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マタイ19

「しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になります。」マタイ19:30 競争心のある方ですか? それが励みになり、良いものを追求する動機になることもあります。 しかし、過度に比較すると、優越感や劣等感のとりこになってしまいます。 聖書は、天の国は先の者が後になり、後の者が先になることがあると語っています。 自分が先の者なら悔しいですが 後の者であることを思うと、主の恵み深さを実感します。 年下の人や信仰の間もない人がどんどん霊的に成長するのを、心から喜べる者となれますように。 祈り:神様、あなたの恵みとあわれみの深さに感謝します。互いの成長を喜びあえますように。アーメン

マタイ18

「まことに、もう一度あなたがたに言います。あなたがたのうちの二人が、どんなことでも地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父はそれをかなえてくださいます。」マタイ18:19 昨日はイースターの幸いな礼拝でした。心を一つにして主を見上げ、礼拝をささげ、賛美をし、祈ることの恵みを実感しました。 イエス様は、祈りについて二人でも共に心を合わせるなら、父はそれを聞いてくださると教えてくださいました。 そして 「二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです(20節)」と、イエス様ご自身も共にいると言われました。 一人で祈るのも恵みですが、二人、三人と共に祈るのは大きな励ましであり恵みです。祈りの友がいますか?互いに祈りあえる信仰の友は、どんなプレゼントにも勝る主の贈り物です。 祈り:神様、信仰の友を与えてくださり感謝します。同じ主を見上げて祈り合う時、信仰が励まされます。主が聞いていてくださることを信じます。アーメン

マタイ17

「『人の子は彼らに殺されるが、三日目によみがえります。』すると彼らはたいへん悲しんだ。」マタイ17:23 イースターおめでとうございます! 弟子たちはイエス様の死とよみがえりを聞かされても「たいへん悲し」みました。 理解できなかったからです。 しかし、イエス様はそれが神のご計画であること、そして悲しみで終わるのではないことをすでに知っておられました。 そして実際もその通りです。 イエス・キリストの復活が、二千年にわたって世界中で喜びと感謝の事実として祝われています。 私たちは主の復活と、それが自分に関係のあることだということを信じています。 「からし種ほどの信仰」(20節)だとしても、持てば永遠のいのちが得られるという恵みの中に生きています。 この恵みの大きさを味わいましょう。 祈り:神様、あなたの復活の力を感謝します。死を打ち破り、よみがえってくださり、永遠のいのちへの道を確かにしてくださって感謝します。イースターを兄弟姉妹と共に喜び、共に祝います!アーメン

マタイ16

「そのときからイエスは、ご自分がエルサレムに行って、長老たち、祭司長たち、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえらなければならないことを、弟子たちに示し始められた。」マタイ16:21 イエス様はご自身が十字架にかかられ、よみがえられることをすでに知っておられました。 また、ご自身がキリストであることも弟子たちに明らかにされました。 ふり返る時、弟子たちにはそのことが理解できました。しかし、この時にはあまりよくわからなかったようです。 今の私たちは、キリストの十字架と復活の意味が聖書によって明らかにされています。それを信じ受け入れるだけでよいという、恵まれた時代に生かされています。 明日はイースター(復活際)です。日本でもだんだんと知られるようになりましたが、お祭りとか年中行事と捉えがちです。 ひとりでも多くの人が、本当の意味と救い主を知ることができますように。 祈り:神様、イースターがなぜ素晴らしい記念日なのか、知らない人がほとんどです。自然な会話ややり取りの中で、福音を分かち合う機会を与えてください。アーメン

マタイ15

「『この民は口先でわたしを敬うが、 その心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを礼拝しても、むなしい。 人間の命令を、教えとして教えるのだから。』」」マタイ15:8~9 パリサイ人や律法学者たちに対して、イエス様はイザヤの預言を引用して厳しく叱責されました。 というのも、彼らがみことばの字面をとり、本質をねじまげて「神にささげたから父母にあげる物はない」というふうに曲解していたからです。 私たちが同じような偏りに陥らないよう祈りたいです。 自分の都合のよいようにみことばを解釈したり、働き人や兄姉の心からの忠告を聞き入れなかったりする者でなく、イエス様の前に心探られ砕かれた者となりますように。 そして、今日は十字架にかかってくださったイエス様を特に覚えて感謝します。 祈り:神様、あなたの前にへりくだることを教えてください。 みことばを受けとる謙遜さと兄姉の真心に感謝する心を与えてください。あなたの十字架の愛を覚えて感謝します。アーメン

マタイ14

「人々はみな、食べて満腹した。そして余ったパン切れを集めると、十二のかごがいっぱいになった。」マタイ14:20 私たちは自分には少ししかない、無理だ、と言い訳をしがちです。 ちょうど「ここには五つのパンと二匹の魚しかありません」(17節)のように。 しかし、主はそれを用いて五千人以上を満足させたお方です。 小さなものを主のために差し出す時に、主は喜んでくださり、ご自身の力で用いてくださいます。 心のたんすの中にしまっているもので、何を主におささげできるでしょうか。 祈り:神様、私に与えられているものは、あかしも賜物も時間も持ち物も、全てあなたからのものです。私の____を、主の栄光のためにおささげできるよう、そして用いていただけますように。アーメン

マタイ13

「それは、預言者を通して語られたことが、成就するためであった。『私は口を開いて、たとえ話を、世界の基が据えられたときから 隠されていることを語ろう。』」マタイ13:35 詩篇78篇2節に「私は口を開いて たとえ話を 昔からの謎を語ろう」 とあります。 主を信じ賛美する者を通して、主が預言を与えられたことがわかります。 ただすてきな詩として味わうだけでなく、詩篇にも主のご計画やみこころが現されているのだと思うと、その奥深さに興味はつきません。 今日も、主を愛し信頼する人を通して、主が預言の言葉を与えてくださることがある、と私は信じます。 それは聞く人の徳を高め、建て上げ励ますための主の愛に根ざしたものであると思います(人を縛り、落胆させるものには注意が必要です)。 第一コリント 14:1「愛を追い求めなさい、。また、御霊の賜物、特に預言することを熱心に求めなさい。」 14:3「預言する人は、人を育てることばや勧めや慰めを、人に向かって話します。」 14:4「...預言する人は教会を成長させます。」 祈り:神様、あなたのみ思いを、人を通しても表してくださり感謝します。判別する力を与えてください。また、人を育て勧め励まし、教会を成長させる主の愛の言葉を与えてください。アーメン

マタイ12

「これは、預言者イザヤを通して語られたことが成就するためであった。『見よ。わたしが選んだわたしのしもべ、 わたしの心が喜ぶ、わたしの愛する者。 わたしは彼の上にわたしの霊を授け、 彼は異邦人にさばきを告げる。 彼は言い争わず、叫ばず、 通りでその声を聞く者もない。傷んだ葦を折ることもなく、 くすぶる灯芯を消すこともない。 さばきを勝利に導くまで。異邦人は彼の名に望みをかける。』」マタイ12:17~21 イザヤが預言したように、父に愛された御子は人々の痛み苦しみをわかってくださる方です。 ちょうど先日のTV「ライフ・ライン」でもこの箇所からメッセージがされていました。 使い物にならない「傷んだ葦」、消えそうな「くすぶる灯芯」のような人々を見捨てることなく、回復させてくださる方こそイエス・キリストです。 私たちの傷んだところ、消えそうに弱っているところをキリストの前に持っていき、癒していただきましょう。 祈り:神様、イエス・キリストを通して、あなたの愛と癒しを受けます。私の_____を包み癒してください。アーメン

マタイ11

「この人こそ、 『見よ、わたしはわたしの使いを あなたの前に遣わす。 彼は、あなたの前にあなたの道を備える』 と書かれているその人です。」マタイ11:10 イエス様は、バプテスマのヨハネについてこのように言われました。 旧約聖書のマラキ書3章を引用されたのです。 マラキ書では、主が現れる前にこの人物が来ると述べられています。 つまり、イエス様はご自身が旧約聖書の成就であること、そして主であることを明らかにされたわけです。 このことを信じるのは、幼子のような心を持った人々でした(25節)。 私たちは、今日も幼子のような心でキリストを理解しようとしているでしょうか。 へりくつや理論に傾いた、小さな信仰になっていないでしょうか。 純粋な信仰で、主の守りとみわざを見る者となれますように。 祈り:神様、私に純粋な信仰を増し加えてください。また、イエス様の招きに、____さん、____さんが、幼子のように応答できますように。アーメン

マタイ10

「二羽の雀は一アサリオンで売られているではありませんか。そんな雀の一羽でさえ、あなたがたの父の許しなしに地に落ちることはありません。」マタイ10:29 受難週が始まりました。イエス様の十字架への道を思いながら過ごしたいと思います。 雀たちの命さえ支配しておられる主は、私たちのいのちや一生を私たち以上に知っておられます。 イースターの礼拝では特別賛美と演奏があります。 演奏は「一羽の雀」で、サビは 「こえたからかに われは歌わん 一羽の雀さえ 主は守りたもう」 です。まさに今日の箇所の通りです。 賛美は「はかのなかに」です。 「よみよりかえり 死と悪魔に勝ちし 君こそ勝利の主なれ 君こそまことの主なれ~」 壮大な主のみわざを共にほめたたえましょう。 祈り:神様、受難週に入りました。私たちのために十字架の道を通ってくださり感謝します。心を整えてこの一週間を過ごすことができますように。アーメン

マタイ9

「そこでイエスは弟子たちに言われた。『収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、ご自分の収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。』」マタイ9:37~38 イエス様のこのことばに応答して、多くの人が働き手が起こされるように祈ります。 そして、中には自分もその収穫に共に働きたい、と導かれる人もいます。 今年も聖書の学びをするため、日本中の聖書学校、神学校に入学した人がいます。 その人たちのために祈りましょう。 また、「私はどうだろうか」と問うてみましょう。 フルタイムでなくても、仕事や家事をしながら学ぶ方法、仕える方法もあります。 神様は何を望まれているでしょうか。 祈り:神様、収穫の主のために日々労苦している働き人のために祈ります。あなたが必要な力と喜びを与えてください。全国で聖書の学びをしている人たちを祝福してください。家族と霊性を支えてください。アーメン

マタイ8

「これは、預言者イザヤを通して語られたことが成就するためであった。『彼は私たちのわずらいを担い、 私たちの病を負った。』」マタイ8:17 イエス様は、 ツァラアトの人に手を伸ばして触れてくださったり(3節)、 百人隊長のしもべのところへ行こうとしてくださったり(7節)、 ぺテロの家で姑の熱をいやしてくださったり(14節)、 悪霊どもを追い出し、病気の人々をみな癒やされたり(16節)しました。 人々の求めること以上のことをしてくださったともいえます。 イザヤ53:4の預言が、この愛に満ちた方、実際に癒す力のある方において実現しました。 今日も、同じ主が私たちの日々の歩みに関心を持っておられます。 教会は主のもの、そして教会の歩みや決断も、主のみこころを求めて皆で祈ることを喜んでくださいます。 教会設立50年を前に、今年もいくつかの変化が感じられます。 変わらない主が教会の頭であることに信頼し、ますます心合わせて祈っていきましょう! 祈り:神様、昔から未来まで、変わらない主に祈り頼ることができて感謝します。 私たちの日常のことから宇宙のことまで、あなたのみこころがなりますように。 みこころが教会の歩みに日々行われますように。アーメン

マタイ7

「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれでも、求める者は受け、探す者は見出し、たたく者には開かれます。」マタイ7:7~8 「ウォンツ(wants)」と「ニーズ(needs)」という表現を聞いたことがあります。 前者は「なくてもよいけど欲しいもの(バーゲンでたまたま見つけたものなど)」、後者は「その人にとって必要、あるいは不可欠なもの」だそうです。 「ウォンツ」は本当に必要とは言えないので、しばらくすると忘れることさえあります。 祈りは、私たちの「ウォンツ」と「ニーズ」を明らかにしてくれます。 みこころでない願いは、祈るうちに主が執着を取り除いてくださいます。 一方、みこころに沿った祈りは聞き届けられます。 ですから、あきらめず祈り続けることが大切です。みこころなら必ず受け、見出し、開かれるのだと確信を持って祈りましょう。 祈り:神様、祈りがなかなか聞かれないとあきらめそうになります。どうか忍耐と確信を与えてください。思いをあなたの元に持っていける恵みに感謝します。アーメン

マタイ6

「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。」マタイ6:33 アメリカの動向に経済が揺れているそうです。海の向こうの決定が日常生活に影響し、不安を覚える人がいます。 そうした時、「まず神の国と神の義を求めなさい」と語りかけてくれるみことばの存在は、何と力強いことでしょう。 「そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます」という約束も与えられています。 昨日はKBIの入学式でした。聖書の希望と福音を信じ、人々に伝えたいと願う人たちが多く集う姿に励まされます。 人々が不安な時ほど、福音の光とみことばの安定感が輝きます。 祈り:神様、聖書のことばに根ざした価値観の確かさを覚えます。今、経済や社会の変動に不安を感じている人が、ゆるがない聖書とキリストの救いに安らぎを見出だすことができますように。私のあかしも(たとえ自分では小さいと思っても)主のために用いてください、アーメン

マタイ5

「あなたがたは世の光です。山の上にある町は隠れることができません。また、明かりをともして升の下に置いたりはしません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいるすべての人を照らします。」マタイ5:14~15  今週の「ライフ・ライン」の番組のゲストは井ノ川晴樹さんという方でした。 16節の「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです」 を座右の銘にしておられるとのことでした。 もっとも、私たちが自分で良い行いをするのには限界がありますし、自らの力で世の光となることもできません。 この光は、キリストの福音を知った者が見出だす、キリストご自身の栄光です。 キリストの霊が内に住まい、キリストについていきたいと思う者を通して、欠けだらけの器から光がもれるように、キリストの栄光が輝くのです。 今日、キリストのどんなご性質が私たちを通して輝くようにと願いますか。 祈り:神様、私たちをキリストをあかしする者として召してくださり、感謝します。 口先だけでなく、信仰を実践する者となれますように。アーメン

