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イザヤ59

「主は人がいないのを見て、 とりなす者がいないことに啞然とされた。 それで、ご自分の御腕で救いをもたらし、 ご自分の義を支えとされた。」イザヤ59:16 59章を読むと、私たちの魂の救いと同じ構成になっています。 1~8節 神から離れている状態 9~15節 罪の告白 16~21節 主のあがない、救い主 神から離れていた私が罪を悔い改め、キリストを救い主として受け入れるなら、主が罪をゆるし永遠のいのちを与えてくださる、という経緯と共通しています。 人はいくら努力しても自分で自分を救うことはできません。それで、神ご自身が救うために来られ、義と愛を両立されたのでした。旧約聖書を読み、驚くべき福音のわざを改めて確認する恵みに感謝します。 祈り:神様、聖書はすべて、キリストを指し示すものであることに感謝します。主の素晴らしい救いの恵みにあずかったものとして、この恵みを日々感謝とともに思い起こす者、分かち合う者とならせてください。アーメン

イザヤ58

「わたしの好む断食とはこれではないか。 悪の束縛を解き、くびきの縄目をほどき、 虐げられた者たちを自由の身とし、 すべてのくびきを砕くことではないか。飢えた者にあなたのパンを分け与え、 家のない貧しい人々を家に入れ、 裸の人を見てこれに着せ、 あなたの肉親を顧みることではないか。」イザヤ58:6~7 信仰は立派そうに見せるだけでなく、心を伴って実践することが大切だと教えられます。 断食という行為はしていても、その動機を主は問われます。主を愛し、主の手足となって困っている人を助ける心を願っておられます。 イエス様は「断食していることが、人にではなく、隠れたところにおられるあなたの父に見えるためです」(マタイ6:18)と言われました。 今日も主の手足となって愛を表している人たちに、祝福がありますように。 祈り:神様、あなたの愛に感謝します。日々看病、介護、ケアを実践している___さん、__さん、___さんを、あなたがどれほど喜んでおられるでしょうか。豊かなねぎらいがありますように。私も主の愛を流す器となれますように。アーメン

イザヤ57

「いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、 その名が聖である方が、こう仰せられる。『わたしは、高く聖なる所に住み、 砕かれた人、へりくだった人とともに住む。 へりくだった人たちの霊を生かし、 砕かれた人たちの心を生かすためである。』」イザヤ57:15 愛の神様は、叱責の後に必ず慰めと希望を語ってくださいます。この章も、悔い改め、神の前にへりくだった人にはいやしと回復があることが述べられています。 生きていく上で、衣食住の必要はあります。お金の必要もあります。そのすべてが神から与えられ、神が守ってくださることを信じているでしょうか。 家庭の経済をうまく回すのも、自分の知恵では限界があります。よかれと思って計算しても、それがかえって裏目に出ることさえあります。 無駄遣いを自制し、本当に必要なものに気前よく使うためにも、神の前に心砕かれ、へりくだって神の知恵を求めましょう。 祈り:神様、この世界も世界にあるものも、すべてがあなたのものです。すべての所有者であり創造者であるあなたの前にへりくだります。今、経済的なことで悩んでいる____さんを、あなたの知恵で満たしてください。 私も、神の国を第一にすることが、すべての満たしの秘訣だということを日々経験できますように。感謝と喜びで満たされますように。アーメン

イザヤ56

「わたしの聖なる山に来させて、 わたしの祈りの家で彼らを楽しませる。 彼らの全焼のささげ物やいけにえは、 わたしの祭壇の上で受け入れられる。 なぜならわたしの家は、 あらゆる民の祈りの家と呼ばれるからだ。」イザヤ56:7 主の回復が続きます。イスラエルの民だけでなく、 「主に連なって主に仕え、主の名を愛して、そのしもべとなった異国の民(6節)」も招かれます。 「なぜならわたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれるからだ」と主が言ってくださいます。 日本人でも、高齢でも、幼くても、女性でも、貧しくても、地位や学歴がなくても、どんな立場の人でも主の祈りの家で「楽しませ」て頂けるのは、何という幸いでしょう。 祈り:神様、すべての人が救いに招かれていることに感謝します。社会的に弱い立場にある___さん、____さんの救いをお祈りします。また、____さん、_____さん、____さんが、今日も主とともに楽しめますように。アーメン

