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エゼキエル17

「わたしがそれをイスラエルの高い山に植えると、それは枝を伸ばし、実を結び、見事な杉の木となる。その下にはあらゆる種類の鳥が宿り、その枝の陰に住む。」エゼキエル17:23 秋晴れが続き、外を歩きたくなる季節です。日曜日の午後は教会設立式で奈良県まで出向きました。県境は山あいで、大きな木が生えていました。道から見えないところに、きっと多くの鳥や動物たちが住んでいるのだろうと思います。 生態系を与え、木を成長させ、鳥や動物を養っておられるのは神様です。人間がコントロールできるのは、自然のごくごく一部に過ぎません。多くは、強く大きな主の御手によって保たれています。 24節には「このとき、野のすべての木は、主であるわたしが高い木を低くし、低い木を高くし、生木を枯らし、枯れ木に芽を出させることを知る。主であるわたしが語り、わたしが行う」とあります。自然にふれて深呼吸する時、それを造られた主がおられることを味わい感謝したいですね。 祈り:神様、あなたの造られた自然を見て、あなたの偉大さに思いを馳せます。 「輝く日をあおぐとき 月星眺むるとき 雷鳴り渡るとき まことのみ神を思う(聖歌480番)」と賛美します。今月もお守りくださり、ありがとうございました。アーメン

エゼキエル16

「だが、わたしは、あなたが若かった日々にあなたと結んだ契約を覚えて、あなたと永遠の契約を立てる。」エゼキエル16:60 旧約のイスラエルの姿が、一人の女性にたとえて語られています。 見捨てられた生まれを救われ、助けられて妻とされたのに、彼女は感謝するどころか浮気をし、裏切りと勝手な行動に走ります。 それでも見捨てず、結婚の契約を覚えて、さらに永続する契約を結ぶというのです。 神様はこの夫のような方です。裏切りと罪を重ねたイスラエルをこのように扱われる方は、私たちをも限りなく赦し、ご自身の元にくる者を救ってくださいます。 既婚の方は、文字通り結婚の契約の重みを再確認しましょう。 また、自分の判断に頼り、神を第一にする信仰生活よりも収入や安定といった条件に目が向くことはないでしょうか。 もし心当たりがあれば、歯車の狂いはそこにあるかもしれません。 今一度神の前に静まり、すべてを備えてくださる神様のみこころを求めましょう。 祈り:神様、私があなた以上に大切にするものがあれば、その罪に気づかせてください。仕事も、家庭も、人間関係も、主にあって楽しみ、満足を得ることができますように。 「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。(マタイ6:33)」 アーメン

エゼキエル15

「人の子よ。ぶどうの木は森の木立の中にあって、ほかの木より枝がどれだけすぐれているのか。」エゼキエル15:2 イスラエルの人々がぶどうの木にたとえられています。が、ここでのぶどうの木はイエス様のたとえ話の「主はぶどうの木、あなたがたは枝でよい実を結ぶ」とは異なります。 同じ木ですが、よい実ではなく悪い実を成らせ続けたぶどうの木です。神様を仰ぎ見ず、反逆を続けた人々の罪を指しています。 だから、焼かれて何の役にも立たないと叱責されているのです。 イザヤ、エレミヤといった預言者たちが罪を指摘しましたが、人々は耳を貸さず、不信仰を重ねてきました。 私たちの結ぶ実は、よいぶどうの実でしょうか。不信仰や疑い、恐れの実がなりかけているなら、若いうちに摘み取りましょう。余計な枝が張りすぎて実に栄養がいかないなら、剪定しましょう。 祈り:神様、悪い実をならせることがないよう、私の心も口もお守りください。また、あれこれと枝が張りすぎ、心が分かれて集中できないなら、すっきり剪定することができますように。今日からの残りの人生を、あなたが私にしてほしいと望まれることに集中できますように。アーメン

