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ヘブル10

「約束してくださった方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白し続けようではありませんか。」ヘブル10:23 信仰が揺らぐ経験がありますか? そんな人たちに向けて、今日の箇所は励ましと秘訣を与えます。特に次の3つは、今日から実践できます。 一つは、動揺せず福音の希望を告白すること。(23節) また、孤立せず信仰者のが互いに励まし合うこと。(25節) 「ある人たちの習慣に倣って自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう。その日が近づいていることが分かっているのですから、ますます励もうではありませんか。」 さらに、神の時を待ち、忍耐強くあること。(36節) 「あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは、忍耐です。」 祈り:神様、すでにキリストが完成してくださった、福音の恵みを忘れないように助けてください。信仰の友と励まし合い、忍耐をもって互いに建て上げます。今日もあなたに信頼します。アーメン

ヘブル9

「まして、キリストが傷のないご自分を、とこしえの御霊によって神にお献げになったその血は、どれだけ私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者にすることでしょうか。」ヘブル9:13-14 旧約時代には、祭司が動物の血を携えて罪の赦しを乞いました。何度も何度もその繰り返しでした。 キリストの血は動物の何千倍、いや無限の力があります。 ただ一度十字架で流されれば、時代も場所も越えて私たちにも効力が及びます。 今も変わらない福音の真理を、何とかしてひとりでも多くの方が知り、永遠のいのちの希望を持つことができますように。 祈り:神様、キリストのあがないの力は無限大です。日常のご利益ではなく、永遠の次元に及ぶものです。 このダイナミックで素晴らしい福音に、周囲の方の目が開かれますように。アーメン

ヘブル8

「これらの日の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうである。──主のことば──わたしは、わたしの律法を彼らの思いの中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」ヘブル8:10 外側の律法でしばられていた当時の人々に、もっと大切なことを述べます。 それは、イエス・キリストにある新しい契約です。 表面を繕うのではなく、心に書かれた契約であり、主の民とされるということです。 この約束は、今日の。ヘブル(ユダヤ)人でない私たちにも有効です。 キリストを知る者は、主の民とされ、心から自由にされます。聖霊が私たちをガイドしてくださるから、今日も安心、平安です。 祈り:神様、主の民としてくださり感謝します。今年もあと2ヶ月になりました。恵みを思い巡らしつつ、聖霊と共に歩み期待します。アーメン

ヘブル7

「したがってイエスは、いつも生きていて、彼らのためにとりなしをしておられるので、ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになります。」ヘブル7:25 メルキゼデクという人物をあげて、祭司の仕事について説明します。 そして、キリストこそ完全な大祭司であり、いつも生きてとりなしてくださる方だと述べます。 今日、この方に近づいて何を感謝し願いますか。いつまでも生きておられる方が、私たちのためにとりなしてくださるのです。 園遊会にも勝る名誉ではありませんか。 祈り:神様、キリストのあわれみに感謝します。いつも生きてとりなしておられる方に、重荷をすべて打ち明けます。アーメン

ヘブル6

「私たちが持っているこの希望は、安全で確かな、たましいの錨のようなものであり、また幕の内側にまで入って行くものです。」ヘブル6:19 神の約束と誓い(18節)によって保証されている希望について、ヘブル書は語ります。 それは、変わることがない保証だ、と。 ちょうど錨を下ろした船が動かないように、 その希望はたましいの錨である、と宣言します。 聖書には多くの神の恵みの約束があります。今日、握って歩む心の錨はどんな約束ですか。 祈り:神様、あなたご自身が約束し保証してくださった、みことばの約束を感謝します。今日もその希望の中を歩ませてください。アーメン

ヘブル5

「キリストは御子であられるのに、お受けになった様々な苦しみによって従順を学び、」ヘブル5:8 神の子なのに、キリストがこの地上で人として苦しみを通る、というのは、なかなか理解しがたい事実です。 私たちにすら理解しがたいところを、キリストが経験し、従順を身をもって教えてくださいました。 「キリストに従う」というのは、私たちもこの従順を学ぶことだと言えます。 祈り:神様、キリストの姿を目指して歩みたいです。自己義や利己的な思いを、主にあって取り扱ってください。手放すことを教えてください。アーメン

ヘブル4

「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。」ヘブル4:15 試練の時、共感してくれる人の存在に慰められます。 神であるイエス・キリストが、私たちの悩み悲しみ、驚きやショック、抑うつや傷心、戸惑いや迷い、すべてわかってくださるというのは、どれほどの慰めでしょう。 しかもその方に向かって、願い祈ることができるのです! 「ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」(16節) 祈り: 神様、あなたは愛とあわれみに満ちた方です。私の心をわかってくださり感謝します。御座の前で祈りと願いをささげます。アーメン

ヘブル3

「『今日、もし御声を聞くなら、あなたがたの心を頑なにしてはならない。神に逆らったときのように』と言われているとおりです。」ヘブル3:15 出エジプトの後、不信仰のために荒野で40年を費やした先祖たちが念頭に置かれています。 そうなってはいけない、と戒めています。 荒野の旅は、すべてが削がれ、最低限でした。その中で神に従うことと、必要はすべて神からくることを学びました。 ヘブ書の時代には、律法や言い伝えが重視されていました。しかし、それを削ぎ、主のみわざを信じ受け取る必要がありました。 あなたは今、何を手放すようにと神から促されていますか? 頑なではなく、柔らかい心を持てますように。 祈り:神様、信仰の目と勇気を頂いて、私が執着しているものを手放したいです。本当に大切なことを見極めさせてください。アーメン

ヘブル2

「死の恐怖によって一生涯奴隷としてつながれていた人々を解放するためでした。」ヘブル2:15 どんなに医学や科学が発達しても、肉体の死は必ず訪れます。 愛する家族や友が息を引き取って冷たくなるのは、なんとも言えず寂しく厳粛な経験です。 しかし、この死で終わりではないという希望が、私たちにもたらされました。永遠のいのちの希望です。 「…死の力を持つ者、すなわち、悪魔をご自分の死によって滅ぼし( 14節)」てくださったイエス・キリストに感謝します。 祈り:神様、キリストを救い主と信じる者に与えられる、永遠のいのちの希望を感謝します。死で終わりではなく、天での再会を待ち望める幸いに感謝します。アーメン

ヘブル1

「またこう言われました。 『主よ。あなたははじめに地の基を据えられました。天も、あなたの御手のわざです。 これらのものは滅びます。しかし、あなたはいつまでもながらえられます。 すべてのものは、衣のようにすり切れます。あなたがそれらを外套のように巻き上げると、それらは衣のように取り替えられてしまいます。 しかし、あなたは変わることがなく、あなたの年は尽きることがありません。』」ヘブル1:10-12 神の壮大な創造のみわざが語られます。 旧約聖書でも似た記述があります。 「主は、天を薄絹 のように延べ広げ、これを天幕のように張って住まわれる。」(イザヤ40:22) 旧約を信じていた民に、この神こそイエス・キリストだったと伝えているようです。 そして、自然を神とする日本の人たちにも、イエス・キリストこそ創造主、神だと語っています。 祈り:神様、あなたこそ神であり、世界の創造主であることを信じます。あなたの摂理を感謝し受け取ります。アーメン

ピレモン

「そうです、兄弟よ。私は主にあって、あなたの厚意にあずかりたいのです。私をキリストにあって安心させてください。」ピレモン 20節 信仰者であったピレモンへの手紙です。 奴隷オネシモの改心を報告し、彼を赦してほしいということ、責任はパウロが負うと伝えます。 前の節も強い口調です。 「私パウロが自分の手で、『私が償います』と書いています。あなたが、あなた自身のことで私にもっと負債があることは、言わないことにします。(19 節」 キリストが私たちを赦してくださったのだから、私たちも負い目のある人をゆるします、という主の祈りの原則そのものですね。 祈り: 神様、キリストの十字架による赦しを感謝します。私たちも人をゆるすことができますように。主の愛と力で助けてください。アーメン

テトス3

「神は、私たちが行った義のわざによってではなく、ご自分のあわれみによって、聖霊による再生と刷新の洗いをもって、私たちを救ってくださいました。神はこの聖霊を、私たちの救い主イエス・キリストによって、私たちに豊かに注いでくださったのです。」テトス3:5~6 救いは私たちの善行ではなく、ただ神のあわれみによります。 聖霊による再生と刷新の洗いで私たちは永遠のいのちを頂きました。 そればかりか、聖霊が私たちに今も豊かに注がれています。 「私たちがキリストの恵みによって義と認められ、永遠のいのちの望みを抱く相続人となるため」(7節)にです。 永遠のいのちを受け継ぐ「相続人」の身分の価値を、じっくり考えたいです。決してお金では買えないものを、主は与えてくださいました。 祈り:神様、あなたのくださる恵みに感謝します。その大きさ、豊かさがもっとよくわかりますように。アーメン

テトス2

「実に、すべての人に救いをもたらす神の恵みが現れたのです。」テトス2:11 クリスマスには、イザヤ書の次の聖句を聞くことが多いです。 「闇の中を歩んでいた民は大きな光を見る。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が輝く。」( イザヤ 9:2) テトス2章を読むと、イエス・キリストにあってこの預言が実現したことを再度確認できます。 それだけでなく、キリストが再び来られる望みも書かれています。 「祝福に満ちた望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるイエス・キリストの、栄光ある現れを待ち望むように教えています。(13節」 祈り:神様、あなたが永遠のご計画を持たれ、みことばの約束をくださったことに感謝します。失望せず、主の恵みと力によって今日も歩ませてください。アーメン

テトス1

「同じ信仰による、真のわが子テトスへ。父なる神と、私たちの救い主キリスト・イエスから、恵みと平安がありますように。私があなたをクレタに残したのは、残っている仕事の整理をし、私が命じたとおりに町ごとに長老たちを任命するためでした。」テトス1:4~5 テモテに比べて、テトスへの手紙は短く簡潔です。 しかし、どちらもパウロから「霊の子」と呼ばれており、宣教のバトンを渡されました。 テトスはクレタで働き人を任命し、教会を建て上げるために働きました。 私たちも各々に、神に委ねられた働きがあります。 他者と比較せず、その働きを感謝して受け取りましょう。 祈り:神様、あなたが私に望まれる働きを喜んでできますように。家族、職場、地域、教会…で主のみこころを行えますように。アーメン

Ⅱテモテ4

「私は勇敢に戦い抜き、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。」Ⅱテモテ4:7 人生の最後に、このように言える人は幸いだと思います。 パウロは最後になると思われた手紙で、満ち足りた生涯の秘訣を述べました。 「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。忍耐の限りを尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。(2節)」 彼のライフスタイルは、自分をとりまく環境や世の情勢に流されませんでした。 様々な情報があふれる現在も、みことばに根ざすことが錨のように確かな指針を与えてくれます。 祈り:神様、私の人生もパウロのように歩めますように。前を向き、主の与えてくださる道を最後まで歩ませてください。アーメン

Ⅱテモテ3

「また、自分が幼いころから聖書に親しんできたことも知っているからです。聖書はあなたに知恵を与えて、キリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができます。」Ⅱテモテ3:15 教会に来られた人が、 「幼い頃、一度だけ子どものイベントに行きました」とか、 「薄い聖書を見かけたことがあります」 と言われることがあります。 聖書のことばは文字であれ音声であれ、力があります。 本人が忘れていても心の底にとどまり、キリストの福音による救いへとつながることがあります。 祈り:神様、聖書のことばが救いに導くことに感謝します。私も様々な方法を通して、聖書のことばそのものを紹介できますように。アーメン

Ⅱテモテ2

「主のしもべが争ってはいけません。むしろ、すべての人に優しくし、よく教え、よく忍耐し、反対する人たちを柔和にち教え導きなさい。 神は、彼らに悔い改めの心を与えて、真理を悟らせてくださるかもしれません。」Ⅱテモテ2:24~25 皆が同じ考えの時は、それほど苦労しません。 しかし、反対する人がいるとき、理解してもらえない時こそ、その人の品性が表れます。 テモテへの手紙は、優しく、忍耐し、柔和に接することを教えます。 怒りやすい私は、自分の力だけでは到底できません。 聖霊に頼り、主の力と助けを頂くようにと願います。 祈り:神様、私の欠けを認めます。主が忍耐を与え、御霊の実を結ぶことができるよう導いてください。アーメン

Ⅱテモテ1

「自分に委ねられた良いものを、私たちのうちに宿る聖霊によって守りなさい。」Ⅱテモテ1:14 どんな良いものが、自分に委ねられていると思いますか? 「何もない」と思わないでください。 福音、みことば、救いの喜び、キリストの愛と希望、信仰の強さと確かさ、永遠のいのち、それらを自分らしく分かち合うこと...。 この地上だけでなく、永遠に続く価値のあるものを頂いていることに感謝します。 祈り:神様、私たちに本当に価値あるものを与えてくださり、感謝します。 この地上でどんなに弱くても、主によって生かされ、主によって歩む幸いを覚えます。アーメン

Ⅰテモテ6

「しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそが、大きな利益を得る道です。」Ⅰテモテ6:6 偽りの敬虔についての警告が述べられます。敬虔を利得の手段と考える人がいる、と。 もし主イエス・キリストのことばと敬虔にかなう教えをしないなら、その人は高慢になっていて、何一つ理解しておらず、「議論やことばの争いをする病気にかかっている」(4節)という表現までされています。 私たちは、何もこの世に持って来なかったし、また持って出ることもできません(7節)。 満ち足りる心を持ち、「議論やことばの争いをする病気」にかからず、最後まで人生を歩めますように。 祈り:神様、あなたが私に地上の生涯をくださり、永遠のいのちにも招いてくださったことに感謝します。満ち足りる感謝の心を与えてください。アーメン

Ⅰテモテ5

「もし、やもめに子どもか孫がいるなら、まずその人たちに、自分の家の人に敬愛を示して、親の恩に報いることを学ばせなさい。それが神の御前に喜ばれることです。」Ⅰテモテ5:4 このことばが、今年ほど励ましになることはありませんでした。 母の突然の脳梗塞と後遺症、介護と入院という経験の中で、他の予定はできなくなったりキャンセルしたりが続きました。 くじけそうになったとき、ある方が「あなたの父と母を敬いなさい」を実行したら祝福があるよ、と励ましてくださいました。 そして、テモテの時代も今も変わりないことを、今日の聖句から学んだ次第です。 祈り: 神様、家族の介護や看病をしている人たちに励ましを与えてください。遠方の家族を思いやる人たちに、主の恵みがありますように。アーメン

Ⅰテモテ4

「私が行くまで、聖書の朗読と勧めと教えに専念しなさい。」Ⅰテモテ4:13 「ともに聴く聖書」のトップページにも、昨日ちょうどこの節が出ていました。 日々みことばを読むこと、勧め、教えに専念し、余計なことにとらわれないようにということです。 社会情勢や危険、牧会にまつわる様々な心遣いや悩みもあったことでしょう。 でも心乱れず、いつものように信仰生活を送る…そのことを私たちも学びます。 祈り: 神様、環境や周囲の状況がどうあっても、日々の信仰生活のペースを保つことができますように。アーメン

Ⅰテモテ3

「執事として立派に仕えた人は、良い地歩を占め、また、キリスト・イエスを信じる信仰について、強い確信を持つことができるのです。」Ⅰテモテ3:13 各教会でリーダー・役員として歩んでいる方々に感謝します。 「立派に仕える」というのは、大きなことを成し遂げるという意味ではありません。 主に忠実に、信仰を堅く守り主を愛した人こそ「立派に」仕えたと言えます。 これは肩書きとしてのリーダーや役員に限りません。 日本ではクリスチャンは1%と言われます。 一人一人のクリスチャンが、100人にひとりのリーダーだと言えます。 祈り:神様、私たち一人一人が、主に忠実に歩むという意味で「立派に仕える」ことができますように。アーメン

Ⅰテモテ2

「キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自分を与えてくださいました。これは、定められた時になされた証しです。」Ⅰテモテ2:6 キリストのしてくださったことの大きさを思う時、ただただ恵みに圧倒されます。 いのちとひきかえの証し…そして信仰者も、それぞれの歩みと死さえも証しとして残ります。 祈り:神様、あなたの恵みの前にひれ伏します。私の生涯も証しとして用いてください。アーメン

Ⅰテモテ1

「私の子テモテよ。以前あなたについてなされた預言にしたがって、私はあなたにこの命令を委ねます。それは、あなたがあの預言によって、信仰と健全な良心を保ち、立派に戦い抜くためです。」Ⅰテモテ1:18 「私の子テモテよ」。 信仰による子として、パウロはこう呼びかけます。 そして、信仰と良心を持って戦い抜けるよう、励まし勧め、委ねます。 私たちは、誰から信仰のバトンを受けましたか。 また、誰にバトンを渡しますか。 祈り: 神様、信仰のバトンを渡してくれた________さんに感謝します。私も同じように継承できますように。アーメン

Ⅱテサロニケ3

「そのような人たちに、主イエス・キリストによって命じ、勧めます。落ち着いて仕事を し、自分で得たパンを食べなさい。」Ⅱテサロニケ3:12 地味な暮らしをしているなあと感じることがありますか? 週の初めに礼拝に行き、同じような歩みの一週間を送る、と。 それが聖書的な、落ち着いたライフスタイルかもしれません。 与えられたもの、環境に満足して歩む人生に、主の栄光の輝きが反映されます。 祈り:神様、私の平凡な人生にも、あなたの恵みがつまっていることに感謝します。今日も私を養ってください。アーメン

Ⅱテサロニケ2

「どうか、私たちの主イエス・キリストと、私たちの父なる神、すなわち、私たちを愛し、永遠の慰めとすばらしい望みを恵みによって与えてくださった方ご自身が、あなたがたの心を慰め、強めて、あらゆる良いわざとことばに進ませてくださいますように。」Ⅱテサロニケ2:16-17 祈りです。 キリストと神ご自身が、あなたがたの心を慰め、強めて…とあります。 行動を起こすには、動機づけとエネルギーが必要です。「強め」られることがそれです。 それに先立つて必要なのは「心を慰め」られることです。 慰められ、癒されることなしによい働きはできません。 私たちは、日々の労苦に主の慰めを頂き、備えられた新しい力を受け取って歩むようにと、主は招いておられます。 祈り:神様、あなたのあふれる慰めを感謝します。主の愛で強められ、今日も一日歩ませてください。アーメン

Ⅱテサロニケ1

「その日に主イエスは来て、ご自分の聖徒たちの間であがめられ、信じたすべての者たちの間で感嘆の的となられます。そうです、あなたがたに対する私たちの証しを、あなたがたは信じたのです。」Ⅱテサロニケ1:10 イエス・キリストが再び来られる時、彼は「感嘆の的」となられる-- 素晴らしい情景です。 アイドルより、グラミー賞やノーベル賞の受賞者より、キリストはあがめられ、感嘆の声をあげて迎えられる方です。 そこに居合わせたら、どんな声をあげたいですか。 祈り: イエス・キリストは私の神、救い主、愛する方、癒し主、ヒーロー、恩人、カウンセラー…です。主と直接お会いできる時を心待ちにしています。アーメン

