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ルカ20

ルカ20、士師記11−12 「彼らは、民の前でイエスのことばじりをとらえることができず、答えに驚嘆して黙ってしまった。」ルカ20:26 律法学者、祭司長、反対派の人たちが次から次へとイエス様に難題を出して罠に陥れようとした。しかし、イエス様の知恵、つまり神の知恵は人の悪巧みを遥かに凌ぐものだった。 中には「先生、立派なお答えです」と反対派の中にも驚いて賛辞を述べる者もいた。 周りからの批判や中傷を受けるとき、私たちの理性や感情で反応すると失敗する。余計に事態がこじれたり、人間関係が壊れたりすることさえ多い。 毎日デボーションをして祈り、神に頼り、とっさの時にも祈って落ち着き対処できるように、神がこの1日も私やあなたの心身と霊性を守ってくださるように。

ルカ19

ルカ19、士師記9−10 「それで、先の方に走って行き、イエスを見ようとして、いちじく桑の木に登った。イエスがそこを通り過ぎようとしておられたからであった。」ルカ19:4 ザアカイは、背が低かったので、イエスを見ようとしても人混みで見えなかった。そのまま諦めて帰ってしまうこともできた。 しかし、彼は諦めなかった。それがどのような心境から来ているのか、聖書には詳しく書かれていない。しかし、どうしても見たかったので、群衆がまだまばらな先の方に行って木に登り、イエス様を待ち構えた。 そのとき、イエス様が彼の名を呼んでくださり、なんとザアカイの家に行こうと告げられたのであった。 神がわからない、見えないと諦めてしまうのは簡単である。しかし、なんとしても神にお会いしたい、神に近づきたいと願うなら、神様は決してその願いを無視なさらない。 不完全、不十分であったとしても、私たちの思いを喜び、名で呼んでくださり、私たちのところに来てくださる神様なのである。 誰一人、神の前には忘れ去られていない。

ルカ18

ルカ18、士師記7−8 「イエスは言われた。『人にはできないことが、神にはできるのです。』」ルカ18:27 受難週に、イエス様の十字架への道を思い巡らす。その道は、人には到底できないことである。十字架につくという悲惨な残酷なことを、自分に罪がないまま受け入れるのは人には不可能だ。 人を救うのも、神の力が働かなければ難しい。ときには、私たちが思いもつかない方法で神様が状況を変えられ、人の心を変えられることもある。 頑固だった私の父は思いがけない病気を通して心が開かれ、神を礼拝する者になっていった。病床で天国の話をし、共に毎日祈る日々が与えられたことは、私にとって大きな慰めである。まさかと思う方法ででも神様は人の心を開き、愛を示し、救いに導いてくださる。まさに「人にはできないことが、神にはできる」のである。

詩篇39

詩篇37−39、士師記4−6 「私は言った。   私は自分の道に気をつけよう。  私が舌で罪を犯さないように。  口に口輪をはめておこう。  悪しき者が私の前にいる間は。」詩篇39:1 多くの人は(自分を含め)家庭では自分のありのままの姿が出る。家庭で平和に、また徳を高める言葉を語ることができる人は、人格そのものも平和で主にあってきよいと言えるのではないか。 ダビデは非常な困難と罪の呵責の中でこの詩篇を作った。良いことにさえ沈黙すると、心の痛みが激しくなる(2節)。しかし、悪い言葉を控え、口輪をはめておくことは罪を犯さないようにするための知恵でもある(ヤコブ3章)。 聖霊により頼み、神の力によって舌を制御していただきたいと願う。

詩篇37

詩篇37−39、士師1−3 「主によって 人の歩みは確かにされる。  主はその人の道を喜ばれる。  その人は転んでも 倒れ伏すことはない。  主が その人の腕を支えておられるからだ。」詩篇37:23−24 クリスチャンになれば問題は全くないというのではない。問題はやってくるが、それをキリストとともに通り抜ける力が与えられるのである。 転んでも、倒れて起き上がれないことはないのである。 その理由は、主がその人の腕を支えておられるからである(24節)。 つまずき、転んでも、イエス様はいつも手を差し伸べ、いや、すでに腕でしっかりと抱いてくださっているのである。 困難の中にいるときには感じられなくても、それが事実であると聖書は語る。健康、仕事、家庭、ミニストリーで行き詰まったと思っても、脱出の道が主にあってすでに備えられている(1コリント10:13)。

ルカ17

ルカ17、ヨシュア22−24 「『見よ、ここだ』とか、『あそこだ』とか言えるようなものではありません。見なさい。神の国はあなたがたのただ中にあるのです。」ルカ17:21 イエス様は、信じる者のところには、すでに神の国が来ているのだ、と言われた。神の国の一員として生きているなら、人格も、霊性も、神の国に相応しく日々ありたいと願う。 長年主の働きに歩んでこられた素晴らしい伝道者、教師の先生にご奉仕をお願いする機会があった。ご高齢ながらもカレブのように精力的、デジタルも使いこなしておられた。最も印象的だったのは、先生が神様のおっしゃる通りに歩みます、という決断を一瞬一瞬にしておられ、否定的な言葉を使わない、という生活を長年されていることだった。 ヨシュア記の最後で、ヨシュアは「私と私の家は主に仕える」と公に宣言した(ヨシュア24:15)。 私たちもヨシュアのように宣言できるか。ライフスタイル、その人のそのものが、神の国を表すものであるか。欠けの多い者であることを認めつつ、一歩一歩近づいていきたいと願わされる。