エゼキエル14

「あなたがたは、彼らの生き方と行いとを見て慰められる。このとき、あなたがたは、わたしがそこでしたすべてのことは、理由もなくしたのではないことを知る──神である主のことば。」エゼキエル14:23 すべてが失われたように思えても、逃れの者がいました。そして、その生き方と行いは慰めとなると言うのです。なんという希望でしょうか。 「空の巣症候群」という言葉があります。主には子育てが終わって子どもが自立した後に感じる空虚感を指します。しかし、それだけでなく、介護、仕事、PTA、ボランティア、学びなど、自分自身が打ち込んで来たものがなくなる時に、あれっと思うような寂しさ、むなしさを感じる私たちです。 心の空っぽを埋めてくださるのは、主ご自身と主が与えてくださる恵みです。それはみことばはもちろん、信仰の友やなにげない日常の事柄を通してかもしれません。自分が無価値で無用だと思わせるのは、サタンの罠です。主が与えてくださる新しい希望と召しを胸弾ませて受け取りたいですね。 祈り:神様、退職や家族状況の変化、加齢などで、自分の役割が終わったかのような錯覚に陥ります。でも、あなたはたとえ私が寝たきりになっても地上の使命を与え続けてくださる方です。 寂しさの中を通っている___さん、___さんに深い喜びを与えてください。主が語りかける新しい使命に胸踊らせることができますよう、上からの励ましが格別にありますように。アーメン

エゼキエル13

「実に彼らは、平安がないのに「平安」と言って、わたしの民を惑わし、壁を築くとすぐ、それに漆喰で上塗りをしてしまう。」エゼキエル13:10 教会1階のお風呂場は、経年劣化で壁がずいぶん剥がれてきています。自分達で何とかできないかと話し合った時、一瞬「漆喰を塗ってはどうか」と思いました。しかし漆喰は耐水性がないので向かない、とのことでした。 偽預言者たちは、さばきが迫っているのを覆い隠そうとしました。それはまるで、深刻な状況に漆喰を上塗りするような言動でした。豪雨が降るとはがれてしまう、つまり真実は隠しきれないにもかかわらず、でした。 イスラエルの状況だけでなく、私たちの心も同様かもしれません。主に喜ばれない動機や罪深い反応を、見せかけの親切や行動で覆い隠していないでしょうか。 神の前に思いのすべてを差し出し、取り扱っていただいたなら、それはよく整えられた下地であり、どんな塗料を塗るにも美しく丈夫に仕上がる状態です。 祈り:神様、はりぼての偽善ではなく、私の心の奥底を探り、私を悔い改めとあなたへの明け渡しへと導いてください。日々カビや水垢のようにつく罪をきよめ、揺るぎない心と平安を私の内に造ってください。アーメン

エゼキエル12

「そこで、私は命じられたとおりにした。自分の荷物を捕囚のときの荷物のようにして昼のうちに持ち出し、夕方、自分の手で壁に穴を開け、彼らの見ている前で、暗いうちに荷物を背負って出て行った。」エゼキエル12:7 エゼキエルが穴を開けたのは、自宅の壁だったと思われます。泥のれんが作りとはいえ、大切な家の壁は誰が修理してくれるのでしょうか。神様が修繕費を送ってくれるのでしょうか。 そういえば、イエス様のところに病人を連れてきた4人の友達も、屋根に穴をあけて病人を吊り下ろしました。その後の修理はどうしたのでしょうか。 聖書はすべての顛末を語っていません。それは、もっと大切なことに集中しているからです。癒し、救い、そして永遠のいのち、すべての所有者は神であるという信仰、それらに焦点が当てられています。 私たちの思考はあてもなくさまよい、些細なところで立ち止まり、本筋でないところにこだわり、葛藤します。その一方で、大切なことが盲点になっているのかもしれません。神様が信仰の友や先輩を通して、その盲点を指摘してくださいますように。 祈り:神様、近視眼になっている私の視点を、あなたのみ手で引き上げてください。空から見下ろす時のように、本当に大切なものに意識を向けることができるよう、助けてください。些細なことは気にしすぎないよう、私の心を守ってください。アーメン