Ⅰテサロニケ5

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」Ⅰテサロニケ5:16-18 図書館で「ストレスフリー」に関する本がありました。 幸せのコツが「笑顔」「やすらぎ」「瞑想」「つながり」などのキーワードで表現されています。 これは、聖書がずっと昔から教えていることです。キリストは、私たちが主にあってストレスフリーになることを望まれます。そして、そのための秘訣が今日の聖句です。 祈り:神様、みことばが真理であることに感謝します。重いストレスのから解放してくださる主に祈ります。アーメン

Ⅰテサロニケ4

「すなわち、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身が天から下って来られます。そしてまず、キリストにある死者がよみがえり、」Ⅰテサロニケ4:16 キリストの命令とラッパの音が響くのはいつか、誰も知らされていません。 それはずっと後かもしれないし、今すぐかもしれません。 それはキリストを拒絶する人にとって厳粛な瞬間であり、同時に信仰者にとっては歓喜の瞬間でもあります。 主の再臨が必ず起こることだと、どの位信じていますか。また、どのくらい楽しみに待っていますか。 祈り: 神様、あなたの永遠に入れられるまで、信仰を守りあなたに信頼できますように。アーメン

Ⅰテサロニケ3

「あなたがたが主にあって堅く立っているなら、今、私たちの心は生き返るからです。」Ⅰテサロニケ 3:8 苦難と迫害にあうテサロニケの信仰者たち。 彼らが堅く信仰に立っていたことは、パウロたちをおおいに励まし、奮い立たせました。 今、試練や苦難の中にいますか? 私たちが同じ信仰の姿勢に立つなら、 華々しいミニストリーや奉仕ができなくても、 存在そのものが励ましになります。 祈り: 神様、今日もみことばを握り、信仰に立つことができるよう助けてください。アーメン

Ⅰテサロニケ2

「むしろ私たちは、神に認められて福音を委ねられた者ですから、それにふさわしく、人を喜ばせるのではなく、私たちの心をお調べになる神に喜んでいただこうとして、語っているのです。」テサロニケ人への手紙 第一 2:4 福音を語る者の行動原理です。 日常生活でも、どうすれば神に喜んでいただけるかと考えると、様々なことの優先順位がはっきりします。 しがらみや、人に良く思われたいという思いで不自由になっているなら、一度見直す時かもしれません。 祈り:神様、福音を分かち合う時にも、日々の用にも、あなたに喜ばれる優先順位で生きていけますように。アーメン

Ⅰテサロニケ1

「あなたがたも、多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、私たちに、そして主に倣う者になりました。」Ⅰテサロニケ1:6  苦難の中でのみことばは、暗闇に差す光のようです。 苦難の中でも、聖霊によって喜びがもたらされ、みことばが生きた約束として私たちを招きます。 どんなに忙しくても、どんなに嵐のような日々でも、みことばに聴くのは静かな水のほとりで荷を下ろすひとときです。 祈り:神様、みことばの約束と慰めを感謝します。私を憩いの水のほとりに導いてくださる主に、悩みや重荷をゆだねます。アーメン

コロサイ4

「あなたがたのことばが、いつも親切で、塩味の効いたものであるようにしなさい。そうすれば、一人ひとりにどのように答えたらよいかが分かります。」コロサイ人4:6 介護をして, いて、どのような声かけがよいのかと考えることが増えました。 本人の気持ちに寄り添いつつ、的確な方向に導くには神の知恵が必要です。 祈り:神様、今日も私の言葉を導き、あなたの栄光とみこころを表すことができますように。アーメン

コロサイ3

「新しい人を着たのです。新しい人は、それを造られた方のかたちにしたがって新しくされ続け、真の知識に至ります。」コロサイ 3:10  母の介護をしています。 できないことはどんどん増えてくるけれど、 新しい人を着た者として日々「新しくされ続ける」のだというみことばに、はっとさせられます。 そして、介護者である自分自身は、どのようにキリストの似姿に変えられていくのだろうか、と問います。 忍耐、愛、親切が尽きそうな時、どのように主が覆ってくださるでしょうか。 祈り:神様、キリストを着た新しい人としての歩みを、今日も導いてください。人として造られた者が、主にある価値と尊厳を頂いていることに感謝します。アーメン

コロサイ2.

「バプテスマにおいて、あなたがたはキリストとともに葬られ、また、キリストとともによみがえらされたのです。キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じたからです。」コロサイ 2:12 洗礼式で「誰でもキリストの内に あるなら」という賛美をします。 その中に「古きは過ぎ去り すべてが新しい 主の内にあるなら すべてが新しい」という歌詞があります。 キリストとともに古い自分は葬られ、新しく罪赦された者としてよみがえらされました。 それは、キリストが私たちの罪のために十字架で死んで葬られ、三日目に死の力を破ってよみがえられた、救いのわざによります。 祈り: 神様、洗礼式を思い起こします。当時はよくわからなかったけれど、改めて主の十字架の死と復活の内に救われたことを覚えて感謝します。アーメン

コロサイ1

 「この福音は、あなたがたが神の恵みを聞いて本当に理解したとき以来、世界中で起こっているように、あなたがたの間でも実を結び成長しています。」コロサイ1:6 神の恵みを本当に理解していますか? このように問われて、一瞬戸惑いました。理解していると思っていても、もっと深くもっと広い神の愛、神の恵みです。 でも、今私が知りうる限りにおいて、神の恵みの福音は、私の周囲でも、世界中でも、実を結んで成長しています。 恵みを知れば知るほど、福音はもっともっと素晴らしいものだとわかることでしょう。 祈り:神様、あなたの愛と福音の恵みにもっと気づき、知ることができるよう導いてください。アーメン

ピリピ4

 「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」ピリピ4:6~7 自分自身を見ると、思い煩うことの何と多い者かと驚きます。一つが解決すると次の問題が出てきます。 まるで心の中に「思い煩い」の部屋が予約されているようです。 パウロは「私は、どんな境遇にあっても満足することを学びました(11節)」と言いました。パウロほどの苦難を通っても感謝をささげ、牢に入れられても賛美することができる秘訣とは、 「感謝をもってささげる祈りと願いによって、願い事を神に知っていただく」ことです。 私たちはどのようにパウロの姿勢にならうことができるでしょうか。 祈り:神様、私の心の中にある思い煩いは、自分だけで解決しなくてよいことに感謝します。あなたに願い、祈り、すべてがあなたのご支配の下にあることの幸いを覚えます。 信仰を与えてください。希望を与えてください。アーメン

ピリピ3

 「しかし、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます。」ピリピ3:20 パウロは人間的な標準ではエリートと呼ばれる人でした。 しかし、地上のものよりも天にあるものの価値に目を留めるよう勧めました。 最も素晴らしいことは、キリストにあって罪が赦され、天の国籍を持っているということです。 天でキリストに出会い、主を信じる者が再会できると思うと、希望が与えられます。 祈り:神様、キリストが今おられる天の御国で、私たちも主に会い、友と再会の喜びを分かち合えることに感謝します。アーメン

ピリピ2

「キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、 人間と同じようになられました。」ピリピ2:6~7 キリストには、先入観やプライドがありませんでした。 私たちのために地上に来られ、限界のある人間の姿になり、十字架にかかってくださいました。 退職したとき、試験に失敗したとき、 怪我や老いで動けなくなったとき… その心境をイエス・キリストが一番わかってくださるとしたら、何と慰められることでしょう。 祈り:神様、私たちのどんな悩みもわかってくださり感謝します。今、人生の空しさを覚える人がいるなら、主の深い慰めと新たな希望を与えてください。アーメン

ピリピ1

「ただキリストの福音にふさわしく生活しなさい。そうすれば、私が行ってあなたがたに会うにしても、離れているにしても、あなたがたについて、こう聞くことができるでしょう。あなたがたは霊を一つにして堅く立ち、福音の信仰のために心を一つにしてともに戦っていて、」ピリピ1:27 救いは恵みにより与えられます。行いではなくプレゼントです。信じるだけで受けとることができます。 福音の恵みを味わえば味わうほど、「福音にふさわしい」生活がしたいと願わされます。 たとえ白髪になっても、病気や認知症になっても、信仰者は神の栄光を表すことができます。 教会に集う信仰の先輩たちが、その姿を見せてくれました。 祈り:神様、私の生涯をもってあなたの栄光を表したいです。私は弱くても、福音の恵みに預かったものとして主の素晴らしさを反映させてください。アーメン

エペソ6

「悪魔の策略に対して堅く立つことができるように、神のすべての武具を身に着けなさい。」エペソ6:11 スポーツ選手はユニフォームを着、靴ひもを結び、サポーターをはめ、テーピングを巻いて試合に望みます。 聖書は、私たちも霊的戦いに備え、同じように神の武具を身につけることを教えています。 感謝なことに、武具はすべて神によって備えられており、私たちは頂いた武具を装着すればよいのです。 真理の帯、正義の胸当て、平和の福音の備え、信仰の盾、救いのかぶと、御霊の剣を、今日も装着して歩みましょう。 祈り:神様、あなたがくださる恵みの武具を、日々身に着けて歩ませてください。思いがけないことが起こった時も、その武具で守られることに感謝します。アーメン

エペソ5

「あなたがたは以前は闇でしたが、今は、主にあって光となりました。光の子どもとして歩みなさい。」エペソ5:8 「光の子ども」として歩める幸いを覚えます。 敬老礼拝では「いくつになっても背負ってくださる神様」(イザヤ46章)のメッセージがありました。 高齢でも、幼くても、私たちは主にあって「光の子ども」とされました。 その幸いを覚えます。 祈り:神様、主にあって光に照らされ、神の子どもとされた恵みを感謝します。今日も、「光のこどもとして歩ませてください。アーメン

エペソ4

「神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。 無慈悲、憤り、怒り、怒号、ののしりなどを、一切の悪意とともに、すべて捨て去りなさい。互いに親切にし、優しい心で赦し合いなさい。神も、キリストにおいてあなたがたを赦してくださったのです。」エペソ4:30~32   聖書の勧めは、聖霊を悲しませるようなものは「捨て去りなさい」ということです。 誰かに対して苦い思いがあるなら、「一切の悪意とともに、すべて捨て去る」と神に告白し、助けを祈っていきましょう。 祈り:神様、私の心から悪い思いを捨て去ることができるよう、あなたご自身のみわざでぬぐい取ってください。聖霊を悲しませることがないよう導いてください。アーメン

エペソ3

「どうか御父が、その栄光の豊かさにしたがって、内なる人に働く御霊により、力をもってあなたがたを強めてくださいますように。」エペソ3:16 感情は心の表面で波打つ海のようです。 風が吹いてくるとさか巻き、波立ちます。 心の防御反応として怒りや腹立ちが起こることもあります。私自身も、パニックになると怒りを感じる者です。 そんな私たちの一番深いところ、内なる人に御霊が働かれるとは、何という希望でしょうか。 力ある方が、その力をもって失敗だらけの私たちを見捨てない、そして強めてくださるというのです。 その望みは素晴らしいですね。 祈り:神様、あなたの希望の約束を感謝します。私の内の深いところに御霊が今日も働いてください。私をあなたのものとしてください。アーメン

エペソ2

「実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。」エペソ2:10 恵みのゆえに、信仰によって救われた(8節)ーこれは人ではなく神から出たもので、神様からのプレゼント(賜物)です。 神様は、どれだけ私たちのことを愛し見つめてくださっていることでしょうか。 「神の作品(10節)」というのは、”work of art”(芸術作品)とも表現されています。私たちは「アート」なのです。 「非常によかった」と創世記で宣言された神様は、私たちを自らの芸術作品として慈しんでくださいます。 神様のアートである私たちにとって、今日用意されている「良い行い」は何でしょうか。 祈り:神様、私を「神の作品」として造り愛してくださり感謝します。私にあなたが望まれている「良い行い」を受けとります。備えてくださったみこころに歩めますように。アーメン

エペソ1

「また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しにより与えられる望みがどのようなものか、聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか、また、神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができますように。」エペソ1:18~19 「心の目」で、キリストにある望みと祝福が見えたら、その素晴らしさに圧倒されることでしょう。 肉の目では、雑事や悩みごとの多い日々であっても、霊的にはそれが祝福への備えであることさえあります。 私たちは日々キリストを仰ぎ見て、霊の目を開いて頂きましょう。 祈り:神様、キリストの救いの恵みと素晴らしさをもっと知ることができますように。 今試練の中にあっても、望みを捨てずに歩ませてください。アーメン

ガラテヤ6

「互いの重荷を負い合いなさい。そうすれば、キリストの律法を成就することになります。」ガラテヤ6:2 「互いの重荷」とは何でしょう。 ここでいう「重荷」とは、良心や、倫理的な事柄や弱さを指しています。 キリストにある信仰の家族として、弱さを互いに補い、支え合ってキリストに従う生き方をしようと勧められています。 信仰の歩みには、羊のように仲間が必要です。ひとりでは迷い出てさまよってしまっても、群れとして互いに支え合い、キリストを先頭について行くなら安全です。 祈り:神様、(        )さんと出会わせてくださり、信仰の家族となりました。感謝します。「互いの重荷」を負い合います。主が先頭に立ち、私たちを青草の牧場に導いてください。アーメン

ガラテヤ5

「私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません。」ガラテヤ5:16 「あなたはどのくらい、御霊によって歩んでいますか?」 と問われたら、「いつも、起きている間じゅう」と言えますか? 私たちは、ついつい肉の性質で動いてしまう者です。 御霊の働く領域を広げていただけるよう祈りましょう。 祈り:神様、私は______の時、御霊により頼むより自分の肉で反応しがちです。 どうか優しく導き、気づきを与えてください。私の霊の耳と目を開いてください。アーメン

ガラテヤ4

「ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神による相続人です。」ガラテヤ4:7 律法の下ではなく、キリストの十字架の救いの下にあることが、どれほど素晴らしいか。 同時に、奴隷の身分から「子」になり、正式な相続権を持つ身分となったと言えます。 自由の素晴らしさを知ったら、また奴隷になりたいと思う人はいません。 しかし、私たちは時に律法的になったり古い肉の性質に戻ったりしてしまうことがあります。 神はそのこともご存知です。私たちの心に光を当て、気づきを与えてくださいます。 がっかりせず、聖霊による助けを求め感謝しましょう。 祈り:神様、私たちを一歩一歩導いてくださり感謝します。聖化の途上にある私たちです。私の心に光を当てて探り、聖霊が優しく気づきを与えてください。アーメン

ガラテヤ3

「こうして、律法は私たちをキリストに導く養育係となりました。それは、私たちが信仰によって義と認められるためです。」ガラテヤ3:24 聖書は、律法を必ずしも悪いものだとは言っていません。 それは罪を明らかにし、約束された神の救いが必要だということを人に示すから(NIV Study Bibleの解説)です。 律法は「養育係」です。 私たちがどこに行けば救われるのかを示します。 ですから、すでにキリストによって救われたのに「養育係」である律法に固執したり、パリサイ人のように律法的に人を判断しようとする姿勢がふさわしくないと言えます。 教会には様々な性格や境遇の人が来ます。自分と違うからといって避けたり裁いたりするのではなく、 「キリストを着」る(27節)者となれますように。 祈り:神様、あなたがキリストによりくださった救いと解放を感謝します。主にある自由を、教会で霊の家族と共に日々味わえますように。御国の相続人としてくださりありがとうございます。アーメン

ガラテヤ2

「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。」ガラテヤ2:20 ガラテヤ人への手紙の中心テーマが16節にあります。 「しかし、人は律法を行うことによってではなく、ただイエス・キリストを信じることによって義と認められる」。 これをどれだけ受け取っているでしょうか。 ついつい自分の習慣、家族のしきたり、教会のいつものやり方、世間の常識と言われるものを押し付けてしまいます(自戒をこめて・・・)。 特に年末の慌ただしい時には、動いていないといけないような、じっと静まるのが悪いことのような錯覚に陥ります。 からみつく肉の性質を自覚しながらも、「もはや私ではなく、キリストが私のうちに生きておられる」と宣言します。 祈り:神様、私のうちにキリストが生きていてくださると認めます。 年末で忙しくしている___さん、___さん、そして置き去りにされたような寂しさを覚える人達に、平安がありますように。私たちの焦る肉の性質を取り扱い、あなたの安息を受け取らせてください。アーメン

ガラテヤ1

「人々から出たのではなく、人間を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中からよみがえらせた父なる神によって、使徒とされたパウロと、」ガラテヤ1:1 ガラテヤの人々に、パウロは自分をこのように紹介し始めます。 人間の努力や重用によってでなく、ただキリストと父なる神によって、自分が使徒として召されたのだ、と。 この章を読み進めると、パウロがこれまでの自分の歩みを書いているのがわかります。 かつてはクリスチャンを迫害していたこと。 救われてもその後、アラビアの荒野で訓練され、そしてようやくエルサレムに行ったこと。 自分のことは噂でしか知られていなかったこと、などです。 パウロは人に評価されることより、福音の恵みをただ伝えることに価値を置いていました。 私たちはいろいろなしがらみの中で生きています。 自分の働きが横取りされたり、正当に評価されなかったりということもあります。 仕事だけでなく、奉仕や兄弟姉妹のかかわりの中でも同じように感じることがあるかもしれません。 しかし、神がパウロをよく知っておられ、彼でなければできない働きに召されたように、 神は私たち一人ひとりをよく知っておられ、その人でなければできない働きに召してくださっています。 私にとって、あなたにとって、それはどんなことでしょうか。 祈り:神様、私の存在に価値があると言ってくださり、ありがとうございます。 あなたが私に望まれる生き方、奉仕へと導いてください。今日もみこころに沿った一日を生きることができますように。アーメン

IIコリント13

「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように。」IIコリント13:13 いつも祝福の祈り(祝祷)で祈られるフレーズです。三位一体の神がともにおられることに感謝します。 祈り:神様、あなたがいつもともにいてくださること、決して私を見放さない方であることに感謝します。アーメン

IIコリント12

「しかし主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである』と言われました。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」IIコリント12:9 「弱さのうちに完全に現れる」恵み、「十分である」恵みがすでに注がれている、ということばは、慰めを与えます。 自分では克服できない弱さ、足りなさを認め、主に明け渡し、キリストの力がおおってくださるという約束を握って今日も歩んでいきましょう。 祈り:神様、今日もあなたの恵みを確認することができました。足りなさ、弱さを あなたの前に認めます。プライドを打ち砕き、あなたの力が現れる者としてください。アーメン

IIコリント11

「もし誇る必要があるなら、私は自分の弱さのことを誇ります。」IIコリント11:30 祈り:神様、私は弱さだらけです。強がっていても、内面には弱さ、罪深い性質があります。 主が十字架ですべて背負ってくださり感謝します。今日も十字架のあわれみと恵みにすがります。アーメン

IIコリント10

「私たちは様々な議論と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち倒し、また、すべてのはかりごとを取り押さえて、キリストに服従させます。」IIコリント10:6 一生懸命考えたのに自分の意見や主張が通らない時、悔しく思います。 でももし主の目に正しいなら、一番残念に思われるのは主だと言えないでしょうか。 そして、本当の正しさはキリストにあります。 主がご自身の義を表したいと願っておられるというのは、私たちが自分の思いが伝わらない時、却下された時の慰めです。 「自分自身を推薦する人ではなく、主に推薦される人こそ本物です。」(18節) 祈り:神様、自分の義に固執しないよう、私の心をへりくだりに導き守ってください。神の義がなされることを信じ期待します。アーメン

