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使徒20

「あなたがたは自分自身と群れの全体に気を配りなさい。神がご自分の血をもって買い取られた神の教会を牧させるために、聖霊はあなたがたを群れの監督にお立てになったのです。」使徒20:28 エペソ教会の長老たちを集めて、パウロは別れの言葉を残しました。 今でいう牧師や役員たちに当たる彼らに、教会で仕えるアドバイスをしています。 「自分自身と群れの全体」とあります。 教会全体に気を配るのはもちろんですが、「自分自身」をよく見張ることも大切だとわかります。 自分の心を治めること、自身の霊肉の健康管理も大切な務めです。 多くの働き人やクリスチャンリーダーが、他者のために身も心も使い果たし、疲れています。時に休息を取り、燃え尽きないように主とともに過ごし安息することも、大切な務めだと学びました。 祈り:神様、主のもとに安息することを私に教えてください。今燃え付きそうな牧師や教会リーダーに、主の励ましと休息、そして新たな聖霊の力が注がれますように。アーメン

使徒19

「そのころ、この道のことで、大変な騒ぎが起こった。」使徒19:23 アジア地方のほとんどの人が福音を聞きました。 いやしや奇跡も起こり、素晴らしい広がりでした。 しかし同時に、反対派の陰謀や騒ぎも起こりました。 町中を扇動し、パウロと福音が自分たちの生活と町を破壊する、とまで言いました。 エペソの町とアルテミス神殿にまつわるしがらみは、まるで日本各地の村や町の風習を見るようです。 その中で人々と関係を築き、地元に根ざし、福音をあきらめない各地の教会を覚えて祈りましょう。 祈り:神様、不毛の地と思われるような因習と伝統の地で、忍耐づよく宣教している教会を励ましてください。そこに集う人々、仕える人々に、上からの素晴らしい喜びと報いで満たしてください。私たち自身の置かれている地域___、ルーツのある地域____、____のためにも祈ります。アーメン

使徒18

「ある夜、主は幻によってパウロに言われた。『恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。わたしがあなたとともにいるので、あなたを襲って危害を加える者はいない。この町には、わたしの民がたくさんいるのだから。』」使徒18:9~10 反対につぐ反対にあうパウロに、主は語りかけてくださいました。 ・わたしがあなたとともにいる ・この町には、わたしの民がたくさんいる この上ない保証をもらったパウロでした。 さらにこのことばは、今日の私たちにも語られています。 「主は私たちと共におられる」 「この町には、主を信じるようになる民がたくさんいる」 と。 祈り:神様、いつも共にいてくださり感謝します。私の住むこの町に、主の民、 やがて主の民となる人がいることを信じます。希望を失わずに今日も歩めるよう助けてください。アーメン

使徒17

「...確かに、神は私たち一人ひとりから遠く離れてはおられません。『私たちは神の中に生き、動き、存在している』のです。」使徒17:27~28 日本でもよくわからないままに偶像や「神」を作っています。 ちょうどアテネの人たちのようです。 イエス・キリストを知っていても、すぐそこにおられる主に気がつかないで、あるいは無視して過ごしていることもあるかもしれません。 今日の一日に、意識して主を認めることができますように。 祈り:神様、偶像やご利益信仰の日本をあわれんでください。 そして私も今日、いつも共にいてくださる主を意識して過ごしたいです。導いてください。アーメン

使徒16

「パウロがこの幻を見たとき、私たちはただちにマケドニアに渡ることにした。彼らに福音を宣べ伝えるために、神が私たちを召しておられるのだと確信したからである。」使徒16:10 予定が急に変わる時、あるいは想像していない事態に直面するとき、冷静でいられますか? 私はめっぽう弱い方です。都度パニックになりそうです。 夜、パウロは幻を見ました。そしてマケドニア人の懇願を聞いて、進路変更をすると決断しました。 自分の願いより聖霊の導きに従ったのでした。 もし今日、聖霊が言われていることがあれば、自分の予定や計画より優先できるでしょうか。 難しく、また聞き逃してしまいそうなことですが、そんな鈍感な私にも主がはっきり示してくださるようにと願います。 祈り:神様、柔軟性のない、自分の思いが先行しがちな私です。聖霊の思いを聞く心の静けさと敏感さを与えてください。外は嵐のようでも、心に平安を与えてください。アーメン

使徒15

「聖霊と私たちは、次の必要なことのほかには、あなたがたに、それ以上のどんな重荷も負わせないことを決めました。」使徒15:28 聖霊は罪について、主について悟りを与えます。 同時に自由と解放をもたらします。 人の定めたものか神の願われることか、つまり文化か普遍的な真理かの判断は難しいです。 自分と同じでないと、つい裁いてしまいます。 私の心が真理からそれず、同時に愛をもって接し戒めることができますように。 祈り:神様、あなたの愛と真理をより理解できますように。束縛でなく解放をくださり感謝します。聖霊の声に敏感になれますように。アーメン

使徒14

「また、彼らのために教会ごとに長老たちを選び、断食して祈った後、彼らをその信じている主にゆだねた。」使徒14:23 信じている主にゆだねる・・・難しいことです。 心配だし、口や手を出したいし、共にいたいと思います。 でも人の力には限界があります。 彼らは全能の主を信頼し、断食して祈ったら主の手に任せゆだねました。 今日、何を主の手にゆだねるよう語られていますか。 祈り:神様、_____をあなたの手にゆだねたいと思います。手放せるよう導いてください。アーメン

使徒13

「弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた。」使徒13:52 聖霊によってアンティオキアからバルナバとサウロ(パウロ)は宣教に送り出されました。 魔術師との対決(6ー12節)、ユダヤ人たちの反対(45、50節)といった困難はありましたが、主のことばは広まっていきました。 彼らは困難に心くじかれたりへこたれたりしませんでした。 かえって「喜びと聖霊に満たされていた」(52節)とあります。 私たちは、たった一つの困難で落胆してしまうことがあります。 しかし大きな視点で見るなら、恵みの方がずっと多いのが事実です。 今日その希望を確認できますように。 各地、各国にいる宣教師のためにも祈りましょう。 祈り:神様、一つの失敗や試練で落胆しあきらめることのないよう、忍耐と健康的な認識を与えてください。___宣教師、____宣教師、____宣教師...の働きと霊肉の健康と家族を支え、主の働きをお守りください。アーメン

使徒12

「すると、即座に主の使いがヘロデを打った。ヘロデが神に栄光を帰さなかったからである。彼は虫に食われて、息絶えた。」使徒12:23 神が愛なら、どうしてヘロデをこのような目にあわせたのか、と疑問を持つ方がおられました。 なぜ戦争が、なぜ貧困が、なぜ災害が・・・、という問いも似ているかもしれません。 答えは、人の罪ゆえ、と言えるでしょう。 しかも悔い改めず、ヘロデの場合は自分を神とする傲慢さも見受けられます。 神様はもちろん、彼に悔い改めるチャンスを何度も与えておられました。 バプテスマのヨハネとの対話、イエス様ご自身との出会いもありながら、悔い改めようとはしませんでした。 ヘロデがもっと早く滅びず、ここまで王として治めることができていたのは逆に神のあわれみとも言えます。 神様の恵みとあわれみの機会に彼が気づき、悔い改めて主を信じていたら、彼には別の人生があったでしょう。 ヘロデに限らず、どんな人も悔い改めてイエス・キリストを救い主と信じたら、別の人生が始まります。 祈り:神様、あなたの恵みとあわれみに気づく人が多く起こされますように。___さん、___さんがイエス・キリストを救い主と信じることができますように。 私自身も、日々悔い改めて恵みを受けとる素晴らしさを実感できますように。アーメン

使徒11

「弟子たちは、それぞれの力に応じて、ユダヤに住んでいる兄弟たちに救援の物を送ることに決めた。」使徒11:29 聖霊によってアガポが預言したとおり、世界的に大飢饉が起こりました。 きっと、アンティオキアにいた弟子たち自身も食料不足を感じていたでしょう。 しかし、ユダヤ地方はもっと深刻な状況なので、救援のために自らささげたのでした。 「それぞれの力に応じて」とあります。 自分ができる力に応じて、愛の動機で多い者も少ない者も霊の家族を支えようとしました。 この助け合う心が教会に、日本うや世界宣教の場に、満ち溢れたらどんなに素晴らしいでしょうか。 祈り:神様、あなたから託された私の所有物を、みこころの通りに用いることができますように。必要のあるところに気前よくささげ支える、愛の心を与えてください。アーメン

使徒10

「神は、イスラエルの子らにみことばを送り、イエス・キリストによって平和の福音を宣べ伝えられました。このイエス・キリストはすべての人の主です。」使徒10:36 ユダヤ人だったぺテロにとって、それ以外の民族が同じ神によって救われるというのは常識外でした。 しかし主はしるしと幻によって、どんな人にとってもイエス・キリストが救い主であることを示されました。 前章のパウロも今日のぺテロも、自分が当然だと思っていた考えからの転換、「パラダイム・シフト」を経験しました。 私たちにも同じ転換が必要かもしれません。 あの人は救われないという思い込み、家族への伝道は難しいという思い込み、自分はだめだという思い込み...。 神様が願われる思いの転換に気づき、パラダイム・シフトできますように。 祈り:神様、私の思い込みを探り、あなたの思いへと視野を広げてください。無用な自己卑下や恐れから解放し、健康的な謙遜と希望によってみこころに歩めますように。アーメン

使徒9

「そこで、ペテロは立って二人と一緒に出かけた。ペテロが到着すると、彼らはペテロを屋上の部屋に案内した。やもめたちはみな彼のところに来て、泣きながら、ドルカスが一緒にいたころ作ってくれた下着や上着の数々を見せるのであった。」使徒9:39 9章はサウロ(パウロ)の回心で有名ですが、同時に愛すべきクリスチャン女性タビタ(ドルカス)も登場します。 彼女は分け与える賜物を持っていました。 ただ金銭的に裕福だっただけでなく、心をこめて困った人や貧しい人たちのために奉仕していました。 弱い人に慕われ愛された彼女の姿勢は大きな証しでした。 主はぺテロを通して祈りに答え、彼女を生き返らせました。 そのことがヤッファの町でニュースとなり、今度はやもめだけでなく多くの人が主を信じました。 生きざまが証しとなる人は何と素晴らしいことでしょう。 「私たちは、ことばや口先だけではなく、行いと真実をもって愛しましょう。」(1ヨハネ3:18) 祈り:神様、私のことばと行いが信仰にあって一致しますように。主の恵みを、周囲の人に心をこめて流し出せるように導いてください。アーメン

使徒8

「散らされた人たちは、みことばの福音を伝えながら巡り歩いた。」使徒8:4 迫害で散らされた人たちの心には、はじめ悲しみと恐れとがあったことでしょう。 これからの生活の保証もありませんでした。 しかし、黙ってはいませんでした。 「みことばの福音を伝えながら巡り歩」きました。 結果として、福音が世界に広がることになりました。 ピリポが出会ったエチオピアの宦官に見られるように、民族や言葉、肌の色が違っても福音は一つです。 その時は悲しいことが、後に豊かな実を結びます。 「涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取る。」詩篇126:5 祈り:神様、悲しみの出来事を、思いがけない形で用いることのできる方であることを信じます。私の置かれた状況を、あなたの栄光のために用いてください。アーメン

使徒7

「ここでは、足の踏み場となる土地さえも、相続財産として彼にお与えになりませんでした。しかし神は、まだ子がいなかった彼に対して、この地を彼とその後の子孫に所有地として与えることを約束されました。」使徒7:5 ステパノの弁明から殉教がこの章の内容です。 今日はその弁明の一節で、本筋とは関係ないようにも思えます。 けれども、ここにステパノの信仰の一端を見る思いです。 大祭司や訴える者たちは、律法やしがらみに縛られていました。 それと比べて、何も持たず、何にも頼れない状況で、神の約束を信じたアブラハムの信仰が出ています。 ステパノも同じく、先入観やしきたりよりも、イエス・キリストの真実を信じていました。 それが聖書に約束されていることだとも確信していました。 私たちは今日、しがらみや思い込みを信用するでしょうか。 それとも、聖書にねざした神の約束に期待できるでしょうか。 祈り:神様、聖書のことばを聖霊の光で読みたいです。純粋な心を与えてください。あなたのみこころを素直に受け取ることができますように。信仰を強めてください。アーメン

使徒6

「こうして、神のことばはますます広まっていき、エルサレムで弟子の数が非常に増えていった。また、祭司たちが大勢、次々と信仰に入った。」使徒6:7 初代教会は素晴らしい成長を見せました。 数も増えたし、あの祭司たちが悔い改めてイエス・キリストを救い主と信じるようになりました。 一方で、課題や問題もありました。 数が増えすぎて、食料配給に多大な手間と時間がかかるようになりました。 また、リーダーが逮捕され、不利な偽りの証言をされました。 信仰生活も同じです。素晴らしい良いこともあれば、試練や困難にあうこともあります。 しかし、聖霊がどんな時も働いておられることを使徒の働きから学びます。 そして、神のご計画のためには一つも無駄にならないことも、読み進めるうちに確信できるでしょう。 祈り:神様、目先の事柄で一喜一憂しないよう助けてください。あなたのよいご計画に信頼できるよう、私の心をお守りください。試練の中にいる____さん、入院している____さんに、主の希望と平安がありますように。アーメン

使徒5

「『そこで今、私はあなたがたに申し上げたい。この者たちから手を引き、放っておきなさい。もしその計画や行動が人間から出たものなら、自滅するでしょう。しかし、もしそれが神から出たものなら、彼らを滅ぼすことはできないでしょう。もしかすると、あなたがたは神に敵対する者になってしまいます。』議員たちは彼の意見に従い、」使徒5:38~39 律法の教師ガマリエルは、パウロの師匠でもありました(22:3)。 彼がユダヤ人議員たちを説得します。 彼はキリストを救い主と信じてはいなかったでしょうが、神の摂理についてはよく理解していました。 キリスト教界でも、あるミニストリーが逸脱しているかどうかが話題になります。 すぐ批判的になるのでなく、神から出たものかどうかを静観する時間が必要だと思います。 人から出たものなら、ほころびが出てやがてなくなるでしょう。 しかし神のみこころなら、その働きはみこころの間続くでしょう。 祈り:神様、様々なミニストリーや働きを感謝します。お互いにあれはだめ、これは足りないと批判する前に、謙虚に祈り吟味させてください。同時に、悪魔のわなを見極める霊的な洞察力も与えてください。アーメン

使徒4

「皆さんも、またイスラエルのすべての民も、知っていただきたい。この人が治ってあなたがたの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの名によることです。」使徒4:10 使徒たちは大きなわざを行いました。 そして、それは自分の力でなく、イエス・キリストの名によるものだと知っていました。 私たちが奉仕や伝道でうまくいったと喜ぶのは、悪いことではありません。 自分に栄光を帰すのでなく、その栄光をイエス様にお返しし、イエス様の名があがめられるなら、素晴らしいことです。 たとえうまくいかなかったと思っても、それも落胆する必要はありません。 キリストの望むことをしているなら、目に見える即時の結果ではなく、霊の世界では違ったことが起こっていると言えます。 あきらめないで、卑下しないで、今日も主とともに歩みましょう。 祈り:神様、あなたの恵みに感謝します。十字架について復活されたイエス・キリストのみこころを行うことができますように。アーメン

使徒3

「そうして、主の御前から回復の時が来て、あなたがたのためにあらかじめキリストとして定められていたイエスを、主は遣わしてくださいます。」使徒3:20 キリストは神のひとり子であり、父なる神のしもべとして来られました。 そして、信じる人のうちにキリストの霊である聖霊を送ってくださいます。 さらに、終わりの時に王として再び来られます。 王様として迎える日の情景を思い浮かべると、心踊ります。 祈り:神様、キリストの来臨の恵み、再臨の望みに感謝します。あなたにより近く歩めますように。アーメン

使徒2

「そして、毎日心を一つにして宮に集まり、家々でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、民全体から好意を持たれていた。主は毎日、救われる人々を加えて一つにしてくださった。」使徒2:46~47 3千人がクリスチャンになっても、劇的な奇跡が行われても、教会は華々しい「成果」だけの集まりではありません。 「心を一つに」すること、 「喜びと真心をもって」交わりをすること、 「神を賛美」すること、 「民全体から好意を持たれていた」ことが、 教会の麗しい姿です。 イエス様が言われたように、この世から分かつのではなく、この世にあって主の守りのうちを歩むのが教会であり、クリスチャン生活です。 この初代教会のスピリットは今日まで変わりません。 祈り:神様、私たちの教会を、初代教会に見られる麗しい姿としてください。私の心を探り、霊において一致できるように助けてください。アーメン

使徒1

「そしてこう言った。『ガリラヤの人たち、どうして天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行くのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになります。』」使徒1:11 昔から、「○月○日に災害が起こる」とか「○○になる」というデマは尽きませんでした。 人々の不安や心配をあおり、社会がパニックになることもあったようです。 実際のところは、誰も思っていないタイミングで災害が発生することが多いのです。 聖書はキリストの再臨について「いつ」とは語っていません。 しかし、イエス様が天に上って行くのを見たのと同じように、また来られるーー これは確かなことです。 思わぬタイミングでも、日々心を整え期待できる者でありますように。 祈り:神様、イエス様の再臨は恐ろしいものではなく、希望と喜びに満ちた時です。その日まで、私の生き方、信仰、証しを導き教えてください。アーメン

ヨハネ21

「イエスが行われたことは、ほかにもたくさんある。その一つ一つを書き記すなら、世界もその書かれた書物を収められないと、私は思う。」ヨハネ21:25 ヨハネの福音書の最後の部分は、なんとかして信じてほしいという弟子ヨハネの熱意が感じられます。 書かれた証しが真実だということを証言していること(24節)、そして世界が記録を収めきれないほど多くのことをイエス様がなさったこと(25節)を述べます。 弟子ヨハネは、やがて福音のために島流しに会います。 しかし、そこで黙想し思い巡らしたイエス様の姿と今も生きておられる希望は、彼を励まし続けたでしょう。 やがてもう一度イエス様が来られるという希望の黙示録も、彼の証しに生きた人生を通して主が与えてくださったものです。 祈り:神様、弟子ヨハネは証しの生涯を送りました。私はどのように証しをし、主の足跡を歩むことができるでしょうか。功績でもタイトルでもなく、主の証し人、キリストに従う者としてのアイデンティティを日々確認して歩めるよう、導いてください。アーメン

ヨハネ20

「イエスは再び彼らに言われた。『平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。』」ヨハネ20:21 イエス様が言われたことばをどのように受け取っているか、問われます。 はじめの「平安があなたがたにあるように」は感謝して受け取れます。 しかし、後半の「わたしもあなたがたを遣わします」という宣言は見落としがちです。 受けるばかりでなく「与える」ことを主は望まれます。 そのひとつが「遣わされる」ことです。 大それたことではなく、今日すぐそばにいる隣人に、あるいは久しぶりに会った友人に、私たちは遣わされていると言えます。 その人に寄り添うことが、主の恵みの福音が広がるきっかけかもしれません。 祈り:神様、今週私が話しかける人、連絡をとる人を教えてください。あるいは祈りながら時を待つべきでしょうか。主の導きに従います。アーメン

