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民数記9-11

通読: 民数記9-11、マルコ5:1-20  「雲が長い間、幕屋の上にとどまるときには、イスラエルの子らは主への務めを守って、旅立たなかった。また、雲がわずかの間しか幕屋の上にとどまらないことがあっても、彼らは主の命により宿営し、主の命により旅立った。 ...二日でも、一月でも、あるいは一年でも、雲が幕屋の上にとどまって、去らなければ、イスラエルの子らは宿営を続けて旅立たなかった。しかし、雲が上ったときは旅立った。」民数記 9:19-20,22 民がいかに戦いに備えていったかがわかります。 主は軍の長、その号令に従って行動するよう、訓練されていきました。 雲で示される出発と待機の印に、理屈でなく従順に従いました。 それが敵に対して強くなる秘訣でした。 私たちは、主の「待て」のサインにどれだけ従えるでしょうか。 つい不安になり、自分の感覚で動きたくなります。 しかし、主の導きこそ、敵に立ち向かう最善の方法です。 焦らず、待機という戦術を学びましょう。 祈り:神様、あなたが確かな導きをしてくださいます。私の肉の焦りから解放してください。主と共に一歩高い信仰の世界に入れてください。アーメン

民数記7-8

通読: 民数記7-8、マルコ4:21-41   「モーセは、主と語るために会見の天幕に入ると、あかしの箱の上にある『宥めの蓋』の上から、すなわち二つのケルビムの間から、彼に語られる御声を聞いた。主は彼に語られた。」民数記 7:89 「主と語る」というのは、自分だけが話すのではありません。 モーセのように「御声を聞い」ていくことが大切です。 もし、自分の声と思いが邪魔をしてしまうことがあるなら、御声を聞くどんな工夫ができるでしょうか。 祈り:神様、あなたに聞くことができますように。みことばやメッセージを通し、心に響く語りかけを通し、また信仰者の交わりを通し、主の語りかけを聞いていきたいです。アーメン

民数記4-6

通読: 民数記4-6、マルコ4:1-20  「彼らは主の命により、モーセを通して任じられ、それぞれその奉仕とその運ぶ物を受け持った。主がモーセに命じた、主によって登録された者たちである。」民数記4:49 4章では会見の天幕で奉仕をする人たちについて、 5章では償いの規定と、不貞の罪かどうかの判断(罪がなければ心配はいらない)、 6章ではナジル人の聖別、そしてアロンの祝福の祈り が記されています。今の礼拝にも、同じ要素が含まれています。 4章では、天幕でそれぞれの役割を果たしたことに、礼拝や教会でのさまざまな役割により、ともにキリストのからだを建て上げる姿を覚えます。 5章からは、礼拝での悔い改めと、罪の大きさを考えさせられます。もし責められるところがなければ、安心していられます。 キリストがすべての罪を償から解放してくださった恵みを改めて思います。 6章の祈りは、今も祝祷で読まれ祈られています。 祈り:神様、それぞれがからだの部分として、教会を建て上げるよう召されていることを受け取ります。不完全な者が、キリストの恵みによって罪を赦され、祝福を受ける者とされたことを感謝します。アーメン

民数記1-3

通読: 民数記1-3、マルコ3   「さて、モーセとアロンは、これら指名された者たちを伴い、 第二の月の一日に全会衆を召集した。そこで氏族ごと、一族ごとに、二十歳以上の者の名を一人ひとり数えて、その家族表で本人を確認した。 主がモーセに命じられたように、モーセはシナイの荒野で彼らを登録した。」民数記1:17~19 ニッキー・ガンベルは、自らのデボーションガイドの中で、旧約の各書を次のように描写しています(意訳)。 「...出エジプト記で、神の民は解放された人々として表されました。レビ記では聖なる人々として表されました。民数記では戦いに備える力として表されています。 ...イエス・キリストというレンズを通して読むとき、クリスチャン生活は霊的な戦いだと言えます。」 今日の箇所を読むと、民の数を数えたのは荒野ででした。 旅の目的地で落ち着いてからではなく、戦いの直前でもなく、道中でした。 「旅の最中では流動的ではありませんか」と言わず、神の命じられたタイミングでした。 霊的な備えも同じだと言えます。 周囲の状況が落ち着いてからではなく、戦いがいつ起こっても向かえるように、今備えを始めるのです。エペソ6章で、日々神の武具を身につけるように列挙されているとおりです。 民数記を通して、さらに霊的戦いへの備えを確認することを期待します。 祈り:神様、荒野で一人一人が数えられたように、。私もあなたの目に数えられていることを感謝します。霊的な攻撃は周囲からも、私自身の内面でもやってきます。個人も教会も、さらにみことばと神の霊に強められて歩めますように。アーメン

レビ記26-27

通読: レビ記26-27、マルコ2      「もし、あなたがたがわたしの掟に従って歩み、わたしの命令を守り、それらを行うなら、わたしは時にかなってあなたがたに雨を与える。それにより地は産物を出し、畑の木々はその実を結ぶ。...あなたがたは満ち足りるまでパンを食べ、安らかに自分たちの地に住む。また、わたしはその地に平和を与える。...」 レビ記 26:3、4、6 レビ記の煩雑(に思える)な決まりは何のためだったでしょうか。 今日の箇所を読むと、それは人の幸せのためだったとわかります。 聖書の神は、私たちを愛し恵みたいと思われる方です。 私たち人間を丁寧に創造され、扱ってくださるお方です。 下の規定も、今の社会制度でなじみのある原則です。 「イスラエルの子らに告げよ。人が人間の評価額にしたがって主に特別な誓願を立てるときには、その評価額を次のとおりにする。二十歳から六十歳までの男子なら、その評価額は聖所のシェケルで銀五十シェケル。...六十歳以上なら、男子の評価額は十五シェケル、女子は十シェケル。その人が落ちぶれていて評価額を払えないなら、その人を祭司の前に立たせ、祭司が彼の評価をする。...」レビ記 27:2-3,7-8 シルバーや子どもには負担が低く、また困窮している人には事情に合わせて額が決められます。 イエス・キリストが十字架にかかり、律法から解放してくださった今、レビ記の規定を私たちが文字通り守る必要はありません。 でも、そこに流れる原則と神の愛を学ぶことは現代でも大切だと言えます。 祈り:神様、なぜこのような命令が与えられたのかを知りました。創造主のデザインにかなって歩むことが幸せの秘訣です。みこころを歩めるよう、これからも導いてください。アーメン

レビ記25

通読: レビ記25、マルコ1:23-45 「あなたがたは五十年目を聖別し、国中のすべての住民に解放を宣言する。これはあなたがたのヨベルの年である。あなたがたはそれぞれ自分の所有地に帰り、それぞれ自分の家族のもとに帰る。」レビ記 25:10 50年目はヨベル(またはジュビリー Jubilee)の年です。 解放の宣言と安息の一年です。 耕作しない、借りが免除になるというのは、一方では感謝ですが、もう一方では信仰が試されます。 必要が満たされるのか。 これからやっていけるのか。 主への信頼が真に問われる時です。 狭山福音教会は50年、主の守りで歩んできました。 もう一度それを確認し、原点にかえって主への信頼を強くしましょう。そうして、次の歩みに踏み出しましょう。 祈り:神様、あなたの守りを感謝します。教会にも、私個人の歩みにも、主がともにいてくださいました。将来への漠然とした不安や不信仰を、主の足元におきます。導いてくださることを信じます。アーメン

