士師記1

がユダとともにおられたので、ユダは山地を占領した。しかし、平地の住民は鉄の戦車を持っていたので、ユダは彼らを追い払えなかった。」士師記1:19

士師記は約束の地、カナンを平定する記録で始まっています...ただし、途中から「追い払えなかった」「追い払わなかった」と不完全だったことがクローズアップされてきます。

表面的には、イスラエルが情けをかけたか寛大だったかのようにも読めます。
しかし、偶像礼拝や異教の習慣、モラルの乱れに浸らないようにという主の意図からは外れていました。

私たちも「少しくらいなら良いだろう」という妥協が、大きな失敗や滅びに至る例を知っています。麻薬、ギャンブル、そして占いや偶像礼拝...。気がついた時にはがんじがらめになり、自由な選択ができなくなるのです。

心の中で、「これぐらいなら」と主の前に妥協していることがないか、考えさせられます。日曜礼拝だけでなく、それ以外の生活の中で信仰の真価が試されることを覚えます。
「私は主がともにおられるので、________。」の空欄には、どんな内容が入るでしょうか(入れたいでしょうか)。

祈り:神様、あなたがともにおられることを感謝します。家庭で、職場で、学校で、地域で、日々の生活の中_____の点で信仰が試されます。私の反応、言葉、行動があなたのみ思いにかなうよう助けてください。

「...わずかなパン種が、こねた粉全体をふくらませることを、あなたがたは知らないのですか。新しいこねた粉のままでいられるように、古いパン種をすっかり取り除きなさい。あなたがたは種なしパンなのですから。私たちの過越の子羊キリストは、すでに屠られたのです(Ⅰコリント5:6~7)。」 アーメン