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エペソ4

エペソ4、詩篇132−134 「怒っても、罪を犯してはなりません。憤ったままで日が暮れるようであってはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい。」エペソ4:26−27 私は非常に怒りっぽい性質を持っている。不安やストレスが、不安として感じられるよりも怒りとして認知されてしまう。怒りの背後に、自分自身の弱い部分やどうしようもない部分が出ている。 それゆえ、怒っているときは理性よりもほとんど感情でパニックになっている。言葉のコントロールや知性の判断がうまくできずにロックされているのである。 しかし、それは悪魔の格好の働き場所になる。言葉で周囲を不快にさせたり傷つけたり、自分自身もそれを聞くことでさらに不安になったり、まさに悪魔に機会を与えてしまいかねない。 「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません」とあるように、言葉数を少なく、少なくするように(特に家族の間で)試みたい。祈りながら、聖霊様の助けと働きにより、進んでいこう。

エペソ3

エペソ3、詩篇129~131 「ですから、私があなたがたのために苦難にあっていることで、落胆することのないようお願いします。私が受けている苦難は、あなたがたの栄光なのです。」エペソ3:13 パウロのエペソ教会への宣教は易しいものではなかった。苦難や困難が(いつものように)あった。さらに、教会が生まれても、その牧会に際しては様々なチャレンジがあった。しかし、パウロは落胆することのないようにと言っている。 私たちがキリストのために苦難に遭うとき、同じように言えるだろうか。 実際、世界の迫害下にある兄弟姉妹たちは、先進国の傲慢や貧富の差の歪みにより、非常な貧困や政治の不安定の下に置かれている。いわば私たちの代わりに苦難を通っている面も多々ある。心が痛み祈らされるが、同時に彼らは私たちが落胆することを望まないだろう。かえって、キリストは私たちの命をかけて信じるに値する方であることを私たちが確認し、彼らの姿勢を見て励まされ、強められてほしいと思っているのではなかろうか。 現代でも、名もなくパウロのような信仰を持つ人々が数多くいることに気づき、絶えず覚えて祈りたい。神の超自然的な働きがその地方にあるように。そして、流された血、犠牲に主が報いて答えて理解し難いほどの栄光としてくださるように。

詩篇105

詩篇103~105、詩篇126~128 「主とその御力を尋ね求めよ。  絶えず御顔を慕い求めよ。」詩篇105:4 神様をほめたたえることは、礼拝や順調な状況の時には覚えていられる。 一方、逆境にあるときには神様がすばらしいとわかっていても賛美できないし、模範的な言葉を出すことも難しい。 それでも、詩人は主を尋ね求めよ、と言う。まずは神の御顔を求めること、すなわち神の方を向くことができるようにという。 未来を憂えるよりも、これまでの歩みを振り返ることをすすめている。アブラハムに始まり、イサク、ヨセフ、モーセと民族の歩みから、主がどれほど真実な方であり続けるかを列挙している。 私たちの歩みも、神の歴史と神の真実さの中に、あわれみの積み重ねで守られている。うつの時にも、病気の時にも、すべてがうまくいかないように思える時にも、神様は私たちの行動よりも私たちと顔と顔を合わせたいと願ってくださる。 なにもできなくても、うずくまっていても、目を神の方に向けること、そこから神のわざを、神の力を思い起こす気づきをいただくのである。