ヨハネ19

「これを目撃した者が証ししている。それは、あなたがたも信じるようになるためである。その証しは真実であり、その人は自分が真実を話していることを知っている。」ヨハネ19:35 ヨハネは十字架のそばに立っていました。そして、イエスの母マリアの世話をするようにと託されました(26~27節)。 彼は見たものとして証ししました。 他にも、恐る恐る信仰を表明する人が出てきました。 ユダヤ人を恐れて信仰を隠していたアリマタヤのヨセフは、思いきってイエスのからだを自分の墓に入れることを願い出ました。 夜こっそりイエスのところに来たニコデモは、イエスのからだに塗る香料をたっぷり持ってきました。 失敗、敗北でしかないと思えた十字架のもとに、勝利の兆しをヨハネはほのめかして記述しています。 世界を見渡しても、信仰を抑圧され、敗北したかに見える地域があります。 しかし、その迫害の中に大きなリバイバルが起こっている国や地域があることを覚えます。 祈り:神様、キリストのもとに平安と勝利があります。どうか迫害の中にある地域と信仰者を励ましてください。また、日本の中でも家族や地域の因習の中で信仰を守る一人一人に、格別の守りと証しを与えてください。アーメン

ヨハネ18

「ピラトはイエスに言った。『真理とは何なのか。』 こう言ってから、再びユダヤ人たちのところに出て行って、彼らに言った。『私はあの人に何の罪も認めない。』」ヨハネ18:38 ピラトはイエスに罪がないことを知っていました。真理についても関心を持ちました。 しかし、真理よりも自己保身を求めました。 それゆえに、使徒信条で「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」と言われるように、無実のイエスを十字架刑にした者として名前が残ってしまいました。 自己保身のために歪めているものがないでしょうか。 また、無実の罪で虐待され拷問されている、クリスチャンや少数民族のためにも祈りたいと思わされます。 祈り:神様、自己保身に走り、他者のせいにしたり事実をゆがめたりする私の傾向をゆるしてください。また、今日も抑圧され生命の危機に脅かされている信仰者や少数民族に、福音による励ましと主の超自然的な守りがありますように。私にも祈ることを教えてください。アーメン

ヨハネ17

「わたしがお願いすることは、あなたが彼らをこの世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。」ヨハネ17:15 十字架にかかる前に、イエス様がこれほどまでに心を注ぎ、私たちのために熱心に祈ってくださったことは注目に値します。 「彼らもわたしたちのうちにいるようにしてください。あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるようになるためです(21節)」 「あなたがわたしを愛してくださった愛が彼らのうちにあり、わたしも彼らのうちにいるようにするためです(26節)」 そして、 「わたしがお願いすることは、あなたが彼らをこの世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです(15節)」と祈ってくださいました。 今日もイエス様が変わらないこと、共にいて下さることがわかります。 また、神の愛が信じる者のうちにいつも注がれているので、私たちにそれを流し出すよう望まれていることも確認できます。 祈り:神様、あなたがどれほど世を愛し、私を愛して下さったかを覚えて感謝します。苦難があっても守られるよう、今日も助けてください。私の霊と心を主にあって支えてください。 アーメン

ヨハネ16

「その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世の誤りを明らかになさいます。」ヨハネ16:8 人がイエス・キリストを信じるのは、聖霊の働きによります。 きっかけは誰かから聞いた福音でも、自分にそれが必要で、信じてみようという時には人の知恵を越えた聖霊が働いておられます。 洗礼準備クラスではまず「神」「罪」「救い」を学びます。 毎回、「罪について、義について、さばきについて」悟らせてくださるのは聖霊であることを感じます。 自分自身も、そのようにしてキリストのことがだんだんわかってきたのだなあと思います。 祈り:神様、聖霊の働きにもっと信頼し期待できるよう導いてください。今信じようかどうしようかと迷っている___さんに、聖霊が豊かに働いてください。アーメン

ヨハネ15

「わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができないのと同じように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。」ヨハネ15:4 今年(2025年)のペンテコステの時、このことばが心にとまりました。 聖霊が内住してくださることで、キリストは「あなたがたの中にとどまります」という約束を今日も有効なものにしてくださいました。 では私たちはキリストにとどまることを日々求めているでしょうか。 聖霊の満たしと、キリストから流れるいのちの水を与えてくださいと、どのくらい真剣に思っているだろうか...と自分に問いかけてみましょう。 祈り:神様、聖霊が信じる者と共にいつもいてくださることに感謝します。聖霊の満たしを求める者として歩みます。アーメン

ヨハネ14

「わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません。」ヨハネ14:27 イエス様が十字架にかかられ、去っていかれるなんて想像できたでしょうか。 弟子たちにとっては想定外、自分の人生が急転回するような出来事でした。 それでもイエス様は「平安を残します」と言われました。 世が与えるのとは異なる平安の与え方だと言われました。 私たちの常識とは違う方法で、しかももっと深い平安を与えてくださるのです。 今日も「心を騒がせてはなりません」「ひるんではなりません」と主は語りかけてくださいます。 祈り:神様、_____のことが気になります。主の平安が心に必要です。思い煩いから目を離し、心騒がせないようにお守りください。アーメン

ヨハネ13

「わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」ヨハネ13:34 イエス様は単に教えを残されただけではありません。 ご自身が先頭に立ち、それを実践されました。 弟子たちに愛し合うことを教え、その通りに弟子の足を洗われました。 しかもご自身がまもなく十字架にかかるとわかっておられ、 裏切る弟子の足も洗ってくださったのです。 「さて、過越の祭りの前のこと、イエスは、この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時が来たことを知っておられた。そして、世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された。」(1節) 「最後まで」まさに十字架の上で息を引き取るまで、愛してくださいました、 祈り:神様、イエス・キリストの教えは一方的な道徳ではなく、キリスト自らが率先し実践してくださったことに感謝します。イエス様の愛を受けた者として、その姿にならいたいです。私の中に注がれた主の愛を、流し出すことができるよう導いてください。アーメン

ヨハネ12

「イザヤがこう言ったのは、イエスの栄光を見たからであり、イエスについて語ったのである。」ヨハネ12:41 イエス様は地上に人として来られました。 しかし、それ以前にも神として存在しておられました。 預言者イザヤは、そのイエス様の栄光を見て預言しました。 それが12章の中に出てきています。 残念ながら、主を信じない人が多いことが預言され、その通りになりました。 「しかし、それにもかかわらず、議員たちの中にもイエスを信じた者が多くいた」(42節)のですが、「彼らは、神からの栄誉よりも、人からの栄誉を愛した」(43節)のでした。 今日、誰からの栄誉を求めていますか。周囲の人からすごいと言われるより、神様に「よくやった」と言われることを求めているでしょうか。 祈り:神様、人の目や評価が気になる者です。永遠の価値へと霊の目を開いてください。あなたからの栄誉を求める者とならせてください。アーメン

ヨハネ11

「イエスは彼女に言われた。『わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。』」ヨハネ11:25 葬儀前の家族の状態を想像してください。喪失感と、泣いている暇がないあわただしさと、状況がまだ現実味を帯びない混乱した心の中です。 イエス様が2日も来られなかったので「どうしてもっと早く来なかったのですか」と言いたい気持ちもあったと思われます(21節)。 けれども、イエス様は「この病気は死で終わるものではなく、神の栄光のためのものです」と言われました(4節)。 ラザロは癒されました。しかしそうでなくても、「死で終わるものではな」いのです。 「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです」と言われたイエス様のことばは、今の私たちにも当てはまります。 祈り:神様、あなたのよみがえりと永遠のいのちの約束を感謝します。主のもとに希望があります。喪失感の中にある___さん、___さんに、主の深い慰めと希望がありますように。アーメン

ヨハネ10

「門番は牧者のために門を開き、羊たちはその声を聞き分けます。牧者は自分の羊たちを、それぞれ名を呼んで連れ出します。」ヨハネ10:3 羊の群れを見ました。てんでばらばらで、あっち向きこっち向きしながら草を食べ、 時に座り込み、時に反対の方向へ行きかけます。 それでも、牧者がいざなう方向に少しずつ群れは移動します。 それは、牧者が羊をよく導き、囲いの中に入れたり牧草のところに連れて行ったりしてくれるからです。 イエス様と羊である私たちも同じです。 イエス様の声を聞き分ける者であるように、日々主の家に住まいましょう。 祈り:神様、私を導いてください。そして、私もあなたの声を聞き分けることができるよう、霊の耳を開いてください。アーメン

ヨハネ9

「イエスはこたえられた。『この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。』」ヨハネ9:3 いつもこの箇所に癒され励まされます。 私たちが「神様、どうして?」と思った時、それは「神のわざが現れるため」かもしれません。 弱さのうちに働いてくださる強い神をほめたたえます。 祈り:神様、私の生涯を通じてあなたの栄光を現してください。アーメン

ヨハネ8

「イエスは再び人々に語られた。『わたしは世の光です。わたしに従うものは、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。』」ヨハネ8:12 羊の群れを見ました。 群れといっても、その中では、草をあちこち食べる羊、あっちを向く羊、座りこむ羊などてんでばらばらです。色や模様も違います。 けれども、羊飼いは強制せず、上手に群れを導いていました。 導きや主への従い方は人それぞれです。 しかし、イエス様が羊飼いであるとは何と安心かと思います。 世の光である主を見上げる者は光の中を歩ませて頂けます。 祈り:神様、今日もあなたを見上げて歩ませてください。私は私らしく主に従い仕えます。アーメン

ヨハネ7

「ですから、わたしはあなたに言います。この人は多くの罪を赦されています。彼女は多く愛したのですから。赦されることの少ない者は、愛することも少ないのです。」ヨハネ7:47 「一人の罪深い女」と書かれた女性が、イエス様に香油をささげました。 多く赦された人でした。そして多く愛することができたとイエス様はおっしゃいました。 私たちは、キリストの救いを信じた時だけでなく、その後も自分の罪や至らなさ、足りなさに気づきます。 それは悲しく思えますが、より主を愛する者とされるためでもあります。 主と交わり、悔い改めと恵みの中に浸りましょう。 祈り:神様、多く赦してくださり感謝します。あなたを多く愛する者としてください。アーメン

ヨハネ6

「その人は、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて、家を建てた人に似ています。洪水になり、川の水がその家に押し寄せても、しっかり建てられていたので、びくともしませんでした。」ヨハネ6:48 日本では、信仰を持つのに時間がかかったり、しばらくすると教会生活から離れてしまう人が多いと聞きます。 しかし、日本だけの話ではありません。 モンゴルでは、新しく福音を聞いて受け入れるのは簡単だけれど、また別の新しい教えが入るとそちらに心を向ける人が多いのだと聞きました。 欧米でも信仰から離れる人がいるそうです。 私たちの土台が、岩の上に家を建てた人のようになるにはどうしたら良いでしょうか。 神のことばに根ざすことです。人や状況は変わるし、当てになりません。 変わらない神ご自身に土台を置くことです。 祈り:神様、私たち一人一人があなたのことばに基礎を置くことができますように。洪水や嵐にも流されない土台を置けるよう導いてください。アーメン

ヨハネ5

「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。」ヨハネ5:24 イエス様の生涯は、徹底してご自身を遣わされた方ー父なる神様ーのみこころを行うこと、父に栄光を帰すことに集中したものでした。 神ご自身が人として来られ、神のみむねを体現してくださったという信じがたい恵みなのです。 イエス様がそうされたなら、私たちはもっと自分自身でなく神に栄光をお返しするよう歩みたいと思わされます。 小さな手柄(手柄とも言えないような)を自分のものにせず、神のものにすることが習慣となりますように。 祈り:神様、あなたのお名前だけがあがめられますように。あなたの栄光のために、大胆になれますように。あなたが願われることに集中できますように。アーメン

ヨハネ4

「イエスは彼に言われた。『行きなさい。あなたの息子は治ります。』その人はイエスが語ったことばを信じて、帰って行った。」ヨハネ4:50 まだ見ないものを、どうして信じることができるでしょう。 見えない神を、どうして信じることができるでしょう。 それが今日の多くの人の問いです。 しかし一方で、フェイクニュースや噂には惑わされてしまいます。 王室の役人は、カペナウムからガリラヤまでやって来て、息子の癒しを願いました。 カペナウムまで来てほしいと言う役人に、イエス様は「行きなさい」とことばを与えました。 信じるまでに、彼の内側にどのような葛藤と心の変化があったでしょうか。 それでも、その人はイエスが語ったことばを「信じて」帰って行きました。 それが信仰です。 私たちも、聖書のことばにかけてみよう、信頼してみようと思いませんか。 祈り:神様、信仰は理屈でなく「いっぺんそうしてみよう」という選択だとも言えます。私たちの小さい理性ではわからないことも、あなたはご存知です。私の親戚や友人が、聖書のことばに信頼してみよう、と選択することができますように。アーメン

ヨハネ3

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」ヨハネ3:16 再び、「聖書の中の聖書」と言われる節にきました。 神の愛、そしてイエス・キリストを救い主だと信じる者が受ける恵みが表れています。 ゆっくりと声に出して読み、味わいたいと思います。 祈り:神様、あなたの愛と恵みを感謝します。福音がもっとよくわかるよう、聖霊様働いて助けてください。アーメン

ヨハネ2

「イエスはこれを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行い、ご自分の栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。」ヨハネ2:11 世話役はいきさつを知らず、花婿をほめました。 しかし、給仕たちはイエス様が水をぶどう酒に変えたと知っていました。 宴会の場で一時的に花婿が持ち上げられたとしても、 真に栄光をとられたのはイエスでした。 主に用いられる人が一時的に目立っていたとしても、 それはその人が偉いからではありません。 主が栄光をとられるためです。 舞台裏で仕えていても、そこが一番主の栄光を間近に見ることができる場所かもしれないのです。 祈り:神様、どの場所であっても主に仕える喜びを与えてください。キリストの栄光を見せてください。アーメン

ヨハネ1

「私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けた。」ヨハネ1:16 その理由は、「恵みとまことはイエス・キリストによって実現したから(17節)」だと、ヨハネの福音書は語ります。 いくら分けてもなくならない、満ち満ちた豊かさと恵みの大きさは想像もつきません。 その恵みの中に入れられている恵みを感謝しつつ。 祈り:神様、あなたの豊かさと恵みが限りなく、主を見上げる者に注がれることに感謝します。この素晴らしい恵みに一人でも多くの方が気づきますように。アーメン

ルカ24

「それからイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、」ルカ24:45 そうして、次のことを言われました。 「『キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、あらゆる国の人々に宣べ伝えられる。』エルサレムから開始して、あなたがたは、これらのことの証人となります。」(46~48節) イエス・キリストこそ、聖書を悟らせてくださる方です。 聖書が難しい、と嘆かず、霊的な目と心を開いていただけるよう願いましょう。 光が差すように、少しずつ主の霊が働いてくださいます。 祈り:神様、聖書を理解したいのに難しいと感じることがあります。知性だけでなく、霊性でわかるように助けてください。私の霊の目を開いてください。アーメン

ルカ23

「そのとき、イエスはこう言われた。『父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。』彼らはイエスの衣を分けるために、くじを引いた。」ルカ23:34 ローマ帝国の遺跡は世界遺産となり、素晴らしい価値があると考えられています。 現代も現役で使われている橋や門すらあるそうです。 しかし、その帝国の支配下で十字架刑が執行されていたのでした。 イエス様が十字架の上でこのように祈られたことを、ともすれば軽く読み流してしまいます。 しかし、私自身が「衣を分けるために、くじを引いた」者の一人であったと考えたことがあるでしょうか。 イエスに無関心、十字架に無関心であったローマの兵隊や大部分の群衆のように、私たちも福音に無関心であった者でした。 それでもイエス様は「父よ、彼らをお赦しください」と祈り招き続けてくださったのです。 祈り:神様、十字架の出来事が今も同じように救いの価値があることを覚えます。イエス様の祈ってくださった愛と時代を超越した恵みに感謝します。アーメン

ルカ22

「食事の後、杯も同じようにして言われた。『この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による、新しい契約です。』」ルカ22:20 イエス様が十字架で血を流されたことにより、新しい契約がもたらされました。 それは、古い律法によるのではなく、いのちを与え、みずみずしく、解放と自由をもたらすものでした。 新しい契約により、聖霊が自由に働かれ、一人一人に与えられました。 ペンテコステの日、聖霊にある自由を味わい感謝しましょう。 祈り:神様、すべての鎖や罪の束縛から自由にされたことを感謝します。聖霊がくだってくださったことを感謝します。ペンテコステの感動を新たにすることができますように。アーメン

ルカ21

「あの人たちはみな、あり余る中から献金として投げ入れたのに、この人は乏しい中から、持っていた生きる手立てのすべてを投げ入れたのですから。」ルカ21:4 再び2レプタ銅貨をささげたやもめの記事が出てきます。 この女性は、この後どうなったでしょうか。 聖書は沈黙していますが、きっとその生活は守られたことでしょう。 なぜなら、イエス様が目を留めてくださったからです。 自分の手にあるものだけを眺めているか、 天の宝を見上げるか、 今日の私の目線はどちらでしょうか。 祈り:神様、私の目線が天を見上げるものとなりますように。アーメン

ルカ20

「律法学者たちと祭司長たちは、このたとえ話が自分たちを指して語られたことに気づいた。それでそのとき、イエスに手をかけて捕らえようとしたが、民を恐れた。」ルカ20:19 律法学者と祭司長たちの特徴は、いつも「人」を恐れたことでした。 人の評価、人の評判、人の歓心をかうことにばかり意識が向いています。 一方、イエス様は「神」を恐れることで一貫しておられます。 ぶれることなく、焦点が定まっていたことがわかります。 私たちの関心はどこにあるでしょうか。 神に喜んでいただくことでしょうか、それとも人情や人の目に偏っているでしょうか。 祈り:神様、私の視点をあなたに定めることができますように。主が喜ばれるかどうかが、私の判断、決断の基準になりますように。今岐路に立たされている___さんが、祈りつつ主のみこころを受け取れるよう、格別の励ましを注いでください。アーメン

ルカ19

「人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです。」ルカ19:10 ザアカイについての記事はわずか10節足らずです。 にもかかわらず、しばしばメッセージで語られ、子どもでもおとなでも印象に残るキリストの出会いについての話です。 情景が浮かびます。 背の低いザアカイ、金持ちだったけれども嫌われており、苦肉の策で木に登った彼の姿は、私たちに共感を与えます。 考えてみれば、誰しもザアカイのような側面があります。 劣等感、不全感、それを埋めようと求めていること、キリストに知られているという喜び、悔い改め、すべてが新しくされたこと、心の一新が行動にも表れること。 「キリストは、失われた私を捜して救うために来られた」という恵みを受け取りましょう。 祈り:神様、私のためにイエス・キリストが地上に来られ、十字架で罪をあがなってくださったことに感謝します。キリストの霊である聖霊によって、今日も導かれていkたいです。アーメン

ルカ18

「あなたがたに言いますが、義と認められて家に帰ったのは、あのパリサイ人ではなく、この人です。だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるのです。」ルカ18:14 パリサイ人よりも、胸をたたいて祈っていた取税人が義と認められた、というたとえ話です。 パリサイ人の行いは一見立派でした。ところが、心の中は高ぶっており、自分の義を行いで証明しようとしました。 一方取税人は、自分の心の醜さと罪深さを自覚し、悔い改めと赦しを乞う祈りをしました。 つい他人にいらいらしたり、自分のやり方が正しいと思いがちな時には、肉に任せて自分を高くしている時かもしれません。 「自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされる」という聖書の原則を、心にとめておきたいと思います。 祈り:神様、他人をさばかず、へりくだる心を与えてください。あなたの恵みで赦された罪人であることを思い返し、感謝とあわれみの心をいただきます。アーメン

