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詩篇72

「ほむべきかな 神である主 イスラエルの神。 ただひとり 奇しいみわざを行われる方。 とこしえにほむべきかな その栄光の御名。 その栄光が全地に満ちあふれますように。 アーメン、アーメン。 エッサイの子ダビデの祈りは終わった。」詩篇72:18~20 詩篇第2巻の最後は、主への賛美と「ダビデの祈りは終わった」という文言です。 ダビデの詩は、もちろん詩篇の他の箇所にも出てきています。 それでも、「アーメン、アーメン」と一つ一つの祈りに心合わせ、それを重ねています。 私たちも同じです。共に祈り、「アーメン、アーメン」と心合わせることに、クリスチャンが一人ではなく主の共同体として歩んでいることの意味を覚えます。 信仰生活は一人で完結するのではありません。少し面倒に思えても、信仰者の集まりがどれほど意味のあるものか、じっくり考えてみたいと思います。 祈り:神様、信仰の友の祈りに心合わせ「アーメン」と言える恵みに感謝します。私が祈る時、共に祈ってくれる人たちの存在を感謝します。アーメン

詩篇71

「年老いたときも 私を見放さないでください。 私の力が衰え果てても 見捨てないでください。」詩篇71:9 年を重ねた自分を想像してみてください。体力がなく、足も弱く、ばりばり働くこともない自分。 世の中は、引退した人のことを忘れるかもしれません。 しかし、神様は決して忘れることがありません。 年を重ねたからこそ、いっそう主の恵みと守りの経験を通り、確信を持つことができます。 ダビデも 「神よ あなたは私の若いころから 私を教えてくださいました。 私は今なお あなたの奇しいみわざを告げ知らせています。(17節)」 と、若い頃も今も変わらない主の真実を歌います。 「年老いて 白髪頭になったとしても 神よ 私を捨てないでください。 私はなおも告げ知らせます。あなたの力を世に。 あなたの大能のみわざを 後に来るすべての者に。(18節)」 とも述べます。何歳になっても、主の素晴らしさを後世に伝えるという使命は変わりません。たとえ病気であっても、寝たきりになっても、クリスチャンは生涯神に愛され、霊的な歩みでは現役だと、聖書が保証してくれています。 祈り :神様、何歳になっても使命のある、価値ある存在だと保証してくださり、感謝します。 高齢の愛する兄姉である___さん、___さんを祝福してください。 そして___さんの父親、___さんの母親...がキリストに出会うことができますように。あかしする兄姉を励ましてください。彼らが、天国の望みをこの地上でも一日も早く体験できますように。アーメン

詩篇70

「神よ わたしを救い出してください。 主よ 急いで私を助けに来てください。」詩篇70:1 詩篇のダビデの祈りは、同じようなことが繰り返されていると感じます。 それでよいのだと思います。 私たちの思いは、同じ傾向にありますし、日々同じようなことを考えます(思考が堂々巡りをすることもあります)。 急に整理がついた、解決したということもあれば、長期にわたって祈り続けることもあります。 詩篇がダビデの同じ願いをそのまま残していることに、かえってほっとします。 しかも70篇は「記念のために」と副題がついています。 神が「私の助け 私を救い出す方(5節)」という信仰告白をしながら、たゆまずあきらめず祈り続ける信仰は、自身や民族の記念となり、信仰者の姿勢の記念ともなっています。 祈り:神様、私が同じような祈りをしていても、あなたが疎ましく思われず聞いてくださる恵みを感謝します。祈りこそがあなたとの会話であり、私の人生の一歩一歩の記念碑となっていくことを覚えます。新しい週も、一日の初めと終わりに祈りを置くことができますように。アーメン

詩篇69

「心の貧しい者たちよ 見て喜べ。 神を求める者たちよ あなたがたの心を生かせ。」詩篇69:32 ダビデの祈りです。彼の心は、深い泥沼に沈むような、水が喉にまで入って窒息するような状況です。 理由もなく憎まれ、断食して祈ると笑い者になる...強いストレスと嘆きに押し潰されそうな状態です。 彼は祈ります。 「私を泥沼から救い出し 沈まないようにしてください。 私を憎む者どもから 大水の底から 救い出してください。 奔流が私を押し流さず 深い淵が私を吞み込まず 穴が私の上で口を閉じないようにしてください。(14~15節)」 そして、 「心の貧しい者たちよ 見て喜べ。 神を求める者たちよ あなたがたの心を生かせ(32節)」と励ましています。 ストレスにさらされる中、神に助けを求める人たちに神は遠くあられません。 主はダビデの「心を生かせ」の言葉どおり、励まし生かしてくださる方です。 今日も主は、心の貧しい者に耳を傾けてくださいます。 祈り:神様、あなたの助けにより頼みます。ストレスと重圧の中で働いているビジネスマンや主婦を励ましてください。 大きな問題や危機にある教会の牧師たちを覚えてください。その重荷をすべてキリストが背負い、水が喉に入って溺れるような状態からお守りください。アーメン

