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詩篇133

「見よ。なんという幸せ なんという楽しさだろう。 兄弟たちが一つになって ともに生きることは。 」詩篇133:1 このブログを書き始めた一番の理由は、教会で同じみことばを読み、互いを覚えて祈るためです。デボーション誌を定期講読するのが難しくても、共にできることをと願いました。 霊の兄弟姉妹と同じ祈り心で日々生きることは、「なんという幸せ なんという楽しさ(1節)」でしょう。 それは 「頭に注がれた貴い油のようだ」(2節)、「ヘルモンから シオンの山々に降りる露のようだ」(3節)と形容される通り、この世の価値観を越え、主の恵みが降り注ぐようなものです。 「とこしえのいのちの祝福」(3節)を頂いた者が共に祈る時、神の国がこの地に現されているのです。 祈り:神様、あなたが植えてくださった教会を感謝します。それぞれの集う教会に、互いの祈りがあふれ、主の栄光を見上げ、楽しみ生きることができますように。日本中、世界中の教会に、今日も同じ聖霊の臨在があふれますように。アーメン

詩篇132

「そこにわたしはダビデのために 一つの角を生えさせる。 わたしに油注がれた者のために ともしびを整える。」詩篇132:17 「油注がれた者」として、ダビデの家系からイエス・キリストが誕生しました。 ダビデの時代からずっと後のことです。人の目にははるか忘れられたような年月でした。しかし、主は約束を忘れることはありませんでした。 祈ってきたのにきかれず、主が忘れておられるのではと思うことがありますか。主の計画は私たちよりもはるかに深く、主のスケールは私たちよりもはるかに大きいことを心に留めたいと思います。 祈り:神様、あなたのご計画は私の理解をはるか越えておられます。「なぜ、こんな時にこんなことが...」と思う時、あなたの計画に狂いはないという信仰を与えてください。ビザ発給を待つ宣教師たちに忍耐を与え、最善の時に最善のことがなされますように。アーメン

詩篇131

「主よ 私の心はおごらず 私の目は高ぶりません。 及びもつかない大きなことや奇しいことに 私は足を踏み入れません。」詩篇131:1 好奇心や知りたいという心は、学びや探求のためにはよいものです。 しかし、誤った用い方には要注意です。 他人の業務に何でも首をつっこむと疎まれます。 私生活でも、うわさや他人のプライバシーや秘密は、無理に知ろうとしない方がよいのです。「自分の分をわきまえる」とはよく言ったものです。 ダビデ王でさえ、「及びもつかない大きなことや奇しいことに足を踏み入れません」と言っています。 ローマ書では「互いに一つ心になり、思い上がることなく、むしろ身分の低い人たちと交わりなさい。自分を知恵のある者と考えてはいけません(ローマ12:16)」と進められています。 思い上がらず、謙遜に仕える者となれますように。 祈り:神様、私に謙遜な心を与えてください。思い上がらず、高ぶらず、主の愛をもって歩めますように。危険から守ってください。教会でも、親切な真心をもって互いに仕えあうことができますように。アーメン

詩篇130

「私のたましいは 夜回りが夜明けを まことに 夜回りが夜明けを待つのにまさって 主を待ちます。」詩篇130:7 この箇所を読むと、夜勤についている教会メンバーの顔が浮かびます。職種はさまざまでプロだとはいえ、大変な仕事です。事故やハプニングには、昼間よりも少ない人数で、的確な対応が求められます。 旧約時代の神殿にも夜勤の祭司たちがいました。主の宮を交代で守っていました。 夜明けには、主に守りを感謝したことでしょう。 実際の夜勤があってもなくても、たましいが夜明けを待つような思いで主を待ち望んでいるでしょうか。考えてみれば、夜眠りにつくこと、朝起きることも、主の守りがあってこそです。 祈り:神様、何気ない日常生活の中に、あなたの守りと恵みがあふれていることを覚えます。主ご自身を、夜明けを待つ以上に求める思いを与えてください。 学校や職場に出かけるのが辛くてたまらない___さん、___さんに、行く日も休む日も、あなたの励ましと希望がありますように。アーメン