レビ記23-24

通読: レビ記23-24、マルコ1:1-22  「最初の日に、あなたがたは自分たちのために、美しい木の実、なつめ椰子の葉と茂った木の大枝、また川辺の柳を取り、七日間、あなたがたの神、主の前で喜び楽しむ。」レビ記 23:40 今日の箇所を読むと、厳しいだけでない、多彩で豊かな主にある生活が旧約時代でさえ行われていたことがわかります。 儀式的なささげものや集会ではありませんでした。 七日間も「主の前で喜び楽しむ」ことがゆるされています。 キリストによって解放された私たちの信仰生活は、本来もっと自由と喜びに満ちているのだと思います。 礼拝や集会に参加することも、単なる儀式ではありません。 主の前で喜び楽しむ要素があります。 感謝総会も同じでした。主の守りと恵みを見る、「喜び楽しむ」時でした。 祈り:神様、あなたの守りと恵みに感謝します。あなたの前で喜び楽しむ機会が、いっそう与えられていることを覚えます。悔い改めゆるされた恵みをともに味わう、霊の家族を祝福してください。アーメン

レビ記21-22

通読:  レビ記21-22、マタイ28  「彼らは淫行で汚れている女を妻としてはならない。また夫から離縁された女を妻としてはならない。祭司は神に対して聖だからである。」レビ記 21:7 祭司への基準が続きます。 祭司は「あなたの神のパンを献げる(21:8)」 ために、聖別されていたからです。 一方で、後の預言者ホセアには不思議な召しが与えられました。 「…主はホセアに言われた。『行って、姦淫の女と姦淫の子らを引き取れ。この国は主に背を向け、淫行にふけっているからだ。』(ホセア1:2)」 どちらも、私たちもは遠い存在に思えます。 しかし、神様のきよさとあわれみとが私たちの思いや常識を越えたものだということを知ります。 よくわからないことはわからない、として読むことも、聖書を読む上での謙遜な態度です。 祈り:神様、あなたのみこころが理解できないことがあります。でも、あなたがきよく、同時にあわれみ深いよい方だと信じます。信仰を与え続けてください。アーメン

レビ記19-20

通読:  レビ記19-20、マタイ27:51-66 「あなたは復讐してはならない。あなたの民の人々に恨みを抱いてはならない。あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。わたしは主である。」レビ記19:18 イエス様は、重要な命令として「隣人を自分自身のように愛しなさい(ルカ10:27)」と言われました。 ささげものや食物規定はキリストの十字架で全うされました。 しかし、モラルに関するもので、新約聖書でも継続しているものは、時代を越えて適用されています。 老人への尊敬、寄留者への配慮(32-33節)も、隣人を愛することのあらわれです。 感謝総会が終わり、主の群れの歩みをふりかえりました。教会も、この原則を実践するときに祝福されます。 祈り:神様、私たちが愛されてきたことを確認しました。私たちに隣人を愛する心を与えてください。小さなことでも、あなたの愛を頂き実践できますように。アーメン

レビ記17-18

通読: レビ記17-18、マタイ27:27-50 「実に、肉のいのちは血の中にある。わたしは、祭壇の上であなたがたのたましいのために宥めを行うよう、これをあなたがたに与えた。いのちとして宥めを行うのは血である。」レビ記 17:11 定められたやり方で血をささげるようにとの規定です。 18章では、エジプトやカナンの乱れた風習に流されてはならないと教えられます。 「あの人もやっているから」「皆がしている、『普通』のことだ」という言い訳は通用しません。 今もSNSの誹謗中傷の書き込みや、学校のいじめに加担させようとする圧力があります。 しかし、人がどう思うかより、神がどう望まれるかにより関心を持つ生き方が、今日の私たちにも求められています。 祈り:神様、困難な時代です。SNSやAIの影響が大きい中、傷ついている人が多くいます。主の慰めと癒しを与えてください。 また、同調圧力に屈してしまわないよう、みことばを握り歩む勇気を私にも与えてください。アーメン

レビ記15-16

通読: レビ記15-16、マタイ27:1-26 「八日目に彼女は自分のために山鳩二羽か家鳩のひな二羽を取り、それらを会見の天幕の入り口の祭司のところに持って行く。」レビ記 15:29 「アロンは、自分のための罪のきよめのささげ物である雄牛を献げ、自分と自分の家族のために宥めを行う。」 レビ記 16:6 ごく普通の男女も、幕屋で主のもとに近づく大祭司も、きよめのささげものが必要でした。しかも毎回! 身分、性別、貧富などにかかわらず、どの人もきよめられなければなりません。 ローマ3:23-24には 「すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。」 とあります。 すべての人が罪人でした。 ところが、それをすべて支払ってくださったのが、イエス・キリストだったのです。 莫大な動物の犠牲でも支払いきれないほどの素晴らしいことを、いのちをかけて私たちにプレゼントしてくださいました。 祈り:神様、想像がつかないほどの価が、キリストにより支払われたのだとわかりました。そして、救いのがどんな人にも提供されるという、あなたの気前の良さにも驚いています。理解が及ばないほどの、あなたの愛と恵みに感謝します。アーメン

レビ記14

通読: レビ記14、マタイ26:51-75  「祭司は雄の子羊一匹を取り、それを油一ログと一緒に献げて代償のささげ物とし、それを奉献物として主の前で揺り動かす。」レビ記 14:12 ツァラアトからの癒しはひと苦労でした。 動物や鳥、油、水…どれほどの手間がかかったことでしょう。 また、祭司の仕事がきれい事で済まないこともわかります。 患部を間近で調べ、動物の鳴き声と血を浴び、生ぐさい臭いをかぎ、時には有害なカビの広がる家を訪問しました。 祭司も民も、その繰り返しでした。 イエス・キリストは、完全な癒しと回復をもたらす方です。 ご自身をとらえに来た者をさえ、癒された方です。 (ペテロが大祭司のしもべに切りかかり、その耳を切り落としたとき、イエスは「やめなさい」と言われ、耳を癒されました。マタイ 26:51-52、ルカ22:51) この方の完全な癒しにより、私たちは救いと無限の繰り返しからの解放を得ました。 祈り:神様、罪の悪循環をキリストの十字架で断ち切ってくださり、感謝します。 解放と癒しの大きさを今日もじっくり思い巡らします。アーメン

