ヨシュア11

「ギブオンの住民であるヒビ人以外に、イスラエルの子らと和を講じた町は一つもなかった。イスラエルの子らは戦って、すべてを奪い取った。」ヨシュア11:19

読むのが辛くなるような戦いの記事が続きます。ある人は、聖書の神は残酷だと批判します。しかし、もう少し視点を広げて考えてみたいと思います。

日本に生きるクリスチャンとして、私たちはまず平和を願います。ところが、11章での戦いの相手は、和平交渉を拒絶した町々でした。

また、私たちは主なる神以外を礼拝することを拒みます。11章の町々では異教の偶像礼拝が行われ、罪深い習慣があったと思われます。主の民がきよくあってほしいということを、イスラエルを実物教材として神様は示されたのでした。

さらに、私たちは戦いや犯罪、抑圧や差別を嘆き、心を痛めながらとりなしの祈りを続けます。ウクライナ、ミャンマー、ウイグル、アフガニスタン...の戦い、国内外の銃乱射事件、食料危機に直面する国々、崩壊した家庭の子どもたち...。11章以上の悲惨な状況が、今日の日本や世界で起こっています。
歴史上、悲惨で残酷な出来事の最たるものは、イエス・キリストの十字架刑でした。それは私たちを救おうとする、神の愛とあわれみがあふれ出た決断ゆえでした。
「血なまぐさい」と顔をそむける前に、私がキリストを十字架につけたこと、それほどの犠牲によって救われたことの意味を、今朝はしみじみと思い巡らしています。

祈り:神様、戦いの場面は血が流されるので、読むのが辛いです。十字架がどれほど残酷だったのかを改めて思います。でも、私を救うために、その恐ろしい刑罰を受けてくださったイエス様の愛にも圧倒されています。心から感謝します。アーメン