マタイ4

「これは、預言者イザヤを通して語られたことが成就するためであった。 『ゼブルンの地とナフタリの地、 海沿いの道、ヨルダンの川向こう、異邦人のガリラヤ。闇の中に住んでいた民は 大きな光を見る。 死の陰の地に住んでいた者たちの上に 光が昇る。』」マタイ4:14~16 今回のマタイ通読では、旧約聖書のことばがイエス・キリストを指し示していることに着目しています。 イエス様の公生涯のはじめも、旧約聖書の預言が成就しました。 14~16節はイザヤ9章のはじめに出てくることばです。 「しかし、苦しみのあったところに闇がなくなる」に続いて、このことばが書かれています。 そして、その通りになりました。 ゼブルン、ナフタリ、ガリラヤ...だけでなく、今の日本にも、私たちにも、 「闇の中に住んでいた民は大きな光を見る」の通り、キリストは光です。 死の陰の滅びから永遠のいのちへと救い出してくださる方です。 祈り:神様、イエス・キリストこそが死から救ってくださる光です。人生の意味を求めている___さん、___さんが、明確この光を信じることができますように。アーメン

マタイ3

この人は、預言者イザヤによって 「荒野で叫ぶ者の声がする。 『主の道を用意せよ。 主の通られる道をまっすぐにせよ』」 と言われた人である。マタイ3:3 前回(2024年7月)には、バプテスマのヨハネの人格について考えました。 彼の出現も旧約聖書に預言されていたことに気づきます。 イザヤ40:3「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意せよ。荒れ地で私たちの神のために、大路をまっすぐにせよ』」 聖書の約束は実現します。なぜなら、偽りのない神ご自身のことばだからです。 今、聖書にあるどの約束を握って歩んでいるでしょうか。 紙に書いて手帳にはさんだり、スマホの待ち受け画面にしたりするのもよいですね! まだよくわからない人も、聖書を少しずつ読むうちに神様の希望の約束を発見することでしょう。 祈り:神様、何千年も人生の指針を与えてきた聖書は、今日も私たちへの約束で満ちていることを信じます。人生の道しるべとなることばを見出だす、素晴らしいみことば探検の旅に導いてください。聖書が楽しく読めますように。アーメン

マタイ2

彼らは王に言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者によってこう書かれています。  『ユダの地、ベツレヘムよ、 あなたはユダを治める者たちの中で 決して一番小さくはない。 あなたから治める者が出て、わたしの民イスラエルを牧するからである。』」マタイ2:5~6 イエス・キリストが来られたのは偶然ではなく、神のご計画のうちに旧約聖書の預言を成就されました。 ミカ書5:2に救い主がベツレヘムで生まれることが預言されていました。 そのことを博士たちは調べ、知っていました。 旧約聖書が大切な理由は、それがイエス・キリストを中心として書かれているからです。そして新約聖書につながっているからです。 ただの歴史や知恵の書ではなく、キリスト抜きではなく、信仰をもって読むときにだんだんとつながってきます。ちょうど、ベツレヘムでメシアが生まれることが実現した、この箇所のように。 同じように、私たちの生涯にも主が深いご計画を持っておられることを覚えて感謝します! 祈り:神様、あなたが歴史を通し、一貫して希望を示してくださっていることを感謝します。 私の日々の歩みにも希望を与えてくださることを信じます。 聖霊の光により頼みつつ聖書を読み、理解できるように助けてください。アーメン

マタイ1

「このすべての出来事は、主が預言者を通して語られたことが成就するためであった。」マタイ1:22 今日から再び新約聖書を読みます。 新約聖書は全部で260章、今から読みはじめても年内に通読できます。ぜひご一緒に! マタイに書かれているキリスト誕生の出来事は、偶然や思い付きではありませんでした。 すでに預言者を通して語られていたことが実際に起こったのです。 マタイの始めに系図が置かれているのも、たまたまこの時に起こったのではなく、神様の深い計画がこのタイミングで行われたことを傍証しているようです。 祈り:神様、あなたの深いご計画とみこころを感謝します。今回も新約聖書を読みながら、その素晴らしい愛と知恵にふれることができますように。アーメン

黙示録22

「もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、ともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは世々限りなく王として治める。」黙示録22:5 「いのちの木」という賛美の中に、 「もはや夜がない 主の光の中 いのちの木の 豊かさ知る」 という歌詞があります。 いのちの木は創世記にも黙示録にも出てきます。 そのいのちは神である主ご自身が保っておられます。 夜の闇もなく、神の栄光の光が明るく照らす中で過ごす幸いを聖書は語ります。 今それを信じて平安を得るか、信じないで自分の常識の中だけで生きるか、選択は私たち次第です。 平安と幸いを今も、そして永遠も得ることができるようにと、主は招いておられます。 祈り:神様、あなたの平安と約束を信じる信仰を増し加えてください。____さん、____さんが一歩踏み出せますように。アーメン *明日から年末までは、新約聖書を通読予定です。

黙示録21

「神は彼らの目から 涙をことごとくぬぐい取ってくださる。 もはや死はなく、 悲しみも、叫び声も、苦しみもない。 以前のものが過ぎ去ったからである。」」黙示録21:4 差別、虐待、死別、貧困、病気、反目...。 多くの人が、人生の不条理や不公平を経験していると思います。 人知れず流した涙、理解してもらえない悲しみと悔しさ、主はご存知です。 私たちの涙をすべてぬぐい、慰めてくださる時がやってきます。 このことばをいつも思い出し、新しい年度も日々過ごしていきたいですね。 祈り:神様、あなたは全知全能のお方です。私の悲しみ、痛み、苦しみ、感情をすべてわかってくださり感謝します。_____を、あなたの義とさばきにゆだねます。アーメン

黙示録20

「また私は、死んだ人々が大きい者も小さい者も御座の前に立っているのを見た。数々の書物が開かれた。書物がもう一つ開かれたが、それはいのちの書であった。死んだ者たちは、これらの書物に書かれていることにしたがい、自分の行いに応じてさばかれた。」黙示録20:12 開かれたのは「いのちの書」でした。 「いのちの書」には、私たちの生涯の行いが書かれています。 その書に救われた者として名前が記されているなら、「イエス・キリストを信じた」ということのゆえに、すべての失敗や罪がゆるされ、御国に入る特権が与えられています。 もっとも、天での報いは様々のようです。 天だけではなく、この地上の生涯も同様です。 「死ぬ直前に信じたらいいや」と言わず、今日信仰を持ち主に従って歩むことで、どれだけ豊かな人生が送れることでしょう。 祈り:神様、信仰を躊躇している人が今日決心し、イエスキリストを信じることができますように。豊かな人生の秘訣である聖書に触れることができますように。アーメン

黙示録19

「また、御座から声が出て、こう言った。『神のすべてのしもべたちよ、 神を恐れる者たちよ、 小さい者も大きい者も 私たちの神を賛美せよ。』」黙示録19:5 日曜礼拝の前半では、皆がそろって礼拝に参加します。子どもメッセージを聞き、ともに賛美をします。 年齢にかかわらず共に礼拝する姿は、天国の前味のようです。 御座から「小さい者も大きい者も私たちの神を賛美せよ」という声が聞こえた時、 天国で同じ喜びの姿が見られるのだと思うと、何だか嬉しくなります。 そして、今の日常の中で、すでに同じような機会があることは感謝の驚きです。 祈り:神様、あなたをやがて御国で賛美するように、教会に集い礼拝できることに感謝します。赤ちゃんから100歳を越える人まで、主の前に共に集まる恵みを味わいます。アーメン

黙示録18

「彼らは頭にちりをかぶり、泣き悲しんで叫んだ。『わざわいだ、わざわいだ、大きな都よ。海に船を持つ者たちはみな、ここでその繁栄から富を得ていたのに、その都が一瞬にして荒れ果ててしまうとは。』」黙示録18:19 バビロン(神に反逆する繁栄や贅沢な都)は滅ぼされます。 しかも一瞬のうちに。 民や王たち、商人や船長、水夫たちも嘆きます。 なぜなら、彼らに儲けをもたらしていたものが消え去ってしまったからです。 お金や持ち物だけに価値を置いていた人たちには、すべてがなくなってしまったと感じられました。 神抜きで過ごしているなら、確かにそうです。 地上のどんなものも、永遠に続くことはありません。 しかし、福音を知っている者には望みがあります。それはお金では買えない救いと永遠のいのちです。 イエス・キリストと神のことばは変わりません。 そして、それこそが私たちの頼みであり、人生の希望です。 祈り:神様、Living Hope(人生の希望)という賛美を歌う時、あなたの元にいる安心と変わらない希望を覚えます。礼拝や集会で賛美する時、歌詞の意味をかみしめ、宣言することができますように。主の勝利と希望の宣言として賛美できるよう、私の口をゆだねます。アーメン

黙示録17

「彼らは子羊に戦いを挑みますが、子羊は彼らに打ち勝ちます。子羊は主の主、王の王だからです。子羊とともにいる者たちは、召されて選ばれた忠実な者たちです。」」黙示録17:14 獣(サタン)におもねた地上の王は、子羊(キリスト)に戦いを挑みます。 しかし勝利は子羊にあります。 キリストは主の主、王の王です。 そして、主に従った人たちは子羊と共にいるというのです。 島流しされ、親しんだ教会や人々から切り離されたヨハネにとって、これは大きな希望と慰めだったでしょう。 そして、今の私たちにとってもこれは希望と慰めです。 すでに地上生涯を終えた信仰者と再会し、何より子羊イエス・キリストと共にその勝利にあずかることができると約束されています。 祈り:神様、あなたが与えてくださった希望を確認し宣言します。年度末で忙しい人、移動しなければならない人、疲れの出ている人に、主の希望と支えが与えられますように。アーメン

黙示録16

「また私は、水をつかさどる御使いがこう言うのを聞いた。『今おられ、昔おられた聖なる方、 あなたは正しい方です。 このようなさばきを行われたからです。』」黙示録16:5 神を信じない者、冒涜する者に対してのさばきが行われます。 7つのさばきが出てきます。 ・悪性の腫れ物 ・海が血のようになる ・川と水源が血になる ・太陽の炎熱 ・闇 ・水が涸れる ・雷と地震、天変地異 出エジプト記のさばきと似たものがあることに気づきます。 旧約聖書でも、神のさばきは何度も悔い改めの機会があったのに悔い改めない、かたくなな人々に対してでした。神を信じる人は脱出への道が備えられていきました。 恐れるな、神が脱出の道を用意してくださっていることが、聖書のメッセージです。 祈り:神様、目に見えて起こる状況に怖くなるときがあります。でも、あなたに信頼していれば平安があることを学びました。どうか私の信仰を増し加えてください。アーメン

黙示録15

「主よ、あなたを恐れず、 御名をあがめない者がいるでしょうか。 あなただけが聖なる方です。 すべての国々の民は来て、 あなたの御前にひれ伏します。 あなたの正しいさばきが 明らかにされたからです。」黙示録15:4 キリストの御名を信じる者が天で賛美をささげる様子です。 地上では神のさばきが行われています。きっと大きな音が起こり、驚きと恐怖が反逆を続ける人にはあるでしょう。 それに比べ、主のみもとでは静かな、暖かい、そして深い平安のある光景が広がっています。 来るべき世界だけではなく、イエス・キリストを信じた者の心の中も同じだと思います。 外側には苦難や災難があっても、たましいは黙示録の描写のように深い平安が与えられています。 目に見える情報だけでなく、キリストにあるたましいの平安に意識を向けてみませんか。 祈り:神様、インターネットやニュースの情報、身辺の出来事ばかりに振り回されそうです。静まって、たましいの深いところに私の目を向けさせてください。キリストの福音によって与えられた平安と希望を、再確認できますように。アーメン

黙示録14

「また私は見た。すると見よ。白い雲が起こり、その雲の上に人の子のような方が座っておられた。その頭には金の冠、手には鋭い鎌があった。」黙示録14:14 天で権威を持っておられ、白い雲の上に座っておられる人の子が見えます。 その頭には金の冠~勝利とすべて支配される王としての輝き、 そして手には鋭い鎌~刈り取りに使われる道具、 がありました。 JS(中高生)キャンプが終わりました。 現地参加した人も、オンラインで共に参加した人も、祈りで支えた人も、主が良い方であることを改めて感じたことと思います。 すべての栄光と誉れを受け、地上にあわれみと義を実現してくださる方を知っているとは、なんという幸いでしょう。 価値観の揺らぐ世界にあって、変わらない主がおられます。 祈り:神様、私たちの人生の錨となり導いてくださることを感謝します。私たちが迷いそうになった時、あなたが私を造ってくださった目的を知り、変わらないお方に望みを置くことができますように。若い人も年配の人も、神様のデザインとご計画のうちに歩んでいく恵みに浸らせてください。アーメン

黙示録13

「ここに、知恵が必要である。思慮ある者はその獣の数字を数えなさい。それは人間を表す数字であるから。その数字は六百六十六である。」黙示録13:18 美術や宝石の鑑定士と言われる人たちは、本物と偽物を鋭く見分けます。 知識のない素人にはわからない違いを見つけ、偽物を見破ることができます。 キリストを主と信仰する人には、同様に見抜く知恵が与えられます。 獣(サタン)は人々を惑わし、自分たちを拝ませます(1~17節)。 偽の三位一体に思えるような関係を作ります。 でも、すべては偽り、惑わしです。 6は完全数の7に足りません。つまり、なにかが欠けており、似てはいても偽りなのです。 この世には、心の空洞を埋めてくれるかのような快楽や物質があふれています。 しかしそれでは本当の満足は得られません。 主イエス・キリストだけが、私たちを満たしてくださる方です。 そして、その方が私たちに知恵を与え、悪から守ってくださるのです。 祈り:神様、この世の一時的な快楽に惑わされることがないようにお守りください。イエス・キリストだけが完全なお方です。カルトや偽りの縛りに人々が惑わされることがありませんように。アーメン