ルカ17

「同じようにあなたがたも、自分に命じられたことをすべて行ったら、『私たちは取るに足りないしもべです。なすべきことをしただけです』と言いなさい。」ルカ17:10 これだけやったのに報われないなあ、と感じることがありますか。 仕事では、要領のよい同僚がどんどん出世し、後輩の給料が上がっていくのに、自分は取り残されているように思えることがあります。 一生懸命子育てをしても、子どもが反抗してしまうこともあります。 家事も、やってもやっても終わりがありません。 もしかすると、教会の奉仕や信仰生活までも、同じような気持ちになることがあるかもしれません。 しかし、神様に対してするのは喜びが動機であり、恵みへの応答が原動力です。 「私たちは取るに足りないしもべです。なすべきことをしただけです」と言えるでしょうか。 もし言えないなら、肉でやり過ぎているか、人の評価を求めているかかもしれません。 心を探り、主が何を望まれるかを共に吟味しましょう。 祈り:神様、一生懸命伝道した___さんの反応がよくなかったり、奉仕が思うように喜ばれなかったりすると落胆してしまいます。あなたの前に、心から仕えるしもべとなりたいです。私の心を探ってください。アーメン

ルカ16

「イエスは彼らに言われた。『あなたがたは、人々の前で自分を正しいとするが、神はあなたがたの心をご存じです。人々の間で尊ばれるものは、神の前では忌み嫌われるものなのです。』」ルカ16:15 「金銭を好むパリサイ人たちは、これらすべてを聞いて、イエスをあざ笑っていた」 (14 節)と書かれています。 当時の教師たちがお金の多少で動いていたのは、神のみこころからずれていることですね。 今も多くの「宗教」でお金目当てと思われるものがあります。 もちろん、お金は日常生活に欠かせないものです。 しかしそれ以上に「主は心を見られる」ということを、私たちイエス・キリストを信じる者は覚えていたいと思います。 たとえつましい生活でも、心を寄せ合い暮らす人々は、周囲にとっての光であり励ましです。 くよくよしないで、与えられているものを感謝し満たしを信じて歩みましょう。 祈り:神様、生活ぶりを比較して落ち込むことがありませんように。自ら働き、主が備えてくださるものを感謝して受け取り、祈りつつ知恵をもって用いていくことの喜びと恵みを一人一人が体験できますように。アーメン

ルカ15

「 だが、おまえの弟は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのは当然ではないか。」ルカ15:32 放蕩息子の弟は、悔い改める罪人のたとえです。 兄息子はいらいらし、不満を父にぶつけました。 しかし、弟息子の悔い改めは、迷っていた1匹の羊のように、あるいはなくした1枚の硬貨のように、天の国では喜びでした。 兄息子のような態度を取りがちな私たちです。 しかし、自分が弟息子だったことと、今や御国の相続人とされていることを思うと、不満の前に感謝を表す者であるようにと気づかされます。 これだけのたとえを用いて、神様は忍耐強く教えてくださっているのです。 祈り:神様、私は感謝の足りない者です。ひがみや妬みの心を造り変えてください。自分の置かれている恵みを感謝し、新しく永遠のいのちを持つ人に寄り添い、ともに喜ぶ者になれますように。アーメン

ルカ14

「 あなたがたのうちに、塔を建てようとするとき、まず座って、完成させるのに十分な金があるかどうか、費用を計算しない人がいるでしょうか。」ルカ14:28 イエス様は、計画や予算を立てることの大切さを否定してはおられません。 私たちの生活や事業が、計画されて持ち運ばれるのは大切なことです。 ただ、ここではさらに一歩進んだことを言われました。 それは主の弟子として従うことについてです。 「 そういうわけで、自分の財産すべてを捨てなければ、あなたがたはだれも、わたしの弟子になることはできません」(33節) と言われました。 自分の財産、つまり人生をかける覚悟ができているのか、と問われたのです。 同じ問いが私たちに投げかけられた時、どのように答えますか。 祈り:神様、キリストの弟子になるための心構えを教えてくださって感謝します。 私に人生の優先順位を正しくつけることを教えてください。アーメン

ルカ13

「それはからし種に似ています。ある人がそれを取って自分の庭に蒔くと、生長して木になり、空の鳥が枝に巣を作りました。」ルカ13:19 神の国は、はじめはからし種のように小さくても、だんだんと成長して大木のようになります。 パン種(イースト)も、パン全体を膨らませます。 イエス様のたとえはわかりやすいですね。 そして、私たちに神の国のイメージを与えてくれます。 しかも、成長させてくださるのは主ご自身です。 私たちにゆだねられているのは、神の国の福音を分かち合うこと、そして神の前に純粋な信仰を持つことです。 祈り:神様、神の国が大きくなる約束を信じます。純粋な信仰を与えてください。今信仰がぐらぐらしそうな人がおられたら、主がどれほど真実で信頼できる方であるかを実感できますように。アーメン

ルカ12

「あなたがたの宝のあるところ、そこにあなたがたの心もあるのです。」ルカ12:34 教会の月間会計報告の横に、この聖句が書かれています。 「宝」とは自分にとって価値のあるもの、そこに私たちの「心」があるということです。 「自分のために、天に、すり切れない財布を作り、尽きることのない宝を積みなさい。天では盗人が近寄ることも、虫が食い荒らすこともありません」(33節)とも イエス様は言われました。 自分のためだけにためこもうとしていませんか。ささげる姿勢、天に宝を積む人は、心もそこにあるのです。 祈り:神様、私の心を探ってください。どこに宝があるのか、自分自身の心を見張ることができますように。アーメン

ルカ11

「ですから、自分のうちの光が闇にならないように気をつけなさい。」ルカ11:35 肉体の目のことではなく、心の目が健やかであるようにとイエス様は教えられました。 外側をいくら立派に装っていても、内側が汚れた思いや貪欲でいっぱいになっているなら、神の望まれるライフスタイルではないというのです(39節)。 せっかく心に救いを得たのなら、その感謝と感激がしぼまないうちに、応答を実践しく私たちでありたいと思います。 イエス様はひとつの例として、貧しい人たちへの「施し」、つまり持っているものを分け与えることを挙げられました。 今日の私たちは、どのように分け与えることができるでしょうか。 直接与えることはもちろん、献金を送ること、祈りに覚えること、時間を使うこと、話を聞くことなど、私たちの与えられているものを分け与えることができます。 祈り:神様、。あなたの恵みに応答し、それを実践するものとさせてください。律法や規則でなく、自発的な思いで気前よく与え、共に喜ぶ者とならせてください。アーメン

ルカ10

「その後、主は別に七十二人を指名して、ご自分が行くつもりのすべての町や場所に、先に二人ずつ遣わされた。」ルカ10:1 ルカ10章を改めて読むと、何と様々な記事がぎっしり詰まった章だろうか、と驚きます。 「収穫は多いが、働き手が少ない」と人々を遣わされたこと、平安の子、黄金律、良いサマリア人のたとえ、マリアとマルタ姉妹・・・。 その1節には、主が行かれる予定の場所に、「先に」72人の弟子を使わしたとあります。 イエス様が先頭に立ってすべてなさるのではなく、私たちを任命し、主の権威を与えて派遣してくださるのです。主が責任を取ってくださり、私たちは主の手足として遣わされていきます。 ある人は大きな町へ、別の人は寒村へ。 でもどちらも、主が同じように召してくださいました。 人同士の比較は意味がありません。 召してくださった主がよしと言われたら、それで良いのです。 祈り:神様、目立つもの、華やかな働きなどに目がとまり、自分の奉仕が小さいものに思えます。しかし、あなたの召しに従っているならそれが一番確かな道です。へこまず、たゆまず、今日も歩ませてください。アーメン

ルカ9

「十二人は出て行って、村から村へと巡りながら、いたるところで福音を宣べ伝え、癒やしを行った。」ルカ9:6 「旅には何も持って行かないようにしなさい。杖も袋もパンも金もです。また下着も、それぞれ二枚持ってはいけません。」ルカ9:3 遣わされた場所で弟子たちは福音を宣べ伝え、癒やしを行いました。 その旅には、必要以外のものを持っていかないようにとイエス様は諭されました。 その理由には ・神以外の持ち物に頼ることがないように。 ・身軽に導かれた場所に移動できるように。 ・もてなす側の人の信仰が、もてなしによって成長するため。 など、いろいろな側面があります。 私たちも、様々なしがらみや不要なものに囲まれて生活していることはないでしょおうか。 それらが幸せよりも不安と執着を呼んでいるなら、ライフスタイルを見直す時期かもしれません。 神の国と神の義を第一にするとき、神が養ってくださるという信仰をもって歩めますように。 祈り:神様、私の信仰を強めてください。あなたに信頼し、他のものに執着する心から守ってください。アーメン

ルカ8

「ですから、聞き方に注意しなさい。というのは、持っている人はさらに与えられ、持っていない人は、持っていると思っているものまで取り上げられるからです。」ルカ8:18 取り上げられてしまう人はかわいそうに聞こえますが、これはイエス様の恵みに満ちたことばだといえます。 注意して聞く、というのは、ただ自分のためだけに聞くのでなく、これから福音を宣べ伝える人々のためにも聞くということです。 そして、正しく理解しなかった真理は失われてしまうが、実践される真理は増え広がっていくことも教えられています。 私たちは聖書のこと、イエス・キリストのことを聞いています。自分のためだけでなく、家族をはじめ周囲の人々に分かち合えるようになることを、主は望んでおられます。 分かち合う時、福音の恵みがさらに自分の中にも周囲にも増え広がり、恵みが何倍にもなることを体験します。 祈り:神様、あなたの愛と恵みについて聞いたことを分かち合えるよう、助け導いてください。この地域に主の福音と恵みがあふれ流れていきますように。アーメン

ルカ7

「ですから、私自身があなた様のもとに伺うのも、ふさわしいとは思いませんでした。ただ、おことばを下さい。そうして私のしもべを癒やしてください。」ルカ7:7 もうずいぶん前のことですが、メイドさんのいるお宅に伺ったことがあります。 柔らかい物腰で話される主人でしたが、メイドさんには端的にすべきことを命じておられました。 メイドさんを見下すのではなく、権威を持って言葉を発しておられたのでした。 百人隊長も権威についてよく理解していました。そして、イエス様のことばにはたしかな権威と効力があることを信じていました。 それがイエス様を驚かせるほどの彼の信仰でした。 私たちも、イエス様のことばには権威と効力があることを、百人隊長のように信じて歩みましょう。 祈り:天の神様、みことばには力があること、そのことばの基であるキリストこそ私たちの主であることを認めます。今日も信仰によって歩ませてください。アーメン

ルカ6

「さばいてはいけません。そうすれば、あなたがたもさばかれません。人を不義に定めてはいけません。そうすれば、あなたがたも不義に定められません。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦されます。」ルカ6:37 イエス様は、さばかないことと赦すこととを勧められました。 そして「父があわれみ深いように、あわれみ深くなりなさい」とも。 それは他者のためではなく、自分のためであると教えてくださったのです。 さらに、気前よく与えることも祝福になると言われました。 昨日はシンガポールチームが訪問してくださいました。 彼らの時間や資源のささげ方にはっとさせられます。 彼らが豊かで満ち足りているように思えるのは、神様がすべてを知って報いておられるからなのだと学ばされます。ささげ方を学ぶ良い機会でもありました。 祈り:神様、あなたが私に委ねてくださった資源を賢く管理させてください。つまらない心でさばいたりねたんだりすることから、心を自由にし、天国人としての歩みに導いてください。アーメン

ルカ5

「彼らは舟を陸に着けると、すべてを捨ててイエスに従った。」ルカ5:11 「するとレビは、すべてを捨てて立ち上がり、イエスに従った。」ルカ5:28 シモン(ぺテロ)、ヤコブ、ヨハネ、そしてレビ(マタイ)が弟子となった経緯が記されています。 「すべてを捨てて」と繰り返されています。 イエスの弟子となるために、彼らは収入を得る手立てを捨てました。 また、自分の住み慣れた快適な場所(コンフォートゾーン)から一歩踏み出しました。 アーティストやスポーツ選手のファンになったことがありますか? 熱狂的なファンがどこまでもついて行く姿を思い浮かべてください。 イエス様に従うのは、それ以上の理由と意味があります。 永遠のいのちを与え、福音をもたらす方だからです。 古ぼけた過去の話ではなく、今日の私たちに生きて関わってくださる方です。 祈り:神様、弟子たちがすべてを捨てて従うほどの福音の価値を、私もかみしめ共有したいです。自分だけの快適な生活を求めるのではなく、主に従う日々を味わわせてください。アーメン

ルカ4

「さて、イエスは聖霊に満ちてヨルダンから帰られた。そして御霊によって荒野に導かれ、四十日間、悪魔の試みを受けられた。その間イエスは何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。」ルカ4:1〜2 ルカは福音書でも使徒の働きでも「聖霊に満ちて」という表現を多用しています(使徒の働きでは57回も出てくるそうです:NIV Study Bible)。 聖霊に満たされても荒野に導かれてしまうのか、と驚くかもしれません。いつも幸せで、試練などないのでは、と。 それはクリスチャンになれば試練がなくなるのでは、というのと同じ問いだと思います。 信仰を持っても困難がなくなるのではありません。ただ、その勝利が約束されます。 神様は荒野で私たちを練りきよめ、私たちの信仰を育ててくださるのです。 その時は辛く思えても、後に神と人とのために益とされ、勝利へと導かれます。 祈り:天の神様、私たちは困難にあいたくないと考えます。しかしあなたが私たちを成長させ、全てを益としてくださるという約束に信頼させてください。 「これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を得るためです。世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。(ヨハネ16:33)」 アーメン

ルカ3

「イエスは、働きを始められたとき、およそ三十歳で、ヨセフの子と考えられていた。ヨセフはエリの子で、さかのぼると、…」ルカ3:23 ルカは、イエスが処女降誕されたことを一貫して伝えようとしています。 「ヨセフの子と考えられていた」というのも、血肉としては異なるのだと示唆しています。 また系図についても、ダビデからはマリア側を示しているという見方ができます。 当時は母方について系図が述べられることは滅多にありませんでした。しかしルカは、これを通しても処女降誕を伝えようとしたのでしょう。 医者ルカがここまで調べ、主張しているなら、神のわざをそのまま信じることができると思いませんか。 祈り;神様、あなたの偉大で及びもつかないわざを感謝します。私の不信仰を赦してください。あなたに頼ります。なかなか信じられないという(   )さんの目を開いてください。アーメン

ルカ2

「それからイエスは一緒に下って行き、ナザレに帰って両親に仕えられた。母はこれらのことをみな、心に留めておいた。」ルカ2:51 ルカはイエス様の少年時代を記録しています。 祭りの期間に迷子になった、と思われましたが、エルサレムで教師たちとディスカッションしておられました。 心配するという親としての立場と、救い主をあがめる立場にマリアは立っていました。 そして 「母はこれらのことをみな、心に留めておいた」 のでした。 マリアに託されたユニークな使命を、彼女は生ききりました。 同じように、私たちにも託されたユニークな使命があります。それを生ききることを、主は喜んでくださいます。 祈り:神様、あなたがデザインしてくださった私の人生を生きていきます。ひとりでも、目立たなくても、日々主とともに歩めますように。アーメン

ルカ1

「二人とも神の前に正しい人で、主のすべての命令と掟を落度なく行っていた。」ルカ1:6 ザカリヤもエリサベツも、信仰深く、神の前に誠実に生きていました。 しかし、願っていた子どもは与えられませんでした。そしてすでに年をとっていました(7節)。 「正しい人がなぜ苦しみにあうのか?」は信仰者がぶつかる問いです。 そして聖書には、ザカリヤとエリサベツの他、ヨブや創世記のヨセフなど、正しい人が苦しみにあう例が出てきます。 「なぜか?」に即答できない場合もあります。 それでも確かなのは、神のご計画のうちにある、ということです。 ザカリヤとエリサベツの試練は、イエス・キリストの来臨の道備えをする人物を生み出すことになりました。また、神の栄光が現れる機会を人々の前に示しました。 私たちの苦難も、神のよいご計画のうちにあることを信じましょう。 祈り:神様、あなたのよいご計画を信じたいです。今苦難にあっている人たちを覚えて祈ります。主にある解決に望みを置く人に、豊かに主のご栄光を表してください。アーメン

マルコ16

「青年は言った。『驚くことはありません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められていた場所です。』」マルコ16:6 人に会いに行って「ここにはおられません」と言われるとがっかりします。 ところが、十字架で死なれたイエス様が「ここにはおられません」とは、嬉しい驚きであり、言葉では言い表せない喜びです。 ありえないことが起こった。それが私と関係あるーー その感動を味わったでしょうか。 味わっているなら、イエス様から離れようとは思いません。 人との関係でなく、主との関係に目を向けてみましょう。 祈り:神様、イエス・キリストの復活の恵みを日々思い巡らすことができますように。キリストにより根ざす思いを、ひとりひとりの心に与えてください。アーメン

マルコ15

「アリマタヤ出身のヨセフは、勇気を出してピラトのところに行き、イエスのからだの下げ渡しを願い出た。ヨセフは有力な議員で、自らも神の国を待ち望んでいた。」マルコ15:43 有力者の中にも、イエスを神の子と信じて信仰に入った人がいました。 有力者ならピラトと交渉するのもたやすかったというわけではありません。 もしパリサイ人や律法学者の反発をかえば、追放や迫害は避けられなかったでしょう。 「勇気を出して」と一歩踏み出したヨセフの信仰は、私たちにも主に従う者の姿勢を教えてくれます。 職場で、学校で、地域で、少数派だからと萎縮せず、主への従順と勇気が周囲の祝福になることを信じます。 祈り:神様、福音と神の国の素晴らしさをもっとわからせてください、アリマタヤのヨセフのように、置かれた場所で信仰に根差した一歩を踏み出すことができますように。アーメン

マルコ14

「そしてこう言われた。『アバ、父よ、あなたは何でもおできになります。どうか、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように。』」マルコ14:36 福音書を読むと、受難週とイースターを何度も経験するような思いになります。 マルコでも、イエス様が十字架を前にゲッセマネで祈られる箇所になりました。 35節には「それからイエスは少し進んで行って、地面にひれ伏し、できることなら、この時が自分から過ぎ去るようにと祈られた」とあります。 神のひとり子である方が「できればやめてください」と願い、しかも聞き届けられなかったというのは示唆に富んでいます。 なぜなら、そのイエスの願いを越えた神のみこころが実現することで、もっともっと素晴らしい救いの道が完成したからです。 私たちも祈りがきかれないことがあります。それを「神などいない」といじけるか、神のもっともっと素晴らしい計画を見ることになるのかは、私たちの選択です。 祈り:神様、祈りがきかれない時にも信頼する心を与えてください。「わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように」と祈られたイエス様にならいたいです。今日、試練の中にある人に、忍耐と新しい力を与えてください。アーメン

マルコ13

「気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたは知らないからです。」マルコ13:33 もしも今日、イエス様が再び来られるとしたらどうしますか。 「あの人にも話さなきゃ」とあわてますか。 「ベストを尽くして福音を分かち合った」と安心しますか。 いつがその時かは、神ご自身だけが知っておられます。 しかし、その時が近なら、どう日々を過ごすか…それこそが私たちの生き方として示されているのではないかと思います。 祈り:神様、あなたが変わらないお方であることに感謝します。不安の中で生きている人々に、あなたの福音からくる平安を伝えることができますように。 「天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません。(31節)」 アーメン

