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詩篇91

詩篇91−93、詩篇54−56 「いと高き方の隠れ場に住む者  その人は 全能者の陰に宿る。  私は主に申し上げよう。  『私の避け所 私の砦   私が信頼する私の神』と。」詩篇91:1−2 子どもの頃、秘密基地を作るのが好きだった。草むらでも作ったが、家の中で段ボールを使って自分だけの居場所を作るのはワクワクした。段ボールの中にいると、自分が包まれているように落ち着いた。 私たちは本能的に安心できる場所、身を任せることのできる場所を探しているま。それは肉体的に必要というよりは、精神的、霊的に安らぐからである。 それは、神様が私たちをそのように作られたからだーー真の隠れ場である、神様のもとにいくように。そこで永遠の平安と完全な安全を得るために。 神のもとに行き、ざわざわする生活、目に入る情報を横に置いて、安らぎ寄りかかり平安を得よう。

Ⅱコリント3

Ⅱコリント3、詩篇51−53 「何かを、自分が成したことだと考える資格は、私たち自身にはありません。私たちの資格は神から与えられるものです。」Ⅱコリント3:5 教会の働き、様々なミニストリー、調教派の奉仕など、関わるものは人それぞれである。しかし、主の御心にかなった働きであれば種類は関係ない。そして、主が導かれて続いていく働きに共通するのは、バトンを渡していくことである。 段々と長期的な引き継ぎのプランを祈り求める年代になってきた。バトンを渡すというのは、自分自身が中心的な存在でなくなるということである。そして、自分よりも次のリーダーが人々に愛され、重んじられていくということである。 その時に謙遜さと主にある自己肯定感が必要とされる。そうでなければ、サウル王のように妬みで失敗するか、自分たちの奉仕を渡さないという執着心に満ちたクリスチャンリーダーになってしまう。 主よ、どうか私の心からしがみつく思い、妬む思いを取り去ってください。主が与えた資格を、奉仕を、自分自身のもののように思う誤解から自由にしてください。どのような立場であっても、喜んで主に仕え、喜んで主と交わり生活を楽しむことができますように。アーメン

Ⅱコリント2

Ⅱコリント2、詩篇49−50 「しかし、神に感謝します。神はいつでも、私たちをキリストによる凱旋の行列に加え、私たちを通してキリストを知る知識の香りを、いたるところで放ってくださいます。」Ⅱコリント2:14 キリストの凱旋行列!勝利した人が町を練り歩き、人々が歓声とともに喜びに満たされるのが凱旋行列である。キリストの一行の一員として加えてくださるとは、なんという栄光だろうか。 その栄光を知っていたからこそ、どんなに涙や労苦があってもパウロは宣教をやめなかった。いつもキリストの凱旋行列を霊の目で望み見ていたからだった。 しかも、天国まで待つ必要はなく、今この地上でも、キリストの名が受け入れられ、洗礼が授けられ、解放が与えられ、クリスチャンが主を礼拝賛美するところには、キリストの凱旋行列が行われている。 主よ、いつも霊の目で見ることを教えてください。見えるものでなく、見えないそして素晴らしい報酬を見ることができるように、味わい知ることができるように、今日も導いてください。

Ⅱコリント1

Ⅱコリント1、詩篇46−48 「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。それで私たちも、自分たちが神から受ける慰めによって、あらゆる苦しみの中にある人たちを慰めることができます。」Ⅱコリント1:4 パウロは、少なくとも4通の手紙をコリントの教会に送った。さらに、第一の手紙と第二の手紙の間に、コリントの教会を短く訪問した。どれほどコリントの教会を愛しているかがわかる。 さらにアジアでひどい苦難にあい、死を覚悟するほどだったことがわかる(8−9節)。しかし、かえってそのことで自分の弱さを痛感し、神に頼る弱い者の恵みをしみじみ体験した。 主に仕える者、教会に仕える者として、誤解されることや理解してもらえない痛みは、覚悟していても辛く悲しいことである。何より自分の足りなさを痛感する。 しかし、その度に神様が召されたからこの働きをしている、という動機に立ち帰り、弱い者への恵みと光栄を確認するのである。 パウロですら一筋縄ではいかなかったことを、主の恵みにより委ねられている。これが喜びであり誇りであり原点である。 主が召してくださった、それ以上にこんなに不完全で弱い者が立たせられ続ける理由はない。