詩篇68

「ほむべきかな 主。 日々 私たちの重荷を担われる方。 この神こそ 私たちの救い。」詩篇68:19 多くの職業に「守秘義務」があります。立場上知りえた情報を、むやみに他の人に話してはいけないというものです。対人職では、クライアントの個人情報や秘密を漏らさないことが大切です。 職業でなくても「ここだけの話ね」とか「誰にも言わないで」と相談を受ける時、それをどれだけ守れるかで信頼性や品性が問われます。 しかし、守秘義務にせよ他のことにせよ、胸にしまっておくには重いことが多くあります。誰にも話せないことであっても、主には話すことができます。この方は「日々私たちの重荷を担われる方」です。この方に胸の内を打ち明け、重荷から解放されて生きていきましょう。 「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」マタイ11:28 祈り:神様、あなたが私の心の重荷すべてを負ってくださる方であることに感謝します。あなたに私の心をお話しします。アーメン

詩篇67

「神が私たちを祝福してくださり 地の果てのすべての者が 神を恐れますように。」詩篇67:7 福音宣教と、自らも神の祝福を受けることとは矛盾しないようです。 神の恵みを受け取り、十分に感謝し味わうことで、ますます福音の素晴らしさを分かち合いたいという願いも強くなるのかもしれません。 一昨日、アメリカの友人から小包が届きました。 開けてみると、スタディーバイブル(解説つきの聖書)とカードが入っていました。 なかなか買う決心がつかない私のために買い求め、梱包し、高い送料を払って送ってくれたのでした。 しかも皮装の質の良いものでした。カードには「あなたは神の国の大切な娘よ」と書かれていました。 素敵な贈り物をしてくれた友人に感謝すると共に、神様が彼女を通して恵みと励ましをくださったことを覚えます。そして、私も信仰の友を励ましたい、福音の恵みをもっと分かち合いたい、と思わされました。 神様の恵みと祝福は、私たちの今日という日常に満ち溢れています。 祈り:神様、あなたの恵みと祝福を数えます(詩篇103:2)。今週も______という恵み、______という祝福を頂いていることを感謝します。受けた恵みに感謝し、私も福音の素晴らしさと感動に促されて恵みを流し出していくことができるように。アーメン

詩篇66

「神よ まことに あなたは私たちを試し  銀を精錬するように 私たちを錬られました。」詩篇 66:10 錬ることは銀の割合を純粋にします。クリスチャンも同じです。もちろん、働き人も例外ではありません。神様から錬られるごとに、私たちの動機が探られ、心がどれほど純粋に主に向かうかに変化が訪れます。 「自分が」というのではなく、神の御名がどれほど高められるかに関心が向かっていくのです。自分自身はそのための小さな存在であり、それでも主の手足として使っていただける恵みを実感するようになります。 今日の詩篇の11、12節には 「私たちは 火の中 水の中を通りました。   しかし あなたは私たちを 豊かな所へ導き出してくださいました。」 と、試練には終わりがあり、その後には平安と喜びの豊かさがあることが歌われています。 さらに、後に与えられる報いも保証されています。 「試練で試されたあなたがたの信仰は、火で精錬されてもなお朽ちていく金よりも高価であり、イエス・キリストが現れるとき、称賛と栄光と誉れをもたらします(1ぺテロ1:7)。」 祈り:神様、試練を通して私たちの動機を探ってください。心が精錬され、純金・純銀のように純粋にきよめられたいです。今試練を通っている___さん、___さんに主の平安と大きな報いがありますように。アーメン

詩篇65

「あなたはその年に 御恵みの冠をかぶらせます。 あなたの通られた跡には 油が滴っています。」詩篇65:11 主の恵みと備えへの感謝があふれ出る詩篇です。 「その年に恵みの冠をかぶらせる」とは、とてもすてきな表現ですね。 今生きているこの年に、主が恵みの冠をかぶらせているところを想像してみてください。 元々は収穫感謝の時期に歌われたと考えられていますが、収穫の時期にかぎりません。 日々与えられているもの、備えられている事が、恵みの冠のもとで主によってなされているのだと考えると、毎日がかけがえのない24時間に思えてきます。 祈り:神様、平凡な一日の中にも、恵みが滴り落ちるほどに注がれていることに感謝します。兄弟姉妹の今日一日が、主の恵みの冠を頂いて歩んでいるのだという喜びにあふれますように。恵みの主に感謝します。アーメン