黙示録12

「兄弟たちは、子羊の血と、 自分たちの証しのことばのゆえに 竜に打ち勝った。彼らは死に至るまでも 自分のいのちを惜しまなかった。」黙示録12:11 天に戦いが起こり、竜とその仲間は勝つことができませんでした。 そうして、とうとう彼らは天から投げ落とされます。 竜は「古い蛇」「悪魔とかサタンとか呼ばれる者」、創世記3章でアダムとエバを惑わした者です。「全世界を惑わす者」とも表現されています(9節)。 一見恐ろしく思えるサタンは、神の国では敗北する存在です。 そして、キリストを信じる「兄弟たちは、子羊の血と、自分たちの証しのことばのゆえに竜に打ち勝った」のです。 キリストの勝利はすでに確定しています。 サタンに惑わされることがないように。 霊の目を開き、今日行われている主の力強いみわざと限りないあわれみを見いだす者でありたいと思います。 祈り:神様、目先の情報や状況に惑わされず、あなたのご性質に信頼し目を留めることができますように。今、春のキャンプに参加している人たちが、楽しい中にも祈り合える信仰の友と出会い、何よりも主と親しく出会い霊的に成長することができますように。アーメン

黙示録11

「第七の御使いがラッパを吹いた。すると大きな声が天に起こって、こう言った。 『この世の王国は、 私たちの主と、そのキリストのものとなった。 主は世々限りなく支配される。』」黙示録11:15 黙示録を読み進めるにつれて、さばきや災害の描写が出てきます。 読む人に「こわがらないで、恐れないで」と声をかけたいです。 なぜなら、私自身が学生の頃、黙示録はよくわからない、恐ろしいという印象を抱いてしまったからです。 神に反逆する者に対してはさばきが行われます。 しかし、天では喜びの声が上がります。 地上にも、主キリストの素晴らしいご支配がやってきた、と。 そして、感謝と礼拝がささげられます。 当時は、この素晴らしい側面にあまり気づかず、悪へのさばきの記述ばかりが目に入っていました。 どこに目を留めるか、ということを問われているように思います。 天の御国と主の臨在に焦点を合わせ、礼拝する者となれますように。 祈り:神様、あなたの義と愛に感謝します。どんな時も恐れず、あなたのあわれみと守りに信頼できますように。この世の情報や楽しみに影響を受けやすい子どもや若い人たちが、主を知り主に目を留めることができますように。アーメン

黙示録10

「七つの雷が語ったとき、私は書き留めようとした。すると、天からの声がこう言うのを聞いた。『七つの雷が語ったことは封じておけ。それを書き記すな。』」黙示録10:4 ヨハネが記録しないようにと命じられた事柄がありました。 神様のご計画は、すべてが私たちにわかるわけではありません。 明らかにされていないこと、わからないことはそのまま受け止めるようにということです。 すべてがわからないと気がすまない、というのは、神様の偉大さを私たちのちっぽけな理性に押し込めようとしているのです。 わからないことは「わかりません」と素直に受け止める謙遜な者として歩めますように。 祈り:神様、理性や常識だけに頼ろうとする私の弱さを悔い改めます。あなたのはかり知れない素晴らしさ、偉大さをほめたたえ、信頼できるように導いてください。アーメン          

黙示録9

「また彼らは、自分たちが行っている殺人、魔術、淫らな行いや盗みを悔い改めなかった。」黙示録9:21 いよいよ人に直接かかわる神のさばきが始まります。 洗礼を受けて間もない頃、 人類の3分の1が殺される(15、18節)とか、サソリのような尾と針を持ついなご(10節)とか、恐ろしい描写を読んでとても怖かったのを覚えています。 しかし、神のさばきは悔い改めへの招きだということを心に留める必要があります。 3分の2(多数)が殺されないというのは、異教の神々の伝説に比べるとずっとあわれみ深いそうです。 また、さばきはキリストを信じる者に向けてではありません。 悔い改めるよう、神が招き続けておられることに着目しましょう。 さばきは、繰り返しチャンスが与えられているのに頑固で悔い改めない人にとっては恐れですが、信じる者には神の正義が行われるのを見る時だと言えます。 祈り:神様、主を信じる者はどんな時にも恐れる必要がないという恵みに感謝します。 頑固に主を否む人たちの心が柔らかくされ、聖霊の招きに応答できますように。___さん、___さんの救いを祈ります。共にそろって永遠のいのちの恵みに預からせてください。アーメン

黙示録8

「香の煙は、聖徒たちの祈りとともに、御使いの手から神の御前に立ち上った。」黙示録8:4 「また、別の御使いが来て、金の香炉を持って祭壇のそばに立った。すると、たくさんの香が彼に与えられた。すべての聖徒たちの祈りに添えて、御座の前にある金の祭壇の上で献げるためであった(3節)」とあります。 そして、聖徒の祈りが香とともに献げられました。 祈りは目に見えません。しかし、ちょうど香のように、神の前に届いていることを確信させてくれます。 日々の祈りが、私たちが思っている以上に御国で意味のあるものだとしたら、小さい祈りでも、すぐにきかれなくても、あきらめずに祈ることを続けていきたいと思わされます。 祈り:神様、祈りが届いているという信仰を与えてください。 私と家族のためには________、教会のためには________、友人知人のためには_______、日本や世界のためには_______を今日も祈ります。アーメン

黙示録7

「御座の中央におられる子羊が彼らを牧し、いのちの水の泉に導かれる。また、神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。」黙示録7:17 神様がやがて涙をぬぐってくださる、という希望は、辛い時の慰めです。 身体の痛みや病だけでなく、心の痛むことが多くあります。 いじめ、経済的な不足、みじめな思い、劣等感・・・。 そして、福音とあかしのゆえに白い目で見られ、異質とみなされ、迫害されることもあります。 でも、「涙とともに種を蒔く者は 喜び叫びながら刈り取る」(詩篇126:5)のです。 地上では信仰者どうし励まし涙をぬぐいつつ、やがて成就するその約束に期待します。 祈り:神様、あなたは私の心の痛みを知っておられます。どうかあなたの慰めで癒してください。卒業と別れの季節です。変化の中で痛みを覚える人たちに、真の憩いと平安をもたらす福音が届きますように。アーメン

黙示録6

「すると、彼ら一人ひとりに白い衣が与えられた。そして、彼らのしもべ仲間で、彼らと同じように殺されようとしている兄弟たちの数が満ちるまで、もうしばらくの間、休んでいるように言い渡された。」黙示録6:11 子羊が封印を一つずつ解いていきます。 五つ目の封印が解かれると、神のことばと証しのために殺された人たちのたましいが見えました。 正しいさばきを望む彼らに、一人ずつ白い衣が与えられました。 彼らはもう少し休んでいるようにと言われます。 正しいさばきは必ずなされます。 しかし、神の時が来るまでは待つように言われることがあります。 待ちきれないでしょうか。 しかし、じたばたしても、人の怒りは神の義を実現するものではありません。 自分で復讐しようとせず、神に信頼し待つ者であれますように。 祈り:神様、あなたの正しい判断とさばきに信頼します。不条理や悪に、あなたの方法で報いてください。迫害され、苦難にある信仰者を今日もお守りください。アーメン

黙示録5

「彼らは大声で言った。『屠られた子羊は、 力と富と知恵と勢いと誉れと栄光と賛美を 受けるにふさわしい方です。』」黙示録5:12 天の国の光景が続きます。 誰も開くことのできない巻物を開くことができるのは、ほふられた子羊であるイエス・キリストただお一人でした。 「力」「富」「知恵」「勢い」「誉れ」「栄光」「賛美」 これ以上の言葉にならない素晴らしさで、「大声で」ほめたたえる声が聞こえます。 厳粛な中にも、主を賛美する感動と喜びがあります。 私たちの礼拝も、同じ思いでささげることができますように。 祈り:神様、御国に行くまでも、この地上で礼拝することができて感謝します。私の心が、今日も主を喜び、主に喜ばれるものとなりますように。アーメン

黙示録4

「二十四人の長老たちは、御座に着いておられる方の前にひれ伏して、世々限りなく生きておられる方を礼拝した。また、自分たちの冠を御座の前に投げ出して言った。『主よ、私たちの神よ。 あなたこそ 栄光と誉れと力を受けるにふさわしい方。 あなたが万物を創造されました。 みこころのゆえに、それらは存在し、 また創造されたのです。』」黙示録4:10~11 諸教会へのメッセージが終わり、ヨハネの見た幻の描写が本格的に始まります。 主を賛美する生き物が「栄光と誉れと感謝」をささげるとき(9節)、信仰者の代表である長老たちがひれ伏し、礼拝しました。 なんと深い喜びと平安に満ちた光景かと思います。 天の国の様子を垣間見ることができます。 祈り:神様、私が主のみもとに行く日まで、御国を望みつつ期待しつつ地上の信仰生活を歩ませてください。今教会を離れている人に、主が決して離れず愛し続けてくださる方であると感じられますように。信仰のリバイバルを与えてください。再び共に礼拝し、祈り合うことができますように。アーメン

黙示録3

「わたしは愛する者をみな、叱ったり懲らしめたりする。だから熱心になって悔い改めなさい。」黙示録3:19 教会では、定期的に教会墓地の掃除をします。 墓地の内側は、鍵を開けないと掃除できません。 一昨日、いつものように訪れて中を見ると、いつになく汚れていました。 それは、一匹のヤモリが小さな隙間から入り込んでいたからでした。 壁や床の汚れをこすって拭き取るのに1時間近くかかりました! それでも、最後にはきれいになりました。 私たちの心も同じです。 心の戸を開けてキリストに照らしていただくと、汚れがよくわかります。 ヤモリのような小さなものでも、罪は心の全体を汚していきます。 その汚れを落とすには、罪の悔い改めによらなければなりません。 心の戸を開けて悔い改めた人には、 「見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする(20節)」 というキリストの約束が待っています。 祈り:神様、心の中を探ってください。喜ばれないものがあるなら、主の光で照らし、悔い改めに導いてください。聖霊様が心を柔らかくしてくださり、あなたの御前に点検させてください。アーメン

黙示録2

「けれども、あなたには責めるべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。だから、どこから落ちたのか思い起こし、悔い改めて初めの行いをしなさい。」黙示録2:4~5 「初めの愛」はイエス・キリストが示してくださいました。 十字架の上ではもちろん、公生涯のあちこちにこのお方の愛が表れています。 中でも弟子たちの足を洗われた(ヨハネ13章)は印象的です。 足を洗うというへりくだりの姿勢を見せてくださり、 私たちも「互いに足を洗う」よう、そして「互いに愛し合いなさい」と教えてくださいました。 今日、悔い改めてする「初めの行い」とは何でしょうか。 祈り:神様、キリストが示してくださった「初めの愛」に感謝します。この愛が与えられた恵みを思い起こし、キリストの足跡にならう者とさせてください。主の愛に応答し、______ができるよう、その機会と力とを与えてください。アーメン

黙示録1

「この方を見たとき、私は死んだ者のように、その足もとに倒れ込んだ。すると、その方は私の上に右手を置いて言われた。『恐れることはない。わたしは初めであり、終わりであり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、世々限りなく生きている。また、死とよみの鍵を持っている。』」黙示録1:17、18 8節では「わたしはアルファであり、オメガである」と書かれています。アルファは A、オメガはZのような文字で、やはり「初めと終わり」を示しています。 ヨハネに幻を見せてくださった主は、「初めであり終わりである」方で世々限りなく生きておられ、すべてを知っておられます。 そして、主を信じる者には「恐れるな」と声をかけてくださる方です。 この方と共にいることが、私たちの安全の錨です。 「私たちが持っているこの希望は、安全で確かな、たましいの錨のようなものであり、また幕の内側にまで入って行くものです。」(ヘブル6:19) 祈り:神様、黙示録を信仰を持って読むことができるように導いてください。様々なデマや噂に振り回されず、主に期待し信頼できるよう助けてください。アーメン

ユダ

「しかし、愛する者たち。あなたがたは自分たちの最も聖なる信仰の上に、自分自身を築き上げなさい。聖霊によって祈りなさい。神の愛のうちに自分自身を保ち、永遠のいのちに導く、私たちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい。」ユダ20~21 惑わしや間違った教えのはびこる中でも、振り回されず信仰に歩むようにという戒めは、今日いっそう当てはまります。 SNSやインターネットでは、ある記事を読むと、それに関連した主張や同じ方向性の読み物が表示されるようになっています。 偏った記事を読むと、似た立場の主張がどんどん目に入るようになるのです。 このような中で、惑わされないためには「聖霊によって祈る」ことです。 そして、福音以外の些細な習慣や意見の違いについては「神の愛のうちに自分自身を保つ」ことです。 祈り:神様、寛容に耳を傾けることを教えてください。些細なことで信仰の友と争うことがありませんように。ゆずれない福音と聖書の主張と、個々の事情により適用できるものとを見分ける洞察力を、聖霊によって与えてください。アーメン

Ⅲヨハネ

「愛する者よ。あなたのたましいが幸いを得ているように、あなたがすべての点で幸いを得、また健康であるように祈ります。」Ⅲヨハネ2 誰かのために祈る時、このように祈ることができたら幸いです。 ヨハネは「私にとって、自分の子どもたちが真理のうちに歩んでいることを聞くこと以上の大きな喜びはありません(4節)」と書いています。 彼はイエス・キリストが弟子の足を洗い言われた、「あなたがたは互いに愛し合いなさい(ヨハネ13:34)という命令を鮮明に覚えていたことでしょう。 そして、それを実践していったことが読み取れます。 私たちも、このイエス様の命令を実践する者となれますように。 祈り:神様、私たちが互いに愛し合い、励まし合えるよう、私にキリストの愛と寛容の心を増し加えてください。東北地方の方々に寄り添い祈る心を与えてください。アーメン