詩篇129

「『彼らは 私が若いころからひどく私を苦しめた。』 さあ イスラエルは言え。 『彼らは 私が若いころからひどく私を苦しめた。 しかし 彼らは私に勝てなかった。』」詩篇129:1~2 敵は勝利しませんでした。神が守ってくださったからでした。 多様化社会と言われて久しくなります。人々の好みだけでなく、どこからが悪いことなのか、どこまで許容されるのかも揺らいでいます。 それでも、神の愛に反すること、聖書と矛盾することは私たちを幸せにはしません。 他者に対してはどうでしょうか。みことばの字面だけを投げつけて裁くのでは、パリサイ人と同じなのだと自戒します。 より深い神のみ思いへの理解と自分の生活での実践、「みことばを生きる」者となれるようにと願います。 その上で、敵に対しては大胆にイエスの御名で勝利を宣言しましょう。 祈り:神様、さまざまな価値観の中で、あなたの思いを日々知ることができますように。 人々を外見や先入観で判断せず、キリストがされたようにその心を見ることができますように。私たちも、かつてはぼろぼろの状態で主の元に来たことを思い出します。も不完全な者だと自覚します。改めてあなたのあわれみと恵みに感謝します。アーメン

詩篇128

「あなたの妻は 家の奥で たわわに実るぶどうの木のようだ。 あなたの子どもたちは 食卓を囲むとき まるでオリーブの若木のようだ。」詩篇128:3 何年か前に、オリーブの小さい苗を買いました。鉢で育てていると少しずつ大きくなり、花を咲かせるようになりました。 1本では実がならないというので、今年再びもう1つの小さな苗を買ってきて並べて置きました。先日からの雨で、小さかった苗が雨のたびにみるみる枝を伸ばしました。 今日の箇所で、主の祝福のひとつに子供たちが食卓を囲む様子が「まるでオリーブの若木のようだ」と描かれています。 にぎやかに食卓を囲み、食べ盛りの子はおかわりをし、小さい子はこぼしたりむずかったりする。家の人は必死かもしれませんが、それもまた、ふり返ると幸せな祝福の時だとわかります。 教会にも子どもが来ます。子どものミニストリーには体力・気力が必要です。退屈だと聞いてくれません。また子どもは、時には走り回ったり、大声を出したりするかもしれません。 しかし、そうした1コマ1コマが、教会にとっては幸せな祝福の時です。子どもたちのために暖かい目で見守り、時には優しく諭し、祈りをもって共に育てていきましょう。彼らこそ、教会の将来の希望です。年月がたち、大人になった彼らがリードする礼拝に参加できるなら、どんなに素晴らしいでしょう! 祈り:神様、教会に与えられている幼子、子どもたちを祝福します。そして彼らのために祈ります。主にあって育ち、聖書の価値観を備え、主を愛する生涯を送ることができますように。彼らを愛し、彼らのよい相談相手、祈り手となれるよう、私たちにキリストの愛とまなざしを与えてください。アーメン

詩篇127

「主が家を建てるのでなければ 建てる者の働きはむなしい。 主が町を守るのでなければ 守る者の見張りはむなしい。」詩篇127:1 神様抜きでの業績は、頼りなく根拠のないものだと詩篇の作者は警告します。 続く2節は「あなたがたが早く起き 遅く休み 労苦の糧を食べたとしても それはむなしい。 実に 主は愛する者に眠りを与えてくださる」と言います。 どんなにあくせく働いても、忙しくしていても、神様抜きではむなしく、何のために働いているのか目的を見失いかねません。 眠る間も惜しんで働いても、なお多くの悩みや思い煩いがやってきます。 そのことを、1節では「主でなければ むなしい」と表現します。 しかし、2節後半には「実に主は 愛する者に眠りを与えてくださる」あるいは「眠っている間に、このように備えてくださる」とあります。 怠けるのではありません。最善を尽くしますが、神がそれに増して守ってくださることへの信頼が、「ゆだねる」という信仰につながります。 「こうでなければ」と自分の思いで握りしめていることはありませんか。ベストを尽くしたら、握りしめず、神の手にゆだねませんか。 祈り:神様、あなたの備えと守りに信頼することができるよう、助けてください。 義務や重荷をキリストの背に乗せ、一つ一つあなたに相談しながら、キリストと共にしていくことができますように。アーメン