イザヤ55

「天が地よりも高いように、 わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、 わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」イザヤ55:9 良かれと思ってしたことが裏目に出たり、人から拒絶されたりすると、がっかりします。時には心が折れそうになります。 しかし、短期的な結果だけを見ていてはわからないこともあります。 神様の道は私たちの道とは異なる(8節)こと、高い(9節)ことに思いを向けるなら、一時的な落胆がかえって後に益として用いられるという希望が出てきます。 キリストの十字架も、一時的に落胆するような出来事でしたが、後に素晴らしいことだとわかりました。 先週、がっかりするようなことがありましたか?神様はその出来事を私たちの思いを越えて扱うことのできる方です。 祈り:神様、あなたの思いが私の及びもつかないほど高く、素晴らしいものであると信じます。うまくいかなかった____のことを、主が御手のうちに持ち運び、益としてください。 「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。(ローマ8:28 )」 アーメン

イザヤ54

「あなたの天幕の場所を広げ、 住まいの幕を惜しみなく張り、 綱を長くし、杭を強固にせよ。」イザヤ54:2 直接的には、荒れ果てたエルサレムが捕囚の後に再び回復することが預言されています。 現代の私たちにとっても、この章は希望を与えてくれます。 人生の様々な領域において、悲しみやトラウマをどのように乗り越えることができるかのヒントを得ることができます。 荒れ果てた町のようになっている領域が、神のあわれみと励ましによって、少しずつ、しかし確実に回復できるのだということを教えられます。 涙をふいて、イエス様に手をとって立たせて頂き、もう一度天幕をはっていきましょう。背中をまるめて小さいものを作る必要はありません。かつて失敗した領域でも、今度は天幕を「広げ」「惜しみなく」「長く」「強固に」してよいのだと、共におられる主は励ましてくださいます。 祈り:神様、私がかつて失敗してしまった人生の出来事や領域をあなたにゆだねます。回復させてくださる主のあわれみにすがります。町を建て直すように、____のこと、_____のことについて、主と共に天幕をはらせてください。自由と喜びが主のものであることに感謝します。アーメン

イザヤ53

「彼は自分のたましいの 激しい苦しみのあとを見て、満足する。 わたしの正しいしもべは、 その知識によって多くの人を義とし、 彼らの咎を負う。」イザヤ53:11 イザヤ53章はメシア預言で最も有名な章でしょう。 「彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った(4節)」 「彼は私たちの背きのために刺され...彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた(5節)」 と、キリストの十字架の救いが描かれています。 肉体的な苦しみだけでなく、11節の「たましいの激しい苦しみ」を受けてくださったことを今日は思い巡らしています。「わが神、わが神、どうしてお見捨てになったのですか」という思いは想像もつかないほどです。しかし、「その知識」すなわち神への「従順」を通して、私たちが義とされました。 「すなわち、ちょうど一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、一人の従順によって多くの人が義人とされるのです。」(ローマ5:19) 祈り:神様、キリストの十字架のあがないで、私が義とされたことを感謝します。罪の滅びから救い出してくださり、ありがとうございます。キャンプに参加した子どもたちがこの真理を心に覚え、受け取ることができますように。アーメン

イザヤ52

「良い知らせを伝える人の足は、 山々の上にあって、なんと美しいことか。 平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、 救いを告げ知らせ、 『あなたの神は王であられる』と シオンに言う人の足は。」イザヤ52:7 パウロはローマ10:15でこの節を引用しています。福音を伝えることがいかに素晴らしいことかを、そして伝える人がいなければ聞くことができないということを訴えています。 罪を犯した人間をあがなうために、キリストはしもべとなって来てくださいました。 「見よ、わたしのしもべは栄える。 彼は高められて上げられ、きわめて高くなる。多くの者があなたを見て驚き恐れたように、 その顔だちは損なわれて人のようではなく、その姿も人の子らとは違っていた。(13~14節)」 と、むち打たれ、いばらの冠をかぶされ、十字架で死んでくださいました。 もしその素晴らしさがマンネリ化していたら、何ともったいないことでしょう。 毎日、毎日、福音の恵みが新鮮なものとして実感できますように! 祈り:神様、福音のすばらしさを日々味わえますように。その感謝が毎日を生きる動機となりますように。アーメン