レビ記13

通読: レビ記13、マタイ26:26-50 「祭司は七日目に再び彼を調べる。もし患部が薄れ、その患部が皮膚に広がっていなければ、祭司は彼をきよいと宣言する。それは、かさぶたである。彼は自分の衣服を洗う。こうして彼はきよくなる。」 レビ記 13:6  ツァラアトという皮膚病について、きよめに至る規定が続きます。 神様は何を教えたかったのでしょうか? 身体の健康だけでしょうか? 今日の私たちは、この規定を通し、 内面も汚れが感染し広がること、 きよめられる必要があることを学びます。 イエス様はこう言われました。 「外から入って、人を汚すことのできるものは何もありません。人の中から出て来るものが、人を汚すのです。」マルコ7:15 内面は、イエス様のあがないによらなければきよめられません。 また、日々霊的な健康を調べ、問題があるなら永遠の大祭司であるキリストに診て頂きましょう。 祈り:神様、霊の健康にもっと関心を持てますように。外面だけでなく内面の衛生状態に気づかせてください。アーメン

レビ記11-12

通読: レビ記11-12、マタイ26:1-25 「わたしは、あなたがたの神となるために、あなたがたをエジプトの地から導き出した主であるからだ。あなたがたは聖なる者とならなければならない。わたしが聖だからである。」レビ記 11:45 「主が聖だから、私たちも聖であれ」と律法は述べます。 でも、不完全な私たちが、完全な聖さを全うすることはできません。 ガラテヤ書3:24-25は 「こうして、律法は私たちをキリストに導く養育係となりました。それは、私たちが信仰によって義と認められるためです。しかし、信仰が現れたので、私たちはもはや養育係の下にはいません」 と述べます。 旧約聖書は、すべてをまっとうし完成されたキリストを指し示すために与えられています。 祈り:神様、旧約時代の煩雑な規定が、キリストの救いの完成を教えてくれることに感謝します。律法からの解放を感謝します。アーメン

レビ記8-10

通読:レビ記8-10、マタイ25:31-46   「モーセとアロンは会見の天幕に入り、そこから出て来て民を祝福した。すると主の栄光が民全体に現れ、火が主の前から出て来て、祭壇の上の全焼のささげ物と脂肪を焼き尽くした。民はみな、これを見て喜び叫び、ひれ伏した。」レビ記9:23-24 祭壇の上のささげ物が焼き尽くされたのは、主がここにおられるという、劇的な栄光のしるしでした。 人々は喜び叫び、ひれ伏しました。 一方、勝手なやり方で火をささげたアロンの息子たちは、二人とも滅んでしまいました(10章)。 厳粛なことです。 主は、近くで仕える者には聖さを表す(10:3)と言われました。 劇的なしるしや栄光を求めるだけでなく、自らの誠実さと忠実さについてふりかえるようにと教えられます。 祈り:神様、あなたの栄光を見せてください。また、あなたの前に誠実な歩みができるよう助けてください。アーメン

レビ記6-7

通読:レビ記6-7、マタイ24:29-51 「アロンとその子らに告げよ。罪のきよめのささげ物についてのおしえは次のとおりである。罪のきよめのささげ物は、全焼のささげ物が屠られる場所、主の前で屠られる。これは最も聖なるものである。」 レビ記 6:25 同じようなささげ物の定めが続くのは、それが旧約時代に大切だったからです。 神との断絶を回復する手段として重要でした。 今、これらのことをしなくてよいのは、キリストがささげ物となってくださったからです。 罪が軽いからではありません。 主の恵みを覚えます。 祈り:神様、あなたの恵みを思い感謝します。罪人である私が、キリストによって救いの内に入れられた恵みを、もっと深く理解できますように。アーメン

レビ記4-5

通読: レビ4-5、マタイ24:29-51   「人が信頼を裏切ることをしたとき、すなわち、主の聖なるものに関して気づかずに罪に陥ってしまった場合、羊の群れから傷のない雄羊、それも、聖所のシェケルで数シェケルの償いの銀に相当すると評価される雄羊一匹を、代償のささげ物として主のもとに連れて行く。」レビ記 5:15    罪を犯した時のささげ物の規定です。 私たちは、知らずに失敗することがあります。 たとえ知らなくても、罪には変わりありません。 傷のない価値ある雄羊を、「代償」つまり代わりのつぐないとしてささげるように、 キリストは罪のないご自身をささげられました。 私たちを罪のなわめから解放するため、永遠のいのちを与えるためです。 祈り:神様、今日もキリストのあがないを覚えます。知らずに犯した失敗の多さと、罪赦されて自由にされる恵みに感謝します。アーメン

レビ記1-3

通読:   レビ1-3、マタイ24:1-28        「その若い牛は主の前で屠り、祭司であるアロンの子らがその血を携えて行って、会見の天幕の入り口にある祭壇の側面にその血を振りかける。」 レビ記 1:5 「インスタントでない」ことの価値を考えさせられています。 便利なのは悪いことではありません。 でも、全てを軽く考えたり、手間のいらないものに流されたりするなら、大切にした方がよいことがあるかもしれません。 全焼のささげ物、穀物のささげ物、交わりのささげ物などの手順が教えられています。 インスタントどころか、重労働が必要で、血は飛び散り、服は汚れてと大変です。 しかし、そこに罪の重さの自覚や主への感謝の思いが強く感じられたでしょう。 イエス様は十字架にかかり、そうした手順から私たちを解放して下さいました。 私たちにとっては、救いは「インスタント」な手順で受け取っるようになりました。 でもそこには、イエスキリストの多大な犠牲が払われているのです。 この感謝を、どのように表せるでしょうか。 祈り:神様、あなたが与えてくださった福音の恵みを感謝します。当たり前のように通りすぎず、じっくりその価値を思い巡らします。信仰生活で私がその感謝をどのように表せるか、教えて下さい。アーメン

出エジプト記39-40

通読:  出 39-40、マタイ23:23-39           「イスラエルの子らは、旅路にある間、いつも雲が幕屋から上ったときに旅立った。雲が上らないと、上る日まで旅立たなかった。」 出エジプト記 40:36-37  幕屋の完成とともに、主の栄光の雲がそこに満ちました。 あまりにも栄光が満ちたので、モーセは会見の天幕に入ることがてきませんでした(35節)。 この同じ主が、私たちを愛し、救い、そのきよい霊で満たしてくださいます。 エジプトを出た民は、主の臨在の雲に導かれました。主の栄光を見上げつつ旅をしました。 私たちも聖霊に導かれる人生の旅ができたら幸いです。 ある時は進み、ある時は立ち止まり…、 主とともに旅をする、ひとりぼっちでない歩みです。 祈り:神様、あなたが共におられ導いてくださる旅に感謝します。聖霊の暖かい慰めに励まされて歩みます。この人生を主の栄光のために用いてください。アーメン