IIコリント9

「なぜなら、この奉仕の務めは、聖徒たちの欠乏を満たすだけではなく、神に対する多くの感謝を通してますます豊かになるからです。」IIコリント9:12 その根拠はこれです。 「神はあなたがたに、あらゆる恵みをあふれるばかりに与えることがおできになります。あなたがたが、いつもすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれるようになるためです。  『彼は貧しい人々に惜しみなく分け与えた。彼の義は永遠にとどまる』と書かれているようにです。   種蒔く人に種と食べるためのパンを与えてくださる方は、あなたがたの種を備え、増やし、あなたがたの義の実を増し加えてくださいます。  あなたがたは、あらゆる点で豊かになって、すべてを惜しみなく与えるようになり、それが私たちを通して神への感謝を生み出すのです。」(8~11節) 祈り:神様、与えることに積極的になれるよう、導いてください。あなたが感謝と必要を増し加えてくださることを信じる信仰を与えてください。アーメン

IIコリント8

「今あなたがたのゆとりが彼らの不足を補うことは、いずれ彼らのゆとりがあなたがたの不足を補うことになり、そのようにして平等になるのです。」IIコリント8:14 献金についての教えが書かれています。 神にささげるものなのに、特定の人々のために使われているようにも読め、どういうことなのか?と思うかもしれません。ここは、教会の不足を補いあっています。 献金の本質は、神にささげるものです。 それは、神の共同体である教会を通して、神の働きのために用いられます。 ある部分は世界宣教に、ある部分は地域へのアウトリーチに、 ある部分は教会の運営とその必要のために、 そしてある部分は、主が助けたいと願われる人々を助けるために・・・。 教会のリーダーたちには、献金を適正に使う責任と霊性とが求められています。 祈り:神様、あなたのみこころに従いささげ用いられますように。礼拝として心をこめてささげ、あなたのみこころに応じて必要のために用いられますように。リーダーたちが真心と誠実をもって管理し用いていけるように、油を注いでください。アーメン

IIコリント7

「神のみこころに添った悲しみは、後悔のない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。」IIコリント7:10 「悲しむ者は幸いです」と言われたイエス様のことばを思い出します。 悲しみにもいろんな種類がありますが、この7章に出てくるのは自分の罪を示されたゆえの悲しみです。 世の悲しみが悲劇的に終わるのとは違い、神のみ思いにかなう悲しみの結末は救いの喜びです。 クリスチャンも失敗します。それでも、悔い改めとやり直しの機会が与えられています。柔らかい心で戒めや助言を受け取る器かどうかを、主は見ておられます。 祈り:神様、失敗に気づいたらすぐ悔い改めることができるよう助けてください。あなたのみこころが何かを知ることができるよう、聖書のみことばと信仰の友の助言を受け入れる心を与えてください。アーメン

IIコリント6

「また、ほめられたりそしられたり、悪評を受けたり好評を博したりすることによって、自分を神のしもべとして推薦しているのです。私たちは人をだます者のように見えても、真実であり、」IIコリント6:8 ほめられたり好評だったりする時には、「よいあかしができた」と喜びます。 逆の時には「あかしにならなかった」と落ち込みがちです。 しかし、パウロは「そしられたり」「悪評を受けたり」することによっても、自分自身を神のしもべとして推薦している、と断言しています。 受け取る側の問題と、私たちが神のしもべとして歩んでいるかということとは別です。 くよくよしないで、祈りやみことばの中で示されたことを実践する者となれますように。 祈り:神様、人からの評価に左右されやすい者です。あなたが何を望んでおられるかを知りそれを行うことがしもべの務めです。あなたの願いを第一にできるよう、勇気と霊に歩むことを教えてください。アーメン

IIコリント5

「私たちはこの幕屋にあってうめき、天から与えられる住まいを着たいと切望しています。」IIコリント5:2 励ましの言葉はかつての「終わらない冬はない」ではなく「終わらない夏はない」だ、というジョークを読みました。 肉体は弱く、外界の環境に左右されます。 聖書も「この幕屋」つまり肉体にあってうめき、「天から与えられる住まい」つまり永遠のいのちにある新しいからだを切望している、と語ります。 しかし、「この幕屋」から逃避するのではなく、保証としての御霊が与えられているのだから心強いと励まします。 暑いけれども心強い御霊が共にいてくださる、それを望みとして今日も歩みましょう。 祈り:神様、残暑の中で身体も弱りがちです。それでも、御霊が共にいてくださるから心強いと宣言します。今日も必要な体力と気力を主にあって与えてください。アーメン

IIコリント4

「こういうわけで、私たちは、あわれみを受けてこの務めについているので、落胆することがありません。」 「ですから、私たちは落胆しません。たとえ私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」 IIコリント4:1、16 落胆から守られる約束を信じてお祈りしましょう。 祈り:神様、私たちの内なる人が日々新たにされていることを受けとります。外の疲れに左右されないよう、落胆から心を守ってください。アーメン

IIコリント3

「主は御霊です。そして、主の御霊がおられるところには自由があります。」IIコリント3:17 自分のやり方や考え方がきゅうくつだと感じたら、「聖霊はどこにおられるのだろう」と自分の心に問いかけてみる必要があると思います。 おられるのに、自我の陰に隠してしまうことの多いことを覚えます。 祈り:神様、聖霊の臨在を意識せずに行動し発言してしまうことの多い者であることを悔い改めます。今日、聖霊の語りかけに耳をすますことができるよう、心も身体もお守りください。アーメン

IIコリント2

「しかし、神に感謝します。神はいつでも、私たちをキリストによる凱旋の行列に加え、私たちを通してキリストを知る知識の香りを、いたるところで放ってくださいます。」IIコリント2:14 厳しい残暑が続く中、スポーツで優勝したチームが地元で歓声とともに迎えられるニュースを見ました。 そのエネルギーに目を見張ります。 当時の軍隊は、勝利をおさめると凱旋行進をしました。 人々はそれを目にしていました。 パウロは、クリスチャンもキリストによる凱旋の行列に加えられていると語ります。 そして、キリストを知る知識の香りが、私たちを通して香っている、とも。 自覚がなくても「いつでも」なのです。私たちの体調や条件によらず、救われた者に備わる神の賜物です。 祈り:神様、キリストを信じた時から、救い主を知っているという知識の香りが放たれるようになったことに感謝します。 霊的には、今日も凱旋行列の中を歩んでいるということに感謝します。 暑すぎる日々、特に高齢の方に霊肉の守りを与えてください。アーメン

IIコリント1

「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。それで私たちも、自分たちが神から受ける慰めによって、あらゆる苦しみの中にある人たちを慰めることができます。」IIコリント1: 4 この聖句は、聖書の中でも大きな力を持つものの一つだと思います。 神が、私たちのどんな苦しみの時も慰めてくださる、という希望があります。 そして、周りの人たちのことも、同情心や人間の思いだけでなく、神の慰めという大きな力によって慰めることができるというのです。 この人も、あの人も、自分自身も、慰めの必要があふれる時代です。 そして神は、その必要を全て満たすことのできるお方です。 祈り:神様、あなたが慰めをくださるという約束を感謝します。私には今、_______について慰めが必要です。また___さんには______の慰めが必要です。主が働いて、慰めの力と希望をください。アーメン

Iコリント16

「 一切のことを、愛をもって行いなさい。」Iコリント16:14 手紙の終わりに、実際的な連絡が記されています。 ・パウロがコリントに行ってから献金を集めることがないように、いつも週の初めの日に、収入に応じて、いくらかでも手もとに蓄えておきなさい。(2節) ・パウロが現地に着いたら、コリント教会の承認を得た人たちに手紙を持たせてエルサレムに派遣し、贈り物(献金)を届けさせる。(3節) ・パウロはマケドニア経由で行く(5節) ・五旬節まではエペソに滞在する(8節) ・働き人であるテモテがコリントに行ったら、軽く扱わず、不自由なく過ごせるようにしてあげてほしい。(10~11節)・・・ それとともに、信仰に堅く立ち、一切を愛をもって行うようにと勧めます。 目に見える行動や働きの根底に、信仰と愛があるようにというのが、パウロの願いでした。 私たちも、動く前に信仰と愛がありますように。それらが原動力となりますように。 祈り:神様、コリント教会へのパウロの働きが信仰と愛に根ざしたように、私たちの今日の行動がキリストへの信仰と愛に動かされるものでありますように。衝動的な失敗から守り、祈りをもって対応できるように導いてください。アーメン

Iコリント15

「ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは無駄にはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。働いたのは私ではなく、私とともにあった神の恵みなのですが。」Iコリント15:10 パウロの激務の原動力は、神の恵みでした。 ”Pause, Recharge, Refresh" (立ち止まり、充電され、新たにされる)というデボーションの本があります。 神によって充電され、新たにされるに先だって、立ち止まることが必要です。 日々の雑事に追われて走り続けると、まるで自分で走っているかのような錯覚に陥ります。 神の恵みで走っていることを再確認する大切さを学びます。 私たちの原動力は何でしょうか。 祈り:神様、私たちの原動力があなたの恵みであるように、立ち止まり充電して頂く時を持たせてください。アーメン

Iコリント14

「神は混乱の神ではなく、平和の神なのです。聖徒たちのすべての教会で行われているように、」Iコリント14:33 異言の用い方と解き明かしについて、秩序をもって徳を高めるようにと語られています。 さらに、教会で語ることへの秩序の勧めが続きます。 異言を配慮なく語ることと、女性のうるさいおしゃべりとが同列に置かれているのが興味深いです。 どちらも、その人や賜物を否定したのではありません。 勝手気ままではなく、秩序を守るような用い方をするようにということです。 それは、神が平和の神だからです。 自己中心ではなく、愛をもって語ることを聖書は勧めます。 祈り:神様、あなたの愛と平和を保つような言葉が出るよう、私の思いと口をお守りください。アーメン

Iコリント13

「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。Iコリント13:4 読むたびに「私には無理だ」と思います。 「愛の章」とも呼ばれる13章には、愛がとても高い基準であることが端的に延べられています。 目標にはするけれど、失敗続きだと感じるかもしれません。 でも、これらの愛の基準を完全に満たしているのが主イエス・キリストです。 その愛を私たちは受けている存在であるということにも目をとめたいと思います。 祈り:神様、あなたの愛の深さ、広さ、高さに感謝します。私をこの愛で愛してくださったことを感謝します。キリストの愛を受け、流し出す者とならせてください。成長を助けてください。アーメン

Iコリント12

「一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。」Iコリント12:26 血液透析をされたご夫婦の本を読みました。夫である方の闘病生活と、そのために腎臓をささげた家族、再度透析生活に戻った時の心境などが綴られていました。 仕事を続けるために、早朝から透析に行き、何時間もじっと全身を横たえます。 妻である筆者も、送迎やサポートを全力で続ける様子は、「夫婦は一心同体」になるということば通りでした。 聖書は、教会がキリストのからだであり、私たちは部分であると語ります。 「あなたがたはキリストのからだであって、一人ひとりはその部分です。(27節)」 だから、一部分が苦しみは全体の苦しみ、一部分の喜びは全体の喜びとなります。 ただ同情や共感するだけでなく、事実そうであるということを覚えます。 今、どんな苦しみがあり、どんな喜びがあるでしょうか。 祈り:神様、教会の___さん、____さんを覚えて祈ります。日本の___にある教会と信仰者のために祈ります。世界の____に瀕している教会とクリスチャンのために祈ります。アーメン

Iコリント11

「だれでも、自分自身を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。」Iコリント11:28 聖さん式によく読まれる箇所です。ただ習慣としてではなく、自分自身を吟味し、主の前に悔い改めと新たな信仰の決意をもって歩み出すことを教えています。 個人のあれこれだけでなく、教会という霊の共同体の一部である自分自身です。 そうでなければ(みからだをわきまえないなら)、自分自身に対するさばきを飲み食いすることになるというのは厳粛なことです。 次回の聖さん式、あるいは愛さん会に、どのような気持ちで参加できるでしょう。 祈り:神様、私を探ってください。あなたより優先しているものや、自我が盲目にしていることがあるなら、それらを除いてください。主により近づきたいです。アーメン

Iコリント10

「ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。」Iコリント10:12 まさに自分自身に当てはまることばです。 自分の力で立てると思い込み、ふと足元を見たら崖っぷちのぐらぐらする岩の上だ、というイメージがあります。 何を頼みにして立っているのでしょう。社会的地位、財産、今の人間関係・・・ しかし、それらは全て一時的なものです。 なくなった時、何を頼りにしますか? そもそも、立てていたのでしょうか? 自分を支えるものが取り去られたように感じた時、喪失を感じます。 試練と言えるかもしれません。 聖書は 「あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。」(13節) と、変わらない神の御腕と希望を語ります。 祈り:神様、今試練や空しさの中にある人に、脱出の道と主にある希望を示してください。うつで苦しむ___さんをお守りください。自死家族を持つ方々に、キリストの十字架には深い深い慰めと自責感からの解放があることを感じられますように。アーメン

Iコリント9

「私は福音のためにあらゆることをしています。私も福音の恵みをともに受ける者となるためです。」Iコリント9:23 パウロの覚悟を見る思いです。 「福音のためにあらゆることをしている」と言い切る彼は、「競技場で走る人たちのように」「朽ちない冠」を得られるように走りなさい、と続けます(24、25節)。 彼がそこまで断言できる理由は、彼が福音の恵みを知っていたからでした。 このように言えるほど、福音の恵みを味わう生涯を送れたら、どんなに素晴らしいでしょう。 父なる神様が愛し、招いてくださっているという事実を受けとります。 祈り:神様、あなたの愛と恵みを受けとります。そして応答したいです。体力・気力は衰えても、内なる人は日々新たにされるようにと願います。主がそうしてくださり、最後まで朽ちない冠を目指して走ることができますように。アーメン

Iコリント8

「次に、偶像に献げた肉についてですが、『私たちはみな知識を持ってい』ということは分かっています。しかし、知識は人を高ぶらせ、愛は人を育てます。」Iコリント8:1 「サーバント・リーダーシップ」という本を読みました。そこには、リーダーの特質が愛である(もちろん他の特質もありますが)とありました。 聖書は何千年も前から、この原則を語っています。 知識があると思っても、それはまだまだ足りないから高ぶるのは間違っていること。 愛によって人は育っていくこと。 私たちがゆだねられている人たちーーー子ども、近所の人たち、後輩、部下、教会に新しく来た人ーーーは、愛によって育っていきます。 祈り:神様、私に愛と謙遜を与えてください。主の愛の姿勢にならうリーダーとなれますように。アーメン

Iコリント7

「私がこう言うのは、あなたがた自身の益のためです。あなたがたを束縛しようとしているのではありません。むしろ、あなたがたが品位ある生活を送って、ひたすら主に奉仕できるようになるためです。」Iコリント7:35 以前、「女性の品格」という本が話題になりました。 「品格」という語に、上品な人格的なものを感じる人も多いと思います。 クリスチャンは、イエス・キリストという最高の品格、品位を持った方を手本にすることができます。 今日はパウロの牧会指導とも言える内容です。 特に、結婚や男女関係のあり方について、主キリストの望まれることはなにかを論じています。 そして、それは「束縛」ではなく「品位ある生活」のためです。 聖書を読むのは、イエス・キリストをより深く知るためです。 その方を知るにつれ、品位、品格が備わってくるのだと思います。 祈り:神様、主キリストのご人格にならう者とさせてください。日々キリストを知り、近づき、その方の謙遜と忍耐に学ぶ者となれますように。アーメン

Iコリント6

「あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではありません。」Iコリント6:19 性的に乱れていたコリントの町の風習が、教会にも暗い影を落としていたようです。 パウロは浮気や結婚外の関係を戒めています。 「あなたがたのからだはキリストのからだの一部なのです。それなのに、キリストのからだの一部を取って、遊女のからだの一部とするのですか。そんなことがあってはなりません。(15節)」 そして、からだが「あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮」であること、「もはや自分自身のものではありません」と、身勝手なふるまいを慎むべきと教えます。 私たちのからだが聖霊の宮なら、性的なことだけでなく生活習慣全般を健康に保つことがみこころだとわかります。 私たちの仕事と休息のバランス、食事や睡眠などにも主が関心を持っておられる恵みを覚えます。 祈り:神様、あなたが私を造り、私の人生と日々の生活スタイルにも目を注いでくださり感謝します。主の喜ばれる生活習慣に導いてください。過度なストレスから解放してください。アーメン

Iコリント5

「新しいこねた粉のままでいられるように、古いパン種をすっかり取り除きなさい。あなたがたは種なしパンなのですから。私たちの過越の子羊キリストは、すでに屠られたのです。」Iコリント5:7 過越の祭りの時には、種無しパンを食べました。 それと同じように、パン種(イースト)を取り除いた状態でいるよう勧めています。 この文脈でのパン種は、悪い影響を及ぼすもの、罪深い習慣を指しています。 別の文脈では、パン種がふくらませるもののたとえで用いられています。 それぞれの文脈で理解しないと、逆の意味で受けとり混乱するかもしれませんね。 キリストが十字架にかかり、恵みのわざを行ってくださったのですから、 悪い混ぜ物がないよう、教会も、自分の心も見張り、気づいたらすぐ悔い改める者となれますように。 祈り:神様、十字架の恵みを感謝します。きよい者とされましたから、罪深い習慣を繰り返すことがないよう、聖霊様どうぞ助けてください。互いに戒め、互いに建て上げ、キリストの身体として教会に集います。アーメン

Iコリント4

「人は私たちをキリストのしもべ、神の奥義の管理者と考えるべきです。その場合、管理者に要求されることは、忠実だと認められることです。」Iコリント4:1~2 「キリストのしもべ」というのは「召し使い、家来」のイメージが浮かびます。 しかし「神の奥義の管理者」というのは、イメージしにくいかもしれません。 そんなに大切なものの管理を任されるなんて、と。 しかし、実際はそうなのです。 神様から福音を分かち合うことを委ねられているという特権を、どれほど味わっているでしょうか。 祈り:神様、あなたが私に管理者として福音をゆだねてくださったことを受けとります。その宝物を忠実に管理し、分かち合うことができるよう、管理者の資質を訓練してください。今週も導いてください。アーメン

Iコリント3

「あなたがたは、自分が神の宮であり、神の御霊が自分のうちに住んでおられることを知らないのですか。」Iコリント3:16 神の同労者として、私たちは神に召されています。 そして土台はイエス・キリストです。 私たちは土台の上にたてられた神の宮(建物)だと聖書は述べます。本当に、聖霊が住んでくださる宮なのです。 その宮をどんな素材で建てるか、どうメンテナンスするかが、私たちにゆだねられています。 祈り:神様、あなたの宮を建てる者として、心を整えてください。主の御霊をないがしろにすることがありませんように。与えられた特権、神の子としての身分に感謝します。アーメン

Iコリント2

「それを、神は私たちに御霊によって啓示してくださいました。御霊はすべてのことを、神の深みさえも探られるからです。」Iコリント2: 人間のことを知っているのは人間の霊、同じように、神のことは神の霊だけが知っている(11節)とあります。 つまり、聖霊以外には神のことを正しく啓示できる方はおられないということです。神の深みさえも探られる、というのはすべてを知る、神そのものだと言えます。 このお方が、私たちのカウンセラーとして導いてくださる幸いを得ています。 何でも相談し、孤独な時にも理解者が周りにいない時にも、神ご自身が共にいて離れないと言ってくださいます。 夏休みに、もし自分だけが取り残されたと感じるなら、そこに聖霊様も残ってくださっていることを覚えましょう。いつも以上に、深く濃密な交わりを持つことができますように。 祈り:神様、私が寂しい時や孤独な時に、あなたがいつも共にいてくださることに感謝します。私の導き手、カウンセラーとしていてくださる聖霊様に相談しながら、尋ねながら今日も歩みます。一日の力を与えてください。アーメン