詩篇103

詩篇103-105、詩篇123-125 「天が地上はるかに高いように   御恵みは 主を恐れる者の上に大きい。  東が西から遠く離れているように  主は 私たちの背きの罪を私たちから遠く離される。」詩篇103:11-12 「わがたましいよ 主をほめたたえよ。主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな」(2節)が有名だが、主はどのような目で私たちを見てくださっているのかが、11~12節を読むとよくわかる。 天の父なる神は、私たちの視点よりもっと高いところにおられる。そして、その恵みも私たちの予想をはるかに越えて高いところから、思いもよらない注がれ方をしている。逆境の時にも、恵みが取り去られたように思えても、はるか天のかなたからそれは確実に注がれている。 そして、罪の意識や悔恨にさいなまれていたとしても、私たちの罪は東と西が正反対にあるがごとく、主が私たちから隔て分かたってくださった。私たちは、自分の罪がまだすぐそばにあるようにこだわっているが、神の目には私たちはそこからすでに抱き抱えられている。最近、情勢の緊迫するアフガニスタンから多くの人々の脱出作戦が行われている。命の危険にさらされ、脱出が必要な人々が安全に出国できるようにと祈らされている。もちろん、作戦を遂行する人たちの守りも願ってやまないが、爆発で命を落とした米軍の兵士もいると聞き、心が痛む。 霊的には、神は私たちが混沌とした情勢から脱出してほしいと、救出作戦をたててくださった。イエス・キリストがその作戦の仲介となられた。他に適任者はいなかった。そして、キリストは救出作戦のためにご自身のいのちを捨ててくださった。 イエス・キリストこそが救出者だと信じる者は、霊的な死の運命から救出される。神の脱出作戦が完了した者は、霊的いのちが保証されている。時々混沌の中での体験がフラッシュバックすることがあるが、事実は今現在安全なところ、保証されているところにいるのである。そして約束されているのは永遠のいのちである。 地上のニュースに心騒がせるのと同様、神の定められた霊的な脱出作戦の完璧さと脱出の事実をもっと喜んで受け取ろう。

エペソ2

エペソ2、詩篇120−122 「実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。」エペソ2:10 神の作品というには、自分自身はあまりにもみすぼらしく、不完全である。救われたというのに、主に仕えているというのに、欠点だらけで自分自身の心や口さえ制御できない者である。 しかし、神はあわれみ深く、良い行いさえも備えてくださっているというのである。私たち自身にはできなくても、すでに用意されているものを選びとることである。 健康の弱さを感じる昨今、ストレスチェックテストではストレスが高いという結果が出る。しかし、主が今日何を望んでおられるかを選びとること、ひとつひとつの突発的なことに自分の心が反応せず、心は背後に、聖霊が全面に出て反応してくださることを願う。

エペソ1

エペソ1、詩篇119:89~176 「この恵みを、神はあらゆる知恵と思慮をもって私たちの上に溢れされ、みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。」エペソ1:8−9 救いは恵み、神の御思いは恵み、神のご計画は恵み、恵みがこの世界に注がれているということが、この章前半のテーマとなっている。 恵みを注がれた私たちには望みがある。神の恵みを受け継いだものとして、その望みを抱いていつも生活することができたら、どんなにか幸いだろうか。 地上では疫病、戦い、災害など暗いニュースが絶えない。そのニュースをインターネットやテレビでチェックする時間は、I日どのくらいだろうか(自戒を込めて)。その時間以上に、天的な、素晴らしい恵みのニュースに触れようとしているだろうか。 みことばを日々口ずさむとは、天的な価値観に浸るように生活スタイルを整えることである。ニュースをチェックしたくなったら、そのかわりに聖書の通読プランを試したり、信仰書を読んだりしていきたい。否定的な情報に心囚われるより、それを祈りに代えよう。神の恵みに浸って今日も生きていきたい。

ガラテヤ6

ガラテヤ6、詩篇119:1~88 「失望せずに善を行いましょう。あきらめずに続ければ、時が来て刈り取ることになります。」ガラテヤ6:9 互いの重荷を負い合いなさい(2節)、すべての良いものを分かち合うこと(6節)など、パウロが勧めていることがある。 人間関係を見直してみると、様々な発見がある。自分にとって本当に大切な家族を大切にしているか。また、他者がわかってくれると思って依存しすぎていないだろうか。 私自身の人間関係のスタイルは、表面的なつきあいよりも少数で深くかかわることを好む傾向にあると思う。よい面もあるのだが、自分はわかってもらっているはずという期待や依存あるいは共依存が生じる可能性がある。 しかし、私が手放しですべての本音を話せるのは神様ご自身だけであるということを確認すべきだ。 時にその事実は、人間同士では100パーセントの理解者がいないことの確認と失望とにつながりかねない。では、なるべく関わりを控えたほうがよいのか。 いや、そうではない。聖書は善を行うことを「失望せずに」励み続けるようにと語ってくれる。あきらめないことである。時が来て、刈り取る恵みにあずかることがある。それはもしかすると、他の人がまいた種の刈り取りかもしれないし、私たちの種蒔きを他の人が刈り取ることかもしれない。いずれであっても、聖書はあまり意に介していないようである。重要なのは、誰がまいたか、刈り取ったかではなくて、蒔かれた種が刈り取りの時を迎えるのだというメッセージである。