詩篇64

「正しい人は主にあって喜び主に身を避けます。 心の直ぐな人はみな 誇ることができます。」詩篇64:10 悪事を企み、うまくいったと思っている人たちの「内なる思いと心とは 底が知れません(6節)」というほど狡猾で悪賢いものです。 しかし、「神が彼らに矢を射掛けられるので 彼らは不意に傷つきます(7節)」。 人の力では悪事を暴くことが難しいと思われた事柄が、思いがけないところから綻びるのです。 そして「彼らは自らの舌につまずきました。 彼らを見る者はみな 頭を振って嘲ります(8節)」というほどになります。 今日、なんと悪巧みや欺瞞があふれているでしょう。 そうした時には主に身を避けましょう。 やがて、心の真っ直ぐな人は神にあって恵みを誇ることができるよう、ねぎらわれるという約束を信じて、ひとときの嵐が過ぎるのを祈りながら期待しましょう。 祈り:神様、理不尽なことや策略にはまり不当に扱われたことは、あなたがご存じです。復讐は、私ではなくあなたの御手にゆだねます。私に、ただあなたの陰に身を避けることを教えてください。今週も職場、学校、地域、それぞれの場所に出ていく兄姉一人一人をお守りください。アーメン

詩篇63

「神よ あなたは私の神。 私はあなたを切に求めます。   水のない 衰え果てた乾いた地で 私のたましいは あなたに渇き   私の身も あなたをあえぎ求めます。   私は あなたの力と栄光を見るために こうして聖所で あなたを仰ぎ見ています。  あなたの恵みは いのちにもまさるゆえ 私の唇は あなたを賛美します。」      詩篇63:1~3 教会でよく賛美する「主よ あなたは私の神~♪」、「あなたの恵みは いのちにもまさるから 私の唇は 主よ あなたを賛美します♪」の曲を口ずさみたくなります。 この詩篇はダビデがユダの荒野に逃れていた時の歌というのですから、どんな苦境でも賛美と祈りをささげることができると、彼はあかししてくれています。 「それゆえ私は 生けるかぎりあなたをほめたたえ あなたの御名により 両手を上げて祈ります(4節)」というダビデにならって、私たちも今日の礼拝で主を賛美し、手を上げて祈りましょう。 祈り:神様、あなたの恵みは限りなく、あなたの栄光は素晴らしいです。私に口が与えられているのは賛美するため、両手はあなたをたたえるためだと受け取ります。皆で集まる礼拝も、帰宅しての個人礼拝でも、あなたを力一杯賛美することができるよう導いてください。アーメン

詩篇62

「私のたましいは黙って ただ神を待ち望む。 私の救いは神から来る。」詩篇62:1 以前述べたかもしれませんが、いても立ってもいられないような気持ちになった時、 つい無駄な動きをして状況が余計に悪化したり、疲れ果てたりしがちです。 しかし、ダビデはたましいを黙らせることを自分に言い聞かせています。 「私のたましいは黙って」、救いの「神を待ち望む」ように、と。そして実際にそうしました。 命を狙われても、わが岩、わが救い、わがやぐらである神により、「私は決して揺るがされない」(2節)と宣言しています。 私たち夫婦は、昔神学校の先生がおっしゃっていた「肉にある時はなにもするな」 という言葉をしばしば思い出します。 じたばたせず、神を待ち望むことの大切さを教えてくださったのだと思います。 祈り:神様、あなたが私の岩、私の救いであることを覚えて感謝します。思い煩い騒がしく動く私の心を、主にあって静めることを教えてください。黙してあなたを待ち望むことができますように。アーメン