Iコリント1

「神の知恵により、この世は自分の知恵によって神を知ることがありませんでした。それゆえ神は、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救うことにされたのです。」Iコリント1:21 「神が愛なら、なぜ人間を自動的に救わないたのか」という問いの答えがここにあります。 それは神の知恵ゆえです。 人の宣教のことばを通して救われることにされたのです。 神がそれでよいとされたのだから、「なぜなのか」と人が口を挟む権利はありません。 もっとも、「なぜ人の宣教のことばを通すのか」という疑問には、神様の愛の性質ゆえのヒントがあります。 それは、神が人と共に働くことを望まれたからだと推測できます。 人を愛するがゆえに、人を通してご自身のわざをなさろうとしておられるのです。 主は今日、私を通して何をしたいと望まれているでしょうか。それに応答する準備ができていますか。 祈り:神様、あなたのわざが行われるために、私を用いてください。あなたが導かれる場所に今日行き、主に聞きながら歩めますように。アーメン

ローマ16

「主にあって労苦している、トリファイナとトリフォサによろしく。主にあって非常に労苦した愛するペルシスによろしく。」ローマ16:12 ローマ教会の様々な人の名があがっています。 私たちにとって、「自分の名が呼ばれる」のは特別なことです。 「あなたがた」と言われるより、私の人格が認められた思い、私という個人が覚えられている思いがします。 父なる神様は、私たち一人一人の名を呼んでくださいました。 主に覚えられていること、私という存在が肯定されていることに感謝します。 祈り:神様、あなたが私の名を呼び、選び、救い出してくださいました。報いは主から来ることを覚えて感謝します。アーメン

ローマ15

「どうか、希望の神が、信仰によるすべての喜びと平安であなたがたを満たし、聖霊の力によって希望にあふれさせてくださいますように。」ローマ15:13 礼拝の祝福の祈り(祝祷)でも時折引用される聖句です。 ここにあるように、 喜びと平安で満たされるような信仰 希望にあふれさせるような聖霊の力 を、神様は私たちに与えることができます。 なぜなら神は希望の神だからです。 喜び、平安、希望がないなら、神様が受け取ることができるようにと呼びかけておられる時です。 祈り:神様、あなたに私の目と心を向けたいです。喜び、平安、希望が、信仰により、また聖霊の力によって与えられることを信じます。不安と諦めで生きている多くの方が、主にある希望に触れることができますように。アーメン

ローマ14

「なぜなら、神の国は食べたり飲んだりすることではなく、聖霊による義と平和と喜びだからです。」ローマ14:17 お互いにさばかないこと、信仰の弱い人を受け入れることについての勧めが続きます。 飲食は、日々の生活で大切なものです。教会で、おいしいものを共に食べることはとても嬉しく、感謝です。 そして、神の国は食べたり飲んだりの次元以上のもので満ちています。 聖霊による「義」「平和」「喜び」とは、どれほど価値があるかということです。 この地上で行う飲食や生活習慣、文化様式の違いはそれに比べたら小さいものです。 少し違うからといって、さばきや差別の気持ちが起こるなら、それは主を喜ばせるものでないということを覚えましょう。 祈り:神様、私をさばきの心から守ってください。聖霊に照らして正しいことと、私の基準で正しいと思い込んでいることとを判別できますように。寛容な心を与えてください。アーメン

ローマ13

「だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことは別です。他の人を愛する者は、律法の要求を満たしているのです。」ローマ13:8 これまで多くの宣教師が人生をささげ、その地に仕え、教会を建てました。 困難の中でその地の人たちを愛し続けることは、神からの召しに対する本人の応答がなければできません。 互いに愛し合うことは、どれだけしてもし過ぎることはないとこの節は語ります。 それが律法の要求を満たすことになるというのです。 それは、同時に実行するのがいかに難しいかを示しているとも言えます。 最後まで愛し抜いてくださったキリストの姿、そしてそれに倣う宣教師やクリスチャンの愛の生き方に、学び倣うことができたらすばらしいですね。 どこから始めることができるでしょうか。 祈り:神様、あなたの愛の大きさには、とうてい及びません。でも、あなたの愛を味わい感謝し、流し出していこうと願うことから始めたいです。まず身近な人に愛を表すことができますように。アーメン

ローマ12

「愛する者たち、自分で復讐してはいけません。神の怒りにゆだねなさい。こう書かれているからです。『復讐はわたしのもの。 わたしが報復する。』主はそう言われます。」ローマ12:19 「リベンジ」という言葉を聞きます。よい意味にも悪い意味にも使います。 よい意味では、失敗してもあきらめず、もう一度挑戦することです。 悪い意味では、嫌いな相手に恨みを晴らす、仕返しするということです。 聖書は、「復讐は神にゆだねなさい」と教えます。 それは相手のためではなく、自分のためでもあります。 怒りを晴らしても、今度は自分が恨まれる側になってしまい、真の解決はありません。 神の解決にゆだねることが、結局は自分を守り祝福を受けることになります。 赦しの力も、また神からの賜物です。 祈り:神様、____さんをなかなかゆるすことができません。あなたの力で、怒りを手放すことができるよう助けてください。あとのことはあなたにゆだねます。アーメン

ローマ11

「神の賜物と召命は、取り消されることがないからです。」ローマ11:29 ユダヤ人の選びのことを述べていますが、神の選びは私たちにも当てはまります。 「わたしがあなたがたを選んだのです」(ヨハネ15章)とイエス様は言われました。 救いは神の恵みによります。そして、神の賜物と召命は取り消されることがありません。 心が揺らぎそうになっても日々この事実を確認し、歩んでいきましょう。 祈り:神様、あなたは救いを取り消されないという寛大さに感謝します。今信仰が揺らぎそうになる____さん、____さんのために祈ります。神がどれほど大きなお方かに気づきますように。アーメン

ローマ10

「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。」ローマ10:9 救いはただ恵みによります。私たちがよいことをしたからとか、立派な人格だからとかではありません。 その上で、私たちの選択、意思表示を主は求められます。 プレゼントを「受けとりますか」と聞かれて「はい、ありがとう」というか「いいえ、結構です」というかは受け取る側にゆだねられています。 救いは無条件に差し出されているのですが、キリストを救い主と信じるかどうかは私たちの応答です。 そして、受けとりますと答えた人を、決して神は忘れられません。 祈り:神様、あなたの救いの恵みに感謝します。昨日のキャンプで応答した人たちを、主が覚えてくださることに感謝します。私たちもたゆまず主のわざに励むことができますように。アーメン

ローマ9

「このあわれみの器として、神は私たちを、ユダヤ人の中からだけでなく、異邦人の中からも召してくださったのです。」ローマ9:24 神のあわれみを表す器として召し出されたというのは、何という恵みでしょうか。 パウロは生粋のユダヤ人でしたが、異邦人に遣わされました。 そこには国籍や年齢、性別などに関係なくどんな人でも救われるという、神からの確信と誇りがありました。 私たちは日本という国で福音の恵みを受けています。 そして、高齢の人にも、子どもたちにも、この福音に力があることを信じています。 子どもデイキャンプが、集う子どもにも付き添う大人にも、主の恵みが伝わり喜びがあふれる時となることを信じます。 祈り:神様、キャンプを福音の恵みでおおってください。聖霊に導かれ、大人も子どもも喜ぶ時となりますように。事故やけがから守られ、天候も支えられますように。アーメン

ローマ8

「しかし、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉のうちにではなく、御霊のうちにいるのです。もし、キリストの御霊を持っていない人がいれば、その人はキリストのものではありません。」ローマ8:9 肉ではなく御霊のうちにいるという約束は、すぐには信じられないかもしれません。 しかし、イエス様は「わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではないからです」(ヨハネ17章)と祈られました。 キリストの霊が住んでいる人は、外見ではわからなくても霊的には全く違う次元の恵みを与えられています。 キリストとともに歩む恵みの深さ、広さ、高さをじっくり思い巡らしたいと思います。 祈り:神様、あなたのものとされている恵みが、もっとよくわかりますように。霊を敏感にしてくださり、主の思いを私の思いとできますように。明日の子どもデイキャンプを聖霊様が導いてください。アーメン

ローマ7

「私は、自分のうちに、すなわち、自分の肉のうちに善が住んでいないことを知っています。私には良いことをしたいという願いがいつもあるのに、実行できないからです。」ローマ7:18 「今度こそ」と思ってもまた失敗した経験がありますか。 余計なことを言ってしまったり、お酒や甘いものがやめられなかったり、悪習慣を断ち切れなかったり・・・。 恐らく、多くの人が自分の意志の弱さを体験していることでしょう。 自分の決心や思いだけでは正しくなれないことを、パウロは7章で説明しています。 罪からの解放はイエス・キリストによるしかありません。 そして、それを信じる人にキリストの霊である聖霊が働かれる時、聖霊による自由を私たちは受け取ることができます。 祈り:神様、どうしようもない私の性質や習慣である____に聖霊の解放を与えてください。イエス・キリストこそ解決であり解放であることを信じ、拠り頼みます。アーメン

ローマ6

「 同じように、あなたがたもキリスト・イエスにあって、自分は罪に対して死んだ者であり、神に対して生きている者だと、認めなさい。」ローマ6:11 もし「自分は救われているのだろうか」「信仰があるのだろうか」と不安になったとき、このみことばに立つようにというメッセージを、幼い頃から何度も聞きました。 いつもこの箇所を読むと、語られた牧師の顔が浮かびます。 そして、「認めなさい」は勘定書の計算のように、感情にかかわらずそうなっているのだ、ということを思い出し、安心します。 罪の奴隷の行き着くところは死ですが、神の奴隷の行き着くところは永遠のいのちです(20~22節)。 すばらしい約束に感謝します。 祈り:神様、あなたに従うとは、永遠のいのちを見つめる道へと導かれることに感謝します。すでに与えられている約束を確認しながら今日も歩ませてください。誘惑や余計な声から私をお守りください。アーメン

ローマ5

「この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」ローマ5:5 心が沈んで晴れない、ということがあります。 体調だったり、気がかりな事柄だったり、差し迫った危険だったりと、原因はさまざまです。 その時の処方せんがローマ5章です。 「それだけではなく、苦難さえも喜んでいます。それは、苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。(3~4節)」 しりとりのように、 「苦難→忍耐→練られた品性→希望」 とつながっています。 今、自分はどこにいるだろうかと思いつつ、神の愛が心に注がれている情景を思い浮かべ、受けとる朝でありますように。 祈り:神様、私が何を手放し、何を受けとるか、正しく選択することができますように。あなたの愛、恵み、聖霊の新鮮な流れを受けとるために、思い煩いを主の元におきます。今日もあなたの恵みによって歩んでいきます。アーメン

ローマ4

「彼は、およそ百歳になり、自分のからだがすでに死んだも同然であること、またサラの胎が死んでいることを認めても、その信仰は弱まりませんでした。」ローマ4:19 アブラハムには、祈りがなかなかきかれなくても神を信じ続ける信仰があり、それが義と認められました。 彼には主以外に頼るものはありませんでした。 子どもが与えられtない時もそうでしたし、住み慣れた地を離れて出ていくときもそうでした。 今孤独を感じますか?それは神に近づく時です。 だれも自分のことなど構ってくれないと思いますか?それは神に近づく時です。 祈り:神様、あなたが私を見捨てない方であることに感謝します。孤独を感じている人に、あなたの計り知れない愛が覆いますように。アブラハムのように、神を信じる信仰を与えてください。アーメン

ローマ3

「すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。」ローマ3:23~24 神がお一人なら、世界中の人にとって同じ神であるはずだ、とパウロは言います。 確かにその通りです。 パウロはかつて極右派ともいえるパリサイ人でした。ユダヤ人至上主義で、行いと律法により救いを目指していました。 そのパウロが、ここまで平等主義を叫んでいるのはなぜでしょうか。 それは、イエス・キリストに出会ったからです。 そして、自分がどれほどみじめな罪人かを悟ったからです。 今、自分に自信がなく、みじめで劣等感にさいなまれているなら、 イエス・キリストはそんな人のために救いをもたらしてくださったことに感謝します。 祈り:神様。どの国や家族に生まれても、今がどれだけみじめでも、キリストにあって恵みを受けることができて感謝します。噂に惑わされず、聖書に根ざしてとりなし祈ることができますように。 カムチャツカの被災地に、主の愛と励ましが届きますように。アーメン 祈り:神様、私に先入観や差別意識があるなら、どうか取り扱ってください。どんな人にもあなただけが神であり、福音が必要です。 世界で起こっている災害や戦争の解決が、キリストにあってもたらされますように。アーメン

ローマ2

「かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による心の割礼こそ割礼だからです。その人への称賛は人からではなく、神から来ます。」ローマ2:29 神の前には偽善や動機を隠すことができません。 信仰深そうに見えても、それがうわべだけかどうか明らかです。 もし愛が見せかけなら、それも明らかになります。 逆に、人からはあまり評価されなくても神が認めてくださるなら、それ以上に何を求めるでしょうか。 義理や周囲がどう思うかという恐れが動機になっているなら、神がどう思うかという視点を持てるように祈りましょう。 祈り:神様、私の心の動機を探ってください。見せかけだけの立派さではなく、主がどう願われるかを追い求めることができますように。アーメン

ローマ1

「私は福音を恥としません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、信じるすべての人に救いをもたらす神の力です。」ローマ1:16 昨日、パウロがとうとうローマに行った記事を読みました。 その前に、すでに福音を信じる人たちの群れがローマにありました。 宣教旅行で訪れることはかないませんでしたが、その代わりにパウロは手紙を送り、ローマの人たちに福音とキリストの恵みを順序立てて説明する手紙を書きました。 それがローマ人への手紙です。 福音がぶれないこと、神の義と恵みがすべての人に提示されていることが説明されています。 祈り:神様、人は変わっても主は変わりません。変わらない救いの福音を与えてくださったことに感謝します。アーメン

使徒28

「ですから、承知しておいてください。神のこの救いは、異邦人に送られました。彼らが聞き従うことになります。」使徒28:28 パウロはローマに着きました。旅人ではなく囚人としてでしたが、その実質は警護つきで伝道ができる環境を得ました。 「パウロは、まる二年間、自費で借りた家に住み、訪ねて来る人たちをみな迎えて、少しもはばかることなく、また妨げられることもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えた」のでした(30~31節)。 今までは暴動や半殺しにあいましたが、ローマでは妨げがありませんでした。 神様は社会的な身分や肩書きがなくても、実質を整えてくださいます。 その特権を感謝して受けとり、主の栄光のために用いましょう。 祈り:神様、あなたの与えてくださる環境の中で、福音を分かち合うことができますように。尋ねられた時にはあかしし、答える用意ができていますように。アーメン

使徒27

「ですから、皆さん、元気を出しなさい。私は神を信じています。私に語られたことは、そのとおりになるのです。」使徒27:25 囚人だったパウロが、水夫や軍隊よりもリーダーシップをとっています。 これは、神を信じる人がどれほどの力を与えられうるかを示しています。 祈り:神様、あなたのくださる力と勇気は、私たちの常識を超えています。信仰を強めてください。アーメン

使徒26

「それは彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、こうしてわたしを信じる信仰によって、彼らが罪の赦しを得て、聖なるものとされた人々とともに相続にあずかるためである。」使徒26:18 主イエスご自身からこのように語られたーーそれがパウロの召しの確信であり、生きる目的となりました。 このようなはっきりした声を聞いた人はそれほど多くないかもしれません。 しかし、みことばを通し、祈りを通し、主の声を聞くことができます。 私たちの人生を貫く主の声はどのようなものでしょうか。 祈り:神様、あなたが私に望まれることを聞くことができますように。主の御声に従う生涯を送ることができるよう導いてください。アーメン

使徒25

「ただ、彼と言い争っている点は、彼ら自身の宗教に関すること、また死んでしまったイエスという者のことで、そのイエスが生きているとパウロは主張しているのです。」使徒25:19 第三者にとっても、パウロの主張するポイントは明確でした。 「イエスが生きている」ということです。 敵意を持って反対するか、興味本位の話として流すか、命をかけて主張するか...。 三者三様の態度がこの章には記されています。 自分自身はどれでしょうか。また、今は反対している人でも、やがてパウロのように命がけでイエスを証しする人に変えられる可能性だってあります。 不可能のない主に期待します。 祈り:神様、どんな人でも聖霊の働きで変えられると信じます。あきらめないで___さん、____さんのために祈り続けることができますように。私自身も無関心になることがありませんように。アーメン

使徒24

「数日後、フェリクスはユダヤ人である妻ドルシラとともにやって来て、パウロを呼び出し、キリスト・イエスに対する信仰について話を聞いた。」使徒24:24 夫婦で福音とイエス・キリストについて聞くよいチャンスを、フェリクスは与えられていました。 けれども、動機と反応が問題でした。 ・しかし、パウロが正義と節制と来たるべきさばきについて論じたので、フェリクスは恐ろしくなり、「今は帰ってよい。折を見て、また呼ぶことにする」と言った。(25節) ・また同時に、フェリクスにはパウロから金をもらいたい下心があったので、何度もパウロを呼び出して語り合った。(26節) 残念ながらフェリクスには純粋な動機と反応がありませんでした。 それでもパウロは真摯に説明したと思われます。 私たちにゆだねられているのは、パウロのようにイエス・キリストの福音をそのまま語ることです。 相手がどんな反応をしても、それは相手の責任です。 がっかりせず、神様にゆだねられているところを誠実にできますように。 祈り:神様、相手の反応があまりよくないと、おじけづいてしまいます。でも、福音を分かち合い、その後は聖霊の働きにゆだねます。必要以上に負いすぎたり、責任を感じたりすることがないようお守りください。アーメン

使徒23

「その夜、主がパウロのそばに立って、『勇気を出しなさい。あなたは、エルサレムでわたしのことを証ししたように、ローマでも証しをしなければならない』と言われた。」使徒23:11 混乱に陥る会議、パウロ暗殺計画、拘留者としての移送など、使徒23章は新聞記事のように記されています。 状況を見ると非常に厳しく、パウロがエルサレムに行くのを止めた人たちは「やっぱり」と肩を落としたことでしょう。 しかし、神はパウロに約束をされました。そして、ご自身が約束なさったことは必ずなることを見せてくださいました。 祈り:神様、あなたに何でも祈れることに感謝します。あなたの望まれる時に、望まれる方法でみこころを成してください。長年祈り続けている_____のことにも、すでに聞かれたという信仰を与えてください、 「ですから、あなたがたに言います。あなたがたが祈り求めるものは何でも、すでに得たと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。(マルコ11:24)」アーメン