Ⅰコリント16

Ⅰコリント16 「目を覚ましていなさい。堅く信仰に立ちなさい。雄々しく、強くありなさい。一切のことを、愛をもって行いなさい。」Ⅰコリント16;13−14 献金のこと、兄弟たちのこと、来訪者への対応、と細々したことを最後に書きつつも、パウロの要点は「愛をもって」行うことであること、お互いに兄弟愛を表して欲しいということである。 パウロはコリントの教会にただ叱責やアドバイスを送るだけでなく、彼自身の誠意と愛も表している。最後に自分の手であいさつを書くのも、目の悪いパウロにとってコリントのクリスチャンたちへの愛と親しみの表れであった。 伝道者、開拓者としてだけでなく、牧会者、教師としてのパウロの姿勢にも学ぶものが多くある。

Ⅰコリント15

1コリント15、詩篇43−45 「ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは無駄にはならず、私はほかの全ての使徒たちよりも多く働きました。働いたのは私ではなく、私とともにあった神の恵みなのですが。」Ⅰコリント15:10 この章でパウロは福音について説明し、またやがて復活のからだとされること、死がすでに勝利に飲み込まれたことを確認し、そして「堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから」(58節)とコリントの教会の人々を励ましている。 パウロの救いの経緯やそれまでの行いを思うと、彼には自分がただ神のあわれみによって福音の働きに任命されたことはあきらかだった。だから、全力で神の愛に応えたかったのだ。たとえ弱さがあっても、目に病気があっても。そして、労苦は決して無駄でないと彼自身も知っていた。それは、肉体的な困難を超えて余りある、神の恵みの大きさ、天的な報いの大きさだった。 私自身も、疲れやすく肉体の弱さと限界を日々感じる。また、自意識過剰になったり、人が怖くて引っ込み思案になりがちな者である。しかし、それでも神様が私への召しを与え、空を打つような拳闘(9章)ではなく、主が導かれた的を見極めて打つようにと願っておられる。パウロの励ましを受け取り、的を見極めるための休息を取ることも学びつつ、勇気を出して今日も歩んでいきたい。

Ⅰコリント14

Ⅰコリント14、詩篇40-42 「それでは、どうすれば良いのでしょう。私は霊で祈り、知性でも祈りましょう。霊で賛美し、知性でも賛美しましょう。」Ⅰコリント14:15 パウロは預言の賜物を追い求めなさい、と冒頭で勧めている。それは、異言だけでは教会の他の人の徳を高めることができないから、解き明かすためである。 そして、この章で言っていることは一貫して教会の中が混乱せず、秩序を持って礼拝するように配慮することである。 意味のわからないことばで祈ったり、誰彼なく大きな声で話したりするのでなく、秩序と愛を持ってしなさい、と勧めている。 その意味で、異言はとても良いものだが配慮して使うものであるのと同じように、女性もうるさいおしゃべりを控えなさいということである。 後半は女性教職を認めるかどうかでよく取り上げられる箇所である。私自身も女性教職であるから、この箇所をどう受け取ったら良いのだろうかと迷ってきた。 しかし、パウロがこの章を書いた文脈に照らすと、男女の役割や女性教職を禁じているというよりは、教会の中で無用なおしゃべりや混乱を避けるようにというアドバイスであるように理解できる。何よりも、礼拝に集中することのできる雰囲気、兄弟愛に基づく思いやりを大切にするようにという勧めであろう。