エゼキエル11

「わたしは彼らに一つの心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を与える。わたしは彼らのからだから石の心を取り除き、彼らに肉の心を与える。」エゼキエル11:19 エルサレムでは、新しい指導者が「エルサレムは鍋だ。私たちは鍋の中の肉だ」、つまり、エルサレムは安全な場所でそこにいれば大丈夫だ、と言っていました。 しかし主はよこしまな彼らの思いを打ち砕かれます。合わせて、やがて捕囚の民が戻ってくることを述べられます。 回復される民は、いのちのない頑固な「石の心」ではなく、いのちのある「肉の心」を持つ、というのでした。つまり、主ご自身と生きた関係を持てる、砕かれた心を持つ民となり、主が彼らの神となると言われました。 私たちも年齢や経験、こだわりのせいか、ともすれば主よりも自分の考えに固執することがあります。黙して、主の細いみ声を聞くことができますように。柔らかな肉の心をもって、軌道修正できるでしょうか。 祈り:神様、私に石の心ではなく肉の心を与えてください。主の前にへりくだって出ます。___のこと、____のことについて、私に語ってください。「しもべは聞いております(第一サムエル3:10)」と言えますように。アーメン

エゼキエル10

「彼らは、かつて私がケバル川のほとりで、イスラエルの神の下に見た生きものであった。私は彼らがケルビムであることを知った。」エゼキエル10:20 1章で、エゼキエルに捕囚の地で現れたのと同じケルビムが、再びエルサレムの神殿でも見えました。そして、神の栄光がそこにありました。白昼夢ではなく、確かに同じ主がそこにおられることの確証でした。 10月も下旬になり、来年に向けての導きを祈っている人もいることと思います。私自身も、毎年個人的な指針となるみことば、そして公私の諸分野(霊的成長、宣教、家族、社会、知的成長...)においての神様からの方向性を求めて祈ります。 さまざまなことが思い浮かび、考えは飛躍します。しかし、どこまでも同じ主がおられます。「これに歩め」という道に歩むには、自分の願いを正直に主の前に出し、動機を点検し、主にある平安を頂くことなのだと思います。 祈り:神様、あなたの変わらない臨在に感謝します。私を「これに歩め」というあなたの道に導いてください。導きを求めている___さん、___さんにも主の道がはっきりと示されますように。アーメン

エゼキエル9

「主は彼にこう言われた。『都の中、エルサレムの中を行き巡り、ここで行われているすべての忌み嫌うべきことを嘆き悲しんでいる人々の額に、しるしをつけよ。』」エゼキエル9:4 エルサレムには、神に喜ばれない行為、罪深い行動をしている人がいました。 一方で、そうした行為を嘆き悲しんでいる人、神の正さに目をとめ続ける人もいました。エルサレムへのさばきがくだる時、神様はその人たちを守られました。 額にしるしをつけ、その人たちに害が及ばないようにされました。 聖書の神は、義である方です。罪をそのままにはされません。しかし同時に、あわれみ深い方です。主を呼び求める者には、豊かなあわれみと愛を持っていてくださいます。悪に満ちた町、ソドムとゴモラを滅ぼす時にも、アブラハムの祈りを聞き、甥のロト家族を救われました。 私たちの周りにも、多くの悪や嘆きがあります。しかし、主を呼び求める者がいるなら、しるしがついているかのように、その存在が主にははっきり見えています。 祈り:神様、あなたのあわれみに感謝します。どんな悪の時代にあっても、あなたを呼び求める者に目を留めてくださることは慰めです。____についても祈り続けることができるよう、導いてください。うアーメン

