に近づける恵みに感謝します。 祈り:神様、私の願いは________________です。あなたのみこころにかなうなら、どうぞそのようにしてください。別のことがみこころでしたら、私をあわれみ、それを受け入れることができるように整えてください。アーメン

マルコ9

「まことに、あなたがたに言います。あなたがたがキリストに属する者だということで、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる人は、決して報いを失うことがありません。」マルコ9:41 キリストに属する弟子に親切にしてくれる人のことを、イエス様はこのように言われました。 この聖句を思うと、温かい気持ちになります。 礼拝に毎週集っている人には親族、友人、近所の人がいます。そして、快く送り出してくれたり、反対しなかったり、洗礼を受けるのを認めてくれたりしています。 その人たちは、「キリストに属する者に一杯の水を飲ませてくれる人」だといえます。 教会に関連して、親切な人、好意者と呼ばれる人たちが何百人と与えられています。 祈り:神様、教会に集う人の背後に、多くのキリストへの好意者がいることを覚えます。___さんの家族、___さんの友人、___さんの隣家の人たちを祝福してください。私たちが会ったことはなくても、あなたはその人たちをよくご存知です。その人たちも、救い主キリストと出会うことができますように。アーメン

マルコ8

「しかし、イエスは振り向いて弟子たちを見ながら、ペテロを叱って言われた。『下がれ、サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。』」マルコ8:33 大変厳しいイエス様のおことばです。少し前には「あなたはキリストです」というぺテロの返答を喜んでおられたのに、それとは雰囲気が違います。 それは、「神のこと」でなく「人のこと」のみ思っていることを戒められたのです。 神から目を離そうとするもの、人の思いだけで物事を運ぼうとするものは、神から出たものではありません。 ぺテロの行為を通してサタンが惑わそうとしたものの、もちろん「ぺテロ=サタン」ではありません。 私たちも同じです。人の心に働きかけ、神に喜ばれないものを広げようとする悪の力を憎むべきであって、ある人を憎むのではないということを覚えます。 もし悪の力に支配されている人がいたら、神が願われる本来の姿に帰ってくることを信じ、祈り続けたいのです。 そして、私たち自身が悪に立ち向かう武具はすでに与えられていることにも感謝します(エペソ6章)。 祈り:神様、悪の力と誘惑は巧妙です。私の力でなく、あなたの力によって立ち向かいます。今がんじがらめになっている人がキリストに出会い、御名の力と権威で解放を体験できますように。私たちはその人を主の愛でとりなし祈り続けたいです。アーメン

マルコ7

「そして天を見上げ、深く息をして、その人に『エパタ』、すなわち『開け』と言われた。すると、すぐに彼の耳が開き、舌のもつれが解け、はっきりと話せるようになった。」マルコ7:34~35 以前にも書いたかもしれません。イスラエルに行った時、ガイドの方がレストランの手配をしておられました。電話をかけて「エパタ」と尋ねられました。 「レストランが空いているか」ということだったと思うのですが、聖書の原文がそのまま使われていて、思わず聖書の世界が浮き出てきたようでした。 でも考えてみれば、私たちが聖書を読む時、その世界は現実です。 みことばは生きて働き、聖書の世界と同じ主が今日も生きておられます。 癒し主であり、人を偏り見ない方が私たちの主、イエス・キリストです。 祈り:神様、感謝します。聖書に出てくるのと同じまなざしで、イエス様が今日も私たちを見ておられることを覚えます。癒しが必要な___さん、___さん、主の声を求めている___さん、____さんに、あなたがお語りくださり、癒しと解放を与えてください。アーメン

マルコ6

「みなイエスを見ておびえてしまったのである。そこで、イエスはすぐに彼らに話しかけ、『しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない』と言われた。」マルコ6:50 あれほど素晴らしい奇跡をなさったイエス様を幽霊と間違え、おびえてしまうとは。 でもイエス様は、すぐに声をかけてくださいます。 助けに来られたイエス様は「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われました。 私たちも自分の常識や快適さ(コンフォートゾーン)と異なる主の導きやみこころを見るとき、おびえてしまいます。 しかし、イエス様は今日も私たちに「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と声をかけてくださいます。 主が導かれる所に出ていく一歩、その信仰を主は喜んでくださいます。 祈り:神様、あなたのみわざを経験したのに、一歩踏み出すことに恐れを感じます。どうか助けてください。教会の歩み、私自身の歩みが、主にあって一歩一歩導かれるという信仰を強めてください。頑固な思い込みから解放してください。アーメン

マルコ5

「イエスは彼女に言われた。『娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。苦しむことなく、健やかでいなさい。』」マルコ5:34 イエス様は癒しをなさる時、その人の信仰を確認されました。 昨日の礼拝でも、勝利の3つの材料のうち「みことば」と「御名」は大丈夫、私たちに問われるのは「信仰」だと聞きました。 信仰が与えられるように、信仰を強めてください、と今週も祈りつつ歩みましょう。 祈り:神様、私たちひとりひとりの信仰を確認してくださり感謝します。私たちの信仰を強めてください。教会が信仰に立つことができるよう、導いてください。アーメン