Ⅱヨハネ

「だれでも、『先を行って』キリストの教えにとどまらない者は、神を持っていません。その教えにとどまる者こそ、御父も御子も持っています。」Ⅱヨハネ9 ファッションでもテクノロジーでも、「先を行って」いる人や企業がありいます。時代の変化に敏感で良いことととらえられます。 しかし、信仰については「先を行く」教えには要注意です。 キリストの福音は2千年前から変わりません。 そして、救い主はイエス・キリストただお一人です。 それに混ぜ物をするなら、間違った教えです。 時流にのった福音伝達の方法には敏感でありたいですが、福音の中身、「キリストの教え」には固くとどまることが大切です。 祈り:神様、キリストの教えからそれることがないよう、私たちと教会を今日もお守りください。様々な教えがはびこるこの世界で、福音の伝え方やアプローチは変わっても、キリストは変わらないお方であり、唯一の救い主であることからぶれることがありませんように。アーメン

Ⅰヨハネ5

「何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださるということ、これこそ神に対して私たちが抱いている確信です。」Ⅰヨハネ5:14 祈りが聞かれないのは不信仰ゆえだろうか、と思うことがあります。 「考えずとにかく信じなさい、祈りなさい!」という説教を聞くこともあります。 しかし、その祈りがみこころでなかったら? 神がもっと良い計画を持っておられるのに、反する祈りをしていたら? 神は愛ゆえに、私たちの文字通りの祈りを聞かないでおられるということもあります。 だから、「神のみこころにしたがって」祈っているのかどうか、その吟味ができるようにと願うことも大切な祈りだと思うのです。 あの人と同じようなきかれ方はしない。けれども、主の最善のご計画が私の人生を通して表される、という信仰が与えられますように。 祈り:神様、自分勝手な祈りや思い込みを一方的に願うのではなく、 あなたのみこころは何ですか、と聞く信仰を与えてください。 あなたの御手にあるよいご計画に信頼します。アーメン

Ⅰヨハネ4

「私たちが神を愛したのではなく、 神が私たちを愛し、 私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。 ここに愛があるのです。」Ⅰヨハネ4:10 一番大切なものをあげたのに、相手が全く気づかず不機嫌なままだったら、残念に思います。 どれほど価値のあるものかを知ってほしいと思います。 もし神の愛がイエス・キリストの来臨と十字架の死で表されているのに、多くの人々がこれほどの愛に気づかないとしたらどうでしょう。 神は忍耐強く待っておられます。 私たちはその価値と愛の大きさを伝えることができるよう、祈りたいです。 祈り:神様、御子イエスキリストを地上に送ってくださり感謝します。十字架で示された愛を覚えます。今年もイースター前のレントの期間(40日前〜)に入りました。主の愛の足跡を黙想する時となるよう導いてください。アーメン

Ⅰヨハネ3

「この世の財を持ちながら、自分の兄弟が困っているのを見ても、その人に対してあわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょうか。」Ⅰヨハネ3:17 混迷する世界情勢、私たちの周りにいる困っている人々のために、私たちは何ができるでしょうか。 ある人は直接支援の働きやボランティアとして召されます。ある人は後方支援や他分野からの貢献をします。 そして、ささげる召し、祈る召しを受ける人もいます。 「この世の材を持ちながら」と17節は語ります。 お金は神の喜ばれるように用いるなら、悪いものではありません。 神の愛と恵みへの応答として、もう少し大胆にささげることができるかもしれません。 「子どもたち。私たちは、ことばや口先だけではなく、行いと真実をもって愛しましょう。(18節)」 祈り:神様、あなたの愛を流し出す者として、一歩進んでどのような行動ができるか示してください。アーメン

Ⅰヨハネ2

「自分の兄弟を愛している人は光の中にとどまり、その人のうちにはつまずきがありません。」Ⅰヨハネ2:10 兄弟愛について考えさせられます。 一番身近な肉の家族、あるいは霊の家族である教会の兄姉は、親しいだけに自分の自我が出やすく、ぶつかりやすいものです。 信仰の成長をはかるバロメーターと言えるのだと思います。 「だからこそ、あなたがたはあらゆる熱意を傾けて、信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。これらがあなたがたに備わり、ますます豊かになるなら、私たちの主イエス・キリストを知る点で、あなたがたが役に立たない者とか実を結ばない者になることはありません。」(第二ぺテロ1:5~8) 祈り:神様、親しい家族や信仰の友を愛することができますように。忍耐と自制と愛がキリストによって備えられることに感謝します。互いにゆるし合い、祈り合い、尊重し合い、建て上げ合うことができますように。アーメン

Ⅰヨハネ1

「もし私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩んでいるなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。」Ⅰヨハネ1:7 疲れると、一人で静かな所に行きたくなります。 イエス様もそうでした。 ひとり退いて父なる神の前に静まり、祈られました。 そして、父から癒しと新しい力とを頂き、再び多忙な日々に戻られました。 休息と静まりはとても大切です。 それは、「光の中におられる神」と親しく交わり、 歩み方を点検し、 イエス様が罪からきよめてくださる方であることに信頼し、 その癒しと力により「互いに交わりを持つ」よう導かれるためです。 祈り:神様、年度末の時期で、別れや行事が多く人と会う機会が増えています。嬉しいこともありますが、非日常で疲れを覚えることもあります。主の元に静まり、新たな力を頂くことができますように。アーメン

Ⅱペテロ3

「主は、ある人たちが遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」Ⅱペテロ3:9 神の忍耐は、私たちの比ではありません。 私たちは、神がなぜ世界の悪も私たちの周りの悪人も、すぐに滅ぼさないのだろうと思います。 しかし、それは同時に私たちも滅ぼされかねないことを意味します。 知らずに人の心を傷つけたことがあるなら、相手にとって私たちは悪人だと言えるからです。 だれも滅びることなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでくださる主の忍耐と寛容さに、ただただ感謝します。 祈り: 神様、あなたの忍耐と寛容さに感謝します。私が_________さんの心を傷つけたこと、また知らずに傷つけていることを赦してくださいい。あなたのあわれみに感謝します。世界のあちこちにある争いが終息し、平和が来ますように。アーメン

Ⅱペテロ2

「主であり、救い主であるイエス・キリストを知ることによって世の汚れから逃れたのに、再びそれに巻き込まれて打ち負かされるなら、そのような人たちの終わりの状態は、初めの状態よりももっと悪くなります。」Ⅱペテロ2:20 ぺテロの手紙は、偽教師や偽預言者に注意するようにと書かれました。 純粋な信仰をなくすことがないように、との思いから、厳しいことばもあります。 キリストの救いを忘れて離れていく人はもったいないなあと思います。 もっとも、私たちが忘れても、主は忘れることがありません。 悔い改めて戻るなら、豊かにあわれんでくださいます。 祈り:神様、今信仰が弱っていたり、離れたりしている人を覚えて祈ります。 主の恵みがわかりますように。十字架の愛を思い出すことができますように。 心を刺されて立ち返り、恵みとあわれみの中で人生を歩むことができますように。アーメン

Ⅱペテロ1

「だからこそ、あなたがたはあらゆる熱意を傾けて、信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。これらがあなたがたに備わり、ますます豊かになるなら、私たちの主イエス・キリストを知る点で、あなたがたが役に立たない者とか実を結ばない者になることはありません。」Ⅱペテロ1:5~8 信仰に徳、知識、自制、忍耐・・・そして兄弟愛、愛を加えるように、とは、何と深く、信仰の歩みが刺激的で意味深いかと思います。 もう到達したと思っても、まだまだ愛のなさ、忍耐力の欠如に気づかされます。 そしてそこから、「いっそう励みなさい」というみことばの励ましを受けます。 祈り:神様、もうできたと早合点して失敗する者です。______のことで至らなかった私を許してください。これからの信仰の歩みも、謙遜かつ主にあって前向きに進みたいです。一歩一歩導いてください。アーメン

Iペテロ5

「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」Iペテロ5:7 このことばを、今週も何度繰り返したことでしょう。思い煩いやすい者なのです。 しかし、思い煩いに心をとらわれている暇はありません。 なぜなら、私たちは霊的な戦いに出て行き、キリストの名にあって勝利するよう招かれているからです。 「身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、吼えたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。堅く信仰に立って、この悪魔に対抗しなさい。」(8~9節) 恐れる必要はなく、ただその場に身を置き、主の勝利の力で対抗することが求められているのです。 祈り:神様、いつもキリストの名には勝利があることに感謝します。思い煩いに心を向けようとさせる悪の力に対抗します。聖霊による心の一新によって体勢を整えさせてください。アーメン

Iペテロ4

「それぞれが賜物を受けているのですから、神の様々な恵みの良い管理者として、その賜物を用いて互いに仕え合いなさい。」Iペテロ4:10 神の賜物は恵みです。その人に能力があるのは、資質を神様が与えてくださり、その人も努力したことの表れです。努力できるというのも賜物かもしれません。 ともあれ、「それぞれが賜物を受けている」と聖書は語ります。各人に与えられた「様々な恵み」の良い管理者であることを主が望まれます。良い使い方とは、賜物によって互いに仕え合うことです。 無理をするのでなく喜んでできること、苦にならないことがあると思います。 そこに賜物が表れているのではないでしょうか。 祈り:神様、前に立つ奉仕だけでなく、私たちが隠れたところで喜んで奉仕することもあなたの栄光を表すことを覚えて感謝します。互いに仕えるために、与えられた恵みの賜物を適切に用いることを教えてください。アーメン

Iペテロ3

「この水はまた、今あなたがたをイエス・キリストの復活を通して救うバプテスマの型なのです。バプテスマは肉の汚れを取り除くものではありません。それはむしろ、健全な良心が神に対して行う誓約です。」Iペテロ3:21 ノアの洪水がバプテスマの型とは! すべてを覆い浸す水の中、箱舟に入って洪水を通り抜け救われた人が8人いました。 同じように、私たちは水に浸され、キリストと共に通り抜けるというバプテスマを受けました。それは信仰のあかしとしてです。 救いは信じた時に与えられますが、神と人との前に誓約としてバプテスマの式を受けます。 そして、「あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでも、いつでも弁明できる用意をしていなさい(15節)」の通り、あかしをする者として整えられていきます。 祈り:神様、旧約時代の様々な事柄を通しても私たちに意味をわからせてくださり、感謝します。 あなたの前に真実に歩めるよう、今日も助けてください。私たちがあかしをする用意ができているように整えてください。アーメン

Iペテロ2

「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、霊の乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。」Iペテロ2:2 聖書は甘い菓子のように感じられるでしょうか。 そうとは限りませんね。 時にはわかりにくく耳に痛いこともあります。 それでも霊の乳としてのみことばを慕い求めるようにと、この聖句は語ります。 なぜなら、肉体が成長するためには栄養のある食物が必要なように、霊の成長には神の知恵と教えがつまったみことばが必要だからです。 祈り:神様、みことばがよくわかるように助けてください。知的な理解だけでなく霊の目を開いて理解させてください。 霊の乳を慕い求め、成長できますように。アーメン

Iペテロ1

「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っています。Iペテロ1:8 ぺテロの書いた手紙は、ぺテロがイエス様について各地を旅した頃よりずっと成熟した人物になったことがわかります。 同時に、ぺテロの持ち味である熱心さや情熱が、手紙の表現のあちこちに感じられます。 ことばでは表しきれない「栄えに満ちた喜び」に踊る信者の喜びを、彼も共に喜んでいます。 それは安全な幸せの中ではなく、試練の中でそうであったからです。 試練を耐えた信仰は金よりも価値があり、キリストからの報いを受けることができるという永遠の希望が伴います。 祈り:神様、試練はそれだけで終わりではなく、信仰を成長させキリストからの労いがあることに感謝します。今、試練を通っている___さん、___さんに励ましと力を与えてください。私もとりなしの祈りができますように。アーメン

ヤコブ5

 「ですから、あなたがたは癒やされるために、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、働くと大きな力があります。」ヤコブ5:16 互いに祈り合うことは、信仰者の特権です。 独りで悔い改めの祈りをすることもできますが、そばで聞いてくれ、共に祈ってくれる友がいることで、悔い改めたこと、また信仰に立って方向転換をしたことが確かになります。 また、誰かを許す祈り、自分の怒りや恨みを手放す祈りを友とすると、決心し慰められる経験をします。 同時に、身体的な癒しにとどまらず、精神的、霊的な癒しが起こります。心が解放され、主に近く進み出る門が開かれたような経験をした方もいるでしょう。 信仰の友の存在に感謝します。 祈り:神様、信仰者の交わりを与えてくださり感謝します。教会で共に集うのも、祈り合うのも、主が与えてくださった恵みです。感謝しつつ、私も他の人のために寄り添い、とりなしの祈りができるように導いてください。アーメン

ヤコブ4

「あなたがたはむしろ、『主のみこころであれば、私たちは生きて、このこと、あるいは、あのことをしよう』と言うべきです。」ヤコブ4:15 これが私たちの日毎の祈りなら素晴らしいと思います。 つい「私たちはこのこと、あるいは、あのことをしよう。だから神様、助けてくださいよ」という祈りをしがちです。 しかし本当は、「主のみこころであれば、私たちは生きる」が祈りの初めです。 今朝もみこころで生かされている。 だからこそ、主が願われるような「このこと」「あのこと」に歩んでいくのだ、という心で歩みたいものです。 祈り:神様、あなたのみこころであれば、今日も私たちは生きて、____のこと、あるいは、____のことをします。導いてください。アーメン