詩篇90

詩篇88-90、詩篇37-39 「どうか教えてください。自分の日を数えることを。  そうして私たちに 知恵の心を得させてください。」詩篇90:12 モーセの祈りの詩篇である。モーセほどの素晴らしいリーダー、神との親しい関係にあった人が切に祈っている詩篇は、ゆっくり朗読し心を重ねて自分自身の祈りともしたい。 なかでも、12節で「自分の日を数えることを教えてください」と願っていることを覚える。人生はいつまでも続くのではない。その中で、神様が与えてくださった使命を受け取り、ぶれずに歩むことができれば幸いである。そのためには神からの知恵もまた必要である。

詩篇88

詩篇88−90、詩篇35−36 「主よ 私の救いの神よ   昼 私は叫びます。夜もあなたのみそばで。」詩篇88:1 死に瀕するような危機の中で、詩人は神に昼も夜も朝も(13節)祈っている。 それはきれいな祈りではなく「叫び求め」るものであり、なりふりかまわず、というほどのものである。 どうしてこのようなことが起こるのでしょう、という出来事や災難がふりかかるときがある。 これを書いているちょうど2021年の7月、コロナウイルスや思いがけないハプニングの中、東京オリンピックが始まった。リーダーシップをとっている人たちはまさに大変なプレッシャーと責任を負っているだろうから、彼らのためにも覚えて祈りたい。何よりも、こうした重圧の中で叫び求めることのできるお方がすぐそばにおられることを知ることができるように祈りたい。 主を知ることが知恵と知識のはじめである、それは変わらない真理である。

Ⅰコリント13

Ⅰコリント13、詩篇33−34 「こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。」Ⅰコリント13:13 愛についての章として有名である。 信仰と希望と愛が残り、その中でも一番すぐれているのが愛であるという。信仰と希望、その二つも素晴らしいものである。 しかし、愛が最も優れている。というのは、愛の中にはねたまず高慢にならないこと、寛容さや真理を喜ぶことが含まれている。そして、「すべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍びます」(7節)と、信仰と希望も包括してしまうからである。 愛は弱々しいものではない。強く、ダイナミックで、頼りがいがあるものである。そして、神はご自身を「神は愛です」と表現なさっている。愛の性質は、そのまま神の御性質でもある。

Ⅰコリント12

Ⅰコリント12、詩篇31-32 「あなたがたはキリストのからだであって、一人ひとりはその部分です。」Ⅰコリント12:27 教会の中で様々な人がいること、そして様々な持ち味があることを、パウロは述べている。 そして、賜物は様々だが、いずれも同じ御霊の働きによって与えられていることを確認している。 自分の賜物を知るのはとてもワクワクすることである。しかし、自分にない賜物を持っている人を見て自分を卑下しがちである。あるいは、自分に馴染みのない賜物の現れを見て批判したりつまずいたりするという傾向もある。預言や異言に関する現れについては、特にその傾向があるように思う。 私自身も、見慣れない激しさや雰囲気の集会に出ると、気まずくなるような者である。しかしそれは、自分自身の狭さと無知を知り、賜物の違いを認めるための訓練であると思う。もし御霊から出ているものであれば、そのお働きを否定することはできない。 「鉄は鉄によって研がれ、人はその友によって研がれる(箴言27:17)」とある。1回きりの場所でなく教会の兄弟姉妹の中では、人間的に合わない人もいる。しかし、同じ御霊がその人をとらえ、賜物を与え、教会の中のなくてはならない器官として召しておられることを覚えつつ、自分もまた研がれて整えられていることを覚える。

Ⅰコリント11

Ⅰコリント11、詩篇29−30 「だれでも、自分自身を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。」Ⅰコリント11:28 コリントの教会では、弱い人をおしのけて自己中心な態度で食事をしたり、秩序が乱れていたりと、自分勝手な問題が生じていた。リーダーシップの秩序も乱れていたようである。そこで、パウロは彼らに実際的なアドバイスを与え、戒めている。 女性の立場については、この章を根拠に男性よりも低いと主張する人もいるが、コリントの教会や地域の状況が色濃く反映しているように思われる。 パウロは聖餐式の態度についても丁寧にアドバイスしている。 今日の私たちも、洗礼を受けたからといって漫然と望むのではなく、自分自身の過ぎた歩みを振り返り、悔い改めや感謝をもってキリストの十字架の救いと復活を味わう。主の命じられた記念としての聖餐のあり方を心にとめて臨みたい。 そして、クリスチャンとして、「忠実な使者は、これを遣わす者にとって金の耳輪、黄金の飾り(箴言25:13)」といわれるような主のしもべでありたい。