使徒22

「さあ、何をためらっているのですか。立ちなさい。その方の名を呼んでバプテスマを受け、自分の罪を洗い流しなさい。』」使徒22:16 ダマスコでアナニアがパウロに言った言葉です。 アナニアの、主にある信仰と勇気は驚くべきものです。 自分たちを捕らえに来たパウロに近寄り祈るように、という主の声に、彼は従いました。 主の語りかけを信じたからです。 また、彼に向かって「バプテスマを受け、罪を洗い流しなさい」と命じる大胆さも持っていました。 福音を分かち合う時、必要以上に尻込みしていませんか? 主はどのように願われるか、話す前に祈り、次の言葉の前に祈り、聖霊の導きに信頼しましょう。 祈り:神様、私の言葉を導いてください。何をどう言えばよいのか、感情に任せる前に祈り心であなたの御顔を仰ぐことができますように。今日も語るべきこととタイミングを教えてください。アーメン

使徒21

「すると、パウロは答えた。『あなたがたは、泣いたり私の心をくじいたりして、いったい何をしているのですか。私は主イエスの名のためなら、エルサレムで縛られるだけでなく、死ぬことも覚悟しています。』」使徒21:13 周囲の人々が聖霊によって預言し、エルサレムに行かないようパウロに勧めました。 パウロは聞き入れませんでした。 一読すると、パウロがみこころに従わなかったようにも読めます。 しかし、そうではありませんでした。 預言は正しく、エルサレムで困難にあうというのは真実でした。 そのことに焦点を合わせると、人々が行かない方がよいとすすめたのも正しいことでした。 ただ、神のみこころはもっと先まで含めたものでした。 パウロはとらえられますが、やがてそのままローマに移送されます。 ローマに行くことも、その先の神のご計画でした。 パウロはどんな形であれローマに福音を届ける、そちらに焦点を当てていました。 みこころが矛盾していると思うような時があります。 しかし、後でふり返ると神のご計画が着々となっています。 祈り:神様、あなたのご計画のすべてを知ることはできません。でも、それぞれが祈り進む時、あなたがすべてを益となさることを信じます。アーメン

使徒20

「あなたがたは自分自身と群れの全体に気を配りなさい。神がご自分の血をもって買い取られた神の教会を牧させるために、聖霊はあなたがたを群れの監督にお立てになったのです。」使徒20:28 エペソ教会の長老たちを集めて、パウロは別れの言葉を残しました。 今でいう牧師や役員たちに当たる彼らに、教会で仕えるアドバイスをしています。 「自分自身と群れの全体」とあります。 教会全体に気を配るのはもちろんですが、「自分自身」をよく見張ることも大切だとわかります。 自分の心を治めること、自身の霊肉の健康管理も大切な務めです。 多くの働き人やクリスチャンリーダーが、他者のために身も心も使い果たし、疲れています。時に休息を取り、燃え尽きないように主とともに過ごし安息することも、大切な務めだと学びました。 祈り:神様、主のもとに安息することを私に教えてください。今燃え付きそうな牧師や教会リーダーに、主の励ましと休息、そして新たな聖霊の力が注がれますように。アーメン

使徒19

「そのころ、この道のことで、大変な騒ぎが起こった。」使徒19:23 アジア地方のほとんどの人が福音を聞きました。 いやしや奇跡も起こり、素晴らしい広がりでした。 しかし同時に、反対派の陰謀や騒ぎも起こりました。 町中を扇動し、パウロと福音が自分たちの生活と町を破壊する、とまで言いました。 エペソの町とアルテミス神殿にまつわるしがらみは、まるで日本各地の村や町の風習を見るようです。 その中で人々と関係を築き、地元に根ざし、福音をあきらめない各地の教会を覚えて祈りましょう。 祈り:神様、不毛の地と思われるような因習と伝統の地で、忍耐づよく宣教している教会を励ましてください。そこに集う人々、仕える人々に、上からの素晴らしい喜びと報いで満たしてください。私たち自身の置かれている地域___、ルーツのある地域____、____のためにも祈ります。アーメン

使徒18

「ある夜、主は幻によってパウロに言われた。『恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。わたしがあなたとともにいるので、あなたを襲って危害を加える者はいない。この町には、わたしの民がたくさんいるのだから。』」使徒18:9~10 反対につぐ反対にあうパウロに、主は語りかけてくださいました。 ・わたしがあなたとともにいる ・この町には、わたしの民がたくさんいる この上ない保証をもらったパウロでした。 さらにこのことばは、今日の私たちにも語られています。 「主は私たちと共におられる」 「この町には、主を信じるようになる民がたくさんいる」 と。 祈り:神様、いつも共にいてくださり感謝します。私の住むこの町に、主の民、 やがて主の民となる人がいることを信じます。希望を失わずに今日も歩めるよう助けてください。アーメン

使徒17

「...確かに、神は私たち一人ひとりから遠く離れてはおられません。『私たちは神の中に生き、動き、存在している』のです。」使徒17:27~28 日本でもよくわからないままに偶像や「神」を作っています。 ちょうどアテネの人たちのようです。 イエス・キリストを知っていても、すぐそこにおられる主に気がつかないで、あるいは無視して過ごしていることもあるかもしれません。 今日の一日に、意識して主を認めることができますように。 祈り:神様、偶像やご利益信仰の日本をあわれんでください。 そして私も今日、いつも共にいてくださる主を意識して過ごしたいです。導いてください。アーメン

使徒16

「パウロがこの幻を見たとき、私たちはただちにマケドニアに渡ることにした。彼らに福音を宣べ伝えるために、神が私たちを召しておられるのだと確信したからである。」使徒16:10 予定が急に変わる時、あるいは想像していない事態に直面するとき、冷静でいられますか? 私はめっぽう弱い方です。都度パニックになりそうです。 夜、パウロは幻を見ました。そしてマケドニア人の懇願を聞いて、進路変更をすると決断しました。 自分の願いより聖霊の導きに従ったのでした。 もし今日、聖霊が言われていることがあれば、自分の予定や計画より優先できるでしょうか。 難しく、また聞き逃してしまいそうなことですが、そんな鈍感な私にも主がはっきり示してくださるようにと願います。 祈り:神様、柔軟性のない、自分の思いが先行しがちな私です。聖霊の思いを聞く心の静けさと敏感さを与えてください。外は嵐のようでも、心に平安を与えてください。アーメン

使徒15

「聖霊と私たちは、次の必要なことのほかには、あなたがたに、それ以上のどんな重荷も負わせないことを決めました。」使徒15:28 聖霊は罪について、主について悟りを与えます。 同時に自由と解放をもたらします。 人の定めたものか神の願われることか、つまり文化か普遍的な真理かの判断は難しいです。 自分と同じでないと、つい裁いてしまいます。 私の心が真理からそれず、同時に愛をもって接し戒めることができますように。 祈り:神様、あなたの愛と真理をより理解できますように。束縛でなく解放をくださり感謝します。聖霊の声に敏感になれますように。アーメン

使徒14

「また、彼らのために教会ごとに長老たちを選び、断食して祈った後、彼らをその信じている主にゆだねた。」使徒14:23 信じている主にゆだねる・・・難しいことです。 心配だし、口や手を出したいし、共にいたいと思います。 でも人の力には限界があります。 彼らは全能の主を信頼し、断食して祈ったら主の手に任せゆだねました。 今日、何を主の手にゆだねるよう語られていますか。 祈り:神様、_____をあなたの手にゆだねたいと思います。手放せるよう導いてください。アーメン

使徒13

「弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた。」使徒13:52 聖霊によってアンティオキアからバルナバとサウロ(パウロ)は宣教に送り出されました。 魔術師との対決(6ー12節)、ユダヤ人たちの反対(45、50節)といった困難はありましたが、主のことばは広まっていきました。 彼らは困難に心くじかれたりへこたれたりしませんでした。 かえって「喜びと聖霊に満たされていた」(52節)とあります。 私たちは、たった一つの困難で落胆してしまうことがあります。 しかし大きな視点で見るなら、恵みの方がずっと多いのが事実です。 今日その希望を確認できますように。 各地、各国にいる宣教師のためにも祈りましょう。 祈り:神様、一つの失敗や試練で落胆しあきらめることのないよう、忍耐と健康的な認識を与えてください。___宣教師、____宣教師、____宣教師...の働きと霊肉の健康と家族を支え、主の働きをお守りください。アーメン

使徒12

「すると、即座に主の使いがヘロデを打った。ヘロデが神に栄光を帰さなかったからである。彼は虫に食われて、息絶えた。」使徒12:23 神が愛なら、どうしてヘロデをこのような目にあわせたのか、と疑問を持つ方がおられました。 なぜ戦争が、なぜ貧困が、なぜ災害が・・・、という問いも似ているかもしれません。 答えは、人の罪ゆえ、と言えるでしょう。 しかも悔い改めず、ヘロデの場合は自分を神とする傲慢さも見受けられます。 神様はもちろん、彼に悔い改めるチャンスを何度も与えておられました。 バプテスマのヨハネとの対話、イエス様ご自身との出会いもありながら、悔い改めようとはしませんでした。 ヘロデがもっと早く滅びず、ここまで王として治めることができていたのは逆に神のあわれみとも言えます。 神様の恵みとあわれみの機会に彼が気づき、悔い改めて主を信じていたら、彼には別の人生があったでしょう。 ヘロデに限らず、どんな人も悔い改めてイエス・キリストを救い主と信じたら、別の人生が始まります。 祈り:神様、あなたの恵みとあわれみに気づく人が多く起こされますように。___さん、___さんがイエス・キリストを救い主と信じることができますように。 私自身も、日々悔い改めて恵みを受けとる素晴らしさを実感できますように。アーメン

使徒11

「弟子たちは、それぞれの力に応じて、ユダヤに住んでいる兄弟たちに救援の物を送ることに決めた。」使徒11:29 聖霊によってアガポが預言したとおり、世界的に大飢饉が起こりました。 きっと、アンティオキアにいた弟子たち自身も食料不足を感じていたでしょう。 しかし、ユダヤ地方はもっと深刻な状況なので、救援のために自らささげたのでした。 「それぞれの力に応じて」とあります。 自分ができる力に応じて、愛の動機で多い者も少ない者も霊の家族を支えようとしました。 この助け合う心が教会に、日本うや世界宣教の場に、満ち溢れたらどんなに素晴らしいでしょうか。 祈り:神様、あなたから託された私の所有物を、みこころの通りに用いることができますように。必要のあるところに気前よくささげ支える、愛の心を与えてください。アーメン

使徒10

「神は、イスラエルの子らにみことばを送り、イエス・キリストによって平和の福音を宣べ伝えられました。このイエス・キリストはすべての人の主です。」使徒10:36 ユダヤ人だったぺテロにとって、それ以外の民族が同じ神によって救われるというのは常識外でした。 しかし主はしるしと幻によって、どんな人にとってもイエス・キリストが救い主であることを示されました。 前章のパウロも今日のぺテロも、自分が当然だと思っていた考えからの転換、「パラダイム・シフト」を経験しました。 私たちにも同じ転換が必要かもしれません。 あの人は救われないという思い込み、家族への伝道は難しいという思い込み、自分はだめだという思い込み...。 神様が願われる思いの転換に気づき、パラダイム・シフトできますように。 祈り:神様、私の思い込みを探り、あなたの思いへと視野を広げてください。無用な自己卑下や恐れから解放し、健康的な謙遜と希望によってみこころに歩めますように。アーメン

使徒9

「そこで、ペテロは立って二人と一緒に出かけた。ペテロが到着すると、彼らはペテロを屋上の部屋に案内した。やもめたちはみな彼のところに来て、泣きながら、ドルカスが一緒にいたころ作ってくれた下着や上着の数々を見せるのであった。」使徒9:39 9章はサウロ(パウロ)の回心で有名ですが、同時に愛すべきクリスチャン女性タビタ(ドルカス)も登場します。 彼女は分け与える賜物を持っていました。 ただ金銭的に裕福だっただけでなく、心をこめて困った人や貧しい人たちのために奉仕していました。 弱い人に慕われ愛された彼女の姿勢は大きな証しでした。 主はぺテロを通して祈りに答え、彼女を生き返らせました。 そのことがヤッファの町でニュースとなり、今度はやもめだけでなく多くの人が主を信じました。 生きざまが証しとなる人は何と素晴らしいことでしょう。 「私たちは、ことばや口先だけではなく、行いと真実をもって愛しましょう。」(1ヨハネ3:18) 祈り:神様、私のことばと行いが信仰にあって一致しますように。主の恵みを、周囲の人に心をこめて流し出せるように導いてください。アーメン

使徒8

「散らされた人たちは、みことばの福音を伝えながら巡り歩いた。」使徒8:4 迫害で散らされた人たちの心には、はじめ悲しみと恐れとがあったことでしょう。 これからの生活の保証もありませんでした。 しかし、黙ってはいませんでした。 「みことばの福音を伝えながら巡り歩」きました。 結果として、福音が世界に広がることになりました。 ピリポが出会ったエチオピアの宦官に見られるように、民族や言葉、肌の色が違っても福音は一つです。 その時は悲しいことが、後に豊かな実を結びます。 「涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取る。」詩篇126:5 祈り:神様、悲しみの出来事を、思いがけない形で用いることのできる方であることを信じます。私の置かれた状況を、あなたの栄光のために用いてください。アーメン

使徒7

「ここでは、足の踏み場となる土地さえも、相続財産として彼にお与えになりませんでした。しかし神は、まだ子がいなかった彼に対して、この地を彼とその後の子孫に所有地として与えることを約束されました。」使徒7:5 ステパノの弁明から殉教がこの章の内容です。 今日はその弁明の一節で、本筋とは関係ないようにも思えます。 けれども、ここにステパノの信仰の一端を見る思いです。 大祭司や訴える者たちは、律法やしがらみに縛られていました。 それと比べて、何も持たず、何にも頼れない状況で、神の約束を信じたアブラハムの信仰が出ています。 ステパノも同じく、先入観やしきたりよりも、イエス・キリストの真実を信じていました。 それが聖書に約束されていることだとも確信していました。 私たちは今日、しがらみや思い込みを信用するでしょうか。 それとも、聖書にねざした神の約束に期待できるでしょうか。 祈り:神様、聖書のことばを聖霊の光で読みたいです。純粋な心を与えてください。あなたのみこころを素直に受け取ることができますように。信仰を強めてください。アーメン

使徒6

「こうして、神のことばはますます広まっていき、エルサレムで弟子の数が非常に増えていった。また、祭司たちが大勢、次々と信仰に入った。」使徒6:7 初代教会は素晴らしい成長を見せました。 数も増えたし、あの祭司たちが悔い改めてイエス・キリストを救い主と信じるようになりました。 一方で、課題や問題もありました。 数が増えすぎて、食料配給に多大な手間と時間がかかるようになりました。 また、リーダーが逮捕され、不利な偽りの証言をされました。 信仰生活も同じです。素晴らしい良いこともあれば、試練や困難にあうこともあります。 しかし、聖霊がどんな時も働いておられることを使徒の働きから学びます。 そして、神のご計画のためには一つも無駄にならないことも、読み進めるうちに確信できるでしょう。 祈り:神様、目先の事柄で一喜一憂しないよう助けてください。あなたのよいご計画に信頼できるよう、私の心をお守りください。試練の中にいる____さん、入院している____さんに、主の希望と平安がありますように。アーメン

使徒5

「『そこで今、私はあなたがたに申し上げたい。この者たちから手を引き、放っておきなさい。もしその計画や行動が人間から出たものなら、自滅するでしょう。しかし、もしそれが神から出たものなら、彼らを滅ぼすことはできないでしょう。もしかすると、あなたがたは神に敵対する者になってしまいます。』議員たちは彼の意見に従い、」使徒5:38~39 律法の教師ガマリエルは、パウロの師匠でもありました(22:3)。 彼がユダヤ人議員たちを説得します。 彼はキリストを救い主と信じてはいなかったでしょうが、神の摂理についてはよく理解していました。 キリスト教界でも、あるミニストリーが逸脱しているかどうかが話題になります。 すぐ批判的になるのでなく、神から出たものかどうかを静観する時間が必要だと思います。 人から出たものなら、ほころびが出てやがてなくなるでしょう。 しかし神のみこころなら、その働きはみこころの間続くでしょう。 祈り:神様、様々なミニストリーや働きを感謝します。お互いにあれはだめ、これは足りないと批判する前に、謙虚に祈り吟味させてください。同時に、悪魔のわなを見極める霊的な洞察力も与えてください。アーメン

使徒4

「皆さんも、またイスラエルのすべての民も、知っていただきたい。この人が治ってあなたがたの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの名によることです。」使徒4:10 使徒たちは大きなわざを行いました。 そして、それは自分の力でなく、イエス・キリストの名によるものだと知っていました。 私たちが奉仕や伝道でうまくいったと喜ぶのは、悪いことではありません。 自分に栄光を帰すのでなく、その栄光をイエス様にお返しし、イエス様の名があがめられるなら、素晴らしいことです。 たとえうまくいかなかったと思っても、それも落胆する必要はありません。 キリストの望むことをしているなら、目に見える即時の結果ではなく、霊の世界では違ったことが起こっていると言えます。 あきらめないで、卑下しないで、今日も主とともに歩みましょう。 祈り:神様、あなたの恵みに感謝します。十字架について復活されたイエス・キリストのみこころを行うことができますように。アーメン

使徒3

「そうして、主の御前から回復の時が来て、あなたがたのためにあらかじめキリストとして定められていたイエスを、主は遣わしてくださいます。」使徒3:20 キリストは神のひとり子であり、父なる神のしもべとして来られました。 そして、信じる人のうちにキリストの霊である聖霊を送ってくださいます。 さらに、終わりの時に王として再び来られます。 王様として迎える日の情景を思い浮かべると、心踊ります。 祈り:神様、キリストの来臨の恵み、再臨の望みに感謝します。あなたにより近く歩めますように。アーメン

使徒2

「そして、毎日心を一つにして宮に集まり、家々でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、民全体から好意を持たれていた。主は毎日、救われる人々を加えて一つにしてくださった。」使徒2:46~47 3千人がクリスチャンになっても、劇的な奇跡が行われても、教会は華々しい「成果」だけの集まりではありません。 「心を一つに」すること、 「喜びと真心をもって」交わりをすること、 「神を賛美」すること、 「民全体から好意を持たれていた」ことが、 教会の麗しい姿です。 イエス様が言われたように、この世から分かつのではなく、この世にあって主の守りのうちを歩むのが教会であり、クリスチャン生活です。 この初代教会のスピリットは今日まで変わりません。 祈り:神様、私たちの教会を、初代教会に見られる麗しい姿としてください。私の心を探り、霊において一致できるように助けてください。アーメン

使徒1

「そしてこう言った。『ガリラヤの人たち、どうして天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行くのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになります。』」使徒1:11 昔から、「○月○日に災害が起こる」とか「○○になる」というデマは尽きませんでした。 人々の不安や心配をあおり、社会がパニックになることもあったようです。 実際のところは、誰も思っていないタイミングで災害が発生することが多いのです。 聖書はキリストの再臨について「いつ」とは語っていません。 しかし、イエス様が天に上って行くのを見たのと同じように、また来られるーー これは確かなことです。 思わぬタイミングでも、日々心を整え期待できる者でありますように。 祈り:神様、イエス様の再臨は恐ろしいものではなく、希望と喜びに満ちた時です。その日まで、私の生き方、信仰、証しを導き教えてください。アーメン