ヤコブ3

「同じように、舌も小さな器官ですが、大きなことを言って自慢します。見なさい。あのように小さな火が、あのように大きな森を燃やします。ヤコブ3:5 少し前に、ロサンゼルスの山火事が住宅街に及び、多くの宅地を焼き尽くした災害がありました。 初めは小さな火だったのが、風にあおられてみるみる広がったそうです。 舌も同じだと聖書は語ります。小さな舌が語った言葉が、大きな風評となり、世論を動かし、時にはナチスのような虐殺を行わせるまでになります。 日本でも、SNSの「炎上」でうつや自殺に追い込まれる人々が出ています。 言葉づかいとその影響力には、聖書のみことばを心にとめ、十分自戒する者でありたいです。 同時に、励まし信仰を与え、周囲を建て上げる言葉が、もっともっと私たちの口から出てきますように。 祈り:神様、あなたのくださった舌を正しく用いることができるよう、私の思いを守り変えてください。言葉の持つ影響力への配慮を与えてください。アーメン

ヤコブ2

「からだが霊を欠いては死んでいるのと同じように、信仰も行いを欠いては死んでいるのです。」ヤコブ2:26 ヤコブ書は信仰に伴う行いに重点をおいています。 救いはただ恵みであり行いによるのではない、ということに異論はありません。 しかし、恵みの大きさを知ったら、信仰生活で主のために実践をしたいと思うのは当然です。 礼拝も、祈りも、献金も、他者に親切にしたり助けたりするのも、主の恵みに応答したいという思いからです。 逆に、観念的な信仰だけでは本当に主の恵みを理解しているとは言えません。 どんなに立派なことを口で言っていても、差別をしたり罪深い習慣を続けたりしているなら、その信仰には力がないということです。 今日、どんな信仰の実践ができるでしょうか。 祈り:神様、あなたの愛と恵みに応答したいです。これまでないがしろにしてきた_____について、信仰の実践として一歩踏み出すように感じています。助け導いてください。アーメン

ヤコブ1

「すべての良い贈り物、またすべての完全な賜物は、上からのものであり、光を造られた父から下って来るのです。父には、移り変わりや、天体の運行によって生じる影のようなものはありません。」ヤコブ1:17 小惑星が2032年に地球に衝突するかもしれない、という記事を読みました。 現時点での確率は2.2%とのことで、97.8%は地球のそばを通過することになります。 これを多いと思うか少ないと思うかは人それぞれでしょう。 こうしたニュースを聞いて改めて驚くのは、日々精巧に地球や惑星の軌道が守られ、太陽や月、星の光が届いていることです。 たまに衝突の可能性があるとニュースになるほど、いつも守られているのです。 すべての宇宙を治め、光そのものを造られた父なる神がどれほど偉大か、そしてどれほどあわれみ深いかを覚えます。 祈り:神様、あなたは良い方、すべてを治めておられる方です。主を賛美します。今日もあなたの光で行くべき道を照らしてください。アーメンn

ヘブル13

「イエス・キリストは、昨日も今日も、とこしえに変わることがありません。」ヘブル13:8 初代教会のクリスチャンたちは、迫害されたり投獄されたりと日常的に試練を通っていました(23節を見ると、テモテも投獄されていたことがわかります)。 日本で信仰を守ろうとすると、周囲からのプレッシャーがあるかもしれません。しかし、当時は文字通り命がけでした。 投獄され、迫害され、時には追放されると、持ち物のすべてを失います。 今のように福祉制度が整っているわけでもありません。 それでも、主に信頼し、守られながら歩んでいきました。 金銭を愛する生活をせずに、今持っているもので満足しなさい。主ご自身が「わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない」と言われたからです。(5節) 主が共にいてくださる恵みが、何ものにも勝ることを覚えます。 祈り:神様、主の守りと、いつも共にいてくださる恵みに感謝します。 日本の風習やしがらみの中で信仰生活を送る一人一人に、励ましと勇気が与えられますように。アーメン

ヘブル12

「信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。」ヘブル12:2 ヘブル12章は、今生きている私たちに励ましを与えてくれる章です。 イエス様から目を離さないように(2節)、またいつもイエス様のことを考えるように(3節)というのが、心が疲れ果てない秘訣だと語ります。 また、私たちは孤独ではありません。 「こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、一切の重荷とまとわりつく罪を捨てて、自分の前に置かれている競走を、忍耐をもって走り続けようではありませんか(1節)」と勧めます。 先日の宣教師の葬儀では、出棺の時にクリス・トムリンの「ホームHome」という曲が流れました。 「この地上は私たちの場所ではない 痛みや悲しみのない もっとよい場所が天にはある すべての涙がぬぐわれ すべての悲しみと罪がない 天国ですばらしい恵みの海の中で踊るのだ 天国で ぼくは故郷に行く 金色の道のある天国に すべての鎖から解き放たれ ああ故郷に帰りたい 故郷に すべての恐れから解き放たれて 主のみ腕の中に 天国で 天国で」 私たちも同じ希望を告白する者となれますように。 祈り:神様、天の御国に行く日まで、希望をもって信仰の歩みを続けることができるよう助けてください。今試練を通っている方が、主のもとに安らぎと慰めを見いだせますように。アーメン

ヘブル11

「さて、信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」ヘブル11:1 長年親交のあった宣教師が、先週病で突然天に召されました。60歳に満たない若さでした。 見えない天国を確信し、いつも憧れていたということでした。 彼の死はショックで悲しく寂しいですが、家族のあかしを聞くと、見えないものを確信していた本人と家族の信仰に教えられます。 「信仰によって、彼(アブラハム)は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに受け継ぐイサクやヤコブと天幕生活をしました。(9節)」 アブラハムだけでなく、私たちもこの地上に一時の間住まう者です。 肉体はやがて滅びます。数十年の間、寄留者のように地上に生きています。 しかし、私たちには「堅い基礎の上に建てられた都(10節)」があります。 それを信じ、待ち望むのが信仰です。 祈り:神様、見えない主を信じ、永遠のいのちを確信し、御国を見る信仰を与えてください。先に召天した人たちに再会する日を待ち望みます。アーメン

ヘブル10

「ある人たちの習慣に倣って自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう。その日が近づいていることが分かっているのですから、ますます励もうではありませんか。」ヘブル10:25 ヘブル10章の中盤には、大祭司キリストがいるから「・・・ではありませんか(=しましょう!)」という励ましが連続しています。 ・そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受け、邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか(22節、第三版) ・約束してくださった方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白し続けようではありませんか(23節) ・愛と善行を促すために、互いに注意を払おうではありませんか(24節) ・ある人たちの習慣に倣って自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう。その日が近づいていることが分かっているのですから、ますます励もうではありませんか(25節) 初代教会以来、教会は共に集まり、礼拝をもち、ささげものをし、交わりをすることをキリストの前に守り続けてきました。 そして、ささげ仕える以上の恵みをキリストから受けてきました。 自分の都合やお気楽さだけでは得られない、貴重なものをつかんできました。 祈り:神様、イエスキリストという大祭司の元に集い、希望と互いへの愛を深め、主が再び来られるまで励まし合う者とならせてください。アーメン

ヘブル9

「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うために一度ご自分を献げ、二度目には、罪を負うためではなく、ご自分を待ち望んでいる人々の救いのために現れてくださいます。」ヘブル9:27〜28 キリストは作り物の幕屋ではなく、本物である天そのものに入られ、ただ一度ご自身をささげてくださいました。 厳粛かつ完全な贖いのわざが完了したことが明示されています。 そして、人間にとっても厳粛な定めがあります。 それは、一度死ぬことと死後にさばきを受けることです。 致死率100%の人間には、神の審判を受けることも100%です。 もっとも、キリストを否まなかった人にはさばきは怖いものではありません。それはむしろ、恵みと喜びの時です。 今日神の前に立つ準備ができていますか? 祈り:神様、私のいのちはあなたの御手の中にあります。生涯がいつ終わるか、私たちにはわかりません。でも肉体が滅びても、永遠のいのちを頂いていること、さばきが怖くないことに感謝します。長年祈っている家族が揃って、永遠のいのちを喜ぶことができますように。アーメン

ヘブル8

「以上述べてきたことの要点は、私たちにはこのような大祭司がおられるということです。この方は天におられる大いなる方の御座の右に座し、人間によってではなく、主によって設けられた、まことの幕屋、聖所で仕えておられます。」ヘブル8:1~2 地上の祭司たちは、「天にあるものの写しと影」に仕えていると5節にあります。 いわば、キリストのあがないのわざをよく理解させるために、神が旧約時代からの祭司を実物教材として示してくださっていたということです。 イエス様もよくたとえを使われました。聞く人たちがわかりやすいように、実物教材を使いながら神の国の真理を話してくださいました。 私たちが福音を分かち合うのも、教理のことばだけでなく、私たち自身のあかしや福音の恵みの体験を通じて分かち合うことができます。 そして、それは福音をはじめて聞く人にとっては分かりやすく、効果的な伝道方法です。 立派な、素晴らしい劇的なものでなくても、日々の小さな出来事にあかしはつまっています。 祈り:神様、日々の恵みに気づかせてください。福音の恵みを、小難しいことばではなく、自分の体験としてあかしできるよう、一人一人を整え、わかりやすいことばを与えてください。アーメン

ヘブル7

「このような方、敬虔で、悪も汚れもなく、罪人から離され、また天よりも高く上げられた大祭司こそ、私たちにとってまさに必要な方です。」ヘブル7:26 ヘブル書の著者は、祭司・大祭司の社会制度をよく知っていたイスラエルの人々に、すぐれた唯一無二の大祭司としてのキリストを説明します。 家系によらない大祭司の例としてメルキゼデクを出し、レビ人に勝る者が存在しうることを証明します。 そして、世襲や交代をしなくても、イエスキリストが永遠に存在され、変わることがないとりなしの務めをしてくださるのだとも言います。 今の日本に住んでいても、その言おうとする真理は十分に伝わります。 聖書は決して外国のものでも過去のものでもなく、今日の私たちにも意味のあるものです。 「したがってイエスは、いつも生きていて、彼らのためにとりなしをしておられるので、ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになります。(25節)」 祈り:神様、イエスキリストが偉大な大祭司として今も生きておられ、私たちのためにとりなしをしてくださっていることに感謝します。日本の人たちが聖書を単なる異国の宗教と思わず、生ける神のことばとして受けとることができるよう、心を開いてください。アーメン

ヘブル6

「私たちが持っているこの希望は、安全で確かな、たましいの錨のようなものであり、また幕の内側にまで入って行くものです。」ヘブル6:19 心が不安で揺れることがありますか? 私はしょっちゅうです。 朝方、気になることをはっと思い出し、そこから眠れなくなることもあります。 ただ、私たちのどんな心配も、ただ1つを除いては一時的なものです。地上生涯を越えて心配することはありません。 例外は、永遠のいのちを持てるかどうかです。 そして、キリストを信じる者にはそれがあたえられています。 まさに「たましいの錨」となる希望です。 そして、いのちの書に名がかかれた者は、永遠に主とともに住むことができるのです。 祈り:神様、あなたの前に進み出ることのできる特権を感謝します。 私にたましいの錨となる平安と確証を与えてくださり感謝します。今、不安に思う…………のこともあなたにおゆだねします。忍耐と解決を与えてください。アーメン

ヘブル5

「キリストは、肉体をもって生きている間、自分を死から救い出すことができる方に向かって、大きな叫び声と涙をもって祈りと願いをささげ、その敬虔のゆえに聞き入れられました。」ヘブル5:7 「大祭司は自分自身も弱さを身にまとっているので、無知で迷っている人々に優しく接することができます(2節)」と、ヘブルの社会では最もわかりやすい大祭司について語ります。 同じように、偉大な大祭司であるキリストは肉体をもって生まれてくださった、寄り添ってくださった方なのだと説明が続きます。そして、大きな叫び声と涙をもって祈られた、と述べます。 神のひとり子である方が、叫び声と涙をもって祈られたとは! 罪は犯されませんでしたが、肉体をもたれ、私たちの痛みや悩み、鬱や傷さえもわかってくださる方です。 祈り:神様、私たちの痛み苦しみをわかってくださり感謝します。 鬱の中にある方とその家族を慰め力付けてください。主にある平安と希望が望みますように。与えられたいのちと人生を慈しみ、主にあって大切に楽しみ過ごすことができますように。アーメン

ヘブル4

「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。」ヘブル4:15 最近、心が傷つく出来事がありましたか? 悲しい経験をしましたか? 自分の限界と至らなさに気づいて愕然としましたか? そんな私たちを、イエスキリストは十二分に理解してくださいます。 なぜなら、人として歩まれ、私たちと同じように試みにあわれ、誤解を受け、十字架にまでかかってくださったからです。 深いあわれみと全てに勝利された主を知り、主のもとに何でも持っていけるとは、 なんという幸いでしょう。 祈り:神様、感謝します。 「私たちには、もろもろの天を通られた、神の子イエスという偉大な大祭司がおられるのですから、信仰の告白を堅く保(14節)」ちたいです。 「あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づ(16節)」きます。アーメン

ヘブル3

「このように、彼らが安息に入れなかったのは、不信仰のためであったことが分かります。」ヘブル3:19 不信仰では安息に入れない、と言われています。 では、不信仰とはどういう状態でしょう。 それは、エジプトで文句を言った民のようです。 心が迷い、頑なになっている民は「神に反抗している」と表現されています。 彼らは荒野で文句を言いました。水がない、食べ物がない、なぜこんな所に連れてきたのだ、エジプトが良かった...等々。 疲れていたでしょう。 手持ちの食料が尽きて不安だったでしょう。 野宿は寝心地が悪かったでしょう。 先行きが見えなかったでしょう。 荒れ地続きの風景にマンネリしたでしょう。 それでも、神に信頼しないで文句を言う民は「不信仰」だった、と聖書は語ります。 他人事ではありません。 私たちも近視眼になり、他者と比較し、腹立ち、疲れ、文句を言う者です。 安息に入るために、悔い改めて柔らかい心を持ちたいと願います。 祈り:神様、過ぎる一週間、あのこと、このことで腹立ち、怒り、あきらめ、文句を言う者でした。赦してください。主に信頼し安息に入れるように、私の頑なな心を柔らかくしてください。アーメン

