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ローマ12

ローマ12、ヨブ17−19 「ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。」ローマ12:1 「神のあわれみによって」は、パウロが進めることについてとも取れるが、「神のあわれみによって.…献げなさい」とも訳せる(NIV)。いずれにしても、私たちが主のみこころを行っていくためには、神のあわれみによってさせていただくのであるということがわかる。 自分で何か良いことをしたと思っても、そこに神の助けとあわれみがなかったら、する能力もタイミングも備わってはいなかっただろう。 神がさせてくださるからこそ、私たちの働きは実りのあるもの、神のご計画を実現するものとなる。そして、そこに深い喜びがある。 人は自己実現をしたいし、自分が評価され、中心になりたいという肉の欲求がある。しかし、神の被造物としての立場を思い起こすとき、地上ですることが神の計画にかなっていることこそ、造られた目的に沿った自己実現のあり方だと言える。 今日は何をして生きていくことを主は求めておられるか。 ヤコブ5:15 「あなたがたはむしろ、『主のみこころであれば、私たちは生きて、このこと、あるいは、あのことをしよう』というべきです。」

ローマ11

ローマ11、ヨブ14−16 「神の賜物と召命は、取り消されることがないからです。」ローマ11:29 元々は、イスラエル人が神の選びの民だということが変わらない、という文脈である。どんなに反逆しても、神様はイスラエルを見捨てず、また召しを変えられなかった。 同じように、私たちの側で神様の召しと導きが本当だろうかと落胆するようなことがあっても、神様はご自身のご計画に沿って私たちを召してくださる。その方法は、私たちが思いもよらない過程を通るかもしれないし、私たちにとっては試練や苦労に思えるかもしれない。だがそれは、神様の大きな計画の中では必要な過程である。何よりも私たちをきよめ造り替え、主に従うことのできる整えられ得た器にするために、訓練をしてくださるのである。訓練がなければ倒れてしまうし、神の目に叶った働きはできない。 まず王の王である主に目を向け、主の指令と主の思いを知ろうとする忠実なしもべとなる歩みを受け取ろう。そして、日々の雑用の中にも主の大きな愛と恵みがあることを確認しよう。

ローマ10

ローマ10、ヨブ11−13 「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。」ローマ10:9 同じ主を信じる人が世界にいるとは、なんと素晴らしいことか。そして、同じ主を、さまざまな言語でたたえ礼拝することができるとは、なんと素晴らしいことか。さまざまな言語でイエスを主と告白できるとは、なんと素晴らしいことか。 口で告白し、心で信じるなら救われる、と約束されているとは、なんとシンプルでかつ力強いことか。 そして、信じる者の中に住まれる聖霊様はお一人である。それゆえ、同じ聖霊が住む信仰者同士は、たとえ言語や肌の色が違っても、霊の目で見ると兄弟姉妹だということがわかる。 聖書所持が自由にできないある国に、聖書を届けたことがある。誰に渡せば良いのか顔も名前も知らなかったが、その人が待ち合わせ場所に来たときはっきりと分かった。聖霊の輝きがその顔にあり、危険と隣り合わせ、命懸けであっても主を愛している柔和さと平安があった。私たちはそのように聖霊の臨在を自らの目印としているだろうか。 を

詩篇78

詩篇76−78、ヨブ8−10 「それを私たちは 息子たちに隠さず  後の時代に語り告げよう。  主の誉れを  主が行われた 力ある奇しいみわざを。」詩篇78:4 次世代(the next generation)への信仰継承は、大切なテーマである。もし自分の世代が堅く信仰を持っていたとしても、続く世代がそこから離れてしまったらどれだけ辛いことだろうか。 イスラエルの歴史でも、ヨシュアの後の世代が主を忘れて勝手なことをしていた。士師たちが立てられたが、彼らがいなくなるとまた好き勝手なことをした。不信仰ゆえ、ダビデ、ソロモンの後王国が分裂し、やがて捕囚にあって滅びていった。 イスラエルだけではない。私たち自身の家族も、教会も、次の世代へ信仰のバトンを渡すということがどれほど重要か。それが、すぐそこにある未来の生き方を決定する。自分の子に幸せになってほしいと思うなら、家庭の、教会の、信仰継承について真剣に考え、何より祈りに覚える迫りを感じるのである。

詩篇77

詩篇76−78、ヨブ5−7 「私は あなたのなさったすべてのことを思い巡らし  あなたのみわざを 静かに考えます。」詩篇77:12 神の前に静まることなしに、みこころを正しく知ることはできないし、神の私の人生へのご計画と使命を受け取ることはできない。 静まりの恵み、静まりの大切さを知りながら、ついつい他のことに忙しく死がちな私たちである。 一人暮らしでいくら時間があっても、テレビやスマホ、電話などで時間を消費しているという人もいる。 一方で、一人静まり、主から与えて頂いた事柄があれば、それを親しい人に分かち合い、祈ってもらうことも不可欠である。自分の思い違いや独りよがりでないよう、吟味と知恵をもらえることもある。 バランスを取る人生を歩んでいきたい。