詩篇126

「涙とともに種を蒔く者は 喜び叫びながら刈り取る。」詩篇126:5 「ネゲブの流れのように 私たちを元どおりにしてください。」(4節) ネゲブ砂漠はイスラエル南部の砂漠です。普段は荒涼としていますが、雨が降ると地下の水が一気に地表を流れ、草が芽吹きます。 チャールズ・スポルジョンは涙を「流れる祈り」と呼びました。悲しみの祈り、喜びの祈り、どちらも涙が伴います。 祈りは砂漠の地下水のように、表面からは見えなくても主には覚えられています。 やがて地表にあふれ流れるように、神の時に祈りの答えを見ます。 不信仰な言葉が出そうになったら、それを祈りに変えることができますように。 祈り:神様、私の思いや感情を、あなたの御前に注ぎ出します。自分のことだけでなく、信仰の兄弟姉妹のためにもとりなし祈らせてください。 涙と共に心を注ぎ出しで祈り、川のように祈りの答えがあふれるのを見たいです。私の生活に、教会の中に、祈りが満ちますように。アーメン

詩篇125

「主に信頼する人々はシオンの山のようだ。 揺るぐことなく とこしえにながらえる。」詩篇125:1 人生をかけて福音を伝えたのは、初代教会や歴史のリーダーに限りません。 この日本でも、何十年にもわたり福音宣教のために仕え、80代、90代になっても今なおキリストへの愛に燃えている伝道者がおられます。 今週は、90歳でなお現役として、国内外で宣教する伝道者のあかしを聞く機会がありました。キリストのために気が変になったと言われてもよい、パウロのように励み続けたいという言葉が印象的でした。 もしパウロのようであったら、どんな苦労や批判があったとしても気にもかけないことでしょう。 なぜなら、主に信頼するなら「シオンの山のよう」に揺るぐことがないからです。 そして「エルサレムを山々が取り囲んでいるように」(関西にいると京都や奈良のような盆地をイメージします)、主が囲んで守ってくださるのです(2節)。 主の御腕に囲まれて歩む日々は、なんと安全なことでしょうか。暴風が来ても大丈夫です。 祈り:神様、あなたに信頼し、揺るぐことなく歩みたいです。あなたの守りを受け取ります。批判や苦い言葉が私の心を蝕むことがないように守ってください。明日の礼拝にも期待します。アーメン

詩篇124

「もしも 主が私たちの味方でなかったなら   人々が敵対してきたとき」詩篇124:2 「もしも 主が私たちの味方でなかったなら」どうなるでしょう。 想像するだけで、勝ち目がないとわかります。 敵によって丸呑みにされ、大水に押し流され、餌食となる、とダビデは言います(3~5節)。肉体的に敗北するだけでなく、たましいも敵の餌食になってしまいます。 しかし、キリストを信じるなら、主は私たちの味方です。 「ほむべきかな 主。 主は私たちを 彼らの歯の餌食にされなかった。  鳥のように 私たちのたましいは 仕掛けられた罠から助け出された。   罠は破られ 私たちは助け出された。   私たちの助けは 天地を造られた主の御名にある。(6~8節)」 せっかく主が共におられるのに、独りで戦おうとしていませんか。 仕掛けられた罠を主が破ってくださったのに、まだ罠の中にとどまろうとしていませんか。 もしまだとらわれている心があるなら、イエス様が手を取り、脱出するのを助けてくださると信じましょう。 祈り:神様、あなたが共にいてくださること、信じる者の味方であることを感謝します。 日々の歩みで、苦境に立たされること、心乱される出来事に直面することがあります。 落ち着いてあなたの助けを呼び求めることができるよう、私のたましいを今日も守ってください。主にある判断力と反応を与えてください。 「この世と調子を会わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」(ローマ12:2)  アーメン

詩篇123

「まことに しもべたちの目が主人の手に向けられ   仕える女の目が女主人の手に向けられるように   私たちの目は私たちの神 主に向けられています。   主が私たちをあわれんでくださるまで。」詩篇123:3 「あわれんでください」と言うまでもなく、神様はあわれみ深い方です。 それでも、私たちは「主よあわれんでください」と叫びます。 それは、しもべが主人を見つめ続けるように、私たちが主に信頼し続け、主のなさることに期待するためでもあります。 「あわれんでください 主よ あわれんでください。 私たちは蔑みでいっぱいです。」(3節) 状況が苦しければ苦しいほど、頼れるものは限られてきます。 エルサレムに向かいながら、巡礼者たちはどのような気持ちでこの歌を歌ったでしょうか。 日常に戻れば困難や苦労が多くあります。 それでも、今は雑事を忘れて一番大切なこと~神への礼拝~に心を定める決意を確認したことでしょう。 それはちょうど、マルタとマリアの姉妹のうち、マリアがイエス様の足元に座って聞き入った姿に重なります。 祈り:神様、私たちをあわれんでください。さまざまな心づかいのある日常で、 まずあなたの足元に座ってマリアのように声を聞きたいです。巡礼者のように心を定めて礼拝したいです。導いてください。アーメン