エゼキエル8

「すると、その方は手の形をしたものを伸ばし、私の髪の房をつかまれた。すると、霊が私を地と天の間に持ち上げ、神々しい幻のうちに私をエルサレムへと携え行き、ねたみを引き起こす『ねたみ』という像がある、北に面した内門の入り口に連れて行った。」エゼキエル8:3 エゼキエルが聖霊によって、捕囚の地からエルサレムまで行ったことが書かれています。 おとぎ話のように思えるでしょうか。でも、パウロも第三の天にまで引き上げられた経験を語っています(第二コリント12:2)。霊によって、彼らは引き上げられました。神に不可能なことはありません。 ねたみを引き起こす「ねたみ」の像とは、マナセが持ち込んだアシェラ像だと思われます。神以外のものを拝むことは、神のねたみを引き起こす行為です。 神が「ねたむ」とは?それは、神が私たちを「ねたむほど愛しておられる」という表現です。罪深い「嫉妬」ではなく、ご自身の方を向いてほしいという愛ゆえの願いです。 祈り:神様、あなたの愛が「ねたむ」ほどに深いことを覚えます。同時に、私の心にある「ねたみ」の罪の心を、あなたの前に告白し、悔い改めます。あなたの他には何も求めないという心、あなたがおられれば満足という心を与えてください。アーメン

エゼキエル7

「王は喪に服し、君主は恐怖に包まれ、 民衆の手はわななく。 わたしが、彼らの行いにしたがって彼らに報い、 彼らのやり方にしたがって彼らをさばくとき、 彼らは、わたしが主であることを知る。」エゼキエル7:27 この章を読むと、神のさばきが無意味にではなく、人の生き方や態度にしたがってくだされるとわかります。神を神ともしない自己中心、自分勝手に弱者を虐げ、偶像礼拝に陥る生活が、さばきの根拠だというのです。 これだけの悪行なら、誰もが納得するでしょう。 しかし、もし私たちが無自覚に行っていることが、偶像礼拝や弱者への虐げとなっていたらどうでしょう。私たちの生活スタイルが、遠く離れた貧しい国の人々を圧迫していることもありえます。 信仰者として、日々の小さな歩みや判断にも、神の知恵を求めていきたいものです。そして、日々の一歩が将来の自分の生き方につながることも事実です。 祈り:神様、今日の歩みを導いてください。判断するとき、決めるとき、答えるとき、小さなことにもあなたの知恵と導きをいただけるよう、なるべく多くの瞬間を祈り心で過ごせるよう、どうか助けてください。国内外の虐げられている人々に、あなたのあわれみと希望が届き、必要の満たしがありますように。アーメン

エゼキエル6

「あなたがたは、わたしが 主 であることを知る。」エゼキエル6:7, 13, 14 エゼキエル書のキーワードは、「(そのとき)あなたがたは、わたしが 主 であることを知る」です。 さばきや厳しいことばの理由は、人々がこのお方こそ主なる神であると知るためです。 滅ぼすためではなく生かすため、絶望ではなく希望のため、主がエゼキエルを通して警告を与えられ、矯正をなさったのでした。 「BIBLE & LIFE(百万人の福音)」最新号の特集は「現代の偶像礼拝~あなたが神より上としているものはありませんか~」です。 よい習慣でも考えでも、「どんなものでも偶像になりうる」ということ、それは「霊的な依存症」なのだということを改めて教えられます。 毎日楽しみつつのんびり聖書を読み、書いているこのことさえ、もし義務となり律法となるならば、神様に喜ばれないものだと学びます。主を楽しみ、主をあがめ、主に頼りつつ、時には遅れつつ、聖書通読(または神様との楽しいデート)を続けたいと思います。 祈り:神様、何ものもあなたより優先することがありませんように。あなたを知ること、唯一の主であることを日々改めて確認できるように導いてください。楽しみ、待ちわびつつ、あなたのことばを読み味わえますように。アーメン