ガラテヤ5

ガラテヤ5、詩篇116−118 「兄弟たち。あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕え合いなさい。」ガラテヤ5:13 私たちが救われたのは、愛をもって仕え合うためであると述べられている。しかし、肉の性質ではそねみや妬み、憤りなどでそれが妨げられる。 私たちの仕える動機は愛でなければならない。しかも、自分の力や性質によりたのむ愛ではなく、御霊による愛である。キリストの霊である御霊がともにいてくださるからこそ、私たちは自分では身につけ得ない愛や御霊の性質にあずかることができるのである。 自分自身を見るとがっかりする。しかし、いつも御霊から目を離さないようにすること、そしてその恵みに浸り受けとることが、日々の原動力となっていたい。

ガラテヤ4

ガラテヤ4、詩篇113-115 「ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神による相続人です。」ガラテヤ4:9 神が私たちを罪と律法の下にある奴隷の状態から解放してくださった。それだけではなく、神の子どもとして相続人にまでしてくださった。特別な身分、特別な待遇を受けることができる者に変えてくださった。 だから、信じる者はリラックスすることができる。あれをしなければ、これをしなければと焦らなくても、相続人としての身分が剥奪されることはない。私たちがするのはただ、この恵みをくださった神への感謝、そして、神の愛に応えたいという自発的な思いからである。 この恵みにいつも帰ろう。そして、神の愛に応えるために、私たちは今日も一日生きていく。肩の力を抜いて、しかし正しい方向を目指して、主を見上げていく。

詩篇102

詩篇100-102、詩篇110-112 「苦しむ者の祈り。彼が気落ちして、自分の嘆きを主の前に注ぎ出したときのもの。  主よ 私の祈りを聞いてください。  私の叫びが あなたに届きますように。」詩篇102:表題、1節 詩人がどれだけ気落ちしていたかは4節の「私の心は青菜のように打たれてしおれ パンを食べることさえ忘れました」という表現からよくわかる。抑うつ状態にある時には、自分の気力や意欲もなく、希望がもてないような心境になる。 それでも、詩人は主に祈ることをした。ありのままを主に申し上げ、自分の弱さも神への嘆きもすべて祈りにした。 祈る時に、不思議に混乱していた心が落ち着くことがある。一人で祈るだけでなく、何人かで祈っていると顕著である。 それは、自分で問題が整理できるというだけでなく、祈りの大切な側面、神から平安をいただくという側面である。 最後には、神の永遠の恵みと信じる者の希望まで述べられている。 「しかし あなたは変わることがなく  あなたの年は尽きることがありません。  あなたのしもべたちの子らは 住まいを定め  彼らの裔は 御前に堅く立てられます」(27―28節) 祈りの力、祈りの恵みと祝福である。

詩篇101

詩篇100-102、詩篇107-109 「朝ごとに 私は国の中の悪しき者を  ことごとく滅ぼし  主の都から 不法を行う者を  ことごとく断ち切ります。」詩篇101:8 王として国を治めたダビデの詩篇である。 当時は朝に王が裁判や判断をするならわしだったようである。朝は頭がすっきりしていて気温も快く、決断や判断をするのにふさわしかった(スタディーバイブルによる)。 もちろん、裁判は一度きりの仕事ではない。朝がくると、持ち上がった問題がまたあって、新たな判断が迫られる。忍耐のいる仕事だった。 ダビデはそれでも、「主の都から不法を行う者をことごとく」断ち切る、すなわち追い出すと決意している。 ダビデ王にとっては神がゆだねられた実際の都だが、私たちにとっても心を治めることは重要である。なぜなら、私たちのうちに聖霊が住まわれるからである。朝ごとに、自分の心の中に悪いもの、苦い思いが巣くっていないか点検する必要がある。それをことごとく、徹底的に主に明け渡し、除いていただくことが日々の祈りである。王でなくても、自分の心を治めることは主から預かった仕事である。 悪を除き、みこころの判断と選択をしていくための訓練を、日々受け取っていこう。