ヘブル2

「そういうわけで、子たちがみな血と肉を持っているので、イエスもまた同じように、それらのものをお持ちになりました。それは、死の力を持つ者、すなわち、悪魔をご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖によって一生涯奴隷としてつながれていた人々を解放するためでした。」ヘブル2:14~15 キリストは、人を救うために人となって来てくださいました。 天使となるためではなく、人となられたのです。 死に対して恐怖を抱き奴隷状態になっていたところから、私たちを解放してくださいました。 死が終わりではないという希望を持てることは、どんなに幸いでしょうか。 愛する家族と別れたくないのに死があるというのは、人々にとって絶望でした。 しかし、永遠の別れでもなく滅びでもないという希望を、キリストが与えてくださったのです。 祈り:神様、なんと幸いな希望をいただいたことでしょう。どうか永遠のいのちの希望を、もっと多くの方が知ることができますように。家族との離別にうちひしがれている人に希望を与えてください。一時の別れとはわかっていても愛する家族を主のみもとに送った方々にも、深い慰めがありますように。アーメン

ヘブル1

「御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。御子は罪のきよめを成し遂げ、いと高き所で、大いなる方の右の座に着かれました。」ヘブル1:3 ヘブル書の著者ははっきりしません。しかし、宛先はヘブル人、つまり旧約聖書についてよく知っていた人々に向けて書かれました。 旧約聖書がイエスキリストについて語っていること、キリストこそ待ち望んだメシアであることを語っています。 ヘブル書の1章が、まるでオーケストラの交響曲が始まるかのように感じられます。 それは、御子の素晴らしさを表現するために宇宙が静まり、その光が差し込んでくるような記述が続くからです。 期待を持ってヘブル書を読んでいきましょう。 祈り:神様、旧約聖書に書かれたメシアがイエスキリストであることを明らかにしてくださり、感謝します。私たちの目を開き、聖書がよくわかりますように。旧約聖書だけを信じているユダヤ教の人たちの目も開かれますように。アーメン

ピレモン

「獄中で生んだわが子001オネシモのことを、あなたにお願いしたいのです。」ピレモン10 獄中の不自由な生活の中、パウロは奴隷オネシモを改心に導きました。 おそらくオネシモは主人のところから逃げてきたか、不正を働いたかだったようです。 パウロに出会い、キリストの福音にふれて彼は悔い改めました。 そしてパウロのもとで訓練され、福音の働き人として用いることのできる器となりました。 もう以前の彼ではないとして、パウロは奴隷オネシモを「同労者ピレモン(1節)」の元に送り返しました。 しかも、負債があるなら、パウロは自分が代わりに支払ってもよいと言いました。 短い手紙の中から、いくつもの恵みと希望を汲み出すことができます。 ・どんな人でも福音によって悔い改め、救われる可能性がある。 ・その人を無条件に甘やかすのではなく、訓練し戒めて主の器として整える。 ・私たちもキリストの心を表すことができる。 祈り:神様、福音は人を変え、人生を変えます。主に造られた者として、主が望まれる歩みに今日も導いてください。救われないだろうと思うあの人の心にも主が働き、心柔らかくしてください。アーメン

テトス3

「神は、私たちが行った義のわざによってではなく、ご自分のあわれみによって、聖霊による再生と刷新の洗いをもって、私たちを救ってくださいました。 神はこの聖霊を、私たちの救い主イエス・キリストによって、私たちに豊かに注いでくださったのです。」テトス3:5,6 テトス書の終わりは、救いが私たちの善行によってではなく、神の愛のあわれみによることを確認しています。 しかも、聖霊による再生と刷新の洗いによってなされたのだ、と表現しています。 このあわれみの聖霊が今も豊かに注がれていることに感謝します。 私たちにいのちを与え、愛で満たし、あふれさせてくださることに感謝します。 祈り:神様、今も生きて働かれるイエスキリストとその霊に感謝します。私たちが聖霊に豊かに満たされ、あなたの愛を流し出す者となれますように。アーメン

テトス2

「また、あなた自身、良いわざの模範となりなさい。人を教えることにおいて偽りがなく、品位を保ち、非難する余地がない健全なことばを用いなさい。そうすれば、敵対する者も、私たちについて何も悪いことが言えずに、恥じ入ることになるでしょう。」テトス2:7~8 年配の男の人に対して(2節)、年配の女の人に対して(3~5節)、若い人に対して(6節)の勧めに続いて、働き人のテトス自身への勧めが書かれています。 人の弱点やあらはよく見えます。しかし、自分自身についてはなかなか気づかないものです。 戒め勧めてくれる人がいるというのは幸いなことです。 「逆ギレ」せず、忠告が愛に根差しているなら受け入れる謙遜な心を備えたいです。 祈り:神様、聖書と愛に基づいた忠告を受け入れることができる柔らかい心を与えてください。勇気をもって戒めてくださった方を逆恨みせず、感謝できますように。アーメン

テトス1

「それは、偽ることのない神が永遠の昔から約束してくださった、永遠のいのちの望みに基づくものです。」テトス1:2 パウロは自分の選びを、神が永遠というスケールで計画してくださった希望に基づくと説明しています。 自分の思いつきだけでなく、この時代の一過性のものでもなく、聖書を通して流れる神のご計画の一部を担うという自覚がありました。 しかし、これは大使徒パウロだけではありません。 一人一人の救いが、選びが、永遠の神の約束に基づいています。 そしてそれは、神の壮大なご計画に参与するためです。 なんと光栄なことでしょう。 そして、この人が、あの人が、代わりのいないかけがえのない存在なのです。 祈り:神様、あなたの愛のご計画を感謝します。福音を届けられ、受け入れることができた恵みを覚えます。神の目に高価で尊い信仰の兄姉と、互いに尊重し仕え合えますように。アーメン

Ⅱテモテ4

「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。忍耐の限りを尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。」Ⅱテモテ4:2 過ぎる一週間も、事故や事件のニュースがあり、政治は動き、寒さに耐え、知人や家族の体調の悪さを聞き・・・という日々だったと感じるでしょうか。 なかなか手放しで「時が良くても」と言えないかもしれません。 聖書は「時が良くても悪くても」、どんな時でも「みことばを宣べ伝える」よう勧めています。 「というのは、人々が健全な教えに耐えられなくなり、耳に心地よい話を聞こうと、自分の好みにしたがって自分たちのために教師を寄せ集め、真理から耳を背け、作り話にそれて行くような時代になるからです。(3・4節)」 まさに今日、SNSや噂、作り話が蔓延しています。自分の好みの記事だけを読み、どんどん偏った情報ばかりが入ってくる仕組みもできています。 しかし、このような時だからこそ、変わらない福音の価値が輝きます。 その信仰をもって、新しい週も生きることができる恵みに感謝します。 祈り:神様、福音の真理に頼る幸いを感謝します。どんな時代になっても、主の十字架が希望であり輝き続ける光であることを覚えます。今週も忍耐と慎みを与えてください。アーメン

Ⅱテモテ3

「聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。」Ⅱテモテ3:16 木曜集会でヘンリ・ナウエンの「すべて新たに」を読んでいます。 今週読んだ中に、神の前に静まり、聖霊の臨在を覚える習慣の大切さという内容がありました。 たとえ短くても、生産性とは無縁の、ただ神といることを覚える時間を持つことがすすめられていました。 その時に、何節かのみことばをゆっくり、じっくり黙想することも書かれていました。 なぜなら、聖書のみことばは「神の霊感によるもの」だからです。 それは「教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益」です。 今日はこの1節をじっくり思い巡らせてみませんか。 祈り:神様、あなたの霊感によって書かれた聖書が手元にある恵みに感謝します。私の霊性を整え、大切な決断や今日の判断の前にあなたの臨在を覚えることができますように。アーメン

Ⅱテモテ2

「多くの証人たちの前で私から聞いたことを、ほかの人にも教える力のある信頼できる人たちに委ねなさい。」Ⅱテモテ2:2 先日の午後、次世代宣教のための祈り会を持ちました。 次世代宣教といっても、今の世代が不要なのではありません。 むしろ、今の世代あってこその次世代宣教です。 というのも、「ほかの人にも教える力のある信頼できる人たちに委ねなさい」というのは今の世代にしかできないことだからです。 委ねるためには、ますます今の世代が励むよう「キリスト・イエスの立派な兵士として、私と苦しみをともにしてください(3節)」とパウロは勧めます。 さらに、自分と同じ世代の信仰者を兵役や競技者、農夫にたとえています。 「兵役についている人はだれも、日常生活のことに煩わされることはありません。ただ、兵を募った人を喜ばせようとします。また、競技をする人も、規定にしたがって競技をしなければ栄冠を得ることはできません。(4~5節)」 退職や引退があっても、私たちにはますます主の働きがゆだねられています。 現にミッショントリップで祈り手として教会を訪れてくださった方は、ほとんどが現役を引退された方たちでした。 なんと熱く、なんと情熱をもって祈ってくださったことでしょう! 「労苦している農夫こそ、最初に収穫の分け前にあずかるべきです(6節)」という日を一心に望みつつ。 祈り:神様、私にもまだ使命があることを覚えて感謝します。どうか信仰者のお一人ひとりが、人生の意欲を失うことがありませんように。目に見える一線を退いても、ますます主のわざに励む者となれるよう導いてください。アーメン

Ⅱテモテ1

「神は私たちに、臆病の霊ではなく、力と愛と慎みの霊を与えてくださいました。」Ⅱテモテ1:7 神を愛することと、信仰者の兄姉を愛することとは並んで表されていくものです。 では、情に流されるのと神の愛に突き動かされるのとは何が違うのでしょうか。 重なることもありますが、それが自分の臆病さでえる恐れや不安からくるのか、あるいは相手の利益を考え、慎みと神からの志に裏打ちされているのかが判断の手がかりになるのではと思います。 「自分に委ねられた良いものを、私たちのうちに宿る聖霊によって守りなさい(14節)」 とあるように、聖霊による促しかどうかをいつも尋ねるものでありたいです。 祈り: 神様、多くのつながりと、時にしがらみの中で生きています。あなたの望まれる人間関係を築きつつ、独りでソリチュード(静まりの時)を持てますように。あなたと個人的にじっくり交わり聴くことができるよう、導いてください。アーメン

Ⅰテモテ6

「しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそが、大きな利益を得る道です。」Ⅰテモテ6:6 国内のマスコミや芸能界の乱れが、大きなニュースになっています。 声を挙げることができるようになったこと、当然ではないという意識が出てきたことは、貪欲への警鐘だと思います。 同時に、女性も自分の外見だけを売り物にしてはならない社会になってきています。 聖書は、「満ち足りる心」を伴う「敬虔」こそが利益を得る道だと述べます。 「私たちは、何もこの世に持って来なかったし、また、何かを持って出ることもできません。衣食があれば、それで満足すべきです。(7~8節)」 派手にお金をかけなくても、幸せな生活や満ち足りた人生を送ることはできます。 高齢の兄姉で、身体は弱っても、いつも幸せそうに感謝の祈りをささげる方を見習いたいです。 「義と敬虔と信仰、愛と忍耐と柔和を追い求め(11節)」る者となれますように。 祈り:神様、あなたの目に大切なものを、私も大切にできますように。不足にばかり目をとめがちな私を許してください。主にあって満ち足りる心を与えてください。アーメン

Ⅰテモテ5

「年配の男の人を叱ってはいけません。むしろ、父親に対するように勧めなさい。若い人には兄弟に対するように、年配の女の人には母親に対するように、若い女の人には姉妹に対するように、真に純粋な心で勧めなさい。」Ⅰテモテ5:1~2 皆がこのような態度でいたら、信仰者の人間関係はスムーズです。 教会の中にも平和が満ちます。 「真に純粋な心」というのが、性格や表現の仕方で人それぞれなので、一時的な誤解はあるかもしれません。 でも、和解し祈り合うことができるので、一人一人がキリストに繋がっていれば大丈夫です。 祈り:神様、あなたの愛に応答した一人一人の信仰者を私も愛します。些細なことで躓いたり誤解したりせず、寛容で純粋な心で今日も歩ませてください。アーメン

Ⅰテモテ4

「あなたは、年が若いからといって、だれにも軽く見られないようにしなさい。むしろ、ことば、態度、愛、信仰、純潔において信者の模範となりなさい。」Ⅰテモテ4:12 若いテモテに対してパウロはこのように勧めました。 テモテに限らず当時の教会の若いリーダーたち、また今日の若いリーダーたちにも当てはまります。 さらに、このことは年齢を問わず、周囲の人も覚えておくことだと思います。 特に日本では、年齢や性別がその人の発言やリーダーシップに影響を与えます。 若い女性だと、つい軽く見てしまいがちな人への戒めでもあります。 先入観ではなく、その人のあり方、主の前の姿を正当に評価するようにという周囲への勧めだとも言えるでしょう。 祈り:神様、あなたの前に、互いが謙遜な心で出ることができますように。年齢や性別、国籍などの先入観から自由にされ、天国人として互いを尊重し、認め、共に信仰の歩みができますように。アーメン

Ⅰテモテ3

「同じように執事たちも、品位があり、二枚舌を使わず、大酒飲みでなく、不正な利を求めず、きよい良心をもって、信仰の奥義を保っている人でなければなりません。」Ⅰテモテ3:8~9 教会の中での執事(役員)の資質について、上のように教えられています。 女性執事については 「この奉仕に就く女の人も同じように、品位があり、人を中傷する者でなく、自分を制し、すべてに忠実な人でなければなりません(11節)」 とあります。 厳しいでしょうか。 さらに、監督(牧師、働き人)についてはもっと厳しい基準が並んでいます。 「監督は、非難されるところがなく、一人の妻の夫であり、自分を制し、慎み深く、礼儀正しく、よくもてなし、教える能力があり、酒飲みでなく、乱暴でなく、柔和で、争わず、金銭に無欲で、自分の家庭をよく治め、十分な威厳をもって子どもを従わせている人でなければなりません。(2~4節)」  それでも、こうした働きにつきたいと願うことは「よい(立派な働きを求める)ことだ」と言われています。 信仰と神の助けがないと、これらの条件にかなわないことは明らかです。 逆に言えば、神に頼るからこそできる働きだとも言えるでしょう。 役員や働き人がいつも神に頼る祈りの人となれるよう、どうぞお祈りください。 祈り:神様、兄弟姉妹、特に役員や働き人として教会に仕えている人たちが守られますように。最後まで神に忠実に歩めるよう、謙遜な心と神との親しい関係を日々与えてください。アーメン