出 エジプト記36-38

通読:  出 36-38、マタイ23:1-22 「ユダ部族に属する、フルの子ウリの子ベツァルエルは、主がモーセに命じられたことをことごとく行った。 彼とともに、ダン部族の、アヒサマクの子オホリアブがいた。オホリアブは、彫刻をする者、意匠を凝らす者、また青、紫、緋色の撚り糸と亜麻布で刺繡をする者であった。」出エジプト記 38:22-23 ベツァルエルもオホリアブも、もともと器用な人たちだったでしょう。 しかし彼らがきわだっているのは、 「神の霊を満たされ(35:31)」、 「主は彼らをすぐれた知恵で満たされた(35:35)」ことです。 聖霊に満たされ、幕屋と備品を見事に作りました。 それは自分の満足や称賛をはるかに越えたものです。 心の底からの喜びであり、神の栄光が表される素晴らしいプロジェクトとなりました。 子育て、介護、仕事、家事、奉仕…は、主から託された作品を作るようなものです。 聖霊に満たされて向かう時、困難の中にも何らかの違いが出てきます。 神の栄光のためのプロジェクトを、聖霊に導かれて今日も行いましょう。 祈り:神様、あなたの霊で満たされたいです。主が私を呼ばれ置かれた、今日の仕事に必要な知恵と力をください。アーメン

出エジプト記 34-35

通読:  出 34-35、マタイ22:23-46   「それから、モーセはシナイ山から下りて来た。モーセが山を下りて来たとき、その手に二枚のさとしの板を持っていた。モーセは、主と話したために自分の顔の肌が輝きを放っているのを知らなかった。」 出エジプト記 34:29 再び主の山に上り、帰ってきたモーセの顔は輝いていました。 それは主の栄光を反映していたからです。 教会でも、イエス・キリストを信じた人、洗礼を受けた人の顔、表情が輝いて見えることがあります。 何十年も前のこと、外国の駅でクリスチャンの人物を見つけなければなりませんでした。 時間は決まっているものの、顔も言葉もわかりませんでした。 ところが、心配は無用でした。 すぐその人だとわかりました。 顔が聖霊によって輝いていたからです。 世界中どこででも、同じ主の霊が働いておられることに励まされますね。 祈り:神様、あなたの霊に満たされて歩めますように。主の栄光をそのまま反映する者にしてください。困難や迫害のある国、地域、家庭で、信仰生活を送る方々を守り励ましてください。アーメン

出エジプト記31-33

通読:  出31 - 33、マタイ22:1-22 「主は言われた。『わたしの臨在がともに行き、あなたを休ませる。』」出エジプト記33:14 モーセの不在に民は不安を覚え、子牛の偶像を作るようアロンに頼みました。 エジプトの偶像文化に浸っていたからでしょうか。 素晴らしい主のみわざで身体はエジプトを脱出したのに、心根は脱出していませんでした。 「こうして主は民を打たれた。彼らが子牛を造ったからである。それはアロンが造ったのであった。(32:35)」 アロンは民の多数意見に従っただけでした。 それでも、リーダーは忠実さと信仰が問われます。 偶像礼拝の責任はアロンにあると聖書は語ります。 一方、モーセには「わたしの臨在がともに行き、あなたを休ませる」と言われました。 がむしゃらに働き続けるのではなく、主の安息に憩い、主がなさることに共についていくという態度が、リーダーとしての資質だと教えられます。 そして次期リーダーのヨシュアは、それをじっと学んでいました(33:11)。 祈り:神様、リーダーのために祈ります。神にゆだねられた責任を、主の導きと信仰によってなせますように。様々な人の意見が聖書的かどうかを吟味し、最後まで走り抜けるよう支えてください。アーメン

出エジプト29-30

通読: 出29-30、マタイ21:23-46 「アロンは年に一度、その角の上で宥めを行う。その祭壇のために、罪のきよめのささげ物の、宥めのための血によって、彼は代々にわたり、年に一度、宥めを行う。これは主にとって最も聖なるものである。」出エジプト記 30:10 幕屋に入るためには、祭司が聖別される必要がありました。 水で身をきよめ、油を注がれ、香がたかれました。 油や香は特別のもので、主の前に出る以外の用途に使うことは禁じられました。 人が自分のために使うことや、似たものを勝手に作るのも禁止でした。 主は人間の考えるのとは次元の違う方です。 主以外のものを神としたり、人間が神を作り出したりすることはできません。 旧約の民は、祭司が幕屋に入るために、入念な準備を整えました。 何をおいても、それが大切だったからです。 今日、私たちの優先順位は正しく保たれているでしょうか。 祈り:神様、あなたの前に出るとき、心こめて賛美し礼拝できますように。適当にしたり、他のものをより大切にしたりしないよう、日常生活の優先順位もお守りください。アーメン

出 エジプト記27-28

通読:  出 エジプト記 27-28 、マタイ 21 : 1-22   「あなたは、わたしが知恵の霊を満たした、心に知恵ある者たちに告げて、彼らにアロンの装束を作らせなさい。彼を聖別し、祭司としてわたしに仕えさせるためである。」出エジプト記 28:3 旧約時代には、任命され規定通りに装備した者だけが、祭司として主に仕えることができました。 キリストが十字架にかかり、神との隔ての壁を破ってくださったので、 今は誰もが自由に主のもとに近づけます。 家でもどこでも祈り、個人礼拝ができます。 それでも毎週教会の礼拝に行くのは、主が召し出してくださったことを確認し、互いに励まし建て上げるためです。 自由に主の御痤の前に出ることの恵みの意味を、今静まって心整え、再考してみませんか。 祈り:神様、あなたがくださる恵みを、当たり前に見過ごすことがありませんように。 十字架の代価が払われたゆえに、神の前に近づけることを覚えて感謝します。アーメン

出 エジプト記25-26

通読:  出 エジプト記 25-26 、マタイ 20 : 17-34   「彼らにわたしのための聖所を造らせよ。そうすれば、わたしは彼らのただ中に住む。」 出エジプト記 25:8」 主がおられる場所を作るのは、私たち人間のためでした。 旧約時代の幕屋も、神殿も、神が共に住まわれることを教えるためでした。 やがて、イエス・キリストを信じる人のうちに、また教会に主が住まわれることの実物教材でした。 幕屋のディテールまで詳細に示された神は、私たちのことを隅々まで理解してくださる方です。 祈り:神様、あなたが共にいて、私のうちに住まわれることに感謝します。主の宮である教会を感謝します。寒さの中、ひとりひとりをお守りください。明日も共に礼拝できますように。アーメン

出エジプト記 23-24  

通読:  出エジプト記 23-24 、マタイ 20:1-16         「しかし、七年目には、その土地をそのまま休ませておかなければならない。民の貧しい人々が食べ、その残りを野の生き物が食べるようにしなければならない。ぶどう畑、オリーブ畑も同様にしなければならない。 六日間は自分の仕事をし、七日目には、それをやめなければならない。あなたの牛やろばが休み、あなたの女奴隷の子や寄留者が息をつくためである。」 出エジプト記 23:11-12 法律や保険の約款は難しそうだし、小さな字が並んでいるので読み飛ばすことが多いです。 しかし、それらが私たちを保護し、損害から守ることもあります。 神の与えた戒めは、私たちが幸せになるための神の愛に満ちています。 研究機関や会社の中には、何年かごとにリフレッシュ休暇があると聞きます。 身近には、七日ごとの安息日を持つことが、神の造った人のリズムにかなっています。 休むことの大切さを、聖書の知恵から考えてみましょう。 祈り:神様、あなたは私を造られ、最善のリズムを知っておられます。 あなたが望まれる以上にやり過ぎないよう、聖霊の声を聴きたいです。霊の耳を開いてください。アーメン