マルコ4

「またイエスは言われた。『神の国はこのようなものです。人が地に種を蒔くと、 夜昼、寝たり起きたりしているうちに種は芽を出して育ちますが、どのようにしてそうなるのか、その人は知りません。』」マルコ4:26~27 マルコの福音書にだけ取り上げられているたとえです。 この後、 「地はひとりでに実をならせ、初めに苗、次に穂、次に多くの実が穂にできます。 実が熟すと、すぐに鎌を入れます。収穫の時が来たからです」(28~29説)と続きます。 ほっとします。宣教はもちろんベストを尽くし、祈り熱心に励みます。 しかし同時に、それはノルマではなく人の功績でもありません。 私たちは自分の分を果たしたら、あとは聖霊の働きにゆだねるように召されています。 数ではなく、そこに注がれた祈りと主への愛を、主はよくわかってくださいます。 祈り:神様、教会の規模の大小や数にこだわらなくてよいとわかりました。置かれているところに感謝し、そこで主を愛し仕える者とさせてください。比較のわなから解放してください。私に与えられた分を、聖霊様の助けにより喜んで果たすことができますように。アーメン

マルコ3

「だれでも神のみこころを行う人、その人がわたしの兄弟、姉妹、母なのです。」マルコ3:35 イエス様はご自身の家族をないがしろにされたわけではありません。が、霊的なつながりが真実であることを述べられました。 今の私たちも、信仰者のつながりは家族のようです。 遠慮がないだけに、ぶつかることがあるかもしれません。それは、互いが家族のように本音で話しているからです。その中から、自分の至らなさを示され、キリストの愛で受け入れ合うことを学び、共に神様を見上げます。 祈り:神様、信仰の家族を感謝します。教会や交わりの中で、さまざまな経験や学びを与えられていることを覚えます。共に祈りつつ、あなたのみこころを選びとることができますように。アーメン

マルコ2

「これを聞いて、イエスは彼らにこう言われた。『医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。』」マルコ2:17 イエス様は、よくできた人や気の合う人を選んで招かれたのではありませんでした。 かえって「罪人」を招くために来られた、と言われました。 病気の人や問題をかかえた人をあわれみ癒しました。 さらには律法学者や祭司たちにも、忍耐強く接し続けられました(彼らは一方的に陰口や批判を続けましたが)。 教会にもさまざまな人がいます。気の合う人もいれば、そうでない人もいます。教会以外の場所では親しくならなかっただろうという人もいます。 それは、イエス様が招かれたからです。 自分を見ても、よく招かれたなあと思います。 私たちがどんなに不完全でも、イエス様はあきらめず見捨てずにいてくださいます。 そのことを感謝しましょう。 祈り:神様、あなたのあわれみと招きを感謝します。教会の中に、個性や環境が全く違う人を呼ばれ招かれました。それは、教会がさまざまな人に福音を届けるためです。 違いを喜び、聖霊によって一致し、共に主を愛し、共に礼拝できる恵みに目をとめることができますように。アーメン

マルコ1

「神の子、イエス・キリストの福音のはじめ。」マルコ1:1 マルコの福音書は、マタイとは少し趣が異なります。誕生についてはふれられず、系図もありません。 1章ではバプテスマのヨハネから洗礼を受け、公生涯のことが次々と記されます。 そして、一つ一つの場面がいきいきと、多くの会話を含んで記述されています。 たとえて言えば、映画の1シーンが重ねられているトレイラー(予告に用いる動画)のようです。 マルコの福音書をじっくり読むことで、イエス様のご人格や人となりを、より鮮明に学ぶことができます。 もっとも、ただの登場人物ではありません。この福音書は「神の子、イエス・キリストの福音」を示すために書かれました。 「このイエス様なら間違いはない」という確信が、読みながらますます与えられていくと期待します。 祈り:神様、イエス・キリストのやさしさとあわれみ、正しさと強さをもっと知り、この方が神の子であったこと、福音が確かであることを受け取らせてください。 そして、聖書入門にもよく用いられるマルコの福音書を、___さんと分かち合う機会が与えられますよう導いてください。アーメン

マタイ28

「イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。『わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。』」マタイ28:18~20 イエス様の声がもう一度聞けるとは!復活のキリストに出会った時、弟子たちの誰もが感激したことでしょう。 イエス様はご自身が天地ですべての権威を持っておられること、世の終わりまでいつもともにおられることを保証してくださいました。 だから、牧師や伝道師に限らず、信仰者は「行って、あらゆる国の人々を弟子と」するよう召されています。バプテスマに導くこと、キリストが命じた「すべてのことを守るように教え」ることは、皆にゆだねられた働きです。 そして、それは律法ではなく、愛が動機となっての宣教です。弟子たちが感激したように、イエス様と出会って人生が変えられた感激が私たちの原動力です。 祈り:神様、あなたの愛と恵みが私の動機となりますように。私の行動や奉仕の動機を探ってください。存在不安や自意識、恥意識から解放し、自由を得させてくださった主に感謝します。この素晴らしさを分かち合うことができますように。アーメン

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