イザヤ51

「主に贖われた者たちは帰って来る。 彼らは喜び歌いながらシオンに入り、 その頭には、とこしえの喜びを戴く。 楽しみと喜びがついて来て、 悲しみと嘆きは逃げ去る。」イザヤ51:11 イザヤ35:10にも同じ聖句が出てきます。35章では穏やかで平和な光景が前後に出てきました。今日の51章では、壮大な主の御腕と救いが描かれています。 「目覚めよ、目覚めよ。力をまとえ、主の御腕よ(9節)」 「海の底に道を設け」た主(10節) 「天を延べ広げ、地の基を定め」た主(13節) と、すべてを治めておられる偉大なお方が私たちの主だと確認します。 この方の前には、どんな悩みも小さなことだとわかります。これ以上に頼れる、素晴らしい方は他にありません。 心が暗くなるようなニュースや、思うように進まないことがあっても、このお方に身を寄せ、抱いていただき、守りのうちに今日も一日を過ごしましょう。 祈り:神様、日々流れる暗いニュースや、大阪近辺で起こる出来事、私の周りの問題や悩みをすべて主の元におきます。必要以上に噂やメディアに惑わされることがありませんように。あなたのみことばが、すべての情報より信頼できることに感謝します。アーメン

イザヤ50

「神である主は、私に弟子の舌を与え、 疲れた者をことばで励ますことを教え、 朝ごとに私を呼び覚まし、 私の耳を呼び覚まして、 私が弟子として聞くようにされる。」イザヤ50:4 イエス様がまさにこうしたお方でした。疲れた人には「わたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と励まし、いつも父なる神の声を聞いて過ごされました。 信仰者も、同じように神様に呼ばれています。「弟子の舌」は自分の栄誉でなく主の栄光のために用い、疲れた人々に福音の慰めと希望の励ましを伝えるよう召されています。 自分の知恵では限界があります。しかし「神に聞」き聖霊の促しに従う時、上からの知恵が与えられます。今日はデイキャンプです。ただ行事を消化するのではなく、子どもたちの霊にふれる一日となりますように。 祈り:神様、私も主の「弟子」として励ましの言葉を与える者としてください。今日しか福音を聞けない子どもがいるかもしれません。あなたが与えてくださる機会を、上からの知恵で用いることができますように。「弟子」として謙遜な仕える心を与えてください。 「しかし、上からの知恵は、まず第一に清いものです。それから、平和で、優しく、協調性があり、あわれみと良い実に満ち、偏見がなく、偽善もありません。(ヤコブ3:17)」 アーメン

イザヤ49

「見よ、わたしは手のひらにあなたを刻んだ。 あなたの城壁は、いつもわたしの前にある。」イザヤ49:17 イスラエルの人たちは国を追われ、捕囚の身となり、みじめな状態になります。しかし、主なる神様ははっきりと「見よ、わたしは手のひらにあなたを刻んだ」と言われます。 手のひらにはっきり刻まれたものは、消えることがありません。同じように、神様は決してイスラエルの人々を忘れないと言ってくださったのでした。 私たちは先の見えない試練や闘病、介護、後遺症などで忍耐がいるとき、「神はどこにおられるのか」と嘆きがちです。 しかし、今日も同じように主は「あなたを手のひらに刻んだ」と、信仰者を覚えていてくださいます。主の手のひらに刻まれ、主の御手に握られているから、この地上でどんなことがあっても大丈夫です。主の手のひらから落ちることはありません。 祈り:神様、先が見えなくても、驚くようなことがあっても、いつもあなたが私を覚えていてくださり感謝します。主のご計画に従って持ち運んでください。たくさんのことでパニックにならないよう、助けてください。今______の重荷を主の元に置きます。アーメン