ヨハネ21

「イエスが行われたことは、ほかにもたくさんある。その一つ一つを書き記すなら、世界もその書かれた書物を収められないと、私は思う。」ヨハネ21:25 ヨハネの福音書の最後の部分は、なんとかして信じてほしいという弟子ヨハネの熱意が感じられます。 書かれた証しが真実だということを証言していること(24節)、そして世界が記録を収めきれないほど多くのことをイエス様がなさったこと(25節)を述べます。 弟子ヨハネは、やがて福音のために島流しに会います。 しかし、そこで黙想し思い巡らしたイエス様の姿と今も生きておられる希望は、彼を励まし続けたでしょう。 やがてもう一度イエス様が来られるという希望の黙示録も、彼の証しに生きた人生を通して主が与えてくださったものです。 祈り:神様、弟子ヨハネは証しの生涯を送りました。私はどのように証しをし、主の足跡を歩むことができるでしょうか。功績でもタイトルでもなく、主の証し人、キリストに従う者としてのアイデンティティを日々確認して歩めるよう、導いてください。アーメン

ヨハネ20

「イエスは再び彼らに言われた。『平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。』」ヨハネ20:21 イエス様が言われたことばをどのように受け取っているか、問われます。 はじめの「平安があなたがたにあるように」は感謝して受け取れます。 しかし、後半の「わたしもあなたがたを遣わします」という宣言は見落としがちです。 受けるばかりでなく「与える」ことを主は望まれます。 そのひとつが「遣わされる」ことです。 大それたことではなく、今日すぐそばにいる隣人に、あるいは久しぶりに会った友人に、私たちは遣わされていると言えます。 その人に寄り添うことが、主の恵みの福音が広がるきっかけかもしれません。 祈り:神様、今週私が話しかける人、連絡をとる人を教えてください。あるいは祈りながら時を待つべきでしょうか。主の導きに従います。アーメン

ヨハネ19

「これを目撃した者が証ししている。それは、あなたがたも信じるようになるためである。その証しは真実であり、その人は自分が真実を話していることを知っている。」ヨハネ19:35 ヨハネは十字架のそばに立っていました。そして、イエスの母マリアの世話をするようにと託されました(26~27節)。 彼は見たものとして証ししました。 他にも、恐る恐る信仰を表明する人が出てきました。 ユダヤ人を恐れて信仰を隠していたアリマタヤのヨセフは、思いきってイエスのからだを自分の墓に入れることを願い出ました。 夜こっそりイエスのところに来たニコデモは、イエスのからだに塗る香料をたっぷり持ってきました。 失敗、敗北でしかないと思えた十字架のもとに、勝利の兆しをヨハネはほのめかして記述しています。 世界を見渡しても、信仰を抑圧され、敗北したかに見える地域があります。 しかし、その迫害の中に大きなリバイバルが起こっている国や地域があることを覚えます。 祈り:神様、キリストのもとに平安と勝利があります。どうか迫害の中にある地域と信仰者を励ましてください。また、日本の中でも家族や地域の因習の中で信仰を守る一人一人に、格別の守りと証しを与えてください。アーメン

ヨハネ18

「ピラトはイエスに言った。『真理とは何なのか。』 こう言ってから、再びユダヤ人たちのところに出て行って、彼らに言った。『私はあの人に何の罪も認めない。』」ヨハネ18:38 ピラトはイエスに罪がないことを知っていました。真理についても関心を持ちました。 しかし、真理よりも自己保身を求めました。 それゆえに、使徒信条で「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」と言われるように、無実のイエスを十字架刑にした者として名前が残ってしまいました。 自己保身のために歪めているものがないでしょうか。 また、無実の罪で虐待され拷問されている、クリスチャンや少数民族のためにも祈りたいと思わされます。 祈り:神様、自己保身に走り、他者のせいにしたり事実をゆがめたりする私の傾向をゆるしてください。また、今日も抑圧され生命の危機に脅かされている信仰者や少数民族に、福音による励ましと主の超自然的な守りがありますように。私にも祈ることを教えてください。アーメン

ヨハネ17

「わたしがお願いすることは、あなたが彼らをこの世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。」ヨハネ17:15 十字架にかかる前に、イエス様がこれほどまでに心を注ぎ、私たちのために熱心に祈ってくださったことは注目に値します。 「彼らもわたしたちのうちにいるようにしてください。あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるようになるためです(21節)」 「あなたがわたしを愛してくださった愛が彼らのうちにあり、わたしも彼らのうちにいるようにするためです(26節)」 そして、 「わたしがお願いすることは、あなたが彼らをこの世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです(15節)」と祈ってくださいました。 今日もイエス様が変わらないこと、共にいて下さることがわかります。 また、神の愛が信じる者のうちにいつも注がれているので、私たちにそれを流し出すよう望まれていることも確認できます。 祈り:神様、あなたがどれほど世を愛し、私を愛して下さったかを覚えて感謝します。苦難があっても守られるよう、今日も助けてください。私の霊と心を主にあって支えてください。 アーメン

ヨハネ16

「その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世の誤りを明らかになさいます。」ヨハネ16:8 人がイエス・キリストを信じるのは、聖霊の働きによります。 きっかけは誰かから聞いた福音でも、自分にそれが必要で、信じてみようという時には人の知恵を越えた聖霊が働いておられます。 洗礼準備クラスではまず「神」「罪」「救い」を学びます。 毎回、「罪について、義について、さばきについて」悟らせてくださるのは聖霊であることを感じます。 自分自身も、そのようにしてキリストのことがだんだんわかってきたのだなあと思います。 祈り:神様、聖霊の働きにもっと信頼し期待できるよう導いてください。今信じようかどうしようかと迷っている___さんに、聖霊が豊かに働いてください。アーメン

ヨハネ15

「わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができないのと同じように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。」ヨハネ15:4 今年(2025年)のペンテコステの時、このことばが心にとまりました。 聖霊が内住してくださることで、キリストは「あなたがたの中にとどまります」という約束を今日も有効なものにしてくださいました。 では私たちはキリストにとどまることを日々求めているでしょうか。 聖霊の満たしと、キリストから流れるいのちの水を与えてくださいと、どのくらい真剣に思っているだろうか...と自分に問いかけてみましょう。 祈り:神様、聖霊が信じる者と共にいつもいてくださることに感謝します。聖霊の満たしを求める者として歩みます。アーメン

ヨハネ14

「わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません。」ヨハネ14:27 イエス様が十字架にかかられ、去っていかれるなんて想像できたでしょうか。 弟子たちにとっては想定外、自分の人生が急転回するような出来事でした。 それでもイエス様は「平安を残します」と言われました。 世が与えるのとは異なる平安の与え方だと言われました。 私たちの常識とは違う方法で、しかももっと深い平安を与えてくださるのです。 今日も「心を騒がせてはなりません」「ひるんではなりません」と主は語りかけてくださいます。 祈り:神様、_____のことが気になります。主の平安が心に必要です。思い煩いから目を離し、心騒がせないようにお守りください。アーメン

ヨハネ13

「わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」ヨハネ13:34 イエス様は単に教えを残されただけではありません。 ご自身が先頭に立ち、それを実践されました。 弟子たちに愛し合うことを教え、その通りに弟子の足を洗われました。 しかもご自身がまもなく十字架にかかるとわかっておられ、 裏切る弟子の足も洗ってくださったのです。 「さて、過越の祭りの前のこと、イエスは、この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時が来たことを知っておられた。そして、世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された。」(1節) 「最後まで」まさに十字架の上で息を引き取るまで、愛してくださいました、 祈り:神様、イエス・キリストの教えは一方的な道徳ではなく、キリスト自らが率先し実践してくださったことに感謝します。イエス様の愛を受けた者として、その姿にならいたいです。私の中に注がれた主の愛を、流し出すことができるよう導いてください。アーメン

ヨハネ12

「イザヤがこう言ったのは、イエスの栄光を見たからであり、イエスについて語ったのである。」ヨハネ12:41 イエス様は地上に人として来られました。 しかし、それ以前にも神として存在しておられました。 預言者イザヤは、そのイエス様の栄光を見て預言しました。 それが12章の中に出てきています。 残念ながら、主を信じない人が多いことが預言され、その通りになりました。 「しかし、それにもかかわらず、議員たちの中にもイエスを信じた者が多くいた」(42節)のですが、「彼らは、神からの栄誉よりも、人からの栄誉を愛した」(43節)のでした。 今日、誰からの栄誉を求めていますか。周囲の人からすごいと言われるより、神様に「よくやった」と言われることを求めているでしょうか。 祈り:神様、人の目や評価が気になる者です。永遠の価値へと霊の目を開いてください。あなたからの栄誉を求める者とならせてください。アーメン

ヨハネ11

「イエスは彼女に言われた。『わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。』」ヨハネ11:25 葬儀前の家族の状態を想像してください。喪失感と、泣いている暇がないあわただしさと、状況がまだ現実味を帯びない混乱した心の中です。 イエス様が2日も来られなかったので「どうしてもっと早く来なかったのですか」と言いたい気持ちもあったと思われます(21節)。 けれども、イエス様は「この病気は死で終わるものではなく、神の栄光のためのものです」と言われました(4節)。 ラザロは癒されました。しかしそうでなくても、「死で終わるものではな」いのです。 「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです」と言われたイエス様のことばは、今の私たちにも当てはまります。 祈り:神様、あなたのよみがえりと永遠のいのちの約束を感謝します。主のもとに希望があります。喪失感の中にある___さん、___さんに、主の深い慰めと希望がありますように。アーメン

ヨハネ10

「門番は牧者のために門を開き、羊たちはその声を聞き分けます。牧者は自分の羊たちを、それぞれ名を呼んで連れ出します。」ヨハネ10:3 羊の群れを見ました。てんでばらばらで、あっち向きこっち向きしながら草を食べ、 時に座り込み、時に反対の方向へ行きかけます。 それでも、牧者がいざなう方向に少しずつ群れは移動します。 それは、牧者が羊をよく導き、囲いの中に入れたり牧草のところに連れて行ったりしてくれるからです。 イエス様と羊である私たちも同じです。 イエス様の声を聞き分ける者であるように、日々主の家に住まいましょう。 祈り:神様、私を導いてください。そして、私もあなたの声を聞き分けることができるよう、霊の耳を開いてください。アーメン

ヨハネ9

「イエスはこたえられた。『この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。』」ヨハネ9:3 いつもこの箇所に癒され励まされます。 私たちが「神様、どうして?」と思った時、それは「神のわざが現れるため」かもしれません。 弱さのうちに働いてくださる強い神をほめたたえます。 祈り:神様、私の生涯を通じてあなたの栄光を現してください。アーメン

ヨハネ8

「イエスは再び人々に語られた。『わたしは世の光です。わたしに従うものは、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。』」ヨハネ8:12 羊の群れを見ました。 群れといっても、その中では、草をあちこち食べる羊、あっちを向く羊、座りこむ羊などてんでばらばらです。色や模様も違います。 けれども、羊飼いは強制せず、上手に群れを導いていました。 導きや主への従い方は人それぞれです。 しかし、イエス様が羊飼いであるとは何と安心かと思います。 世の光である主を見上げる者は光の中を歩ませて頂けます。 祈り:神様、今日もあなたを見上げて歩ませてください。私は私らしく主に従い仕えます。アーメン

ヨハネ7

「ですから、わたしはあなたに言います。この人は多くの罪を赦されています。彼女は多く愛したのですから。赦されることの少ない者は、愛することも少ないのです。」ヨハネ7:47 「一人の罪深い女」と書かれた女性が、イエス様に香油をささげました。 多く赦された人でした。そして多く愛することができたとイエス様はおっしゃいました。 私たちは、キリストの救いを信じた時だけでなく、その後も自分の罪や至らなさ、足りなさに気づきます。 それは悲しく思えますが、より主を愛する者とされるためでもあります。 主と交わり、悔い改めと恵みの中に浸りましょう。 祈り:神様、多く赦してくださり感謝します。あなたを多く愛する者としてください。アーメン

ヨハネ6

「その人は、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて、家を建てた人に似ています。洪水になり、川の水がその家に押し寄せても、しっかり建てられていたので、びくともしませんでした。」ヨハネ6:48 日本では、信仰を持つのに時間がかかったり、しばらくすると教会生活から離れてしまう人が多いと聞きます。 しかし、日本だけの話ではありません。 モンゴルでは、新しく福音を聞いて受け入れるのは簡単だけれど、また別の新しい教えが入るとそちらに心を向ける人が多いのだと聞きました。 欧米でも信仰から離れる人がいるそうです。 私たちの土台が、岩の上に家を建てた人のようになるにはどうしたら良いでしょうか。 神のことばに根ざすことです。人や状況は変わるし、当てになりません。 変わらない神ご自身に土台を置くことです。 祈り:神様、私たち一人一人があなたのことばに基礎を置くことができますように。洪水や嵐にも流されない土台を置けるよう導いてください。アーメン

ヨハネ5

「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。」ヨハネ5:24 イエス様の生涯は、徹底してご自身を遣わされた方ー父なる神様ーのみこころを行うこと、父に栄光を帰すことに集中したものでした。 神ご自身が人として来られ、神のみむねを体現してくださったという信じがたい恵みなのです。 イエス様がそうされたなら、私たちはもっと自分自身でなく神に栄光をお返しするよう歩みたいと思わされます。 小さな手柄(手柄とも言えないような)を自分のものにせず、神のものにすることが習慣となりますように。 祈り:神様、あなたのお名前だけがあがめられますように。あなたの栄光のために、大胆になれますように。あなたが願われることに集中できますように。アーメン

ヨハネ4

「イエスは彼に言われた。『行きなさい。あなたの息子は治ります。』その人はイエスが語ったことばを信じて、帰って行った。」ヨハネ4:50 まだ見ないものを、どうして信じることができるでしょう。 見えない神を、どうして信じることができるでしょう。 それが今日の多くの人の問いです。 しかし一方で、フェイクニュースや噂には惑わされてしまいます。 王室の役人は、カペナウムからガリラヤまでやって来て、息子の癒しを願いました。 カペナウムまで来てほしいと言う役人に、イエス様は「行きなさい」とことばを与えました。 信じるまでに、彼の内側にどのような葛藤と心の変化があったでしょうか。 それでも、その人はイエスが語ったことばを「信じて」帰って行きました。 それが信仰です。 私たちも、聖書のことばにかけてみよう、信頼してみようと思いませんか。 祈り:神様、信仰は理屈でなく「いっぺんそうしてみよう」という選択だとも言えます。私たちの小さい理性ではわからないことも、あなたはご存知です。私の親戚や友人が、聖書のことばに信頼してみよう、と選択することができますように。アーメン

ヨハネ3

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」ヨハネ3:16 再び、「聖書の中の聖書」と言われる節にきました。 神の愛、そしてイエス・キリストを救い主だと信じる者が受ける恵みが表れています。 ゆっくりと声に出して読み、味わいたいと思います。 祈り:神様、あなたの愛と恵みを感謝します。福音がもっとよくわかるよう、聖霊様働いて助けてください。アーメン

ヨハネ2

「イエスはこれを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行い、ご自分の栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。」ヨハネ2:11 世話役はいきさつを知らず、花婿をほめました。 しかし、給仕たちはイエス様が水をぶどう酒に変えたと知っていました。 宴会の場で一時的に花婿が持ち上げられたとしても、 真に栄光をとられたのはイエスでした。 主に用いられる人が一時的に目立っていたとしても、 それはその人が偉いからではありません。 主が栄光をとられるためです。 舞台裏で仕えていても、そこが一番主の栄光を間近に見ることができる場所かもしれないのです。 祈り:神様、どの場所であっても主に仕える喜びを与えてください。キリストの栄光を見せてください。アーメン

ヨハネ1

「私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けた。」ヨハネ1:16 その理由は、「恵みとまことはイエス・キリストによって実現したから(17節)」だと、ヨハネの福音書は語ります。 いくら分けてもなくならない、満ち満ちた豊かさと恵みの大きさは想像もつきません。 その恵みの中に入れられている恵みを感謝しつつ。 祈り:神様、あなたの豊かさと恵みが限りなく、主を見上げる者に注がれることに感謝します。この素晴らしい恵みに一人でも多くの方が気づきますように。アーメン

ルカ24

「それからイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、」ルカ24:45 そうして、次のことを言われました。 「『キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、あらゆる国の人々に宣べ伝えられる。』エルサレムから開始して、あなたがたは、これらのことの証人となります。」(46~48節) イエス・キリストこそ、聖書を悟らせてくださる方です。 聖書が難しい、と嘆かず、霊的な目と心を開いていただけるよう願いましょう。 光が差すように、少しずつ主の霊が働いてくださいます。 祈り:神様、聖書を理解したいのに難しいと感じることがあります。知性だけでなく、霊性でわかるように助けてください。私の霊の目を開いてください。アーメン

ルカ23

「そのとき、イエスはこう言われた。『父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。』彼らはイエスの衣を分けるために、くじを引いた。」ルカ23:34 ローマ帝国の遺跡は世界遺産となり、素晴らしい価値があると考えられています。 現代も現役で使われている橋や門すらあるそうです。 しかし、その帝国の支配下で十字架刑が執行されていたのでした。 イエス様が十字架の上でこのように祈られたことを、ともすれば軽く読み流してしまいます。 しかし、私自身が「衣を分けるために、くじを引いた」者の一人であったと考えたことがあるでしょうか。 イエスに無関心、十字架に無関心であったローマの兵隊や大部分の群衆のように、私たちも福音に無関心であった者でした。 それでもイエス様は「父よ、彼らをお赦しください」と祈り招き続けてくださったのです。 祈り:神様、十字架の出来事が今も同じように救いの価値があることを覚えます。イエス様の祈ってくださった愛と時代を超越した恵みに感謝します。アーメン

ルカ22

「食事の後、杯も同じようにして言われた。『この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による、新しい契約です。』」ルカ22:20 イエス様が十字架で血を流されたことにより、新しい契約がもたらされました。 それは、古い律法によるのではなく、いのちを与え、みずみずしく、解放と自由をもたらすものでした。 新しい契約により、聖霊が自由に働かれ、一人一人に与えられました。 ペンテコステの日、聖霊にある自由を味わい感謝しましょう。 祈り:神様、すべての鎖や罪の束縛から自由にされたことを感謝します。聖霊がくだってくださったことを感謝します。ペンテコステの感動を新たにすることができますように。アーメン

ルカ21

「あの人たちはみな、あり余る中から献金として投げ入れたのに、この人は乏しい中から、持っていた生きる手立てのすべてを投げ入れたのですから。」ルカ21:4 再び2レプタ銅貨をささげたやもめの記事が出てきます。 この女性は、この後どうなったでしょうか。 聖書は沈黙していますが、きっとその生活は守られたことでしょう。 なぜなら、イエス様が目を留めてくださったからです。 自分の手にあるものだけを眺めているか、 天の宝を見上げるか、 今日の私の目線はどちらでしょうか。 祈り:神様、私の目線が天を見上げるものとなりますように。アーメン

ルカ20

「律法学者たちと祭司長たちは、このたとえ話が自分たちを指して語られたことに気づいた。それでそのとき、イエスに手をかけて捕らえようとしたが、民を恐れた。」ルカ20:19 律法学者と祭司長たちの特徴は、いつも「人」を恐れたことでした。 人の評価、人の評判、人の歓心をかうことにばかり意識が向いています。 一方、イエス様は「神」を恐れることで一貫しておられます。 ぶれることなく、焦点が定まっていたことがわかります。 私たちの関心はどこにあるでしょうか。 神に喜んでいただくことでしょうか、それとも人情や人の目に偏っているでしょうか。 祈り:神様、私の視点をあなたに定めることができますように。主が喜ばれるかどうかが、私の判断、決断の基準になりますように。今岐路に立たされている___さんが、祈りつつ主のみこころを受け取れるよう、格別の励ましを注いでください。アーメン