ルカ16

ルカ16、ヨシュア19−21 「どんなしもべも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは、神と富とに仕えることはできません。」ルカ16:13 「利益相反行為の禁止」という言葉がある。たとえば、裁判で弁護する者が原告と被告両方の弁護をすることは、双方の利益が衝突するので認められていない。両立しない行為なのである。 同じように、神に仕えることと富に仕えることとは両立しない、とイエス様は語られた。それは、神に仕えようとするならば、金儲け主義ではできないということである。 イスラエルの民がカナンの地に入り、分割するときも、カレブが最初、その後に12部族、そしてリーダーヨシュア自身は最後だったが希望する土地が与えられた。さらに、レビ人は神に仕える人々だが、彼らには所有地としての相続地がなかった。もっとも、一番良い町々が彼らの居住と生活の基盤として割り当てられていた。主に仕える者には主がよくしてくださる、という約束の表れである(ヨシュア20−21章)。 神は表面的な善行ではなく、心の動機を探られる。自分の得にならなくても、人を助けたいと思うか。主の元に来て欲しいと思うか。金銭は神から託されたツールであり、神の国を成長させるために使いたいか。 動機が神に喜ばれるなら、神は限られた家計の中での賢い使い方も教えてくださる。少なくても、乏しいことはないのである。

ルカ15

ルカ15、ヨシュア16−18 「あなたがたに言います。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人のためよりも、大きな喜びが天にあるのです。」ルカ15:7 1匹の羊が行方不明になったら探し出し、見つかったことを大喜びしてくださる羊の飼い主と同じように、イエス様は失われた魂が救われるのを喜んでくださる。その喜びは天にあるとも言われた。 私たちも、自分の家族や友人が救われるのはとても嬉しい。そして、教会はそうした救いに預かった、とても大切で豊かな人々の集まりである。 しかし、ともすれば私たちの古い性質が出てしまい、裁きや比較が起こることもありうる。そんな時に「一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから」(6節)という喜びを覚えているか、どんなに主が一生懸命に探し見つけてくださった魂かということを思い起こしたい。丁寧に、愛を持って祈り牧会する者とならせて頂きたいと願う者でもある。

ルカ14

ルカ14、ヨシュア13−15 「塩は良いものです。しかし、もし塩が塩気をなくしたら、何によってそれに味をつけるのでしょうか。」ルカ14:34 福音書は繰り返し信じる者を塩にたとえた記事を記録している(マタイ5:13、マルコ9:50)。塩気のきいた言葉で神を証することが進められていると読むのはたやすい。しかし、同時に塩気をなくしたら、塩は外に投げ捨てられるというところを読み飛ばしがちである。 出エジプトからカナンの地に入るまでのカレブはまさに塩気のきいた、そして忠実なしもべだった。カナン偵察の時の信仰、そして85歳でカナンに割り当て地を願い出る時もらう時も壮健で自ら山地の敵と戦うという気力があった(ヨシュア記14:12)。彼を支え続けたものは主への信仰、そして信頼であった。主がともにおられるなら可能であるということを、生涯を通してあかしした。 私たちは行いによらず、恵みによって救われている。たとえ一度も証をしなくても、神様の栄光を表さなくても、救いが取り去られることはない。 しかし、救いの恵みをしみじみ感じ受け取ったら、じっとはしていられなくなる。形ばかりのクリスチャン生活では我慢できなくなる。キリストのために何かしたい、どうにかして分かち合いたいと思うのである。キリストの弟子になりたいと願うのである。 外に投げ捨てられる塩気のない物質は役立たないものである。そうではなく、塩気があり、いつも食卓や調理で必要となる塩のような キリストの弟子、キリストの証人としての歩みをしていきたい。

ルカ13

ルカ13、ヨシュア10−12 「再びイエスは言われた。『神の国を何にたとえたらよいでしょうか。それはパン種に似ています。女の人がそれを取って三サトンの粉に混ぜると、全体がふくらみました。』」ルカ13:20−21 家庭パン焼き器(ホームベーカリー)でがパンを焼いていたことがあった。小麦粉、砂糖、塩、バターと投入し、最後にイーストを小さじで入れる。すると、数時間後にはふっくら食パンが焼けた。 イーストの量は、小麦に比べるとほんの少しであった。しかし、全体に作用する、なくてはならないものだった。 イエス様は、神の国をこうしたパン種(イースト)にたとえられた。たとえ小さくても、全体を膨らませうる可能性があるというのである。日本でクリスチャンが少ないからと嘆かなくても、イーストのような存在になることを願い祈れば良いのだというのはとてもほっとする。