出 エジプト記21-22

通読:  出 エジプト記 21-22 、マタイ 19 「寄留者を苦しめてはならない。虐げてはならない。あなたがたもエジプトの地で寄留の民だったからである。 やもめ、みなしごはみな、苦しめてはならない。 もしも、あなたがその人たちを苦しめ、彼らがわたしに向かって切に叫ぶことがあれば、わたしは必ず彼らの叫びを聞き入れる。」出エジプト記 22:21-23 各国が寒波の中です。アメリカでは、ホームレスの人のためにバスの中で暖を提供する活動があるということです。 ニュースでは、暖房のきいたバスへと寄り添うボランティアの姿を見ました。 社会的弱者に対して、聖書のまなざしはやさしいものです。 その人たちが神に呼び求めるなら、神は叫びをきかれます。 主は「わたしは情け深いからである( 22:27)」と言われます。 祈り:神様、弱い者に目を注いでくださることに感謝します。私が弱った時も助けられると信じます。私自身も他者に、手を差し伸べる(押し付けでなく、あなたの愛にかなって)ことができるよう導いてください。アーメン

出 エジプト記19-20

通読:  出 エジプト記 19-20 、マタイ 18 : 21-35 「今、もしあなたがたが確かにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。」出エジプト記 19:5 「十戒」を与える前に、神の恵みの約束が繰り返されます。アブラハムとの契約から変わらない、祝福の契約です。 すなわち、続く十戒は単なる禁止令ではなく、私たちが神の祝福を受けるための原則だということがわかります。 「全世界はわたしのものである」と神は言われました。 この神の祝福は、新約時代の信仰者にも向けられています。 招きを感謝して受け取り、主の恵みの約束を実践できるよう祈りましょう。 祈り:神様、あなたが愛と恵みに満ちておられる方であることを感謝します。私の生き方を導き、折々に修正してください。今日もあなたの祝福を受ける者として成長させてください。アーメン

出エジプト記16-18

通読: 出エジプト 16-18 、マタイ 18 : 1-20     「わたしはイスラエルの子らの不平を聞いた。彼らに告げよ。『あなたがたは夕暮れには肉を食べ、朝にはパンで満ち足りる。こうしてあなたがたは、わたしがあなたがたの神、主であることを知る。』」 「イスラエルの子らは、人が住んでいる土地に来るまで、四十年の間マナを食べた。彼らはカナンの地の境に来るまでマナを食べた。」 出エジプト記 16:12,35 初めてマナが与えられた日、人々はどれほど喜び感謝したことでしょう。 しかし、それが日常になり、当たり前になると、次の不満や不足が出てきました。 私たちも、どんなに素晴らしい恵みでも、それが当たり前になると不平が出てきがちです。 恵みへの感謝を忘れたにもかかわらず、イスラエルの民へのマナは40年間変わらず与えられ続けました。 今日、私たちの態度にかかわらず主が与え続けてくださっている恵みを発見し、感謝しましょう。 祈り:神様、あなたの恵みを軽くみなして忘れがちであることを悔い改めます。 恵みを数えて感謝する心を与えてください。アーメン

出エジプト記14-15

通読:  出 14-15 、マタイ 17 「主があなたがたのために戦われるのだ。あなたがたは、ただ黙っていなさい。」出エジプト記 14:14 体育の先生が「山歩きの遠足では、サブリーダーが先頭、リーダーが最後尾」と言ったのを覚えています。 先頭は正しい進路とペース作り、最後尾は全体の安全と一人も置き去りにならないよう確認をします。 先頭に立って民を導き出された主は、 最後尾の民と追っ手との間に入り、民を守られました。 すべての人が海を渡り終えるのを確認し、水を元通りにされました。 私たちの前に立って導かれる主は、背後から忍び寄る誘惑や危険を押し留め、守られる方でもあります。 転んだまま見捨てられることはありません。 祈り:神様、万事休すと感じる状況になった時も、あなたにとってはそうではありません。 前にも後ろにも、あなたの守りを信頼して黙し、期待します。アーメン

出エジプト記12-13

通読: 出12-13、マタイ16 「その血は、あなたがたがいる家の上で、あなたがたのためにしるしとなる。わたしはその血を見て、あなたがたのところを過ぎ越す。わたしがエジプトの地を打つとき、滅ぼす者のわざわいは、あなたがたには起こらない。」出エジプト記 12:13 最後の災いは人命に直接関わるものでした。 ただ、傷のない羊の血を入口のかもいに塗った家にいれば助かりました。 主の裁きはそこを過ぎ越しました。 これはイエス・キリストの十字架の血と救いを直接連想させます。 どんな人でも、十字架の元に身を寄せれば救われます。 裁きを受けて滅びることはありません。 過越の祭りを直接祝うことはなくても、この恵みを覚える機会をことごとに持ちたいものです。 洗礼を受けたのは何月何日ですか?  イエス・キリストを信じたのは何月何日ですか? 私たちが忘れても、主は私たちを忘れず導き続けてくださいます。  「主は、昼は、途上の彼らを導くため雲の柱の中に、また夜は、彼らを照らすため火の柱の中にいて、彼らの前を進まれた。彼らが昼も夜も進んで行くためであった。(13:21 )」 祈り:神様、あなたの救いの恵みと方法を思い巡らし、改めて感謝します。滅びるべき私が、キリストの血によって裁きを過ぎ越され救われるという驚くべきみわざに感謝します。アーメン

出エジプト記9-11

通読: 出9-11、マタイ15:21-39  「主は、エジプトがこの民に好意を持つようにされた。モーセその人も、エジプトの地でファラオの家臣と民にたいへん尊敬された。」 出エジプト記 11:3 モーセとファラオのやりとりが続きます。 雹やいなごなどの災害が起こっても、ファラオの全面的なへりくだりはありませんでした。 もっとも、家来たちの中には主を恐れる人が起こってきました。 雹の時には家畜を避難させ、ファラオをたしなめる人さえいました。 モーセの人格と忍耐とは、来るべきキリストの影をを連想させます。 キリストもご自身を低くされ、最後までへりくだられました(ピリピ2章)。 そして、今の私たちにまで救いが及びました。 祈り:神様、聖書は単なる歴史物語ではなく、イエス・キリストを指し示すことを覚えます。私たちにまで福音が届けられ、救いに入れられている恵みに感謝します。アーメン

出エジプト記7-8

通読: 出7-8、マタイ15:1-20    「わたしが手をエジプトの上に伸ばし、イスラエルの子らを彼らのただ中から導き出すとき、エジプトは、わたしが主であることを知る。」出エジプト記 7:5 何度も心変わりするファラオを、頑固だなあと他人事のように思います。 しかし、主の守りを知っていながら将来が漠然と不安なら、ファラオと同じように不信仰なのかもしれません。 一方、呪法師や国内のエジプト人たちは、主の偉大さと力とをすでに知りつつありました。 モーセたちが遣わされ、忍耐強く交渉していることは、すでに主の栄光を表していたのです。 自分の思った結果がすぐ見えなくても、主に忠実に従うなら、主は思いがけないところで働きを進めてくださいます。 祈り:神様、あなたに従い今日も歩みます。人の短絡的な評価に左右されないよう、私の心が主を見つめ続けるよう助けてください。アーメン