ルカ19

「人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです。」ルカ19:10 ザアカイについての記事はわずか10節足らずです。 にもかかわらず、しばしばメッセージで語られ、子どもでもおとなでも印象に残るキリストの出会いについての話です。 情景が浮かびます。 背の低いザアカイ、金持ちだったけれども嫌われており、苦肉の策で木に登った彼の姿は、私たちに共感を与えます。 考えてみれば、誰しもザアカイのような側面があります。 劣等感、不全感、それを埋めようと求めていること、キリストに知られているという喜び、悔い改め、すべてが新しくされたこと、心の一新が行動にも表れること。 「キリストは、失われた私を捜して救うために来られた」という恵みを受け取りましょう。 祈り:神様、私のためにイエス・キリストが地上に来られ、十字架で罪をあがなってくださったことに感謝します。キリストの霊である聖霊によって、今日も導かれていkたいです。アーメン

ルカ18

「あなたがたに言いますが、義と認められて家に帰ったのは、あのパリサイ人ではなく、この人です。だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるのです。」ルカ18:14 パリサイ人よりも、胸をたたいて祈っていた取税人が義と認められた、というたとえ話です。 パリサイ人の行いは一見立派でした。ところが、心の中は高ぶっており、自分の義を行いで証明しようとしました。 一方取税人は、自分の心の醜さと罪深さを自覚し、悔い改めと赦しを乞う祈りをしました。 つい他人にいらいらしたり、自分のやり方が正しいと思いがちな時には、肉に任せて自分を高くしている時かもしれません。 「自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされる」という聖書の原則を、心にとめておきたいと思います。 祈り:神様、他人をさばかず、へりくだる心を与えてください。あなたの恵みで赦された罪人であることを思い返し、感謝とあわれみの心をいただきます。アーメン

ルカ17

「同じようにあなたがたも、自分に命じられたことをすべて行ったら、『私たちは取るに足りないしもべです。なすべきことをしただけです』と言いなさい。」ルカ17:10 これだけやったのに報われないなあ、と感じることがありますか。 仕事では、要領のよい同僚がどんどん出世し、後輩の給料が上がっていくのに、自分は取り残されているように思えることがあります。 一生懸命子育てをしても、子どもが反抗してしまうこともあります。 家事も、やってもやっても終わりがありません。 もしかすると、教会の奉仕や信仰生活までも、同じような気持ちになることがあるかもしれません。 しかし、神様に対してするのは喜びが動機であり、恵みへの応答が原動力です。 「私たちは取るに足りないしもべです。なすべきことをしただけです」と言えるでしょうか。 もし言えないなら、肉でやり過ぎているか、人の評価を求めているかかもしれません。 心を探り、主が何を望まれるかを共に吟味しましょう。 祈り:神様、一生懸命伝道した___さんの反応がよくなかったり、奉仕が思うように喜ばれなかったりすると落胆してしまいます。あなたの前に、心から仕えるしもべとなりたいです。私の心を探ってください。アーメン

ルカ16

「イエスは彼らに言われた。『あなたがたは、人々の前で自分を正しいとするが、神はあなたがたの心をご存じです。人々の間で尊ばれるものは、神の前では忌み嫌われるものなのです。』」ルカ16:15 「金銭を好むパリサイ人たちは、これらすべてを聞いて、イエスをあざ笑っていた」 (14 節)と書かれています。 当時の教師たちがお金の多少で動いていたのは、神のみこころからずれていることですね。 今も多くの「宗教」でお金目当てと思われるものがあります。 もちろん、お金は日常生活に欠かせないものです。 しかしそれ以上に「主は心を見られる」ということを、私たちイエス・キリストを信じる者は覚えていたいと思います。 たとえつましい生活でも、心を寄せ合い暮らす人々は、周囲にとっての光であり励ましです。 くよくよしないで、与えられているものを感謝し満たしを信じて歩みましょう。 祈り:神様、生活ぶりを比較して落ち込むことがありませんように。自ら働き、主が備えてくださるものを感謝して受け取り、祈りつつ知恵をもって用いていくことの喜びと恵みを一人一人が体験できますように。アーメン

ルカ15

「 だが、おまえの弟は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのは当然ではないか。」ルカ15:32 放蕩息子の弟は、悔い改める罪人のたとえです。 兄息子はいらいらし、不満を父にぶつけました。 しかし、弟息子の悔い改めは、迷っていた1匹の羊のように、あるいはなくした1枚の硬貨のように、天の国では喜びでした。 兄息子のような態度を取りがちな私たちです。 しかし、自分が弟息子だったことと、今や御国の相続人とされていることを思うと、不満の前に感謝を表す者であるようにと気づかされます。 これだけのたとえを用いて、神様は忍耐強く教えてくださっているのです。 祈り:神様、私は感謝の足りない者です。ひがみや妬みの心を造り変えてください。自分の置かれている恵みを感謝し、新しく永遠のいのちを持つ人に寄り添い、ともに喜ぶ者になれますように。アーメン

ルカ14

「 あなたがたのうちに、塔を建てようとするとき、まず座って、完成させるのに十分な金があるかどうか、費用を計算しない人がいるでしょうか。」ルカ14:28 イエス様は、計画や予算を立てることの大切さを否定してはおられません。 私たちの生活や事業が、計画されて持ち運ばれるのは大切なことです。 ただ、ここではさらに一歩進んだことを言われました。 それは主の弟子として従うことについてです。 「 そういうわけで、自分の財産すべてを捨てなければ、あなたがたはだれも、わたしの弟子になることはできません」(33節) と言われました。 自分の財産、つまり人生をかける覚悟ができているのか、と問われたのです。 同じ問いが私たちに投げかけられた時、どのように答えますか。 祈り:神様、キリストの弟子になるための心構えを教えてくださって感謝します。 私に人生の優先順位を正しくつけることを教えてください。アーメン

ルカ13

「それはからし種に似ています。ある人がそれを取って自分の庭に蒔くと、生長して木になり、空の鳥が枝に巣を作りました。」ルカ13:19 神の国は、はじめはからし種のように小さくても、だんだんと成長して大木のようになります。 パン種(イースト)も、パン全体を膨らませます。 イエス様のたとえはわかりやすいですね。 そして、私たちに神の国のイメージを与えてくれます。 しかも、成長させてくださるのは主ご自身です。 私たちにゆだねられているのは、神の国の福音を分かち合うこと、そして神の前に純粋な信仰を持つことです。 祈り:神様、神の国が大きくなる約束を信じます。純粋な信仰を与えてください。今信仰がぐらぐらしそうな人がおられたら、主がどれほど真実で信頼できる方であるかを実感できますように。アーメン

ルカ12

「あなたがたの宝のあるところ、そこにあなたがたの心もあるのです。」ルカ12:34 教会の月間会計報告の横に、この聖句が書かれています。 「宝」とは自分にとって価値のあるもの、そこに私たちの「心」があるということです。 「自分のために、天に、すり切れない財布を作り、尽きることのない宝を積みなさい。天では盗人が近寄ることも、虫が食い荒らすこともありません」(33節)とも イエス様は言われました。 自分のためだけにためこもうとしていませんか。ささげる姿勢、天に宝を積む人は、心もそこにあるのです。 祈り:神様、私の心を探ってください。どこに宝があるのか、自分自身の心を見張ることができますように。アーメン

ルカ11

「ですから、自分のうちの光が闇にならないように気をつけなさい。」ルカ11:35 肉体の目のことではなく、心の目が健やかであるようにとイエス様は教えられました。 外側をいくら立派に装っていても、内側が汚れた思いや貪欲でいっぱいになっているなら、神の望まれるライフスタイルではないというのです(39節)。 せっかく心に救いを得たのなら、その感謝と感激がしぼまないうちに、応答を実践しく私たちでありたいと思います。 イエス様はひとつの例として、貧しい人たちへの「施し」、つまり持っているものを分け与えることを挙げられました。 今日の私たちは、どのように分け与えることができるでしょうか。 直接与えることはもちろん、献金を送ること、祈りに覚えること、時間を使うこと、話を聞くことなど、私たちの与えられているものを分け与えることができます。 祈り:神様、。あなたの恵みに応答し、それを実践するものとさせてください。律法や規則でなく、自発的な思いで気前よく与え、共に喜ぶ者とならせてください。アーメン

ルカ10

「その後、主は別に七十二人を指名して、ご自分が行くつもりのすべての町や場所に、先に二人ずつ遣わされた。」ルカ10:1 ルカ10章を改めて読むと、何と様々な記事がぎっしり詰まった章だろうか、と驚きます。 「収穫は多いが、働き手が少ない」と人々を遣わされたこと、平安の子、黄金律、良いサマリア人のたとえ、マリアとマルタ姉妹・・・。 その1節には、主が行かれる予定の場所に、「先に」72人の弟子を使わしたとあります。 イエス様が先頭に立ってすべてなさるのではなく、私たちを任命し、主の権威を与えて派遣してくださるのです。主が責任を取ってくださり、私たちは主の手足として遣わされていきます。 ある人は大きな町へ、別の人は寒村へ。 でもどちらも、主が同じように召してくださいました。 人同士の比較は意味がありません。 召してくださった主がよしと言われたら、それで良いのです。 祈り:神様、目立つもの、華やかな働きなどに目がとまり、自分の奉仕が小さいものに思えます。しかし、あなたの召しに従っているならそれが一番確かな道です。へこまず、たゆまず、今日も歩ませてください。アーメン

ルカ9

「十二人は出て行って、村から村へと巡りながら、いたるところで福音を宣べ伝え、癒やしを行った。」ルカ9:6 「旅には何も持って行かないようにしなさい。杖も袋もパンも金もです。また下着も、それぞれ二枚持ってはいけません。」ルカ9:3 遣わされた場所で弟子たちは福音を宣べ伝え、癒やしを行いました。 その旅には、必要以外のものを持っていかないようにとイエス様は諭されました。 その理由には ・神以外の持ち物に頼ることがないように。 ・身軽に導かれた場所に移動できるように。 ・もてなす側の人の信仰が、もてなしによって成長するため。 など、いろいろな側面があります。 私たちも、様々なしがらみや不要なものに囲まれて生活していることはないでしょおうか。 それらが幸せよりも不安と執着を呼んでいるなら、ライフスタイルを見直す時期かもしれません。 神の国と神の義を第一にするとき、神が養ってくださるという信仰をもって歩めますように。 祈り:神様、私の信仰を強めてください。あなたに信頼し、他のものに執着する心から守ってください。アーメン

ルカ8

「ですから、聞き方に注意しなさい。というのは、持っている人はさらに与えられ、持っていない人は、持っていると思っているものまで取り上げられるからです。」ルカ8:18 取り上げられてしまう人はかわいそうに聞こえますが、これはイエス様の恵みに満ちたことばだといえます。 注意して聞く、というのは、ただ自分のためだけに聞くのでなく、これから福音を宣べ伝える人々のためにも聞くということです。 そして、正しく理解しなかった真理は失われてしまうが、実践される真理は増え広がっていくことも教えられています。 私たちは聖書のこと、イエス・キリストのことを聞いています。自分のためだけでなく、家族をはじめ周囲の人々に分かち合えるようになることを、主は望んでおられます。 分かち合う時、福音の恵みがさらに自分の中にも周囲にも増え広がり、恵みが何倍にもなることを体験します。 祈り:神様、あなたの愛と恵みについて聞いたことを分かち合えるよう、助け導いてください。この地域に主の福音と恵みがあふれ流れていきますように。アーメン

ルカ7

「ですから、私自身があなた様のもとに伺うのも、ふさわしいとは思いませんでした。ただ、おことばを下さい。そうして私のしもべを癒やしてください。」ルカ7:7 もうずいぶん前のことですが、メイドさんのいるお宅に伺ったことがあります。 柔らかい物腰で話される主人でしたが、メイドさんには端的にすべきことを命じておられました。 メイドさんを見下すのではなく、権威を持って言葉を発しておられたのでした。 百人隊長も権威についてよく理解していました。そして、イエス様のことばにはたしかな権威と効力があることを信じていました。 それがイエス様を驚かせるほどの彼の信仰でした。 私たちも、イエス様のことばには権威と効力があることを、百人隊長のように信じて歩みましょう。 祈り:天の神様、みことばには力があること、そのことばの基であるキリストこそ私たちの主であることを認めます。今日も信仰によって歩ませてください。アーメン

ルカ6

「さばいてはいけません。そうすれば、あなたがたもさばかれません。人を不義に定めてはいけません。そうすれば、あなたがたも不義に定められません。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦されます。」ルカ6:37 イエス様は、さばかないことと赦すこととを勧められました。 そして「父があわれみ深いように、あわれみ深くなりなさい」とも。 それは他者のためではなく、自分のためであると教えてくださったのです。 さらに、気前よく与えることも祝福になると言われました。 昨日はシンガポールチームが訪問してくださいました。 彼らの時間や資源のささげ方にはっとさせられます。 彼らが豊かで満ち足りているように思えるのは、神様がすべてを知って報いておられるからなのだと学ばされます。ささげ方を学ぶ良い機会でもありました。 祈り:神様、あなたが私に委ねてくださった資源を賢く管理させてください。つまらない心でさばいたりねたんだりすることから、心を自由にし、天国人としての歩みに導いてください。アーメン

ルカ5

「彼らは舟を陸に着けると、すべてを捨ててイエスに従った。」ルカ5:11 「するとレビは、すべてを捨てて立ち上がり、イエスに従った。」ルカ5:28 シモン(ぺテロ)、ヤコブ、ヨハネ、そしてレビ(マタイ)が弟子となった経緯が記されています。 「すべてを捨てて」と繰り返されています。 イエスの弟子となるために、彼らは収入を得る手立てを捨てました。 また、自分の住み慣れた快適な場所(コンフォートゾーン)から一歩踏み出しました。 アーティストやスポーツ選手のファンになったことがありますか? 熱狂的なファンがどこまでもついて行く姿を思い浮かべてください。 イエス様に従うのは、それ以上の理由と意味があります。 永遠のいのちを与え、福音をもたらす方だからです。 古ぼけた過去の話ではなく、今日の私たちに生きて関わってくださる方です。 祈り:神様、弟子たちがすべてを捨てて従うほどの福音の価値を、私もかみしめ共有したいです。自分だけの快適な生活を求めるのではなく、主に従う日々を味わわせてください。アーメン

ルカ4

「さて、イエスは聖霊に満ちてヨルダンから帰られた。そして御霊によって荒野に導かれ、四十日間、悪魔の試みを受けられた。その間イエスは何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。」ルカ4:1〜2 ルカは福音書でも使徒の働きでも「聖霊に満ちて」という表現を多用しています(使徒の働きでは57回も出てくるそうです:NIV Study Bible)。 聖霊に満たされても荒野に導かれてしまうのか、と驚くかもしれません。いつも幸せで、試練などないのでは、と。 それはクリスチャンになれば試練がなくなるのでは、というのと同じ問いだと思います。 信仰を持っても困難がなくなるのではありません。ただ、その勝利が約束されます。 神様は荒野で私たちを練りきよめ、私たちの信仰を育ててくださるのです。 その時は辛く思えても、後に神と人とのために益とされ、勝利へと導かれます。 祈り:天の神様、私たちは困難にあいたくないと考えます。しかしあなたが私たちを成長させ、全てを益としてくださるという約束に信頼させてください。 「これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を得るためです。世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。(ヨハネ16:33)」 アーメン

ルカ3

「イエスは、働きを始められたとき、およそ三十歳で、ヨセフの子と考えられていた。ヨセフはエリの子で、さかのぼると、…」ルカ3:23 ルカは、イエスが処女降誕されたことを一貫して伝えようとしています。 「ヨセフの子と考えられていた」というのも、血肉としては異なるのだと示唆しています。 また系図についても、ダビデからはマリア側を示しているという見方ができます。 当時は母方について系図が述べられることは滅多にありませんでした。しかしルカは、これを通しても処女降誕を伝えようとしたのでしょう。 医者ルカがここまで調べ、主張しているなら、神のわざをそのまま信じることができると思いませんか。 祈り;神様、あなたの偉大で及びもつかないわざを感謝します。私の不信仰を赦してください。あなたに頼ります。なかなか信じられないという(   )さんの目を開いてください。アーメン

ルカ2

「それからイエスは一緒に下って行き、ナザレに帰って両親に仕えられた。母はこれらのことをみな、心に留めておいた。」ルカ2:51 ルカはイエス様の少年時代を記録しています。 祭りの期間に迷子になった、と思われましたが、エルサレムで教師たちとディスカッションしておられました。 心配するという親としての立場と、救い主をあがめる立場にマリアは立っていました。 そして 「母はこれらのことをみな、心に留めておいた」 のでした。 マリアに託されたユニークな使命を、彼女は生ききりました。 同じように、私たちにも託されたユニークな使命があります。それを生ききることを、主は喜んでくださいます。 祈り:神様、あなたがデザインしてくださった私の人生を生きていきます。ひとりでも、目立たなくても、日々主とともに歩めますように。アーメン

ルカ1

「二人とも神の前に正しい人で、主のすべての命令と掟を落度なく行っていた。」ルカ1:6 ザカリヤもエリサベツも、信仰深く、神の前に誠実に生きていました。 しかし、願っていた子どもは与えられませんでした。そしてすでに年をとっていました(7節)。 「正しい人がなぜ苦しみにあうのか?」は信仰者がぶつかる問いです。 そして聖書には、ザカリヤとエリサベツの他、ヨブや創世記のヨセフなど、正しい人が苦しみにあう例が出てきます。 「なぜか?」に即答できない場合もあります。 それでも確かなのは、神のご計画のうちにある、ということです。 ザカリヤとエリサベツの試練は、イエス・キリストの来臨の道備えをする人物を生み出すことになりました。また、神の栄光が現れる機会を人々の前に示しました。 私たちの苦難も、神のよいご計画のうちにあることを信じましょう。 祈り:神様、あなたのよいご計画を信じたいです。今苦難にあっている人たちを覚えて祈ります。主にある解決に望みを置く人に、豊かに主のご栄光を表してください。アーメン

マルコ16

「青年は言った。『驚くことはありません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められていた場所です。』」マルコ16:6 人に会いに行って「ここにはおられません」と言われるとがっかりします。 ところが、十字架で死なれたイエス様が「ここにはおられません」とは、嬉しい驚きであり、言葉では言い表せない喜びです。 ありえないことが起こった。それが私と関係あるーー その感動を味わったでしょうか。 味わっているなら、イエス様から離れようとは思いません。 人との関係でなく、主との関係に目を向けてみましょう。 祈り:神様、イエス・キリストの復活の恵みを日々思い巡らすことができますように。キリストにより根ざす思いを、ひとりひとりの心に与えてください。アーメン