マルコ12

「イエスは弟子たちを呼んで言われた。『まことに、あなたがたに言います。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れている人々の中で、だれよりも多くを投げ入れました。』」マルコ12:43 イエス様はたくさんささげる金持ちの献金より、貧しいやもめがささげた銅貨2枚の重みをよく知っておられました。そしてやもめのささげ方を評価されました。 それは、献金が額でなく心を表すものだからです。 神様を愛し、与えられているものに感謝してささげる献金は、その人の信仰の表れです。 この点がカルト宗教との大きな違いです。 ある人が、自分に必要があるからこそ多くささげてみた、とあかししてくれました。 神の国を第一にするとき、すべてが備えられるということを信じていて、本当にその通りになりました。 私たちは今日、どのようなささげ方をしているでしょうか。 祈り:神様、あなたの満たしを期待します。経済的なことでやみくもに焦ることなく、静まって主の満たしを祈り知恵深く行動できるよう、また惜しまず大胆にささげられるよう、私を整えてください。アーメン

マルコ11

「そして、前を行く人たちも、後に続く人たちも叫んだ。 『ホサナ。 祝福あれ、主の御名によって来られる方に。』」マルコ11:9 エルサレムの町にイエス様が入られた時、人々は「ホサナ。祝福あれ、主の御名によって来られる方に。」と歓迎しました。 しかし1週間もたたないうちに、十字架につけてしまいます。 人の心はなんと変わりやすいことでしょう。 一方、聖書は神が私たちをまず愛してくださったと語ります。 そしてその愛は変わることがありません。 私たちが何をしてきたとしても、神は見捨てることをなさいません。 悔い改める人を神は赦してくださいます。 この恵みと赦しの大きさをかみしめましょう。 祈り:神様、イエス・キリストと出会ってからも、時に自分勝手な思いに陥り、失敗をしてしまう者です。赦してください。悔い改める心、砕かれた柔らかい心を与えてください。アーメン

マルコ10

「そこでイエスは言われた。『さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救いました。』すると、すぐに彼は見えるようになり、道を進むイエスについて行った。」マルコ10:52 イエス様は、目の見えない人に「わたしに何をしてほしいのですか」と言われました。すると、その人は「先生、目が見えるようにしてください。」と答えたのでした(51節)。 そのはっきりした答えは、彼の信仰から来るものだと言えます。 ・彼は、願うべき根源の必要を知っていました。お金がほしいのでも、みじめな思いでもなく、目の癒やしだったのです。 ・彼は、イエス様には癒す力があると信じて、ストレートに願いました。 少し前の部分を読むと、彼が繰り返し「ダビデの子よ。私をあわれんでください」と叫び続けたことがわかります。 すでにイエス様のところに来る時、「上着を脱ぎ捨て、躍り上がって」やって来ました(50節)。 ・イエス様の元に行くことを第一に求めました。 彼の姿勢は、私たちの信仰のあり方によいお手本を示しています。 祈り:神様、この記事に出てくる人のように、主を求め主にすがる者とさせてください。母の日に、私たちに肉の母、霊の母を与えてくださったことに感謝します。アーメン

マルコ9

「イエスは腰を下ろすと、十二人を呼んで言われた。『だれでも先頭に立ちたいと思う者は、皆の後になり、皆に仕える者になりなさい。』」マルコ9:35 あるお母さんたちが、校長先生をほめていました。「あの校長先生は、毎朝校門で子どもたちを迎えてくれる。その後、ほうきで掃除をしている。いい先生だわ」と。 仕える姿が好感だけでなく、信頼を生んでいるのだと思いました。 校長先生どころか、神であるイエス・キリストが同じようにされた、と聞いたら驚くことでしょう。 しかし、イエス様は弟子の足を洗ったり、食物に気を配ったり、子どもたちを抱いたりされました。 「サーバント・リーダーシップ」の見本を見せてくださいました。 祈り:神様、仕える者の姿をイエス様が示してくださり感謝します。私も、小さな仕事でも心をこめてできるよう、謙遜にさせてください。アーメン

マルコ8

「すると、パリサイ人たちがやって来てイエスと議論を始めた。彼らは天からのしるしを求め、イエスを試みようとしたのである。」マルコ8:11 イエス様は、パリサイ人との対立を避けることはなさいませんでした。 むしろ、彼らの矛盾や先入観、人の規則でがんじがらめになっている状態を鋭く指摘されました。 彼らがむやみに天からのしるしを求めたのも、神の栄光ではなく、イエスを陥れようとしたからでした。 今日も「神を見たら信じる」とか「この願いが奇跡的にかなったら信じる」という人がいます。 しかし、その動機はどこにあるでしょうか。 そのように問いかける人が、見えなくても確かなものがあることに気づけますように。 祈り: 神様、理詰めであなたをわかろうとするのではなく、信仰で見ることができますように。イエス・キリストの救いを疑う人に、聖霊と主の愛にふれられる経験が与えられますように。アーメン

マルコ7

「それなのに、あなたがたは、『もし人が、父または母に向かって、私からあなたに差し上げるはずの物は、コルバン(すなわち、ささげ物)です、と言うならーー』と言って、その人が、父または母のために、何もしないようにさせています。」マルコ7:11~12 「コルバンって、何だろう」と想像したものでした。レビ記の「ささげ物」のヘブル語発音を現したものですが、当時は「パン」の一種か何かのように思えたのですね。 これは、パリサイ人や律法学者たちが父や母へのケアをないがしろにしており、「コルバンになりました」と言い訳をしていたことを戒めたものです。 イエス・キリストを救い主だと信じることは、決して親不孝ではありません。 むしろ、親や家族をより愛し、キリストの愛を実践することができるようになる(はず)です。 言い訳しがちな私たちですが、もうすぐ母の日。 母や父、家族に、今年はどのように愛を表すことができるでしょうか。 祈り:神様、あなたの素晴らしい愛を受け取り、流し出すことができますように。私たちの肉の父母、そして霊の父母に感謝します。アーメン

マルコ6

「するとイエスは彼らに言われた。『さあ、あなたがただけで、寂しいところへ行って、しばらく休みなさい。』出入りする人が多くて、食事をとる時間さえなかったからである。」マルコ6:21 6章も目まぐるしいほどに、イエス様の公生涯の歩みが記述されています。 奇跡の数々、親類のバプテスマのヨハネの殉教の経緯、十二弟子の派遣、人々とのやりとり...。 その多忙な中でも、イエス様は静まりの時、ソリチュードを持っておられました。 そして弟子たちにも、しばらく休むようにと配慮してくださいました。 連休中、少しは休めたでしょうか。通常と変わらず出勤だった人もいるでしょう。つい動きすぎて、かえって疲れている人もいるかもしれません。 いつ、静まる時を持っていますか。イエス様は招いておられます。 たとえ多忙の中にあってもその時が持てることを、ご自身で示してくださいました。 祈り:神様、あなたの与えてくださる静まりの時を感謝します。日頃雑事に追われては聞くことのできない主の声、見ることのできない大きな絵を、主と共に過ごし見聞きすることができますように。アーメン

マルコ5

「すると、すぐに血の源が乾いて、病気が癒やされたことをからだに感じた。」マルコ5:29 「すると、少女はすぐに起き上がり、歩き始めた。彼女は十二歳であった。それを見るや、人々は口もきけないほどに驚いた。」マルコ5:42 マルコの福音書にはしばしば「すぐに」ということば出てきます。 5章でも、イエス様の癒やしが直ちに起こったことを示しています。 ただし、それまでの経緯は長いものでした。 女性は12年長血に苦しんでいました。 少女は一度死んでしまいました。 主の時が来たとき「すぐに」癒やしが起こったのでした。 それは彼らの願いよりも随分後のことだったでしょう。 主のご計画は、私たちの思いと違うタイミングで起こることが多くあります。 それまで、最善をなさる主に信頼しつつ待つ者でありますように。 祈り:神様、あなたの時を期待し信頼することができるよう、必要な忍耐と力を与えてください。今、祈りがなかなか聞かれないと感じている人に励ましを与えてください。私も________のことに、主の時を待ち望みます。アーメン

マルコ4

「イエスはまた彼らに言われた。『明かりを持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためでしょうか。燭台の上に置くためではありませんか。』」マルコ4:21 福音は、ちょうど明かりのようです。 その福音の光を頂いた私たちがすることは、明かりを燭台の上に置くことです。 暗闇を光が照らすためです。 升の下や寝台の下に隠しておくためではありません。 福音の光を、家具の下や部屋の隅に隠していないでしょうか。 光はよく照らすところにおいても、むやみに減ることがありません。 福音も分かち合えば分かちあうほど、さらに豊かに輝きます。 昨日まかれたトラクトが、必要な方の手元で輝きますように。 祈り:神様、あなたの福音の光をまく働きをゆだねてくださり、感謝します。種を成長させてくださるのはあなたですから、結果に左右されず種をまき続けることができるよう、導いてください。アーメン

マルコ3

「イエスが多くの人を癒やされたので、病気に悩む人たちがみな、イエスにさわろうとして、みもとに押し寄せて来たのである。」マルコ3: 10 連休中で、空港や観光地は大勢の人でいっぱいです。 その様子は、当時の人々がイエス様のところに押し寄せた光景と重なります。 「イエスは、群衆が押し寄せて来ないように、ご自分のために小舟を用意しておくよう、弟子たちに言われた」(9節)とあるほどです。 直接的には病気の癒やしが動機でしたが、そこに福音があることも人々は見聞きしました。 連休中の礼拝はどうでしょうか。外出していても、オンラインはもちろん、現地の教会を訪ねてクリスチャンの励ましを持つこともできます。 やがてリバイバルが起こりイエス・キリストを求めて教会に人が押し寄せる、マルコ3章の光景を見る日を期待します。 祈り:神様、キリストの福音がどれほど価値があり、永遠の喜びと楽しみをもたらすものか、まず私自身がよくわかりますように。リバイバルに備えて一人一人の霊性を整えてください。アーメン

マルコ2

「まただれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れたりはしません。そんなことをすれば、ぶどう酒は皮袋を裂き、ぶどう酒も皮袋もだめになります。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるものです。」マルコ2:22 私自身はアルコールを飲みませんが、年数の経つワインの方が価値があると聞いたことがあります。 それで、一瞬混乱して、古いぶどう酒の入る古い皮袋の方が価値があるのか、と思ってしまったことがありました。 そうではありません。 新しいぶどう酒は発酵して膨らむので、伸縮性のある新しい皮袋に入れなければならないということを、イエス様はここで言われました。 新しいぶどう酒とは、新約時代であり、新しいイエス・キリストの契約に基づく福音の時代です。 それを古い律法の袋に入れるではない、ということです。 私たちの心も、先入観を持った古い皮袋ではなく、新しい皮袋として、聖霊のダイナミックな働きを受け入れ、それに従う柔らかさを持てますように。 祈り:神様、私が新しい福音の契約に生きていることに感謝します。古い先入観や、不要な価値観から自由になれますように。主にある自由を味わいます。アーメン

マルコ1

「こうして、イエスの評判はすぐに、ガリラヤ周辺の全域、いたるところに広まった。」マルコ1:28 マルコの福音書は、主に外国人クリスチャンに宛てて書かれました。 イエス様の行為、何をなさったかにより焦点が当てられています。 そして「すぐに」という表現があちこちに出てきます。 1章を読むだけでも、マタイの福音書で何章にもわたって書かれていたことがコンパクトに、総集編のようにまとめられています。 学生時代、聖書をはじめて読む人のために昼休み聖書研究会が持たれていました。 そこでは、このマルコが用いられていました。 読書が苦手、聖書は難しそうという人にも、このマルコの福音書は読みやすいと言われています。 イエス様の姿がいきいきと表現されているので、楽しみに読みましょう! 祈り:神様、初めて聖書を読む時も繰り返し読む時も、知性だけでなく聖霊に頼りながら読めるよう、助けてください。マルコの福音書を通して、さらにイエス・キリストのことがよくわかりますように。アーメン

マタイ28

「ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」マタイ28:19~20 マタイの福音書の中で、もっとも印象に残るみことばの一つがこの「大宣教命令」です。 JEC聖会のメッセージでは、種にはいのちがあり、それが成長するのは神の領域であること、しかし種をまくのは私たちにゆだねられたことだと学びました。 救いに導き、信仰を成長させてくださるのは神様です。 すぐに実が見えなくても、種をまき続ける農夫のようであれば、神が思いがけない形で報いてくださいます。 祈り:神様、あなたのおことばに従って種をまきたいです。私にあった伝道やあかしの仕方に導いてください。あなたが成長させてくださる方であることに期待します。アーメン

マタイ27

「そのとき、預言者エレミヤを通して語られたことが成就した。『彼らは銀貨三十枚を取った。イスラエルの子らに値積もりされた人の価である』」マタイ27:9 エレミヤ19:11、32:6-9、ゼカリヤ11:12-13がこの預言の引用箇所と思われます。 陶器師の畑を買い取ったこと、それが銀貨30枚だったことが語られています。 今日の私たちが旧約聖書から一部をつまみ食いのように拾い上げ、こじつけて解釈することは間違いです。 しかし、福音書を書いたマタイや聖書の記者たちは、神の霊感に導かれました。 そして、全体を読んでもそれは矛盾のないように組み合わさっています。 神の知恵と素晴らしさは人間の知恵を越えています。 細胞の中のナノ単位にも驚くべき世界が広がっているそうです。これもまた、神の知恵です。iPS細胞の山中伸弥教授にも「神がいると思えてしまう」と言わせるほどです(NHKスペシャル 人体3 第一集 命の源 細胞内ワンダーランド 2025.4.27放送)  祈り:神様、あなたの知恵、あなたのみわざは恐ろしいほどに素晴らしく、想像を絶するものです。過去、現在、未来にわたってあなたが全世界を支配しご計画を持っておられることに感謝します。その前にひれ伏します。アーメン

マタイ26

「これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です。」マタイ26:28 聖さん式をするとき、いつも読まれる箇所です。 耳慣れた聖句ですが、どのくらい味わっているでしょうか。 契約の血は、イエス・キリストの生身に釘が打たれ、流された血によるものでした。 その象徴として、信じる者はぶどう液を頂きます。 次回の聖さん式では、ぶどう液をいつもに増して見つめ、ゆっくりと味わい、主の支払ってくださった罪の代価に思いをはせてみませんか。 祈り:神様、キリストの契約の血が流され、私たちの罪の代価が支払われ赦されたことを感謝します。いつも思い起こし恵みを忘れることがないよう助けてください。アーメン

マタイ25

「ですから、目を覚ましていなさい。その日、その時をあなたがたは知らないのですから。」マタイ25:13 「天の御国は、それぞれともしびを持って花婿を迎えに出る、十人の娘にたとえることができます」(1節)とたとえが始まります。 5人は油をもっていませんでしたが、あとの5人はもっていました。 用意ができていること、備えができていることを「目を覚まして」と表現しています。 イエス様が今日来られるとしたら、用意はできていますか? それともあわてふためくでしょうか。 油の用意をしていた娘のようなら、平安にその日を迎えることができます。 祈り:神様、目を覚まして備えていられるよう、平安と主への信頼を与えてください。いつかはわからなくても、その日が必ずやってくると約束されていることに感謝します。落ち着いて生活できるよう、連休中に新年度の歩みを振り返り、あなたと過ごす時間をもっととりたいです。アーメン

マタイ24

「人の子は大きなラッパの響きとともに御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで四方から、人の子が選んだ者たちを集めます。」マタイ24:31 イエス様が終末について話されます。惑わすものが多く出てくるけれども、心揺るがせないように。そして、イエス様が再び来られます。 黙示録でも似た光景が描写されています。 幼いころ、この部分の描写が怖くて読むのがきらいでした。 でも今は大丈夫です。 恐ろしそうに思えますが、イエス・キリストを救い主と信じる人にとっては、こわがる必要はないとわかったからです。 その日は究極の救いの日、完成の日です。 滅ぼされるのではなく、涙をぬぐわれ主と共に過ごす素晴らしい日です。 祈り:神様、イエス・キリストを信じる者にとっては、主が再び来られる日は喜びと賛美の日です。その日まで期待しつつ歩ませてください。アーメン

マタイ23

「わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは白く塗った墓のようなものだ。外側は美しく見えても、内側は死人の骨やあらゆる汚れでいっぱいだ。」マタイ23:27 イエス様の厳しいおことばにはっとします。 偽善を行っていた人たちに対して、外側は美しくても内側は汚い「白く塗った墓のようなものだ」とおっしゃいました。 イメージが浮かびますね。 人の外側にあるものより内側が大切だ、と聖書は語ります。 もし心や考えに汚れたものが詰まりかけているなら、掃除が必要です。 悪魔が悪い思いや考えを持ってくるなら、神の武具(エペソ6章)で装備し、戦いましょう。 勝利はすでに主のものですから、私たちはその主の力に信頼するのみです。 祈り:神様、私たちの内側を照らしてください。喜ばれないものがあるなら取り除き、霊的な攻撃から守り、あなたの喜ばれることを思い実行するものとならせてください。今日のユース運動会が事故や怪我から守られ、よい交流の時となりますように。アーメン

マタイ22

イエスは彼らに言われた。「それでは、どうしてダビデは御霊によってキリストを主と呼び、『主は、私の主に言われた。 「あなたは、わたしの右の座に着いていなさい。 わたしがあなたの敵を あなたの足台とするまで」』 と言っているのですか。」マタイ22:43~44 旧約時代の王、ダビデが主の霊によって預言していた聖句が引用されています。 ダビデの子孫ではあるけれどご自身こそ救い主キリストであることを、イエス様は明らかにされました。 マタイの福音書は、当初ユダヤ人たちに向けて書かれました。ですから、彼らが親しんでいた旧約聖書が多く引用され、確かに彼らが待っていたメシアが来られたのだと証ししようとしています。 今、私たちは日本で暮らしています。あるいは海外で日本語を使っているかもしれません。日本語を話す人たちにとってもイエス・キリストが救い主であることを、どのようにわかりやすく証しできるでしょうか。 祈り:神様、日本語を話す人たちに、聖書やイエス・キリストに関する情報が豊かに届きますように。私たちも等身大のあかしをしたいです。祈りと主の知恵によって備えさせてください。アーメン

マタイ21

イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、聖書に次のようにあるのを読んだことがないのですか。 『家を建てる者たちが捨てた石、 それが要の石となった。 これは主がなさったこと。 私たちの目には不思議なことだ。』」マタイ21:42 祭司長やパリサイ人が見捨て殺したお方、イエス・キリストが救いの土台となられました。 惨めな姿にされ、ばかにされて十字架刑を受けられた方は、常識的には敗北者でした。 しかし、霊の世界においては旧約聖書の預言を成就し、神の救いの計画を成し遂げた唯一のお方でした。 見えるところでは、ただ殺され、墓に入れられ、三日目に遺体が行方不明になりました。 しかし、霊の世界においては、罪と死の力に勝利し、復活し、永遠の救いの道を開かれました。 見えるところや常識にこだわっているでしょうか。あるいは、神の思いがけない計画を受け入れる用意ができているでしょうか。 祈り:神様、私たちの目には不思議に思えるあなたの導きを、常識や先入観ではなく霊の目で見ることができるよう、助けてください。アーメン

マタイ20

「あなたの分を取って帰りなさい。私はこの最後の人にも、あなたと同じだけ与えたいのです。」マタイ20:14 夕方来て少しだけ働いた人にも、早朝から働いた人と同じだけ賃金を払うことについての、主人の見解です。 それは、主なる神様が気前のよいことを表しています。 気前のよい神様を味わっていますか? 祈り:神様、あなたの豊かさ、気前のよさに感謝します。私があなたのみわざを過小化することがないように導いてください。毎日があなたの守りのうちに備えられていることに感謝します。アーメン