詩篇61

「どうか王のいのちを延ばし その齢を代々に至らせてください。 王が 神の御前でいつまでも 王座に着いているようにしてください。」。」詩篇61:6,7 前半では「私の心が衰え果てるとき 私は地の果てから あなたを呼び求めます。 どうか 及びがたいほど高い岩の上に 私を導いてください」と自分の守りを祈っています。 ところが後半では王のためにも祈っています。 ダビデにとっての王とは誰でしょう? サウルに他なりません! ダビデの命をねらい、ひどい仕打ちをしたサウルのために祝福を祈っているのです。 イエス様も、十字架につけた人々のために祈られました。 私たちも、周りの人はもちろん、自分とそりが合わない人のために何らかの祈りをささげることができるか考えたいと思います。 祈り:神様、私に日々の必要と恵みをお与えくださり感謝します。普段、なかなか祈れない___さんや___さんのために、今日は祝福を祈ります。主が目を留め、その方々の信仰を励まし霊性を強め、あるいは主との出会いを与えてください。 私の苦い心をあなたにおゆだねします。アーメン

詩篇60

「あなたは あなたを恐れる者に 旗を授けられました。 弓から逃れた者をそこに集めるために。  セラ」詩篇60:4 今年は、狭山池の桜を見るためにインバウンドの旅行者が多く訪れていました。 「こんな郊外にまで」と驚きました。 ガイドが持つツアーの旗を目印に、周辺の道路を歩いておられました。 日本語のあまりわからない方もいるようでしたが、旗から目を離さなければ迷わずについていくことができます。 「弓から逃れた者をそこに集めるために」、「あなたを恐れる者に旗を授けられました」とダビデは歌います。弓から逃げた後、安全な場所へ導くための旗です。 神様は、私たちの人生の歩みを旗で導く方のようです。 その旗が見える方向に歩んでいれば、迷うことなく安全です。 もし視界から消えたら、それは旗がないのではなく、私たちの方向が誤っているのです。旗が見える方向に修正することが求められます。 今日も、神様の旗が見えているでしょうか。 祈り:神様、あなたをいつも見ていたいです。みことばに聞き、祈りの中で語られるか細い声を聞くことができますように。ボタンをかけ違えないように、早い段階で修正して向きを変えることができるように導いてください。アーメン

詩篇59

「私の力よ 私はあなたを見続けます。 神が私の砦だからです。」詩篇59:9 51篇以降、ダビデの祈りが続いています。多くは苦境の中で祈られたものです。 今日は命を狙うサウルによって、自宅が見張られている時の詩篇です。 自宅が敵に包囲されたらどんな気持ちかと想像します。武装した敵の姿が窓から見えます。敵が目に入るたび、恐れて震えあがるでしょう。 しかし、ダビデは意図的に敵を見る代わりに神を見ることを選びました。ちらっとではなく、「見続ける」ことを選びました。「砦」である神を見続ける時、視点が変わります。 私たちも同じように、問題から目を離すことを「選びとる」ことを、今日試してみませんか。 結果として、ダビデには「私の恵みの神は 私を迎えに来てくださる。神は 私に敵を平然と眺めるようにしてくださる(10節)」という信仰が与えられました。 神様は、私の視点をも「敵を平然と眺める」ことができるようにしてくださる方です。私たちが主ご自身を見続けていれば。 祈り:神様、あなたが私の砦であることに感謝します。問題を見ると、恐れと落胆がやってきます。あなたを見続けることができるよう、助けてください。 私の内に、信仰の友の間に、そして教会中に、主を見続ける信仰と、そのためのみことばと励ましの言葉が満ちますように。偏った思考の習慣から解放してください。柔らかい、純粋な心を与えてください。アーメン 神は私の砦 私の恵みの神であるからです。(17節)

詩篇58

「神よ 彼らの歯をその口の中で折ってください。 主よ 若獅子たちの牙を打ち砕いてください。」詩篇58:6 なんという祈りをするのか、と思うかもしれません。敵をひどい目に合わせてください、という願いなのですから。 しかし、自分がそのように感じたことがないかと問われれば、「ありません」と胸をはって答えられる人はあまり多くないのでは、と思います。 素直に心の奥底からすべてを主に祈りで申し上げるのか。あるいは、表面はよい人を装いつつ心は憎しみでいっぱいか。どちらが砕かれた心だと言えるでしょう。 神様は「そんなことを言うな!」と怒る方ではありません。かえって、私たちの思いを探り、私たちも憎しみを受けるべき未熟な者であることに気づかせ、あわれみ、癒してくださる方です。 ダビデも最後には、常に主を賛美する言葉で終えています。いつまでも根に持つ態度でなく、神の癒しと回復に感謝する私たちでありますように。 祈り:神様、私の心の中の苦い思いを申し上げます。辛く、心を指すような言葉に傷つきました。けれども、すべてを知っておられる主がいてくださって感謝です。私もまた、同じように人を傷つけ、罪深い思考を持つ者です。そのことも告白します。 私の思いを聖霊のよいもので満たしてください。アーメン