出エジプト記4-6

通読: 出4-6、マタイ14:22-36 「しかし、モーセは主の前で言った。『ご覧ください。私は口べたです。どうしてファラオが私の言うことを聞くでしょうか。』」出エジプト記 6:30 モーセにとって、うまく話せないというのはコンプレックスであり、いつも逃げ込む言い訳でもありました。 召された時にも 「ああ、わが主よ、私はことばの人ではありません。以前からそうでしたし、あなたがしもべに語られてからもそうです。私は口が重く、舌が重いのです。(4:10)」と言いました。 その後も、同胞のクレーム、ファラオの拒絶と困難が続きます。都度、自分の苦手と無力にがっかりしたかもしれません。 しかし、これは「主に不可能はない」と学ぶレッスンでした。 私たちが無力だからこそ、これもあれも主がなさった、とわかります。 苦手なことをせよ、と主に導かれていますか? 「人に口をつけたのはだれか。…それは、わたし、主ではないか(4:11 )」 とモーセに言われた主は、弱い私たちを通してご自身の強さを表されます。 祈り:神様、私にはとても難しく、劣等感に触れるようなことがあります。でも、あなたの導きなら、あなたにゆだね、自分の肉の思いに死ぬことができるよう助けてください。信仰を与えてください。アーメン

出エジプト記1-3

通読: 出1-3、マタイ14:1-21 神はモーセに仰せられた。「わたしは『わたしはある』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエルの子らに、こう言わなければならない。『わたしはある』という方が私をあなたがたのところに遣わされた、と。」 出エジプト記 3:14 聖書の神様は「わたしはある」という方です。 時も場所も越えて存在される方が、 小さな私たちや、私たちのの短い地上人生にご計画を持っておられるとは驚きです。 モーセはファラオのところに遣わされました。 私たちはそれぞれ、今年どこで何をするよう招かれているでしょうか。 それに集中するために、何をやめるよう語られているでしょうか。 祈り:神様、あなたが私に望まれることを、私の肉のレンズでなく霊の目で見ることができますように。アーメン

創世記49-50

通読: 創世記49-50、マタイ13:31-58  「あなたがたは私に悪を謀りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとしてくださいました。それは今日のように、多くの人が生かされるためだったのです。」創世記 50:20 ヨセフは、自分の苦労の人生をこのようにひとことで述べました。 無私で仕えた彼の姿は、キリストの型と言われます。 イエス・キリストは罪がないのに私たちの身代わりとなり、十字架にかかってくださいました。 それによって、信じる人が永遠のいのちを得、生かされるためです。 試練に心しぼんでいますか? 身体の不調に疲れ果てていますか? 心探り、その中で感謝を発見し、仕える思いを与えて頂きましょう。 祈り:神様、自分の力では一歩も進めなくなります。あなたの恵みと回復の中に生かしてください。ヨセフのように、試練が益とされたと告白できますように。アーメン

創世記46-48

通読: 創世記46-48、マタイ13:1-30  「それから、ヨセフは父ヤコブを連れて来て、ファラオの前に立たせた。ヤコブはファラオを祝福した。」創世記 47:7 外国から来た老いたヤコブが、エジプトの王ファラオを祝福するとは、逆ではないのかと思います。 しかし、主の名において祝福の祈りをするのは、神を知る者に与えられた特権です。 クリスチャン一人ひとりは、周りの祝福の基として召されています。 今日、どのように主の祝福を流し出すことができるでしょうか。 祈り:神様、私をあなたの恵みと祝福を受けて流し出す器として用いてください。アーメン

創世記43-45

通読: 創世記43-45、マタイ12:24-50  「私をここに売ったことで、今、心を痛めたり自分を責めたりしないでください。神はあなたがたより先に私を遣わし、いのちを救うようにしてくださいました。」創世記 45:5  ゆるしには力があります。 ヨセフが兄たちをゆるしたことで、兄だけでなく家族全員が救われました。 不当に扱った人たちをゆるしたことで、エジプトと周囲の国々が救われました。 そしてもちろん、ヨセフ自身も大きな祝福を得ました。 私たちも、プライドと頑固な心を神に溶かして頂きましょう。 キリストがこんな私をゆるしてくださったのですから。 祈り:神様、心のわだかまりを取り扱ってください。あなたの前に持ってきます。あとはえなたの方法で報いてください。相手をゆるすことを選択します。アーメン

創世記41-42

通読: 創世記41-42、マタイ12:1-23  「ヨセフは長子をマナセと名づけた。『神が、私のすべての労苦と、私の父の家のすべてのことを忘れさせてくださった』からである。」創世記 41:51 30歳で転機が訪れるまで、穴に落とされ、奴隷として売られ、陥れられ、獄中で過ごし、懇願も忘れられたヨセフでした。 今度はどんな不幸がやってくるのか…という予期不安を抱いても良さそうですが、彼はそうしませんでした。 かえって、自分の子どもを マナセ(神が、 私のすべての労苦を忘れさせてくださった) エフライム(神が、苦しみの地で私を実り多い者としてくださった、41:52) と名付けました。 神は良い方で「私を…させてくださる」と信頼しました。 そのようにして、神の栄光を表しました。 ジンクスのように、悪いことがまた起こるのではと不安になりますか? 神は、どんなパターンでも打ち破ることのできる方です。 労苦でさえも、益に変えることのできる方です。 祈り:神様、あなたが益にしてくださる、良い方だと信じます。全ての労苦が私を整え、主の栄光のためのものとなりますように。アーメン

創世記39-40

通読: 創世記39-40、マタイ11  「監獄の長は、ヨセフの手に委ねたことには何も干渉しなかった。それは、主が彼とともにおられ、彼が何をしても、主がそれを成功させてくださったからである。」創世記 39:23 「主は彼(ヨセフ)とともにおられ」という表現が何度も出てきます(39:2,3,21,23)。 状況だけに目をとめると、どんどん悪くなっているように思えます。 エジプトで奴隷として売られ、せっかく重用されたのに主人の妻のうそで投獄される。 番人の評価はよかったが、所詮は獄中でしかない。 神が共にいるなら、なぜ劇的な助けが来ないのか、と。 しかし、神はもっと大きなスケールでご計画を持っておられました。 それがエジプトと周りの国々、ヨセフの家族皆を救うことになります。 私たちが信じているのは、近視眼なご利益宗教ではなく、世界を地理的にも歴史的にも治めておられるお方です。 祈り:神様、時に「あなたがいるのに、なぜ」と思うようなことがあります。しかし、あなたのご計画に間違いがないことを信じます。主が生きて働いておられることを、多くの方が知りますように。アーメン