エゼキエル5

「人の子よ、あなたは鋭い剣を取れ。それを床屋のかみそりのように使って、あなたの髪とひげを剃れ。それから秤を使って量り、その毛を分けよ。」エゼキエル5:1 今度はエゼキエルは髪とひげを剃ります。 三分の一は、包囲の期間の終わるときに町の中で焼き、別の三分の一は町の周りで剣で打ち、残りの三分の一は風に散らせるというものでした。 それは、イスラエルの民の背信により、人々がこのように散らされるという実物教材でした。 頭の毛を剃ったエゼキエルの姿、なんとも気の毒に感じます。悲しみを表す姿として当時の人々の目に留まったでしょうか。彼の示した行動も目に入ったでしょうか。 「これはどういう意味ですか」と問い、人々が悔い改めていたらと思います。 今も、神様は私たちが気づくようにと、いろいろな事柄を通して語っておられます。一方で、環境を守ろうといいながら、それを上回る破壊や戦争が日々行われています。人間の愚かさと、警告を発しながら忍耐しておられる神様の前に、私たちはとりなしの祈りをささげるように召されています。 祈り:神様、あなたの義と忍耐を感謝します。私たちは罪深く愚かな性質を持っています。赦してください。無茶な開発や自己中心的な行動を悔い改め、あなたの前にへりくだることができますように。どんな時にも主の元に身を寄せることができるよう、助け導いてください。アーメン

エゼキエル4

「あなたは左脇を下にして身を横たえ、イスラエルの家の咎をその上に置け。あなたがそのように横たわっている日数だけ彼らの咎を負え。」エゼキエル4:4 エゼキエル書には、数々の実物教材やたとえが出てきます。エゼキエルの行動を通して、現状や預言が興味深い形で示されました。 4章で、エゼキエルは主のことばに従い粘土板にエルサレムを書き、鉄の板で壁を作りました。 また、イスラエル(北)王国の罪を1年=1日として390日、ユダ(南)王国は同様に40日、横向きに寝て、縄をかけられ、寝返りを打てないようにされました。。 食物や水を量り、やがて飲食物が乏しくなることを示しました。 寝返りできないまま1年以上も身を横たえるとは、預言者といえ大変なことだったでしょう!目に見えるたとえを通して、神様はその大変さと苦難を民に教えようとされたのでした。 神に用いられる人は、光栄であると同時に、さまざまな試練も通ります。昨日はKBI元学院長の高橋昭市師の葬儀でした。試練や重責の奉仕を全うし生涯を走り抜かれました。神に召され、内外の宣教の働きに携わる人たちを祈りに覚えましょう。 祈り:神様、預言者が非常な苦労をして神のことばを伝えたように、今日も労苦しながら主に仕える人たちがいます。苦しい生活でも主に従い続ける働き人、ビジネスを通じて宣教する人たち、家庭にあって無言のふるまいによってあかしをする人々を今日も励ましてください。アーメン

エゼキエル3

「さあ、捕囚になっているあなたの民のところへ行き、彼らに告げよ。彼らが聞いても、聞かなくても、『神である主はこう言われる』と彼らに言え。」エゼキエル3:11 エゼキエルは外国人に遣わされたのではなく、同胞に向けて預言を語るように遣わされました。 「あなたは、難しい外国語を話す民にではなく、イスラエルの家に遣わされるのだ。」(5節) 同じ言葉を話し、同じ文化を持つ人々に遣わされたとしても、その働きは困難でした。なぜでしょうか。それは、人々が主の言うことを聞こうとしなかったからでした。「イスラエルの全家は額が硬く、心が頑な(7節)」でした。 私たちも、親しい人、近い人へのあかしがより難しく感じられることがあります。配慮とタイミングは大切ですが、主のことばを曲げることがないように、と教えられます。そして、今の日本に限らず、偉大な預言者たちも同じ苦労をしていたことに、少しほっとし、励まされます。 祈り:神様、あなたのことば、聖書に書かれていることを、都合よくねじ曲げることがないように守ってください。主に喜ばれることとそうでないこととを見分け、聖書に従う筋の通った生き方があかしとなるよう、助けてください。アーメン