マタイ3

 マタイ3、創世記13〜15

マタイ3:9  あなたがたは、『われわれの父はアブラハムだ』と心の中で思ってはいけません。言っておきますが、神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子らを起こすことができるのです。


イエス様の道備えをするために来たバプテスマのヨハネは、悔い改めのバプテスマを授けていた。

ところが、そこにやってきたパリサイ人やサドカイ人は悔い改める気持ちよりは、アブラハムの子孫であること、選民思想・特権階級の者としての思いしかなかったので、ヨハネはこう言って叱責したのであった。


創世記15:6では、アブラハムが主を信じたゆえに、主が彼を義と認められたことが書かれている。すなわち、心の中がどうであるかが主の一番の関心ごとである。血筋ではない。

イエスの十字架を信じた私たちは、義とされた。もちろん、その救いが行いの有無で取り去られることはない。

もっとも、日々の信仰生活で立派そうに見せながら心の中で怒りや妬みがあるならば、それは主を悲しませることである。

御霊に導かれて歩むこと、アブラハムがロトのために欲張らずかえって助け続けたことにならいたい(参照 創世記13章でロトに先に土地を選ばせた、14章でロト救出のために戦った)。

一時は損をしたように見えても、神は覚えておられ、先に勝る祝福を与えてくださる。

今日、譲るべきところはどこか。他者を祝福するためにどんな一歩を歩み出せるだろうか。