創世記36-38

通読: 創世記36-38、マタイ10:21-42  「しかし、ルベンはこれを聞き、彼らの手から彼を救い出そうとして、『あの子を打ち殺すのはやめよう』と言った。」創世記 37:21 ヨセフの夢はやがて現実になるのてすが、 話す相手と時期が軽率でした。 兄たちから反感とねたみをかいました。 私が兄の一人なら、やはり面白くなかったと思います。 しかし、ヨセフを殺す企みに全員か賛成したわけではありませんでした。 私たちは、同じ情報や状況でも、違う反応をすることができます。 感情の動きと、それに対する反応とを聖霊によって制御して頂きましょう。 ねたみや怒りに任せた反応が、より深刻な結果を生まないように。 祈り:神様、不快な言葉や態度を受けた時、私の心を守ってください。堅く立ち、主の導かれる言動をとれますように。主にある確信と強さを与えてください。アーメン

創世記33-35

通読: 創世記33-35、マタイ10:1-20  「エサウは迎えに走って来て、彼を抱きしめ、首に抱きついて口づけし、二人は泣いた。」創世記 33:4 何と美しい場面でしょう。 自分を恨み、殺しにくるかもしれなかった兄が、迎えに来て走りより、嬉し泣きするとは。 エサウに何があったのか、聖書は多くを述べてません。 しかし、兄弟愛の麗しさとゆるしの力を雄弁に語っています。 肉親であれ霊の兄弟姉妹であれ、愛しゆるし合う姿はこのようです。 そこには双方が砕かれることと、主の介入が美しい姿をもたらします。 祈り:神様、私の心にあるわだかまりを主が取り扱ってください。相手の心を変えることができるのは、あなただけです。祈りつつ、まず自分自身の心を備えさせてください。アーメン

創世記31-32

通読: 創世記31-32、マタイ9:18-38  「彼がペヌエルを通り過ぎたころ、太陽は彼の上に昇ったが、彼はそのもものために足を引きずっていた。」創世記 32:31 アブラハムに故郷を出るよう導かれた神は、 ヤコブには「あなたの生まれた国に帰りなさい」と言われました。 人によって、神の導きは様々であるとわかります。 簡単ではありませんでした。 ラバンのところからは、逃げるような出発でした。 もっと大変なのは、かつてだました兄エサウと再会することでした。 彼なりに策を練りましたが、肝心の自分は神と格闘し、まともに歩けなくなりました。 …ここに神の知恵があります。 私たちの弱さは、神の強さです。神に信頼するほかない時、神の力が現れます。 今日、自分の弱さを覚えるなら、神が働いてくださることに期待しましょう。 祈り:神様、私の無力さを知る時、あなたの強さに信頼します。自分の望む解決でなく、主のみこころがなりますように。アーメン

創世記29-30

通読: 創世記29-30、マタイ9:1-17  「ラバンは答えた。『われわれのところでは、上の娘より先に下の娘を嫁がせるようなことはしないのだ。』」 創世記 29:26 長旅をして伯父のラバンに迎えられたヤコブは、 ラケルを愛して7年間仕えました。 ところが、妻として与えられたのは姉のレアでした。 詰め寄るヤコブに、ラバンはこう答えました。 かつて、ヤコブは長子の祝福をだまして奪ったのですが、今回は反対にだまされ、上の子を優先されたのでした。 彼には自分の罪深さや、兄や父の心情が痛いほどわかったでしょう。 辛い経験を通してもまた、彼の人格は成長し練りきよめられていくのでした。 祈り:神様、私が通ってきた、あるいは通っている辛い経験も、信仰と霊の実を結ぶために益となると信じます。今日も一日歩む導きと力を与えてください。アーメン

創世記27-28

通読: 創世記27-28、マタイ8:18-34  「ヤコブは眠りから覚めて、言った。『まことに主はこの場所におられる。それなのに、私はそれを知らなかった。』」創世記 28:16 ヤコブが兄から逃れるためにひとり旅をしていた時です。 家庭の崩壊、良心の痛み、これからの不安など、様々な思いがあったでしょう。 道中寝ている時に、天からの梯子を主は見せてくださいました。 ヤコブにとって、主が共にいてくださることの確認は大きな大きな励まし、転機でした。 新約聖書の今日の箇所では湖が荒れ、弟子たちが慌ててイエス様を起こしました。 主がおられるのに「どうして怖がるのか。信仰の薄い者たち」とイエス様は言われました。 人生の嵐の時、日々の暮らしの見通しがきかないときでも、主は共におられます。 主が必ず導かれることを確信し、信じ続ける者を喜んでくださいます。 祈り:神様、ふりかえるとあなたがこの時も、あの時もおられた、と気づきます。今日も、この先の人生も、あなたがおられることに安心し、信頼できるよう導いてください。アーメン

創世記25-26

通読: 創世記25-26、マタイ8:1-17   「主はその夜、彼に現れて言われた。『わたしは、あなたの父アブラハムの神である。恐れてはならない。わたしがあなたとともにいるからだ。わたしはあなたを祝福し、あなたの子孫を増し加える。わたしのしもべアブラハムのゆえに。』」創世記 26:24 突然ですが、こわいものは何ですか。 私にはいろいろあります。 たとえば、置き去りにされること、独り見捨てられることを恐れてきました。 昨夜は、終電に乗り遅れる夢にうなされました(実際の経験はありませんが)。 「恐れてはならない、わたしがあなたとともにいる」 とイサクに語られた神は、私たちにも同じように語られます。 たとえ終電をのがしても、誰かに見捨てられるような経験をしても、神は私たちを見捨てず、いつも共にいてくださいます。 祈り:神様、いつも共にいてくださり感謝します。どうしてよいかわからないとき、聖霊様の知恵と導きにゆだねます。あなたの働きを妨げることがないよう、霊の耳を与えてください。アーメン

創世記23-24

通読: 創世記23-24、マタイ7 「そして私はひざまずき、主を礼拝し、私の主人アブラハムの神、主をほめたたえました。主は、私の主人の親族の娘さんを主人の息子に迎えるために、私を確かな道に導いてくださったのです。」 創世記 24:48 サラがいなくなり、アブラハムと息子イサクは二人暮らしでした。富はあり、使用人もいたけれど、淋しい思いも経験したでしょう。 48節は、イサクの結婚相手を探しに行ったしもべのあかしです。 誰もがこのような経緯で相手を見つけるわけではありませんが、しもべのぶれない信仰と忠実さにならうことはできます。 結婚は、若い世代の一大関心事です。中高生やユースのキャンプでは、分科会に「結婚」のテーマがあるくらいです。 もっとも、イサクのように結婚する人もいれば、パウロのように独身の賜物がある人もいます。 愛するユース世代のひとりひとりが、信仰に立ち、みこころに導かれるよう祈り応援しましょう。 祈り:神様、教会に集う学生やユース世代を祝福してください。彼らの将来、結婚が、主に喜ばれるものとなりますように。私たちも祈りと、実際の励ましとで支えさせてください。アーメン