ローマ9

ローマ9、ヨブ3−4 「なぜでしょうか。信仰によってではなく、行いによるかのように追い求めたからです。彼らは、つまずきの石につまずいたのです。」ローマ9:32 私たちは努力が報われた時には喜ぶし、報われなかった時にはがっかりする。努力そのものは悪いことではないし、私たちを目標に向かわせ前向きにさせるものである。 しかし、努力だけでは得られないものがあることも事実である。生まれつきの障がいがある人に、その障がいを乗り越えようと励ましても難しいし、赤ちゃんに数学の難問を解けというのも酷だろう。 人の救い、永遠のいのちは、人間の努力や行いでは不可能なものだというのもそれと似ている。得るには信じること、神への信仰である。救いのための行いの努力をしてきた当時のユダヤ人ほど、転換するのは難しかった。そして、現代でも、人生について悩み考え、リスク回避のために労苦してきた人の中には、あっさりと救われることにかえって違和感を感じるのかもしれない。しかし、自分の限界を知ったときには、他に道がないことも知るのである。

ローマ8

ローマ8、ヨブ1~2 「こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」ローマ8:1 これほど繰り返し、キリストを信じる者の罪が赦されたと神様が約束しておられるとは!聖書の神は気前の良い神様であることがわかる。ご自身から人間に近づき、救いの方法をご自身の愛と犠牲で開いてくださった。 その愛と恵みがあまりにも大き過ぎでピンと来ないように思う。例えば、お金でも小銭を負けてもらったらすぐにありがたがるが、大きな額を受け取っても最初はよくわからないのではなかろうか。同じように、私たちの感覚を超えて神様がしてくださったことを全て理解するのは、莫大すぎて不可能である。 しかし、恵みはあふれている。たとえ、実感できなくても、事実として。

ローマ7

ローマ7、エステル9−10 「私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいますが、私のからだには異なる律法があって、それが私の心の律法に対して戦いを挑み、私を、からだにある罪の律法のうちにとりこにしていることが分かるのです。」ローマ7:22~23 学生の頃、規則で「~してはいけない」と言われると、かえってそのことを意識してしまい、反発したり少し破りたくなってしまったりした。反抗期といえばそれまでだが、人間の生まれながらの性質でもあろう。パウロはこの章で、律法は罪を犯したい思いへと導くものだと述べている。そして、神に救われている者も、善を行いたいと願いながらも悪の性質が存在しているという原理があると述べている。 本当にみじめな人間の性質であるが、すでにキリストが救ってくださったこと、そして霊的には神の律法に仕える者とされていることを日々確認するのである。自分の努力では脱出できないなわめを、主がここまで来て助け出してくださった。その十字架の素晴らしさと愛とに、今日も思いを馳せひれ伏すのみである。

ローマ6

ローマ6、エステル6−8 「なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。」ローマ6:10 アフリカへ宣教旅行する前に、黄熱病のワクチンを打った。当時はイエローカード(接種証明書)の期限が10年だったので、10年を過ぎた頃に処分してしまった。ところが、その後にワクチンの効力がおそらく一生続くということがわかり、期限が廃止された。イエローカードを持っていなくても、一度打てば私の体にはワクチンの効力が続いているという事実があるのだ。 キリストが一度十字架で死んでくださったことで、私たちの一切の罪を精算することができた。だから、一度救われた者は何度も罪の裁きの中に戻されることはない。一度救いの決心と告白をした人は、天国行きの切符を手にしたのであり、それが取り消されることはない。 しかし、時にはその確信が揺らいでしまう。ある人は長年教会から離れてしまい、こんな自分は救われているだろうかと疑うようになった。また別の人は、一生懸命奉仕をしなければと心配になる。逆に、救われているから何をしても良いのだ、どんなにいい加減でも許されるのだ、と奔放な生活に戻ってしまう人もいる。 キリストの十字架のパワーと犠牲の大きさを理解するなら、そうした両極端から守られる。もっとリラックスして、もっと安心して、そしてもっと情熱的に、イエス様を愛する者とされる。

ローマ5

ローマ5、エステル3−5 「  敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させていただいたのなら、和解させていただいた私たちが、御子のいのちによって救われるのは、なおいっそう確かなことです。 」ローマ5:10 日本の民事裁判では和解の割合が高いと聞いたことがある(近年は約3分の1)。しかし、それ以上に裁判になる前に話し合って和解するケースもあると思われる。これまで対立していた相手方と、ともかくなんらかの合意に達することができたというのは、支払いや償いの必要があったとしてもストレスからの大きな解放である。 キリストは、なんの支払いも受けず、ただただ一方的に罪の代価を支払ってくださった。十字架の死によって私たちが神と和解できるように仲介してくださった。そして、復活によってキリストとともに生きるようにさせてくださった。 「どうしてそんなうまい話があろうか」と思うような、信じられないみわざ、それが神の愛の大きさであり、人の常識外の計画とスケールである表れだと言える。理性の限界があり、私たちには十分理解することができないかもしれない。しかし、理解されなくても注ぎ続けてくださる神の愛に心から感謝を表したい。神の救いを知れば知るほど、キリストから離れて生きることなど不可能に思えてくる。