Ⅰテモテ2

「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられます。」Ⅰテモテ2:4 聖書の神は、やみくもに裁きを行う怖い神ではありません。何度も招いてくださり、忍耐して待ってくださいます。人がひとりでも滅びることを望まれない、救いに入るようにという愛のお方です。 同時に義の方でもあられるので、再三の招きに応じず最後まで頑固に拒絶する者に対して、裁きがくだるのです。 2章では「すべての人のために、王たちと高い地位にあるすべての人のために願い、祈り、とりなし、感謝をささげなさい。それは、私たちがいつも敬虔で品位を保ち、平安で落ち着いた生活を送るためです(1~2節)」と勧められています。 完全なリーダーはいないし、ニュースでは欠点ばかりが大きく報道されます。 それでも、そうした方々が主を恐れるように、そしてみこころにかなった方針、方向に進めるようにと祈るのは私たちにできる最善です。 誰を支持する、支持しないではなく、上に立っている人のためにまず祈ることから始めるようにと勧められています。 祈り:神様、リーダーたちが主の前にへりくだり、謙遜な判断ができますように。全能の神を信じ、聖書の知恵で判断できる方が、日本に多く起こされますように。アーメン

Ⅰテモテ

「しかし、私はあわれみを受けました。それは、キリスト・イエスがこの上ない寛容をまず私に示し、私を、ご自分を信じて永遠のいのちを得ることになる人々の先例にするためでした。」Ⅰテモテ1:16 家族の中で何番目に救われましたか?家族の中で信仰を持っている人はひとりですか? 初穂として救われた人や、現在家族の中で信仰者は自分だけだという人が多いかもしれません。そうでなくても、日本という国の中では、クリスチャンが少数派だということがほとんどです。 神様は私たちを「先例」とするために召してくださいました。ちょうどパウロが人々の先例になったように、です。 「『キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた』ということばは真実であり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです(15節)」と言い、かつてクリスチャンを迫害したパウロであっても、神様は豊かに用いられました。 私たちもこの国で同じように主の恵みのために用いられることを覚えて感謝します。 祈り:神様、クリスチャンが少ないと嘆いている私たちです。しかし、主が特別なご計画をもって救いの恵みに預からせてくださったことを感謝します。人々の救いのために祈りつつ、福音を届ける手足として歩ませてください。アーメン

Ⅱテサロニケ3

「そのような人たちに、主イエス・キリストによって命じ、勧めます。落ち着いて仕事をし、自分で得たパンを食べなさい。」Ⅱテサロニケ3:12 働かず、無駄なおせっかいばかりしている人に、パウロは落ち着いた生活をするよう命じます。 いつも目立たず、地道な暮らしをしているなあと感じることがありますか? もしそうなら、他と比較する必要はありません。 それが聖書的な、落ち着いたライフスタイルかもしれません。 主に促されて与える時は気前よく、でも普段は与えられたものに満足して歩む人生には、主の栄光の輝きがここそこに光っています。 祈り:神様、私の平凡に思える人生にも、あなたの栄光と宝のような恵みがつまっていると受け取ります。私に見合ったもので日々養ってください。アーメン

Ⅱテサロニケ2

「その時になると、不法の者が現れますが、主イエスは彼を御口の息をもって殺し、来臨の輝きをもって滅ぼされます。」Ⅱテサロニケ2:8 昨年からヨハネの黙示録をゆっくり読んでいます。 悪の力が悪あがきをするものの、最終的には神によって滅ぼされること、キリストが勝利をとっておられることを改めて学んでいます。 テサロニケ人への手紙第二にも、これからのことがはっきり書かれています。 「不法の者」が惑わしと悪を行います。 しかし、主イエスが必ず勝利を取ってくださいます。 だから安心していることができます。 「霊によってであれ、ことばによってであれ、私たちから出たかのような手紙によってであれ、主の日がすでに来たかのように言われるのを聞いても、すぐに落ち着きを失ったり、心を騒がせたりしないでください(2節)」とある通り、心を騒がせず、むしろその時を期待し待ち望む私たちでありたいと思います。 祈り:神様、さまざまな不安や惑わしがあふれています。その中で、主イエスから目を離さないでいることができますように。不要な恐れや不安に陥ることなく、あなたの勝利の約束を信じ続けられるようお守りください。アーメン

Ⅱテサロニケ1

「苦しめられているあなたがたには、私たちとともに、報いとして安息を与えることです。このことは、主イエスが、燃える炎の中に、力ある御使いたちとともに天から現れるときに起こります。」Ⅱテサロニケ1:7 イエス・キリストがもう一度来られる時には、裁きも伴います。 キリストを救い主として信じる人にとっては喜びの日となりますが、 神を神として認めず、福音を受け入れなかった人はその罪の報いを受けることになります。 その時の準備はどのくらいできていますか。 「もう少し待ってほしい」と福音を伝えたかった人への伝え残しがあると思うなら、そうならないうちに福音を分かち合いたいです。それにどう応答するかは、相手の問題です。私たちにゆだねられている分を果たすことができますように。 祈り:神様、___さん、___さんに福音を分かち合う機会を与えてください。永遠のいのちを得て、ともに主の御国に入りたいです。導いてください。アーメン

Ⅰテサロニケ5

「いつも喜んでいなさい。 絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」Ⅰテサロニケ5:16~18 有名な箇所で、暗証聖句として覚えている人もおられると思います。 しかしもし18節後半がなく 「いつも喜んでいなさい」 「絶えず祈りなさい」 「すべてのことにおいて感謝しなさい」 だけなら、これ以上厳しい道徳訓はないでしょう。 あまりにも厳しい基準に、ほとんどの人にとっては無理な戒めになります。 しかし最後に「キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです」 とあります。 私たちが「キリスト・イエスにある」ことで、キリストの力が覆い、肉でなく聖霊の力で導いてくださるのです。 たとえ失敗しても、再びキリストにあって歩み続ける機会が日々与えられています。 テサロニケの人たち、2千年にわたる教会の歴史の中のクリスチャンも同じような葛藤を覚え、それでもキリスト・イエスにあって歩んできたという事実に励まされます。 祈り:神様、あなたの助けを感謝します。生きていると思いがけないこと、悲しいこと、自分ではどうすることもできないことの連続です。その中で、「キリスト・イエスにあって」喜び、祈り、感謝することができる恵みを覚えます。今週も導いてください。アーメン 祈り:

Ⅰテサロニケ4

「眠っている人たちについては、兄弟たち、あなたがたに知らずにいてほしくありません。あなたがたが、望みのない他の人々のように悲しまないためです。」Ⅰテサロニケ4:13 「眠っている人たち」とは、主を信じて地上の生涯を終えた信者のことを指しています。 人間の致死率は100%です。事故・災害であれ病気であれ、または老衰であっても、やがては肉体の死を迎えます。 しかし、永遠のいのちを与えられた者には望みがあります。 それは、キリストが再び来られる日にもう一度会えるということです。 「すなわち、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身が天から下って来られます。 そしてまず、キリストにある死者がよみがえり、それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。 こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。」(16~17節) 何という慰め、何という希望でしょうか。葬儀を済ませて終わりではないのです。 まだ続きがあり、再会の望みがあります。 祈り:神様、愛する人を見送った人たち、そして私自身にも希望を与えてくださり感謝します。キリストを信じて、永遠のいのちを与えられた者の恵みを覚えます。どうか私の周りの___さん、___さんが主を知り、永遠のいのちを得ることができますように。アーメン

Ⅰテサロニケ3

「こういうわけで、兄弟たち。私たちはあらゆる苦悩と苦難のうちにありながら、あなたがたのことでは慰めを受けました。あなたがたの信仰による慰めです。」Ⅰテサロニケ3:7 パウロはテサロニケ教会の人たちの信仰から慰めを受けました。それは、困難の中でもイエス・キリストから離れないという信仰でした。 たびたび迫害を受け、獄中にもいたパウロにとって、同じような困難の中で主を見上げ続ける人の存在は大きな慰めでした。 今も、ある人の信仰が、他の人へ慰めを与えることがあります。 被災地となった地域の教会やクリスチャンが、次の被災地のために祈り行動することもその一つです。 闘病した信仰者が、闘病中の人のよき友、祈り手になります。 家族を失った信仰者が、喪失体験をしている人に最も近く寄り添います。 3章の終わりで感謝の祈りがささげられています。 今日はその祈りを私たちの祈りとしたいと思います。 祈り: 「私たちがあなたがたを愛しているように、あなたがたの互いに対する愛を、またすべての人に対する愛を、主が豊かにし、あふれさせてくださいますように。そして、あなたがたの心を強めて、私たちの主イエスがご自分のすべての聖徒たちとともに来られるときに、私たちの父である神の御前で、聖であり、責められるところのない者としてくださいますように。アーメン。」(12~13節)

Ⅰテサロニケ2

「むしろ私たちは、神に認められて福音を委ねられた者ですから、それにふさわしく、人を喜ばせるのではなく、私たちの心をお調べになる神に喜んでいただこうとして、語っているのです。」Ⅰテサロニケ2:4 「Just Between Us(ジャスト・ビトウィーン・アス)」という、クリスチャン女性のための雑誌を30年来愛読しています。 雑誌の創立者であり、自らも牧師夫人であるジル・ブリスコー先生が書いておられた一文を、しばしば思い出します。 それは、「人前に立つとき、大勢の前でメッセージやあかしをするとき、ただひとりの聴衆に対して語るように・・・そのひとりとは、主ご自身です。私たちは、神様の評価だけを気にするのです(意訳)」というものです。 人がどう思うか、私たちはつい批判や賞賛が気になります。 しかし、福音の分かち合いはもちろん、日々の行動や決断も、それが神を喜ばせるものかどうかが判断基準となれたら幸いです。 なぜなら、日々の暮らしも、平凡な時も、すべて神様が与えてくださったものだからです。 祈り:神様、あなたと共に今日も歩みたいです。自分で何かを判断する前に、あなたがどう思われるか、心の中で祈って聞くことができますように。あなたが喜んでくださる方向に今日も導いてください。 また、今日は阪神淡路大震災から30年です。 私たちの地も共に揺れあちこちに被害がありましたが、神戸や淡路の地域のひどい被害には言葉を失いました。 格別にあなたの慰めと励ましが、地域と人々と教会にありますように。 トラウマで苦しむ人に、主の深い平安をお与えください。 主の希望の光を注いでください。アーメン

Ⅰテサロニケ1

「あなたがたも、多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、私たちに、そして主に倣う者になりました。」Ⅰテサロニケ1:6 今日からテサロニケ人への手紙に入りました。 第一テサロニケは、昨年の木曜集会で1章ずつ読み、味わった箇所です。 迫害や苦難の中にいるクリスチャン、教会に宛てて書かれました。 くじけそうになる状況にもかかわらず、この手紙は「いつも喜んでいなさい」と勧めています(5章)。 1章でも「多くの苦難の中」にあったことがわかります。 しかし、彼らは「聖霊による喜びをもって」みことばを受け入れました。 喜びは自分の感情や状況の悪化に左右されないものだというのです。 そして、聖霊が私たちに与えてくれるものなのです。 疲れ落胆して喜びがなくなりそうな時、心を整えて聖霊の促しに耳を傾けることができますように。そこから、細い主の語りかけと深い静かな喜びが湧き出してくることを体験できますように。 祈り:神様、逆境にいる人たち、特にクリスチャンを励ましてください。聖霊による喜びが心に満たされますように。私自身も、どんな時でも聖霊の力に頼る習慣をわがものとできますよう、導いてください。アーメン

コロサイ4

「外部の人たちに対しては、機会を十分に活かし、知恵をもって行動しなさい。 あなたがたのことばが、いつも親切で、塩味の効いたものであるようにしなさい。そうすれば、一人ひとりにどのように答えたらよいかが分かります。」コロサイ4:5、6 教会に宛てていますから、 「外部の人たち」とはそこに集っていない人たち、つまりまだ救い主キリストに個人的に出会っていない人たちのことです。 その人たちに、「いつも親切で」「塩味の効いた」ことばで接するとことが勧められています。 難しそうですね。 でも、機会を与えるのも、知恵をくださるのも主ご自身です。 聖霊に満たされることを追い求めるなら、それらはすべて備えられ、導かれるのです。 ノウハウの研究も大切ですが、もっと大切なのは日々神に頼り、聖霊に導かれることです。 もし何かの理由で一時的に教会から離れている方がおられたら、主を共に見上げる群れである教会に、ぜひ再び足を向けてください。 ひとりでは折れそうでも、共に立つことで励ましと支えが与えられます。 祈り:神様、いつも共にいてくださり感謝します。あなたを見上げて歩みたいです。 初めて教会に来た方や久しぶりの方を、キリストの愛で歓迎します。主が心に語りかけお送りください。アーメン