創世記20-22

通読: 創世記20-22、マタイ6:19-34  「アブラハムは、その場所の名をアドナイ・イルエと呼んだ。今日も、『主の山には備えがある』と言われている。」 創世記 22:14 長年子どもが与えられませんでした。 イサクが生まれましたが、イシュマエルとの間がぎくしゃくしました。 さらに、イサクをささげるようにと言われました… このように見ると、人生は次から次へと問題続きだと感じてしまいます。 ある面、その通りです。 しかし、アドナイ・イルエ、「備え主」の神様によってアブラハムには息子イサクが与えられた。 イサクもイシュマエルも、別の場所で子孫が増え、数えきれないほどになった。 アブラハムが神を第一にするかのテストだった。 すでに羊は用意されていた。 私たちの問題の側面には、すでに備え主の神様の解決があります。 何に信頼し、視点をどこに置くかが問われています。 祈り:神様、今日まで私の必要を備え、生かしてくださって感謝します。これからも守ってくださると信頼しできますように。不安から解放してください。アーメン

創世記18-19

通読: 創世記18-19、マタイ6:1-18  「主にとって不可能なことがあるだろうか。わたしは来年の今ごろ、定めた時に、あなたのところに戻って来る。そのとき、サラには男の子が生まれている。」 創世記 18:14 主の使いがアブラハムとサラに言いました。 新約聖書でマリアに天使が告げたのと似ています。 「神にとって不可能はない」 この後、神との交渉、ソドムとゴモラの滅亡が続きます。 主はあわれみ深く、正しい人の条件を10人まで下げ、ロトの手をつかんで退避させました。 神が全能であり不可能がないこともまた、こうした出来事を通して一つ一つ証明されています。 今日の出来事の中にも、神のあわれみと全能とが示されています。それに目を留めることができるよう、祈りましょう。 祈り:神様、周囲の出来事に、あなたのゆるしとあわれみを覚えることができますように。感情でなく、霊の目で見せてください。アーメン

創世記16-17

通読: 創世記16−17、マタイ5:27-48  「主の使いは、荒野にある泉のほとり、シュルへの道にある泉のほとりで、彼女を見つけた。 そして言った。『サライの女奴隷ハガル。あなたはどこから来て、どこへ行くのか。』 すると彼女は言った。『私の女主人サライのもとから逃げているのです。』 主の使いは彼女に言った。『あなたの女主人のもとに帰りなさい。そして、彼女のもとで身を低くしなさい。』」 創世記 16:7-9 高慢な態度をとったから仕方ないものの、ハガルが気の毒に思えます。 ハガルもサライも、どれほど傷ついたでしょうか。 主は、傷つきぼろぼろになった者を「見つけ」てくださいます。 名前を呼んでくださいます。 全てご存知でも「あなたはどこから来て、どこへ行くのか」と尋ね、私たちの答えを待っておられます。 神の前に率直に出るとき、今日も神は行くべき道を教えてくださいます。 あるいは、留まるようにという場合もあります。 ハガルが女主人の元に戻り、謙遜になるよう教えられたように。 祈り:神様、あなたと共に決断していきます。時には気の進まないこともあります。留まるように導かれる時には、謙遜になれるよう助けてください。アーメン

創世記13-15

通読:創世記13-15、マタイ5:1-26 「アブラムは主を信じた。それで、それが彼の義と認められた。」 創世記 15:6 アブラムは、ロトと別れて住むようになりました。 甥のロトによい土地を選ばせました。 また、戦いの時は彼を助けました。 アブラムはよい人でした。 しかし、彼には切望していた子どもがいませんでした。 それは彼の財産では埋められないものでした。 良い人が苦難にあうのはなぜか、と私たちは問います。 もしかすると、良い人だからこそ神は信仰の戦いに招いておられるのだろうか… 神は共にいて、その人を信仰の勇者へとさらに成長させるのかもしれません。 ただ一度のささげものとして十字架にかかったキリスト、この方を救い主信じる信仰が私たちを義とみなすのです。 祈り:神様、アブラムのように実直な信仰と行動を与えてください。試練や問題を、肉の目だけで判断しないよう、あなたに霊の目を向けられるよう助けてください。アーメン

創世記10-12

通読: 創世記10-12、マタイ4 「主はアブラムに言われた。『あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。...わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される。』」創世記 12:1,3 「住み慣れたわが家で最後まで暮らしたい」と父はよく言いました。 彼にとって、自宅を離れるのは身体の一部を失うような思いでした。 アブラムが故郷を出るのも、易しいことではなかったはずです。 それでも、彼は主のことばに従いました。 神の目的は、彼が祝福されるに留まらず、彼を通して周囲が祝福されることでした。 バベル(11章)以来散らされたすべての民族、部族の祝福のためでした。 クリスチャンも、神の祝福を流すために召されています。 自分ももちろん、他者の祝福のために用いられるようにと願われ、生かされています。 気前よく流し出すところに、また神の祝福が注がれていきます。 祈り:神様、あなたの摂理とダイナミックなご計画を経験させてください。気前よく分かち合う信仰と勇気を与えてください。アーメン

創世記7-9

通読: 創世記7-9、マタイ3 「虹が雲の中にあるとき、わたしはそれを見て、神と、すべての生き物、地上のすべての肉なるものとの間の永遠の契約を思い起こそう。」創世記 9:16 大洪水という試練の間、毎日が長く感じられたかもしれません。 いつまでか、いつになれば終わるのか、先が見えないときに、失望感や抑うつがやってきます。 私自身も、パンデミックの時はこれからどうなるのかと思ったことでした。 先の見渡せない私たちと異なり、神は永遠を見ておられます。 キリストによる救いは聖書を貫くテーマであり、永遠のスケールの計画です。 この方に信頼するほど確かなことはありません。 祈り:神様、あなたは永遠の視点から、私を導いてくださいます。あなたの用いたいと思われる所に私を置いてください。試練の時にも、どうか心を守ってください。アーメン

創世記4-6

通読: 創世記4-6、マタイ2 「これはノアの歴史である。ノアは正しい人で、彼の世代の中にあって全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。」創世記 6:9 当時は悪が満ちた時代でした。 「主は、地上に人の悪が増大し、その心に図ることがみな、いつも悪に傾くのをご覧になった。(6:5)」 「心に図ること」…ニッキー・ガンベルは、「悪は行いや態度だけでなく、思いと想像から生じる」とコメントしました。 私たちは、いともたやすく妄想し、否定的な思いになります。 ノアはぶれずに正しく生きました。 それは、彼が神とともに歩んだからでした。 私たちも、情報が飛び交う時代に、主とともにぶれずに歩めますように。 祈り:神様、私の心を導いてください。悪い空想、考えに支配されないように、心を見張ることを教えてください。アーメン

創世記1-3

通読: 創世記1-3、マタイ1 「神は仰せられた…」 「神である主は言われた」 創世記1:3、6、9、11、14、24、26、29、    2:18 この世界を創造される時、神はことばで命じられました。すると万物が秩序を持って麗しく存在し始めました。 私たちが神のことばに聞くなら、今年も神のご計画が進んでいると希望を持つことができます。 聖書のことばを蓄え、心に神の語りかけを聞きましょう。 祈り:神様、今年も聖書のことばに親しみ、日々の出来事の中にあなたの導きを求めます。アーメン

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