Ⅰコリント10

Ⅰコリント10、詩篇26−28 「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい。」Ⅰコリント10:31 偶像にささげた肉は、当時市場に出回っていたり、判別が付かなかったりして、知らないうちに食べてしまう場合もあった。そして、クリスチャンの中にも、それをあまり気にしない人と、とてもこだわり嫌悪感を抱く人とがいたようである。パウロはどちらもOKとしながらも、弱い人、つまずきを覚える人への配慮を教えていた。また、28節では自分の良心のためにも態度を加味するようにと言っている。 個々の判断は委ねられているとしても、大切な原則は「神の栄光を現すためにする」ということである。 もし自分が正しいと思っていても、神の栄光が現れないならば、強い主張をする前に胸に手を当てて考えてみることである(自戒を込めて)。また、隣のクリスチャンが違うことをしていても、互いに神の栄光を現しているならば、裁き合うことを神は望まれていないと思う。 私たちの判断基準は狭い、限りがあり、歪んでいるものである。神の前に自分の良心をもって出ていき、神に点検していただこう。 判断が間違っていたら、潔く態度を改め、謝罪し、和解することも神の栄光を現す行為である。 私たちの周りを見ても、お酒を嗜むかワクチン

Ⅰコリント9

Ⅰコリント9、詩篇23-25 「競技をする人は、あらゆることについて節制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。」Ⅰコリント9:25 パウロは福音を述べ伝えることに情熱的であった。命がけであり、福音を伝えないなら自分はわざわいだ、とまで言っている(16節)。経済的に支えられてもそうでなくても、人がどう評価しようとも、神から委ねられた務めだから自発的にそうしている、と言っている。 ちょうどそれは、オリンピックや大きな大会のために節制をし、厳しい練習をし、全てをかけて臨む選手のようである。一流のアスリートの生活態度とブレない目標の定め方はさすがと思わされるが、パウロは福音を宣べ伝える者として、同じ態度と行動で臨むことを自分にも、またクリスチャンたちにも勧めている。 主に仕える奉仕は、経済的に恵まれないこともある。しかし、もし神が私たちを福音のトップアスリートとして召してくださったのなら、見方が変わってくる。無給であってもその力を最大限発揮したいと思うだろう。神の伝道チームの一員として、恥じない態度と憧れとなる深い人格的な喜びを持って仕えたい。必要が与えられたら、それは大きな恵みと主に感謝して受け取りたい。

詩篇87

詩篇85−87、詩篇20−22 「歌う者も 踊る者も  『わたしの泉はみな あなたにあります』と言う。」詩篇87:7 主への賛美と喜びに満ちた賛美の最後は、「わたしの泉はみな あなたにあります」という全員の宣言を歌っている。 「泉」とはすべてを潤す源であり、その水で人々や地を新しく、みずみずしくするものである。いろいろな汚れや疲れが、泉のそばに行けば、その水で洗えば取り去られる。 私たちの暮らしでも、様々な罪や失敗をしてしまうが、神の元に行き、告白と悔い改めをするときに泉の水で洗ったように洗い流される。私たちがすることは、日々泉のところに行くことである。 また、心配事や悩み、気がかりがあったとしても、やはり泉のそばに行くときに神が潤し、心を新しくし、希望を失わないように養い続けてくださる。家族のこと、体調や仕事、人間関係、私たちの心がからからに渇くような思いになる原因は日々やってくる。しかし、そのときに神のそばに行き、泉の豊かさ、尽きず変わらない愛と力と希望に出会う日々が私たちには許されているのである。