詩篇36

詩篇36、ヨシュア7−9 「主よ あなたの恵みは天にあり  あなたの真実は雲にまで及びます。」詩篇36:5 主の恵みが大いなるところにあり、限りなく神の真実は続くことを確認する。 私たちが日々小さいことに振り回され、刻一刻と感情が変わってしまうのに比べて、なんと変わらない主のご性質であろうか。 私たちのすべてを知り、それでも恵みを注ぎ続けてくださる神は、内戦地であろうと悪のはびこる地にも雨や太陽を変わらず与えておられる。一人でも多くの方が、この神の愛を知ることができるようにと願う。同時に、この愛の神について知らせるために、書くこと、発信することをますます祈りながら続けていきたい。

詩篇34

詩篇34〜36、ヨシュア4〜6 「私が主を求めると 主は答え  すべての恐怖から 私を救い出してくださった。」詩篇34:4 逃げていったアビメレクの領地で、正気でないかのようにふるまい難を逃れようとしたものの、やはり追い出され、再び逃亡生活に入らなければならなかったダビデの状況は、避難に次ぐ避難をしなければならない被災地の状況とも共通点がある。 明日が見えず、命も狙われる中でダビデが歌ったのは 「私とともに主をほめよ。一つになって 御名をあがめよう」という賛美(3節)、それに「私が主を求めると 主は答え すべての恐怖から 私を救い出してくださった」という恐れからの勝利の宣言であった(4節)。 賛美と信仰の宣言には力がある。それは、神への信頼であり自分の肉への宣言でもある。肉はマイナスのことばかり考え、不信仰になりがちである。しかし、賛美によって心を奮い立たせ、信仰の宣言によって周りや自分自身にも言い聞かせることがさらに主にある勇気を奮い立たせることがある。 私自身も、BGMに今日も賛美を流しながら過ごしたい。

ルカ12

ルカ12、ヨシュア1−3 「言うべきことは、そのときに聖霊が教えてくださるからです。」ルカ12:12 権力者や宗教たちのところに連れて行かれ、弁明しないといけない時、心配は無用だとイエス様は言われた。なぜなら、言うべきことを聖霊が教えてくださるからである。 どこに引いて行かれても、聖霊が共にいてくださる、そして聖霊は助け主である、というのが私たちの信仰である。 しかし、聖霊の働きが感じられないという時にはどうすれば良いか。それもまた祈って求めてみるのである。 昨夜、夢を見た。とても小さな洋品店の高齢のご夫妻に、だんだんと親しくなっていき最後には祈れた夢だった。自分が何をしたわけではなく、ただ靴下を買いたいと思って行ったその店にあかしの機会が与えられていた、というものであった。しかしこれは夢にとどまらず、クリスチャンに与えられている特権である。実際の日々も、遣わされている思いを持って歩みたい。

ルカ11

ルカ11、申命記32−34 「しかし、わたしが神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。」ルカ11:20 悪霊を追い出しておられるイエス様に向かって、悪霊のかしらベルゼブルによって追い出しているのだ、とか、もっと天からのしるしを見せるようにとか、リクエストする人がいた。 かつて、出エジプトに際してモーセが呪法師たちと対決した時、ブヨを出そうとして呪法師たちは出せなかった。そしてモーセを通して行われた神の働きを「これは神の指です」とファラオに報告した(出エジプト8:19)。 同じように、イエス様は神の指によって悪霊を追い出し、解放を与えておられた。さらに、「神の国」がすでに到来していることを告げられた。 イエス様とともに歩むなら、神の国はこの地上でもすでに到来している。たとえ心が騒いでも、疲れ果てても、どうしようもなく思えても、そのちっぽけな私のところにも、イエス様によってすでに神の国が来ているのである。この世界に絶望せず、人生の最後の日まで神の国の広がりを見るように生き、動いていきたい。

ルカ10

ルカ10、申命記30−31 「ところが、旅をしていた一人のサマリア人は、その人のところに来ると、かわいそうに思った。」ルカ10:33 隣人とは誰かと問うた律法の専門家に対して、イエス様はたとえを語られた。そして、サマリア人が良い隣人であり、「あなたも行って、同じようにしなさい」と言われた(37節)。 サマリア人のようにけが人を介抱し、宿に連れて行き宿泊代を払うのは、煩わしい予定外の用事であるとも言える。しかし、そこに神の逆転の発想がある。予定外の歩みの中に神の栄光が現れる大きなチャンスがあり、ルーティンよりもかえって神の国が進む結果をうむと言える。 牧会していても、普段の家事や子育てをしていても、予定外のハプニングや用事が入り、思うように仕事が進まない時がある。しかし、そこに神の何か特別な介入と予定があることを覚えて、イライラしないで今日も過ごしたい。神は人間の時間の計算や感覚を超えた方である。