マタイ19

「しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になります。」マタイ19:30 競争心のある方ですか? それが励みになり、良いものを追求する動機になることもあります。 しかし、過度に比較すると、優越感や劣等感のとりこになってしまいます。 聖書は、天の国は先の者が後になり、後の者が先になることがあると語っています。 自分が先の者なら悔しいですが 後の者であることを思うと、主の恵み深さを実感します。 年下の人や信仰の間もない人がどんどん霊的に成長するのを、心から喜べる者となれますように。 祈り:神様、あなたの恵みとあわれみの深さに感謝します。互いの成長を喜びあえますように。アーメン

マタイ18

「まことに、もう一度あなたがたに言います。あなたがたのうちの二人が、どんなことでも地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父はそれをかなえてくださいます。」マタイ18:19 昨日はイースターの幸いな礼拝でした。心を一つにして主を見上げ、礼拝をささげ、賛美をし、祈ることの恵みを実感しました。 イエス様は、祈りについて二人でも共に心を合わせるなら、父はそれを聞いてくださると教えてくださいました。 そして 「二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです(20節)」と、イエス様ご自身も共にいると言われました。 一人で祈るのも恵みですが、二人、三人と共に祈るのは大きな励ましであり恵みです。祈りの友がいますか?互いに祈りあえる信仰の友は、どんなプレゼントにも勝る主の贈り物です。 祈り:神様、信仰の友を与えてくださり感謝します。同じ主を見上げて祈り合う時、信仰が励まされます。主が聞いていてくださることを信じます。アーメン

マタイ17

「『人の子は彼らに殺されるが、三日目によみがえります。』すると彼らはたいへん悲しんだ。」マタイ17:23 イースターおめでとうございます! 弟子たちはイエス様の死とよみがえりを聞かされても「たいへん悲し」みました。 理解できなかったからです。 しかし、イエス様はそれが神のご計画であること、そして悲しみで終わるのではないことをすでに知っておられました。 そして実際もその通りです。 イエス・キリストの復活が、二千年にわたって世界中で喜びと感謝の事実として祝われています。 私たちは主の復活と、それが自分に関係のあることだということを信じています。 「からし種ほどの信仰」(20節)だとしても、持てば永遠のいのちが得られるという恵みの中に生きています。 この恵みの大きさを味わいましょう。 祈り:神様、あなたの復活の力を感謝します。死を打ち破り、よみがえってくださり、永遠のいのちへの道を確かにしてくださって感謝します。イースターを兄弟姉妹と共に喜び、共に祝います!アーメン

マタイ16

「そのときからイエスは、ご自分がエルサレムに行って、長老たち、祭司長たち、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえらなければならないことを、弟子たちに示し始められた。」マタイ16:21 イエス様はご自身が十字架にかかられ、よみがえられることをすでに知っておられました。 また、ご自身がキリストであることも弟子たちに明らかにされました。 ふり返る時、弟子たちにはそのことが理解できました。しかし、この時にはあまりよくわからなかったようです。 今の私たちは、キリストの十字架と復活の意味が聖書によって明らかにされています。それを信じ受け入れるだけでよいという、恵まれた時代に生かされています。 明日はイースター(復活際)です。日本でもだんだんと知られるようになりましたが、お祭りとか年中行事と捉えがちです。 ひとりでも多くの人が、本当の意味と救い主を知ることができますように。 祈り:神様、イースターがなぜ素晴らしい記念日なのか、知らない人がほとんどです。自然な会話ややり取りの中で、福音を分かち合う機会を与えてください。アーメン

マタイ15

「『この民は口先でわたしを敬うが、 その心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを礼拝しても、むなしい。 人間の命令を、教えとして教えるのだから。』」」マタイ15:8~9 パリサイ人や律法学者たちに対して、イエス様はイザヤの預言を引用して厳しく叱責されました。 というのも、彼らがみことばの字面をとり、本質をねじまげて「神にささげたから父母にあげる物はない」というふうに曲解していたからです。 私たちが同じような偏りに陥らないよう祈りたいです。 自分の都合のよいようにみことばを解釈したり、働き人や兄姉の心からの忠告を聞き入れなかったりする者でなく、イエス様の前に心探られ砕かれた者となりますように。 そして、今日は十字架にかかってくださったイエス様を特に覚えて感謝します。 祈り:神様、あなたの前にへりくだることを教えてください。 みことばを受けとる謙遜さと兄姉の真心に感謝する心を与えてください。あなたの十字架の愛を覚えて感謝します。アーメン

マタイ14

「人々はみな、食べて満腹した。そして余ったパン切れを集めると、十二のかごがいっぱいになった。」マタイ14:20 私たちは自分には少ししかない、無理だ、と言い訳をしがちです。 ちょうど「ここには五つのパンと二匹の魚しかありません」(17節)のように。 しかし、主はそれを用いて五千人以上を満足させたお方です。 小さなものを主のために差し出す時に、主は喜んでくださり、ご自身の力で用いてくださいます。 心のたんすの中にしまっているもので、何を主におささげできるでしょうか。 祈り:神様、私に与えられているものは、あかしも賜物も時間も持ち物も、全てあなたからのものです。私の____を、主の栄光のためにおささげできるよう、そして用いていただけますように。アーメン

マタイ13

「それは、預言者を通して語られたことが、成就するためであった。『私は口を開いて、たとえ話を、世界の基が据えられたときから 隠されていることを語ろう。』」マタイ13:35 詩篇78篇2節に「私は口を開いて たとえ話を 昔からの謎を語ろう」 とあります。 主を信じ賛美する者を通して、主が預言を与えられたことがわかります。 ただすてきな詩として味わうだけでなく、詩篇にも主のご計画やみこころが現されているのだと思うと、その奥深さに興味はつきません。 今日も、主を愛し信頼する人を通して、主が預言の言葉を与えてくださることがある、と私は信じます。 それは聞く人の徳を高め、建て上げ励ますための主の愛に根ざしたものであると思います(人を縛り、落胆させるものには注意が必要です)。 第一コリント 14:1「愛を追い求めなさい、。また、御霊の賜物、特に預言することを熱心に求めなさい。」 14:3「預言する人は、人を育てることばや勧めや慰めを、人に向かって話します。」 14:4「...預言する人は教会を成長させます。」 祈り:神様、あなたのみ思いを、人を通しても表してくださり感謝します。判別する力を与えてください。また、人を育て勧め励まし、教会を成長させる主の愛の言葉を与えてください。アーメン

マタイ12

「これは、預言者イザヤを通して語られたことが成就するためであった。『見よ。わたしが選んだわたしのしもべ、 わたしの心が喜ぶ、わたしの愛する者。 わたしは彼の上にわたしの霊を授け、 彼は異邦人にさばきを告げる。 彼は言い争わず、叫ばず、 通りでその声を聞く者もない。傷んだ葦を折ることもなく、 くすぶる灯芯を消すこともない。 さばきを勝利に導くまで。異邦人は彼の名に望みをかける。』」マタイ12:17~21 イザヤが預言したように、父に愛された御子は人々の痛み苦しみをわかってくださる方です。 ちょうど先日のTV「ライフ・ライン」でもこの箇所からメッセージがされていました。 使い物にならない「傷んだ葦」、消えそうな「くすぶる灯芯」のような人々を見捨てることなく、回復させてくださる方こそイエス・キリストです。 私たちの傷んだところ、消えそうに弱っているところをキリストの前に持っていき、癒していただきましょう。 祈り:神様、イエス・キリストを通して、あなたの愛と癒しを受けます。私の_____を包み癒してください。アーメン

マタイ11

「この人こそ、 『見よ、わたしはわたしの使いを あなたの前に遣わす。 彼は、あなたの前にあなたの道を備える』 と書かれているその人です。」マタイ11:10 イエス様は、バプテスマのヨハネについてこのように言われました。 旧約聖書のマラキ書3章を引用されたのです。 マラキ書では、主が現れる前にこの人物が来ると述べられています。 つまり、イエス様はご自身が旧約聖書の成就であること、そして主であることを明らかにされたわけです。 このことを信じるのは、幼子のような心を持った人々でした(25節)。 私たちは、今日も幼子のような心でキリストを理解しようとしているでしょうか。 へりくつや理論に傾いた、小さな信仰になっていないでしょうか。 純粋な信仰で、主の守りとみわざを見る者となれますように。 祈り:神様、私に純粋な信仰を増し加えてください。また、イエス様の招きに、____さん、____さんが、幼子のように応答できますように。アーメン

マタイ10

「二羽の雀は一アサリオンで売られているではありませんか。そんな雀の一羽でさえ、あなたがたの父の許しなしに地に落ちることはありません。」マタイ10:29 受難週が始まりました。イエス様の十字架への道を思いながら過ごしたいと思います。 雀たちの命さえ支配しておられる主は、私たちのいのちや一生を私たち以上に知っておられます。 イースターの礼拝では特別賛美と演奏があります。 演奏は「一羽の雀」で、サビは 「こえたからかに われは歌わん 一羽の雀さえ 主は守りたもう」 です。まさに今日の箇所の通りです。 賛美は「はかのなかに」です。 「よみよりかえり 死と悪魔に勝ちし 君こそ勝利の主なれ 君こそまことの主なれ~」 壮大な主のみわざを共にほめたたえましょう。 祈り:神様、受難週に入りました。私たちのために十字架の道を通ってくださり感謝します。心を整えてこの一週間を過ごすことができますように。アーメン

マタイ9

「そこでイエスは弟子たちに言われた。『収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、ご自分の収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。』」マタイ9:37~38 イエス様のこのことばに応答して、多くの人が働き手が起こされるように祈ります。 そして、中には自分もその収穫に共に働きたい、と導かれる人もいます。 今年も聖書の学びをするため、日本中の聖書学校、神学校に入学した人がいます。 その人たちのために祈りましょう。 また、「私はどうだろうか」と問うてみましょう。 フルタイムでなくても、仕事や家事をしながら学ぶ方法、仕える方法もあります。 神様は何を望まれているでしょうか。 祈り:神様、収穫の主のために日々労苦している働き人のために祈ります。あなたが必要な力と喜びを与えてください。全国で聖書の学びをしている人たちを祝福してください。家族と霊性を支えてください。アーメン

マタイ8

「これは、預言者イザヤを通して語られたことが成就するためであった。『彼は私たちのわずらいを担い、 私たちの病を負った。』」マタイ8:17 イエス様は、 ツァラアトの人に手を伸ばして触れてくださったり(3節)、 百人隊長のしもべのところへ行こうとしてくださったり(7節)、 ぺテロの家で姑の熱をいやしてくださったり(14節)、 悪霊どもを追い出し、病気の人々をみな癒やされたり(16節)しました。 人々の求めること以上のことをしてくださったともいえます。 イザヤ53:4の預言が、この愛に満ちた方、実際に癒す力のある方において実現しました。 今日も、同じ主が私たちの日々の歩みに関心を持っておられます。 教会は主のもの、そして教会の歩みや決断も、主のみこころを求めて皆で祈ることを喜んでくださいます。 教会設立50年を前に、今年もいくつかの変化が感じられます。 変わらない主が教会の頭であることに信頼し、ますます心合わせて祈っていきましょう! 祈り:神様、昔から未来まで、変わらない主に祈り頼ることができて感謝します。 私たちの日常のことから宇宙のことまで、あなたのみこころがなりますように。 みこころが教会の歩みに日々行われますように。アーメン

マタイ7

「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれでも、求める者は受け、探す者は見出し、たたく者には開かれます。」マタイ7:7~8 「ウォンツ(wants)」と「ニーズ(needs)」という表現を聞いたことがあります。 前者は「なくてもよいけど欲しいもの(バーゲンでたまたま見つけたものなど)」、後者は「その人にとって必要、あるいは不可欠なもの」だそうです。 「ウォンツ」は本当に必要とは言えないので、しばらくすると忘れることさえあります。 祈りは、私たちの「ウォンツ」と「ニーズ」を明らかにしてくれます。 みこころでない願いは、祈るうちに主が執着を取り除いてくださいます。 一方、みこころに沿った祈りは聞き届けられます。 ですから、あきらめず祈り続けることが大切です。みこころなら必ず受け、見出し、開かれるのだと確信を持って祈りましょう。 祈り:神様、祈りがなかなか聞かれないとあきらめそうになります。どうか忍耐と確信を与えてください。思いをあなたの元に持っていける恵みに感謝します。アーメン

マタイ6

「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。」マタイ6:33 アメリカの動向に経済が揺れているそうです。海の向こうの決定が日常生活に影響し、不安を覚える人がいます。 そうした時、「まず神の国と神の義を求めなさい」と語りかけてくれるみことばの存在は、何と力強いことでしょう。 「そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます」という約束も与えられています。 昨日はKBIの入学式でした。聖書の希望と福音を信じ、人々に伝えたいと願う人たちが多く集う姿に励まされます。 人々が不安な時ほど、福音の光とみことばの安定感が輝きます。 祈り:神様、聖書のことばに根ざした価値観の確かさを覚えます。今、経済や社会の変動に不安を感じている人が、ゆるがない聖書とキリストの救いに安らぎを見出だすことができますように。私のあかしも(たとえ自分では小さいと思っても)主のために用いてください、アーメン

マタイ5

「あなたがたは世の光です。山の上にある町は隠れることができません。また、明かりをともして升の下に置いたりはしません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいるすべての人を照らします。」マタイ5:14~15  今週の「ライフ・ライン」の番組のゲストは井ノ川晴樹さんという方でした。 16節の「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです」 を座右の銘にしておられるとのことでした。 もっとも、私たちが自分で良い行いをするのには限界がありますし、自らの力で世の光となることもできません。 この光は、キリストの福音を知った者が見出だす、キリストご自身の栄光です。 キリストの霊が内に住まい、キリストについていきたいと思う者を通して、欠けだらけの器から光がもれるように、キリストの栄光が輝くのです。 今日、キリストのどんなご性質が私たちを通して輝くようにと願いますか。 祈り:神様、私たちをキリストをあかしする者として召してくださり、感謝します。 口先だけでなく、信仰を実践する者となれますように。アーメン

マタイ4

「これは、預言者イザヤを通して語られたことが成就するためであった。 『ゼブルンの地とナフタリの地、 海沿いの道、ヨルダンの川向こう、異邦人のガリラヤ。闇の中に住んでいた民は 大きな光を見る。 死の陰の地に住んでいた者たちの上に 光が昇る。』」マタイ4:14~16 今回のマタイ通読では、旧約聖書のことばがイエス・キリストを指し示していることに着目しています。 イエス様の公生涯のはじめも、旧約聖書の預言が成就しました。 14~16節はイザヤ9章のはじめに出てくることばです。 「しかし、苦しみのあったところに闇がなくなる」に続いて、このことばが書かれています。 そして、その通りになりました。 ゼブルン、ナフタリ、ガリラヤ...だけでなく、今の日本にも、私たちにも、 「闇の中に住んでいた民は大きな光を見る」の通り、キリストは光です。 死の陰の滅びから永遠のいのちへと救い出してくださる方です。 祈り:神様、イエス・キリストこそが死から救ってくださる光です。人生の意味を求めている___さん、___さんが、明確この光を信じることができますように。アーメン

マタイ3

この人は、預言者イザヤによって 「荒野で叫ぶ者の声がする。 『主の道を用意せよ。 主の通られる道をまっすぐにせよ』」 と言われた人である。マタイ3:3 前回(2024年7月)には、バプテスマのヨハネの人格について考えました。 彼の出現も旧約聖書に預言されていたことに気づきます。 イザヤ40:3「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意せよ。荒れ地で私たちの神のために、大路をまっすぐにせよ』」 聖書の約束は実現します。なぜなら、偽りのない神ご自身のことばだからです。 今、聖書にあるどの約束を握って歩んでいるでしょうか。 紙に書いて手帳にはさんだり、スマホの待ち受け画面にしたりするのもよいですね! まだよくわからない人も、聖書を少しずつ読むうちに神様の希望の約束を発見することでしょう。 祈り:神様、何千年も人生の指針を与えてきた聖書は、今日も私たちへの約束で満ちていることを信じます。人生の道しるべとなることばを見出だす、素晴らしいみことば探検の旅に導いてください。聖書が楽しく読めますように。アーメン

マタイ2

彼らは王に言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者によってこう書かれています。  『ユダの地、ベツレヘムよ、 あなたはユダを治める者たちの中で 決して一番小さくはない。 あなたから治める者が出て、わたしの民イスラエルを牧するからである。』」マタイ2:5~6 イエス・キリストが来られたのは偶然ではなく、神のご計画のうちに旧約聖書の預言を成就されました。 ミカ書5:2に救い主がベツレヘムで生まれることが預言されていました。 そのことを博士たちは調べ、知っていました。 旧約聖書が大切な理由は、それがイエス・キリストを中心として書かれているからです。そして新約聖書につながっているからです。 ただの歴史や知恵の書ではなく、キリスト抜きではなく、信仰をもって読むときにだんだんとつながってきます。ちょうど、ベツレヘムでメシアが生まれることが実現した、この箇所のように。 同じように、私たちの生涯にも主が深いご計画を持っておられることを覚えて感謝します! 祈り:神様、あなたが歴史を通し、一貫して希望を示してくださっていることを感謝します。 私の日々の歩みにも希望を与えてくださることを信じます。 聖霊の光により頼みつつ聖書を読み、理解できるように助けてください。アーメン

マタイ1

「このすべての出来事は、主が預言者を通して語られたことが成就するためであった。」マタイ1:22 今日から再び新約聖書を読みます。 新約聖書は全部で260章、今から読みはじめても年内に通読できます。ぜひご一緒に! マタイに書かれているキリスト誕生の出来事は、偶然や思い付きではありませんでした。 すでに預言者を通して語られていたことが実際に起こったのです。 マタイの始めに系図が置かれているのも、たまたまこの時に起こったのではなく、神様の深い計画がこのタイミングで行われたことを傍証しているようです。 祈り:神様、あなたの深いご計画とみこころを感謝します。今回も新約聖書を読みながら、その素晴らしい愛と知恵にふれることができますように。アーメン

黙示録22

「もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、ともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは世々限りなく王として治める。」黙示録22:5 「いのちの木」という賛美の中に、 「もはや夜がない 主の光の中 いのちの木の 豊かさ知る」 という歌詞があります。 いのちの木は創世記にも黙示録にも出てきます。 そのいのちは神である主ご自身が保っておられます。 夜の闇もなく、神の栄光の光が明るく照らす中で過ごす幸いを聖書は語ります。 今それを信じて平安を得るか、信じないで自分の常識の中だけで生きるか、選択は私たち次第です。 平安と幸いを今も、そして永遠も得ることができるようにと、主は招いておられます。 祈り:神様、あなたの平安と約束を信じる信仰を増し加えてください。____さん、____さんが一歩踏み出せますように。アーメン *明日から年末までは、新約聖書を通読予定です。

黙示録21

「神は彼らの目から 涙をことごとくぬぐい取ってくださる。 もはや死はなく、 悲しみも、叫び声も、苦しみもない。 以前のものが過ぎ去ったからである。」」黙示録21:4 差別、虐待、死別、貧困、病気、反目...。 多くの人が、人生の不条理や不公平を経験していると思います。 人知れず流した涙、理解してもらえない悲しみと悔しさ、主はご存知です。 私たちの涙をすべてぬぐい、慰めてくださる時がやってきます。 このことばをいつも思い出し、新しい年度も日々過ごしていきたいですね。 祈り:神様、あなたは全知全能のお方です。私の悲しみ、痛み、苦しみ、感情をすべてわかってくださり感謝します。_____を、あなたの義とさばきにゆだねます。アーメン