イザヤ48

「イスラエルの聖なる方、 あなたを贖う主はこう言われる。『わたしはあなたの神、主である。 わたしはあなたに益になることを教え、 あなたの歩むべき道にあなたを導く。』」イザヤ48:17 神様のみこころがわからないと思うときがあります。 どちらを選べばよいのか、迷う時もあります。 神様は自由意思をくださいましたから、私たちに縄をつけてひっぱることはなさいません。それでも、「あなたがわたしの命令に耳を傾けてさえいれば、あなたの平安は川のように、正義は海の波のようになったであろう(18節)」と言われます。 感情や目に見える状況は私たちの判断を鈍らせます。すべてのこと、人の命までも神の御手の中にあることを信頼することが、平安を得、主のみこころを選びとるための大切な一歩だと思います。 祈り:神様、____のことで、みこころがどこにあるのかわからず迷っています。みこころの道を教え、導いてください。みことばや祈りを通して御声に耳を傾け、平安なあなたの道を選びとることができますように。アーメン

イザヤ47

「助言する者が多すぎて、 あなたは疲れている。 さあ、天を観測する者、星を見る者、 あなたに起こることを新月ごとに知らせる者を 立たせて、あなたを救わせてみよ。」イザヤ47:13 バビロンへのさばきが述べられています。 「助言する者が多すぎて」というのは、呪術や占星術、偶像崇拝からの知識などでいっぱいだが、真実からは遠く離れていることを指します。 多くの日本人の姿も同じようです。新年には神社、葬式や法事は寺、神事の各種祭りが何の疑問もなく行われること。「毎年やっているから」と正当化されがちですが、心の底には「たたりが怖いから」という思いや、伝統という名目そのものが偶像となっている場合もあるようです。 バビロンのようにならないよう、ますます身近な方や地域の救いを覚えて祈りましょう。 祈り: 神様、日本人をあわれんでください。純朴な人たちが、いろんなものに縛られています。大切な救いが見えなくなることがありませんように。地域の人たち、近所の人たちの心ににふれてください。日本人の霊の目が開かれますように。私たちに、自然な形であかしする機会を与えてください。アーメン

イザヤ46

「あなたがたが年をとっても、 わたしは同じようにする。 あなたがたが白髪になっても、 わたしは背負う。 わたしはそうしてきたのだ。わたしは運ぶ。 背負って救い出す。」イザヤ46:4 教会の高齢の方々のお顔を思い浮かべながら読みました。敬老礼拝でもよく取り上げられる箇所です。 愛する兄姉が、幼子のような純粋さと謙遜さで主を愛する姿は、教会にとって大きな祝福だなあと励まされます。 若くても年を重ねても、同じように主を愛する私たちでありたいです。 主ご自身は、はっきりと「あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする」と約束される方です。当時のイスラエルの人々に、そして今の私たちにも。 主が私たちを背負ってくださり、木陰のように私たちを御手でおおってくださる恵みを思いつつ、暑い一日でも涼やかに過ごせますように! 祈り:神様、あなたの守りと導きは、焼けつく地での木陰とそよ風のようです。今日も主の道を一歩一歩歩むことができますように。___さん、____さんの体調を守り、新しい力を与え、信仰を励ましてください。アーメン

イザヤ45

「地の果てのすべての者よ。 わたしを仰ぎ見て救われよ。 わたしが神だ。ほかにはいない。」イザヤ45:22 「わたしが主だ」「わたしのほかに神はいない」という宣言がこの章を通して繰り返し、力強く語られます(3、5、6、7、8、18、19、21、22節)。 「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ」という主の招きは、イスラエルだけでなくすべての人に開かれています。私たちの住む日本も、聖書の書かれたイスラエルから見れば「地の果て」です。当時まだ人々に知られていなかったであろう極東の国々にまでも神の救いの招きは及び、私たちが受けとることができました。 異教徒のペルシア王キュロスでさえも、主はご自身の計画のために用いることができます。神様にとって不可能はありません。 今日も生きておられる主は、絶対に救われないだろうと思うような人の心にも働いてくださいます。私たちが勝手にあきらめることのないように、主の助けを祈りましょう。 祈り:神様、あなたの救いの招きはすべての人に開かれています。「あの人は救われるはずがない」と思い込む不信仰をゆるしてください。キリストの十字架は、まだ信仰を持っていない____さん、____さんのためでもあります。謙遜に、希望をもって祈り続けられるよう、私自身の信仰を助けてください。アーメン