ガラテヤ3

ガラテヤ3、詩篇105~107 「キリストにつくバプテスマを受けたあなたがたはみな、キリストを着たのです。ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男と女もありません。あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つだからです。」ガラテヤ3:28 キリストを着た者は、その国籍、立場や身分、性別に関係なく、同じ神の子、公同の教会のメンバーとされる。キリスト・イエスにあって一つであり、平等である。 プライドのある人や権力者にとっては不都合なことである。クリスチャンが迫害され、為政者がキリスト教を握りつぶそうとしたのは、平等思想ゆえとも言われる。 しかし、神に比べたらどんな権力や地位もとるに足りない。 牧師や宣教師も、もちろん神の前では小さな存在にすぎない。 その中でキリストにあって仕える者、建て上げる働きにある者とされるのである。 建て上げる働きは、他の人のプライドに耐え、誤解を解き、神に目を向けるようにしていくのである。その労苦に召されたことのゆえに、周囲が敬意を払い、働き人はますます謙遜に仕えていくのである。

ガラテヤ2

ガラテヤ2、詩篇103~104 「しかし、人は律法を行うことによってではなく、ただイエス・キリストを信じることによって義と認められると氏って、私たちもキリスト・イエスを信じました。律法を行うことによってではなく、キリストを信じることによって義と認められるためです。というのは、肉なる者はだれも、律法を行うことによっては義と認められないからです。」ガラテヤ2:16 パウロは救われてから 14年もの間、アラビアの砂漠で過ごしたり、ダマスコを中心に福音を宣べ伝えたりして、いわば目立たない生活を送っていた。その下積みの年月があって神にさらに用いられるようになる。いずれの場所でも、信仰生活では走り続け、神の栄冠を目指して一心に励み続けたパウロだった。 そんなパウロがガラテヤの人々に言いたかったのは、割礼ではなく恵みで救われるということだった。パウロ自身も恵みで救われた。 私たちの回心の方法や環境は問題ではない。ある人は劇的に、ある人は平凡な日常の中での気づきがあって救われた。その恵みのありがたさ、大きさをわかればわかるほど、神の愛に答えたくなる。 今も世界各地で、信仰ゆえに迫害を受けている人々がいる。この恵みとひきかえなら命も惜しくない、キリストを裏切ることはできないという信仰にたっている。 彼ら、彼女らは、まさにパウロと同じく信仰の勇者である。世界情勢が揺れ動くなか、今日も命がけで過ごす彼らを特に祈りに覚える。

ガラテヤ1

ガラテヤ1、詩篇100-102 「今、私は人々に取り入ろうとしているのでしょうか。神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、人々を喜ばせようと努めているのでしょうか。もし今なお人々を喜ばせようとしているのなら、私はキリストのしもべではありません。」ガラテヤ1: 10 パウロは救われたときにすぐに使徒のところに以降ともせず、神との関係に生きるようになった。パリサイ派の人々からは裏切り者といのちをねらわれ、自分自身もすべての後ろ楯を失い、それでも本当に価値のある福音に生きることを確信した。 アラビアの砂漠での年月を通し、その後も知られることなく歩み、主ご自身がパウロに語ってくださったことと救いの確信とを持ち続けた。 パウロの態度は一貫して、人の顔色ではなく神の御顔を見上げていた。 それゆえ、人の評価ではゆるがないこと、神の評価であることを求めていた。 異端児かもしれない。しかし、神がお立てになったものは実現する、そのことをパウロは今日も全身で教えてくれる。 私たちは自分の立場が弱く力がないと思う。しかし、主がよしと言われればその確信に立つ勇気と信頼を持とう。人の顔色ではなく、神の思いをうかがい、その召しを感謝して受け取ろう。

詩篇100

詩篇100、詩篇97ー99 「知れ。主こそ神。  主が 私たちを造られた。  私たちは主のもの 主の民 その牧場の羊。」詩篇100: 3 自分のアイデンティティについて考えることが多かった。とくに牧師夫人というユニークな立場で仕えていた時には、自分自身の召しと違うような、それでも教会に住んで教会の雑務をし、さらに同じ牧師夫人でも立ち位置が様々で、とても悩んでいた。 しかしある時、「主がそれをよしとされた」ということを教えられ、自分に何度も言うようにした。牧師夫人という召しも主から来ていること、主が期待してそれをゆだねられたことを覚えた。今牧師の立場で牧会をしているが、自分の足りなさ、人格的な弱さを覚える時、やはり同じことを確認する。 「私たちは主のもの」「主の民」「主の牧場の羊」である。羊は広い牧場の中で安心して過ごせる。私たちも、主の采配とゆるしの中で今日も生き、動き、話し、仕え、進んでいくのである。