黙示録20

「また私は、死んだ人々が大きい者も小さい者も御座の前に立っているのを見た。数々の書物が開かれた。書物がもう一つ開かれたが、それはいのちの書であった。死んだ者たちは、これらの書物に書かれていることにしたがい、自分の行いに応じてさばかれた。」黙示録20:12 開かれたのは「いのちの書」でした。 「いのちの書」には、私たちの生涯の行いが書かれています。 その書に救われた者として名前が記されているなら、「イエス・キリストを信じた」ということのゆえに、すべての失敗や罪がゆるされ、御国に入る特権が与えられています。 もっとも、天での報いは様々のようです。 天だけではなく、この地上の生涯も同様です。 「死ぬ直前に信じたらいいや」と言わず、今日信仰を持ち主に従って歩むことで、どれだけ豊かな人生が送れることでしょう。 祈り:神様、信仰を躊躇している人が今日決心し、イエスキリストを信じることができますように。豊かな人生の秘訣である聖書に触れることができますように。アーメン

黙示録19

「また、御座から声が出て、こう言った。『神のすべてのしもべたちよ、 神を恐れる者たちよ、 小さい者も大きい者も 私たちの神を賛美せよ。』」黙示録19:5 日曜礼拝の前半では、皆がそろって礼拝に参加します。子どもメッセージを聞き、ともに賛美をします。 年齢にかかわらず共に礼拝する姿は、天国の前味のようです。 御座から「小さい者も大きい者も私たちの神を賛美せよ」という声が聞こえた時、 天国で同じ喜びの姿が見られるのだと思うと、何だか嬉しくなります。 そして、今の日常の中で、すでに同じような機会があることは感謝の驚きです。 祈り:神様、あなたをやがて御国で賛美するように、教会に集い礼拝できることに感謝します。赤ちゃんから100歳を越える人まで、主の前に共に集まる恵みを味わいます。アーメン

黙示録18

「彼らは頭にちりをかぶり、泣き悲しんで叫んだ。『わざわいだ、わざわいだ、大きな都よ。海に船を持つ者たちはみな、ここでその繁栄から富を得ていたのに、その都が一瞬にして荒れ果ててしまうとは。』」黙示録18:19 バビロン(神に反逆する繁栄や贅沢な都)は滅ぼされます。 しかも一瞬のうちに。 民や王たち、商人や船長、水夫たちも嘆きます。 なぜなら、彼らに儲けをもたらしていたものが消え去ってしまったからです。 お金や持ち物だけに価値を置いていた人たちには、すべてがなくなってしまったと感じられました。 神抜きで過ごしているなら、確かにそうです。 地上のどんなものも、永遠に続くことはありません。 しかし、福音を知っている者には望みがあります。それはお金では買えない救いと永遠のいのちです。 イエス・キリストと神のことばは変わりません。 そして、それこそが私たちの頼みであり、人生の希望です。 祈り:神様、Living Hope(人生の希望)という賛美を歌う時、あなたの元にいる安心と変わらない希望を覚えます。礼拝や集会で賛美する時、歌詞の意味をかみしめ、宣言することができますように。主の勝利と希望の宣言として賛美できるよう、私の口をゆだねます。アーメン

黙示録17

「彼らは子羊に戦いを挑みますが、子羊は彼らに打ち勝ちます。子羊は主の主、王の王だからです。子羊とともにいる者たちは、召されて選ばれた忠実な者たちです。」」黙示録17:14 獣(サタン)におもねた地上の王は、子羊(キリスト)に戦いを挑みます。 しかし勝利は子羊にあります。 キリストは主の主、王の王です。 そして、主に従った人たちは子羊と共にいるというのです。 島流しされ、親しんだ教会や人々から切り離されたヨハネにとって、これは大きな希望と慰めだったでしょう。 そして、今の私たちにとってもこれは希望と慰めです。 すでに地上生涯を終えた信仰者と再会し、何より子羊イエス・キリストと共にその勝利にあずかることができると約束されています。 祈り:神様、あなたが与えてくださった希望を確認し宣言します。年度末で忙しい人、移動しなければならない人、疲れの出ている人に、主の希望と支えが与えられますように。アーメン

黙示録16

「また私は、水をつかさどる御使いがこう言うのを聞いた。『今おられ、昔おられた聖なる方、 あなたは正しい方です。 このようなさばきを行われたからです。』」黙示録16:5 神を信じない者、冒涜する者に対してのさばきが行われます。 7つのさばきが出てきます。 ・悪性の腫れ物 ・海が血のようになる ・川と水源が血になる ・太陽の炎熱 ・闇 ・水が涸れる ・雷と地震、天変地異 出エジプト記のさばきと似たものがあることに気づきます。 旧約聖書でも、神のさばきは何度も悔い改めの機会があったのに悔い改めない、かたくなな人々に対してでした。神を信じる人は脱出への道が備えられていきました。 恐れるな、神が脱出の道を用意してくださっていることが、聖書のメッセージです。 祈り:神様、目に見えて起こる状況に怖くなるときがあります。でも、あなたに信頼していれば平安があることを学びました。どうか私の信仰を増し加えてください。アーメン

黙示録15

「主よ、あなたを恐れず、 御名をあがめない者がいるでしょうか。 あなただけが聖なる方です。 すべての国々の民は来て、 あなたの御前にひれ伏します。 あなたの正しいさばきが 明らかにされたからです。」黙示録15:4 キリストの御名を信じる者が天で賛美をささげる様子です。 地上では神のさばきが行われています。きっと大きな音が起こり、驚きと恐怖が反逆を続ける人にはあるでしょう。 それに比べ、主のみもとでは静かな、暖かい、そして深い平安のある光景が広がっています。 来るべき世界だけではなく、イエス・キリストを信じた者の心の中も同じだと思います。 外側には苦難や災難があっても、たましいは黙示録の描写のように深い平安が与えられています。 目に見える情報だけでなく、キリストにあるたましいの平安に意識を向けてみませんか。 祈り:神様、インターネットやニュースの情報、身辺の出来事ばかりに振り回されそうです。静まって、たましいの深いところに私の目を向けさせてください。キリストの福音によって与えられた平安と希望を、再確認できますように。アーメン

黙示録14

「また私は見た。すると見よ。白い雲が起こり、その雲の上に人の子のような方が座っておられた。その頭には金の冠、手には鋭い鎌があった。」黙示録14:14 天で権威を持っておられ、白い雲の上に座っておられる人の子が見えます。 その頭には金の冠~勝利とすべて支配される王としての輝き、 そして手には鋭い鎌~刈り取りに使われる道具、 がありました。 JS(中高生)キャンプが終わりました。 現地参加した人も、オンラインで共に参加した人も、祈りで支えた人も、主が良い方であることを改めて感じたことと思います。 すべての栄光と誉れを受け、地上にあわれみと義を実現してくださる方を知っているとは、なんという幸いでしょう。 価値観の揺らぐ世界にあって、変わらない主がおられます。 祈り:神様、私たちの人生の錨となり導いてくださることを感謝します。私たちが迷いそうになった時、あなたが私を造ってくださった目的を知り、変わらないお方に望みを置くことができますように。若い人も年配の人も、神様のデザインとご計画のうちに歩んでいく恵みに浸らせてください。アーメン

黙示録13

「ここに、知恵が必要である。思慮ある者はその獣の数字を数えなさい。それは人間を表す数字であるから。その数字は六百六十六である。」黙示録13:18 美術や宝石の鑑定士と言われる人たちは、本物と偽物を鋭く見分けます。 知識のない素人にはわからない違いを見つけ、偽物を見破ることができます。 キリストを主と信仰する人には、同様に見抜く知恵が与えられます。 獣(サタン)は人々を惑わし、自分たちを拝ませます(1~17節)。 偽の三位一体に思えるような関係を作ります。 でも、すべては偽り、惑わしです。 6は完全数の7に足りません。つまり、なにかが欠けており、似てはいても偽りなのです。 この世には、心の空洞を埋めてくれるかのような快楽や物質があふれています。 しかしそれでは本当の満足は得られません。 主イエス・キリストだけが、私たちを満たしてくださる方です。 そして、その方が私たちに知恵を与え、悪から守ってくださるのです。 祈り:神様、この世の一時的な快楽に惑わされることがないようにお守りください。イエス・キリストだけが完全なお方です。カルトや偽りの縛りに人々が惑わされることがありませんように。アーメン

黙示録12

「兄弟たちは、子羊の血と、 自分たちの証しのことばのゆえに 竜に打ち勝った。彼らは死に至るまでも 自分のいのちを惜しまなかった。」黙示録12:11 天に戦いが起こり、竜とその仲間は勝つことができませんでした。 そうして、とうとう彼らは天から投げ落とされます。 竜は「古い蛇」「悪魔とかサタンとか呼ばれる者」、創世記3章でアダムとエバを惑わした者です。「全世界を惑わす者」とも表現されています(9節)。 一見恐ろしく思えるサタンは、神の国では敗北する存在です。 そして、キリストを信じる「兄弟たちは、子羊の血と、自分たちの証しのことばのゆえに竜に打ち勝った」のです。 キリストの勝利はすでに確定しています。 サタンに惑わされることがないように。 霊の目を開き、今日行われている主の力強いみわざと限りないあわれみを見いだす者でありたいと思います。 祈り:神様、目先の情報や状況に惑わされず、あなたのご性質に信頼し目を留めることができますように。今、春のキャンプに参加している人たちが、楽しい中にも祈り合える信仰の友と出会い、何よりも主と親しく出会い霊的に成長することができますように。アーメン

黙示録11

「第七の御使いがラッパを吹いた。すると大きな声が天に起こって、こう言った。 『この世の王国は、 私たちの主と、そのキリストのものとなった。 主は世々限りなく支配される。』」黙示録11:15 黙示録を読み進めるにつれて、さばきや災害の描写が出てきます。 読む人に「こわがらないで、恐れないで」と声をかけたいです。 なぜなら、私自身が学生の頃、黙示録はよくわからない、恐ろしいという印象を抱いてしまったからです。 神に反逆する者に対してはさばきが行われます。 しかし、天では喜びの声が上がります。 地上にも、主キリストの素晴らしいご支配がやってきた、と。 そして、感謝と礼拝がささげられます。 当時は、この素晴らしい側面にあまり気づかず、悪へのさばきの記述ばかりが目に入っていました。 どこに目を留めるか、ということを問われているように思います。 天の御国と主の臨在に焦点を合わせ、礼拝する者となれますように。 祈り:神様、あなたの義と愛に感謝します。どんな時も恐れず、あなたのあわれみと守りに信頼できますように。この世の情報や楽しみに影響を受けやすい子どもや若い人たちが、主を知り主に目を留めることができますように。アーメン

黙示録10

「七つの雷が語ったとき、私は書き留めようとした。すると、天からの声がこう言うのを聞いた。『七つの雷が語ったことは封じておけ。それを書き記すな。』」黙示録10:4 ヨハネが記録しないようにと命じられた事柄がありました。 神様のご計画は、すべてが私たちにわかるわけではありません。 明らかにされていないこと、わからないことはそのまま受け止めるようにということです。 すべてがわからないと気がすまない、というのは、神様の偉大さを私たちのちっぽけな理性に押し込めようとしているのです。 わからないことは「わかりません」と素直に受け止める謙遜な者として歩めますように。 祈り:神様、理性や常識だけに頼ろうとする私の弱さを悔い改めます。あなたのはかり知れない素晴らしさ、偉大さをほめたたえ、信頼できるように導いてください。アーメン          

黙示録9

「また彼らは、自分たちが行っている殺人、魔術、淫らな行いや盗みを悔い改めなかった。」黙示録9:21 いよいよ人に直接かかわる神のさばきが始まります。 洗礼を受けて間もない頃、 人類の3分の1が殺される(15、18節)とか、サソリのような尾と針を持ついなご(10節)とか、恐ろしい描写を読んでとても怖かったのを覚えています。 しかし、神のさばきは悔い改めへの招きだということを心に留める必要があります。 3分の2(多数)が殺されないというのは、異教の神々の伝説に比べるとずっとあわれみ深いそうです。 また、さばきはキリストを信じる者に向けてではありません。 悔い改めるよう、神が招き続けておられることに着目しましょう。 さばきは、繰り返しチャンスが与えられているのに頑固で悔い改めない人にとっては恐れですが、信じる者には神の正義が行われるのを見る時だと言えます。 祈り:神様、主を信じる者はどんな時にも恐れる必要がないという恵みに感謝します。 頑固に主を否む人たちの心が柔らかくされ、聖霊の招きに応答できますように。___さん、___さんの救いを祈ります。共にそろって永遠のいのちの恵みに預からせてください。アーメン

黙示録8

「香の煙は、聖徒たちの祈りとともに、御使いの手から神の御前に立ち上った。」黙示録8:4 「また、別の御使いが来て、金の香炉を持って祭壇のそばに立った。すると、たくさんの香が彼に与えられた。すべての聖徒たちの祈りに添えて、御座の前にある金の祭壇の上で献げるためであった(3節)」とあります。 そして、聖徒の祈りが香とともに献げられました。 祈りは目に見えません。しかし、ちょうど香のように、神の前に届いていることを確信させてくれます。 日々の祈りが、私たちが思っている以上に御国で意味のあるものだとしたら、小さい祈りでも、すぐにきかれなくても、あきらめずに祈ることを続けていきたいと思わされます。 祈り:神様、祈りが届いているという信仰を与えてください。 私と家族のためには________、教会のためには________、友人知人のためには_______、日本や世界のためには_______を今日も祈ります。アーメン

黙示録7

「御座の中央におられる子羊が彼らを牧し、いのちの水の泉に導かれる。また、神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。」黙示録7:17 神様がやがて涙をぬぐってくださる、という希望は、辛い時の慰めです。 身体の痛みや病だけでなく、心の痛むことが多くあります。 いじめ、経済的な不足、みじめな思い、劣等感・・・。 そして、福音とあかしのゆえに白い目で見られ、異質とみなされ、迫害されることもあります。 でも、「涙とともに種を蒔く者は 喜び叫びながら刈り取る」(詩篇126:5)のです。 地上では信仰者どうし励まし涙をぬぐいつつ、やがて成就するその約束に期待します。 祈り:神様、あなたは私の心の痛みを知っておられます。どうかあなたの慰めで癒してください。卒業と別れの季節です。変化の中で痛みを覚える人たちに、真の憩いと平安をもたらす福音が届きますように。アーメン

黙示録6

「すると、彼ら一人ひとりに白い衣が与えられた。そして、彼らのしもべ仲間で、彼らと同じように殺されようとしている兄弟たちの数が満ちるまで、もうしばらくの間、休んでいるように言い渡された。」黙示録6:11 子羊が封印を一つずつ解いていきます。 五つ目の封印が解かれると、神のことばと証しのために殺された人たちのたましいが見えました。 正しいさばきを望む彼らに、一人ずつ白い衣が与えられました。 彼らはもう少し休んでいるようにと言われます。 正しいさばきは必ずなされます。 しかし、神の時が来るまでは待つように言われることがあります。 待ちきれないでしょうか。 しかし、じたばたしても、人の怒りは神の義を実現するものではありません。 自分で復讐しようとせず、神に信頼し待つ者であれますように。 祈り:神様、あなたの正しい判断とさばきに信頼します。不条理や悪に、あなたの方法で報いてください。迫害され、苦難にある信仰者を今日もお守りください。アーメン

黙示録5

「彼らは大声で言った。『屠られた子羊は、 力と富と知恵と勢いと誉れと栄光と賛美を 受けるにふさわしい方です。』」黙示録5:12 天の国の光景が続きます。 誰も開くことのできない巻物を開くことができるのは、ほふられた子羊であるイエス・キリストただお一人でした。 「力」「富」「知恵」「勢い」「誉れ」「栄光」「賛美」 これ以上の言葉にならない素晴らしさで、「大声で」ほめたたえる声が聞こえます。 厳粛な中にも、主を賛美する感動と喜びがあります。 私たちの礼拝も、同じ思いでささげることができますように。 祈り:神様、御国に行くまでも、この地上で礼拝することができて感謝します。私の心が、今日も主を喜び、主に喜ばれるものとなりますように。アーメン

黙示録4

「二十四人の長老たちは、御座に着いておられる方の前にひれ伏して、世々限りなく生きておられる方を礼拝した。また、自分たちの冠を御座の前に投げ出して言った。『主よ、私たちの神よ。 あなたこそ 栄光と誉れと力を受けるにふさわしい方。 あなたが万物を創造されました。 みこころのゆえに、それらは存在し、 また創造されたのです。』」黙示録4:10~11 諸教会へのメッセージが終わり、ヨハネの見た幻の描写が本格的に始まります。 主を賛美する生き物が「栄光と誉れと感謝」をささげるとき(9節)、信仰者の代表である長老たちがひれ伏し、礼拝しました。 なんと深い喜びと平安に満ちた光景かと思います。 天の国の様子を垣間見ることができます。 祈り:神様、私が主のみもとに行く日まで、御国を望みつつ期待しつつ地上の信仰生活を歩ませてください。今教会を離れている人に、主が決して離れず愛し続けてくださる方であると感じられますように。信仰のリバイバルを与えてください。再び共に礼拝し、祈り合うことができますように。アーメン

黙示録3

「わたしは愛する者をみな、叱ったり懲らしめたりする。だから熱心になって悔い改めなさい。」黙示録3:19 教会では、定期的に教会墓地の掃除をします。 墓地の内側は、鍵を開けないと掃除できません。 一昨日、いつものように訪れて中を見ると、いつになく汚れていました。 それは、一匹のヤモリが小さな隙間から入り込んでいたからでした。 壁や床の汚れをこすって拭き取るのに1時間近くかかりました! それでも、最後にはきれいになりました。 私たちの心も同じです。 心の戸を開けてキリストに照らしていただくと、汚れがよくわかります。 ヤモリのような小さなものでも、罪は心の全体を汚していきます。 その汚れを落とすには、罪の悔い改めによらなければなりません。 心の戸を開けて悔い改めた人には、 「見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする(20節)」 というキリストの約束が待っています。 祈り:神様、心の中を探ってください。喜ばれないものがあるなら、主の光で照らし、悔い改めに導いてください。聖霊様が心を柔らかくしてくださり、あなたの御前に点検させてください。アーメン

黙示録2

「けれども、あなたには責めるべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。だから、どこから落ちたのか思い起こし、悔い改めて初めの行いをしなさい。」黙示録2:4~5 「初めの愛」はイエス・キリストが示してくださいました。 十字架の上ではもちろん、公生涯のあちこちにこのお方の愛が表れています。 中でも弟子たちの足を洗われた(ヨハネ13章)は印象的です。 足を洗うというへりくだりの姿勢を見せてくださり、 私たちも「互いに足を洗う」よう、そして「互いに愛し合いなさい」と教えてくださいました。 今日、悔い改めてする「初めの行い」とは何でしょうか。 祈り:神様、キリストが示してくださった「初めの愛」に感謝します。この愛が与えられた恵みを思い起こし、キリストの足跡にならう者とさせてください。主の愛に応答し、______ができるよう、その機会と力とを与えてください。アーメン

黙示録1

「この方を見たとき、私は死んだ者のように、その足もとに倒れ込んだ。すると、その方は私の上に右手を置いて言われた。『恐れることはない。わたしは初めであり、終わりであり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、世々限りなく生きている。また、死とよみの鍵を持っている。』」黙示録1:17、18 8節では「わたしはアルファであり、オメガである」と書かれています。アルファは A、オメガはZのような文字で、やはり「初めと終わり」を示しています。 ヨハネに幻を見せてくださった主は、「初めであり終わりである」方で世々限りなく生きておられ、すべてを知っておられます。 そして、主を信じる者には「恐れるな」と声をかけてくださる方です。 この方と共にいることが、私たちの安全の錨です。 「私たちが持っているこの希望は、安全で確かな、たましいの錨のようなものであり、また幕の内側にまで入って行くものです。」(ヘブル6:19) 祈り:神様、黙示録を信仰を持って読むことができるように導いてください。様々なデマや噂に振り回されず、主に期待し信頼できるよう助けてください。アーメン