詩篇122

「エルサレムの平和のために祈れ。『あなたを愛する人々が安らかであるように。』」詩篇122:6 ダビデによる「都上りの歌」です。 王として、都の安寧はもちろん重要でした。 しかし、それにもまして人々が「さあ 主の家に行こう」(1節)と言った時、彼は喜びました。 ただ軍事的、政治的に平和なだけでなく、 「あなた(主)を愛する人々が安らかである」ため(6節) 「私の兄弟 友のうちに平和がある」ため(8節) 「私たちの神 主の家のために」という動機(9節) から平和を祈り求めました。 主の家である教会に、平和と喜びのうちに集うことができるのは何よりの幸せです。 自由に、安全に礼拝できる恵みをかみしめつつ、共に集まり賛美をささげましょう。 祈り:神様、教会に集うことは単なる義務ではなく、大きな恵みだと覚えます。 世界中の迫害されているクリスチャンや教会を、今日も励ましてください。 あなたを礼拝する自由と平和が、その地に一日も早く訪れますように。 とりなしの祈りを続けます。アーメン

詩篇121

「私は山に向かって目を上げる。   私の助けは どこから来るのか。   私の助けは主から来る。   天地を造られたお方から。」詩篇121:1~2 エルサレムの丘に向かって歩きながら、巡礼者はこの歌をどのような思いで歌ったでしょうか。 丘を見上げると空も天も目に入ります。旅がここまで守られたという感謝と、万物を創造された主を見上げる思い。そして、これから向かう神殿で礼拝できる期待感に満たされたことでしょう。 すべてのわざわいから守られるのは、「たましい」の守り(7節)にも重点が置かれています。心と霊が、混乱する世の中で今日も守られますように。 祈り:神様、あなたを見上げます。今日も私の心と霊をお守りください。さまざまなハプニングの中で、混乱せず祈ることができるよう、お守りください。アーメン

詩篇120

「主よ 私のたましいを 偽りの唇 欺きの舌から 救い出してください。」詩篇120:2 120篇から134篇は「都上りの歌」と呼ばれ、エルサレム巡礼の人々が神殿に上っていく時に歌ったと言われます。 「偽りの唇」「欺きの舌」によって囲まれた作者は、八方塞がり、裏切りと敵が周りにいる苦境にあって祈ります。 心を注いだ祈りの結論は、最初の節 「苦しみのうちに私が主を呼び求めると 主は私に答えてくださった」 でした。 結論というより信仰を働かせ、それゆえ祈ることを選びとったとも言えるでしょう。 目に見える周囲の状況をはるかに越えてすぐれた方、主が私たちとともにおられます。新しい週の出勤や通学が憂鬱でも、主はその状況の中で私たちと共におられ、救ってくださる方です。 祈り:神様、今週の一人一人の働きをお守りください。失敗や人間関係の苦境にある人に、主が共にいてくださるから大丈夫という信仰を与えてください。どこにいても、一瞬ごとに主を呼び求め、見上げることができるように導いてください。アーメン

詩篇119

「苦しみにあったことは 私にとって幸せでした。 それにより 私はあなたのおきてを学びました。」詩篇119:71 聖書の中で一番長い章です。読み通すのが大変だったかもしれません。 元々の言葉だと、各連(各段落)の初めの文字がアルファベット順になっているそうです。かるたみたいですね。 繰り返し、繰り返し、神様の教え(さとし、戒め)に従う幸いを歌います。 「あなたのみことばは 私の足のともしび 私の道の光です(105節)。」 みことばは、人生の歩みを照らす光だと表現されます。 苦しみでさえも、主のおきてを学ぶことができたので幸せだった、と詩人は歌います。 試練や困難を通して、私たちも信仰が強くされ、きよめられ、主にある忍耐と品性が備わっていきます。その時は苦しいですが、後でふりかえると、きっと「幸いでした」と言えるのですね。 祈り: 「すべての訓練は、そのときは喜ばしいものではなく、かえって苦しく思われるものですが、後になると、これによって鍛えられた人々に、義という平安の実を結ばせます。(ヘブル12:11)」 神様、このことばを信じます。困難を通っている___さん、___さんを、あなたが励ましてください。信仰を強め、あなたにより近く歩み、続く人たちを慰め励ます器として用いられますように。主が守り支えてください。アーメン