マルコ15

「アリマタヤ出身のヨセフは、勇気を出してピラトのところに行き、イエスのからだの下げ渡しを願い出た。ヨセフは有力な議員で、自らも神の国を待ち望んでいた。」マルコ15:43 有力者の中にも、イエスを神の子と信じて信仰に入った人がいました。 有力者ならピラトと交渉するのもたやすかったというわけではありません。 もしパリサイ人や律法学者の反発をかえば、追放や迫害は避けられなかったでしょう。 「勇気を出して」と一歩踏み出したヨセフの信仰は、私たちにも主に従う者の姿勢を教えてくれます。 職場で、学校で、地域で、少数派だからと萎縮せず、主への従順と勇気が周囲の祝福になることを信じます。 祈り:神様、福音と神の国の素晴らしさをもっとわからせてください、アリマタヤのヨセフのように、置かれた場所で信仰に根差した一歩を踏み出すことができますように。アーメン

マルコ14

「そしてこう言われた。『アバ、父よ、あなたは何でもおできになります。どうか、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように。』」マルコ14:36 福音書を読むと、受難週とイースターを何度も経験するような思いになります。 マルコでも、イエス様が十字架を前にゲッセマネで祈られる箇所になりました。 35節には「それからイエスは少し進んで行って、地面にひれ伏し、できることなら、この時が自分から過ぎ去るようにと祈られた」とあります。 神のひとり子である方が「できればやめてください」と願い、しかも聞き届けられなかったというのは示唆に富んでいます。 なぜなら、そのイエスの願いを越えた神のみこころが実現することで、もっともっと素晴らしい救いの道が完成したからです。 私たちも祈りがきかれないことがあります。それを「神などいない」といじけるか、神のもっともっと素晴らしい計画を見ることになるのかは、私たちの選択です。 祈り:神様、祈りがきかれない時にも信頼する心を与えてください。「わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように」と祈られたイエス様にならいたいです。今日、試練の中にある人に、忍耐と新しい力を与えてください。アーメン

マルコ13

「気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたは知らないからです。」マルコ13:33 もしも今日、イエス様が再び来られるとしたらどうしますか。 「あの人にも話さなきゃ」とあわてますか。 「ベストを尽くして福音を分かち合った」と安心しますか。 いつがその時かは、神ご自身だけが知っておられます。 しかし、その時が近なら、どう日々を過ごすか…それこそが私たちの生き方として示されているのではないかと思います。 祈り:神様、あなたが変わらないお方であることに感謝します。不安の中で生きている人々に、あなたの福音からくる平安を伝えることができますように。 「天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません。(31節)」 アーメン

マルコ12

「イエスは弟子たちを呼んで言われた。『まことに、あなたがたに言います。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れている人々の中で、だれよりも多くを投げ入れました。』」マルコ12:43 イエス様はたくさんささげる金持ちの献金より、貧しいやもめがささげた銅貨2枚の重みをよく知っておられました。そしてやもめのささげ方を評価されました。 それは、献金が額でなく心を表すものだからです。 神様を愛し、与えられているものに感謝してささげる献金は、その人の信仰の表れです。 この点がカルト宗教との大きな違いです。 ある人が、自分に必要があるからこそ多くささげてみた、とあかししてくれました。 神の国を第一にするとき、すべてが備えられるということを信じていて、本当にその通りになりました。 私たちは今日、どのようなささげ方をしているでしょうか。 祈り:神様、あなたの満たしを期待します。経済的なことでやみくもに焦ることなく、静まって主の満たしを祈り知恵深く行動できるよう、また惜しまず大胆にささげられるよう、私を整えてください。アーメン

マルコ11

「そして、前を行く人たちも、後に続く人たちも叫んだ。 『ホサナ。 祝福あれ、主の御名によって来られる方に。』」マルコ11:9 エルサレムの町にイエス様が入られた時、人々は「ホサナ。祝福あれ、主の御名によって来られる方に。」と歓迎しました。 しかし1週間もたたないうちに、十字架につけてしまいます。 人の心はなんと変わりやすいことでしょう。 一方、聖書は神が私たちをまず愛してくださったと語ります。 そしてその愛は変わることがありません。 私たちが何をしてきたとしても、神は見捨てることをなさいません。 悔い改める人を神は赦してくださいます。 この恵みと赦しの大きさをかみしめましょう。 祈り:神様、イエス・キリストと出会ってからも、時に自分勝手な思いに陥り、失敗をしてしまう者です。赦してください。悔い改める心、砕かれた柔らかい心を与えてください。アーメン

マルコ10

「そこでイエスは言われた。『さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救いました。』すると、すぐに彼は見えるようになり、道を進むイエスについて行った。」マルコ10:52 イエス様は、目の見えない人に「わたしに何をしてほしいのですか」と言われました。すると、その人は「先生、目が見えるようにしてください。」と答えたのでした(51節)。 そのはっきりした答えは、彼の信仰から来るものだと言えます。 ・彼は、願うべき根源の必要を知っていました。お金がほしいのでも、みじめな思いでもなく、目の癒やしだったのです。 ・彼は、イエス様には癒す力があると信じて、ストレートに願いました。 少し前の部分を読むと、彼が繰り返し「ダビデの子よ。私をあわれんでください」と叫び続けたことがわかります。 すでにイエス様のところに来る時、「上着を脱ぎ捨て、躍り上がって」やって来ました(50節)。 ・イエス様の元に行くことを第一に求めました。 彼の姿勢は、私たちの信仰のあり方によいお手本を示しています。 祈り:神様、この記事に出てくる人のように、主を求め主にすがる者とさせてください。母の日に、私たちに肉の母、霊の母を与えてくださったことに感謝します。アーメン

マルコ9

「イエスは腰を下ろすと、十二人を呼んで言われた。『だれでも先頭に立ちたいと思う者は、皆の後になり、皆に仕える者になりなさい。』」マルコ9:35 あるお母さんたちが、校長先生をほめていました。「あの校長先生は、毎朝校門で子どもたちを迎えてくれる。その後、ほうきで掃除をしている。いい先生だわ」と。 仕える姿が好感だけでなく、信頼を生んでいるのだと思いました。 校長先生どころか、神であるイエス・キリストが同じようにされた、と聞いたら驚くことでしょう。 しかし、イエス様は弟子の足を洗ったり、食物に気を配ったり、子どもたちを抱いたりされました。 「サーバント・リーダーシップ」の見本を見せてくださいました。 祈り:神様、仕える者の姿をイエス様が示してくださり感謝します。私も、小さな仕事でも心をこめてできるよう、謙遜にさせてください。アーメン

マルコ8

「すると、パリサイ人たちがやって来てイエスと議論を始めた。彼らは天からのしるしを求め、イエスを試みようとしたのである。」マルコ8:11 イエス様は、パリサイ人との対立を避けることはなさいませんでした。 むしろ、彼らの矛盾や先入観、人の規則でがんじがらめになっている状態を鋭く指摘されました。 彼らがむやみに天からのしるしを求めたのも、神の栄光ではなく、イエスを陥れようとしたからでした。 今日も「神を見たら信じる」とか「この願いが奇跡的にかなったら信じる」という人がいます。 しかし、その動機はどこにあるでしょうか。 そのように問いかける人が、見えなくても確かなものがあることに気づけますように。 祈り: 神様、理詰めであなたをわかろうとするのではなく、信仰で見ることができますように。イエス・キリストの救いを疑う人に、聖霊と主の愛にふれられる経験が与えられますように。アーメン

マルコ7

「それなのに、あなたがたは、『もし人が、父または母に向かって、私からあなたに差し上げるはずの物は、コルバン(すなわち、ささげ物)です、と言うならーー』と言って、その人が、父または母のために、何もしないようにさせています。」マルコ7:11~12 「コルバンって、何だろう」と想像したものでした。レビ記の「ささげ物」のヘブル語発音を現したものですが、当時は「パン」の一種か何かのように思えたのですね。 これは、パリサイ人や律法学者たちが父や母へのケアをないがしろにしており、「コルバンになりました」と言い訳をしていたことを戒めたものです。 イエス・キリストを救い主だと信じることは、決して親不孝ではありません。 むしろ、親や家族をより愛し、キリストの愛を実践することができるようになる(はず)です。 言い訳しがちな私たちですが、もうすぐ母の日。 母や父、家族に、今年はどのように愛を表すことができるでしょうか。 祈り:神様、あなたの素晴らしい愛を受け取り、流し出すことができますように。私たちの肉の父母、そして霊の父母に感謝します。アーメン

マルコ6

「するとイエスは彼らに言われた。『さあ、あなたがただけで、寂しいところへ行って、しばらく休みなさい。』出入りする人が多くて、食事をとる時間さえなかったからである。」マルコ6:21 6章も目まぐるしいほどに、イエス様の公生涯の歩みが記述されています。 奇跡の数々、親類のバプテスマのヨハネの殉教の経緯、十二弟子の派遣、人々とのやりとり...。 その多忙な中でも、イエス様は静まりの時、ソリチュードを持っておられました。 そして弟子たちにも、しばらく休むようにと配慮してくださいました。 連休中、少しは休めたでしょうか。通常と変わらず出勤だった人もいるでしょう。つい動きすぎて、かえって疲れている人もいるかもしれません。 いつ、静まる時を持っていますか。イエス様は招いておられます。 たとえ多忙の中にあってもその時が持てることを、ご自身で示してくださいました。 祈り:神様、あなたの与えてくださる静まりの時を感謝します。日頃雑事に追われては聞くことのできない主の声、見ることのできない大きな絵を、主と共に過ごし見聞きすることができますように。アーメン

マルコ5

「すると、すぐに血の源が乾いて、病気が癒やされたことをからだに感じた。」マルコ5:29 「すると、少女はすぐに起き上がり、歩き始めた。彼女は十二歳であった。それを見るや、人々は口もきけないほどに驚いた。」マルコ5:42 マルコの福音書にはしばしば「すぐに」ということば出てきます。 5章でも、イエス様の癒やしが直ちに起こったことを示しています。 ただし、それまでの経緯は長いものでした。 女性は12年長血に苦しんでいました。 少女は一度死んでしまいました。 主の時が来たとき「すぐに」癒やしが起こったのでした。 それは彼らの願いよりも随分後のことだったでしょう。 主のご計画は、私たちの思いと違うタイミングで起こることが多くあります。 それまで、最善をなさる主に信頼しつつ待つ者でありますように。 祈り:神様、あなたの時を期待し信頼することができるよう、必要な忍耐と力を与えてください。今、祈りがなかなか聞かれないと感じている人に励ましを与えてください。私も________のことに、主の時を待ち望みます。アーメン

マルコ4

「イエスはまた彼らに言われた。『明かりを持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためでしょうか。燭台の上に置くためではありませんか。』」マルコ4:21 福音は、ちょうど明かりのようです。 その福音の光を頂いた私たちがすることは、明かりを燭台の上に置くことです。 暗闇を光が照らすためです。 升の下や寝台の下に隠しておくためではありません。 福音の光を、家具の下や部屋の隅に隠していないでしょうか。 光はよく照らすところにおいても、むやみに減ることがありません。 福音も分かち合えば分かちあうほど、さらに豊かに輝きます。 昨日まかれたトラクトが、必要な方の手元で輝きますように。 祈り:神様、あなたの福音の光をまく働きをゆだねてくださり、感謝します。種を成長させてくださるのはあなたですから、結果に左右されず種をまき続けることができるよう、導いてください。アーメン

マルコ3

「イエスが多くの人を癒やされたので、病気に悩む人たちがみな、イエスにさわろうとして、みもとに押し寄せて来たのである。」マルコ3: 10 連休中で、空港や観光地は大勢の人でいっぱいです。 その様子は、当時の人々がイエス様のところに押し寄せた光景と重なります。 「イエスは、群衆が押し寄せて来ないように、ご自分のために小舟を用意しておくよう、弟子たちに言われた」(9節)とあるほどです。 直接的には病気の癒やしが動機でしたが、そこに福音があることも人々は見聞きしました。 連休中の礼拝はどうでしょうか。外出していても、オンラインはもちろん、現地の教会を訪ねてクリスチャンの励ましを持つこともできます。 やがてリバイバルが起こりイエス・キリストを求めて教会に人が押し寄せる、マルコ3章の光景を見る日を期待します。 祈り:神様、キリストの福音がどれほど価値があり、永遠の喜びと楽しみをもたらすものか、まず私自身がよくわかりますように。リバイバルに備えて一人一人の霊性を整えてください。アーメン

マルコ2

「まただれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れたりはしません。そんなことをすれば、ぶどう酒は皮袋を裂き、ぶどう酒も皮袋もだめになります。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるものです。」マルコ2:22 私自身はアルコールを飲みませんが、年数の経つワインの方が価値があると聞いたことがあります。 それで、一瞬混乱して、古いぶどう酒の入る古い皮袋の方が価値があるのか、と思ってしまったことがありました。 そうではありません。 新しいぶどう酒は発酵して膨らむので、伸縮性のある新しい皮袋に入れなければならないということを、イエス様はここで言われました。 新しいぶどう酒とは、新約時代であり、新しいイエス・キリストの契約に基づく福音の時代です。 それを古い律法の袋に入れるではない、ということです。 私たちの心も、先入観を持った古い皮袋ではなく、新しい皮袋として、聖霊のダイナミックな働きを受け入れ、それに従う柔らかさを持てますように。 祈り:神様、私が新しい福音の契約に生きていることに感謝します。古い先入観や、不要な価値観から自由になれますように。主にある自由を味わいます。アーメン

マルコ1

「こうして、イエスの評判はすぐに、ガリラヤ周辺の全域、いたるところに広まった。」マルコ1:28 マルコの福音書は、主に外国人クリスチャンに宛てて書かれました。 イエス様の行為、何をなさったかにより焦点が当てられています。 そして「すぐに」という表現があちこちに出てきます。 1章を読むだけでも、マタイの福音書で何章にもわたって書かれていたことがコンパクトに、総集編のようにまとめられています。 学生時代、聖書をはじめて読む人のために昼休み聖書研究会が持たれていました。 そこでは、このマルコが用いられていました。 読書が苦手、聖書は難しそうという人にも、このマルコの福音書は読みやすいと言われています。 イエス様の姿がいきいきと表現されているので、楽しみに読みましょう! 祈り:神様、初めて聖書を読む時も繰り返し読む時も、知性だけでなく聖霊に頼りながら読めるよう、助けてください。マルコの福音書を通して、さらにイエス・キリストのことがよくわかりますように。アーメン

マタイ28

「ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」マタイ28:19~20 マタイの福音書の中で、もっとも印象に残るみことばの一つがこの「大宣教命令」です。 JEC聖会のメッセージでは、種にはいのちがあり、それが成長するのは神の領域であること、しかし種をまくのは私たちにゆだねられたことだと学びました。 救いに導き、信仰を成長させてくださるのは神様です。 すぐに実が見えなくても、種をまき続ける農夫のようであれば、神が思いがけない形で報いてくださいます。 祈り:神様、あなたのおことばに従って種をまきたいです。私にあった伝道やあかしの仕方に導いてください。あなたが成長させてくださる方であることに期待します。アーメン

マタイ27

「そのとき、預言者エレミヤを通して語られたことが成就した。『彼らは銀貨三十枚を取った。イスラエルの子らに値積もりされた人の価である』」マタイ27:9 エレミヤ19:11、32:6-9、ゼカリヤ11:12-13がこの預言の引用箇所と思われます。 陶器師の畑を買い取ったこと、それが銀貨30枚だったことが語られています。 今日の私たちが旧約聖書から一部をつまみ食いのように拾い上げ、こじつけて解釈することは間違いです。 しかし、福音書を書いたマタイや聖書の記者たちは、神の霊感に導かれました。 そして、全体を読んでもそれは矛盾のないように組み合わさっています。 神の知恵と素晴らしさは人間の知恵を越えています。 細胞の中のナノ単位にも驚くべき世界が広がっているそうです。これもまた、神の知恵です。iPS細胞の山中伸弥教授にも「神がいると思えてしまう」と言わせるほどです(NHKスペシャル 人体3 第一集 命の源 細胞内ワンダーランド 2025.4.27放送)  祈り:神様、あなたの知恵、あなたのみわざは恐ろしいほどに素晴らしく、想像を絶するものです。過去、現在、未来にわたってあなたが全世界を支配しご計画を持っておられることに感謝します。その前にひれ伏します。アーメン

マタイ26

「これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です。」マタイ26:28 聖さん式をするとき、いつも読まれる箇所です。 耳慣れた聖句ですが、どのくらい味わっているでしょうか。 契約の血は、イエス・キリストの生身に釘が打たれ、流された血によるものでした。 その象徴として、信じる者はぶどう液を頂きます。 次回の聖さん式では、ぶどう液をいつもに増して見つめ、ゆっくりと味わい、主の支払ってくださった罪の代価に思いをはせてみませんか。 祈り:神様、キリストの契約の血が流され、私たちの罪の代価が支払われ赦されたことを感謝します。いつも思い起こし恵みを忘れることがないよう助けてください。アーメン

マタイ25

「ですから、目を覚ましていなさい。その日、その時をあなたがたは知らないのですから。」マタイ25:13 「天の御国は、それぞれともしびを持って花婿を迎えに出る、十人の娘にたとえることができます」(1節)とたとえが始まります。 5人は油をもっていませんでしたが、あとの5人はもっていました。 用意ができていること、備えができていることを「目を覚まして」と表現しています。 イエス様が今日来られるとしたら、用意はできていますか? それともあわてふためくでしょうか。 油の用意をしていた娘のようなら、平安にその日を迎えることができます。 祈り:神様、目を覚まして備えていられるよう、平安と主への信頼を与えてください。いつかはわからなくても、その日が必ずやってくると約束されていることに感謝します。落ち着いて生活できるよう、連休中に新年度の歩みを振り返り、あなたと過ごす時間をもっととりたいです。アーメン

マタイ24

「人の子は大きなラッパの響きとともに御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで四方から、人の子が選んだ者たちを集めます。」マタイ24:31 イエス様が終末について話されます。惑わすものが多く出てくるけれども、心揺るがせないように。そして、イエス様が再び来られます。 黙示録でも似た光景が描写されています。 幼いころ、この部分の描写が怖くて読むのがきらいでした。 でも今は大丈夫です。 恐ろしそうに思えますが、イエス・キリストを救い主と信じる人にとっては、こわがる必要はないとわかったからです。 その日は究極の救いの日、完成の日です。 滅ぼされるのではなく、涙をぬぐわれ主と共に過ごす素晴らしい日です。 祈り:神様、イエス・キリストを信じる者にとっては、主が再び来られる日は喜びと賛美の日です。その日まで期待しつつ歩ませてください。アーメン

マタイ23

「わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは白く塗った墓のようなものだ。外側は美しく見えても、内側は死人の骨やあらゆる汚れでいっぱいだ。」マタイ23:27 イエス様の厳しいおことばにはっとします。 偽善を行っていた人たちに対して、外側は美しくても内側は汚い「白く塗った墓のようなものだ」とおっしゃいました。 イメージが浮かびますね。 人の外側にあるものより内側が大切だ、と聖書は語ります。 もし心や考えに汚れたものが詰まりかけているなら、掃除が必要です。 悪魔が悪い思いや考えを持ってくるなら、神の武具(エペソ6章)で装備し、戦いましょう。 勝利はすでに主のものですから、私たちはその主の力に信頼するのみです。 祈り:神様、私たちの内側を照らしてください。喜ばれないものがあるなら取り除き、霊的な攻撃から守り、あなたの喜ばれることを思い実行するものとならせてください。今日のユース運動会が事故や怪我から守られ、よい交流の時となりますように。アーメン

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