ユダ

「しかし、愛する者たち。あなたがたは自分たちの最も聖なる信仰の上に、自分自身を築き上げなさい。聖霊によって祈りなさい。神の愛のうちに自分自身を保ち、永遠のいのちに導く、私たちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい。」ユダ20~21 惑わしや間違った教えのはびこる中でも、振り回されず信仰に歩むようにという戒めは、今日いっそう当てはまります。 SNSやインターネットでは、ある記事を読むと、それに関連した主張や同じ方向性の読み物が表示されるようになっています。 偏った記事を読むと、似た立場の主張がどんどん目に入るようになるのです。 このような中で、惑わされないためには「聖霊によって祈る」ことです。 そして、福音以外の些細な習慣や意見の違いについては「神の愛のうちに自分自身を保つ」ことです。 祈り:神様、寛容に耳を傾けることを教えてください。些細なことで信仰の友と争うことがありませんように。ゆずれない福音と聖書の主張と、個々の事情により適用できるものとを見分ける洞察力を、聖霊によって与えてください。アーメン

Ⅲヨハネ

「愛する者よ。あなたのたましいが幸いを得ているように、あなたがすべての点で幸いを得、また健康であるように祈ります。」Ⅲヨハネ2 誰かのために祈る時、このように祈ることができたら幸いです。 ヨハネは「私にとって、自分の子どもたちが真理のうちに歩んでいることを聞くこと以上の大きな喜びはありません(4節)」と書いています。 彼はイエス・キリストが弟子の足を洗い言われた、「あなたがたは互いに愛し合いなさい(ヨハネ13:34)という命令を鮮明に覚えていたことでしょう。 そして、それを実践していったことが読み取れます。 私たちも、このイエス様の命令を実践する者となれますように。 祈り:神様、私たちが互いに愛し合い、励まし合えるよう、私にキリストの愛と寛容の心を増し加えてください。東北地方の方々に寄り添い祈る心を与えてください。アーメン

Ⅱヨハネ

「だれでも、『先を行って』キリストの教えにとどまらない者は、神を持っていません。その教えにとどまる者こそ、御父も御子も持っています。」Ⅱヨハネ9 ファッションでもテクノロジーでも、「先を行って」いる人や企業がありいます。時代の変化に敏感で良いことととらえられます。 しかし、信仰については「先を行く」教えには要注意です。 キリストの福音は2千年前から変わりません。 そして、救い主はイエス・キリストただお一人です。 それに混ぜ物をするなら、間違った教えです。 時流にのった福音伝達の方法には敏感でありたいですが、福音の中身、「キリストの教え」には固くとどまることが大切です。 祈り:神様、キリストの教えからそれることがないよう、私たちと教会を今日もお守りください。様々な教えがはびこるこの世界で、福音の伝え方やアプローチは変わっても、キリストは変わらないお方であり、唯一の救い主であることからぶれることがありませんように。アーメン

Ⅰヨハネ5

「何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださるということ、これこそ神に対して私たちが抱いている確信です。」Ⅰヨハネ5:14 祈りが聞かれないのは不信仰ゆえだろうか、と思うことがあります。 「考えずとにかく信じなさい、祈りなさい!」という説教を聞くこともあります。 しかし、その祈りがみこころでなかったら? 神がもっと良い計画を持っておられるのに、反する祈りをしていたら? 神は愛ゆえに、私たちの文字通りの祈りを聞かないでおられるということもあります。 だから、「神のみこころにしたがって」祈っているのかどうか、その吟味ができるようにと願うことも大切な祈りだと思うのです。 あの人と同じようなきかれ方はしない。けれども、主の最善のご計画が私の人生を通して表される、という信仰が与えられますように。 祈り:神様、自分勝手な祈りや思い込みを一方的に願うのではなく、 あなたのみこころは何ですか、と聞く信仰を与えてください。 あなたの御手にあるよいご計画に信頼します。アーメン

Ⅰヨハネ4

「私たちが神を愛したのではなく、 神が私たちを愛し、 私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。 ここに愛があるのです。」Ⅰヨハネ4:10 一番大切なものをあげたのに、相手が全く気づかず不機嫌なままだったら、残念に思います。 どれほど価値のあるものかを知ってほしいと思います。 もし神の愛がイエス・キリストの来臨と十字架の死で表されているのに、多くの人々がこれほどの愛に気づかないとしたらどうでしょう。 神は忍耐強く待っておられます。 私たちはその価値と愛の大きさを伝えることができるよう、祈りたいです。 祈り:神様、御子イエスキリストを地上に送ってくださり感謝します。十字架で示された愛を覚えます。今年もイースター前のレントの期間(40日前〜)に入りました。主の愛の足跡を黙想する時となるよう導いてください。アーメン

Ⅰヨハネ3

「この世の財を持ちながら、自分の兄弟が困っているのを見ても、その人に対してあわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょうか。」Ⅰヨハネ3:17 混迷する世界情勢、私たちの周りにいる困っている人々のために、私たちは何ができるでしょうか。 ある人は直接支援の働きやボランティアとして召されます。ある人は後方支援や他分野からの貢献をします。 そして、ささげる召し、祈る召しを受ける人もいます。 「この世の材を持ちながら」と17節は語ります。 お金は神の喜ばれるように用いるなら、悪いものではありません。 神の愛と恵みへの応答として、もう少し大胆にささげることができるかもしれません。 「子どもたち。私たちは、ことばや口先だけではなく、行いと真実をもって愛しましょう。(18節)」 祈り:神様、あなたの愛を流し出す者として、一歩進んでどのような行動ができるか示してください。アーメン

Ⅰヨハネ2

「自分の兄弟を愛している人は光の中にとどまり、その人のうちにはつまずきがありません。」Ⅰヨハネ2:10 兄弟愛について考えさせられます。 一番身近な肉の家族、あるいは霊の家族である教会の兄姉は、親しいだけに自分の自我が出やすく、ぶつかりやすいものです。 信仰の成長をはかるバロメーターと言えるのだと思います。 「だからこそ、あなたがたはあらゆる熱意を傾けて、信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。これらがあなたがたに備わり、ますます豊かになるなら、私たちの主イエス・キリストを知る点で、あなたがたが役に立たない者とか実を結ばない者になることはありません。」(第二ぺテロ1:5~8) 祈り:神様、親しい家族や信仰の友を愛することができますように。忍耐と自制と愛がキリストによって備えられることに感謝します。互いにゆるし合い、祈り合い、尊重し合い、建て上げ合うことができますように。アーメン

Ⅰヨハネ1

「もし私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩んでいるなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。」Ⅰヨハネ1:7 疲れると、一人で静かな所に行きたくなります。 イエス様もそうでした。 ひとり退いて父なる神の前に静まり、祈られました。 そして、父から癒しと新しい力とを頂き、再び多忙な日々に戻られました。 休息と静まりはとても大切です。 それは、「光の中におられる神」と親しく交わり、 歩み方を点検し、 イエス様が罪からきよめてくださる方であることに信頼し、 その癒しと力により「互いに交わりを持つ」よう導かれるためです。 祈り:神様、年度末の時期で、別れや行事が多く人と会う機会が増えています。嬉しいこともありますが、非日常で疲れを覚えることもあります。主の元に静まり、新たな力を頂くことができますように。アーメン

Ⅱペテロ3

「主は、ある人たちが遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」Ⅱペテロ3:9 神の忍耐は、私たちの比ではありません。 私たちは、神がなぜ世界の悪も私たちの周りの悪人も、すぐに滅ぼさないのだろうと思います。 しかし、それは同時に私たちも滅ぼされかねないことを意味します。 知らずに人の心を傷つけたことがあるなら、相手にとって私たちは悪人だと言えるからです。 だれも滅びることなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでくださる主の忍耐と寛容さに、ただただ感謝します。 祈り: 神様、あなたの忍耐と寛容さに感謝します。私が_________さんの心を傷つけたこと、また知らずに傷つけていることを赦してくださいい。あなたのあわれみに感謝します。世界のあちこちにある争いが終息し、平和が来ますように。アーメン

Ⅱペテロ2

「主であり、救い主であるイエス・キリストを知ることによって世の汚れから逃れたのに、再びそれに巻き込まれて打ち負かされるなら、そのような人たちの終わりの状態は、初めの状態よりももっと悪くなります。」Ⅱペテロ2:20 ぺテロの手紙は、偽教師や偽預言者に注意するようにと書かれました。 純粋な信仰をなくすことがないように、との思いから、厳しいことばもあります。 キリストの救いを忘れて離れていく人はもったいないなあと思います。 もっとも、私たちが忘れても、主は忘れることがありません。 悔い改めて戻るなら、豊かにあわれんでくださいます。 祈り:神様、今信仰が弱っていたり、離れたりしている人を覚えて祈ります。 主の恵みがわかりますように。十字架の愛を思い出すことができますように。 心を刺されて立ち返り、恵みとあわれみの中で人生を歩むことができますように。アーメン

Ⅱペテロ1

「だからこそ、あなたがたはあらゆる熱意を傾けて、信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。これらがあなたがたに備わり、ますます豊かになるなら、私たちの主イエス・キリストを知る点で、あなたがたが役に立たない者とか実を結ばない者になることはありません。」Ⅱペテロ1:5~8 信仰に徳、知識、自制、忍耐・・・そして兄弟愛、愛を加えるように、とは、何と深く、信仰の歩みが刺激的で意味深いかと思います。 もう到達したと思っても、まだまだ愛のなさ、忍耐力の欠如に気づかされます。 そしてそこから、「いっそう励みなさい」というみことばの励ましを受けます。 祈り:神様、もうできたと早合点して失敗する者です。______のことで至らなかった私を許してください。これからの信仰の歩みも、謙遜かつ主にあって前向きに進みたいです。一歩一歩導いてください。アーメン

Iペテロ5

「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」Iペテロ5:7 このことばを、今週も何度繰り返したことでしょう。思い煩いやすい者なのです。 しかし、思い煩いに心をとらわれている暇はありません。 なぜなら、私たちは霊的な戦いに出て行き、キリストの名にあって勝利するよう招かれているからです。 「身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、吼えたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。堅く信仰に立って、この悪魔に対抗しなさい。」(8~9節) 恐れる必要はなく、ただその場に身を置き、主の勝利の力で対抗することが求められているのです。 祈り:神様、いつもキリストの名には勝利があることに感謝します。思い煩いに心を向けようとさせる悪の力に対抗します。聖霊による心の一新によって体勢を整えさせてください。アーメン

Iペテロ4

「それぞれが賜物を受けているのですから、神の様々な恵みの良い管理者として、その賜物を用いて互いに仕え合いなさい。」Iペテロ4:10 神の賜物は恵みです。その人に能力があるのは、資質を神様が与えてくださり、その人も努力したことの表れです。努力できるというのも賜物かもしれません。 ともあれ、「それぞれが賜物を受けている」と聖書は語ります。各人に与えられた「様々な恵み」の良い管理者であることを主が望まれます。良い使い方とは、賜物によって互いに仕え合うことです。 無理をするのでなく喜んでできること、苦にならないことがあると思います。 そこに賜物が表れているのではないでしょうか。 祈り:神様、前に立つ奉仕だけでなく、私たちが隠れたところで喜んで奉仕することもあなたの栄光を表すことを覚えて感謝します。互いに仕えるために、与えられた恵みの賜物を適切に用いることを教えてください。アーメン

Iペテロ3

「この水はまた、今あなたがたをイエス・キリストの復活を通して救うバプテスマの型なのです。バプテスマは肉の汚れを取り除くものではありません。それはむしろ、健全な良心が神に対して行う誓約です。」Iペテロ3:21 ノアの洪水がバプテスマの型とは! すべてを覆い浸す水の中、箱舟に入って洪水を通り抜け救われた人が8人いました。 同じように、私たちは水に浸され、キリストと共に通り抜けるというバプテスマを受けました。それは信仰のあかしとしてです。 救いは信じた時に与えられますが、神と人との前に誓約としてバプテスマの式を受けます。 そして、「あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでも、いつでも弁明できる用意をしていなさい(15節)」の通り、あかしをする者として整えられていきます。 祈り:神様、旧約時代の様々な事柄を通しても私たちに意味をわからせてくださり、感謝します。 あなたの前に真実に歩めるよう、今日も助けてください。私たちがあかしをする用意ができているように整えてください。アーメン

Iペテロ2

「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、霊の乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。」Iペテロ2:2 聖書は甘い菓子のように感じられるでしょうか。 そうとは限りませんね。 時にはわかりにくく耳に痛いこともあります。 それでも霊の乳としてのみことばを慕い求めるようにと、この聖句は語ります。 なぜなら、肉体が成長するためには栄養のある食物が必要なように、霊の成長には神の知恵と教えがつまったみことばが必要だからです。 祈り:神様、みことばがよくわかるように助けてください。知的な理解だけでなく霊の目を開いて理解させてください。 霊の乳を慕い求め、成長できますように。アーメン

Iペテロ1

「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っています。Iペテロ1:8 ぺテロの書いた手紙は、ぺテロがイエス様について各地を旅した頃よりずっと成熟した人物になったことがわかります。 同時に、ぺテロの持ち味である熱心さや情熱が、手紙の表現のあちこちに感じられます。 ことばでは表しきれない「栄えに満ちた喜び」に踊る信者の喜びを、彼も共に喜んでいます。 それは安全な幸せの中ではなく、試練の中でそうであったからです。 試練を耐えた信仰は金よりも価値があり、キリストからの報いを受けることができるという永遠の希望が伴います。 祈り:神様、試練はそれだけで終わりではなく、信仰を成長させキリストからの労いがあることに感謝します。今、試練を通っている___さん、___さんに励ましと力を与えてください。私もとりなしの祈りができますように。アーメン

ヤコブ5

 「ですから、あなたがたは癒やされるために、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、働くと大きな力があります。」ヤコブ5:16 互いに祈り合うことは、信仰者の特権です。 独りで悔い改めの祈りをすることもできますが、そばで聞いてくれ、共に祈ってくれる友がいることで、悔い改めたこと、また信仰に立って方向転換をしたことが確かになります。 また、誰かを許す祈り、自分の怒りや恨みを手放す祈りを友とすると、決心し慰められる経験をします。 同時に、身体的な癒しにとどまらず、精神的、霊的な癒しが起こります。心が解放され、主に近く進み出る門が開かれたような経験をした方もいるでしょう。 信仰の友の存在に感謝します。 祈り:神様、信仰者の交わりを与えてくださり感謝します。教会で共に集うのも、祈り合うのも、主が与えてくださった恵みです。感謝しつつ、私も他の人のために寄り添い、とりなしの祈りができるように導いてください。アーメン

ヤコブ4

「あなたがたはむしろ、『主のみこころであれば、私たちは生きて、このこと、あるいは、あのことをしよう』と言うべきです。」ヤコブ4:15 これが私たちの日毎の祈りなら素晴らしいと思います。 つい「私たちはこのこと、あるいは、あのことをしよう。だから神様、助けてくださいよ」という祈りをしがちです。 しかし本当は、「主のみこころであれば、私たちは生きる」が祈りの初めです。 今朝もみこころで生かされている。 だからこそ、主が願われるような「このこと」「あのこと」に歩んでいくのだ、という心で歩みたいものです。 祈り:神様、あなたのみこころであれば、今日も私たちは生きて、____のこと、あるいは、____のことをします。導いてください。アーメン

ヤコブ3

「同じように、舌も小さな器官ですが、大きなことを言って自慢します。見なさい。あのように小さな火が、あのように大きな森を燃やします。ヤコブ3:5 少し前に、ロサンゼルスの山火事が住宅街に及び、多くの宅地を焼き尽くした災害がありました。 初めは小さな火だったのが、風にあおられてみるみる広がったそうです。 舌も同じだと聖書は語ります。小さな舌が語った言葉が、大きな風評となり、世論を動かし、時にはナチスのような虐殺を行わせるまでになります。 日本でも、SNSの「炎上」でうつや自殺に追い込まれる人々が出ています。 言葉づかいとその影響力には、聖書のみことばを心にとめ、十分自戒する者でありたいです。 同時に、励まし信仰を与え、周囲を建て上げる言葉が、もっともっと私たちの口から出てきますように。 祈り:神様、あなたのくださった舌を正しく用いることができるよう、私の思いを守り変えてください。言葉の持つ影響力への配慮を与えてください。アーメン

ヤコブ2

「からだが霊を欠いては死んでいるのと同じように、信仰も行いを欠いては死んでいるのです。」ヤコブ2:26 ヤコブ書は信仰に伴う行いに重点をおいています。 救いはただ恵みであり行いによるのではない、ということに異論はありません。 しかし、恵みの大きさを知ったら、信仰生活で主のために実践をしたいと思うのは当然です。 礼拝も、祈りも、献金も、他者に親切にしたり助けたりするのも、主の恵みに応答したいという思いからです。 逆に、観念的な信仰だけでは本当に主の恵みを理解しているとは言えません。 どんなに立派なことを口で言っていても、差別をしたり罪深い習慣を続けたりしているなら、その信仰には力がないということです。 今日、どんな信仰の実践ができるでしょうか。 祈り:神様、あなたの愛と恵みに応答したいです。これまでないがしろにしてきた_____について、信仰の実践として一歩踏み出すように感じています。助け導いてください。アーメン

ヤコブ1

「すべての良い贈り物、またすべての完全な賜物は、上からのものであり、光を造られた父から下って来るのです。父には、移り変わりや、天体の運行によって生じる影のようなものはありません。」ヤコブ1:17 小惑星が2032年に地球に衝突するかもしれない、という記事を読みました。 現時点での確率は2.2%とのことで、97.8%は地球のそばを通過することになります。 これを多いと思うか少ないと思うかは人それぞれでしょう。 こうしたニュースを聞いて改めて驚くのは、日々精巧に地球や惑星の軌道が守られ、太陽や月、星の光が届いていることです。 たまに衝突の可能性があるとニュースになるほど、いつも守られているのです。 すべての宇宙を治め、光そのものを造られた父なる神がどれほど偉大か、そしてどれほどあわれみ深いかを覚えます。 祈り:神様、あなたは良い方、すべてを治めておられる方です。主を賛美します。今日もあなたの光で行くべき道を照らしてください。アーメンn

ヘブル13

「イエス・キリストは、昨日も今日も、とこしえに変わることがありません。」ヘブル13:8 初代教会のクリスチャンたちは、迫害されたり投獄されたりと日常的に試練を通っていました(23節を見ると、テモテも投獄されていたことがわかります)。 日本で信仰を守ろうとすると、周囲からのプレッシャーがあるかもしれません。しかし、当時は文字通り命がけでした。 投獄され、迫害され、時には追放されると、持ち物のすべてを失います。 今のように福祉制度が整っているわけでもありません。 それでも、主に信頼し、守られながら歩んでいきました。 金銭を愛する生活をせずに、今持っているもので満足しなさい。主ご自身が「わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない」と言われたからです。(5節) 主が共にいてくださる恵みが、何ものにも勝ることを覚えます。 祈り:神様、主の守りと、いつも共にいてくださる恵みに感謝します。 日本の風習やしがらみの中で信仰生活を送る一人一人に、励ましと勇気が与えられますように。アーメン

