申命記21

「ある人に死刑に当たる罪過があって処刑され、あなたが彼を木にかける場合、その死体を次の日まで木に残しておいてはならない。その日のうちに必ず埋葬しなければならない。木にかけられた者は神にのろわれた者だからである...」申命記21:22~23

死体が木にかけられるのはみせしめの意味があり、罪人の最も恥ずべき姿でした。
そしてローマによる十字架刑というのは、木にかけられた姿を人前にさらすという、屈辱と恥の刑罰でした。

「キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。『木にかけられた者はみな、のろわれている』と書いてあるからです(ガラテヤ3:13)。」

本当は私たちが自分の罪のゆえに木にかけられ、さらし者となるはずでした。今こうして部屋で静かにキーボードを打っていられるのは、当たり前のことではなく、ただ恵みによるのだとしみじみ思います。なぜくよくよ悩み、選択に迷っているのでしょう。十字架刑に比べれば、どれもこれも小さいことに思えてきます。

祈り:神様、キリストが十字架で私の代わりにのろわれた者となってくださった愛を思い、感謝します。今日何かを判断するとき、イエス様の愛を思い出し、イエス様ならどうされるだろうか、と考えて決断できますように。主にある思慮深さと大胆さを与えてください。アーメン