詩篇75

詩篇73−75、エステル1−2 「高く上げることは 東からでもなく  西からでもなく 荒野からでもない。  まことに 神こそさばき主。   ある者を低くし ある者を高く上げられる。」  詩篇75:6〜7 神が私たちの全てをご存知で報いる方である。 だれも地上にいる者は、私たちを正当に、また完全に評価することはできない。ということは、私たちが気にするのは神がどう見られるか、神がどう思われるか、なのである。 私自身は、目立たず下積みに思える生活を長年送ってきたと感じている。しかし、それは人の価値観で下積みと思っているわけで、神からは何かの下に隠れているわけではなかった。 たとえ雑用ばかりに見えても、神がその全てを知りご覧になっている。神がよしと言われたらそれで良しだということを、これまでも、そしてこれからも、自分に語り仕えていきたいと思っている。

詩篇73

詩篇73−75、ネヘミヤ12−13 「あなたのほかに   天では 私にだれがいるでしょう。  地では 私はだれをも望みません。  この身も心も尽き果てるでしょう。  しかし 神は私の心の岩  とこしえに 私が受ける割り当ての地。」詩篇73:25−26 アサフの賛歌となっているので、彼(アサフ)は神殿に仕えるレビ人だった。約束の地で、レビ族には他の部族のような割り当て地がなかった。代わりに、主ご自身が彼らの割り当て地だと約束された(民18章、申10・18章)。 しかしレビ人に限らず、主を信じるどの人にとっても神は岩であり割り当ての地すなわち私自身の居場所であるお方である。 人間はなんと弱くはかない存在だろうかと愕然とすることがある。ほんの少しのきっかけで罪を犯してしまうし、事件に巻き込まれてしまうこともある。元政府の高官であっても、実刑判決を受ければ服役する(もちろん、その渦中でも救いはある)。 そうした状況であっても、すなわち私の身も心も尽き果ててさえ、主は私の居場所であり、私が帰るべきところであられる。

ローマ4

ローマ4、ネヘミヤ10−11 「主イエスは、私たちの背きの罪のゆえに死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられました。」ローマ4:25 アブラハムが義と認められたのは信仰によってであり、律法や行いによってではなかった。 それは、私たちも主イエスを死者からよみがえらされた方を信じる私たちも、義と認められるためである(24節)。 簡単なようでいて、この信仰の橋を渡ることが意外と難しい人が多い。キリストのことばや人格が素晴らしいと分かっていても、その方が自分とどういう関わりがあるのか、個人的な関係があることにピンと来ないようである。 「あしながおじさん」という小説がある。誰なのかわからないが、ある資産家が、定期的に手紙を書くことを条件に主人公の奨学金を援助するという筋書きである。最後にその資産家が思いがけない身近な人であることがわかる。 キリストは、同じように私たちがこの方が誰かわからないうちから恵みをくださっている。しかし、それがどなたから来るのかわかった時に、感動と喜びと疑問が解けた深い平安がやってくるのである。そして、キリストの十字架と復活を信じることこそが、私たちを神の前で義と認められる唯一の条件である。

ローマ3

ローマ3、ネヘミヤ7−9 「すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、値なしに義と認められるからです。」ローマ3:23−24 前の22節には「すなわち、イエス・キリストを信じることによって、信じるすべての人に与えられる神の義です。そこに差別はありません」とある。すべての人が罪人でそのままでは救いがないこと、しかしすべての人が平等にキリストの救いに招かれていることがわかる。 比較して、どちらかが良く、どちらかが悪いとしたくなるのが人間の習性である。しかし、神にはえこひいきがない。神に近づき、イエス・キリストを信じる者には誰にでも救いと希望が約束されている。どれだけこのことが素晴らしいか、一生かかってもその何分の一かしか理解できないほどだと思う。救われた状態に安住しているが、そこにはキリストの血が捧げられたことを思い、人間にはなしないことをご自身の知恵で成し遂げてくださった神の愛の大きさを 垣間見る(全部は理解できないが)のである。

ローマ2

ローマ2、ネヘミヤ4−6 「かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による心の割礼こそ割礼だからです。その人への称賛は人からではなく、神から来ます。」ローマ2:29 パウロはローマ人への手紙を、訪問前に正しい教えを伝えようとして書いた。ローマの栄華、首都に住んでいるユダヤ人としての誇りに対して、パウロは心の中の思いが大切だと教えた。 心がキリストの愛と福音によって一新されているかどうかが、身体的な割礼よりも大切である。そして心の一心は聖霊によってもたらされる。人の評価や賛辞ではなく、神からどう評価されるかが大切である。 これは今日の私たちにも当てはまる。外見や言葉が立派で信仰深そうでも、その人の深いところが何を考え、何を大切にしているか、神はご存知である。そして価値観は知らず知らずにその人の人格にも反映するので、実は周りの人も気づいていることが多い。 神の称賛を求めるか、人からの称賛を気にするかもその人の霊性と人生の目的を明らかにする。言い換えれば、この地上のものに目を止めるか、天的なものに目を止めるかの違いである。