ヘブル12

「信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。」ヘブル12:2 ヘブル12章は、今生きている私たちに励ましを与えてくれる章です。 イエス様から目を離さないように(2節)、またいつもイエス様のことを考えるように(3節)というのが、心が疲れ果てない秘訣だと語ります。 また、私たちは孤独ではありません。 「こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、一切の重荷とまとわりつく罪を捨てて、自分の前に置かれている競走を、忍耐をもって走り続けようではありませんか(1節)」と勧めます。 先日の宣教師の葬儀では、出棺の時にクリス・トムリンの「ホームHome」という曲が流れました。 「この地上は私たちの場所ではない 痛みや悲しみのない もっとよい場所が天にはある すべての涙がぬぐわれ すべての悲しみと罪がない 天国ですばらしい恵みの海の中で踊るのだ 天国で ぼくは故郷に行く 金色の道のある天国に すべての鎖から解き放たれ ああ故郷に帰りたい 故郷に すべての恐れから解き放たれて 主のみ腕の中に 天国で 天国で」 私たちも同じ希望を告白する者となれますように。 祈り:神様、天の御国に行く日まで、希望をもって信仰の歩みを続けることができるよう助けてください。今試練を通っている方が、主のもとに安らぎと慰めを見いだせますように。アーメン

ヘブル11

「さて、信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」ヘブル11:1 長年親交のあった宣教師が、先週病で突然天に召されました。60歳に満たない若さでした。 見えない天国を確信し、いつも憧れていたということでした。 彼の死はショックで悲しく寂しいですが、家族のあかしを聞くと、見えないものを確信していた本人と家族の信仰に教えられます。 「信仰によって、彼(アブラハム)は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに受け継ぐイサクやヤコブと天幕生活をしました。(9節)」 アブラハムだけでなく、私たちもこの地上に一時の間住まう者です。 肉体はやがて滅びます。数十年の間、寄留者のように地上に生きています。 しかし、私たちには「堅い基礎の上に建てられた都(10節)」があります。 それを信じ、待ち望むのが信仰です。 祈り:神様、見えない主を信じ、永遠のいのちを確信し、御国を見る信仰を与えてください。先に召天した人たちに再会する日を待ち望みます。アーメン

ヘブル10

「ある人たちの習慣に倣って自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう。その日が近づいていることが分かっているのですから、ますます励もうではありませんか。」ヘブル10:25 ヘブル10章の中盤には、大祭司キリストがいるから「・・・ではありませんか(=しましょう!)」という励ましが連続しています。 ・そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受け、邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか(22節、第三版) ・約束してくださった方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白し続けようではありませんか(23節) ・愛と善行を促すために、互いに注意を払おうではありませんか(24節) ・ある人たちの習慣に倣って自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう。その日が近づいていることが分かっているのですから、ますます励もうではありませんか(25節) 初代教会以来、教会は共に集まり、礼拝をもち、ささげものをし、交わりをすることをキリストの前に守り続けてきました。 そして、ささげ仕える以上の恵みをキリストから受けてきました。 自分の都合やお気楽さだけでは得られない、貴重なものをつかんできました。 祈り:神様、イエスキリストという大祭司の元に集い、希望と互いへの愛を深め、主が再び来られるまで励まし合う者とならせてください。アーメン

ヘブル9

「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うために一度ご自分を献げ、二度目には、罪を負うためではなく、ご自分を待ち望んでいる人々の救いのために現れてくださいます。」ヘブル9:27〜28 キリストは作り物の幕屋ではなく、本物である天そのものに入られ、ただ一度ご自身をささげてくださいました。 厳粛かつ完全な贖いのわざが完了したことが明示されています。 そして、人間にとっても厳粛な定めがあります。 それは、一度死ぬことと死後にさばきを受けることです。 致死率100%の人間には、神の審判を受けることも100%です。 もっとも、キリストを否まなかった人にはさばきは怖いものではありません。それはむしろ、恵みと喜びの時です。 今日神の前に立つ準備ができていますか? 祈り:神様、私のいのちはあなたの御手の中にあります。生涯がいつ終わるか、私たちにはわかりません。でも肉体が滅びても、永遠のいのちを頂いていること、さばきが怖くないことに感謝します。長年祈っている家族が揃って、永遠のいのちを喜ぶことができますように。アーメン

ヘブル8

「以上述べてきたことの要点は、私たちにはこのような大祭司がおられるということです。この方は天におられる大いなる方の御座の右に座し、人間によってではなく、主によって設けられた、まことの幕屋、聖所で仕えておられます。」ヘブル8:1~2 地上の祭司たちは、「天にあるものの写しと影」に仕えていると5節にあります。 いわば、キリストのあがないのわざをよく理解させるために、神が旧約時代からの祭司を実物教材として示してくださっていたということです。 イエス様もよくたとえを使われました。聞く人たちがわかりやすいように、実物教材を使いながら神の国の真理を話してくださいました。 私たちが福音を分かち合うのも、教理のことばだけでなく、私たち自身のあかしや福音の恵みの体験を通じて分かち合うことができます。 そして、それは福音をはじめて聞く人にとっては分かりやすく、効果的な伝道方法です。 立派な、素晴らしい劇的なものでなくても、日々の小さな出来事にあかしはつまっています。 祈り:神様、日々の恵みに気づかせてください。福音の恵みを、小難しいことばではなく、自分の体験としてあかしできるよう、一人一人を整え、わかりやすいことばを与えてください。アーメン

ヘブル7

「このような方、敬虔で、悪も汚れもなく、罪人から離され、また天よりも高く上げられた大祭司こそ、私たちにとってまさに必要な方です。」ヘブル7:26 ヘブル書の著者は、祭司・大祭司の社会制度をよく知っていたイスラエルの人々に、すぐれた唯一無二の大祭司としてのキリストを説明します。 家系によらない大祭司の例としてメルキゼデクを出し、レビ人に勝る者が存在しうることを証明します。 そして、世襲や交代をしなくても、イエスキリストが永遠に存在され、変わることがないとりなしの務めをしてくださるのだとも言います。 今の日本に住んでいても、その言おうとする真理は十分に伝わります。 聖書は決して外国のものでも過去のものでもなく、今日の私たちにも意味のあるものです。 「したがってイエスは、いつも生きていて、彼らのためにとりなしをしておられるので、ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになります。(25節)」 祈り:神様、イエスキリストが偉大な大祭司として今も生きておられ、私たちのためにとりなしをしてくださっていることに感謝します。日本の人たちが聖書を単なる異国の宗教と思わず、生ける神のことばとして受けとることができるよう、心を開いてください。アーメン

ヘブル6

「私たちが持っているこの希望は、安全で確かな、たましいの錨のようなものであり、また幕の内側にまで入って行くものです。」ヘブル6:19 心が不安で揺れることがありますか? 私はしょっちゅうです。 朝方、気になることをはっと思い出し、そこから眠れなくなることもあります。 ただ、私たちのどんな心配も、ただ1つを除いては一時的なものです。地上生涯を越えて心配することはありません。 例外は、永遠のいのちを持てるかどうかです。 そして、キリストを信じる者にはそれがあたえられています。 まさに「たましいの錨」となる希望です。 そして、いのちの書に名がかかれた者は、永遠に主とともに住むことができるのです。 祈り:神様、あなたの前に進み出ることのできる特権を感謝します。 私にたましいの錨となる平安と確証を与えてくださり感謝します。今、不安に思う…………のこともあなたにおゆだねします。忍耐と解決を与えてください。アーメン

ヘブル5

「キリストは、肉体をもって生きている間、自分を死から救い出すことができる方に向かって、大きな叫び声と涙をもって祈りと願いをささげ、その敬虔のゆえに聞き入れられました。」ヘブル5:7 「大祭司は自分自身も弱さを身にまとっているので、無知で迷っている人々に優しく接することができます(2節)」と、ヘブルの社会では最もわかりやすい大祭司について語ります。 同じように、偉大な大祭司であるキリストは肉体をもって生まれてくださった、寄り添ってくださった方なのだと説明が続きます。そして、大きな叫び声と涙をもって祈られた、と述べます。 神のひとり子である方が、叫び声と涙をもって祈られたとは! 罪は犯されませんでしたが、肉体をもたれ、私たちの痛みや悩み、鬱や傷さえもわかってくださる方です。 祈り:神様、私たちの痛み苦しみをわかってくださり感謝します。 鬱の中にある方とその家族を慰め力付けてください。主にある平安と希望が望みますように。与えられたいのちと人生を慈しみ、主にあって大切に楽しみ過ごすことができますように。アーメン

ヘブル4

「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。」ヘブル4:15 最近、心が傷つく出来事がありましたか? 悲しい経験をしましたか? 自分の限界と至らなさに気づいて愕然としましたか? そんな私たちを、イエスキリストは十二分に理解してくださいます。 なぜなら、人として歩まれ、私たちと同じように試みにあわれ、誤解を受け、十字架にまでかかってくださったからです。 深いあわれみと全てに勝利された主を知り、主のもとに何でも持っていけるとは、 なんという幸いでしょう。 祈り:神様、感謝します。 「私たちには、もろもろの天を通られた、神の子イエスという偉大な大祭司がおられるのですから、信仰の告白を堅く保(14節)」ちたいです。 「あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づ(16節)」きます。アーメン

ヘブル3

「このように、彼らが安息に入れなかったのは、不信仰のためであったことが分かります。」ヘブル3:19 不信仰では安息に入れない、と言われています。 では、不信仰とはどういう状態でしょう。 それは、エジプトで文句を言った民のようです。 心が迷い、頑なになっている民は「神に反抗している」と表現されています。 彼らは荒野で文句を言いました。水がない、食べ物がない、なぜこんな所に連れてきたのだ、エジプトが良かった...等々。 疲れていたでしょう。 手持ちの食料が尽きて不安だったでしょう。 野宿は寝心地が悪かったでしょう。 先行きが見えなかったでしょう。 荒れ地続きの風景にマンネリしたでしょう。 それでも、神に信頼しないで文句を言う民は「不信仰」だった、と聖書は語ります。 他人事ではありません。 私たちも近視眼になり、他者と比較し、腹立ち、疲れ、文句を言う者です。 安息に入るために、悔い改めて柔らかい心を持ちたいと願います。 祈り:神様、過ぎる一週間、あのこと、このことで腹立ち、怒り、あきらめ、文句を言う者でした。赦してください。主に信頼し安息に入れるように、私の頑なな心を柔らかくしてください。アーメン

ヘブル2

「そういうわけで、子たちがみな血と肉を持っているので、イエスもまた同じように、それらのものをお持ちになりました。それは、死の力を持つ者、すなわち、悪魔をご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖によって一生涯奴隷としてつながれていた人々を解放するためでした。」ヘブル2:14~15 キリストは、人を救うために人となって来てくださいました。 天使となるためではなく、人となられたのです。 死に対して恐怖を抱き奴隷状態になっていたところから、私たちを解放してくださいました。 死が終わりではないという希望を持てることは、どんなに幸いでしょうか。 愛する家族と別れたくないのに死があるというのは、人々にとって絶望でした。 しかし、永遠の別れでもなく滅びでもないという希望を、キリストが与えてくださったのです。 祈り:神様、なんと幸いな希望をいただいたことでしょう。どうか永遠のいのちの希望を、もっと多くの方が知ることができますように。家族との離別にうちひしがれている人に希望を与えてください。一時の別れとはわかっていても愛する家族を主のみもとに送った方々にも、深い慰めがありますように。アーメン

ヘブル1

「御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。御子は罪のきよめを成し遂げ、いと高き所で、大いなる方の右の座に着かれました。」ヘブル1:3 ヘブル書の著者ははっきりしません。しかし、宛先はヘブル人、つまり旧約聖書についてよく知っていた人々に向けて書かれました。 旧約聖書がイエスキリストについて語っていること、キリストこそ待ち望んだメシアであることを語っています。 ヘブル書の1章が、まるでオーケストラの交響曲が始まるかのように感じられます。 それは、御子の素晴らしさを表現するために宇宙が静まり、その光が差し込んでくるような記述が続くからです。 期待を持ってヘブル書を読んでいきましょう。 祈り:神様、旧約聖書に書かれたメシアがイエスキリストであることを明らかにしてくださり、感謝します。私たちの目を開き、聖書がよくわかりますように。旧約聖書だけを信じているユダヤ教の人たちの目も開かれますように。アーメン

ピレモン

「獄中で生んだわが子001オネシモのことを、あなたにお願いしたいのです。」ピレモン10 獄中の不自由な生活の中、パウロは奴隷オネシモを改心に導きました。 おそらくオネシモは主人のところから逃げてきたか、不正を働いたかだったようです。 パウロに出会い、キリストの福音にふれて彼は悔い改めました。 そしてパウロのもとで訓練され、福音の働き人として用いることのできる器となりました。 もう以前の彼ではないとして、パウロは奴隷オネシモを「同労者ピレモン(1節)」の元に送り返しました。 しかも、負債があるなら、パウロは自分が代わりに支払ってもよいと言いました。 短い手紙の中から、いくつもの恵みと希望を汲み出すことができます。 ・どんな人でも福音によって悔い改め、救われる可能性がある。 ・その人を無条件に甘やかすのではなく、訓練し戒めて主の器として整える。 ・私たちもキリストの心を表すことができる。 祈り:神様、福音は人を変え、人生を変えます。主に造られた者として、主が望まれる歩みに今日も導いてください。救われないだろうと思うあの人の心にも主が働き、心柔らかくしてください。アーメン

テトス3

「神は、私たちが行った義のわざによってではなく、ご自分のあわれみによって、聖霊による再生と刷新の洗いをもって、私たちを救ってくださいました。 神はこの聖霊を、私たちの救い主イエス・キリストによって、私たちに豊かに注いでくださったのです。」テトス3:5,6 テトス書の終わりは、救いが私たちの善行によってではなく、神の愛のあわれみによることを確認しています。 しかも、聖霊による再生と刷新の洗いによってなされたのだ、と表現しています。 このあわれみの聖霊が今も豊かに注がれていることに感謝します。 私たちにいのちを与え、愛で満たし、あふれさせてくださることに感謝します。 祈り:神様、今も生きて働かれるイエスキリストとその霊に感謝します。私たちが聖霊に豊かに満たされ、あなたの愛を流し出す者となれますように。アーメン

テトス2

「また、あなた自身、良いわざの模範となりなさい。人を教えることにおいて偽りがなく、品位を保ち、非難する余地がない健全なことばを用いなさい。そうすれば、敵対する者も、私たちについて何も悪いことが言えずに、恥じ入ることになるでしょう。」テトス2:7~8 年配の男の人に対して(2節)、年配の女の人に対して(3~5節)、若い人に対して(6節)の勧めに続いて、働き人のテトス自身への勧めが書かれています。 人の弱点やあらはよく見えます。しかし、自分自身についてはなかなか気づかないものです。 戒め勧めてくれる人がいるというのは幸いなことです。 「逆ギレ」せず、忠告が愛に根差しているなら受け入れる謙遜な心を備えたいです。 祈り:神様、聖書と愛に基づいた忠告を受け入れることができる柔らかい心を与えてください。勇気をもって戒めてくださった方を逆恨みせず、感謝できますように。アーメン

テトス1

「それは、偽ることのない神が永遠の昔から約束してくださった、永遠のいのちの望みに基づくものです。」テトス1:2 パウロは自分の選びを、神が永遠というスケールで計画してくださった希望に基づくと説明しています。 自分の思いつきだけでなく、この時代の一過性のものでもなく、聖書を通して流れる神のご計画の一部を担うという自覚がありました。 しかし、これは大使徒パウロだけではありません。 一人一人の救いが、選びが、永遠の神の約束に基づいています。 そしてそれは、神の壮大なご計画に参与するためです。 なんと光栄なことでしょう。 そして、この人が、あの人が、代わりのいないかけがえのない存在なのです。 祈り:神様、あなたの愛のご計画を感謝します。福音を届けられ、受け入れることができた恵みを覚えます。神の目に高価で尊い信仰の兄姉と、互いに尊重し仕え合えますように。アーメン

Ⅱテモテ4

「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。忍耐の限りを尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。」Ⅱテモテ4:2 過ぎる一週間も、事故や事件のニュースがあり、政治は動き、寒さに耐え、知人や家族の体調の悪さを聞き・・・という日々だったと感じるでしょうか。 なかなか手放しで「時が良くても」と言えないかもしれません。 聖書は「時が良くても悪くても」、どんな時でも「みことばを宣べ伝える」よう勧めています。 「というのは、人々が健全な教えに耐えられなくなり、耳に心地よい話を聞こうと、自分の好みにしたがって自分たちのために教師を寄せ集め、真理から耳を背け、作り話にそれて行くような時代になるからです。(3・4節)」 まさに今日、SNSや噂、作り話が蔓延しています。自分の好みの記事だけを読み、どんどん偏った情報ばかりが入ってくる仕組みもできています。 しかし、このような時だからこそ、変わらない福音の価値が輝きます。 その信仰をもって、新しい週も生きることができる恵みに感謝します。 祈り:神様、福音の真理に頼る幸いを感謝します。どんな時代になっても、主の十字架が希望であり輝き続ける光であることを覚えます。今週も忍耐と慎みを与えてください。アーメン

Ⅱテモテ3

「聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。」Ⅱテモテ3:16 木曜集会でヘンリ・ナウエンの「すべて新たに」を読んでいます。 今週読んだ中に、神の前に静まり、聖霊の臨在を覚える習慣の大切さという内容がありました。 たとえ短くても、生産性とは無縁の、ただ神といることを覚える時間を持つことがすすめられていました。 その時に、何節かのみことばをゆっくり、じっくり黙想することも書かれていました。 なぜなら、聖書のみことばは「神の霊感によるもの」だからです。 それは「教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益」です。 今日はこの1節をじっくり思い巡らせてみませんか。 祈り:神様、あなたの霊感によって書かれた聖書が手元にある恵みに感謝します。私の霊性を整え、大切な決断や今日の判断の前にあなたの臨在を覚えることができますように。アーメン

Ⅱテモテ2

「多くの証人たちの前で私から聞いたことを、ほかの人にも教える力のある信頼できる人たちに委ねなさい。」Ⅱテモテ2:2 先日の午後、次世代宣教のための祈り会を持ちました。 次世代宣教といっても、今の世代が不要なのではありません。 むしろ、今の世代あってこその次世代宣教です。 というのも、「ほかの人にも教える力のある信頼できる人たちに委ねなさい」というのは今の世代にしかできないことだからです。 委ねるためには、ますます今の世代が励むよう「キリスト・イエスの立派な兵士として、私と苦しみをともにしてください(3節)」とパウロは勧めます。 さらに、自分と同じ世代の信仰者を兵役や競技者、農夫にたとえています。 「兵役についている人はだれも、日常生活のことに煩わされることはありません。ただ、兵を募った人を喜ばせようとします。また、競技をする人も、規定にしたがって競技をしなければ栄冠を得ることはできません。(4~5節)」 退職や引退があっても、私たちにはますます主の働きがゆだねられています。 現にミッショントリップで祈り手として教会を訪れてくださった方は、ほとんどが現役を引退された方たちでした。 なんと熱く、なんと情熱をもって祈ってくださったことでしょう! 「労苦している農夫こそ、最初に収穫の分け前にあずかるべきです(6節)」という日を一心に望みつつ。 祈り:神様、私にもまだ使命があることを覚えて感謝します。どうか信仰者のお一人ひとりが、人生の意欲を失うことがありませんように。目に見える一線を退いても、ますます主のわざに励む者となれるよう導いてください。アーメン

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