コロサイ3

「互いに偽りを言ってはいけません。あなたがたは古い人をその行いとともに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。新しい人は、それを造られた方のかたちにしたがって新しくされ続け、真の知識に至ります。」コロサイ3:9~10 今週は寒波が一段落したものの、寒い日が続きます。つい着込もうとするのですが、分厚いフリースの上にぴったりした上着を羽織ると、窮屈で動きが不自由になり、かえって寒く感じます。 まずはフリースを脱ぎ、それから着込む必要があります。 コロサイ書は「古い人をその行いとともに脱ぎ捨てて」と述べます。 私たちの古い性質は、すでにキリストと共に死んで葬られました。 そして「新しい人を着た」のです。 永遠のいのちと自由を得て、日々キリストによって新しくされる、すばらしい約束を着ています。 もう窮屈ではありません。 主にあって伸びやかに生きるように、キリスト第一の価値館に入れられています。 この自由を味わっているでしょうか。 祈り:神様、新しい人を着せてくださり感謝します。まだ古い人だけを着ているような錯覚に陥ったり、不信仰になったりする思いを変えてください。キリストにしたがって新しくされ続け、真の知識に至るという約束に感謝します。アーメン

コロサイ2

「キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。あなたがたは、キリストにあって満たされているのです。キリストはすべての支配と権威のかしらです。」コロサイ2:9 キリストにあって満たされている・・・何と素晴らしい宣言でしょうか。 しかし、私たちはすぐにこのことを忘れてしまいます。 肉の弱さ、疲れ、徒労感などがその原因かもしれません。 大人として歩む上での責任やプレッシャーもあります。 しかし、キリストの中にある神のご性質を見るとき、そこに望みがあります。 キリストの豊かさに希望をおき、今週も歩んでいきます。 祈り:神様、日々のプレッシャーと疲れをあなたのもとに置ける恵みを感謝します。 今日成人式を迎える多くの人たちが、生涯でキリストと出会うことができますように。アーメン

コロサイ1

「私たちはこのキリストを宣べ伝え、あらゆる知恵をもって、すべての人を諭し、すべての人を教えています。すべての人を、キリストにあって成熟した者として立たせるためです。このために、私は自分のうちに力強く働くキリストの力によって、労苦しながら奮闘しています。」コロサイ1:28~29 パウロは福音を伝える伝道者として大きな働きをしました。 しかし、初めての人に伝えるだけでなく、信仰者の成長のためにも労苦し、手紙を書き、時には厳しい言葉で叱責しました。 それは、信仰者が信じたところで漫然と満足してしまうのではなく、「キリストにあって成熟した者として」成長し歩むためです。 信仰者がパウロの姿にならい、同じように福音のわざに励むことを望んでいました。 そして、それは神様のみむねでもあります。 救われたらそれで十分だといって、あとは自分勝手に歩むというのは聖書的ではありません。 キリストの似姿を目指し(もちろん完全な方は主お一人ですが)、日々主を見上げ、生涯にわたって成長させてくださる神に従う決心を共にいたしましょう。 祈り:神様、救いの恵みを感謝します。救われてはいますが漫然とぬるま湯につかる信仰ではなく、あなたを熱く愛し、あなたに従ういきいきとした人生を歩みたいです。キリストを見上げ、信仰のレースを走ることができるよう、私の心に深い喜びと主からの情熱を与えてください。アーメン

ピリピ4

「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」ピリピ4:6~7 「思い煩い」という言葉が聖書の中にどのように出てくるか、調べてみました。 新約聖書では、 ・マルタがイエス様のおもてなしにあれこれと気をもんで「思い煩った」こと(ルカ10章) ・種のたとえで、茨の中に蒔かれてこの世の「思い煩い」と富の誘惑でみことばがふさがれ、実を結ばない人のこと(マタイ11章、マルコ4章) ・心が放蕩や深酒や生活の「思い煩い」で押しつぶされていて、主の日が突然臨むことへの警告(ルカ21章) などに使われています。 心が主に定まらず、見えるところの心配であれこれ心が分裂していることのようです。 そして、もっとも大切なことに心を向けることができなくなっている状態です。 パウロは「私は、どんな境遇にあっても満足することを学びました(11節)」と言います。それは、彼がイエス・キリストの福音に心を定めていたからです。 私たちはどのようにパウロの姿勢にならうことができるでしょうか。 祈り:神様、私の心を乱すものは_______________________です。 今、その悩みのあれこれを、主の足元におきます。すべてがあなたのご支配の下にあることを信じます。私に信仰を増し加えてくださり、導いてください。アーメン

ピリピ3

「しかし、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます。」ピリピ3:20 イエス様はもう一度天から来られるという約束を、どのくらい楽しみに待ち望んでいるでしょうか。 マタイの福音書や黙示録に書かれている患難を思うと、かえって怖い思いがしていました。 しかしよく読むと、神様は患難までに救いの機会を何度も提供してくださっていること、キリストを信じるならどんな人でも救いに入れられることがわかります。 悪いニュースに振り回されず、主を信じれば救われるという希望に目をとめることが大切です。 「私たちの国籍は天にある」ーー天でキリストに出会い、信じる者が再会できると思うと、あの人、この人に会いたいと楽しみになってきます。 祈り:神様、キリストが今おられる天の御国で、やがて信仰者が共に再会し、主を賛美できる時が来ることに感謝します。阪神淡路大震災などの災害の遺族に慰めがありますように。豪雪の被害地域で除雪のために働いている人たちに守りがありますように。アーメン

ピリピ2

「キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、 人間と同じようになられました。」ピリピ2:6~7 アドベントの礼拝でこの箇所が語られました。 キリストが天から降りて来られた神であり、その謙遜と従順の姿勢を学びました。 「~であるべき」「~でなければ」という先入観やプライドを捨てて、私たちのために地上に来てくださいました。 退職や一線から退くとき、あるいは試験に不合格だったとき、 私たちのプライドは砕かれます。 その心境をイエス・キリストが一番わかってくださるとしたら、何と慰められることでしょう。 それだけでなく、キリストは今父のみもとにおられ、喪失の中にある私たちに新たな召しも備えてくださっています。 その幸いを覚えます。 祈り:神様、あなたが私たちのどんな悩みもわかってくださいます。今、人生の空しさを覚える人がいるなら、主の深い慰めと新たな召しの希望を与えてください。キリストの姿勢にならい従う私たちとしてください。アーメン

ピリピ1

「ただキリストの福音にふさわしく生活しなさい。そうすれば、私が行ってあなたがたに会うにしても、離れているにしても、あなたがたについて、こう聞くことができるでしょう。あなたがたは霊を一つにして堅く立ち、福音の信仰のために心を一つにしてともに戦っていて、」ピリピ1:27 救いはただ福音の恵みにより、行いではなくプレゼントです。ただで、信じるだけで受けとることができます。 もっとも、聖書は救われたら好き勝手に生きてもよいとは言っていません。 救いの喜びをともに分かち合うこと、 そして福音にふさわしく生きることを勧めます。 「霊を一つにして堅く立ち」 「福音の信仰のために心を一つにしてともに戦う」 ことが、ピリピ書でも示されています。 日々、多くの祈りの課題があります。自分のことだけでなく、体調不良の人、家族に困難をかかえている人、仕事や学校でチャレンジを覚える人、世界の貧困や迫害・・・。 それらについてとりなしの祈りをするのは「霊を一つにして」「心を一つにしてともに戦っている」ことの表れです。 祈り:神様、周囲で起こる様々な問題や課題を、聞き流すのでなく都度祈りに代えることができますように。霊の家族を与えてくださり感謝します。互いに祈り合い、信仰を励まし合い、ともに建てあげることができるよう導いてください。アーメン

エペソ6

「悪魔の策略に対して堅く立つことができるように、神のすべての武具を身に着けなさい。」エペソ6:11 子どもの頃アニメ番組で、戦いに行く前に一つ一つのスイッチを押し、「ガチャン」「ガチャン」と装備を整える場面を見たのを思いだします。 今も、スポーツ選手がユニフォームを着、靴ひもをしめ、サポーターをはめ、テーピングを巻いて試合に望む姿はなじみです。 聖書は、私たちも霊的戦いに備え、同じように神の武具を身につけることを教えています。 感謝なことに、武具はすべて神によって備えられており、私たちは頂いた武具を装着して望むことができます。 真理の帯、正義の胸当て、平和の福音の備え、信仰の盾、救いのかぶと、御霊の剣を、今日も装着して歩みましょう。 祈り:神様、あなたがくださる恵みの武具を、日々身に着けて歩ませてください。新年も本格的に始動します。思いがけないことが起こった時、その武具を用いて対応できますように。アーメン

エペソ5

「また、ぶどう酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。むしろ、御霊に満たされなさい。詩と賛美と霊の歌をもって互いに語り合い、主に向かって心から賛美し、歌いなさい。」エペソ5:18~19 年末年始は親戚や仲間で食事をする機会が増えます。 お酒そのものが悪だという訳ではありません。 しかし、飲酒に依存し、歓楽街での遊びに依存するなら、健康や家庭に支障をきたします。 「酒の勢いに任せてやってしまった」という失敗の何と多いことでしょうか。 御霊に「満たされなさい」というのは「満たされ続けなさい」という意味です。 一度きりでなく、いつもいつも御霊の満たしを求め、主に向かって心からの賛美をささげる生活を、聖書は勧めています。 なぜなら、そこには真の満足があるからです。 私たちの霊が喜び、造られた本来の目的に立つことができるからです。 祈り:神様、あなたの与えてくださった私の霊も肉も、あなたが意図された目的にしたがって用いることができるよう助けてください。アーメン

エペソ4

「神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。 無慈悲、憤り、怒り、怒号、ののしりなどを、一切の悪意とともに、すべて捨て去りなさい。互いに親切にし、優しい心で赦し合いなさい。神も、キリストにおいてあなたがたを赦してくださったのです。」エペソ4:30~32 かつて頂いた本を改めて読み始めました。「21世紀の嫁と姑~クリスチャンの視点から」という、牧師夫人の書かれた自費出版の本です。 それを読むと、国を問わずどこでも、嫁姑のトラブルはライバル意識が根底にあるようです。 初代教会の女性たちにも、同じような葛藤はあったかもしれません。 聖書の勧めは、神によって赦されたという原点に立つことと、聖霊を悲しませるようなものは「捨て去りなさい」ということです。 誰かに対して苦い思いがあるなら、「一切の悪意とともに、すべて捨て去る」と神に告白し、助けを祈っていきましょう。 祈り:神様、あなたの前に___さんとの摩擦、葛藤を置き、悔い改めます。私の心から悪い思いを捨て去ることができるよう、あなたご自身のみわざでぬぐい取ってください。聖霊の働きに期待します。アーメン

エペソ3

「どうか御父が、その栄光の豊かさにしたがって、内なる人に働く御霊により、力をもってあなたがたを強めてくださいますように。」エペソ3:16 新年が始まってまだ数日なのに、何かの原因でがっかりしているかもしれません。 思わぬハプニングやトラブルで休みたいのに休めない、そんなこともあります。 感情は心の表面で波打つ海のようです。 風が吹いてくるとさか巻き、波立ちます。 心の防御反応として怒りや腹立ちが起こることもあります。 そんな私たちの一番深いところに御霊が働かれるとは、何という希望でしょうか。 力ある方が、その力をもって失敗だらけの私たちを見捨てない、そして強めてくださるというのです。 その望みは素晴らしいですね。 祈り:神様、あなたの希望の約束を感謝します。私の内の深いところに御霊が今日も働いてください。私をあなたのものとしてください。アーメン

エペソ2

「実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。」エペソ2:10 恵みのゆえに、信仰によって救われた(8節)ーこれは人ではなく神から出たもので、神様からのプレゼント(賜物)です。 神様は、どれだけ私たちのことを愛し見つめてくださっていることでしょうか。 私たちが「神の作品(10節)」というのは、”work of art”(芸術作品)とも表現されています。 「非常によかった」と創世記の創造のわざで宣言された神様は、私たちを自らの芸術作品として慈しんでくださいます。 たとえ、私たちが失敗だらけだった、としてもです。 その作品がどのように良い行いをするかも、あらかじめ備えられています。 神様が今年備えておられるあなたにとって、私にとっての「良い行い」は何でしょうか。 祈り:神様、私を「神の作品」として造り愛してくださり感謝します。私にあなたが望まれている「良い行い」を受けとります。備えてくださったみこころに歩めますように。アーメン

エペソ1

「また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しにより与えられる望みがどのようなものか、聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか、また、神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができますように。」エペソ1:18~19 「心の目」が完全に見えたなら、キリストにある望みと祝福がどれほどのものであるかに圧倒されることでしょう。 もっとはっきり見たいと願い、そのために私たちは日々キリストを仰ぎ見ます。 たとえ肉の目では、雑事や悩みごとの満ちる世界が見えても、です。 初詣に行く人たちが、そこで熱心に願い事をしています。 何かを求めているのですが、その願いは自分の幸せ、自分の生きている範囲のことが多いようです。 毎年の風習だと見過ごすのではなく、求めている人がこれほどまでに身近にいることを受け止め、祈りたいです。 多くの日本人の心の目が開かれますように。永遠のいのちがどれほどの恵みか、心の目で見て知ることができますように。 祈り:神様、今年あなたの素晴らしさをより知ることができるよう、導いてください。キリストの救いの恵みと素晴らしさを分かち合う機会を与えてください。 身近な周囲の人たちのために、日々祈る心を与えてください。アーメン

ガラテヤ6

「互いの重荷を負い合いなさい。そうすれば、キリストの律法を成就することになります。」ガラテヤ6:2 主にあって新年おめでとうございます。 新年から「重荷」ということばが出てきますが、 ここでいう「重荷」とは、良心・倫理的な事柄や弱さを指しています。 キリストにある主の家族として、弱さを互いに補い、支え合ってキリストに従う生き方をしようと勧められています。 信仰の歩みには、羊のように仲間が必要です。群れとして支え合い、キリストを先頭について行くなら安全です。ひとりでは迷い出てさまよってしまいます。 今年も、キリストに従う群れとして、共に歩む365日の旅路に期待します。 祈り:神様、今年の教会の歩み、一人一人の歩みに期待します。主が先頭に立ち、私たちを青草の牧場に導いてくださる幸いに感謝します。アーメン

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